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2017年1月 6日 (金)

妄想物語・「切腹」

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妄想物語(なぜ日本人は「切腹」で責任を取るのか?)


Sepuku1



政治家や企業の不祥事が起こった時、「ハラを切るぐらいの
気持ちで責任を取るべきだ」という言葉を耳にします。
なぜ日本では「責任の取り方=切腹」というイメージが
定着したのでしょうか? 


知られざる「ハラキリ」の歴史

お隣の韓国は、いま大変な事態になっています。
ついに槿恵大統領の弾劾訴追案が、国会で採決されました。
しばらくは政治的混迷を深めていくのでしょう。
 
今回に限らず、韓国では大統領の多くが、退陣後に
逮捕されて有罪判決を受けています。
その理由はいずれも、親族や関係者の利権がらみです。
韓国では、アリが甘い汁を吸いに来るように、
権力者のもとに一族や関係者が続々と群がってくる
風潮が強く、そこに不正が起こりやすいのでしょう。

ただ、これは世界共通の傾向といえ、アメリカでも
次期大統領になったトランプさんが閣僚を親族で
固めるのではないかという噂がありますし、
日本でも親族が関係した政治家の汚職事件は数えれば
きりがありません。
 
義理を重んじること自体は悪いことではありません。
ただ、一旦不正が発覚したり、自らに課せられた使命を
果たせないと知れば、潔く職を辞したり、罰を受けるのが
正しい姿でしょう。

今の政治家や経営者が問題なのは、
それが出来ていないことではないでしょうか。 
こうした無責任な政治家や経営者を見た時、こんなことを
思ったことはないでしょうか。
「江戸時代の武士なら切腹して責任を取ったはず。
今の政治家も見習うべきだ」

実際、江戸時代の武士は、自分に落ち度があった場合、
その責任をとるために割腹して命を絶つケースが少なく
ありませんでした。
そんなことから、切腹という自殺手段は、日本人特有の
責任の取り方と考えられ、外国人にも「ハラキリ」という語が
知れ渡っています。

ただ、切腹も時代によって、その意味や方法が様々に
変化しています。日本人が大好きな「忠臣蔵」の劇中でも、
切腹の場面がよく取り上げられます。


切腹の歴史と変遷・・・ 日本最古の「切腹」は?

そもそも我が国で「切腹」という自裁手段が
おこなわれるようになったのはいつ頃なのでしょうか。
記録にある最初の切腹は、永延二年(988)のことだと
されています。

盗賊の藤原保輔が捕まるさい、刀で腹を割いて
腸を引きずりだし、自殺をはかったというものでした。
つまり、当初切腹は、武士の専売特許ではなかったのです。
 
やがて武士が登場すると、主に彼らが合戦に敗れたさいに
切腹が自殺する手段となっていきましたが、
当初は職務の責任を果たす行為ではありません。
不運にも戦いに敗れ、窮地に追い込まれた武士は、
敵に殺されるのを待つのではなく、自分で切腹して
死を選ぶようになったのです。

刀で腹を割いても、死ぬまで相当な時間がかかるものです。
死ぬだけなら、首を吊ったほうがすぐに死ねるし、
刃物を用いる場合も喉や心臓を刺したり、首の動脈を
切ったりする方がよほどすぐに死が訪れます。
にもかかわらず、切腹を選ぶのはなぜでしょう。
 
切腹は、腹を大きく一文字か十文字に切るのが一般的です。
己の意志で刃を左脇腹に深々と突き立て、
それを確実に横に引いていった後、十文字切りの場合は、
さらに刃をいったん引き抜いてから、みぞおちに突き通り、
それを上から下へと引き裂いていくのです。
 
当然、激しい苦痛が襲うとともに、切腹をやり遂げるには
すさまじい意志の力が不可欠で、気の弱い人間なら
ショックのために失神してしまうかも知れません。

実は、そこがミソで、切腹という自殺手段は、やむなく合戦で
敗れたものの、その最後の場面において、どれだけ己が
勇敢であるかを敵に見せつける一世一代の大舞台だったのです。
 
医学的には、腹部を切開しても太い血管が通っていないため、
切腹だけではすぐに失血死はしないそうです。
そこで死が訪れるまでの間、さんざん相手をののしり、
さらには己の腸を腹部から曳き出し、内臓を相手に
投げつけるという行為が、中世の武士にはよく見られた
というのですが、想像するとかなりグロテスクです。
 
