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2017年5月

2017年5月31日 (水)

妄想劇場・番外編・「蜜月の逆説」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



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「Bitter Moon 〜蜜月の逆説〜 

正志の人生にとって、一体瑤子は何だったのだろう?
「妻に先立たれた男」というレッテルを作るためだけの
存在だったのだろうか。
それとも、正志の人生に少しでも「存在して
くれてよかった。」と思ってもらえるのだろうか。

瑤子は何度も描いてきたシナリオどおり、
明けきらない朝、そっと家を出た。
台所の瑤子の食器類は、全部袋に入れて、
ごみ箱に捨てた。
残りの荷物すべてを一つのスーツケースにつめ、
玄関を出た。

リビングには、書置き一つ。
しばらく一人で考えたいので、旅行に出ます。
心配かけたくないので、誰にも言わないでください。
そのうち、必ず戻ります。 瑤子 ・・・

予定日までの1週間は都心のホテルに滞在し、
その後、瑤子はホスピス患者となった。
正志と瑤子の共通の夢の一つに、
「オーロラを見に行く。」というものがあった。
フィンランドのベストシーズンに合わせるため、
新婚旅行は結婚式から3ヵ月後の正月休みに
行くことになっていた。

瑤子は、新婚旅行の申込を正志に内緒で取り消し、
代わりに一人分の旅行申込をした。
1ヵ月後、どういう身体になっているか、自信はない。
医者に何と言われるかわからない。
旅行先で周囲にどんな迷惑をかけるか知れない。
だが、行きたい。この世の見納めに、この世の奇跡の
光を見ておきたい。

一人で、果たせなかったハネムーンに行っておきたい。
正志は、次のハネムーンで行けばいい。
一人きりのハネムーンは、文字通り
Honey Moonハネムーンにはならない。
苦い、辛い、命の限りを尽くした旅になるだろう。

それが、正志を苦しませることへの償いにならないだろうか。
オーロラの下で、正志を欺いたことへの懺悔がしたい。
そして、正志の幸福な未来を祈りたい。
自分にできることには、もう、限りがあるのだから。

リムジンに乗って成田空港に降り立ったのは、
午前7時過ぎだった。
吐く息の白さを感じながら、自動ドアをくぐる。
重いスーツケースを押しながら、空港内部の様子を
確認する。

世間の休みとは無縁の11月下旬だが、それなりに
人で混み合っている。
ホスピス入所から3週間。無論、誰も尋ねてはこない。
正志は瑤子の行方を捜しているのだろうか。それどころか、
一人で羽をのばしているかもしれない。

いつまでも帰ってこなくていいと、思っているかもしれない。
瑤子は、旅先で死ぬことも覚悟している。
むしろ長々と苦しむくらいなら、そのほうが楽な気さえする。
大抵のことは許してくれる医師も、さすがに反対した旅行。
「どうなっても知りませんよ。」と言われ、

「そのほうが都合がいい。」と切りかえしてしまった。
(日本に帰ってくるときは、もう、遺体かもしれない。)
そんなことを考えながら、スーツケースの検査の列に
並ぼうとした。

と、その時だった。「瑤子!!」
突然、自分を呼ぶ声が木霊した。
空耳かもしれない。そう思いながらも、
一応辺りを見回す。
だが、見えるのは鉄骨トラス構造の高い天井と、
荷物を持った見知らぬ旅行者ばかり。
(・・・気のせい・・か。)

そう思った途端、いきなり肩をつかまれた。
「瑤子!」
気のせいではなかった。そこには、息を切らして
苦しげに肩を上下させている、正志がいた。
瑤子は、幻を見ているのではないかと目を疑った。
どうして、正志がここにいるのだ?
どうして、この場所がわかったというのか?
声も出せない瑤子に、正志は言った。

「・・・ったく、一人で何でも決めやがって。」
「・・・。」
「俺をおいて、一人で先に新婚旅行に行ってしまうのか。」
「・・・そうよ。」
「それは、君を便利な女扱いした俺への、報復なのか?」
「そうではないわ。私は便利な女だと思われてても
仕方がないと思っているし、今はもう何とも思っていないわ。」

正志は何を、どこまで知っているのだろうか。
旅行会社が新婚旅行の取り消しの件を正志に確認して、
発覚したのかもしれない。そうだとしたら、
病気のことはまだ知らないはずだ。

その時、瑤子が乗る便の最終手続き案内の
放送が流れた。
「・・・もう、行かないと。」そう言って動き出そうとした
瑤子の手を、正志が掴んだ。
「待ってるからな。」
「・・・え?」
「瑤子が無事に帰ってくるのを待っている。
帰国の日、迎えに来るよ。」

「・・・いいよ、一人で帰れる。」
「ちゃんと、聞かせてくれよ。オーロラが、
どんな風だったのか。
絶対、俺に教えてくれよ。万が一でも・・・。」
正志の声がいったん詰まり、だが、すべてを
振り切るように言った。

「万が一、旅行先で死んだりしたら、俺は迎えに
行かないからな。
遺体の引取りなんて、まっぴらごめんだからな!」
瑤子の眉間が震えた。正志は、知っているのだ。
もう、全部知ってしまったのだ。

だが、瑤子の空しい企てが駄目になってしまったことへの
悔しさなどは一切ない。それよりも今、瑤子の胸を突くのは、
正志がここへ来てくれたことへの嬉しさ。それだけだ。
瑤子は、震える唇で聞いた。

「帰ってきても、いいの・・・?」
「当たり前だろ。瑤子が帰る場所は、俺のところしか
ないんだから。」
「・・・そうね・・・。」

瑤子の頬に、何ヶ月ぶりかで穏やかな微笑が浮かんだ。
正志の手が、瑤子から離れた。
瑤子は正志の瞳をまっすぐに見つめ、ゆっくりと手を振った。
「・・・行ってきます。」

そして正志も、それに答えた。
「気をつけて。」
踵を返し、瑤子は再び歩き出した。
背中に、正志の視線を感じる。
二人の距離が離れるにつれて、瑤子は胸が
潰れそうなほど後悔していた。

それは、正志に病気のことを告げなかったことではない。
正志への復讐を企てたことでもない。
後悔するのは、正志との時間を大切にしなかったこと。
正志への「好き」という気持ちを、きちんと
伝えなかったこと。

正志にどう思われていようと、正志の妻の座を、
降りねばならないこと。
正志が他の女と再婚しても仕方ないとは思っても、
嬉しくなんかない。
あの肩も、あの腕も、髪も、爪の先まで、正志が
死ぬまで独占したかった。便利な女としてでもいいから、
ずっと、ずっと一緒に生きていたかった。
正志の一生を、見届けたかった。

そう。こんなところで、死にたくなかった。
これが運命だと諭されて、どうして納得できるだろう?
瑤子の歩みが、わずかに緩んだ。
もし、ここで旅行をとりやめたらどうなるか。

正志に連れられてホスピスに戻り、
両親や正志の家族の同情の中で手厚い看護を受け、
残りの数ヶ月を見守られる日々を選択することもできる。
正志がすべてを知ってしまった以上、瑤子の両親や
正志の家族も、皆、真実を知ってしまうだろう。

「私が死ぬまで皆は何も知らなくていい。」という
瑤子の望みは断ち切られてしまったのだ。
ならばこの先、瑤子は周囲とどう向き合えばいいのだろう。
(私は、死と向き合うのが怖かったから正志を憎んだ。
でも、それだけじゃなかった。
私は家族と向き合うのも怖かったんだ。

すべてから目を背けたくて、すべてから逃れたまま
死んでしまいたかったんだ。
周りのためなんて言いながら、結局、自分のことしか
考えていなかったんだ。
すべての責任を、他人に転嫁していただけだったんだ。)

もう一度、正志の方を振り返りたいと思った。
だが、振り返ったら引き返せなくなるだろうことは、
容易に推測できた。
瑤子は唇を引き締め、もう一度前を見据えた。
自分で選んだ選択肢が、ここにある。
自分で決めたことへのけじめは、自分でつけなければ
ならない。

もう、逃げたくない。
自分自身からも、
死からも、
家族からも、
そして、
正志からも。

瑤子はキャリーハンドルを握りなおし、再び歩き出した。
迷いの無い、確実な足取りで出国審査へ向かう。
異国の地で、きちんと考えようと思う。
そして、出来る限りの回答を持って帰国しようと思う。
まだ、やらねばならないことがある。

残していく人々へ、瑤子が本当にすべきことを
やりきるまでは、死んではならない。
そう決意したとき、暗闇しか見えなかった瑤子の未来に、
一筋の希望の光が射しこんだ。

一人きりの、Bitter Moon。
それが、瑤子の選択。
・・・

the end

Author :井浦美朗( イウラミオ)
http://mypage.syosetu.com/

性別: 女性; 血液型: AB型;


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…




ゆふがお

      

『源氏物語』に登場する女性。
頭 (とう) の中将の愛人 (常夏の女) で玉鬘を産み,
のち夕顔の花咲く粗末な家に住んで光源氏の目にとまり
愛されるが,源氏とともに夜を過すうち,
もののけにとりつかれて死ぬ。
謡曲の『夕顔』『半蔀 (はしとみ) 』などにも登場する。




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Bu

隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月30日 (火)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・


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米大リーグのシカゴ・カブスと1年契約を結んだ
上原浩治投手(41)。4月には42歳になる上原投手です。

この年齢で、米大リーグの最前線から
まだラブコールを受けている稀少な選手です。

カブス移籍を決断した理由について、こう述べています。
「やっぱり勝ちたい。僕も5年、10年できるわけじゃないので、
その1年。今年優勝できるチームに行きたいということで
選びました」

確かに年齢を考えれば、目前の1年が勝負の時です。
この上原投手の野球人生は、必ずしも順風満帆と
いうわけではありませんでした。
むしろ、少年野球、高校野球の頃は平凡な
選手だったのです。

平凡な上原少年が、現在の大選手に化けるには、
やはりターニングポイントになる「何か」がありました。
それはどうも大学進学に失敗した19歳の時にありました。

上原少年は少年野球・中学野球を
「寝屋川アスナローズ」という軟式野球チームで
過ごしました。
通っていた中学校に野球部がなかったため、
部活では陸上部に入っていました。

その後、東海大学付属仰星高等学校に入学して
野球部に入部し、何とか高校球児として野球を
やれるようになりました。
高校時代の上原選手は、控えのピッチャーで、
公式戦で投げたのは3試合だけでした。

同学年に、後に日本ハムで活躍する建山義紀選手が
いたからでしたが、
上原選手自身にもあまりポジションにこだわりは
なかったそうです。

高校卒業後はプロになりたいとは思っていなかったものの、
野球を続けたい思いは強かったのです。
そこで、大学に進学することにしました。

大学は大阪体育大学を目指しました。
その理由は、家計を考え、実家から通えるということ、
そして推薦入学の枠があったからでした。

上原選手、野球ばかりで勉強などまったくやって
いなかったのでした。
ところが、チームメイトの一人が、
急に大阪体育大学の推薦を願い出てしまったのです。

このチームメイトの方が学校の成績がはるかにいい。
推薦枠からはじかれた上原選手は、一般入試で
受験しますが、結果は不合格でした。

今、大投手として世界からも一目置かれる上原選手が、
まさか大学は一般入試だったとは、しかも、
それに失敗するとは。

しかし、人間わからないもの、この時の失敗が、
今日の上原選手の人間力を築き上げるとは…

上原選手は浪人することにしました。
そして後に、この一年間の浪人生活をこう語っています。

私は本当に死に物狂いで参考書と首っ引きになり、
問題集と格闘した。
それこそ過去の十八年分を一気に取り戻すつもりで、
机にかじり付いていた。
間違いなく、あの一年間が人生で最も真剣に
勉強したと断言できる。

そう、これまでちっとも勉強しなかった上原選手が、
受験失敗して、初めて勉強へのやる気を
燃え上がらせたのです。

この一年間、上原選手は野球も封印しました。
硬式ボールを触ることもせず、ただ週三回
スポーツジムに通って体作りに心がけました。

さらに、それほど裕福な家庭でもないから、
悠々と浪人生活を無収入で送るわけにはいきません。
工事現場などでのアルバイトにも精を出しました。

上原選手が浪人生活を送っている間に、
同学年の高橋由伸選手や川上憲伸選手たちが、
進学先の大学で頭角を現しています。

しかし、このあせりにも似た感情を、上原選手は
大きな力へと変えていきます。
「自分もいつか必ず追いつくぞ」という
モチベーションにつなげたのです。

上原選手はこう語ります。

受験に失敗することなく、すんなり大学へ進んでいたら、
上原浩治の人生は全く違っていたことだろう。
同い年で活躍する選手へ、対抗心も
燃え上がらなかっただろう。

雌伏している1年の間に、上原選手は
死ぬほど勉強し、身体をいじめ、そして心を
燃やしていたのです。

そして、翌春、上原選手は再チャレンジした
大阪体育大学に合格します。
大学に入ってからの上原選手は、今までの
うっ憤を晴らすかのように大活躍。

全日本にも選ばれ、国際大会でも活躍し、
1998年に読売ジャイアンツからドラフト一位
指名されるまでの投手と成長しました。

ところで、上原選手の背番号は巨人での19番に始まり、
どこのチーム行っても、この19番で変わりません。

「たまたま空いてる。行くところ行くところが」と
照れながら言いますが、どのチームからも同じ番号で
歓迎されていた証拠でもあります。

上原選手の19番には、こんなこだわりがあります。

「浪人していた19歳、その年を忘れないように。
その1年を考えれば、ちょっとくらい打たれたところで
何も思わない。

やっぱり野球できない19歳の時が一番苦しかった。
そういう意味で背番号を見れば、すぐに開き直れる、
前向きになれる」と背番号への想いを明かしました。

「何、くそ」という心の大切さを学んだのが、
この19歳の浪人時代にであるというのです。

上原選手はこう結んでいます。

浪人時代の一年間こそ、上原浩治の礎であり、
人生の要である。
私は十九歳のこの年を生涯胸に刻みつけるために、
プロ野球選手になって背番号「19」を背負った。
・・・


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その女性は、昭和14年のお生まれです。
彼女は、中学を卒業以来、ビル清掃のお仕事をしています。
彼女は、幼いころご両親を亡くされたので、
中学を卒業してすぐに、働きに出なければなりませんでした。

関西で育った彼女は、地元の大手百貨店に就職のための
面接を受けに行きました。けれど面接官の人は、
彼女が孤児であるために、最初から冷たい態度でした。

自分を受け入れてもらえることはない、と確信した彼女は、
「私のような者に働き口を提供するのも、あなたがたの
仕事なのではありませんか?
これで失礼します」と、席を立ちました。

自分ではどうすることもできないことで、自分が
評価され見下される。14歳の彼女は、辛くて、
悲しくて涙が止まらなかったそうです。

いまから60年以上も昔の出来事です。

彼女は、やがて結婚し、一児をもうけ、
家計のためにと働きに出ました。
仕事は、慣れている清掃の職務でした。

出勤は早朝、時間は不定期で、土日も出社。
帰宅が極端に遅くなる日もありました。
けれど彼女は一生懸命仕事をして、
いつしかマイクロソフト日本支社のビルの
清掃責任者となりました。

30名余の部下を使う立場になり、みずからも
清掃を行いました。

ある日のことです。

男子トイレの掃除を終え、清掃道具を持って
そこから出ようとしたとき、背の高い外人と
入り口でぶつかりそうになりました。

その外人さんは、「 I’m sorry」と言いました。
おばちゃんは、おもわず「ヒゲ、ソーリー」と答えました。

日本語のわかるその外人さんは、笑いながら、
自分のあごの周りを撫でるふりをしながら
「ひげ剃り?」と笑いました。

おばちゃんも笑いました。

その外人さん…そう、その外人さんは、当時、
この会社の社長、ビル・ゲイツでした。
大の日本好きであるビル・ゲイツは、
マイクロソフト社の中で、いつも日本の作務衣を
着ているそうです。

他の社員さんたちは、重役も平社員も、みんな
背広にネクタイです。
ビルの中で、ビル・ゲイツひとりが作務衣を着ています。

そしてどこに行くにも、常にビル・ゲイツには、二名の
ボディガードがついています。
トイレに行くときは、ボディガードは、トイレの入り口前に
立ちます。

だからそのとき、ビル・ゲイツは、ひとりでトイレの
ドアを開けて入って来たのです。
ほんの、ひとこと二言の会話でした。

トイレで鉢合わせし、ヒゲソーリーと冗談を言った
などというのは、誰でもすぐに忘れてしまうような、
ほんの些細なできごとです。

ところが、それから間もなくして開かれたクリスマスイブの
社内パーティで、おばちゃんは突然、パーティーに
参加するようにと内線電話で呼ばれました。

仕事中だし、他の掃除のおばちゃんたちもいるしと断ると、
しばらくしてまた内線がかかってきました。
「清掃係の女性全員、参加してください、
ビル・ゲイツ社長からの直々の依頼です」というのでした。

やむなくおばちゃんは、当日出社していたおばちゃんたち
全員を呼び、みんなでパーティ会場に行きました。
おしゃれなんてしていません。普段の作業衣のままです。
こわごわと会場に入って行くと、そこにはたくさんの
社員さんがいました。ビル・ゲイツもいました。

普通の社員さんだって、ゲイツと直接会話なんて、
なかなかできません。

そのビル・ゲイツが、おばちゃんを見つけると、
とっても嬉しそうな顔をして、よく来てくださいました、
とおばちゃんを抱きかかえんばかりに歓迎しました。

そしてみんなにも、このおばちゃんはすごい日本人で、
自分が大好きな人ですと紹介してくれました。

一緒にいた他の掃除のおばちゃんたちにも、
ビル・ゲイツが単なるおべんちゃらではなく、
本気でこのおばちゃんを尊敬し、親しみを込めて
いることがわかったそうです。

それほどまでにビル・ゲイツはおばちゃんを
歓迎しました。 
掃除のおばちゃんたちというのは、会社の中では
いわば縁の下の存在です。
トイレで出会っても、廊下ですれ違っても、その
存在自体が意識すらされません。

けれど日本びいきのビル・ゲイツは、どんなに
汚い仕事でも、どんなに辛くても、何十年でも
それを誠実に行い、しかも「ヒゲソーリー」というくらい、
ユーモアとウイットを忘れず、堂々と自らの
仕事に精を出す。そんな本来の日本人の
典型を、彼女の中に見いだしたのです。

作務衣を着て、日本が大好きなビル・ゲイツには、
彼女が誠実に毎日の清掃をしていること、
自分の仕事に誇りを持って生きていること、
そして彼女が胸を張って堂々と生きていることを、
瞬間に見抜いたのでしょう。

だからこそ彼の心の中に、彼女への尊敬の念が
わき起こり、トイレであった小さなその事件を忘れず、
パーティに全員を招待したのです。

世界を知る大人物のビル・ゲイツが、日本で
ただひとりの信頼できる友人とまで称したこのおばちゃん。

彼女は、現在ではご主人の収入などで、
働かなくとも十分生活していくだけの収入があります。

けれど彼女は言います。

「働かないと体がなまるし、働くことで毎日人様の
お役に立てれることがとっても嬉しいのです」

やはり、仕事に誇りを持つ人は、生涯現役の志ですね。
・・・・。



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「酒場すずめ」






こうして、こうすりゃ、こうなるものと、 知りつつ、
  こうして、こうなった


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隙間産業(ニッチ市場)


妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


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バラエティ番組などで大活躍中のタレント、ユージさん。

2014年に結婚した奥様との間に、
まだ幼い二人の娘さんがいるユージさん。

ブログでも、育児に積極的に関わる
イクメンぶりを見せてくれていますが、
実はユージさんの奥様には、ユージさんと出会う前に
前夫との間にもうけた息子さんがいます。

当時23歳だったユージさんはそれを知ったとき、
「自分が若く、相手がバツイチでしかも子どもがいる」
ということに、かなり戸惑ったそうです。

自分の本当の父親じゃないことで、この息子を
愛せるのかという不安以上に、
「俺をお父さんと思ってくれるだろうか」と
いうことの方が不安だったといいます。

だけど、自身もかつてシングルマザーの家庭で
育ったというユージさん。
自分の幼少の頃と重ね合わせ、孤独に陥らないよう、
その息子さんにはきちんと向き合おうと
心に決めました。

息子さんが小学六年生のころです。
授業参観の日でした。この日、ユージさんは
奥さんと二人で、教室の後方に立っていました。

息子さんは『感謝したい人』というテーマで、
自分が書いた手紙を、ユージさん夫婦の前で
読みました。

「お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、友達…」を
『感謝したい人』に挙げて読まれ、ユージさんは
「お父さん」がないことに「うわー!飛ばされた」と、
かなりショックを受けたそうです。

家では、息子さんに「お父さん」ではなく、
フランクに「ユージ」と呼ばせていたそうで、
後日、息子さんと公園に遊びに行ったとき、
思い切ってユージさんは聞いてみました。

「作文に俺のこと書いてなかったね」
それに対し、息子さんからは意外な返事が
返ってきたのです

息子さんの返事はこうでした。
「本当はね、お母さんの次にユージって
書いてたんだよ」と…。だけど、参観に
ユージさんが来ることを知った息子さんは、
もし作文に「パパはいつもテレビで忙しい…」なんて
書いたら大変なことになる、との配慮から、
名前を挙げなかったのだとか…。

ユージさんは「ありがとう」と言って、感動に
震えたといいます。授業参観時の手紙の代わりに、
という意味だったのでしょうか。

しばらく後に「お父さんへ」と書かれた1通の手紙が
ユージさんに手渡されました。
小学校を卒業する息子さんが、
感謝の気持ちをこの手紙に託したようです。

こんなお手紙でした。

「お父さんへ
いつも仕事をしてくれてありがとう。
全然休みもなくつかれているのに妹の世話や
僕の世話をしてくれてありがとう。
仕事が忙しくて運動会などの学校行事に
来れないことがほとんどだけど、空いているときは
必ず来てくれてありがとう。

家に帰ってくるといつも面白い事やってくれて
ありがとう。
お父さんは、とても有名で何でもできるので
皆にじまんできるお父さんです。
これから仕事も頑張ってください。応援してます。
まだまだ未熟なので、世話をかけると思います。
でもこれからもよろしくお願いします。 〇〇〇より」

ユージさんの仕事を理解・感謝し、かつ応援している
姿がうかがえます。
完全に本物の父と息子ですね。
br> 実はユージさん、この手紙で初めて「お父さん」と
呼ばれたのでした。
・・・


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女優・歌手の宮城まり子さんが障害を持つ子どもたちの
養護施設「ねむの木学園」を設立したのは、
1968年のことでした。

徒手空拳で始めた学園運営は数年後、すぐ壁に
突き当たりました。
当時、日本の養護施設で教育を受ける予算が
ついていたのは、小・中学校の年齢の子どもまでであって、
高校進学のための費用は認められていませんでした。

このままでは、中学を卒業する年齢になった子どもたちが、
路頭に迷ってしまう。
悩んだ末、意を決した宮城さんは、官邸に直接
電話をしました。

ときは1972年9月。

総理大臣は、就任間もない田中角栄氏でした。
「宮城まり子です。
総理大臣にお会いしてお話したいことがあるのですが…」

1950年代から60年代にかけ、
紅白歌合戦にも8度出場したことがある有名な
歌手からの電話です。

驚いた秘書官は、こう応対しました。

「今から30分後、官邸にいらしてください。
ただ時間は取れません。10分ほどです」

宮城さんは官邸へ駆けつけ、
部屋に入ってきた角栄氏に切々と語りました。
「田中さん、あなたは総理大臣ですから、何でも
知らなくてはなりません」

「どんなことかね」

「日本では両親がいなかったり、貧しくて
生活できない子の面倒をみているところを
養護施設といいます。そこには素晴らしい頭脳を
持った子もいます」

せっかちな角さんですが、黙って話を聞いていました。

「そこに高校進学の予算をつけていただきたいのです。
おやつも……1カ月でリンゴ1個分ぐらいです。
いくら頭が良くても中学から大学へは行けません。
日本が豊かになってきているのだから、どうか
予算をいただけないでしょうか」

宮城さんの頬に涙が伝いました。

この話を聞いて、角さんは、「そうかね。
そんなことがあるのかね」

「はい」

「私は知らなかった。そういうことまで耳に入らなかった。
知ってなくちゃいけないね」

「はい」

「今すぐ返事をしたいが、それは無理なので、
正月過ぎまで待ってほしい。必ず返事をする」

翌年1月、宮城さんは二階堂進官房長官に呼ばれました。

「遅くなりましたが、日本中のすべての養護施設の子が
高校教育を受ける予算がつきました」
宮城さんの脳裏に、4か月前に会った田中角栄氏の顔が
浮かびました。

尋常高等小学校卒という学歴ながら、一国の宰相に
登りつめた角さんは、誰よりも「教育」の大切さを
訴え続けた政治家でした。

宮城さんは、かつて「越後の毒消し」の行商女性を
テーマとした「毒消しゃいらんかね」という歌を歌い、
この歌で紅白歌合戦にも初出場しています。

角さんは、あるいは宮城さんを新潟出身者と
思っていたかもしれません。
しかし、角さんは一切そういう話をせずに陳情を
受け付け、それに応えて見せたのです。
・・・


B



歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



Malaguena salerosa






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隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月28日 (日)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


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戦国時代を終わらした男、徳川家康
幼少期、今川家への人質として生活していました。
また、信長、ついで秀吉に仕え、天下取りの順番を

まちつづけた武将でもあります。
家康の遺訓を現代風に言い換えれば、
1に我慢に、2我慢。3,4がなくて、5に我慢。
家康公の人生観が色濃く残した家訓です

遺訓

人の一生は重き荷を負って遠き道を行くが如し、
急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え
勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、
害その身に至る
己を責めて人を責むるな
及ばざるは過ぎたるに勝れり


徳川家康とは?

徳川幕府の産みの親、徳川家康は、
三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)出身
日本の戦国武将です。

家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉に
臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、
15世紀後半に起こった応仁の乱から
100年以上も続いた戦乱の時代に終止符を打ちました。

家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする
統治体制は、後に幕藩体制と称され、
17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く、
平和な時代を築きました。

辞世の句は、
「嬉やと 二度さめて 一眠り 浮世の夢は暁の空」

抜群の実績

徳川家康は、戦国の時代に終止符をうち、
世界でも稀に見る長期平和を築きました。
ヨーロッパには250年に渡る平和な時代を実現させた
国はありません。

また秀吉により江戸の統治を任されました
(体のいい左遷)際には、ただただ荒地の
広がる江戸の地をゼロから開拓し今に続く
大都市を築き上げました。

江戸時代には100万人をこえる人口となり、
当時のパリやロンドンをこえる世界一の都市に
成長していました。

江戸時代は、庶民文化が発達し、農民でも
工夫さえすれば収獲が増えた分を自分の蓄えにして
豊かになれた、やりがいのある社会だったと
いわれています。

日本の国民性としての勤勉さは、この徳川時代の
農民が、工夫しだいでは自分の収入を増やし、
生活の改善が出来るという体制のもとで
身につけたものだったのです。

一般の農民でさえ識字能力が高く、農民自身による
記録としての「農書」が多く書かれました。
当時の庶民のレベルは、世界のどの国とも比較に
ならないほどの豊かで文化的な暮らしを
享受できたのです。

海外の歴史家も、「私が庶民だったら、
日本の江戸時代に住み、貴族だったら、
19世紀イギリスに暮す」と言っています。

欧米の文化は貴族だけの文化であり、一般人は
奴隷か、搾取されるだけの存在でしか
ありませんでした。

農民が、書物を読むとか、余暇を楽しんだり
お伊勢参りに出かけるのがブームになる、など、
どこの国でありえますか?

