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2016年10月30日 (日)

妄想劇場・・真実の道(1曲の出会い)

妄想劇場・・真実の道(1曲の出会い)

「孤独がつらく感じるとき」
「愛することがよくわからなくなったとき」
いつも、勇気と力を与えてくれた…



作詞家は、1曲の詞を書くために、言葉を巧みに操り、
その時代を象徴する言葉を探した。
その言葉は多くの老若男女の心を掴んで離さず、
その歌はヒットした。


文字で口説いて 気持ちで惚れて 姿に見とれて 身に溺れ


『フローレンス・フォスター・ジェンキンス―』

B213

「人々は・・・私が歌うことができないと言うかも知れません」
音楽の殿堂、数々の名演が行われてきたカーネギーホール。
その壇上である日、ある女性が伝説となった。

朴なピアノ演奏をバックに、次々に披露されるオペラの難曲。
押しかけた観衆は自分がいったい何に直面しているか、
よく理解できないでいた。
あるものは言った「彼女は、とにかく何かをやった」
あるものは言った「彼女の歌声は・・・
そう、輪姦される七面鳥のようだった」・・・

ニューヨーク、マンハッタンのミッドタウンにある
有名ホールの壇上に、一人の年老いた女が登場した。

その会場の名はカーネギー・ホール。
その女の名はフローレンス・フォスター・ジェンキンスと言った。

B1

現在まで続くカーネギー・ホールの長い歴史のなかでも、
この日の客入りは記録的だった。
観客たちの目当ては、オペラ・・・
フローレンス・フォスター・ジェンキンスだ。
彼女の類いマレなる絶唱をひと目見ようと集まっていた。

この夜について触れたミルウォーキー・ジャーナル紙の評には
以下のようにある。
齢にして76歳の老女は『傑作としか言いようのない』ペール・ピーチの
ガウンを身にまとい、豊満な体のあちこちにきらびやかな宝石を
ちりばめていた。
『それよりもセンセーショナルだったのは、オレンジとホワイトの
羽根でできた巨大な扇だった。
彼女は大群衆を前にして、はにかむようにそれをあおぐと、
ピアノの上に置いた。
それから彼女は歌った・・・というか、とにかく何かをやった』

フローレンスの眼下には、幸運なスシ詰め状態の観客たち。
この夜のチケットは完売だった。
ダフ屋は定価の10倍の値をつけ、ニューズ・ウィーク誌によれば、
2000人以上の人たちがチケットを買いそびれたのだという。
居並ぶ観客たち・・・彼らは会場に入ることができただけ幸運だ。

観客の中には、フローレンスの熱心なファンもいたが、
新聞記者や音楽ライター、各界の著名人もいた。
そして物見遊山気分の好事家たち。
それらの観衆に向かって、彼女は歌った。
それはいつもの彼女らしい歌声だった。

五線を見失った音程。めまぐるしく移り変わるリズム、
悲鳴のような声。そしてそれも持続できない。
およそセンスというものが欠落した歌だった。
彼女は史上まれに見る音痴だった。
哲学者でハーバード大学准教授のV・A・ハワードは
彼女の歌唱を以下のように評した。

(注)引用
調子外れの金切り声で歌われる高音、
よろめきながら失速するルラード
(註:歌曲の歌詞の1音節に付けられた、素早く歌われる装飾音)、
薄っぺらな音色、息切れしている発声、粉砕された旋律・・・
あまりのひどさに誰もが笑って、そしてゲンナリしてしまう。……
ジェンキンスの歌唱は、歌において想像しうるあらゆる欠点、
あらゆる失敗のカタログだ。・・・

彼女の歌をして、「輪姦される七面鳥」と評したのは
ファッションライターのサイモン・ドゥーナンであるが、
そのような酷評をうける歌唱力の者が、なぜ音楽の
殿堂であるカーネギー・ホールを満席にできたか。

当時、アメリカは国をあげた大戦のさなかにあって、
国民は娯楽に飢えていた。 そんな時代の中にあって、
フローレンスの前衛的すぎる『オペラ』に触れた人々は、
例によって『こういうジョーク』として楽しんだ。

もっともフローレンス自身は冗談ではなく大まじめに
取り込んでいたワケで、観客たちが口元を緩めたり、
頬を膨らませているのは、彼ら彼女らが楽しんでいるからだ・・・
と信じて疑わなかった。
そして彼女は観客たちの笑顔が大好きだった。

本人が信じて疑わなかった才能・・・
その歌唱力はいかほどのモノだったのか?。

モーツァルトによる歌劇『魔笛』は有名だが、
この歌劇の第二幕で歌われるアリアが超絶難曲というのは
ご存じだろうか。?