たとえば、赤松満祐は室町幕府の六代将軍・足利義教を
殺害したため、嘉吉元年(一四四一)に幕府の征討軍に
攻め滅ぼされます。このとき、赤松方の勇将である中村弾正は
矢倉にのぼって「これから腹を切る。心ある侍は、
後の手本とせよ」といい、十文字に腹部を掻き切り、
はらわたを手でつかみ出し、矢倉の下に投げ落としました。

さらに驚くべきは、そのまま城へと戻って主君満祐の
御座所に火をかけ、その後、自らにとどめを刺して
焼死したと伝えられています。 
まさに切腹は、「敗者にとっての晴れ舞台」だったと
いうわけなのです。


戦国時代、切腹とは「他殺」だった

ところが、戦国時代になると、切腹の意味合いが大きく
変わりました。切腹が武士の刑罰となっていったのです。
しかも、それ以前の切腹が、ある意味自ら進んで
行っていたのに対し、権力者や勝者が、罰として
切腹を申し渡すようになるのです。

切腹という行為はあくまで自殺だが、その行為を
強要されるわけで、その本質は他殺と言っても
いいでしょう。
 
豊臣秀吉も、幾人もの敵や部下に切腹を申し渡しています。
その代表が、一度は自分の後継者に選び、関白にまで
昇進させた甥の豊臣秀次でしょう。 

文禄四年(1594)、秀次は秀吉から伏見城まで来るように
言われ、出向いたところ、城ではなく木下吉隆の屋敷に案内され、
そこで「高野山へ登れ」と命じられます。
理由は謀反の罪でした。

弁解は、一切許されません。その日のうちに秀次は伏見を出て
七月十日に高野山の青巌寺に入りました。
そしてまもなく秀吉から死を賜り、七月十五日、秀次は
切腹して果てたのです。
 
秀次の切腹では、後の切腹に繋がるエピソードも
伝えられています。 
自害する前、秀次は小姓の山本主殿、山田三十郎、
不破万作に、貴重な脇差しを手渡しました。

彼らはいずれも十代の美少年だったそうですが、
主君に先んじて次々と腹を切っていきました。
四番目には、秀次に目をかけられていた東福寺の
隆西堂も「秀次があの世で迷わぬよう」と腹を切ります。

驚くべきは、その四人すべての首を、秀次自身が見事に
切り落としていったことです。これを介錯といいますが、
すぐに死ねない切腹の苦痛を和らげるのがその目的
だったのです。
 
かつては、腹を割いて臓物をばらまいた後、みずからで
刀を口にくわえて命を絶っていたのが、
介錯がつくのが通例となったのも この頃からで、
秀次も見事に腹を切りますが、その際も介錯を
受けて果てていす。

自ら腹を切るだけでも相当の勇気がいることは確かですが、
苦痛を和らげるために介錯を受けるというのは、
戦国時代以前に比べると、若干軟弱になったと
言えるかも知れません。


処刑と切腹

江戸時代になると、切腹は更に形式化が進みます。つまり、
切腹にも作法がしっかりと確立していくのです。
切腹前の潔斎。公儀への届け出。当日の準備や服装。
切腹に用いる短刀の寸法。具体的な切腹の所作。介錯の作法。
検死の方法。こうした細かい取り決めごとに則り、
淡々と流れ作業のように切腹が進んでいくのです。

切腹という文化自体は世界各地にあるのですが、
マニュアル化されたのは、おそらく世界的にも
異例だと思われます。
 
しかも、江戸時代に入ると腹に刃を突き立てる前に
介錯をうけることも珍しくなくなっていきました。
元禄時代に吉良上野介を討った赤穂浪士たちも、
この方法で死んでいます。

因みに、間新六郎だけは本当に腹を割いたので、
介錯人があわてて首を落としたと伝えられています。

いっぽうで、扇子腹が見られるようにもなります。
これは、短刀のかわりに扇子を三方に載せ、その扇子を
手にした瞬間、介錯人が首を落とすという切腹方法です。
切腹者が子供や病人、あるいは臆病などで刃物を
持たせると危険な場合におこなわれました。

ここまでくると、ほとんど切腹は形だけで、実際は
処刑と変わりないといってもいいかも知れません。
切腹する動機も、江戸時代に入り多様化が進みます。
江戸時代初期までは、主君が死んだとき、それに
殉じるために切腹することも少なくありませんでした。

とくに寵臣には「殉死すべき」という強い圧力が
かかったようです。
主君を諫めるため、あらかじめ腹を切ってサラシを
きつく巻いて主君の前に出て、諌言をおこなって
そのまま果てる……
これを蔭腹と呼んだのです。
 
ただ、江戸時代にはやはり、失敗や不手際の責任を
とるためにおこなわれる切腹が極めて多かったようです。
その理由については「徳川家の情容赦のない
武断政治―威厳維持の政策にあったとしか思われない」と
中井勲は『切腹』で述べています。

つまり、江戸幕府の厳しい処断姿勢が、「罪に問われる前に
責任をとって自死を選ぶ」という風潮をつくり上げた
というのでしょう。
罪としての切腹と自責の念からの切腹が密接に
連動しているという考え方はなかなか面白いですね。


「トップの腹切り」はほぼ皆無だった?