戦国時代~秀吉時代が世界に恐れられた
軍事大国だった日本が、なぜ軍縮に向かい
他のどの国も経験したことのない
長期平和を築き、安定した内政のもと、

このような高い庶民文化を享受できたかを考えると、
家康がきずいた幕藩体制をベースとした
政治システムが、いかに世界的に
評価されるべきものか、客観的に理解できると
思います。

しかも、今の政治が地方切捨てにもがき、
ゴミ問題にあえぎ、環境問題に四苦八苦していますが、
江戸時代には、限りある資源を最大限に利用した、
地域相互間の資源循環に支えられていて、
各地方(藩)がそれぞれの特色を活かし、
生き生きとした地方分権を実現していたわけです。

家康は野盗の横行していた戦国時代を、
女の一人旅ができ、芭蕉が丸腰で旅行できる
法治社会を作ることができました。

家康を総括すると、情に溺れず、自己規制を貫き、
理屈にならない行為はせず、至難なことを
忍耐強く生涯継続した。

身体が大事と健康法に心がけるとともに、
「統治には強い権力が必要、政権維持には善政が不可欠」
ということを徹底した類稀なるリーダーであった。



B15111


「靴をそろえる」という家訓

仏教の言葉で 【 脚下照顧 】(きゃっかしょうこ)。
これは、他に対して理屈を言う前に、まず自分の
足もとをよく見なさい・・・と自己反省を促す意味です。

いつも他の人ばかり(物ばかり)に囚われるのではなく、
まずは自分の足下を顧みるということです。

哲学者の森信三氏は「靴(はきもの)を揃える」ことに
徹底的にこだわってきました。なぜかと言えば
「靴を揃えると心も揃う」 からです。
森信三氏は、次の3つだけを9才までに身につければ、
しつけは「すべて」だと説いています。

「しつけの三原則」

1. 朝のあいさつを自分からする
2. 名前を呼ばれたら「はい」と返事する
3 .席を立ったらイスをしまい、靴を脱いだら揃える




A52



鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる


 






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Bu


隙間産業(ニッチ市場 )

2017年5月27日 (土)

妄想劇場・漢の韓信-(174) 悪意の絆…その後

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・

アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kansin


漢の韓信-(174) 悪意の絆…その後

一連の出来事を終え、蕭何は韓信について語ったという。
「思えば、韓信という男は、常に中庸を意識していた
人物であった。
武に偏り過ぎず、智に傾き過ぎず…これは裏を返せば
どちらの能力も兼ね備えているということで、
彼は経験を積めば、きっと統治者としても頭角を
現したに違いない。

だが、残念なことに時代がそれを許さなかった。
それに彼は人の行為の正しさを考えるに、
中庸ではなかった。

正しいことと悪しきことを区別しようと意識
し過ぎたのだ。
結果的に正しさを求め過ぎる彼に、
周囲の人間たちは…… 誰もついていけなかった。
そして彼自身も……自分自身が正しいと認める
生き方を 実行できずにいることに悩み……
捨て鉢になった。

時代だ。時代が彼にそうさせたのだ。
我々は彼に感謝すべきだろう……
はじめて出会ったころの彼は、私に言ったことがある。
曰く、乱世にけりをつける男になりたいと……

彼は確かにその思いを実現した。
最後には自分自身が舞台から消え去ることで、
彼は戦乱の世にけりをつけたのだ」

もし灌嬰がこの言葉を聞いたとすれば、
卑怯だと 評することだろう。しかし、
彼の言葉は事実の一面を正しく突いている。
臨淄の宮中で報告を受けた曹参は、
しばし目をつむり、 押し出すように言葉を紡いだ。

「淮陰侯が謀反……そしてそれに失敗……
彼らしくないことだ。しかし……彼としては
そうせざるを 得なかったのだろう」

「彼らしくないとは……謀反したことがですか? 
それとも失敗したことがですか?」
周囲の者の問いに曹参は断言するように答えたという。
「無論、失敗したことが、だ。
ほぼ成功する可能性がない計画を、彼はわかっていて
たてなければならなかった。

謀反という行為を肯定する気はないが、
誰かがそれをやらなければ、国は人々の意志を
無視して暴走しようとする。
彼は、その役を自ら買って出たのだ」

「あえて敗れる戦いを挑んだ、ということですか」
「私が知る淮陰侯は、常に勝つ戦いをする男であった。
無謀な賭けに人々を巻き込むことをしなかった男だ。
だが彼は……今回は負けるための戦いをした。

陛下が自分を持て余しているということに
彼自身が気付いていたからだろう。かえすがえす、
私がおそばにいられなかったことが残念でならない」

では淮陰侯は……自暴自棄になった、
ということですか」
「そうかもしれない。しかし、残念だ……
いい男であったのに……。

いつの世も正直者は馬鹿を見る。彼の死が
それを変えてくれることを祈るばかりだ」
曹参はそう言い、深くため息をついた。

自身の吐き出した炎が燎原の火となる前に
鎮火したことを劉邦は安堵しつつ、二度とその炎が
吐き出せないことに気付いた。

炎は炎である以上、吐き出された後は、
自分の手に負えない。しかし存在する以上、
たとえ小さくなっても夜陰を照らすともしびとなり、
人々が暖をとるための熱源となる可能性を秘めていた。

だが消火された今となっては、その可能性はない。
そして自分自身にももうそのような炎を吐き出す
源がなかったのだった。

それを知った劉邦は、過去の自分の行為を
思い出すたびに後悔するようになっていった。
やがて彼は年老い、覇気を失っていった。

韓信の死後、漢の建国の元勲である異姓諸侯王は
次々と滅ぼされ、呂后を中心とした外戚が跋扈する
時代となっていく。

彼の死は、歴史上のひとつの危機の終わりであり、
新たな危機の始まりでもあった。

(完)

Author :紀之沢直樹 (野沢直樹)
http://kinozawanaosi.com
http://mypage.syosetu.com/273441/


愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る




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愛はかげろう





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Bu

隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月26日 (金)

妄想劇場・一考編・

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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現在ではお風呂に入ったり洗い物をするときには、
石鹸や洗剤を使うことは当たり前になっています。
江戸時代において、体を洗ったり洗濯をするときには
何を使っていたのでしょうか?

石鹸そのものは16世紀に日本に入ってきています。
しかし、一般庶民が石鹸を使うようになったのは
明治になってからのことです。

国産の石鹸が発売されたのは明治6年のことですし、
洗濯用の合成洗剤が初めて発売されていたのは
ずっと後の昭和31年のことです。

ここでは、江戸時代では石鹸や洗剤の代わりに
何が使われていたのかについて調べています。

石鹸の代わりに米ぬかで体を洗っていた!?

江戸時代においても、ポルトガルから入ってきた
石鹸はありました。
しかし、当時の石鹸(しゃぼん)は超高級品で、
一般庶民が体を洗うために使うことは
出来ませんでした。

そのため、江戸の庶民が銭湯で体を洗うために
使ったのは、お米を精米したときに出来る
「米ぬか」だったのです。

彼らがお風呂に行くときには、自前の米ぬかを
袋に入れてもっていくか、袋だけを持って行って
銭湯の番台で米ぬかを買って使っていました。

米ぬかを使って体を洗うことで、体の汚れが
落ちるだけではなく、肌をしっとりとさせる効果も
あったようです。

そういった効果を期待してか、最近では一部の
女性の間で米ぬかを使った洗顔が流行しているようです。

銭湯で体を洗う人がみんな米ぬかを使うわけですから、
お風呂屋さんには使い終わった米ぬかが
大量に集まることになります。

実は江戸時代には、これらの銭湯から出る米ぬかを
買い取る商人がいたのです。
その米ぬかを農家が買って畑の肥料にしていました。

江戸時代は究極のリサイクル社会といわれますが、
このように米ぬかでさえも最後まで有効活用されて
いたわけです。

洗剤の代わりにカマドの灰を使って洗濯をしていました

お風呂で石鹸の代わりに使われたのは米ぬかですが、
洗濯をするときの洗剤の代わりに使われたのが
カマドから出る灰です。

当時は灰汁桶というものがあり、水を満たした桶の中に
灰を入れ、底の部分の栓から灰汁が流れ出るように
なっていました。


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江戸時代の女性たちは、タライの中にこの灰汁を入れて
洗濯物を手もみ洗いしていたのです。

灰汁ではいまの洗剤のような洗浄力はありませんし、
江戸時代には洗濯板などというものもありませんでしたから、
当時の洗濯はかなりの重労働であったに違いありません。

洗濯機に衣類と洗剤を入れて、あとはスイッチ一つで
済んでしまう現代の女性たちは、江戸時代の女性たちに
くらべると本当に幸せですね。
戦国時代までは、川原の岩の上や井戸の近くの石の上に
洗濯物を乗せて、足で踏んで汚れを落としていたようです。

戦国時代の衣類は麻や木の繊維で作った非常に
丈夫なものであったために、硬くて手で揉むというのは
困難だったのでしょう。

しかし、江戸時代になると木綿が普及してきたために、
洗濯物を岩において足で踏みつけたりすると
破けてしまうため、手もみ洗いが主流になりました。

この灰汁を使った洗濯は、合成洗剤が普及する
第二次世界大戦後まで普通に行われていたようです。

もっとも明治中期以降になると洗濯板がヨーロッパから
伝来したため、江戸時代の頃の洗濯にくらべると
だいぶ楽にはなっていたでしょう。

また、意外なものとしては、豆腐を作るときに出る
豆腐湯というものも洗剤として使われたようです。

豆腐湯の中には若干の脂分が含まれているため、
汚れを落とす効果があったのだと思います。
当時は、朝早くに豆腐屋に行くと、この豆腐湯が
タダでもらえたそうです。

カマドの灰や豆腐を作ったあとの水を洗濯に使うなど、
まさに江戸は究極のリサイクル社会であったわけです。
・・・





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”あおいくま”はコロッケさんの お母さんの教え

母は女手一つで僕と姉を育ててくれました。
ものすごく貧乏でしたが、
僕ら姉弟は嫌な思いをしたことがないんです。

それは母が貧乏を笑いに変えてくれたからでした。

たとえば、お金が無くて、お米が買えないときには、
”あられ”がご飯茶碗に山盛りいっぱいで
出てきたことがありました。

「今日はあられたい。あられご飯なんて、
なかなか食べられんとよ」
そう言われると、なんだかうれしい(笑)。

裏では、つらいこと、泣いたこと、たくさん
あったと思います。
でも、どんな状況でも、
明るく笑いに変えてくれる母がいたから、
貧乏でも卑屈になることはありませんでした。

そんなプラス思考の母が、
いつも口癖のように言っていた言葉があります。

「あおいくま」

これは「あせるな」「おこるな」「いばるな」
「くさるな」「まけるな」の5つの言葉の
頭文字を並べたものです。

もともとは、「おいあくま(おい、悪魔)」で、
京都のあるお寺に伝わる言葉だそうです。
でも、うちでは、語順を並べ替えて、
可愛く「あおいくま」(笑)。

「人生で大切なことは、この五つたい」
母はそう言って、家の柱に貼っていました。
小さい頃から毎日眺めていたので、
自然と僕の口ぐせにもなっていきました。

ただ、僕がこの言葉を本当に理解できたのは、
人気テレビ番組「ものまね王座決定戦」で
初優勝したときでした。

それまで、来る日も来る日も
頂点を目指して頑張ってきたのに、
収録が終わって楽屋に帰ってきた途端、
なぜだか猛烈な虚しさい襲われたんです。

「優勝したって、何になるんだろう…」
そのときにも、「あおいくま」が浮かびました。
でも、母さん、人に負けずに、頑張ってきて、
これだよ……と、落ち込みました。

でも、待てよ……とそのとき思ったんです。
そうして、「あおいくま」の本当の意味を
理解することになるんです

そうか!

この言葉は、「あの人に負けるな」と人に対しての
言葉だと思っていたけれど、本当は
自分に対する言葉だったんだ!

その瞬間、目の前の景色が、ガラッと変わりました。
ここはゴールじゃない、
まだまだ自分の目指す道のりは遠くて長いんだ、と。

「優勝しても、仕事が急に増えるわけじゃなかでしょう。
本当の勝負はこれからたい」
母に電話で優勝の報告をすると、
間髪をいれず、そう返ってきました。

母は僕の気持ちをお見通しでしたね。

「自分に焦るな、自分に怒るな、自分に威張るな、
自分に腐るな、自分に負けるな」
その言葉を胸に、芸を磨いてきました。

ロボットの五木ひろしさんなど、
他にはない、自分流の芸を生み出せたのは、
母の「あおいくま」があったからだと思います。




B27



歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…








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Bu

隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月25日 (木)

妄想劇場・特別編 (知られざる深層)

V0151111112


昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ

過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


B29911111111111


「子を見れば親が分かる」と言いますが、
M君の場合、それがほんとにあてはまりました。

もうはるか昔、僕が高校生だった頃、M君は
ひとつ年下の後輩でした。
行動が男らしくて、正義感の強いM君は、生徒会長に
立候補。僕は、応援演説をしました。

大学進学で上京するときは、M君と一緒だったし、
しばらくの間は、アパートに同居したような間柄でした。
M君のお父さんは、市役所に勤めていました。
時々、東京に出張してこられた時には、僕も一緒に
夕食をご馳走になったりしました。

M君は一つ年上の僕を、さん付けで呼びます。
お父さんまで、それにならって、僕のことを
さん付けで呼んでくれました。

いつもニコニコと穏やかな笑顔を絶やさず、
悪い盛りの大学生二人を前にして、決して
説教くさいことも、上からモノを言うこともない、
ジェントルマンのお父さんでした。

しかし、ただ穏やかなだけのお父さんではなく、
職場では一家言持ったお役人だったようです。
市民の利益に反することなどは、遠慮会釈なく
上司に噛みつき、よくケンカをしたそうです。
また、組合活動(職員団体の活動)を嫌っていました。

「税金で給金をいただいてる立場たい。
おいは好かん」と言って、同僚などからの勧誘にも
頑として拒絶していました。
小柄で、やせた体格ながら、その後ろ姿には、
堂々たる男の矜持を感じさせるものがありました。

さすがにM君は、お父さんを前にしては言いませんが、
僕には、いつも「親父が好きです。
最も尊敬している人間です」と公言していました。
僕は、心の底から羨ましく思いました。

当時、僕は自分の父のことが嫌いで、尊敬も
出来なかったからです。
親を好きという感覚がよくつかめない感じでした。

それでも、最も近いおとなで、血の繋がってる人を
尊敬できる、そのことが、僕には途方もない世界の
ことのように思えたものです。
そのM君と、先日、数十年ぶりに電話で話しました。

早速、お父さんの話になりました。
残念ながら、M君のお父さんは3年前にお亡くなりに
なったそうです。
人間として、父として、男として、息子に
「尊敬してる」と言わせる人の死に方は、生き方と
同じように、人の胸に迫るものがあります。

お父さんの死に方を聞いて、つい涙がこぼれ
落ちました M君のお母さんは、10年ほど寝たきりで
伏せっていました。
ほとんど口もきけないほどの病状だったそうです。

胃ろうを施され、そのお世話はずっとお父さんが
為さってたそうです。
M君は、お父さんの無理を考え、医療機関に
預けるべく説得しました。

しかし、お父さんは、頑として譲らず、
「おいがする(俺がやる)」とひとこと言って、
あとは黙々とお母さんの世話を続けたそうです。
とにかく仲の良いご夫婦でした。

愛する奥様を最後まで、自分が出来るから
自分がやる、それを貫かれたのでした。

奥様の寝床に直角の位置に座り、ピンと背筋を
伸ばしながら、一回の「食事」に2時間ほどもかけて
お世話を為さったお父さん。
そんなお父さんの姿がありありと目に浮かびました。

しかし、お母さんより先に、お父さんが病で
お亡くなりになったのです。
そして驚くべきことに、10年間伏せっていた
お母さんも、後を追うように、その翌日
旅立たれたのです。

M君は言ってました。
「親父が連れて行ったんだと思います」
僕もそう思いました。

あのお父さんのことだ、残った者の負担を
軽くしてあげたい、そう思われたに違いない。
それに仲の良かった奥さんを独りで寂しくさせたくない、
そんな心残りもあったのでしょう。

ちなみに、お寺の世話や葬式なども、ひとつに
まとめることができ、金銭面ばかりでなく、
来訪客の方々にも面倒を少なくすることができ、
最期まで子供孝行の親父でしたよ、と
M君は述べてました。

生きてる時ばかりでなく、死んだあとも、自分を
後回しにして、人のことを考えたお父さん。
受話器の向こう側とこちら側で、いいおっさん二人が
涙声になってお父さんを偲びました。

僕はあらためて思いました。

男、男と言うヤツに本当の男はいない。
本当の男とは、いつも静かで優しく、
M君のお父さんのように、背中で生き方を
見せてくれる人なんだと。

昨年、数十年ぶりに再会したM君、あれは
虫の知らせだったのだろうか。
ふと降りてくるように9月6日、その日が彼の
誕生日だったことを思い出し、唐突な
サプライズ電話をしたのでした。

ここに登場したM君は、心臓の病で今月、4月中旬
(2016年4月)に亡くなったのです。

お通夜と告別式ともに参席させていただき、
僕は、これまで経験しなかったほどに大泣きしました。

棺桶の中にちんまり納まるM君の頬を撫で、
そうするうちに、腹の底から絞るような大声が
堪らず出てしまったのです。

「M、M、M!!」と、彼の名を呼びました。
じっと気丈に涙をこらえる奥様の前で、大変な
醜態を見せたものです。

それに恥じ入った僕は、式の1週間後、
もうお花も枯れるころだろうと、奥様へお花を
お贈りして詫びました。

「困ったことがあれば、何でも言ってください」
M君の代わりにはなれないけれど、
せめて、相談の相手にはいつでもなって
差し上げたいのが、友人としての僕の本心です。
・・・


            

B7011

            

数年前、お父さんが還暦を迎えた時には、家族4人で
食事に出かけた。
お兄ちゃんが全員分の支払いをしてくれた。
普段着ではなく、全員が少しかしこまっていて
照れくさい気もした。

その時はまだ学生だった私も社会人となった。
今回は、お母さんの還暦だ。
お母さんの還暦のお祝いは、家族で温泉に
旅行に行こうとお兄ちゃんと話し合った。

両親に伝えるととても喜んでくれた。
家族旅行なんて久しぶりのことだった。
私が高校に入ってからは自然と行かなくなっていた。

旅館の部屋は思っていたよりも結構広くて
キレイだった。
食事も豪華で両親共に大満足のようだった。
お母さんと一緒に温泉に入って背中を流してあげた時、
なんだか小さく感じた。
今までたくさん私たちのために、頑張って
くれたのだと思った。

その日の夜、家族4人で並んで眠った。
子供の頃からそんな風に全員が並んで眠ることは
なかった。
私の記憶にある家族旅行では、ホテルで
2部屋に分かれて泊まっていた。
でもなんだか懐かしいような気持ちになった。
家族旅行をプレゼント出来て本当に良かったと思った。

旅行から帰宅して、リビングでお茶を飲んでいると
チャイムが鳴った。
珍しくお父さんが玄関へと向かった。

お父さんの後に玄関へと向かったお母さんが
驚きの声を上げた
お母さんの声に私とお兄ちゃんも玄関へと向かった。
駆け付けた私が目にしたものは、まるで
想像していなかったものだった。

お母さんが大輪の赤いバラの花束を抱えていたのだ。
お父さんは少し照れているようだった。

お兄ちゃんが私にそっと耳打ちした。
「おやじに相談されて僕が手配したんだ。
60本あるんだよ」
こんなサプライズがあったなんてとても驚いた。

バラの花束を持つお母さんは、まるで少女みたいな
笑顔だった。
その笑顔に笑顔を返すお父さんのことが、いつもよりも
かっこよく見えた。
・・・



            

B7581

            

昔から、「日本の女性は、男性から三歩下がって」
ついていくような人が望ましい、などと
言われていました。
今、そんなことを言い出せば、古くさいとか、
封建的とか、場合によっては、セクハラ扱いまで
されかねません。

この「三歩下がってついていく」という女性の
所作が、なぜ望ましいとされてきたかと言うと、
『男を(後ろから)立てる』
『男を(後ろから)支える』
というニュアンスがあるからでしょう。

さらに「しおらしくする」というニュアンスが、
「三歩下がってついていく」のイメージとなっており、
「男は働き、女は家庭を守る」というのが
当たり前だった昔の時代の中での理想像に
ぴったりだったからと言われています。

しかし、この「三歩下がってついていく」という所作、
そのルーツをたどると、全く違う意味が込められて
いました。?

それは決して男尊女卑を意味するものでは
なかったのです
日本女性の「三歩下がってついていく」という言葉には、
男性が女性を「守る」という強い意志が
込められていたのです。

その意味とは、
「何かあったら(俺が守るから)お前だけでも逃げろ」と
いうことだそうです。
つまり、いざ何かあったときは、自分が敵と対峙する間に、
後ろに逃げろという意味だったのです。

昔の武士が太刀を抜く、その邪魔にならない距離を
三歩とみなしていました。
大刀を抜く距離三歩、女性を守れるように、
相手に対峙し、かばうための武士の心得で
あったとのことです。

”三歩下がって”は、女性の控えめな仕草を表わす
言葉ではなく、女性が男性から大切にされているのを
示す言葉だったのです。

愛を感じさせる言葉のルーツです。・・・

Author :@Heaaartバイラルメディア
http://heaaart.com/


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



A111


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「ささやきのタンゴ」





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月24日 (水)

妄想劇場・番外編・「蜜月の逆説」

V0151111115


なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



181011


「Bitter Moon 〜蜜月の逆説〜 

瑤子は、正志にばれないように身の回りの整理を
着々と進めていた。残り少ない命だ。
必要のないものは、どんどん処分していった。
押入れやたんすの中は殆ど空で、必要なものは
スーツケース一つに治まっていた。

その夜は、突然訪れた。
瑤子が風呂から上がると、正志がリビングの
ソファで待っていた。
「ちょっと、そこに座れよ。」
正志の顔は強張っていて、険しかった。

瑤子は、ドキリとした。康之がばらしてしまったのか、
そう感じた。悪事がばれて叱られるのを待つ
子どものように、瑤子は正志の向かいに座った。

ネクタイを緩めただけのシャツ姿で、正志は
重い口を開いた。
「瑤子が風呂に入ってる間に、電話があった。」
「誰から?」「瑤子の元上司の・・・糸井さん。
仕事で必要な書類の場所がわからないからって。」

康之ではなかったのか。
瑤子は少し安堵の息をつき、そして言った。
「そう。じゃあ、電話をかけなおすわ。」
「その前に、一つ、聞きたいんだけど。」
「何?」秘密のある瑤子は、緊張が解けない。

正志の瞳が鋭い光を帯びた。
「糸井さんが、俺に瑤子の体調を訊いてきた。」
「・・・私は、元気よ。」
「いや、糸井さんが教えてくれた。会社の健康診断で
要精検だったことや、貧血で倒れていたことを。」
正志は身を乗り出してきた。

「一体、どうなってるんだ?どうしてそのこと黙ってた?
精密検査の結果はどうだったんだ?」
瑤子は瞳を一度伏せ、覚悟を決めた。
正志との別れの日。それは、今日、この時になるのだ。

「言って、どうなるの?」
「・・・なに?」
「例えば、何か異常があればどうするつもりだったの?
結婚をとりやめにしたかった?」
正志の息遣いが、荒くなった。
「なんだよ、その言い方は?」

「あなたやあなたの家族が欲しかったのは、
あなたの面倒を一生手厚く見られる、どんなに働いても
壊れないような丈夫な嫁だったんだものね。
それが、実は病気持ちだったら詐欺だとでも言いたいの?」
「瑤子・・・!」正志は腰を上げ、向かいにいる
瑤子の肩をつかんだ。

「何でそんな言い方をするんだよ?俺は、精密検査の
結果を聞いてるだけだろうが?」
「どうして、結果が気になるの?」
「当たり前だろ、俺たちは夫婦なんだぜ?」
「夫婦?あなたは私を妻だと思ったことが、一度でもあるの?」
正志の眉が、怪訝に歪む。瑤子は皮肉を瞳に込め、
正志を見上げた。

「あなたは、私のことを家政婦程度にしか
思ってなかったでしょう?」
「・・・なんだって・・?」
「あなたは私を、一生あなたの言いなりになる、便利な
女だとしか思ってなかっただろうって言ってるの!」
「・・・!!」正志の息を呑む音が響く。

瑤子も、大きく息を吸い込んだ。
「答えてよ。結婚前に、私が病気持ちだとわかってたら、
結婚をやめてたんでしょう?だって、あなたが
必要としている妻としての役割を果たせないんだものね。」

「一体何なんだよ、便利な女って!?」
「今更、白々しい!あなたが言ったじゃない!?
あなたの同僚達の前で、私が便利な女だから
結婚するんだ、って!」

「それは・・・!」
「別に言い訳なんかしなくていいわ。最初から不思議に
思ってたのよ。高校時代誰も目もくれなかった私を、
どうして女に不自由しないあなたが選んだのか。
『便利な女』!
これ以上ないくらい説得力のある理由だものね。」

瑤子は、正志の手から離れた。だが、正志の顔を
正視することはできない。正志がどんな表情を
しているのか、見るのが怖い。 
「それで、ずっと機嫌が悪かったのか?」
「・・・便利な女だなんて友人に公言してるのを聞いて、
嬉しい女がどこにいると思うの?」
「まさか、聞いてるとは思わなくて・・・。」

「聞いてようといまいと、あなたの本音には
変りがないじゃないの。」
「冷静に考えてみろよ。ただの便利な女と結婚できる
男なんているわけないだろ?」
「『ただの』って何?じゃあ、『ただの』じゃない私は
何だっていうのよ!?」

次の瞬間、瑤子は正志の圧倒的な力でソファに
押し倒されていた。
息を吐く間もなく、正志に唇をふさがれる。
瑤子は、ありったけの力で正志の顔を突き放し、
言い放った。

「これで女が言いなりになるなんて思っているなら、
思い上がりもいいところだわ!」
「・・・俺が今、どれくらい怒っているかわからないのか。」
「わからないわ。」
「大体、瑤子は俺の質問に答えようともしないじゃないか。」
「あなたに都合のいい回答をしたくないからよ。」
「・・・どういう意味だ?」

「あなたが望むとおりになっているということよ。」
瑤子は、力の抜けた正志の腕の中から抜け出した。
そして、肩越しに振り返った。
「心配しなくていいわ。私はあなたが思うとおり、
便利な女よ。」

自室に戻ると、瑤子は泣きながらベッドに倒れこんだ。
これでよかったのだろうか。
こんな喧嘩別れをすれば、正志の後悔は益々
強まるはずだ。
それこそ、瑤子は最大の復讐をやり遂げたことになるのだ。

(それで、・・・どうなるの?)
正志が瑤子の葬式で泣き崩れるのを、草葉の陰で
ほくそ笑みたいのか。天国へ行けず、未練だらけで
この世を彷徨い続けて後悔するのは、
瑤子の方ではないのか。

本当は正志に看取ってもらいたかった、などという
贅沢な希望を残して三途の川を渡れなくなるのは、
瑤子自身ではないのか。
ただ一つ確かなことは、明日の未明にこの家を
出て行かねばならないということ。

このタイミングを逃したら、出て行く理由がなくなってしまう。
それで次の機会を待っていたら、この家で倒れ、
すべてが明るみにでてしまう。

自分の死を、死ぬその日まで隠しておくことの意義。
それが今は、よくわからなくなってきた。
死ぬ間際まで看病してやりたいと、親は思うものだろうか。
正志は、病気の妻を抱えてどうしたいと願うものなのだろうか。
隠しておくことが、本当に皆のためになるのだろうか。

打ち明けて、死ぬその日まで一緒に思い出を
作ったほうがいいのではないだろうか?
違う。知られたくないのは、全部、瑤子の都合だ。
周りに迷惑をかけたくない、というのは瑤子の
都合のいい言い訳なのだ。

瑤子が、親しい人たちに見られたくないのだ。
自分が衰えていく様を。醜くなっていったり、
下の世話にまでならなくなってしまったり、
よだれを垂れ流すような状態になっていくのを、
絶対に見られたくないのだ。

そんな姿になることも、耐えられないのだ。
それだけだったのだ。
そして、死と向き合いたくなくて、それが怖くて、
その責任をすべて正志に勝手になすりつけていたのだ。
正志に非が無い、とは今でも思わない。
だが、瑤子が負わせようとしているのは、とてつもなく
大きい代償だ。

正志が瑤子の死を、どう思うかはわからない。
喜ぶかもしれない。あっけなく忘れてしまうかもしれない。
しかし。もし、そうではなかったら?
瑤子の思惑通り、死ぬほど後悔して苦しんだとしたら。
その償いを、瑤子はすることはできない。
正志を救うことは、決してできない。

人は時々、こんなことを願う。
”私の命と引き換えにしてもいいから、○○を
叶えて欲しい”と。だが、瑤子は自分の命を
引き換えにして何を得ることができるだろう?