これは夜の女王が宿敵に復讐するため、自分の娘に
ナイフを渡すドラマチックな場面で歌われるアリアで、
歌詞の内容もそれに沿ったモノになっており
「殺すのよ! 復讐を手伝わないなら、
あんたはもう私の娘じゃない!」などと自らの娘を恫喝する・・・
情念深い女の怖さを我々に教えてくれるシーンだ。

ともかく、これは超絶技巧が必要とされるパートであり、
wikipediaの言葉を借りれば『歌唱にはこの高音を出す
天性の資質に、その高音を自由自在に使いこなす
技術が求められる』ということになっている。
フローレンスはこの曲を十八番レパートリーに入れており、
スタジオを借りて録音までした。

まず、同曲『夜の女王』をドイツの天才ソプラノ歌手
エッダ・モーザーが歌ったバージョンを聴いてみよう。

ドイツのソプラノ、エッダ・モーザー
『魔笛』の夜の女王を当たり役とし、1977年に打ち上げられた
ボイジャー探査機にレコード盤が積まれた逸話でも有名

この曲が極めつけの難曲であること、そしてそれを歌いこなす
エッダの並外れた才能を感じることができる。・・


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、世は歌につれ、
人生、絵模様、万華鏡…



上のモノと全く同じパートを歌ったフローレンスの
録音を聴いてみよう。

フローレンス・フォスター・ジェンキンス (騒音の歌姫 )


無理があろうと思われます。
しかし、何度も繰り返し聴き込んでゆくうちに、ある種の
中毒性が出てくる。
これは言うところの、いわゆる『スルメ型』というのかも知れない。
(付き合えば付き合うほど、味のある人を「スルメ型」と言う。)

慣れてくると、最初のピアノ伴奏だけでHOTな気分になれる。
フローレンスは基本的に自分の歌唱力に絶対の信頼を置いており、
レコーディングもリハ無し一発取りが彼女のスタイルだったが、
さすがにこの曲に関してはその自信を揺るがせたという。

ライナーノーツによれば

このレコーディングの時、フローレンスは『夜の女王』と一緒に
ドリーブの『鐘の音』を録音したが、どうも本人としては、
なんだか『夜の女王』の終盤の一音に満足できなかった。
それがゆえディレクターのメラ・ワインストックに
「残すのは『鐘の音』だけにしたい」と申し出ている。
これをうけてワインストックはこう応じた。
「マダム・ジェンキンス。“一音„だけを心配するご必要など
まったくありませんよ」言った・・・


B32


父親は弁護士で銀行家で州議会議員。母親も判事の娘で
名家出身。
一平方マイルも農園を有し、幾人もの使用人を抱える
超富裕層だった。

フローレンス・フォスターは何不自由なく育ち、上流階級らしい
教養の一つとして音楽のレッスンも受けた。
彼女の歌手としてのキャリアはこの頃にスタートしている。

8歳の頃、「リトル・ミス・フォスター」の名で参加したコンサートで
「天才児!」と評されたのが、彼女の気をよくした。

『歌唱』が天才的であったかどうか・・・を判断できる
資料は残っていない。
もしかしたら、本当に天才的だったのかも知れないが、
「あのフォスター家のお嬢さん」ということで周囲の大人から
かなり甘めの評価を頂戴していたと考えるのが妥当だろう。

彼女はその賞賛が忘れられなかった。

彼女はフィラデルフィア音楽アカデミーに学び、卒業後、
こんどはヨーロッパに留学し本格的な音楽教育を受けたいという
意向を示した。歌手になりたい。それが彼女の夢だった。
だが、それは挫折する。 留学にかかる費用、学費の負担を
父親が拒否したからだ。

趣味でやる分にはいい、だが本気になられては困る。
深窓の令嬢といえど、結局は自分の才覚で財産を
築きあげたワケではなく、パパフォスターの財力がなければ
ただの小太りの少女でしかない。

