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2017年4月15日 (土)

妄想劇場・

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なぜ歌の主人公は北へ北へと目指すのか(1)~


「津軽海峡・冬景色」



上野発の夜行列車 おりた時から 
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは誰も無口で 
海鳴りだけをきいている
私もひとり 連絡船に乗り 
こごえそうな鴎見つめ泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色       


覚えやすいことが必要な歌謡曲では、まず
印象的なイントロのアタックが重要だ。
そして歌詞においては歌い出しの一行が
勝負である。
「津軽海峡・冬景色」はわずか一行で、主人公を
上野駅から青森駅まで連れて行ってしまう。


阿久悠の物語性が強い歌詞は映像的で、
三木たかしの三連のビートに言葉を乗せて
北の風景を鮮やかに描いていく。 そして
石川さゆりの切ない歌声は、うめき声のような
海鳴りと重なって聴き手に迫ってくる。


「北」というと今は誰もが方角のことを思い
浮かべるが、実は「北」には【逃げる】という
意味があるという。

「北」という漢字 は、左と右の人間が背を向けて
立っている様子を表している。
そこには【背を向ける・そむく】という意があり、
【背を向けて逃げる】という意味にもつながる。

例えば『敗北』は【負けて逃げる】という意味だ。
そう考えると、歌の中の孤独な主人公がなぜ北を
目指すのか、かなり理解できるのではないだろうか。

日本の歌の主人公は、北へ北へと目指す。
北へいくほど風景は寂しくなり、行きあう人は
少なくなる。だから、
北へ行こうとするのかもしれない。
肩をすくめ、心を凍らせて、歌の中の男や女は、
独りうずくまる。
それが、わが国のロマンティシズムである。
(久世光彦)  

当時の石川さゆりファンには、ふだんはロックを
聞いている若者が多かったという。
日本語ロック論争の舞台となった
『ニュー・ミュージックマガジン
(現ミュージック・マガジン)』を1969年に創刊した
中村とうようは、そのことにについてこう述べていた。

演歌にロック・ビートがついている、ということだけなら、
別に新しくも、物珍しくもない。
早い話が、八代亜紀にしたところで、伴奏には、
控え目ではあるがロック・ビートがついている。
だけど、石川さゆりの三部作は、ただ演歌に
ロック・ビートがくっついてるだけではない。
最初からロックの形で作られた演歌なのである。

(注)
1973(昭和48)年に「かくれんぼ」でデビューした
石川さゆりは、なかなかヒット曲にはめぐまれず、
13枚目のシングルからは阿久悠と三木たかしの
ソングライター・コンビに楽曲を提供して
もらうようになった。

しかし透明な声を持った18歳の少女、石川さゆりに
似合う歌は何かと探りながら阿久・三木コンビが
書いたシングルの「十九の純情」と「あいあい傘」は、
2曲続けて空振りに終わった。

3曲目の「花供養」でもヒットが出なかったので、
次の1曲を選び出すために『365日恋もよう』という
アルバムが作られる。

それは1月から12月まで12曲、日本中を舞台に
季節を組み合わせて女の恋を歌にする試みだった。
アルバムが発売されたのは1976(昭和51)年11月25日、
「津軽海峡・冬景色」は最後の12曲目に収まった。

1月:伊那谷を舞台にした「伊那の白梅」
2月:札幌を舞台にした「雪まつり」
3月:鳥取を舞台にした「流しびな」
4月:(既発のシングル曲)「花供養」
5月:九州の日豊本線を舞台にした「日豊本線」
6月:長崎を舞台にした「雨降り坂」
7月:琵琶湖を舞台にした「螢の宿」
8月:高松を舞台にした「瀬戸の花火」
9月:淡路島を舞台にした「私の心の赤とんぼ」
10月:静岡を舞台にした「千本松原富士を見て」
11月:横浜を舞台にした「横浜暮色」
12月:青森を舞台にした「津軽海峡・冬景色」

1977(昭和52)年1月1日にシングルが発売されると、
「津軽海峡・冬景色」大ヒットして第19回
日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。
石川さゆりはNHK紅白歌合戦へ初出場も果たした。