何もないではないか。命という最後の切り札を
もってしても、何も叶うことがないなんて。
(私の命と引き換えに、何かが叶えられるのだとしたら)
それは、今ならはっきりと言える。

それは、正志の幸福な人生。老い先短い両親ではなく、
これからまだ何十年も生きていかねばならない
正志の幸せな人生を、願う。

瑤子が死んだとき少しは悲しんで欲しいし、
後悔もしてほしい。だが、それを引きずって欲しくはない。
瑤子なんかよりずっと素敵で献身的な女性と再婚して、
子どもにも恵まれて、「生まれてきて良かった。」と
思える人生を歩んで欲しい。

決して「便利な女」なだけの女性とは、もう、
結婚して欲しくない。

・・・

つづく

Author :井浦美朗( イウラミオ)
http://mypage.syosetu.com/

性別: 女性; 血液型: AB型;


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…




愛の終止符






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隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月23日 (火)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・


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山口は断じて自分ではないと主張し、警察の
捜査に必死になって協力したが、事件は
大逆転の結末を迎える。 ・・・


▼事件発生

一人の男が東京・築地警察署に駆け込んで来た。
「一家4人が殺されてます!」
男から事情を聞いて、警官が現場へと急行した。
殺害現場は、東京・銀座にある中華料理店「八宝亭」。

店と自宅が一緒になっている建物で、自宅の
1階6畳間に店の主人である岩本一郎(48)、
妻(45)、長男(11)、長女(10)の4人の死体があった。
布団は血に染まり、血しぶきが飛び散っている凄惨な
殺害現場で、警官たちでさえ見るに耐えない
光景となっていた。

凶器はマサカリで、4人とも頭を割られており、
マサカリによる外傷は4人全員で52個所にも
及んでいた。
犯行の推定時刻は午前4時ごろで、現金3万円と
預金通帳3冊(計25万円分)が盗まれていることが
分かった。

そして警察に駆け込んで来た、この第一発見者は
山口常雄(25)という男で、この八宝亭で
2ヶ月くらい前から住み込みで働いている
従業員であった。

山口は普段から2階で寝ており、この日、朝9時ごろ
目を覚まして1階へ行くと、このような状況に
なっていたという。

▼私は絶対に犯人ではありません

この事件では当然疑惑の目は山口に向けられた。
犯罪者が、第一発見者を装(よそお)うことは
よくあることである。
警察署で事情聴取を受けた山口は、
「2階で寝ていたのに、これだけのことが起こって
目を覚まさないのはおかしくないか?」と、
刑事たちに詰め寄られた。

それに対し山口は、「犯人はきっと『太田成子(なりこ)』
です。」と、別の女の名前を出した。
「年のころは25歳くらいで少太りの女です。
この女は昨日の夕方『女中募集の張り紙を見て
来ました。』と言って店を訪れてその場で採用され、
その日は店の1階の3畳の間に泊まっていました。

ですが、夜遅く太田成子の親類だという男が
店に訪ねて来たんですよ。そして朝になったら
その女は訪ねて来た男と一緒にいなくなって
いました。」と答えた。

太田成子はすでに姿を消していた。
通いの中国人のコック・劉も「そんな名前だった」と
証言した。
確かに他の人たちからも、「昨日、店に出入りする
少太りの女を見た。」という証言がいくつかあり、
太田成子という女性がこの店に来ていたことは
間違いないようだ。

現場検証の結果、凶器の薪割は厨房の冷蔵庫に
立てかけてあり、現金2、3万円と永楽信用組合、
千代田銀行の預金通帳がなくなっていた。
22日朝に盗まれた通帳で14万円を引き出そうとした
女がいて、「印鑑が違う」といわれて帰ったものの、
この女こそが山口の言う太田成子だとされた。

警察は山口の証言に基(もと)づいて、この
太田成子という女性の行方を追った。

しかし一方で、まだ山口に対する疑惑は残っていた。
あれだけの犯行が起こっているのに寝ていて
気づかなかったという点も不自然であるが、
犯人は1階の4人全員を殺しているのに、
2階の山口は襲っていない。

太田成子だという少太りの女性は何人かが
見ているが、山口の証言にある『太田成子を
訪ねてきた男』というのは誰も見ていない。

また、普段お世話になっている親しい人が
血だらけで倒れているのに、山口は警察へは
連絡したが、病院へは連絡していない。
助けようとする意思がなかったようにも思える。

これらの不自然な点を次々と突かれ、また、
警察から言われる言葉のあちこちに自分が
疑われていると感じた山口は、声を詰まらせ、

「私は、こうしてお世話になった主人のために
(事情聴取に)協力しているのに、私を
疑っている人がいるとは・・
!もう死んでしまった方がマシだ!」と、
大声で涙を流し、絶対自分は犯人ではないと
訴えた。

「悪かった、山口君。」
刑事の一人が頭を下げた。
そういえば事情聴取をしている際にも、
山口からは犯人らしき態度が何も感じられなかった。
普通であれば心が揺れ動き、それが表情や
態度に出るものだが、山口にはそれが全くない。

「あいつはシロだよ。演技であれだけ泣ける
はずがない。」警察では、誰もが山口は
無実だと信じた。

また、山口を追いかけていた新聞記者たちも
山口と接するにつれ、その人柄から
「あんないい奴が犯人のはずはない。」と、
噂するようになり、警察もマスコミも、
容疑者から山口をはずして白紙の状態から
真犯人を探し始めた。

▼必死に捜査協力する山口

警察にもマスコミにも分かってもらえたという喜びからか
、山口は積極的に捜査に協力するようになった。
捜査本部やマスコミには快(こころよ)く口を開き、
明るく陽気に質問に応じた。

新聞各社には「おたくだけに話しますよ。」と、それぞれ
独自の目撃情報を提供した。
特ダネ欲しさに各社は山口を取り巻き、その名は
度々(たびたび)新聞に掲載され、山口は一躍
有名人となった。

更に朝日新聞には「私の推理」と題する記事を発表し、
事件の全貌(ぜんぼう)や犯人を推理してみせた。

警察が追っている太田成子のモンタージュ写真作成にも
協力的で、山口のおかげで太田成子のモンタージュ
写真も完成した。また、警察から提供された売春婦の
リスト5000人分をくまなくチェックし、太田成子らしき
女性の候補も見つけ出した。

マスコミ各社はこぞって、必死に捜査協力する山口を
応援するかのような報道を行った。その記事は
感動的でさえあった。

▼真犯人逮捕

そして、事件発生から2週間が過ぎたころ、ついに
太田成子が逮捕された。

逮捕されて分かったことだが、彼女の名前は
「太田成子」ではなく、本名は「西野つや子(24)」といった。
「太田成子」とは、山口が適当に作った名前だった。

西野つや子、つまり太田成子は元売春婦であり、
山口の協力で作られたモンタージュ写真に
そっくりであった。

「真犯人、ついに逮捕か」と警察側も色めきたったが、
その西野つや子の取り調べにおける証言に
全員が驚くこととなった。

「あの事件の犯人は山口です。

山口から頼まれて、盗んだ通帳で金を引き出しに
行きましたが、通帳とは違う印鑑を持って行ったために
失敗してしまい、怖くなって逃げてしまいました。
そのまま故郷に帰っていました。」と、
自分も山口の共犯であったことをあっさりと認めた。

あれだけ熱心に捜査に協力していた山口が、
まさか真犯人だったとは。

衝撃の発言を受けてすぐに警察は山口の
元へと向かった。17時過ぎ、山口はちょうど記者たちに
囲まれており、相変わらず事件について語っていたが、
駆けつけた警官たちにその場で逮捕された。

記者の誰もが「山口君が事件解決を一番望んでいる
被害者であり、必死に捜査に協力している好青年」と
思っていた。この現場での逮捕には記者全員が
びっくりした。

連行される際に山口は
「今は大変疲れているので、明日、全てを話します。」と、
素直に犯行を認めた。

だがこの後、留置場に入れられた山口は、
隠し持っていた青酸化合物を飲み、事件について
何も語らないまま留置場の中で自殺し、
事件は唐突(とうとつ)に終りを告げることとなった。

「真犯人は山口であり、山口は留置場内で自殺」と、
新聞で報道され、今度は日本中がびっくり
することとなった。

バレた時点で死のうと青酸化合物を常に持って
いたのだろうか。熱心に捜査に協力する姿に、
山口の死の覚悟に気づいていた者は一人もいなかった。
演技と呼ぶにはあまりにも凄(すご)いものがある。

金目当てだったのか、恨みだったのか、
動機も犯行の手口も、全ては分からないまま、
山口はこの世を去った。

分かったことは、山口には前科があり、
この事件の2年ほど前、横領罪で執行猶予つきの
有罪判決を受けていたということくらいである。

西野つや子に関しては、盗品運搬罪ということで
懲役1年、執行猶予3年、罰金2000円という
判決が下された。・・・


山口常雄 

山口は茨城県川根村の裕福な農家の次男として
生まれた。農業を嫌い、小学校を出てからは
横浜の軍需工場を経て、村の役場に勤めていたが、
配給品の横流しをして、東京高裁で懲役1年半、
執行猶予5年を判決を受けている。

この犯罪で山口が村内で忌み嫌われたかというと
そうではなかった。物資がなく困窮している村人に
品物を流して、罪を1人被ったのだから、むしろ
英雄視された。

「次の村長さんは山口さんだ」という声も
あがるほどだった。  その後、交際していた
女性の家が中華そば店だったので、山口は
料理を勉強するために東京築地の「八宝亭」で
コック見習いとして働き始めた。

田舎から仕送りがあったので「給料はいらない」と
話していたが、主人からは毎月2000円のお小遣いを
もらっていた。金にも困っておらず、
主人夫婦にかわいがられ、2人の子供たちを連れて
遊びに行くなど面倒見の良かった山口が、
なぜ一家を殺害しようと思ったのか誰にも・・・・。

Author :NAVER まとめ・現代事件簿
http://navermatome-official.blog.jp/



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
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「サヨナラ模様」





こうして、こうすりゃ、こうなるものと、 知りつつ、
  こうして、こうなった



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隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月22日 (月)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


4212111111


男性不信になった彼女はずっと男性を避けていましたが、
会社勤めをしているうちに、そんな彼女に熱烈に
アタックしてくる人がいました。

その男性の優しさや「こんな自分でも愛してくれるんだ」
という気持ちから、彼女も彼と交際を始めました。  

そして交際を重ねて二年、ずっと清い交際を続けてきた
彼が彼女をホテルに誘いました。
彼女は「大好きな人とできるのだから怖くない」と
自分に言い聞かせましたが、やはりベッドの上で
パニックを起こしてしまったそうです 

時間がかかるのです。

無理をする必要はないよ
その時、彼は彼女が泣きながら切れ切れに語る
辛かった過去を辛抱強く穏やかに聞き、
最後に泣き伏してしまった彼女に、
「ずっと大変なことを一人で抱えてきたんだね」と
頭を撫でたそうです。

そして彼女の頭を一晩中撫で続けながら、
彼女に語りかけていたそうです。
「これからはずっと俺が守るから。
もう怖い思いはさせないから」  

「焦ることは無いよ、ゆっくりと分かり合おう」
「君はとてもキレイだよ、ちっとも汚れて
なんかいないよ」

「ごめんなさい」と繰り返す彼女に、彼は一晩中
優しく語りかけ  「いつか、君が僕との子供が欲しいと
思う時まで、心で深く分かり合っていこうよ。  
僕が欲しいのは君の体じゃなくて君自身だよ」  と言い、
その後彼女と結婚するまでの5年間、
おでこにキスくらいまでの清い交際を続けました。

そして結婚してからも焦ることなく、ようやく
初夜を迎えることができたのは、結婚後
2年経ってからだったそうです。  

そして、私と弟が生まれました。
弟が二十歳になるのを待って、母が初めて
子供二人に語ってくれた話でした。  

その話を聞いたとき、母の苦しみや父の愛情、
そしてそれに母がどれだけ癒されたのか、
今ここに  自分の生がある事のありがたさを知って、
ボロボロと泣きました。

さらにその後、父とその件について話したことが
あったのですが、
ホテルでの一件の後、父は結婚してから母を
一人にすることのないように自営業を始めるため、
5年間貯金をしたそうです。  

開業資金、結婚資金が貯まって、母にプロポーズを
した時も「一生子供が作れなくてもいい」と
思っていたそうです。

実際、振り返ってみても、父と母はいつも一緒に
いたところしか思い出せません。  

そんな両親も今はこの世にはいません。  

二年前に母がすい臓ガンで、
昨年父が脳卒中でこの世を去りました。
母の命日に位牌を抱いたまま冷たくなっていた
父を見て、弟と二人号泣しました。

「お父さん、本当にお母さんのことが
大好きだったんだね」と大の大人が葬式で
大泣きしたのでした。  

法事まで母を一人にできなくて同じ日に
亡くなったんでしょうか。

私たちを叱る時、精一杯厳しくしようとして、
それでも出来なくて、目に涙を浮かべながら  
一生懸命大きな声を出していた父と、

大きくなって「恥ずかしいよ」と文句を言っても  
私たちの頭を良く撫でてくれた母。  

本当に最高の両親でした。
・・・


            

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私は以前、不思議な体験をしました。
正確に言うと私ではなく、夫が…と言った方が
正しいですが。・・・

私たち夫婦は、数年前に離婚の危機にありました。
と言うのも、互いに仕事をしている共働きの夫婦で、
すれ違いの生活が多くなったせいか、価値観が
ズレていったことが原因でした。

夫もそうですが、私もバリバリの仕事人間だったことで、
うまくはけ口を見つけ出すこともできず、そのような
結果につながったのだと思います。

このままだと、お互いによくないし、夫婦として
「最良の機能」を果たせないまま、人生を終えて
しまうのではないか?
そんな疑問を抱いていた私は頭の片隅で、
「離婚」の文字を浮かべていました。

私は本当に夫が大好きで、愛していましたが、
妻として、家事を完璧にこなせていないことや、
夫へのサポートが不十分なことで、罪悪感と
自分への嫌悪感に苛(さいな)まれ自分を
責めていたのかもしれません。

「このままずるずる引き延ばせば、夫に
迷惑をかけるばかり…」
そして、ついに夫に別れを切り出しました。

「離婚しましょ」。

すると、即座に夫から返された言葉に、私は
言葉を失ってしまったのです。

夫は「その前に…妊娠してるかもしれないよ、お前」
「・・・?」言葉が出ず、あ然とする私。

こんな深刻な話をしているのに、何でそんな
冗談を言うのかしら?と思ったからです。

夫は続けて言いました。

俺、何となく分かっていたんだ…お前が
別れたがっているのをさ。
最近、元気も無いし、楽しそうじゃなかったから…
俺、嫌われたな?って(笑)

もっと支えてあげなければいけないとは思いつつ、
仕事仕事で本当にごめんな。
でも、だからこそよけい不安だったけど、
最近いつもと違う”不思議な感覚 ”があったんだ。
第六感っていうのかな?

何だろうな、夢にも毎日出てくるんだよ。
俺たちの子供が逢いに来るんだ、夢の中へ。
だから、一度、いや明日にでも病院の検査を
受けてみようよ。

そう言われましたが、私は正直なところ、
「そんなわけないでしょ」そう思っていました。
妊娠すれば、男の夫より女の私がすぐに気づくはず。

でも、あまりにも切願されるので、夫がそれで
納得するならばと思い、翌日、仕事前に一人で
産婦人科へ行きました。

すると…妊娠していたのです。
本当に夫が言ったとおり、妊娠していたのです。
ちょうど5週目に入ったところでした。

私は放心状態から、
無意識にその場で泣き崩れてしまいました。
「なんで?なんで?」と言って、ずっと泣いていました。

自分でもあまり記憶がないほど、混乱していたのだと
思います。
同時に、一方的に離婚を切り出した自分の身勝手さと、
そんな私を思ってくれていた夫の温かさ…

そして何より、「彼の子供を授かれたこと」に
最高の幸せを感じたのも事実です。
私が気づかないのに、男である夫が気づいた
わが子の存在。

本当に言葉があるなら、第六感とでも言えば
いいのでしょうか。私にとっては奇跡だと思いました。
もちろん、夫とは離婚などせず、
今も幸せに過ごしています。

その後、私は出産を機会に仕事を辞めましたが、
今は夫の後押しもあり、仕事に復帰できました。

もうすぐ7歳になるわが子は、元気すぎるほどの
男の子です。
夫の言葉と第六感的な何か、・・・
そして何よりこのわが子がいてくれなければ、
私たち夫婦は離れていたでしょう。

夫婦は、元は赤の他人です。
でも、その赤の他人が結ばれて家族になるということは、
まだそこに何か不思議な力やご縁が存在
するのかもしれません。

今、私のお腹には、二人目の命が宿っています。
・・・



B



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面影の夕ンゴ





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月21日 (日)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


4211111111


いり長者はあがり長者にだまされて、
屋敷に住むお母さんと十五歳の息子は毎日の
食べる物にも困るほどの貧乏になっていました。

ある夜、いり長者の息子はあがり長者の屋敷へ、
お米とみそを借りに行きました。
でも、あがり長者は
「貧乏人のくせに、米とみそを食うつもりか? 
ほしけりゃ、庭のもみがらでも持って行け」と、
意地悪を言って戸を閉めてしまいました。

いり長者の息子がその事をお母さんに話すと、
お母さんは芭蕉布(ばしょうふ→沖縄および
奄美諸島の特産で、芭蕉の繊維で織った布)を
差し出して言いました。

「それなら、この芭蕉布を売って、お米とみそを
買っておいで。最後の一枚だけれど、仕方がありません」
息子はうなずいて、町へ売りに出かけました。

ところが途中の道で子どもたちがネズミを
いじめているのを見かけると、息子は思わず
声をかけました。
「この芭蕉布をやるから、ネズミを逃がしておやり」
子どもたちは、芭蕉布とネズミを喜んで交換しました。

息子はネズミをふところに入れて家に帰り、
お母さんに話しました。
「そう。それは、仕方ありませんね」
お母さんは少しだけ残っていたアワで、
おかゆをたきました。

すると、ふところのネズミがすっと屋敷を出て外へ行き、
どこからか財布(さいふ)をくわえてもどって来ました。
「おやまあ、ネズミの恩返しですね」
お母さんと息子は財布をご先祖さまにお供えして、
にっこり笑って眠りました。

その夜、お母さんはこんな夢を見ました。
ネズミがきちんと座って、こう言うのです。
「わたしは息子さんに、命を助けてもらいました。
先ほどの財布は、ご恩返しです。
でもわたしの気持ちは、あれだけではすみません。
あの財布に入っているお金で、まだらの三つある
犬を買って育ててください」

翌朝、お母さんは息子に夢の話をして町へ行き、
まだらの三つある犬を探して買って帰りました。
犬はとても元気がよくて、あまりご飯を
食べさせなくてもすぐに大きくなりました。

そして山へ行って、自分よりも大きなイノシシを
つかまえて来るようになったのです。
親子はそのイノシシを売って、少しだけ
お金持ちになりました。

そんなある日、あがり長者がやって来てたずねました。
「お前たち、ついこの前まで米もみそもない暮らしを
しておったのに、なんで金持ちになったのじゃ?」

お母さんと息子は、これまでの事を話しました。
「なるほど、それならおれにも、その犬を貸してくれ」
欲張りのあがり長者は、むりやり犬を連れて帰りました。

お母さんも息子も、あがり長者がすぐに犬を
返してくれるだろうと思っていました。
でも三日たっても、犬はもどってきません。
二人は心配になってあがり長者の屋敷へ行くと、
あがり長者が言いました。

「あの犬はひどい犬で、死んだブタやらくさったネコの
死体やらを運んできたんじゃ。だから殺して、
こえだめに捨てた」

お母さんと息子はこえだめから犬を抱きあげると、
泣きながら自分の家の庭に埋めました。

それから何日かすると、そこから竹の子が
出て来ました。
「お母さん、見てください」
息子がお母さんを呼びに行くと、竹の子はグングン
天にむかって伸び続けています。

そして竹の子は、なんと天の国の米倉を
突き刺したのです。天の国のお米が、ザザザーッと
雨の様に降ってきました。

「おやまあ、米の雨だわ!」お母さんと息子は、
喜んでその米をひろい集めました。
それから二人はそのお米を売って、ますますお
金持ちになりました。

しばらくして、あがり長者がやって来ました。
のんびり暮らす二人を見て、あがり長者がたずねます。
「犬がいなくなったのに、お前たちはなんでこんな
良い暮らしをしとるんじゃ?」

お母さんと息子は、天から降って来たお米の話をしました。
するとあがり長者は、犬を埋めたところを掘り返して、
「二、三日かりるぞ」と、犬の骨を残らず持って帰りました。

ところが三日たってもあがり長者が犬の骨を
返しに来ないので、二人はあがり長者の屋敷に
出かけて行きました。

するとあがり長者は、今にも飛びかかって来そうな
勢いで怒鳴りました。
「お前たちの言うように、確かに竹の子が出て
天を突き破った。だが突き破ったところは、
天の国の便所じゃ。

おかげで屋敷中に汚い物が降って来て、
えらい目に合ったぞ!だからあんな骨、
浜の大岩のそばで焼いてやったわい!」

お母さんと息子は浜辺の大岩へ走って行き、
焼かれた骨を大事に包んで帰りました。
「どこか美しいところに、まいてやりましょう」

次の日、二人は山へ出かけました。
山の奥へ入っていくと、しげみからいきなり大きな
イノシシが五頭も飛び出して来ました。
息子は骨を焼いた灰をつかむと、
「お前は、元は強くて立派な犬だったぞ。
あのイノシシたちを、やっつけてくれ!」と、
イノシシに灰を投げつけました。

すると灰がイノシシの目に飛び込んで、イノシシの
目をつぶしたのです。
目が見えなくなったイノシシは、お互いに頭を
ぶつけてけんかになりました。
そして一頭のイノシシが死んで、残りの四頭は
どこかへ逃げてしまいました。

「お母さん、イノシシなべを食べて、元気を
出しましょう」
二人がなべをつついていると、あがり長者が
やって来ました。
「お前たちは、犬の骨を灰にしてやったというのに、
なんでイノシシなど食べれるのじゃ?」

お母さんと息子は、山の中での出来事を
話してきかせました。
するとあがり長者は、残った灰を全部
持って帰りました。

翌日、あがり長者は灰を持って、山へ出かけました。
すると草のしげみから、四頭のイノシシが出てきました。
あがり長者は灰をにぎって、四頭のイノシシ
めがけて投げつけました。

「お前は、元は強くて立派な犬じゃったぞ」
でも灰は風に流されて、どこかへ消えてしまいました。
それを見たイノシシたちは、人間の声で言いました。
「こいつが昨日、仲間の目をつぶしてけんかさせた
悪い人間だ! 殺してしまえ!」

「うわあー!」
あがり長者は四頭のイノシシにおそわれて、
二度と帰ってこなかったそうです。
・・・

おしまい


4212111


ある日の事、親方は家の前に大きな看板を出しました。
《三日の間、『のさん→難儀』と言わなければ、
一日につき一両ずつ出す。ただし言えば、鼻を切る》

すると一両につられて、一人の男が親方を訪ねました。
親方に言われた通り昼飯も食べずに山で竹掘りをして、
やっと掘った竹をかついで帰ると親方が、
「もう一本、掘ってこい。昼飯と夕飯は、その後で
一緒に食わせてやる」と、言ったのです。
これを聞いた男が思わず、「のさん」と、
言ってしまったので、男は親方に鼻を切られて
しまいました。

しばらくすると、また一人の男が親方を訪ねてきました。
その男は、一日目は何とか無事に過ごしたのですが、
二日目は夕飯も食べさせてもらえなかったので、思わず、
「のさん」と、言ってしまい、鼻を切られたのです。

またしばらくして、今度は利口そうな男が親方を
訪ねてきました。
「看板を見てやって来た。『のさん』と言わねば一両を
くれるとあるが、そうではなく、わしは親方と勝負がしたい」
「ほう、勝負とは?」
「わしが『のさん』と言えば、鼻ではなく首を切られてもよい。
だが親方が『のさん』と言えば、親方の鼻を切らせてもらう」
それを聞いた親方は、笑いながら、
「いいだろう。わしは大金持ちだ。何不自由なく暮らしておる。
このわしが『のさん』と言うはずがない」と、言いました。

さて、親方はさっそく男に仕事を言いつけましたが、
男は自分で弁当を持って行ったので、腹を空かさずに
仕事を続けました。
二日目に、親方が言いました。
「瓦(かわら)ふきが来るから、その瓦ふきのする通りにしろ」
やがて瓦ふきが来て、古い小屋の屋根瓦をはがすのを見て、
男は母屋(おもや)の屋根瓦をはがし始めました。

そこに親方がやって来て、屋根がメチャクチャに
なっているのを見ると、
「ああっ、こっちのは、はがさんでもええんじゃ。
のさんのことだ」と、言ってしまったのです。

これを聞いた男は、いきなり親方の頭を押さえつけると、
「約束通り、親方の鼻を切らせてもらうぞ!」と、
言いました。親方は、まっ青になりながら、
「まっ、待て、わしが悪かった。財産の半分を
くれてやるから、許してくれ」と、泣いて謝りました。

こうして親方から財産の半分をもらった男は、
先に鼻を切られた二人にも財産を分けてやると、
どこかへ旅立っていきました。

・・・

おしまい


A52


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる

 





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2017年5月20日 (土)

妄想劇場・漢の韓信-(173) 悪意の絆…その後

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・

アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kansin


漢の韓信-(173) 悪意の絆…その後


「お前は淮陰侯に謀反を勧めたとか。
間違いはないか」
皇帝劉邦は、覇者の権威を見せつけるように
蒯通に対して詰問した。
しかし、手枷をはめられた蒯通はそんな劉邦の
偉そうな態度に動揺することもなく、鋭く言い放つ。
「無論!」

劉邦はそんな蒯通の態度に呆れながら、問う。
口の聞き方を理由に蒯通を罰することはしない
劉邦であった。
「では淮陰侯はお前の教えに従い、今回の謀反を
計画したのか」

「違う。しかし淮陰侯が後からわしの教えを思い出し、
計画に及んだことはあるかもしれぬ」あるいは
蒯通は責任を逃れようとしているのかもしれない。
だとすれば劉邦はそれを許すわけにはいかなかった。

「ならば、遅ればせながら淮陰侯は、お前の計画を
実践したわけだな。では、お前は大逆の罪人として
死ぬべきではないか? 
敬愛する淮陰侯が、お前の教えに従った結果として
死んだのだから、教唆したお前も当然
そうあるべきだろう。そう思わないか?」

追及した劉邦であったが、意外にも蒯通の態度は
確信犯的なものであった。
どうやら自分の過去の行為に自信を持っているらしい。
「韓信を敬愛していたと……? なんの、
わしに言わせれば、韓信は馬鹿に過ぎぬ! 
年も若く、それゆえ時流を読み切れなかった
小僧に過ぎぬ! 

あの馬鹿は……さっさとわしの計画を
実行しなかったから、滅んだのだ。そうだろう? 
あの小僧がわしの計画にのっとって行動したら、
陛下はそれを防げたか」・・・

劉邦はこの蒯通の言葉に激怒した。
「不遜なことを言う奴だ。わしに対しても、淮陰侯に
対しても不遜きわまりない。
大釜を用意せよ! こやつを煮殺すのだ!」

気の利く側近によって手早く大釜が用意され、
すぐにそれに火がつけられた。
「何を言う! わしは無実じゃぞ!煮殺すなどと!」
蒯通は反論した。しかし手枷をはめられていた彼は、
両脇を劉邦の臣下たちに抱えられ、いとも簡単に
釜へ放り込まれてしまった。

劉邦はその蒯通の顔に唾を吐きかけるような勢いで、
言い放った。
「ぬけぬけと無責任なことを言う奴め! 
お前は信を悪の道に引き込もうとした。
何が無実だと言うのか!」

しかし蒯通は決して悪びれる態度を見せず、
その様子に劉邦は若干たじろいだ。
もしかしたら目の前の男は本当に狂人
なのかもしれない、と。

「なにを言う、悪の道だと! あの男は常に
正しさを求めていた。
わしはそれを知っていたから、彼が一人の
人間として幸せに暮らせるよう、提言したのだ。
それが結果的に陛下の利益を損じることに
なろうとも……そんなことはわしの
知ったことではない! 