かくして彼女は悲嘆に暮れた。
「嗚呼、わたしは籠の中の鳥なのね。
大きく羽ばたくこともかなわず、
周囲を檻で囲まれて悲しく歌うしかないのだわ」

実際は加護・・・あるいは過保護の中の
七面鳥であったワケだが、世間知らずな17歳の
フローレンスには、こんな父親の強権的なやりかたが
どうしても許せなかった。
かくして彼女は籠から抜け出した。
当時の想い人と駆け落ちしたのだ。

お相手は、フランシス・“フランク„・ソーントン・ジェンキンスという
医師で、パパフォスターの反対をよそに、この16歳年上の中年と
17歳の時に結婚している。
だが、この結婚は失敗だった。

フォスター家からの反対を押し切り、勘当されてまで
結婚した二人であったが、このフランク33歳は
どうにも浮気者だった。 色男で女にモテるものだから、
不実で不埒で不道徳な男女関係をそこらで結びまわったあげく、
どこかで梅毒をもらっていたらしい。

そして想像に違わず、その梅毒はフローレンスに伝染した。
女性たちへの重大な示唆を含んだ逸話はともかく、
この結婚がフローレンスの人生を一変させたのは事実だった。
それも悪い方向へ状況は転がってゆく。

1940年代にペニシリンが世に出るまで、梅毒に
根本的な治療法は存在しなかった。
あらゆる治療の効果も無く、彼女の頭髪が失われた。
彫刻家のフローレンス・ダーノールトは「完全につるつるに
ハゲた頭」を偶然に目撃したと回想している。

この丸ハゲ状態は、晩年となってもカツラを着用していた事実から
少なくとも生涯薄毛であったのだろうとは推察される。

そして1902年。フローレンスが34歳になったころ、夫妻は離婚した。
実家からは勘当されたまま、家庭も金も髪も失い、
ここから彼女は極貧生活を送ることになる。

数年におよぶ極貧生活を送っていたフローレンスだったが、
このころようやく転機が訪れた。
結婚してから20年以上フォスター家から勘当状態であったが、
どこかで娘が離婚したことを知ったパパフォスターが
彼女の元を訪れたのだ。

音楽家になるという夢を捨てるならば、家に戻ることを許す
・・・パパフォスターの提示した条件を、フローレンスは
忸怩たる思いで飲むしかなかった。

実家を飛び出して、20数年。失ったものの大きさばかりが際立った。
かくして季節が過ぎると、彼女にまた転機が訪れる。
名士であった父親の死によって、フローレンスは莫大な
遺産を相続した。 これは150万ドル以上であったという。
現在のドル円レートで換算して、概ね37億円ほどとなる。

フローレンスは歌のレッスンを密かに繰り返し、
1912年からチャリティーの演奏会を行うようになり、
やがて自身が出資し、ヴェルディ・クラブなるサロンを創立する。
これは若手の芸術家や音楽家に活躍の機会を与えようとする
趣旨の集まりで、フローレンスはこのクラブの催しの中で
たびたびオペラを披露していた。

高齢の母親が亡くなると、フローレンスを縛り付けていた檻は
完全になくなった。
夫もいない、子供もいない、家族もいない、髪もない。
あるのは歌だけだった。齢62歳。彼女はますます音楽活動を
活発化する。素晴らしき自由。もちろん今まで通り、
楽譜にだって縛られない。

小さなリサイタルなどで熱狂的な支持者を増やしていた
フローレンス・フォスター・ジェンキンスは、
76歳の秋の宵、マンハッタンのミッドタウンにある
有名ホールの壇上にいた。

そして、満員のカーネギー・ホールで彼女は歌った。
途中で衣装を替え、花びらを撒き、観衆に
圧倒的存在感を見せつけた。

このカーネギー・ホールでのリサイタルが、彼女の歌手としての
キャリアの最終到達点だった。
伝説の夜の一ヶ月後、フローレンスは亡くなった。

才能に惚れても、人格に惚れるな・・・という言葉があるが、
彼女の友人やファンたちはその全く逆を行っていた。
死因は心臓発作。76歳の歌姫だった。

人々は彼女の歌を笑ったかも知れないが、喝采は本物だった。
彼女はただ、人を幸福にすることしか考えていなかった。

・・・

Author :オカルト・クロニクル


時は絶えず流れ、今、微笑む花も、明日には枯れる



P R

カビの生えない・きれいなお風呂

お風呂物語

Set1

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