アルバムからシングル・カットされた曲でヒットを
放ったのは、歌謡曲には珍しいことで、むしろ
ロックの分野でよく起こる展開だった。
しっかりしたコンセプトがあったからこそ、必然的に
生まれた名曲が「津軽海峡・冬景色」だったのだ。

ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと
見知らぬ人が 指をさす
息でくもる窓のガラス 拭いてみたけど
はるかに霞み見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡 冬景色


石川さゆりはここで、傷ついた女心だけではなく、
昭和という時代の空気、年の瀬といった季節感までを
歌で表現できる歌手だと証明した。
そして敗北から立ち直る意志を、「私は帰ります」と
歌った。

そこもまた新しい女の生き方を提示した、
時代を先取りする作家の阿久悠らしいところだった。
自立した女性の強さとしなやかさは、石川さゆりという
シンガーの方向を決定づけたものとなる。

(注)
石川さゆりの三部作とは「津軽海峡・冬景色」と、
それに続いてヒットした「能登半島」「暖流」を
指している。



なぜ歌の主人公は北へ北へと目指すのか(2)~

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日本の叙情的な歌謡曲の主人公は、なぜか
北へ北へと行きたがる。?
傷ついた心の持ち主のふるさとがみんな北国に
あるかのように、傷心の男や女は歌のなかで
北へ帰る。

「北へ帰る人」という歌詞は、石川さゆりの代表曲
「津軽海峡冬景色」にも出てくる。

この北方回帰願望はいったいどこから
来ているのだろうか。・・・

「北へ帰る」歌の先陣を切ったのが「北帰行」である。
作者不詳のまま若者たちの間に口伝えで広まり、
終戦後の日本が復興を遂げるにしたがって、
都会の”うたごえ喫茶”や”うたごえ酒場”などで
愛唱歌になった。

そして小林旭が主演する映画『渡り鳥シリーズ』に
使われたことでレコードがヒットし、いつしか
日本のスタンダード・ソングになっている。


作者の宇田博は東京生まれで子供の頃から
おおらかな性格、自然体で型にはまらない
少年だった。
東京府立四中から「規則を守らない」「校風に
合わない」との理由で、退学処分を受けたのは
1939年のことだ。

中国東北部に建国された満州国で働いていた父親を
頼って、宇田は大陸に渡って満州の首都が
置かれていた
新京(現・長春市)の建国大学予科に入学した。
だがそこでも強圧的な権威に対する反抗心が
抑えられず、校則違反で放校処分を受ける。

次に父親のすすめで入学したのが、旅順に設立
されたばかりの旅順高等学校だ。
しかし、戦時体制下における大日本帝国によって
作られた最後の官立旧制高等学校は、自由な
校風とはほど遠く280もの校則に縛られていた。

寮生活をしていた宇田は入学から一年後、
開校記念日で休みだった1941年5月5日に、
親しくなった女性と映画を見た。
その後は一緒に酒を飲んで酔って夜遅く
帰ったところを、高校の教官に目撃されてしまう。

もちろん飲酒も異性交遊も禁止されていたが、
宇田の場合にはこれに寮の門限破りも加わった。
生徒課に出頭するよう命じられた宇田は
三度目の退学処分を受けて、旅順を去ることになる。

父親が住む奉天(現・瀋陽市)に帰るしかなくなった
宇田は、寮を出て有り金が続くまで旅館に泊まって
鬱屈した日々を過ごした。
そのときに「敗北と流離の思い」を込めて
書き上げたのが『北帰行』である。


親しい寮の仲間たちを旅館に集めた別れの席で
宇田がその歌を披露すると、友人たちは歌詞を写して
メロディーを覚えた。

「北帰行」は旅順高校の寮歌として、生徒たちの間で
歌われるようになった。
それは後輩にまで受け継がれたが、4年後に日本が
敗戦したことによって学校そのものがなくなってしまった。