もとより臣下とは主君のためにのみ働くべき
存在であるからだ」
煮られながら必死に抗弁する蒯通の姿に、
劉邦の心は動かされつつあった。
しかし論破されるわけにはいかない。
劉邦は諭すように、蒯通に言い渡した。

「お前が韓信の臣下であると同様に、韓信は
わしの臣下であったのだ」
その言葉には、言外になぜ正しく韓信を
導かなかったのか、という意味が込められていた。
蒯通にとっては失笑の種であったが、
劉邦にとっては、それは間違いなく本心であった。

「その通りだが、当時わしはそれを知っていて、
主君に韓信を選んだのだ。選んだ以上、
わしは自分の主君のためだけに働いた。
飼い犬というものは……飼い主以外の者には
吠えつくものなのだ。当然のことではないか!」

「しかし、お前は見たところ犬ではない。人だ! 
人の頭があるのなら、当然道理というものが
理解できるはずだ! 違うか?」

ここにもこの時代の論理があった。
人は人にのみ忠誠を尽くし、国や制度に
尽くすものではない……
蒯通の主張することはそのことで、劉邦はそれを
否定しようとしているのであった。

そんな生き方は、感情のままに生きるだけの、
犬のようなものだと。

劉邦のその気持ちを理解しようとしない蒯通は、
なおも喚き続ける。
「わしが言っているのは、たとえ話だ。
わしは韓信の飼い犬として、陛下に吠えついた。
しかし……あんたには想像できまい……

飼い主の韓信は、わしを制したのだ! 
『不忠であるからやめろ』などとと言ってな! 
それ以来、わしは吠えることをやめ、身を引いたのだ。

韓信はわしの飼い主ではあったが、それと同時に
陛下の飼い犬であった。彼はわし以上に……
主人に忠実な犬であったよ!」
「…………」

劉邦は言葉を返せなかった。
人に犬のような生き方をさせたのは他ならぬ
自分であるというのに、
それを今になって否定する権利はないことに
気付いたのであった。

「なにも言えまい! 言い返せまい! 
それはそうだろう。韓信もわしも無実なのだからな! 
陛下! あんたは理由もなく韓信を殺した! 
そしてこのわしも殺そうとしているのだ! 

韓信が自ら兵を挙げてまであんたに訴えたのは、
このような行為を許さぬためだということが、
わからんのか!」

「……もういい。それ以上言うな……赦してやる。
どこへなりと行け」
長年にわたって結果が保留されてきた韓信と
蒯通の賭けは、劉邦が韓信の忠義を認めたことで、
韓信の勝ちに終わった。

つづく

Author :紀之沢直樹 (野沢直樹)
http://kinozawanaosi.com
http://mypage.syosetu.com/273441/


愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る




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2017年5月19日 (金)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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『ニュースの深層』


過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・

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「ひすいこたろう」という作家さんがいます。
ご存じの方は多いでしょう。
『3秒でハッピーになる名言セラピー』 …

こたろうさんは、心理学博士の小林正観さんの
講演を聞き、考え方の革命が起きるほどの感銘を
受けました。

その時は奥さんとの離婚を考えていたそうです。

こたろうさんが奥さんと交わしていた会話とは。


こたろうさんの処女作『3秒でハッピーになる
名言セラピー』が上梓された、そのときのことです。
こたろうさんは嬉しくて、真っ先に奥さんに
プレゼントしました。
奥さんの感想はこうでした。

「ねえ、これありがちじゃない?」

喜び勇んで奥さんに捧げた、その一冊に対する奥さんの
反応がこれです。これは衝撃的でした。

まだあります。

この本がベストセラーになり、その続編が出ることに
なりました。その見本を、やはり真っ先に奥さんに
見せたところ、
こうでした。

「ひすいこたろう、終わったな~」
ありえない妻の反応です。

さらにもうひとつ。

インターネット書店のアマゾンで、ひすいさんの本が、
総合部門で一位になったときのことです。
こたろうさんは、胸を張ってパソコンの画面を奥さんに
見せました。

「見て見て。おれ今一位!ジャニーズの写真集を抜いて
一位なんだから」大興奮のこたろうさんでした。

すると奥さんはこう言いました。
「あんたが何位になろうが、家庭じゃ最下位でしょ?」
これがひすいこたろうさんの奥さんです。

そんな奥さんに対して、こたろうさんがどう反応したか。
「ひどすぎる!お前なんかと暮らせないっ!」・・・

きっと小林正観さんの話を聞く以前だったら、
そう言っていたでしょうね、とこたろうさんは述べています。

これらのことは、正観さんの話を聞いた後だったので、
こたろうさんは、こんな切り返しが出来たそうです。

「おまえ、ほんと、コメント面白いよね」って、奥さんと
笑いあえているそうです。

その小林正観さんの講演でのお話とは、
どんな内容だったのでしょうか?

正観さんは講演でこうおっしゃったんです。

「人間はけなされてばかりだと枯れてしまいますが、
誉められてばかりでも天狗になってしまう。
理想的なのは、50%ー50%のとき。そして、
実は人間はどんな人でも、自分への賞賛が50%、
自分への批判が50%になっている」というのです。

僕はこの日、正観さんの講演は初めてだったので、
「あ、この先生、間違っている」って思いました。
というのは、僕はそのころ、広告をつくる
コピーライターとしての 仕事が絶好調で、
褒められることが多く、批判が50%あるとは
とても思えなかったからです。

すると、正観さんはこう続けました。
「この話をすると、それは間違っています、と
必ず言う人がいます」
うん。だって間違ってるもん。僕は思いました。
ところが……。

「そういう人は、逃げられないところに痛烈にあなたを
批判してくれる人がいるはずです。
例えば……奥様とか」
!!!

この瞬間、僕の天地がひっくり返りました。

50%-50%。これは人数のことじゃなく、
総量なんだそうです。
たとえば、自分を賞賛してくれる人が十人いて、
批判者が一人いるとすると、このたった一人の批判者が、
ものすごい批判をしてくれるんだそうです。

で、その一人はたいてい自分が避けて通れない場所に
存在しているのだとか。そう、家庭とか職場です。

ここで僕は気づいたわけです。

僕が仕事で褒められることが多いのは、
妻が強力に僕を批判してくれていたおかげだったんだと。

たった一人で僕のために孤軍奮闘してくれていたのかって。
そう思ったら、
「辛口な妻よ、いつも僕をけなしてくれてありがとう」
僕は思わず妻を抱きしめそうになりました(笑)。

実は、それからほとんどケンカがなくなったんです。
初めての本に妻から「これありがちじゃない?」
と言われたときも、「お前らしいな」と僕は
笑うことができました。

僕が笑えば彼女も笑う
お互いにケンカにならなくなったのです。
・・・



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中東、アラビア半島の東端に「オマーン」という国が
あります。
この国の第6代国王は、日本人女性との恋に陥り、
国王の座を捨てて日本で結婚に踏み切ります。

1935年のことです。その国王はタイム―ルという
名前です。タイム―ル国王は、身分を隠して
世界旅行をしていました。そして日本に立ち寄り、
神戸で運命的な出会いを果たします。

タイム―ル国王、ダンスホールで踊ったのがきっかけで、
その女性に一目惚れしてしまったのです。
その女性の名前は、大山清子といい、当時19歳でした。
年齢差は倍ほど違う二人でした。

熱烈なタイム―ルさんのアタックに、次第に、
清子さんも惹かれていきます。
やがて日々を重ねるうち、二人は強く愛し合うように
なりました。

愛し合う二人は、当然の成り行きとして、結婚を
考えるようになりました。
しかし、当時の環境として国際結婚には大きな
障害があります。

中東の結婚相手というのも大変珍しく、清子さんの
両親は猛反対しました。
ご両親は、もしも結婚したいなら、ということで
ある無理難題をタイム―ルさんにつきつけました。

「娘と結婚したいならば、あなたの母国ではなく、
日本に住んで下さい」
タイム―ルさんは、熟考しました。
無理はありません。自分は、一国の国王の立場です。

国王という絶対的な身分を選ぶか、それとも
外国のうら若い女性を選ぶかの選択です。

結局、タイム―ルさんは国王の座を捨て、清子さんを
選んだのです。
国王の座は、弟のサイード氏に譲りました。
この当時としても、そして現在においても、
とても考えられない人生の選択ではないでしょうか。

タイム―ルさんは、母国オマーンで、国王の座を
譲渡する手続きを済ませ、再び、日本に帰ってきました。

出会ってから1年後の1936年、不可能と思われた
大きな壁を乗り越え、二人は遂に結婚に
たどり着いたのです。

やがて、二人の間に一人娘が誕生します。
節子という名前をつけました。
このときに、タイム―ルさん、この結婚は、
正真正銘の本気だったことが証明されます。

娘の誕生を祝い、国王の座を引き継いだ弟の
サイード氏が来日しました。
そして、清子さんは知らされたのでした
妻の清子さん、それに清子さんのご両親とも、
それまで知らなかったのです。

サイード国王の来日により、初めてタイム―ルさんが
国王だったことを知ったのでした。
裕福な家柄ということだけは感じていたが、まさか
国王という立場だったとは。
その身分を伏せて、清子さんとの結婚を決意した
タイム―ルさん。

権威とか身分で自分を飾るのではなく、
裸の自分で愛する人と結ばれたかったのです。
しかし、二人の幸せな生活は長くは続きませんでした。

清子さんは、結婚3年目、23歳の若さで
病没してしまいます。嘆き悲しんだタイム―ルさんは、
兵庫県東加古川市に清子さんのお墓を建て、
母国オマーンに帰国します。

娘の節子さんを、やがてオマーンに引き取り、
ブサイナという名前を与え妃の身分で遇しました。

その後、1941年、第二次世界大戦が開戦となり、
オマーンは英国との関係があるため、
日本とオマーンとは敵筋の国家になりました。

そのために、タイム―ルさんもブサイナ妃も、
ずっと日本との交流を断たれることになります。
そして、清子さんの死後39年が経ち、
1978年のことです。

ブサイナ妃は、日本を訪れ、お母さんのお墓参りを
することができました。そのときのブサイナ妃
(節子さん)、は、人目をはばからず墓前で
泣き崩れたそうです。
・・・


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



『想い出懷念』







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不思議なものが3つある・・・
あの世と、この世と、男女の仲

人生に不思議な坂が3つある・・・
上り坂、下り坂、真坂(まさか)あり



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人生に、大小の 決断あり
山あり、谷あり、落とし穴
寄り道、道草、回り道
急がば回れの道もある・・・

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2017年5月18日 (木)

妄想劇場・特別編 (知られざるニュース)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ

過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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私は、持ち主を見つけるために、何か手がかりが
ないものかと財布の中身を確認しました。
中には3ドルの紙幣と見るからに古いしわくちゃの手紙。

手紙の唯一の手掛かりは差出人でした。
他の手掛かりを見つけることを期待して、失礼ながら
手紙を開きました。
日付には1928年と書かれていました。
手紙はおよそ60年前(その当時)に書かれていたのです。

それは美しい、女性の筆跡で書かれていました。
左隅に小さな花が印刷された青い便箋。
内容を読んでみるとそれは、母親に禁じられ、
彼に会うことが出来ないことを告げた別れの手紙でした。

それでも、「あなたのことが大好き」と何度も
書かれていました。
差出人は「ハンナ」と署名。
それは美しい手紙でした。情報はただひとつ。
「マイケル」に宛てた手紙だという以外に
ありませんでした。

そして封筒には電話のリストが書かれていました。
番号案内に電話をかけました。

オペレーターに「拾った財布の持ち主を
見つけたいのですが、財布の中にあったリストで
持ち主を見つけることはできますか?」と尋ねると、
彼女は一瞬ためらいましたが、
「そのリストですが、残念ながら私からあなたに、
個人情報を教えることは出来ません…」と述べました。

しかし、彼女は丁寧な応対で「上司と
相談してみます」と答えました。

数分待った後、オペレーターを通じて複数で
話ができるパーティートークならOKということで、
3人の電話がつながりました。

女性に「ハンナ」の名前を尋ねると、
彼女は「ああ!」と驚きました。
「私たちはハンナという名前の娘さんがいた
家族から、この家を買いました。でも、
それは30年前の話です」

「その家族が今住んでいる場所が分かりませんか?」
と尋ねると、「ハンナは何年か前に老人ホームに
母親を預けなければならないと話していました。
もしかしたら、その老人ホームと連絡を取れば、
娘のハンナのことが分かるかもしれません」

彼女は、私に老人ホームの連絡先を
教えてくれました。

連絡をとると、母親は数年前に亡くなったとの
ことでしたが、娘(ハンナ)が住んでるかもしれない
場所の電話番号を知っていました。

その電話番号も老人ホームのものでした。

私は彼らに感謝し、電話を掛けてみると、
「ハンナは以前こちらのホームに住んでいました」
と説明されました。
さらにハンナが移転した先の特別養護老人ホームの
連絡先を教えてもらいました。

電話をかけると男性が、
「はい。ハンナは私たちのところに住んでいます」と
答えました。

時計を見ると、すでに夜の10時でした。
「これから彼女に会いに行くことは可能ですか?」と
尋ねると、「もし会いたいのなら、彼女は部屋で
テレビを観ているかもしれません」

彼に感謝し、老人ホームに車を走らせました。
夜勤看護師と警備員が私を迎えてくれました。
私たちは豪華な建物の3階に上がり、看護師は
ハンナを紹介してくれました。

彼女は優しい笑顔と煌めいた瞳を持つ、素敵な
銀髪の老婦人でした。

私は財布を見つけたことについて説明し、彼女に
手紙を渡しました。
彼女はきれいな小花のついた青色封筒を見た瞬間、
深呼吸をしてこう語りました。

「若い頃、この手紙はマイケルに送った最後の
手紙でした…
彼女は深くため息をつき、はにかみながら
「私はとても彼を愛していたわ」と小さな声で
囁きました。

「私はその時16歳。母は私が恋愛するには
まだ早過ぎると反対したの。
ああ!彼はとてもハンサムだったわ。まるで
ショーン・コネリーみたいだった」

「マイケル・ゴールドスタインは素晴らしい人でした。
もしあなたが彼を見つけてくれるなら、
『私はまだ彼を愛している』と言って」
涙を溜めて「私は彼を思って結婚しませんでした」と
語るのです。

私はハンナに礼を言い、別れを告げました。
帰ろうとエレベーターに乗った時、警備員に
話しかけられました。
「あなたが探していた老婦人に会えましたか?」

「財布の持ち主を見つけるために、ほぼ一日を
過ごしました」と話し、赤いひも付きの茶色の
革財布を取り出しました。

その瞬間、警備員が驚くべきことを口走ったのです

警備員は、私が取り出した財布を見た瞬間、
「ちょっと、ちょっと待ってください!
それはゴールドスタインさんの財布では
ないでしょうか。その財布は、ここの誰もが
知っていると思います。
彼はしょっちゅう財布を失くし、ホールで3回以上
発見してますよ」

「ゴールドスタインさん?」

「彼はこの施設に住む8階の老紳士のひとりです。
その財布は確かにゴールドスタインさんのものです。
彼は散歩の途中で失くした可能性があります」

私は警備員に礼を告げ、すぐに看護師の
オフィスに走りました。

警備員に言われたことを看護師に話すと、
私たちはエレベーターに乗り、ゴールドスタインさんが
まだ起きていることを祈りました。

8階の看護師は、
「彼はまだ部屋で本を読んでいると思います」と
述べました。「彼は夜に本を読むのが好きなんです」

私たちが彼の部屋に行くと、本を読んでいる男性の
姿がありました。
看護師は「財布を落としませんでしたか?」と彼に
尋ねると、背中のポケットに手を入れ、
「ああ!落としたらしい」とゴールドスタイン氏。

「この男性が発見してくれたんですよ」と看護師。
彼に財布を手渡すと、ホッとして微笑みながら
「それは私の財布です。
今日の午後、私のポケットから落ちたのかもしれない。
あなたが親切に届けてくれたお礼をしたい」と。
「いいえ、気持ちだけで十分です」とお断りしました。

「でも、あなたに大事なことをお伝えする
必要があります。失礼ですが、財布の持ち主を
探すために 手紙を拝見させていただきました」

ゴールドスタイン氏の顔に笑みが失せ
「あなたはその手紙を読みましたか?」

「はい、手紙を読んだだけではなく、ハンナさんが
どこにいるか知っています」と答えました。

彼は急に青ざめ「ハンナ?彼女がどこにいるかを
ご存じですか?彼女はどこに?
彼女のことを教えてください!」と必死に懇願します。

「彼女は…あなたが知っていた昔と同じように、
美しい人ですよ」とそっと言いました。
ゴールドスタイン氏は一瞬微笑んで、
「私は明日彼女に会いたい…」

彼は私の腕を掴み、「私はその手紙が届いたとき、
人生の終わりだと思いました。
どれだけ彼女のことを愛していたか分かりますか?
私は今まで結婚をしたことがありません。
それだけ彼女のことを愛してきたのです…」

ゴールドスタイン氏の切実な想いを感じ、
「一緒に来てください」と言いました。

私たちは3階までエレベーターで降りると、
廊下は2つだけライトが点いていました。
ハンナはまだテレビを観ながら、ひとり
座っていました。

看護師はハンナに歩み、戸口で一緒に
待っていたマイケルを指さし、そっと言いました。

「あなたはこの男性を知っていますか?」

ハンナは老眼鏡を整え言葉を発しませんでした。
マイケルはそっと囁いたのです。
「ハンナ。私はマイケルです。覚えていますか?」

彼女は一瞬息を飲み、「信じられない!
マイケル。あなたなのね」・・・

…看護師と私は感動で涙を拭いました。

このストーリーは、ここで終わりませんでした。

それから3週間後、特別養護老人ホームから
私のオフィスに電話がありました。

「マイケルとハンナは結婚します。日曜日の
結婚式に出席することができますか?」

それはお祝いに参加するために、
特別養護老人ホームの人々が衣装を着飾った、
それはそれは美しい結婚式でした。
ハンナはライトベージュのドレスをまとい、
美しい老婦人に見えました。

マイケルはダークブルーのスーツに身を固め、
背の高い最高の紳士に見えました。

76歳の花嫁と79歳の新郎が、
ティーンエイジャーのような、純愛を実らせた
素敵なカップルに施設はふたりの部屋を
与えたそうです。

ひとりの男性が道端に落ちていた財布を拾い、
60年前に送られた手紙に書かれた唯一の
手掛かりは、差出人と電話リストでした。

拾い主の親切な心と探求心に火が付いたのか、
ほぼ1日中駆け回ります。
ストーリーの結末は、なんと、同じ老人ホームの
3階と8階に住んでいた老人同士だったのですね。

財布を拾った男性はSNSに投稿しましたが、
名前は伏せているようです。

昨年9月に海外サイトに掲載され、ツイッターで
シェアされていましたが、年号を見ると1928年で
60年後…今から30年近く前に起こった出来事でした。

・・・


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二十二年前、十一歳だった娘の亜紀子は
三歳で白血病を発病し、人生の大半を闘病生活に
費やした
彼女の最期は、穏やかで安らかなものでした。
しかし私の胸の中に去来したのは、
罪悪感以外の何ものでもありませんでした。

当時私は中学校の国語の教師をしていましたが、
二十二年前といえば日本中の中学が荒れに荒れ、
私の赴任先も例外ではありませんでした。

昼間、学校で生徒指導に奔走し、ヘトヘトになって
帰宅すると、娘が一晩中、薬の副作用で
嘔吐を繰り返す。
あるいは妻から「きょうは亜紀子が苦しそうで
大変だった」と入院先での容態を聞かされる。

「俺はもうクタクタだ。一息つかせてくれ」と心の中で
叫んでいました。そしてある日、妻にこう言ったのです。

「治療はおまえに任せる。俺は学校で一所懸命
仕事をする。経済的に負担をかけないように
するから、任せておけ」
もっともらしく聞こえるでしょう。
しかし本心は「逃げ」でした。

彼女を失い、初めて治療に関して
「見ざる・聞かざる」の態度を取り続けたことへの
罪の意識が重く重く圧し掛かってきました。

なぜ、もっと一緒に病気と闘ってやらなかったのだろう。
俺は罪人だ……。

もういまさら遅いけれども、
彼女の八年の闘病生活と向き合いたい。
その思いから、娘が残した九冊の日記帳に
手を伸ばしたのでした。

「十二月二日(木)

今度の入院からはいろいろなことを学んだ
気がします。今までやったことのない検査も
いろいろありました。
でも、つらかったけど全部そのことを乗りこえて
やってきたこと、やってこれたことに感謝いたします。

これはほんとうに、神様が私にくれた一生なんだな、と
思いました。きっと本当にそうだなと思います。
もし、そうだとしたら、私は幸せだと思います」

「二月十日(木)

早く左手の血管が治りますようにお祈りいたします。
そして日記も長続きして、元気に食よくが出ますように。
また、いつも自分のことしか考えている子に
しないで下さい」

点滴点滴の毎日で左手の血管が潰れ、文字は
乱れていました。
それでも一所懸命書いたこの一文に
十一年間の彼女の人生が象徴されているようで、
私にはとても印象に残りました。

あれは彼女が亡くなる数日前のことでした。

朝、妻に頼みごとをして仕事へ行きましたが、その日は
検査や治療で忙しかったらしく、夕方私が病院に
着いた時、まだ手つかずのまま残っていました。

「きょうは忙しくてできなかった」と妻に言われ、
一瞬ムッとした顔をしましたが、娘はそれを見て、
「ママやってあげて。私のことはいいから」
と言ったのです。

命が尽きるその時まで自分のことだけを
考えている子ではありませんでした。・・・

すべて読み終えた時、私は胸を打たれました。
普通に学校にも通いたかったでしょう。
こんなに苦しい闘病生活を送らなければならない
運命を恨みたくもなったでしょう。

しかし日記には同じ病室の子どもたちを思いやる
言葉や、苦しい治療に耐える強さをくださいという
祈りの言葉、明日への希望の言葉、そんな強く
美しい言葉ばかりが記されているのです。

広い世の中から見れば、一人の少女の
死に過ぎませんが、この日記から得る感動は
親の贔屓目ではなく、誰もが同じ気持ちを
抱くだろうと思いました。
私は彼女へ対する懺悔の気持ちと相まって、
「娘の日記を世に送り出したい」と思い至りました。

そうして教職を辞して出版社を設立、娘が残した
日記をまとめ出版したのです。
各マスメディアが取り上げてくださったおかげで
反響を呼び、映画化もされました。

たくさんの激励のお手紙をいただき、
それを励みに今日まで毎年一冊ずつ彼女が
残した日記を出版し続けることができました。
もちろん、行き詰まりそうになったことは
たくさんあります。

十一年前には映画の製作会社が倒産し、
フィルムが紛失しかけたことがありました。
それをなんとか見つけ出し、財産をはたいて
版権を買い取りました。

映画技師の資格を取り、平成五年からは
自主上映会と同時に講演を行う形で全国を
行脚しています。

人は私のことをただの「親ばか」だと
思うかもしれません。しかしこの二十二年間、
私は娘の日記によって生かされてきました。

読者の方や講演先とのご縁をいただき、さらに
「感動した」
「これからもあっ子ちゃんのことを伝えてください」
という励ましの言葉をいただける。
それがいまの私の支えです。

娘の亜紀子は短くとも最期まで前向きに、
他の人を思いやって生き抜きました。
本当はもっと生きたかったはずですが、
それは叶わなかった。

そんな女の子がいたことを、出版や講演を
通して世に伝えることで、あたかも人間の命が
弄ばれているかのような現代社会に対し、
命の尊さを訴えたいと思っています。

先日、私の講演もついに百回目を迎えましたが、
その会場は偶然にも娘が亡くなるまで通った
小学校でした。遥か後輩にあたる子どもたちが、
「一日一日を大切に生きたい」という感想をくれました。

私の活動は世の一隅を照らすことしかできませんが、
どんなことがあっても続けていかなければならない
という気持ちを新たにしました。
・・・


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



A111


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「哀しみの白い影」





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2017年5月17日 (水)

妄想劇場・番外編・「蜜月の逆説」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



181011

「Bitter Moon 〜蜜月の逆説〜 

ベッドタウンとして名を馳せた街の駅前に、
康之の病院はあった。
7階建ての鉄筋コンクリートの建物の中は、
清潔で明るい。
受付の女性に康之の名刺を見せると
「3番の診察室前でお待ちください。」と案内された。

10時過ぎの病院は老若男女で溢れている。
この病院が繁盛しているというより、この世には
病気が万延しているのだと思えてしまう。
瑤子の番までに、1時間以上はかかった。

やっと診察室に入ると、康之が白衣姿で待っていた。
瑤子の頬が、思わずほころんでしまった。
康之は、訝しげに眉をひそめる。
「・・・何で笑うの?」
「だって、似合わないんだもの。ううん、似合う。
似合いすぎて、おかしい・・のかな?」

「瑤ちゃんは、変わらないね。昔からすごい
笑い上戸で、授業中も止まらなかった。」
「そうだったわね。・・・そんなこともあったわ。」
椅子に座ると、康之は看護師に席を外すよう命じた。
すると、康之の目は医師という職業を負った
厳しい光を宿した。

瑤子はその目を見て、正直に言うしかないだろうと
覚悟した。
「今日来たのはね、康っちゃんに念押しをするため。
病気のこと、誰にも言わないで欲しいの。」

「・・・ご両親にも言ってないの?」
「言えないわ。・・・特に母は父親を癌で亡くしているの。
死ぬまで七転八倒の苦しみだったと言っていた。
思い出すのも辛いって。そんな母に私の看病なんて
させられないし、苦しむ姿なんて見せられない。・・・

病気でじりじりと死ぬのを待つのと、交通事故で
あっという間に死ぬのと、どちらのほうがダメージが
少ないと思う?
私は、事故を選んだの。
ショックは大きいかもしれないけれど、その分、
苦しむ日数は少ないはずよ。

死んだ日に私の死を知れば十分だわ。」
「それまで、君は孤独の中で病と闘うのか?」
「そうよ。」
「両親はともかく、夫である正志はどうするんだ?
置いてけぼりか?ホスピスに入るって言ってたけど、
どう欺いて家を出る気だ?」

「ご心配なく。ちゃんと、計画はたてているの。」
「・・・どうして正志と結婚したんだ?
こうなることがわかっていて、どうして?
君にとって、正志は一体何なんだ?」
瑤子は、悲しげに眉をひそめた。
「それは、言えない。」

「俺は、正志と10年以上の親友だぜ?
事と次第によっちゃ、許さない。」
「許さなければ、どうするの?」
「ばらす。全部、正志にばらして、それで・・・。」
瑤子は、苦笑した。「どうにもならないでしょ。
死んでく人間を脅しても、無駄だわ。」

「理由があるんだろ?瑤ちゃんが考えなしで
動くわけないもんな。一体、どうしたんだよ?・・・
正志には言わないから、話してくれないか。」
「康っちゃんは、優しいね。昔からほんと、
変わらないよね。でも誰にでも優しいのは
トラブルのもとよ。高校の頃から、そうだったでしょ?」

「ちゃんと、学習してるよ。」
「そうでなきゃ困るわ。妻子持ちなんだから、
分をわきまえないとね。」
瑤子は上着を抱えて、立ち上がった。
「じゃあ、帰るわ。」

「診察に来たんじゃないのか?」
「正志に言わないでって、念押しに来ただけ。
さすがに康っちゃんに裸見せる勇気はないな。」
「俺は医者だぜ?」
「わかってる。でも私にとっては、高校生の
康っちゃんのままなのよ。大丈夫、
ちゃんと医者にはかかってるし、薬も飲んでる。
ホスピスの予約もしたし。」

康之の目に、涙が滲んだ。
「信じられないよ。・・・どうして瑤ちゃんが、
こんなに早く・・・?」
瑤子は康之の心を沈ませたくなくて、無理に
笑ってみせた。
「人は、誰でもいつか死ぬのよ。幸い、私は
思い残すことが何もないの。

毎日、いつもこう思って生きてきた。
『次の瞬間に死んでも、悔いはない。』って。」
「それはわかるよ。瑤ちゃんは、いつも前向きで
一生懸命生きてたし、取り組んでた。
でも、正志はどうする?瑤ちゃんを失った正志は、
どうすればいいい?」

「・・・再婚すればいいわ。」
「それは、」
「妻を亡くした男を、周りは皆心配するわ。
同情するし、放っておかないでしょ。」
「正志は、そんなに薄情じゃないよ。」
本当に愛している相手になら、そうでしょうね。
そう言いたかったが、口を噤んだ。
そんなセリフを口にしたら、今まで誰にも言わずに
耐えてきたことが、すべて水の泡になってしまう。
正志への復讐が駄目になってしまう。

瑤子は、康之に背を向けた。
「正志のこと、よろしくね。・・・
それから、今までありがとう。」
「瑤ちゃん!」
もう、振り向くつもりはなかった。
自分がやっていることに、疑問なんか感じてはいけない。
立ち止まってはいけない。ただ一つの目的に
向かって、突き進むしかない。

考え込んだら、もう、生きられない。
立ち止まったら、死への恐怖で奈落に
突き落とされる。
そうだ。瑤子は、自分が何をしたかったのか、
今やっと理解した。

正志への復讐とか、恨みとか、そんなもので
自分を奮い立たせていたのは、死という現実から
逃げていたかったから。
死と向き合いたくなかったから。 
(だって、だからって、どうすればいいというの?
どうすれば、一番良かったというの?