そして、ここが面白いのですが、藩のトップである
大名自らが、失政の責任を感じて腹を切る例は
絶無だったと言われています。
たいていは、その家老や側近が詰め腹を切らされて
決着する。
いまで言う「蜥蜴の尻尾切り」ということでしょうか。
しかも、それが制度として確立していたというのです。
 
戊辰戦争に敗れた東北諸藩に対し、新政府は藩主が
自裁するかわりに家老の切腹を求めました。
ゆえに誰一人、敗北した大名は自ら責任を取って
腹を切っていないのです。

たとえば戊辰戦争で朝敵とされた会津藩は、鶴ヶ城に
籠もって新政府軍に徹底抗戦したが、城下は灰燼に帰し、
城内の矢玉も尽き、一月後に降伏しています。

藩主の松平容保は粗末な籠に乗せられて江戸へ
護送されましたが、死一等を減じられ、処刑は
免れることになりました。
しかし、新政府はその代わりに、敵対した責任として
家老三名の首を要求されました。

このうち田中土佐、神保内蔵助はすでに
死んでいましたが、あと一人、犠牲にならないといけません。
その役を買って出たのが萱野権兵衛です。

これを知った容保は、萱野に書簡を送っています。
「私の不行き届きよりこのようなことになり、
まことに痛哭にたえない。藩に代わって命を捨てること、
不憫である。もし面会できるならお前に会いたい。が、
それはかなわぬこと。お前の忠義は、深く心得ている。
このうえは、潔く最後を遂げてくれるようお頼み申す」

この書簡を目にした萱野は涙を流し、粛々と死についたと
いわれています。 
会津藩に限らず、当時は全国的に同様のことが
あったそうです。
こうした構図は、現在とまったく同じだといえます。
すべての不正やミスは秘書や部下のせいにし、
真相を知る彼らが切腹ならぬ自殺を遂げて
事件がうやむやに終わらせる。その意味で、いえば
今の政治家は歴史と伝統を重んじていると言っても
いいのかも知れません。


こんな日本人がいた

ただ、日本の歴史を振り返ると例外的とも言える
清廉で責任感の強い人物がいました。それが、
江戸時代中期、松代藩の改革に尽力した
藩士恩田木工です。

恩田木工は、藩政改革の責任者になると、
親類一同に対して絶縁を宣言した後、
妻子と家来を呼び出し、こう言いました。

「おまえたち暇を申し渡す。何処なりとも
立ち退くがよい」と告げ、さらに家来たちにも
「今後は他家で奉公してくれ。もちろん
生活のこともあうから、欲しいものは何でもくれてやる。
自由に持ち去ってよろしい」と述べたのです。
 
驚いた妻はなぜ、暇を出されるか理由を尋ねます。
すると木工はこう答えました。
「訳を話しても納得してもらえないと考えていたが、
ならば申そう。私は役目を引き受けた以上、
今後一切ウソはつかないと決心した。

けれど、私がつかなくても妻子や家来、親類がウソを
ついていれば、世間はきっと『木工はウソを
言わぬというが、親しき人々がウソを
言っているのだから、木工のことは信用ならぬ』と
考えるはず。そうなれば、お役目は果せない。
ゆえに縁者と義絶しようのだ。

私は今後飯と汁以外、たとえ漬け物であっても食べない。
着物も木綿の服以外は一切新調せず、あるものを
そのまま着る。だが、おまえはウソもつきたいし、
うまい物も食べたかろう。だから家に置けないのだ。
さあ、早く親元へ帰りなさい」とせかしたのです。

最終的に妻子や家来達は、今後ウソは言わず、
一切贅沢もしないことを誓い、家に残ることを
許されるのですが、おそらくこれが、真の政治家の
姿なのでしょう。・・・『日暮硯』から、

その後、恩田木工は藩の改革の道半ばの46才で
亡くなっているのですが、それも過労と精神的な負担が
たたったのではないかと言われています。

残念ながら、今の政治家や経営者には、私利私欲を排して
命をかけて職務に尽くそうという人が少ないことは
残念でなりません。・・・

Author :歴史研究家 河合 敦
gendai.ismedia.jp/articles/-/50429




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