しかしそれから20年の月日を経て、レコードが
あったわけでもなければ、譜面が残っていたわけでも
ないのに、「北帰行」は人づてに歌い継がれていった。


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「面白い歌があるぞー、新宿のうたごえ喫茶
だぞ-って馬渕さんが言いながら、
昼間に二人でぶらぶらお茶を飲みに行って聴いた。
で、あぁ、良い歌だ、良い歌だって、
レコーディングしたんですよねぇ」(小林旭)

小林旭に「北帰行」を歌わせようと思いついたのは
コロムビア・レコードのディレクター、五木寛之の小説
「艶歌」や「海峡物語」に登場する(艶歌の竜)の
モデルとなった馬淵玄三である。

馬淵は若者たちの間で歌われていた「北帰行」を、
デビューからずっと手がけていた小林旭に歌わせて
レコード化しようと企画を立てた。

ところがそれよりも一歩早く、コーラス・グループの
ボニー・ジャックスが歌った「旅の唄」が、
キングレコードから発売になった。
それは作者不詳のまま歌い継がれて、歌詞もタイトルも
変わってしまった「北帰行」だった。

「先を越された」と思った馬渕だったが、小林旭の
歌の魅力で勝負できると思って、そのまま
レコーディングの準備を進めた。すると
「旅の唄」が急に発売中止になったことを
知るのである。

若かりし日に宇田博が幻の国となった満州国の
旅順で書いた「北帰行」は、人づてに歌い継がれる
なかで、少しづつ歌詞もメロディも変わっていった。

宇田は旅順高校を退学させられたた後、内地へ戻ると
旧制一高に入学し、そこから東京大学へと進んだ。
そして卒業後は映画会社を経て、ラジオ東京
(現・TBS)に入社していた。

18歳の時に作った自分の歌が、巷で歌い継がれて
いることに宇田は早くから気づいていた。
そして寮歌として学生たちに歌われている分には、
歌詞が変わってもかまわないと思っていた。

しかしボニー・ジャックスの「旅の唄」のことを知って、
レコードとして流通させるならばオリジナルの歌詞で
歌ってほしいと思った。
そこで自ら著作者だと申し出たのである。

作者が判明したことを知って、馬淵はすぐ宇田のもとを
訪れた。小林旭の歌で「北帰行」をレコード化するために、
許諾を得ることと歌詞の一部変更が目的だった。

馬渕は5番まである歌詞を3番まで凝縮させて、
固い表現のところを耳で聞いても分かるように
直してもらった。

「北帰行」 作詞作曲 宇田博
 歌・小林旭

 窓は夜露に濡れて
 都すでに遠のく
 北へ帰る旅人ひとり
 涙流れてやまず

 夢はむなしく消えて
 今日も闇をさすろう
 遠き想いはかなき希望(のぞみ)
 恩愛我を去りぬ




浅丘ルリ子が相手役を務めた小林旭の映画
“渡り鳥”は、1959年(昭和34)から62年にかけて
一世を風靡したシリーズで、全8作が
次々に作られた。

1962年の正月に封切られた『北帰行より 
渡り鳥北へ帰る』の主題歌になった「北帰行」は、
馬渕の思惑通りにヒットしてロングセラーを記録した。
「北帰行」はシリーズ最終作となった映画に
ふさわしい歌となったのだ。

宇田は生前に「葬式にはお経はいらない。
このテープを流してくれ」と、一本のカセットテープが
入った封筒を手渡していたという。それが
小林旭の「北帰行」だった。

中国東北部に日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・
蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げて
建国された満州国、夢と理想を求める若者にとって
幻の国となった北の地への思いには、言葉には
言い尽くせない複雑なものがあった。

祖国の日本を離れて、愛しき人と別れて、
一人旅する男の帰る”北”とは、夕日が地平線に
沈む満州だったのかもしれない。

今は黙して行かん なにをまた語るべき
さらば祖国愛しき人よ 明日はいずこの町か・・・

Author :佐藤 剛(コラム)
http://www.tapthepop.net/


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P R :

G・ブラックコート  

黒の復活 (黒のコーティング)

G011

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