正志に知られたくない。正志に病床に
付き添ってなんか欲しくない。
私が大好きな人たちには、一瞬の悲しみだけで
すんでもらいたい。

それには、死ぬまで何も知らなくていい。
知られたくない。同情なんかされたくない。
悲しむ顔も見たくない。そうよ、そんなもの
絶対見たくない・・・!)
走る体力もない瑤子は、ガードレールに
手をついたまま、うなだれた。

昼間の街は、息苦しい。明るくて、まぶしくて、
息が詰まる。
瑤子は、このまま足元が崩れていくような
感覚に襲われた。蟻地獄のように、
砂が吸い込まれていくようだ。

そんなに、間違っていただろうか。
そんなに、重い罪を犯しただろうか。
何がいけなかったのか。
あそこを歩く着飾ったハイヒールの女より、
そちらを歩くミニスカートの女子高生より、
道向かいのメタボリックなサラリーマンより、
自分は、そんなに駄目な人生を歩んで
きたのだろうか。

いい加減で、自堕落な時間を過ごして
しまっていただろうか。
わからない。もう、何もわからない。
・・・

つづく

Author :井浦美朗( イウラミオ)
http://mypage.syosetu.com/

性別: 女性; 血液型: AB型;


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隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月16日 (火)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・


4211111


江ノ島電鉄(神奈川県藤沢市)は、
「運転士になりたい」という夢を持ちながら
難病で亡くなった少年(当時16歳)に
運転士の辞令を発令した。

少年は亡くなる4日前、運転席に試乗して
ハンドルを握る夢をかなえたが、
毎日新聞神奈川県内版で当時のいきさつを知った
深谷研二社長が「ぜひ夢の続きを」と、
本物と同じ辞令書を少年の父親に手渡した。

「江ノ電の運転士になりたいという
病気の子どもの夢を叶えてもらえないでしょうか?」
ある日、こんな手紙が江ノ電の会社に届きました。

難病と戦う子どもたちの夢を叶えることを支援している
ボランティア団体「メイク・ア・ウィッシュ」からの
手紙でした。

「メイク・ア・ウィッシュ」では、
憧れの野球選手やサッカー選手に会いたいという夢や、
コンサート・ホールで憧れのピアノを弾きたいという夢など、
一見、叶いそうにない夢を、難病の子どもたちに
実現させています。

江ノ電の会社に届いた手紙の子どもとは、
「拡張型心筋症」という先天性の難病で入院していた
16歳の少年、新田明宏君でした。

「江ノ電を運転したい」と新田君が強く思うに
至ったのには、理由があります。

幼い頃から病気のために、運動が思いきって
できない新田君を癒してくれたのが電車でした。
お母さんが「外で遊べない息子のために」と
思って買ってくれた電車のおもちゃが大好きでした。

お父さんもそんな新田君を、休日のたびに
電車に乗せてあげました。
電車の中でも、ゆっくり街中を走る江ノ電が、
特に新田君のお気に入りでした。

中学生の頃になると、新田君の電車への
思いは、ますます強くなります。
ところが、彼が15歳の時に、病状が悪化します。
入院した彼は、大好きな江ノ電にも乗れなく
なってしまいました。

それどころか、彼の病状は、もはや治療する
方法がないという状態に陥りました。
病院の先生は、ベッドの上でも時刻表を
離さない新田君を見て、こう思いました。

「こんなに鉄道が好きで、運転士になりたいと
心から思っている彼の夢を何とか叶えてあげたい」
「メイク・ア・ウィッシュ」のことを知った先生は、
その事務所に連絡をいれました。

そうして、新田君の夢は江ノ電の協力により、
実現することになったのです。

運転の当日、この日は11月にしては、とても
暖かい日でした。
救急車で藤沢駅に到着した新田君が、運転士の
制服に着替え、付き添われながら運転席に座ります。
江ノ電がゆっくりと駅を出発しました。

藤沢駅を離れると、新田君の視界にとても
嬉しい光景が飛び込んできました。
江ノ電を愛してくれる新田君に対し、
この鉄道会社でも、彼に誠意を尽くしたい
という気持ちを表します・・・

各駅で、新田君を驚かせ、喜ばせた光景が
ありました。
ふだんは無人の駅もありましたが、
この日はすべての駅に、駅員が待機していました。

そして、運転席にいる新田君に向かって、
直立不動の敬礼で見送ります。

自分に向かって、憧れの駅員さんたちが
敬礼をしてくれている、どんなにか新田君の
胸に響いたことでしょう。

またスタッフは、喜ぶ新田君の様子をみて、
運転免許を持たない彼だが、運転席に
座るだけではなく、何とか本当に電車を
運転させることはできないだろうか、
強くそう思いました。

スタッフが用意した免許を必要としない
検車区間に電車が進むと、新田君はレバーを握り、
自分の力だけで電車を動かしたのです。

その間、彼は病気だとは思えないような笑顔で、
目を輝かせながら電車を運転していました。

その3日後でした。・・・
夢を叶えた新田明宏君は、遠くに旅立ちました。

その後、この新田君のお話は、
「小さな運転士 最後の夢」というドラマになって、
テレビで放映されました。

江ノ電の本社には、新田君の描いた絵が
飾られています。
自分が江ノ電を運転しているところを描いたものです。

江ノ電をこれほどまでに愛してくれた少年がいたことを、
社員全員が忘れないために掛けられているのです。

『小さな運転士 最後の夢』は、2005年の24時間テレビ28
「愛は地球を救う」〜生きる〜(日本テレビ系)内で
放送されていた日本のスペシャルドラマ。

少年の名前はドラマでは西田朋久となっているが、
これはドラマ上で仮名である。本名は新田 朋宏。




421271111
      

いまでこそ広く知られていますが、
その名は世間から長い間忘れ去られていました。

みすゞの名を初めて知ったのは、
小四の頃から志していた童謡詩人になるべく、
早稲田大学に通っている時のことでした。

ある日、
通学時に読みふけっていた『日本童謡集』の中に、
有名な詩人に紛れて、聞いたことのない
童謡詩人の名前が目に留まりました。

読んだ瞬間、それまで味わったことのない
衝撃を受けたのです。
他の三百数十篇の詩が一瞬にして
頭から消え去るかのようでした。

朝焼け小焼けだ
大漁だ 大羽鰮の
大漁だ。

浜は祭りの ようだけど
海のなかでは 何万の
鰮のとむらい するだろう。

浜の喜びの一方で、目に見えない海の
悲しみがある。
この詩は私の眼差しをいっぺんに変えて
しまったのです。
世の中は常に二つに一つだというメッセージが、
この「大漁」という、わずか十行の詩の中に、
明確に収められていたのです。

この詩人の作品をもっと読みたい。
その日、私は授業にも行かず、古本屋街を
訪ね歩きました。

しかし、どこを探しても一向に見つかりません。
三十篇の詩と出合うことができたのは、
それから四年後のことでした。

他にもみすゞが遺した三冊の手帳があることは
知りながらも、手掛かりはまったくない状態です。
私は頭の片隅に常に金子みすゞを住まわせ、
思いを飛ばし続けました。必ず見つかると信じて。

結局、みすゞ探しの旅は、
初めての出会いから十六年の歳月を要しました。

手帳は、東京に住む弟さんが大切に
保管していたのです。
本当のところ三十篇でも十分だと思っていました。
それだけに喜びもひとしおです。
さらに驚くことに初対面の私に、
手帳を貸してくださると弟さんが言ってくれたのです。

もし、この手帳がなくなれば、金子みすゞは、
完全に消えてしまう。
そう思うと、私は気が気ではありません。

寝る時は常に枕元に置き、外出する時は、
家族に預け、何かあれば必ず手帳だけは
持って逃げなさいと言い含めていました。

その一方で、私はほんの一行すら読むことが
できないでいました。
ページを開こうものなら壊れてしまうほど
手帳が劣化していたのです。
高揚感とは裏腹にもどかしさが募りました。

一週間後、弟さんから一通の手紙が届きました。
私がある賞を取ったことが新聞に掲載され、
それをたまたまご覧になったのです。
      
あなたの作品から、姉ととてもよく似た感性を
持っていることが伝わってきて、安堵しています、
とありました。早速受話器を掴み、
お礼かたがた、事情をお伝えしました。

壊れてもいいからぜひ見てください。
それが答えでした。

まず丁寧にコピーをとってから、
収められてある詩を数えはじめました。

短い創作期間の中で、遺した詩の数は
実に五百十二篇にも及んでいたのです。

その晩、私は一睡もできませんでした。
寝転がって読んでいたつもりが、
いつの間にか正座している自分がそこにいました。

明け方、興奮覚めやらぬ私を突き動かしたのは、
これは自分だけのものにしてはいけない、
との思いでした。

すぐに全集の出版を思い描いた私は、
大手の出版社に次々と掛け合いました。
しかし、売れないものは出せないと、
ほとんど相手にされずじまい。

中には、何篇かを選んでみてはどうか
という話もありました。
しかし、私の思いは微塵も揺らぎませんでした。

一人の人間がその一生をかけて残した作品です。
五百十二篇の中には一篇たりとも
無用なものはないと固く信じていたのです。

自費での出版しか道がないかと思い至った時、
ジュラ出版局という小さな出版社と出合いました。

当時の編集長が「活字にすれば五十年残る」と、
詩に込められた価値をみごとに見抜かれたのです。
これで道が開けました。

それから四半世紀を経て、金子みすゞの詩は
世界十か国に訳されて親しまれるようになりました。

中国四川省で起きた大地震の後、
孤児となった子どもたちの心のケアとして
使われたのはみすゞの詩でした。

前のローマ法王もみすゞの詩にふれ、
涙をこぼされたといいます。
なぜこれほどまでに、みすゞの詩は人の心を
動かすのでしょうか。

みすゞが書く詩には嫌な言葉がひとつもありません。
深い優しさと明るさが特徴です。

一方、実生活はといえば、
特に結婚後は放蕩無頼な夫との生活の中、
常に暗い陰が付きまといました。

最期は親権を楯に一人娘を奪おうとした夫に
抗するため、自らの命を絶って守り抜いたのです。
きっと彼女は言葉の力をよく知っていたのだと
思います。

書き手の最大の読者は自分。となれば
苦しい時ほど、自分が嬉しくなることを
書き綴ろうとしたのです。

子供でも分かる言葉で書かれた詩は、
幼稚園児から百歳まで読め、
さらに人生が深まれば深まるほど
深く読み込むことができるのです。

私は、お経や『聖書』などを書き残した人と
同じように、金子みすゞは生きる上で一番
大切なことを書き残すためにこの世に
存在したのではないかと考えています。

童謡詩人・金子みすゞの詩を発信し続けていくこと、
これが天から与えられた私の大切な
使命だと思っています。



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
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こうして、こうすりゃ、こうなるものと、 知りつつ、
  こうして、こうなった





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2017年5月15日 (月)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない

4216111

      

ある書道の時間のことです。
教壇から見ていると、筆の持ち方がおかしい
女子生徒がいました。
傍に寄って「その持ち方は違うよ」と言おうとした私は
咄嗟にその言葉を呑み込みました。
彼女の右手は義手だったのです。

「大変だろうけど頑張ってね」と自然に言葉を変えた私に
「はい、ありがどうございます」と明るく爽やかな答えを
返してくれました。

彼女は湯島今日子(仮名)といいます。
ハンディがあることを感じさせないくらい
勉強もスポーツも掃除も見事にこなす子でした。
もちろん、書道の腕前もなかなかのものでした。

三年生の時の運動会で、彼女は皆と一緒にダンスに
出場していました。
一㍍ほどの青い布を左右の手に巧みに持ち替えながら、
音楽に合わせて踊る姿に感動を抑えられなかった私は、
彼女に手紙を書きました。

「きょうのダンスは一際見事だった。
校長先生もいたく感動していた。
私たちが知らないところでどんな苦労があったのか、
あの布捌きの秘密を私たちに教えてほしい」という
内容です。

四日後、彼女から便箋十七枚にも及ぶ手紙が届きました。
ダンスの布については義手の親指と人差し指の間に
両面テープを張って持ち替えていたとのことで、
「先生のところまでは届かなかったかもしれませんが、
テープから布が離れる時、ジュッという音がしていました。

その音は私にしか聞こえない寂しい音です」と
書かれてありました。「寂しい音」。
この言葉に私は心の奥に秘めた
人に言えない彼女の苦しみを見た思いがしました。

十七枚の便箋に書かれてあったのはそれだけでは
ありません。
そこには生まれてから今日まで
彼女が生きてきた道が綿々と綴られていました。

彼女が右手を失ったのは三歳の時でした。
家族が目を離した隙に囲炉裏に落ちて手が焼けて
しまったのです。
切断手術をする度に腕が短くなり、最後に肘と肩の
中間の位置くらいから義手を取り付けなくては
ならなくなりました。

彼女は、小学校入学までの三年間、
事故や病気で体が不自由になった子供たちの施設に
預けられることになりました。
「友達と仲良くするんだよ」と言って去った両親の後ろ姿を
ニコニコと笑顔で見送った後、
施設の中で三日間泣き通したといいます。

しかし、それ以降は一度も泣くことなく、仲間とともに
三年間を過ごすのです。
そして、いよいよ施設を出る時、庭の隅にある
大きな銀杏の木にぽっかり空いた洞の中で、
園長先生が彼女を膝に乗せてこのような話をされました。

「今日子ちゃんがここに来てからもう三年になるね。
明日家に帰るけれども、帰って少しすると今度は
小学校に入学する。
でも今日子ちゃんは三年もここに来ていたから
知らないお友達ばかりだと思うの。

そうするとね、同じ年の子供たちが周りに集まってきて、
今日子ちゃんの手は一つしかないの?
なにその手?と不思議がるかもしれない。

だけどその時に怒ったり泣いたり隠れたりしては駄目。
その時は辛いだろうけど笑顔でお手々を
見せてあげてちょうだい。
そして『小さい時に火傷してしまったの。

お父ちゃんは私を抱っこしてねんねする時、
この短い手を丸ちゃん可愛い、丸ちゃん可愛いと
なでてくれるの』と話しなさい。
いい?」

彼女が「はい」と元気な明るい返事をすると、
園長先生は彼女をぎゅっと抱きしめて声をころして
泣きました。
彼女も園長先生の大きな懐に飛び込んで三年ぶりに
声を限りに泣いたそうです。

故郷に帰って小学校に入った彼女を待っていたのは
案の定「その手、気持ち悪い」という子供たちの
反応でした。

しかし、彼女は園長先生との約束どおり、
腕を見せては「これは丸ちゃんという名前なの」と
明るく笑いました。すると皆うつむき、
それから誰もいじめる子はいなくなったといいます。

私が教室で愛語について話した時、
彼女は「酒井先生は愛語という言葉があると
黒板に書いて教えてくれたけど、
園長先生が私にしてくれたお話が
まさに愛語だったのだと思います」と感想を
語ってくれました。

彼女はその後、大学を出て
「辛い思いをしている子供たちのために一生を
捧げたい」と千葉県にある肢体不自由児の
施設に就職。いまでも時々、写真や手紙などを
送ってくれています。



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顔の丸い、笑顔の素晴らしい青年だ。
何か生き生きとしている。

その彼、西村君は幼い頃から、いつもワンテンポ
遅れるので成績もいまいちだった。
仕事に就いても上手でないために叱られてばかりいた。
しかし、一つだけ素晴らしい性質を持っていた。
それは素直さだった。

美容室の採用試験の時、経営トップだった大野さんが
面接し、彼のヤンキーな衣装のひどさにかわいそうになり、
つい一言忠告した。

「君ね。その言葉遣いと、そんな服装では、
あなたをどこの会社も採用してくれないよ。
ウン! スン! と返事をしないでハイに直し、
背広に身を包んできなさい」と言われ、二日後
人から借りた寸足らずの背広で態度も変えて、
再度面接を受けたのである。

その日は大野さんは出張で、オーナーの日向さんが
受け持ったため合格してしまった。
後で知った大野さんは苦虫をかみつぶした顔で
オーナーに迫った。

日向さんは「いろんな人がいたほうがいい。
彼のいかにも借り物と分かる背広姿が私の心を打ったの」。
日向さんの見込み通り、西村君は天使になった。

彼は人から何を言われても美容師という仕事が好きな上、
先輩から「ヘタ、遅い」と言われても、
それを苦にとらず、早く仕事をする工夫や、どうしたら、
例えばクシ洗いもきれいに仕上がるか丁寧に見直した。

そのおかげでささいな作業でも誰よりも速く丁寧で、
きれいにできるようになった。
自分の苦手なカールという仕事などは上手な先輩に譲り、
傍で見学した。

いろいろな先輩の苦情もやわらかく受け止め、
素直に仕事を工夫していったのである。
いまではそれが生き方になり、その会社において
「なくてはならない存在」になってしまったという。

日向さんから「彼なくして会社はまわらない」とまで信頼され、
新人たちの鑑になり、しかも指導者の一人に選ばれ、
尊敬されている。

大野さんも「実にいい顔になった。
私が恥ずかしいくらいです」と言われる。
素直とはなんと素晴らしい性質だろう。
笑顔で周囲を救い始めたのである。
       (略)
私の二十代、三十代の頃、大野さんたちのように、
人のために祈り、人のために人生を尽くそうとしただろうか。
過去を消せる消しゴムがあったなら、
あれこれの汚れを消したい思いで一杯だ。

天使たちは皆笑顔がすばらしく、やさしい目をしている。



4212211

      

ある新聞記者がマザー・テレサにこんな質問をしたそうです。

「あなたがたったいま死にかけている人を助けて
何になるのですか?この人は必ず死ぬのですから、
そんなことをしても世の中は変わらないのでは
ないのですか」と。

マザー・テレサは毅然としてこう答えられました。

「私たちは社会を変えようとしているのではありません。
いま、目の前に飢えている人がいたら、
その人の飢えを満たしてあげる。
ただそれだけでいいのです。

確かに、そのこと自体で世の中は変わらないでしょう。
でも、目の前に渇いている人がいれば、
その渇きを満たすために
私たちはそのいのちに仕えていくのです」
 
彼女は別の場所ではこうも言っています。

「私たちのやっていることは
僅かな一滴を大海に投じているようなものです。
ただ、その一滴なくしてこの大海原はないのです」。

私たちのレインボー・ホームもそうありたいのです。
人は「インドで僅か十人、二十人の親のない子供たちを
助けてどうなるのですか。
世界にはもっとたくさんの孤児がいるのに」と
言うかもしれません。

しかし、目の前で「寂しい」と泣いている子供たちが
いるのです。
それは私たちにとってかけがえのないいのちであり、
自分自身なのです。
そのいのちをそっと抱きしめてあげるだけでよいのです。

ボランティアとは、自発的に無償で他に奉仕することを
意味するのですが、その奥には

「人間は他のいのちに仕えるとき、
自分のいのちが最も輝く」という、生命の法則を
実践で知ることに意味があると言います。

・・・


Author :人間力.com
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2017年5月14日 (日)

妄想劇場・歴史への訪問

V01511111171


昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


42111111

ある日の事、おじさんが黒牛を連れて、吉四六さんの
ところへやって来ました。
「吉四六、実は急用で町へ行く事になった。二、三日で
戻って来るが、その留守(るす)の間、こいつを
預かってくれないか?」
「いいですよ。どうぞ気をつけて、いってらっしゃい」
吉四六さんは、こころよく黒牛を預かりました。

さて、吉四六さんがその黒牛を連れ出して原っぱで
草を食べさせていると、一人のばくろうが通りかかりました。
ばくろうとは、牛や馬を売ったり買ったりする人の事です。
「ほう、なかなかいい黒牛だな。どうだい、わしに
十両(→70万円ほど)で売らんか」
「十両?! 本当に、十両出すのか?」
「ああ、出すとも。こいつは、十両出してもおしくないほどの
黒牛だ」

十両と聞いて、吉四六さんは急にそのお金が
欲しくなりました。
「よし、売った!」こうして吉四六さんは、勝手におじさんの
黒牛を売ってしまったのです。
「それじゃあ、確かに金は渡したよ」

ばくろうが黒牛を引いて行こうとすると、吉四六さんが
あわてて呼び止めました。
「ちょっと待ってくれ! すまんが、その黒牛の毛を
二、三本くれないか」
「うん? まあ、いいが」
吉四六さんは黒牛の毛を、三本ほど抜いて
紙に包みました。

それから二、三日たって、おじさんが戻って来ました。
「吉四六、すまなかったなあ、黒牛を引き取りに来たぞ」
その声を聞くと、吉四六さんは大急ぎで裏口から
飛び出しました。そして石垣(いしがき→石の壁)の穴に
牛の毛を三本突っ込み、片手を穴に差し込むと、
「大変だ、大変だー! 牛が逃げる! だれかー! 
はやく、はやくー!」

「なに、牛が逃げるだと!」おじさんはビックリして、
かけつけて来ました。
ところが吉四六さんが石垣に手を突っ込んでいるだけで、
黒牛の姿はどこにも見あたりません。
吉四六さんは、おじさんの顔を見てわめきました。
「おじさん、早く早く! 黒牛が石垣の中へ逃げ込んだ。
今、尻尾を捕まえている。駄目だ! 
尻尾がはずれるー!」

おじさんがあわててかけ寄ると、吉四六さんは
石垣から手を抜き、「ああ、とうとう逃げられた。
おじさん、かんべんして下さい。これはあの黒牛の
形見(かたみ)です」と、言いながら、黒牛の毛を
三本渡しました。

おじさんが急いで石垣の裏に回ってみましたが、
どこにも黒牛の姿はありません。
おじさんはガッカリして、その場にヘナヘナと
座り込んでしまいました。

・・・

おしまい


4212111

きっちょむさんが時々町へ何かを売りに行く途中の村に、
三太郎という、とてもわんぱく小僧がいました。
この三太郎にだけは、さすがのきっちょむさんの
とんちも効き目がなく、いつもきっちょむさんに
ちょっかいを出してきます。

今日もきっちょむさんが町に行っての帰り道、
この村にさしかかると、三太郎が梅の木の上に
隠れていて、きっちょむさんの頭に梅の実を
ぶつけてきました。

いつもだったら、きっちょむさんが叱りつけ、そして
三太郎が逃げて行くの繰り返しですが、今日の
きっちょむさんはいつもとは違い、梅の実を投げつけた
三太郎を見上げて、にっこり笑うと、
「や、三太郎か、これはどうもありがとう。
おかげで、明日は良いことがあるだろう。
さあ、これお礼だよ」と、財布から三文を取り出して、
梅の木の根元に置いたのです。

すると三太郎は、不思議そうな顔で、木の上から
言いました。
「やい、きっちょむさん!何だって、お金をくれるんだ!
「おや? お前、知らないでやったのか? 
今、お前がぶつけたのは梅の実だろう。だから、
これは、『ウメエ事にぶつかる』という前ぶれで、
とても縁起がいいんだよ。こんな事をされたら、
誰だって喜んで、お金をくれるにちがいないさ」

きっちょむさんがまことしやかに言ったので、
三太郎はすっかり信じてしまいました。

さて、その次の日の事。
きっちょむさんがまた町へ行こうと、この村に
さしかかると、道ばたで三太郎が遊んでいました。
「おい、三太郎」きっちょむさんが声をかけると、
三太郎は、どんどん逃げていきます。
そして、遠くから言いました。
「おい、きっちょむさん! 昨日は、お前のおかげで
ひどい目にあったんだぞ」
「ほう、どうしたんだい?」
「お前が言ったすぐあとで、お侍さんが通りかかったので、
お金をもらおうと、梅の実をぶつけたんだ。
すると、お侍さんが『手打ちにする!』と言って、
怒ったんだよ」

「はっはっはっ。それは大変だったな。
でもそれで、ちっとはこりただろう?」
「ああ、そのお侍さんは、悪者をしばるお役人で、
またこんないたずらをしたら、次は牢屋に入れると
言っていた。だから、もう悪さはよしたよ」

「そうか、それは感心感心。今日はほうびに、
町から菓子を買ってきてやるぞ」
きっちょむさんがこう言うと、三太郎は首を大きく
横に振って、「いらない。いらない。お前から
物をもらうと、また、ひどい目にあうからな」と、
逃げてしまいました。
・・・

おしまい


A52


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる


「ゆきずり 」 





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隙間産業(ニッチ市場

2017年5月13日 (土)

妄想劇場・漢の韓信-(172) 悪意の絆…その後

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・

アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kansin


漢の韓信-(172) 悪意の絆…その後

韓信は目を閉じ、その瞬間を待っている。
蕭何は心を決めなければならなかった。
難しいことはない。彼はたったひと言、
語を発すればよいだけであった。

蕭何がためらったのは実際にはほんの数刻
だけであったが、彼自身にとってそれはとてつもなく
長い時間に感じられた。
「……やれ」 剣を振るう音が聞こえ、やがて体が
床に崩れる音が聞こえた。

蕭何はそれを見ることができなかった。 
人の世は、清濁入り交じって流れる川のようであり、
混沌としている。清流は清流のままでいることは難しく、
その多くは周囲の濁流の影響を受け、
自らも濁流と化すものだ。

韓信は、自分が濁流と化すことを、頑として拒否した。
しかし、結果として清流は流れをせき止められたのである。
また、汚らしい泥のなかに埋もれる宝石が、
その輝きを主張することは難しい。泥の中では
せっかくの宝石もただの石ころと見分けが
つかないものである。

韓信は早くから自分が宝石であることに気付き、
輝こうとした。あるいは石ころに生まれた方が
幸せだったと考えながら。鬱蒼とした林の中で、
わずかな日光を得て可憐に咲く花を見つけることは
困難である。林の中は雑草ばかりで、
深く分け入らないとそれを見つけることはできず、
せっかく見つけても価値がわからないものにとっては、
花も雑草であると思われるものだ。

韓信は種子を飛ばし、雑草の中に自分の仲間を
増やそうとしたが、そのどれもが失敗に終わった。
種子は芽を出した段階で風雨や害虫に晒されることとなり、
ついに生き延びることができなかった。

そして韓信自身も価値のわからない者によって、
他の雑草と同じように踏みつけられ、最後には
枯れ散ったのである。

韓信が死んだのは紀元前一九六年の春であった。
一人の英才が衆愚によって亡き者にされたという事実。
戦乱が終わりに近づき、それによって英雄は
不要とされたという時流。新時代を築きながらも、
自らはその時代に乗り遅れた男の悲しい末路であった。

韓信は死ぬ間際に、そんな社会に生きる人々の
ありかたを「悪意の絆」と称した。
絆を失った者の魂の叫びだったと言えよう。

陳豨は韓信の死後も奮戦し、その後約二年に渡って
戦線を維持し続ける。やはり韓信が見込んだ男だけあって、
秀でた能力を持っていたと言うべきであった。
これに自ら兵を率いて相対していた皇帝劉邦は、
長引く戦局に見切りを付け、一時長安に帰還した。
そして、思いがけず韓信の訃報に接することとなる。

「陛下のご留守中に、淮陰侯韓信を謀反人として
誅しました」
皇帝の帰還を迎えた呂后の言は結果だけを述べており、
なんの感情も込められていない。よって、劉邦はいちいち
事実を確認しなければならなかったが、
ひととおり説明を聞き終えると、嘆息したり、喜んで
みせたりしたという。

「……死んだか……韓信が」
「ええ。死にました」
「簡単に言う。しかも簡単にお前は殺した。
建国の元勲を! 苦楽をともにした好男子を!」
「怒っていらっしゃるのですか」
「いや……そういうわけではない。
わしは……お前に感心しているのだ。

よく決心できたものだと。わしは……いずれ韓信は
除かねばならぬと思っていたのだが、
結局今までそれが出来ずにいた。奴の功績や、
これまでの付き合いのことを考えれば……わしにとって
奴は殺してしまうには惜しい男だったのだ」

「いけないことだったのでしょうか」
劉邦はその言葉を受け、真剣に悩んだようだった。
しかしやがて頭の中を整理すると、言葉を選ぶように、
慎重に語を継いだ。呂后の気に触らないよう、
意識したようだった。

「仮にわしに親類縁者が一切いなかったとしたら、
韓信に跡を継がせてもよかったように思える。
しかし、実際にはそんなことはないのだから、
韓信は滅ぼさねばならなかった。
これでよいのだ……だが、韓信はまだ若い。
わしより先に逝くことになろうとは思っても
みなかっただろうて。……

ところで、奴は死ぬ前になにか言葉を
残さなかったか」
呂后は劉邦の感傷にさほど関心を示さない様子で、
これに答えた。
「なんでも、蒯通という者の言うことに従わなかったのが
残念だ、という内容のことを喚いておりました」
「蒯通だと……?」劉邦の目が吊り上がった。

「……そいつは斉の弁論家だ!」未だ狂人を装い、
斉に潜伏していた蒯通は、勅令によって逮捕された。

・・・

つづく

Author :紀之沢直樹 (野沢直樹)
http://kinozawanaosi.com
http://mypage.syosetu.com/273441/


愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る




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あまり突然だから






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隙間産業(ニッチ市場)


2017年5月12日 (金)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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『ニュースの深層』


過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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医師からの宣告

主人が肝硬変と診断されたのは昭和54年、
結婚して間もなくの頃でした。
「あと10年の命と思ってください」という医師の言葉は、
死の宣告そのものでした。

主人は福岡の菓子会社・明月堂の五男坊で、
営業部長として会社を支えていました。
その面倒見のよさで人々から親しまれ、たくさんの仕事を
こなしていましたが、無理をして命を落としては、
元も子もありません。

私は「まずは身体が大事だから、仕事は二の次にして
細く長く生きようね」と言いました。
しかし主人は「精一杯生きるなら、太く短くて
いいじゃないか」と笑って相手にしないのです。

この言葉を聞いて私も覚悟を決めました。
10年という限られた期間、人の何倍も働いて主人の
生きた証を残したいと思った私は、専業主婦として
歩むのをやめ、会社の事業に積極的に関わって
いきました。

30年前といえば、九州の菓子業界全体が
沈滞ムードを脱しきれずにいた時期です。
暖簾と伝統さえ守っていけばいいという考えが
一般的な業界の意識でした。

明月堂も創業時からの主商品であるカステラで
そこそこの利益を上げていましたが、
このままでは将来どうなるか分からないという思いは
常に心のどこかにありました。

そこで私は主人と一緒に関東・関西の菓子業界を
行脚し、商品を見て回ることにしました。
そして愕然としました。商品にしろ包装紙のデザインにしろ、
九州のそれと比べて大きな開きがあることを
思い知らされたのです。

あるお洒落なパッケージに感動し、うちにも
取り入れられないかとデザイナーの先生にお願いに
行った時のことです。

「いくらデザインがよくても、それだけでは売れませんよ。
それに私は心が動かないと仕事をお受けしない
主義だから」と簡単に断られてしまいました。

相手の心を動かすとはどういうことなのだろうか…。
私たちはそのことを考え続ける中で、一つの結論に
達しました。

それは、いかに商品が立派でも、菓子の作り手が
人間的に未熟であれば、真の魅力は生まれないと
いうことでした。
人づくりの大切さを痛感したのはこの時です。

「博多通りもん」の誕生

以来、菓子屋を訪問する際には、売れ筋の商品ばかり
見るのではなく、オーナーさんに直接会ってその
考え方に触れることにしました。

しかし、同業者が突然訪ねていって、胸襟を
開いてくれることはまずありません。
行くところ行くところ門前払いの扱いでした。

忘れられないのが、神戸のある洋菓子店に
飛び込んだ時のことです。
そのオーナーさんは忙しい中、一時間ほどを割いて
ご自身の生き方や経営観を話してくださったのです。

誰にも相手にされない状態が長く続いていただけに、
人の温かさが身にしみました。
人の心を動かす、人を育てるとはこういうことなのかと
思いました。

いま、私たちの長男がこのオーナーさんのもとで
菓子作りの修業をさせていただいています。
全国行脚を終えた私たちは、社員の人格形成に
力を入れる一方、それまで学んだことを商品開発に
生かせないかと社長や製造部門に提案しました。

そして全社挙げて開発に取り組み、苦心の末に
誕生したのが、「博多通りもん」という商品です。
まったりとしながらも甘さを残さない味が人気を博し、
やがて当社の主力商品となり、いまでは博多を
代表する菓子として定着するまでになっています。

「天の時、地の利、人の和」といいますが、
様々な人の知恵と協力のおかげで
ヒット商品の誕生に結びついたことを思うと、
世の中の不思議を感ぜずにはいられません。

「父を助けてください」

ところで、余命10年といわれていた主人は
その後も元気で働き続け、私も一安心していました。
しかし平成15年、ついに肝不全で倒れてしまいました。
手術で一命は取り留めたものの、容態は悪化し
昏睡に近い状態に陥ったのです。

知人を通して肝臓移植の話を聞いたのは、
そういう時でした。
私の肝臓では適合しないと分かった時、
名乗り出てくれたのは当時21歳の長男でした。

手術には相当の危険と激痛が伴います。
万一の際には、命を捨てる覚悟も必要です。
私ですら尻込みしそうになったこの辛い移植手術を、
長男はまったく躊躇する様子もなく

「僕は大丈夫です。父を助けてください」と
受け入れたのです。この言葉を聞いて、
私は大泣きしました。

手術前、長男はじっと天井を眺めていました。
自分の命を縮めてまでも父親を助けようとする
息子の心に思いを馳せながら、
私は戦場に子どもを送り出すような、
やり場のない気持ちを抑えることができませんでした。

そして幸いにも手術は成功しました。
長男のお腹には、78か所の小さな縫い目ができ、
それを結ぶと、まるで「人」という字のようでした。

長男がお世話になっている神戸の洋菓子店の
オーナーさんが見舞いに来られた時、
手術痕を見ながら
「この人という字に人が寄ってくるよ。

君は生きながらにして仏様を彫ってもらったんだ。
お父さんだけでなく会社と社員と家族を助けた。
この傷は君の勲章だぞ」とおっしゃいました。
この一言で私はどれだけ救われたことでしょう。

お腹の傷を自慢げに見せる息子を見ながら、
私は「この子は私を超えた」と素直に思いました。
と同時に主人の病気と息子の生き方を通して、
私もまた大きく成長させてもらったと感謝の思いで
一杯になったのです。
・・・



Photo

      
宮城県女川町の佐藤水産専務・佐藤充さん。
享年五十五歳。子供の頃から先輩として親しみ、
石巻木鶏クラブの大切な仲間でもありました。


佐藤さんはその時、港のすぐ傍にある会社で
業務に当たっていました。
佐藤水産は東京築地市場をはじめ、全国の主要都市に
出荷を続ける生ウニの老舗で、佐藤さんはその
営業責任者でした。

近年では中国遼寧省の大連から研修生を
受け入れており、三年という期限付きで二十人が
加工や出荷に携わっていました。

震災が起きたこの日も、いつもどおり冷たい水作業に
手をかじかませながら和気藹々と仕事に勤しんで
いたのです。

午後二時四十六分、突然の激しい揺れが襲いました。
驚いた研修生たちはすぐに寄宿舎の傍の
小高い場所に避難しました。

しかし彼女たちには津波に対する十分な
知識がありません。
佐藤さんは怯えながら寄り添う研修生の
姿を発見するや
「もうすぐ津波が来る。早く避難しなさい」と
大声で伝え、高台にある神社まで連れて行きました。

そして、残っている従業員や研修生はいないかと、
自らの危険を省みることなく再び会社に戻ったのです。
すでに津波は目前に迫っていました。
水かさは一秒ごとに増していきます。

佐藤さんは屋上に逃げたものの、
高台にいる研修生の前でついに社屋ごと津波に
呑まれ、そのまま行方が分からなくなりました。

研修生たちはなすすべもなく、泣きながら
見守ることしかできなかったといいます。
大雪の中、帰る場所を失い途方に暮れる
研修生たちを助けたのは、佐藤さんの兄で
社長の仁さんでした。

仁さんは悲嘆に暮れる間もなく、山手に住む
知り合いに助けを求めて研修生の居場所を確保し、
二十人全員を無事中国に帰国させたのです。

「あの時、もし佐藤専務に助けられなかったら、
私たちは全員津波の犠牲になっていた」 
研修生たちがそう涙ながらに語る姿を、
中国のテレビや新聞は一斉に報じました。

報道は国民に大きな反響を呼び、同国の
ポータルサイトには「彼は愛に国境がないことを
教えてくれた」

「彼の殺身成仁精神を中国人は決して忘れない」
という声が殺到しました。

私も佐藤さんをよく知る一人として、彼の
犠牲的精神に心から敬意を表し、縁あって
ともに学び、語り合えたことを誇りに思わずに
はいられません。
・・・


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



『通の雨』







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隙間産業(ニッチ市場)


2017年5月11日 (木)

妄想劇場・特別編 (知られざるニュース)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ

過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・

      

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まだ幼い頃、母の膝の上に乗って、その瞳の中に
小さな自分が映っているのを発見した時の驚きを、
私は大きくなっても忘れることができませんでした。

そして40歳も過ぎてから、その体験を基に
『おかあさんの目』という童話を書きました。
『車のいろは空のいろ』や『ちいちゃんのかげおくり』などの
私の童話作品は、いずれも自分の幼少期や少女時代の
出来事を基に綴ったものです。

皆さんからはよく「童話を通して子供たちに何を
訴えたいのですか」という質問を受けることがありますが、
私が作品を書く目的や喜びは、それとは別のところに
あるような気がします。

若い頃の私は、嫌なことや悲しい出来事を、できるだけ
忘れたり、後ろへ振り捨てたりしながら、とにかく
前に向かって歩いているように考えていました。

けれども40歳を過ぎた頃、ハッと気がつくと、
実は捨てたものなど何一つないことに、
辛いことも悲しいことも、みんな自分の中に
抱え込みながら生きているのだ、ということに
思い至ったのでした。

嫌な記憶を捨ててしまいたい、という気持ちは
確かにあったとしても、それを本当に捨て去ることなど
できないのが、人なのかもしれません。

私たちはちょうど木の年輪のように、赤ちゃん時代、
幼年期、少年少女期、青年期、壮年期といった年代を、
すべて自分の体内に抱え持って生きている。

私はその体の中に入り込んで、ワクワクしたり、
ドキドキしたりした記憶を蘇らせて物語を紡いでいく。
ですから私は本を書き上げる時に、必ず自分の
作品の中から、何かしらの「発見」をもらうのです。

また、その内奥を深く辿っていくと、私たちの思念は
意外なほど年輪の中央の部分、つまり幼年期の
感覚に指示されているように思います。

私は1931年に旧満州で生まれ育ちましたが、
目を閉じた時に浮かんでくるのは不思議と、
母と里帰りをした時の宮崎県の風景です。

母は私が19歳の時に胃がんで永眠しましたが、
私は母がどんなことを考えて生きていた人だったかを、
不思議なくらいによく認識していました。

その理由について、ほんの数年前に気がついたのですが、
母はスクラップブックを作って、そこに新聞や雑誌記事の
切り抜きや自分の好きな言葉、美しい風景写真などを
たくさん貼っていたのです。

一人っ子で、しかも病弱だった私は、その本を飽かずに眺め、
それによって母の生き方や考え方を、
知らず知らずのうちに学んでいったのだと思います。

母自身は意識していたかどうかは分かりませんが、
私はそれを通して一つのメッセージを
もらっていたように感じるのです。

母は私たち家族にとって扇の要のような存在でしたから、
母が亡くなってしまった時には、自分自身でも
どうしてよいか分からないくらいに、来る日も来る日も
泣き続けました。

そうしてたくさん泣いた後で、私はこう考えることによって
立ち上がることができたのです。
「私の中に母はいる。死んだ人は、生きている人の
体の中にいるんだ――」と。

母が亡くなったのは十二月ののことでしたが、
次の年の春に、私はやっと春風に吹かれるような
思いがしました。

その後、結婚して子供を胎内に宿した時、あぁ、
母はこんな思いだったんだな、こんなに大変な
思いをしたんだな、という感慨がこみ上げてきて、
まるで母と一緒に生きているような錯覚を覚えました。

母が永眠する前の日の晩に「私はあなたの子の
お守りをして、いっぱいかわいがりたいわ」と
話していたため、余計にそんな気がしたのかも
しれません。

赤ちゃんが生まれると、私は今度、赤ちゃんの
立場になって、母親になった自分と接することも
できました。
つまり、子供を育てながら、自分の中に母の姿を見、
我が子の中に幼い日の自分の姿を見ることができる。

そうすると、私は一人で「3重の生」を
生きることができるのです。

子育ては大変だという皆さんの声をよく耳にしますが、
見方を変えれば、非常に豊かな経験のできる
時代であるといえるのではないでしょうか。

私は子育てをしながら、お母さん、あの時は
こんなだったのね、こんな思いだったのね、と、
いつも母と対話をしながら過ごしていました。

母の人生を自分自身に重ねるように過ごして
いたからでしょうか、母の享年である43歳の年齢に
近づいていくにつれ、私は非常に苦しい
思いになりました。

しかしその感覚が、43歳になった時にぷつっと消えて
なくなったのです。おかしな言い方かもしれませんが、
そこからの私の人生は、余生のように感じたことも
ありました。

現代は簡単に人や自分の命を殺めてしまう時代ですが、
人が一人死ぬということは、その人の中にある
たくさんの命もまた、同時に死んでしまうということです。

あなたの命は、あなた一人のものじゃない。
だからもっと自分の命を大事にしてほしい。

そんな願いが、本を読む子供たちとも
響き合ってくれればいいなと思いながら、
大切な記憶の一つひとつを言葉にしていっている
毎日です。
・・・


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愛媛県西条市に「のらねこ学かん」という
知的障碍者のための通所施設があります。
ここを自費で運営し、ハンディのある人たちの
人生の花を開かせている塩見志満子さん。

学かんの立ち上げの一つのきっかけとなったのは
私が38歳の時に、小学2年生の長男を白血病で
失ったことです。

白血病というのは大変な痛みが伴うんですよ。
「痛い、痛い」と叫ぶと脊髄から髄液を抜く。
そうすると痛みが少し和らぐ。
それを繰り返すわけですよ。

ある時、長男はあまりの痛さに耐えかねて、
そんなこと言う子じゃないんですが
「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」と大声で叫んだんです。
主治医の先生は30代のとても立派な方で
「ごめんよ、ボク、ごめんよ」と手を震わせておられた。

長男はその2か月半後に亡くなりました。
49日が済んだ後、主人と2人、
お世話をかけたその主治医の先生に
御礼を言うために病院に行きました。

ところが、いらっしゃらないんです。
聞いてみたら、長男が死んだ後、
「僕は小児がんの研究をするためにアメリカに渡る」と
すぐにその病院を辞められたと。
私たちは「ボロ医者」という長男の一言が、
この先生をいたく傷つけたかもしれないと思うと
申し訳なさでいっぱいでした。

後で知ったのには、その先生は10年間
アメリカで小児がんの研究をした後、
小児がんの権威となり
日本の国立小児病院に帰ってこられたそうです。
いま思い出しても本当に素敵な先生でしたね。

長男が小学2年生で亡くなりましたので、
4人兄弟姉妹の末っ子の二男が3年生になった時、
私たちは
「ああこの子は大丈夫じゃ。お兄ちゃんのように
死んだりはしない」と喜んでいたんです。

ところが、その二男も
その年の夏にプールの時間に
沈んで亡くなってしまった。
長男が亡くなって8年後の同じ7月でした。

近くの高校に勤めていた私のもとに
「はよう来てください」と連絡があって、
タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。

子供たちが集まってきて
「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。

「どうしたんや」と聞いたら10分の休み時間に
誰かに背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、
沈んでしまったと話してくれました。

母親は馬鹿ですね。

「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、
学校も友達も絶対に許さんぞ」
という怒りが込み上げてくるんです。

新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、
同じく高校の教師だった主人が大泣きしながら
駆けつけてきました。

そして、私を裏の倉庫に連れていって、
こう話したんです。

「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。
犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、
過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、
という罪を背負って生きてかないかん。

わしらは死んだ子を忘れることができん、
でも、わしら2人が我慢しようや。

うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、
校医の先生に心臓麻痺で死んだという
診断書さえ書いてもろうたら、
学校も友達も許してやれるやないか。
そうしようや。そうしようや」

私はビックリしてしもうて、
この人は何を言うんやろかと。

だけど、主人が何度も強くそう言うものだから、
仕方がないと思いました。
それで許したんです。友達も学校も……。

こんな時、男性は強いと思いましたね。
でも、いま考えたらお父さんの言うとおりでした。
争うてお金をもろうたり、裁判して勝ってそれが
何になる……。

許してあげてよかったなぁと思うのは、
命日の7月2日に墓前に花がない年が
1年もないんです。

30年も前の話なのに、毎年友達が
花を手向けてタワシで墓を磨いてくれている。

もし、私があの時学校を訴えていたら、
お金はもらえても
こんな優しい人を育てることはできなかった。

そういう人が生活する町にはできなかった。
心からそう思います。
・・・


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「時間の花びら」





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2017年5月10日 (水)

妄想劇場・番外編・「蜜月の逆説」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



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「Bitter Moon 〜蜜月の逆説〜 

次の朝、正志は6時に起床していた。
目覚めてから起き上がるまでに時間を要する様に
なった瑤子は、廊下の物音で「早くしなければ。」と
無理に身体を奮い立たせた。
パジャマのままでリビングをうろつく行為を嫌う
正志のために、何とかシャツとスラックスを身につける。

お湯を沸かす正志は、もうネクタイを締めていた。
後から来た瑤子を一瞥すると、「本当に主婦っていうのは、
いい身分だよな。」とぼやいた。
その嫌味に胸の痛みを感じながらも、すぐ冷蔵庫の中を
覗きながら言った。

「喘息の発作は、大丈夫なの?」
「あんまり。だけど、休めないからな。」
こういう場面だと、ドラマやCMでは妻が夫に
「今日くらい休めないの?」と訊ねる。
瑤子はそういうシーンをテレビで見ながら、
絶対そのセリフは言うまい、と思っていた。

休めるくらいなら、ちゃんと休むだろう。
仕事をしていれば、毎日その日に片付けるべき
ノルマがあって、それを自分がやるしかなく、
自分がやらねば他人に迷惑をかけてしまう。

それが許されるか許されないか考え、
出社せねばと思うから病気をおしてでも立ち上がるのだ。
「休めないの?」なんて言葉は、思いやりではなく
呑気な主婦のセリフとしか思えない。
ずっとそう思ってきたから、正志を送り出す。

瑤子は軽く咳をしながら、朝食を作り始めた。
正志は紅茶を入れながら、「風邪か?」と訊いてきた。
「ううん、違う。」
「なら、いいけど。この上風邪うつされたらかなわないからな。」
「・・・気をつける。」
瑤子は、唇を噛み締めた。正志が心配なのは、あくまで
正志自身のことなのだと思うと、悔しい。
思わず、言ってしまいたくなる。
”私はあなたと違って、死がせまっているほどの
重病なのよ”・・・と。
そのセリフをグッと呑み込むのは、後の報復を
大きくするため。そう決意しながら、包丁を握って
野菜を刻む。

ある夜、正志は思いがけない客を連れて帰ってきた。
高校時代のクラスメイトで、正志の親友の康之だ。
「やあ、瑤ちゃん。ごめんね、突然。」
昔のままの人懐っこい笑顔。とりたててハンサムでは
ないのに、すごくもてていたことを覚えている。
でも、プレイボーイではない。

一時期、瑤子の友人の彼氏だった時期もあり、
正志よりもずっと近い位置にいた男子だった。
康之は医師。父親の経営する病院に勤めている。
3年前に、大学時代の同級生と結婚した。
3人で食卓を囲みながら、康之はちょっと
苦笑いをして言った。

「なんか、全然新婚の臭いがしないな。」
正志は、小さく笑った。
「なんだよ、それ。」
箸の先を振りながら、康之はつまらなそうな声をあげる。
「だって、結婚式からまだ1ヶ月経ってないんだぜ?
なのに、全然ラブラブじゃないじゃん。」

「俺も瑤子も冷めてる性格だし、イチャつくの嫌いだし、
わかるだろ?」
「うー・・・ん、そうじゃないんだよな。どっちかっていうと、
夫婦に見えない。他人の男女がたまたま一緒にいます、
みたいな雰囲気しか感じられない・・・。」

康之は、鋭い。10年以上のつきあいは、伊達ではない。
「おい、正志。お前、ちゃんと瑤ちゃんのこと
大切にしてんだろうな。」
グラスを持った正志の表情は、うかがい知ることができない。
康之は、瑤子に言った。
「瑤ちゃん、正志に苛められたら、いつでも家に
避難しておいで。妻と子どもと、歓迎するからね。」

康之の言い方が可笑しくて、瑤子は小さく笑った。
康之は、正志の手からグラスを取り上げ、
強い口調で言った。
「正志。瑤ちゃんは、辛いとか、悲しいとか、嫌とか、
駄目とか言わない性格なんだから、ちゃんとお前が
察してやんないと駄目なんだぞ。わかってんのか?」

「・・・わかってるよ。」
睫毛を伏せた正志の唇の端は、微笑んでいるようにも、
嘲笑しているようにも見えた。
その時、正志の携帯が鳴り、正志は席を立って部屋を
出て行った。

すると康之は、瑤子に一枚の名刺を差し出した。
そこには、康之の一族が経営する病院名と
住所が書いてあった。
「近いうちに、おいで。」
「え・・?」
「今、どっかの病院に通ってんのかもしれないけど、
一度、俺に診せて。」

瑤子は、ドキリとしながらも、首を振った。
「私、別に・・・。」
「俺の思い過ごしなら、それでいいんだ。
でも、放っておいたら後悔しそうだから。」
瑤子は、思わず康之の腕をつかんだ。
「何も言わないでよ?正志には何も言わないで。
絶対、絶対に、何も言わないで・・!」

康之は驚いたように目を見開き、顔色を変えた。
それを見た瑤子は、逆にハッとして口を噤んだ。
これでは、正志に隠し事があることを暴露したと同じだ。
そこへ正志が戻り、康之も瑤子も何事も
なかったように表情をもとに戻した。

その後、康之と正志は談笑し始め、瑤子は
食器を片付けたり、二人のために飲み物を用意した。
正志が酒を飲まないため、康之もそれに付き合って
専らコーヒーやお茶を飲み続けている。
時間が経っても二人の話は尽きないらしく、
正志は瑤子に「康之の寝場所を用意して
くれないか。」と声をかけた。

お客様用の布団ね?どこに敷けばいいの?」
すると、康之は素早く立ち上がった。
「あ、場所さえ教えてくれれば俺、自分でやるよ。」
「大丈夫だよ、俺の部屋の押入れに入ってるんだし。」

「じゃあ、手伝う。ただでさえ新婚夫婦の新居に
泊まるなんて図々しいのに、新妻にその準備を
させるなんてもっと図々しいからな。」

康之は半ば無理やりといった感じで、
瑤子についてきた。
正志の性格どおり、部屋は綺麗に片付いている。
押入れの中も整頓されていて、客用の布団は
すぐわかるところに仕舞ってあった。

瑤子が手を伸ばそうとすると、康之がそれを制した。
「俺、やるから。おとなしくしてて。」
「・・・でも、」
「身体、だるいだろ?重いものなんか、
持たせられないよ。」
瑤子は、康之には隠しておけないのだと覚悟した。
康之は医者だ。瑤子と同じような症状の患者を
何十人と見ているだろう。

坦々と寝床の準備をする康之に、瑤子は言った。
「お願いだから、正志には何も言わないでね。」
「あいつ、君が具合悪いの全然気付かないんだな。」
「気付かれないようにしているの。
・・・気付かれたくないのよ。」
「どうして?」

「知ってどうするの?私、彼に看病なんか
されたくないわよ。」
「夫婦だろ?・・・大体、結婚式前から具合
悪かったんじゃないのか?」

「でも、結婚したのよ。本当のこと言おうと思ったわ。
でも、結局言えなくて。」
「隠しとおせるもんじゃないぞ。ましてや、一緒に
暮らしてるんだから。」
「わかってる。ちゃんと先のことは考えているわ。」

「医者は、何て言ってるんだ?」
「もう、半年ないって。」
「・・・そんな・・・!」
「手術しても、手遅れだろうって言われたわ。
痛いのを我慢するのが得意だったのが、
災いしたわ。」・・・

康之は、瑤子の腕をつかんだ。
「すぐ入院しろよ。いつ倒れるかわからないし、
少しでも延命できると思う。」
「医者は、みんな同じ事を言うのね。
私は、延命なんて望んでいないわ。」

「なんで?正志と一日でも長く一緒にいたくないのか?」
「ベッドの上で、醜くなった姿で長生きしてどうするの?
今日死ぬか、明日死ぬかなんてことを常に考えさせる
時間を一日でも長くしてどうするの?
そんなの、はた迷惑なだけよ。」

康之は、厳しい目で瑤子を睨んだ。
「聞き捨てならないことを言うんだな。
それは、病気と一生懸命闘っている人たちに対する
侮辱だぞ。」

「そうかもしれない。でも私の考えは変わらないわ。
どうせ直らないのに、どうせ死ぬのに、
高い医療費を払わせて、看病の苦労をさせて、
気持ちの苦労をさせて、何にもいいことがないじゃない?
無駄なことだわ。」

「どうして去っていく人間は、自分のことしか考えないんだ?
残される家族の身になってみろよ。
一日でも長生きさせたいって思うから、金も払うし、
看病もするんだ。」

「でも多くの人は疲れて、一度は思うはずよ。
”早く死んでくれたほうが楽だ”って。」
パン・・・ッ
康之の手が、思わず瑤子の頬を打っていた。

康之の後悔の息遣いの中で瑤子はよろめき、
だが、しっかり立ったまま康之を見上げた。
「私は、自尊心の塊なの。・・・それは、正志も一緒なの。
だから、正志はきっと私の行動を理解してくれると思う。」

「・・・悲しすぎるよ、そんなの。」
「ありがとう、康やっちゃん。やさしいとこ全然変わらないね。
だから、私の最期のお願いよ。正志には何も言わないで。
私が死んでも、今話したこと、言わないで。」

「・・・自信ないよ。」
「医者の守秘義務だと思って。・・・お願い。」
康之と瑤子がリビングに戻ると、正志は一人、
テレビでニュースを見ていた。

「布団の場所、すぐわかっただろう?」
「うん。あとは康っちゃんが敷いてくれた。
上手いのよ?すごく手馴れてた。」
「なんだよ、康之。家で毎日やらされてるのか?」
「当たり前だろ。俺は妻に箸より重いものは
持たせないんだ。」
「そんなわけにいかないだろ。」

正志も康之も笑って話を続けたため、瑤子は
そっと自室に戻った。
誰にも言えなかった秘密を康之に打ち明けたことで、
少し心が軽くなった気がする。
だが、秘密を口にした後に襲ってくるのは、
秘密が他所にばれないかという不安だ。
だが、信じるしかない。

優しすぎる康之が、どういう選択をするのか。
瑤子は、壁にかかったカレンダーを眺めた。
そこには、二つの丸がつけられていた。
一つは、ホスピスへの入所日。
そしてもう一つは、正志と訣別する日だった。

・・・

つづく

Author :井浦美朗( イウラミオ)
http://mypage.syosetu.com/

性別: 女性; 血液型: AB型;


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…




港のカラス





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月 9日 (火)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・


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植松さんは、作業着姿でニコニコと照れながら
ステージの中央に立っただけで、会場から笑顔が
こぼれます。この一見どこにでもいそうなおじさん、
実は現在宇宙開発に携わっています。

「どーせ無理が口癖の教師による虐待」

僕は、小学校に上がってすぐに担任の先生に
ものすごい嫌われたんです。
僕が信じていたことや、ばあちゃんが教えてくれたことは、
全部否定されました。

僕の夢は「お前なんかにできるわけがない」って、
さんざん言われました。
じいちゃんが撫でてくれた頭は、先生にさんざん
殴られました。
とっても辛かったです。

でも、助けてくれる大人はいなかったです。
僕はその先生が言っていた言葉を忘れて
いませんでした。
その先生は「どーせ無理」という言葉を
よく使っていたんです。

この「どーせ無理」という言葉は、おそろしい
言葉なんだと思いました。
これは人間の自信と可能性を奪ってしまう
最悪の言葉です。

でもとっても簡単な言葉なんです。

これを唱えるだけで何もしなくて済んでしまうから、
とっても楽チンになれる恐ろしい言葉でもあるんです。

こんな言葉で未来を諦めさせられてしまった人たちは、
自信を失ってしまうんです。
でも人間は生きてくためには、どうしても自信が
必要なんです。

だから自信を無くしてしまった人の中には、
お金で自信を買うようになって、身を飾るようになったり、
またそれを自慢しなければならなくなったり、
そのために、人を見下さなければいけなくなって
しまったり。・・・

また他の人が頑張ったら困るから、努力を
邪魔するようになってしまう人もいるんです。
こういう人が皆さんの身の回りにも、もしかしたら
いるかもしれません。

でもその人たちは自信を無くしてしまった
かわいそうな人たちなんです。

その人たちが自分の自信を守りたくってしょうがなく、
他の人の自信を奪ってしまっているのかもしれません。

僕の会社にアフリカの人たちが来てくれました。
彼らが僕の話を聞いてくれた後で教えてくれました。

今、アフリカでは「自分なんて勉強したってムダだ、
努力したってムダだ」って自分の未来や可能性を
諦めてしまった人たちが、最後には人を殺して
奪うようになるんだそうです。

なぜならば頑張れないから、生み出せないから、
奪うしかないんです。
暴力でも奪うこともできます。

でも他にも、噓をついたり、弱いふりをしたり、
だましたりして奪うこともできるんです。
でもみんなが奪ってしまったら、社会なんか
成立しないんです。

植松さんはこの「どーせ無理」という言葉の
恐ろしさを知ると同時に、だったらこの
「どーせ無理」がこの世から無くなれば、
いじめや暴力、はたまた戦争もなくなるかも
しれないと考えているのです。

《「諦める」ことを覚えてしまった大人たちへ》

教育というものは、死に至らない失敗を
安全に経験させるためのものだったんです。
でもそれがすっかりおかしくなってしまったんです。

なぜかというと、失敗をマイナスだと思っている
大人がたくさんいたからなんです。
その人たちがみんなの可能性と自信を
奪ってきたのです。

でもこれからの日本を、世界をよくしていくためには
「どーせ無理」に負けない人が増えればいいんです。

じゃあその人たちはいったいどこにいるのか。

それは「みんな」です。全ての人がそうなんです。

なぜならば、僕ら人間は必ず「小さい頃」を経験
しているからなんです。

皆さんも思い出してみてください。
小さい頃はボタンがあったら押してみたかったんです。
ハンドルがあったら回してみたかったんです。
そして「余計なことすんじゃない」って、
怒られるもんだったんです。

実は、生まれたときから「あきらめ方」を
知ってる人間なんて、この世に一人もいないんです。

皆さんは全員、あきらめ方を知らないで、
輝いて生まれてきたんです。
でも僕たちがあきらめ方をちょっと習っちゃって
いるのかもしれません。

そんな自分たちの自信を取り戻すためのいい方法が、
ひとつだけあります。それは何か。・・・

それは
それは「やったことがないことをやってみる」なんです。

やったことがないことをやってみるだけで、
小さい自信が湧いてきますから、是非皆さんは、
「やったことがないこと」に挑んでみてほしいって思います。

でも、やったことないことをやると失敗するんです。
これは実験映像です。
(会場にロケット打ち上げの実験映像が流れます)

ロケットが火を吹いて飛びました…飛びませんでした。
火吹いて落っこちてきちゃいました。
どうすりゃいいのか。

コントローラーを捨てて…逃げる。

この実験映像が示していることは、
「マズイと思ったら逃げるもアリ」ということなんです。

僕が知ってる限り、真面目で優しくて
責任感のある人ばかり死んでしまうんです。

死なないでほしいんです。
生き延びてほしいんです。
だからマズイと思ったら逃げるのも絶対アリなんです。

でもその時に失敗した自分を、逃げた自分を、
あきらめた自分を責めないでください。

僕らは今、生まれて初めての一回切りの人生を、
ぶっつけ本番で生きているんです。
僕らにとって失敗というものは、
より良くするためのデータにすぎませんから。
失敗しても乗り越えてほしいです。

これから先、僕らがやっていくべきことは
「できない理由」を探すことではありません。
「できる理由」を考えることです。
僕は小さい頃から飛行機・ロケット好きでした。

でもやったことない人が、
「できるわけない」って散々言いました。
でも母さんは「思うは招く」って教えてくれました。

思い続けたらできるようになりました。
だから思い続けるってきっと大事です。・・・

夢は希望の道であり、夢を見るのを諦めたら
夢で終わる・・・ ・・・



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Tさんの手記による、当時の思い出話です。

現在、福岡市にお住まいの主婦Tさん(78歳)は、
若い頃、バスの車掌さんという職業に就きました。

父を病で失い、母と5人姉妹の極貧生活から抜け出したい、
その一心で高校進学をあきらめ、「いい給料をもらえる」と
評判のバスの車掌さんになったのでした。

働き始めてから二年半が過ぎたころ、急激な
観光ブームが到来し、私は車掌からバスガイドに
転身することになった。

「発車オーライ」から、「皆様、あちらに見えますのは…」
のバスガイドになったのである。

新しい仕事にも慣れてきたある日、私が担当する
団体客名を記したステッカーを目にした瞬間、思わず
胸がズキンと痛むのを覚えた。

ステッカーには、
「M高校修学旅行御一行様」と書かれていたのである。

M高校は、私と中学で同級だった仲間の多くが
進学した女子学校で、かつての友がかなり在学している。
歳月から考えても、乗客はまさしく彼女たちで
あるのが分かった。

何という皮肉な巡り合わせかと嘆きながらも、
現実には逆らえないとの思いから、
私は制服にはいつもより丁寧にアイロンを当て、
特にガイドの象徴である白い襟布には
しっかり糊付けをして乗務に就いた。

乗り込んだ同級生たちのセーラー服姿は
何とも眩しかったが、彼女たちはガイド服姿の私に、
歓声を上げて近寄り、

「制服がよく似合う」「大人っぽくなった」
などと口々に屈託のない声をあげ、
異様な雰囲気のまま、バスは走り出した。

「皆様、おはようございます。
本日ガイドを務めます私は……」

努めて平静を装う私に、後部座席の同級生たちは
腰を浮かせ、興味津々の視線を送ってきた。

私はオープニングで披露する「バス旅行の歌」を
歌ったが、この日ばかりは声が上ずっているのが
分かった。・・・

やがて休憩地へ着き、生徒たちが三々五々
バスを降りてしまうと、初老の男性教師が
柔和な笑顔で話しかけてきた

その男性教師はこう話してくれた。

「あなたは中学時代に生徒たちと同級生だったそうですね。
あの子たちはまだまだ子どものままですが、
あなたはすっかり自立した社会人になっておいでです。
とても生徒たちと同年齢とは思えません。

今日、あなたのバスに乗り合わせたことは、
生徒たちには、何よりも良い勉強で、
本当の意味での修学旅行になりました」
そう言って両手で私の手を包むように握りしめた。

柔らかで温かなその感触は、折に触れ
追い求めている亡き父を偲ばせたことから、
私は訴えるような口調で答えた。

「私は一度でいいから皆のように
セーラー服を着たかったのです」
彼は頭を小さく振り、諭すように言った。

「あなたにはセーラー服姿よりも、その制服が
一番似合うと思いますよ。
職業婦人としての凛々しさがみなぎっているのが、
何よりの証拠です」

その声は慰めではなく、心からの言葉のように
思えた。・・・

あの日から半世紀以上もの歳月が過ぎた。

ガイドの制服姿に自信を持たせてくれた老教師との
出会いは、その後の私の人生に、大きな励みを
与えてくれたのである。・・・

Author :© 人間力.com
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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



『泣いてたまるか』





こうして、こうすりゃ、こうなるものと、 知りつつ、
  こうして、こうなった



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隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月 8日 (月)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


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浦田 私の場合は徐々に徐々に、じゃなくて、
   二十歳の頃にガクンと来たんですね。
   左の目が急に見えなくなって、
   すぐに右の目、とスピードが早かった。

   小学校の先生になるための専門学校に
   通っていた時で、卒業を間近に控えた三か月前の
   出来事でした。これまでできていたことが
   できなくなるのが本当に怖かったです。

小宮 浦田さんも、しばらく誰にも言えなかったんですよね。

浦田 はい。一年半くらいは一人暮らしのアパートから
   出られず、両親にも友達にも打ち明けられない
   ままでした。目が見えなくなってきたことが、
   最初は受け入れられませんでした。
   もう本当に凄くきつくて、お先真っ暗で、
   
   見えないのなら何もできないし、
   できないんだったら別に自分がいる
   意味なんてないと考えたりもしました。
 
   二十二歳のお正月の頃、
   もう自分ではどうにも抱えきれなくなって、
   このまま死んでしまうぐらいなら
   親に言おうと思ったんです。
   その決心がようやくできて、
   福岡から久しぶりに熊本へ帰りました。

小宮 よく一年半も一人で耐えたと思います。

浦田 熊本へは電車で帰ったのですが、
   全く見えないわけではないので、
   こう行けばそこに改札があったなといった
   記憶も辿りながら、駅のホームに降りて、
   改札口のほうへ向かいました。

   すると、すでに母が迎えに来てくれていたようで、
   「はよこっちおいで。
   何、てれてれ歩きよると?」と声がしました。

   あぁ、お母さんや、と思って改札のほうへ
   向かったんですが、
   母の声はするんですけど、顔が全然見えなくって
   ……。

   その時に、あぁ、私、親の顔を見たのは
   いつやったかな、 
   親の顔も見えなくなったんだということで、
   自分の目がもう見えなくなったことを
   凄く痛感させられた。
   改札のほうへも、さっさとは歩けないので
   ちょっとずつ歩いたのですが、
   母は私がふざけていると思ったそうです。
 
   改札をやっと通り抜けて母の元へ行き、
   「私……、お母さんの顔も見えんくなったんよね
   ……」と言ったら、
   母は「ほーら、また冗談言って。これ何本?」って
   指を出されたんですが、その数も全然分からなくて、
   母の手を触って確認しようとした。

   その瞬間、母はもう本当に、
   改札の真ん前だったんですけど、
   ワーッとメチャクチャに泣き崩れて……。

小宮 ……。

浦田 それを見てる私も、自分は何をやってるんだろう、
   とやるせない気持ちになったんですが、
   でもこれまでずっと自分一人で
   抱えてきたものを伝えられたと、
   肩の荷がちょっと下りた気持ちでした。
 
   それと、親がしばらくして
   「何か自分ができることを探さんとね」と
   声を掛けてくれた。
   その時に、あぁ自分がたとえどんな状態になっても
   親は絶対見捨てないでいてくれるなと
   実感できたんです。
 
   それまでは家族の存在も、
   まるで空気のように当たり前に
   感じていたのですが、
   いてくれることのありがたさというのが
   初めて身に染みて感じられました。
   
   そしてこれだけ応援してくれたり、
   励まして支えてくれる人がいるんだから、
   自分も何かをやらないと、
   とそれまで後ろ向きだった気持ちが、
   少しずつプラスに変化していきました。
・・・


421411


 『生きるということは一度しかない。
 リハーサルなんかありはしない。
 たった1度だけである。』

 私にこんなすさまじい教えを教えてくれた
 1人の若者がいた。

 富山県の砺波(となみ)という町で、ガンで亡くなった
 井村和清さんである。
 彼は医師であったが、右膝に巣くった
 悪性腫瘍の転移を防ぐため、右脚を切断した。
 しかし、その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移していた。

 そして昭和54年1月、亡くなったのである。
 享年31歳であった。

 彼は医師であったから、自分の病状をよく知っていた。
 だから彼には明日はなかった。その彼が
 遺書を残している。
 その遺書は『ありがとう、みなさん』と題されている。

 彼は2人の子供に 「心の優しい、
 思いやりのある子に育ってほしい」と書き、

「私は今、熱がある。咳きこんで苦しい。
 私はあと、いくらもお前たちの
 そばにいてあげることができない。
 だから、お前たちが倒れても
 手を貸してあげることができない。

 お前たちは倒れても倒れても
 自分の力で立ち上がるんだ。
 お前たちがいつまでも、いつまでも、
 幸せでありますように。

 「雪の降る夜に父より」・・・

 そしてまた彼は、こんな遺書も残していた。

「ようやくパパと言えるようになった娘と、
 まだお腹にいるふたりめの子供のことを
 思うとき、胸が砕けそうになります。
 這ってでももう1度と思うのです。

 しかし、これは私の力では、どうすることも
 できない。
 肺への転移を知った時に覚悟はしていたものの、
 私の背中は一瞬凍りました。その転移巣は
 ひとつやふたつではないのです。
 レントゲン室を出るとき、私は決心していました。

 歩けるところまで歩いていこう。

 その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を
 置きながら、私は不思議な光景を見ていました。
 世の中がとても明るいのです。

 スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。
 走りまわる子供たちが輝いてみえる。
 犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、
 電柱が輝いてみえるのです。

 アパートへ戻ってみた妻もまた、
 手をあわせたいほど尊くみえました」

 「郷里へ戻ると父が毎朝、近くの神社へ
 私のために参拝してくれていることを知りました。

 友人のひとりは、山深い所にある泉の水を汲み、
 長い道程を担いできてくれました。
 『これは霊泉の水で、どんな病気にでも効くと
 言われている。

 俺はおまえに何もしてやれなくて悲しいので、
 おまえは笑うかもしれないが、
 これを担いできた。』
 彼はそう言って、
 1斗(18リットル)上もありそうな
 量の水を置いてゆきました。

 また私が咳きこみ、苦しそうにしていると、
 何も分からぬ娘までが、私の背中を
 さすりに来てくれるのです。

 みんなが私の荷物を担ぎあげてくれている。
 ありがたいことだと感謝せずにはいられません。
 
 皆さん、どうもありがとう。

 這ってでももう1度戻って、残してきた仕事を
 したいと願う気持ちは強いのですが、
 咳)きこむたびに咽喉をふるわせて出てくる
 血液を見ていますと、もはやこれまでか、
 との心境にもなります。
 どうも、ありがとう。」

 日一日と悪化する病気に、もう猶予はできない。
 ここまでくれば、いつ机に向かうことが
 できなくなるかもしれない。
 とにかく『あとがき』を書くことにした。

「頼みがあります。もし私が死にましたら、
 残るふたりの子供たちを、どうかよろしく
 お願い致します。
 私が自分の命の限界を知ったとき、
 私にはまだ飛鳥ひとりしか子供がいませんでした。

 そのとき、私はなんとしても、もうひとり子供が
 欲しいと思ったのです。それは希望というよりは、
むしろ祈りのようなものでした。

・・・(中略)・・・

 祈りは通じ、ふたりめの子供が妻の胎内に
 宿ったのです。
 妻はこれはあなたの執念の子ね、と言って
 笑いましたが、私はどうしても、妻と飛鳥を、
 母ひとり子ひとりにしたくなかったのです。

 3人が力を合わせれば、たとえ私がいなくても、
 生きぬいてゆける。妻がもし艱難に
 出逢うことがあっても、子供たちふたりが
 心を合わせれば、細い体の妻をきっと
 助けてくれる。そう信じています」

 そして、「誰よりも悲しむであろう父母を
 慰めてやって下さい」
 「ありがとう、みなさん。
 世の中で死ぬまえにこれだけ言いたいことを言い、
 それを聞いてもらえる人は滅多にいません。 
 その点、私は幸せです。

 ありがとう、みなさん。人の心はいいものですね。
 思いやりと思いやり。それらが重なりあう波間に、
 私は幸福に漂い、眠りにつこうとしています。

 幸せです。ありがとう、みなさん、
 ほんとうに、ありがとう」

 1人の若者が生きることの大事さを
 教えてくれた生の記録である。
 彼は最後の最後まで、人間万歳を
 歌いあげたのである。最後の最後まで
 『ありがとう』をいい続けたのである。

 生きるということは1度しかない。
 リハーサルなんかありはしない。
 たった1度だけである。

 どうか「生きる」ことを
 大事にしてほしい。
・・・


Author :人間力.com
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B



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 世は歌につれ、
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2017年5月 7日 (日)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー




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むかしむかし、空海(くうかい)と言う名前のお坊さんが、
一軒の貧しい家の戸をたたきました。
「すまんが、宿(やど)が見つからないでこまっておる。
今夜一晩、泊めてくだされ」

すると中から、おばあさんが出てきて言いました。
「それは、お気の毒に。こんなところでよかったら、さあどうぞ」
おばあさんはお坊さんをいろりのふちに座らせると
、おわんにお湯を入れて出しました。

「はずかしながら、食べる物もなくてのう。せめて、
このお湯でも飲んでくだされ。体が、温まりますから」
お坊さんは両手でおわんをかかえるようにして、
お湯を飲みました。

冷えきった体が、どんどん温まってきます。
「ありがとう。まるで、生き返ったようだ」
お坊さんが礼を言うと、おばあさんは申し訳なさそうに
頭を下げました。

「明日の朝はきっと、何か作りますから」
するとお坊さんは、ふところからお米を三粒出して
言いました。
「すまんが、これでおかゆを煮てくれ」
「へええ、これでおかゆを・・・」

おばあさんはビックリしましたが、言われたようになべに
三粒のお米を入れてぐつぐつと煮込みました。
すると、どうでしょう。なべの中から、たちまち
おいしいおかゆがあふれ出たのです。

「さあ、おばあさんも一緒に食ベなされ」
そのおかゆの、おいしい事。こんなにおいしいおかゆを
食べたのは、生まれてはじめてです
「ありがたや、ありがたや」
おばあさんは、涙を流して喜びました。

「おいしいおかゆを、ありがとうございました。
きたないふとんですが、ここでやすんでください」
おばあさんは自分のふとんにお坊さんを寝かせて、
自分はわらの中で寝ました。

次の朝早く、お坊さんは、おばあさんを起こさないように
起き出すと、ふところからまたお米を三粒出して、
空っぽの米びつの中ヘ入れました。
「おばあさん、いつまでも元気でいておくれ」
お坊さんがそう言って家を出ようとしたら、
おばあさんがあわてて起きてきて言いました。

「お坊さん、待ってください。今から、イモの葉っぱで
汁をつくりますから」
「ありがとう。でもわたしは、もう出かけなくてはいけない。
あとで、米びつを開けてみなさい」
お坊さんはそう言うと、おばあさんの家を出ていきました。

「お坊さん、また来てください」
おばあさんは去っていくお坊さんに向かって、
そっと手を合わせました。

「そう言えば、米びつを開けろと言っていたが」
家に入ったおばあさんが米びつを開けてみると、
空っぽのはずの米びつに、お米がびっしり
入っているではありませんか。

そしてそのお米は不思議なことに、毎日食べても
少しもなくならないのです。
おばあさんはこのお米のおかげで、いつまでも
元気に暮らしたということです。・・・

おしまい




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むかしむかし、あるところに、さすけという男の子が
お母さんと二人で暮らしていました。

ある日、お母さんが重い病気になりましたが、
医者にかかりたくてもお金がありません。
(このままでは、お母さんが死んでしまう。お金持ちの
ごんぞうおじさんに、お金を借りよう)と、さすけは
出かけて行きました。

しかし、ごんぞうおじさんは、「なに? 金を貸せというのか? 
それなら、おらの家の広い畑をたがやすんだ!」と、
怒鳴りました。さすけは早くお母さんを助けようとがんばり、
一日で畑をたがやしました。でも、ごんぞうおじさんは、
「はん。まだ金は貸せん。大おけに、水をいっぱい入れろ!」
と、また怒鳴りました。

次の日、さすけは水を運びました。
ところがおけには小さな穴が開けてあって、いくら運んでも
水はいっぱいになりません。
「この、なまけ者! 金は貸せん、帰れっ!」
ごんぞうおじさんは、さすけを追い返しました。

追い出されたさすけは、トボトボ歩いてとある
お宮の前に来ました。「お腹がへったなあ。
もう歩けない。どうしたらいいんだろう?」
さすけはその場に座り込むと、ウトウトといねむりを
してしまいました。

♪カラーン カラーン カラーン カラーン 
夢の中でしょうか。ゲタの音が、近づいてきます。
そして現れたのは、やさしい顔のおじいさんでした。

「母親思いのさすけよ。
お前に、一本のはのゲタをさずけよう。
このゲタをはいて転ぶと、そのたびに小判が出る。
だが転ぶたびに、背が低くなる。
やたらと、転ぶではないぞ」
「は、はっ、はい。ありがとうございます」
おじいさんの姿は、パッと消えてしまいました。

「ありゃ? 夢か? でも、本当にゲタがあるぞ」
さすけはおっかなびっくりゲタをはいてみましたが、
なにしろ一本はのゲタです。
立つか立たないうちに、スッテン!
「あっ、いてててえ」と、言ったとたん、
♪チャリーン。「ああ、小判だ!」
さすけは、大喜びです。
その小判を持って、すぐに医者のところへ
行きました。

医者に診てもらったお母さんは、みるみる
元気になりました。それであのゲタは大事にしまって、
さすけはお母さんと一緒に毎日よく働きました。

そこへごんぞうおじさんが、さすけの様子を見に
やって来ました。
そっとのぞくと、二人はごちそうを食ベています。
「やいやい。このごちそうはどうした! 
ごちそうを買う金があるくせに、おらのところに
金を借りに来たのか!」

「まあまあ、気をしずめてください。これには、
深いわけが」さすけは、あのゲタの話をしました。
「なに、小判の出るゲタだと。こいつはいい。
これは貧乏人のお前たちより、金持ちのおらが
持つべきだ。もらっていくぞ」
ごんぞうおじさんは、ゲタを持って帰りました。

家に帰ったごんぞうおじさんは、さっそく大きな
ふろしきを広げました。
そしてゲタをはいて、ふろしきの上に乗ると、
「へっヘっへ、まずは、ひと転び」と、言って、
スッテンと転びました。

すると小判が♪チャリーン。
「おおっ! 本物の小判じゃ!」
さあ、それからというもの、
♪転んで転んで、小判がほしい。
♪チャリンコ、チャリンコ、小判がほしい。
ごんぞうおじさんは、夢中になって転びました。

「おおっ! 小判がだんだんでっかくなるぞ! 
おらよりでっかくなっていくぞ! 
おら、日本一の大金持ちじゃあー!」
ごんぞうおじさんは、転ぶたびに自分が
小さくなっていく事にぜんぜん気づいていません。

その頃、さすけはゲタをはいて転ぶと背が
低くなる事を言い忘れたのを思い出して、
あわててごんぞうおじさんに会いに行きました。

家に行ってみますと、閉めきった家の中で
チャリーン、チャリーンと音がします。
「おじさーん、おじさーん!」と、呼んでみましたが、
返事がありません。

さすけは、とびらを力まかせに開けました。
すると中から、小判がジャラジャラと溢れ出てきました。
「うああっ! ごんぞうおじさん。どこだあー!」
小判を押しのけて家の中へ入ると、ごんぞうおじさんは
山のようにつまれた小判のすみで、バッタのように
小さくなっていました。

それでも転んでは起き、転んでは起きして、
小判をどんどん出しています。
そのうちにとうとう小さな虫になって、どこかへ
飛んでいってしまいました。

その後、さすけはごんぞうおじさんの家をひきとって
長者(ちょうじゃ)になり、お母さんと幸せに暮らしました。
欲張りすぎると、ろくな事がありませんね。
・・・

おしまい




A52



鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる




「時間の花びら」 







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2017年5月 6日 (土)

妄想劇場・漢の韓信-(171) 悪意の絆…

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー



メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・

アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kansin


漢の韓信-(171) 悪意の絆…

「ふん……なるほど……君らはずいぶんと仲が
いいことだな! 
国を救うと称し、共謀して私を除こうと……悪意の絆! 
今さらだが、その知恵と仲の良さを私が斉や趙の地で
苦しんでいるときに発揮してほしかったぞ! 
そうすれば建国の苦労は、半分程度で済んだのだ」
痛烈な侮辱である。韓信は、この言動だけでも死罪を
免れなかった。

「そのときは、私は虜囚の身で項羽のもとに
捕われて……」
呂后はそれでも話を続けようとしたが、韓信の激情は
このとき頂点に達した。

「お前などに言っているのではない! 
いったいお前が国のために何をしたというのか! 
愚鈍なためにむざむざ捕われたくせに。
お前の愚鈍さが、漢軍全体の足枷となったことが
わかっていて口をきいているのか!」

「やめろ、やめないか、淮陰侯」
蕭何は泡をくって制止しようとした。
「相国! もうその呼び名で私を呼ぶのはやめろ! 
私はすでに謀反を犯し、もはや漢の職制の
外にある身分だ。私を呼ぶなら、単に韓信と呼べ!
 
私は……罪人として死んだ父と、不貞を犯して
死んだ母の間から生まれた、字あざなも持たぬ
平民の子だ! 
こんな国の尊称で呼ばれるより、本名で呼び捨てに
される方がよっぽどましだ!」

この言を聞き、ついに呂后は、堪忍袋の緒を切った。
「話にならぬ。相国、別室に連行して獄吏に
引き渡しなさい。そして、すぐに首をはねるのです! 
三族すべて、殺しなさい」

三族とは、狭義では妻子と両親、広義では
一族すべてのことをいう。
韓信の両親はすでに死し、妻子がないことは
明らかだったので、この場合は遠縁の者を探し出し、
すべて殺し尽くせ、という意味であった。

「は、しかし……」
「考えてはなりません。迷いのもとです。
余計な感情を持ってはいけません。すぐ、やるのです」
「……御意にございます……」

やむなく蕭何は、武士を呼び、韓信を取り押さえさせた。
両腕に枷をはめられ、引き立てられながら
、韓信は喚くように言葉を連発した。

「まったく、蒯通の言う通りだった! 
こんな国など、早いうちに滅ぼせばよかったのだ。
それにしてもこの私が、あろうことか
あんな女に騙されるとは! 
天運、まさに天運としか言いようがない」
「もうよせ、信……」
連行される韓信の後を、蕭何が静かに追った。

宮中の鐘室に韓信は連行され、蕭何もその部屋に入った。
「……なぜ、あんな死に急ぐようなことを言ったのだ」
蕭何としては、やりきれない。
彼は最後の瞬間まで韓信を助命することを
諦めていなかったが、肝心の韓信が自分で
自分の死刑を確定してしまったのである。

「すみません……相国には、ご迷惑を……
お立場を悪くしてしまいました」
韓信の態度には、すでに狂乱した様子はない。
落ち着きを取り戻した、いつもの彼の姿がそこにあった。
「私は……誰かに運命を左右されるのは嫌だ。
たとえ死ぬことを免れないにしても、私は自分の
責任でそれを迎え入れたいのです」

蕭何はため息をついた後、得心した。
いかにも韓信らしいことだ、と。
「そもそも、叛乱を計画したのは……
それを陛下が望んでいたからです」

「! ……どういうことだ」
「私のことを陛下が持て余していることは、
わかっていました。
建国の元勲も事が成就すれば、邪魔になる
そのような理屈がわからない自分ではありません。
不遜な言い方ですが、陛下には私に正面から
戦いを仕掛ける勇気がない。勝つ自信が
ないからです」

「だから、自分から挙兵しようとした、というのか?」
蕭何の問いに、韓信はこくりと頷いた。
「……戦いに勝って、自ら皇帝になろうとしたのか」
「いえ。それはありません。陛下が陛下であることに、
私自身は異存がありません。

ただ至尊の位を得た以上、正しき道を歩んで
いただきたかった。私が挙兵することによって、
今の独善的な国家運営を反省していただければ、
と思った次第なのです。

しかし、落とし穴が待っていました。
まさかあのお妃様によってそれを阻止されるとは…」
韓信はこのとき、静かに笑った。
その表情は、自嘲的であった。

「君は、自制的な男だと思っていたのだが……
君ほどの功績のある男が自制してくれることで、
天下の万民はそれを真似し、その結果、
戦乱のない平和を享受できるのだ。
そのことがわからなかったのか」

蕭何は残念そうな表情で、そう言った。
しかしその言葉は、韓信の意思を理解していない
証拠であった。

「そんなものは、おしつけの平和というものでしょう。
平和の名のもとに人々に自制を強制するのは……。
人ができる自制というものには限りがあり、
それを越えると爆発します。

そのとき、天下は際限なく乱れるでしょう。
私は、それを抑えたかった」
「…………」
蕭何はとっさに言葉を返すことができなかった。
ようやく口をついて出た言葉は、以下の
ひと言であった。「……すまなかったな」

韓信はその言葉を受け、目を伏せた。
そしてひと呼吸置き、言葉を継いだ。
「……さあ、お話はこれまでです。私は、自分で
自分を斬る勇気はありません。部下の者に
お命じください」

「なにを」
「なにをって……首をはねよ、と命じるのです」
「……簡単に言いおって
……最後に言い残すことはないか」

韓信は少し考える素振りをした後、言い残した。
「……それでは。私の家臣の者には、あまり厳しい
処分を科さないでいただきたい。彼らのなかには
進んで私に仕えてくれた者もいますが、
そうでない者もいるのです。

それと……私には、家族はいません。
妻としようと決めた者には先立たれ、
弟同然のように接していた者にも、
やはり先立たれました。

天下をくまなく探せば、父や母に血のつながる者も
見つかるかもしれませんが……
私はその人たちを知りません。

呂后は三族を殺せとお命じになりましたが、
その辺は相国がうまくごまかしていただきたい」
「うむ。……ほかならぬ君の頼みだ。善処しよう」
「ありがとうございます。それと……陛下によろしく。

陛下がご帰還あそばしたときには、伝えていただきたい。
韓信は陛下の覇業を助けたのであり、
決して邪魔するつもりはなかった、と」

「そんなこと、伝えなくても陛下はわかっておいでだ」
「そうでしょうか……そうかもしれません。
ですが、伝えていただきたいのです」
「うむ」

「さあ、今度こそ、終わりです。お命じください。
私が……心穏やかでいられるうちに」
「…………」「……さあ!」 ・・・

つづく

Author :紀之沢直樹 (野沢直樹)
http://kinozawanaosi.com
http://mypage.syosetu.com/273441/


愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る




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最後の夜だから






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2017年5月 5日 (金)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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『ニュースの深層』【衝撃事件の核心】


過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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「人間として最底辺まで落ちた」。関西地方の
男性(29)はこの19年近く、殺人犯あるいは死刑囚の
息子という重い十字架を背負って人生を歩んできた。

男性の母親は、平成10年に発生した
「和歌山毒物カレー事件」の犯人として逮捕され、
殺人罪などで死刑判決が確定した林真須美死刑囚(55)、
その人だ。

地域の夏祭りで出されたカレーを食べた住民4人が死亡、
63人が急性ヒ素中毒になった凶悪犯罪は、事件そのものの
衝撃はもちろん、テレビインタビューに冗舌に応じたり、
自宅前で待ち構える報道陣にホースで水をかけたりした
林死刑囚の強烈なキャラクターと相まってメディアを席巻。
ワイドショーが林死刑囚の一挙手一投足を追い続ける
「カレー狂想曲」が繰り広げられた。

林死刑囚は逮捕されるが、当時から一貫して無実を
主張している。
カレーにヒ素を混入したのは本当に母なのか。
そんな葛藤に苦しみ続ける長男が、これまでの壮絶な
歳月を振り返った。

札束で積み木遊び

金庫の中に保管された数億円の札束、アクセサリー、
腕時計など貴金属類、それに「ニンテンドー64」や
「セガサターン」といった複数のゲーム機器…。

カレー事件前、和歌山市園部地区の林家には、
大金やぜいたくな品々があふれかえっていた。
「おもちゃでも何でも、欲しい物は百貨店の外商で
買ってもらえた。
ふざけて札束を積み木のようにして遊ぶこともあった」。

長男は通常とはかけ離れた幼少期の“異様”な
暮らしぶりをこう打ち明けた。
収入のからくりは両親が繰り返してきた保険金詐欺だ。
父親(71)は以前、シロアリ駆除の仕事をしていたことから
薬剤の知識があり、昭和63年ごろ、自らヒ素を口にして
2億円もの保険金を受領。

その後も元保険外交員だった林死刑囚とともに、
詐欺を繰り返したとされる。
金庫には多いときで5億円近くが保管されていたといい、
長男は「今思うと、両親はお金にとりつかれて
いたのかもしれない」と話す。

そんな破天荒な暮らしは小学4年の夏に発生した
カレー事件とともに一変していく。
現場の園部地区には、一般マスコミだけでなく、
ワイドショーのクルーなども張り付き、前代未聞の
凶悪犯罪を引き起こした犯人像を追う報道合戦が
繰り広げられた。

大勢の記者やカメラマンが大挙して押し寄せた
当初の様子を、「不謹慎だが、お祭り騒ぎのようだった」と
振り返る長男。だが、1カ月が過ぎたころから次第に
報道陣は林家を集中的に取材するようになり、
幼心に自分の家が疑われるのを感じていた。

長男も各社の記者から両親の様子について探りを
入れられるようになったという。
このころから、林家では毎夜、「本当はどうなんな」と
カレー事件への関与を問いただす父親と
林死刑囚の口論が繰り返された。

「ママがやったん?」
長男も、こう母親に問いかけたことがあったという。
「やるはずがない」。ぴしゃりと否定されたが、結局、
事件から約2カ月後、両親は保険金詐欺容疑で
和歌山県警に逮捕された。

当日は長男の小学校の運動会。前日に、
来てくれるかどうかを尋ねる長男に、林死刑囚が
「絶対行ってあげる」と応じたのが、逮捕前の
最後の会話だったという。

乾燥剤入りのカレー

長男の両親は千人以上の報道陣が取り囲む衆人
環視のもとで警察に連行された。
「林さん、林さん」。午前6時ごろ、自宅のドアを
ノックする音がして、まもなく警察官が踏み込んできた。
テレビをつけると、見慣れたわが家が報道陣に
取り囲まれている光景が写っていたことを覚えている。

林死刑囚は同年12月、カレー事件に関与したとして
殺人などの容疑で再逮捕。
殺人犯の息子という重い十字架を背負うことになった
長男を待っていたのは預けられた養護施設での
いじめだった。

同じ施設に入所していた少年らから日常的な暴力を
受けたといい、顔に傷ができれば職員らに
いじめが発覚することから主に体を狙われ、
生傷が絶えなかった。

「ポイズン(毒)」。いじめを受けていた少年らから
こんなあだ名で呼ばれることもあったという。
給食のカレーに乾燥剤を入れられ、気付かずに
食べておう吐したことも。

何不自由なく暮らしてきた自分の身に、なぜ
このようなことが起きているのか、信じられなかった。
十字架は、数年後に施設を出てからも重くのしかかった。

生計を立てるため飲食店でアルバイトをしていたとき、
林死刑囚の家族だと分かると「衛生的に良くない」と言われ、
その日のうちに解雇されたという。

面会では気丈と弱音

長男は現在、運送会社に勤務。保険金詐欺の刑期を
終えて出所した後に脳出血で倒れ、車いす生活となった
父親の自宅にも頻繁に行き来している。

「カエルの子はカエル」。施設にいたころ、言われた
言葉の悔しさから「万引一つでもすれば
『死刑囚の息子だから』と後ろ指を指される」と
道を踏み外さないように生きてきた。

林死刑囚と面会するのは年に1回程度。
最後に会った昨年6月には歯が抜け落ちてしまっていた。
かつて、報道陣に水をかけた強気な性格は変わらず、
「早めに老人ホームに入ったと思っている」と
うそぶいていたというが、気丈にふるまうのは
子供たちの前だけ。

父親には「死刑台に連れて行かれる夢を見る」と
弱音を漏らしたこともあったという。

いまなお続く葛藤

林死刑囚は死刑確定後も無罪主張を変えておらず、
21年には和歌山地裁に再審請求を申し立てた。
自宅などから見つかったヒ素と、現場に残されたヒ素は
別物と主張したが、請求は今年3月、棄却された。
林死刑囚の弁護団は大阪高裁に即時抗告しており、
今後も無実を訴え続ける構えだ。

そんな林死刑囚も、長男にとっては子煩悩で優しい
母だった。国内外の観光地に頻繁に連れていってくれたり、
長男やきょうだいの成長ぶりを写真に撮っては
アルバムを作ってくれたという。

長男は事件から19年もの歳月が経過した今でも、
そんな母と、メディアから希代の犯罪者と指弾され
続けてきた林死刑囚が重ならずにいる。

母は、カレー事件の犯人なのか。
一方では事件で被害に遭った多くの人がいるのも事実だ。
長男は苦しい胸の内をこう明かす。

「家族だから、母を信じたい思いがある。
何度も葛藤を繰り返している」・・・


毒物カレー事件

平成10年7月、和歌山市園部の夏祭りに出された
カレーに ヒ素が混入され、4人が死亡、63人が
急性ヒ素中毒になった。

近くに住む林真須美死刑囚が殺人などの罪に問われ、
弁護側は無罪を主張したが、1、2審は死刑判決。
最高裁もこれを支持し、21年に死刑が確定した。
弁護団は同年7月に和歌山地裁に再審請求を
申し立てたが、棄却された。
・・・

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私が考える教育の究極の目的は
「親に感謝、親を大切にする」です。
高校生の多くはいままで自分一人の力で
生きてきたように思っている。
親が苦労して育ててくれたことを知らないんです。

これは天草東高時代から継続して行ったことですが、
このことを教えるのに一番ふさわしい機会として、
私は卒業式の日を選びました。

式の後、三年生と保護者を全員視聴覚室に集めて、
私が最後の授業をするんです。
そのためにはまず形から整えなくちゃいかんということで、
後ろに立っている保護者を生徒の席に座らせ、
生徒をその横に正座させる。
そして全員に目を瞑らせてからこう話を切り出します。

「いままで、お父さん、お母さんにいろんなことを
してもらったり、心配をかけたりしただろう。
それを思い出してみろ。
交通事故に遭って入院した者もいれば、
親子喧嘩をしたり、こんな飯は食えんと
お母さんの弁当に文句を言った者もおる……」
話をしているうちに涙を流す者が出てきます。

「おまえたちを高校へ行かせるために、
ご両親は一所懸命働いて、
その金ばたくさん使いなさったぞ。
そういうことを考えたことがあったか。
学校の先生にお世話になりましたと言う前に、
まず親に感謝しろ」

そして「心の底から親に迷惑を掛けた、
苦労を掛けたと思う者は、
いま、お父さんお母さんが隣におられるから、
その手ば握ってみろ」

すると一人、二人と繋いでいって、
最後には全員が手を繋ぐ。
私はそれを確認した上で、こう声を張り上げます。

「その手がねぇ!十八年間おまえたちを育ててきた手だ。 
分かるか。……親の手をね、これまで握ったことが
あったか?おまえたちが生まれた頃は、
柔らかい手をしておられた。

いま、ゴツゴツとした手をしておられるのは、
おまえたちを育てるために大変な苦労して
こられたからたい。それを忘れるな」

「十八年間振り返って、親に本当にすまんかった、
心から感謝すると思う者は、いま一度強く手を握れ」
と言うと、あちこちから嗚咽が聞こえてきました。

私は「よし、目を開けろ。分かったや?
私が教えたかったのはここたい。
親に感謝、親を大切にする授業、終わり」

振り返ると親と子が抱き合って涙を流していました。
・・・


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



『ひとり寝の子守唄』







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2017年5月 4日 (木)

妄想劇場・歌は世に連れ・世は歌につれ

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遺影碑に彫ってある「愛をありがとう」の
文字は村上幸子が、最後にどうしても
言いたかった言葉 それが…
「愛をありがとう」では なかったかと……



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永遠の歌姫、村上幸子

今となって、もう捨てきれない。
これから生きていくうえで、 歌は命 命は歌
18歳の春、こう言い切って幸子は歌手の
世界へと羽ばたいた。

想い半途の31歳の若さで無念にもこの世を去ったが、
まさに命を懸けた幸子の数々の歌は
四半世紀を経た今も尚、その美しく爽やかな歌声で
多くの人達を魅了し、世の中に燦然と輝いている。

紛れもなく希代の歌手であり、若い歌姫のままで
あり続ける幸子は 世代を越えていつまでも
「幸ちゃん演歌」を私たちに届けてくれることであろう。
--- 四幸会 八十八 ---


「早逝の美人歌手」

1958年10月21日生まれ。新潟県村上市出身。
1979年に『雪の越後を後にして』で歌手デビュー。
21歳。
高校を卒業後に上京。デビューするまでの間は
安アパートに住み、スーパーで働き、併せて
浴衣の縫製等で内職をしながらレッスン料や
衣裳代を工面していたようです。

1984年に「酒場すずめ」で人気沸騰、
歌唱賞レースに参戦します。26歳。
1988年にリリースされた「不如帰ほととぎす」は
村上幸子の勝負曲でした。

ところが、折り悪しく当時、昭和天皇が重体で
「歌詞の内容が時期的にも適切な表現とは
言えない」という理由から、不運にも放送中止
(自粛)になってしまったのです。この時30歳。

「不如帰」の歌詞中に「血を吐く」という表現があり、
これが障りとなりました。
当時、昭和天皇は下血・吐血を繰り返し、
危篤状態にあったのです。為に、
これを気遣った放送局は「不如帰」の放送を
自粛しました。

作詞は・星野哲郎です。村上幸子は不運でした。
ホトトギスといえば正岡子規や夏目漱石が
想起されます。

正岡子規は1895年(明治28年)4月に
近衛師団の従軍記者として遼東半島に
渡ったものの予定通りにはゆかず同年5月、
帰国の途につくことになります。

帰国の船中で喀血して重態に陥り、
神戸病院に入院。子規は結核と診断されます。

当時、結核は「不治の病」であったので、正岡子規は
自分に死期が迫っていると覚悟しました。
喀血したことから、「鳴いて血を吐く」と言われている
ホトトギスと自分を重ね合わせ、
ホトトギスにちなむ句を一晩で数十も作ったと
いわれています。そうしてホトトギスの漢字表記の
ひとつの「子規」を自分の俳号としたのです。

正岡子規とは正岡ホトトギスの謂いなのです。

正岡子規は、1897年(明治30年)に俳句雑誌
『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊し、俳句分類や
与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に
大きく貢献しました。

子規は漱石の下宿に同宿して過ごし、句会を
開いています。漱石の処女作「吾輩は猫である」は、
先ずホトトギスに寄稿されたのです。

星野哲郎は、恐らく、この経緯を知っています。

泣いて血を吐く不如帰とは、元に戻れない
哀しい運命を示唆しています。
何という巡り合わせか、「不如帰」が発表された翌年、
まるで昭和天皇の あとを追うように 村上幸子は 
静かに息をひきとりました 享年31歳という若さでした
急性リンパ腫による病死です。

彼女の短い生涯を知った後に、改めて
「不如帰」を動画で視聴した時、
何て哀しい歌なのだろう。この歌は、
まるで彼女の実人生そのものではないか !

こんなに歌が上手で美人なのに、どうして彼女は
早く召されてしまったのか?
「次の世は私に下さい」と唄われます。控えめに
儚げに、切々と唄う姿が、いかにも日本女性の
健気さを伝えて胸打たれるのです。


「村上幸子・不如帰」



ほととぎすは、カッコウ科の鳥で全長28センチくらい。
全体に灰色で、胸から腹に横斑がある。アジア東部で
繁殖し、冬は東南アジアに渡る。日本には初夏に渡来。
キョキョキョと鋭く鳴き、夜に鳴くこともある。
自分の巣をもたず、ウグイス・ミソサザイなどの
巣に托卵する。

ほととぎすは、古くから〔春のウグイス、秋の雁 〕と共に
和歌に詠まれ、また冥土に往来する鳥ともいわれます。
別名が多く、文目鳥あやめどり・妹背鳥いもせどり・
黄昏鳥たそがれどり・偶鳥たまさかどり・卯月鳥うづきどり
・早苗鳥・勧農鳥かんのうちょう・魂迎鳥たまむかえどり
などと呼称されます。

後に「不如帰」は、2006年に瀬口侑希がカバーしています。
彼女の歌唱も上手です。が、

村上幸子の歌が感動を呼ぶのは全身全霊で人生を
表現しているからです。
これはオーバーアクションを付けて唄えば、
それらしく見えるという話ではありません。
魂の訴えが体現されているかどうかという話です。

心を揺さぶられるような感動とは、詩歌に込められた想い、
魂の叫びに共振し、共感する事なのだと思います。
歌手は、それをメロディーに乗せて、人生を、
そして心の想いを伝えるのです。
巡り合わせさえ良ければ、村上幸子は紅白への
出場を果たしていた事でしょう。

1986年に発売された石川さゆりの名曲「天城越え」を
後に村上幸子がカバーしています。見事です。
石川さゆりの歌唱に劣らない。甲乙つけ難いほどに
迫りました。石川さゆりが28歳の時の楽曲ですから
30年前に発表されたのです。


「天城越え」



村上幸子が亡くなって、驚くべきは、
村上幸子を偲ぶ会として未だにファンの方達が
活動している事です。
村上幸子のお墓へのファンの墓参が絶えないのです。
立派なお墓の建立は後援会長の尽力に依るものです。

一体、どんな想いなのでしょうか ?
人の心とは不思議です。
亡くなって尚、こんなにも愛される歌手がいたことに・・・。


Author :歌は世に連れ :朝星青大




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2017年5月 3日 (水)

妄想劇場・特別編 (知られざるニュース)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ


過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、親代わりの
庵主様や、世間様の「お寺の子はいい子だ」という
期待の中で育ちました。

同級生からはその逆に、お寺の子であることや、
実の親のないことをからかわれ、酷い苛めを
受けてきましたが「どんな時も前向きでいよ」という
庵主様の教えを守り、泣き出したくなる気持ちを
必死に堪えながら幼少期を過ごしました。

張り詰めていた神経の糸が切れたのは、
中学2年の時です。
役所に、ある書類を提出する際、庵主様から
「実はねぇ」と言って、出生の秘密を
打ち明けられたのでした。

聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、母親が
再婚する際、娘の私をお寺へ預けたというのです。
自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。
一体何を信じて生きてきたのだろう?

事実を知った私は、頑張るということに疲れて
しまいました。そして3か月間泣き通した後、
私が選んだ道は、髪の毛を金色に染めて、
耳にピアスの穴を開け、あらゆるものに歯向かい、
強がって見せることでした。

暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を
繰り返す毎日。
14歳で手を出した薬物はその後7年間、
1日としてやむことがなく、私など消えてしまえ、
という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。

心配をした庵主様は、私が20歳になった時に
「最後の賭け」に出たといいます。
私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、
そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。

金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は
訳が分からず、初めのうちは反発ばかりして
叱られ通しでした。

ところが10日目を過ぎた頃、教科書に書かれてある
仏様の教えが、読めば読むほど、庵主様の
生き様そのものと重なることに気づいたのです。

例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。
私がグレていた7年間、普通の親であれば
間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、
庵主様はただひたすら耐え忍んでいたのでした。
それは親心を越えた、仏様の心というものでした。

また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、
「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物
すべてを取り払っても、内から輝けるようになりなさい」
と言われました。

人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、
初めて自分にとっての大事なものが見え、
本当の生き方ができるようになるのだというのです。
私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。

庵主様はお洒落もしなければ、
食べる物にお金を掛けたりもしない簡素な暮らしで、
他の楽しみに時間を使うこともなかった。

ではその分、一体何に時間を使っていたか。
そう考えた時に、庵主様はすべての時間を
「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。

私の思いの至らなかった陰の部分では、
どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、
御仏の光に照らされ、初めて親のお陰、
世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。

そして教科書を読み進めれば進めるほど、
止めどもなく涙が溢れてきました。
修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、
なぜ私を叱ったり、本当の気持ちを
聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、

庵主様は
「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。
ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を
聞かせても、かえって反発を生むだけだった。

いまおまえが分かるということは、
おまえに分かる時がきたということだ。
仏道は待ちて熟さん」とお話しになりました。

庵主様には1つの願心があり、
私がグレ始めた14歳の時に、10年間は黙って
この子を見守ろうと決めたのだといいます。
そして自らには、何があっても
「平素のように生きよ」と誓いを立てたと
いうことでした。

私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた
孫悟空のようなもので、自ら命を絶とうと人生に
背を向けていましたが、どこまでいっても結局は
庵主様の手の平の上にいた。

庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、
私はその大きな大きな慈悲の中に
生かされていたのだと知ったのです。

23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に
「紗蓮」という法名をいただきました。
後にある方から 「美しい蓮(はす)の花は、
泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。
人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、
その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」
と教わりました。

振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、
私にとってはまたとない、よい肥やしになったと
感じています。
今年31歳になった私ですが、現在はお寺での
お勤めの他、市の教育委員会からの要請で、
悩みを抱える子供たちの自立支援相談や
講演活動を行ったりしています。

非行に走る子供たちはそれぞれに、
人に言われぬ苦悩を抱えています。
けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。
人一倍光るようになるよ、この子たちは。
私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを
見守っています。

・・・



42122111

      

きいちゃんは、いつもうつむきがちの、どちらかというと
暗い感じのするお子さんでした。

そのきいちゃんが、ある日とてもうれしそうな顔で、
「山元先生」と言って職員室に飛び込んできてくれたのです。

「お姉さんが結婚するのよ、今度私、結婚式出るのよ。
ねえ、結婚式ってどんななの、 私どんな洋服着ようかな」
と、とてもうれしそうでした。
「そう、良かったね」と、私もうれしくなりました。

ところが、それから一週間もしないころ、
今度はきいちゃんが教室で泣いている姿を
見つけたのです。

「きいちゃんどうして泣いているの」と聞くと、
「お母さんが、結婚式に出ないでって言うの。
私のことが恥ずかしいのよ。
お姉ちゃんばっかり可愛いんだわ。
私なんか産まなきゃ良かったのに」と
そう言って泣いているのです。

きいちゃんのお母さんは、お姉さんのことばかり
可愛がるような方ではありません。
どちらかというと、かえってきいちゃんのことを
いつも可愛がっておられて、目の中に入れても
痛くないと思っておられるような方でした。

けれどもしかしたら、きいちゃんが結婚式に出ることで、
例えば障害のある子が生まれるんじゃないかと
思われたり、お姉さんが肩身の狭い思いを
するんじゃないかというようなことをお母さんが
考えられたのかなと、私は思ったりしていました。

きいちゃんに何と言ってあげていいか
わかりませんでしたが、ただ、結婚式のプレゼントを
一緒に作ろうかと言ったのです。

お金がなかったので、安い晒(さら)しの
生地を買ってきて、きいちゃんと一緒にそれを
夕日の色に染めたのです。
それでお姉さんに浴衣を縫ってあげようと
提案しました。

でもきいちゃんは手が不自由なので、
きっとうまく縫えないだろうなと思っていました。
けれど一針でも二針でもいいし、
ミシンもあるし、私もお手伝いしてもいいからと
思っていました。

けれどきいちゃんは頑張りました。
最初は手に血豆をいっぱい作って、
血をたくさん流しながら練習しました。
一所懸命にほとんど一人で仕上げたのです。

とても素敵な浴衣になったので、お姉さんの
ところに急いで送りました。
するうとお姉さんから電話がかかってきて、
きいちゃんだけでなく、私も結婚式に出てくださいと
言うのです。

お母さんの気持ちを考えてどうしようかと思いましたが、
お母さんに伺うと、「それがあの子の気持ちですから
出てやってください」とおっしゃるので、
出ることにしました。

お姉さんはとても綺麗で、幸せそうでした。
でも、きいちゃんの姿を見て、何かひそひそ
お話をする方がおられるので、私は、きいちゃんは
どう思っているだろう、
来ないほうが良かったんだろうかと思っていました。

そんなときにお色直しから扉を開けて出てこられた
お姉さんは、驚いたことに、きいちゃんが縫った
あの浴衣を着ていました。
一生に一度、あれも着たいこれも着たいと思う披露宴に、
きいちゃんの浴衣を着てくださったのです。

そして、お姉さんは旦那さんとなられる方とマイクの前に
立たれ、私ときいちゃんをそばに呼んで
次のようなお話をされたのです。

「この浴衣は私の妹が縫ってくれました。
私の妹は小さいときに高い熱が出て、手足が不自由です、 
でもこんなに素敵な浴衣を縫ってくれたんです。
高校生でこんな素敵な浴衣が縫える人は、いったい
何人いるでしょうか。

妹は小さいときに病気になって、家族から離れて
生活しなければなりませんでした。
私のことを恨んでるんじゃないかと思ったこともありました。

でもそうじゃなくて、私のためにこんなに素敵な浴衣を
縫ってくれたんです。
私はこれから妹のことを、大切に誇りに思って
生きていこうと思います」

会場から大きな大きな拍手が沸きました。
きいちゃんもとてもうれしそうでした。
お姉さんは、それまで何もできない子という思いで
きいちゃんを見ていたそうです。

でもそうじゃないとわかったときに、きいちゃんは
きいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして
生きてきた。
これからもきいちゃんとして生きていくのに、
もしここで隠すようなことがあったら、きいちゃんの
人生はどんなに淋しいものになるんだろう。

この子はこの子でいいんだ、それが素敵なんだと
いうことを皆さんの前で話されたのです。
きいちゃんはそのことがあってから、とても明るく
なりました。
そして「私は和裁を習いたい」と言って、
和裁を一生の仕事に選んだのです。


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「百夜月」




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Bu

隙間産業(ニッチ市場)



2017年5月 2日 (火)

妄想劇場・言葉の魔術師

V0151111112



一青窈「ハナミズキ」

時代が歌を生み出し、歌が時代を動かすことが
あるのは今も昔も変わらない。
一青窈の代表作、「ハナミズキ」に込められた想い。

ある事件がきっかけで生まれたというのは有名な
エピソードだ。2001年9月11日のアメリカにおける
同時多発テロである。


ハナミズキ



しかし、その事実を伝え、記録に残すことが
この歌の役割ではない。彼女が詞を書くにあたり、
契機となったのは事実だが、
未来に向け、平和への願いを歌というカプセルに
積め込んだのがこの作品だ。

歌の背景にある歴史的なエピソードのことから

「ハナミズキ」という歌を皆さんがどう受け止めているかを
ネット上で調べてみた。
すると、多くの人がこの歌を真剣に受け止め、
さまざまな感想を述べていることが分かった。
いい加減に聞き流している人は居なかった。

きっとそれは、ここに並ぶ言葉が、すべて
研ぎ澄まされた真摯なものだからだろう。
彼女はこの歌の詞作において、溢れ出た言葉を
まず掃き出して必要なものだけを残したそうだ。

それはあたかも様々なテクニックを駆使して
いったん書き上げた絵画を、しかし最後は
余計なものを総てそぎ落とし、線画だけにしたような
感覚だろうか。

彼女は時にエッセイも発表するが、この歌に関して
記述したものもある。なかでも興味深いのは、
『明日の言付け』に書かれていることだ。

彼女は、まずみなさんもどこかで目にしたであろう
この木にまつわるエピソードを紹介する。
明治45年。当時の東京市長であった尾崎行雄は、
アメリカ大統領に日米親善のため桜の木を贈り、
その返礼として三年後に贈られてきたのが
ハナミズキだった。

実は一青窈は、ツアー中に尾崎の孫から一枚の
色紙をもらったという。
すでにこの歌が世に出てからのことだろうが、
そこに尾崎の言葉として、「人生の本舞台は常に
将来に在り」とあったそうだ。

それはそのまま「ハナミズキ」に込めた
想いにも通じる。
彼女はさらに、この歌に込めた想いとして、
「意地悪な心の芽を摘んで、やわらかな気持ちが
連鎖してほしいもの」と書いている。

これは「歌に出来ること」を信じて、でも
過信しすぎない彼女ならではの表現だと想う。
曲調、細やかな彼女の歌唱…。
歌詞以外にも、この歌が流れた時の場の空気
そのものが、我々を“やわらかな気持ち”へと誘う。

「百年続きますように」と歌えた理由。

歌詞の冒頭の“空を押し上げ”て“手を伸ばす君”とは、
ハナミズキそのものを連想させる。
そしてこの樹木の花(実は我々がそう思っているのは
正確には萼(がく)の部分なのだそうだ)は、
垂れたりせず、てっぺんを向いているので、
まさに空を押し上げるイメージだ。

そしてもっとも印象的なフレーズである
“百年続きますように”は、日米の友好関係の
ことかもしれないし、日米に限らず、
すべての国同士のことにも当てはまる

(この歌が同時多発テロを契機に書かれたことを
思い出せば尚更である)。
しかし男女関係、または親子関係がテーマの
歌と捉えるなら、両者の愛情よ永遠に、という
願いだろう。

いずれにしろ、その根底にあるのは彼女の
言葉通り、“やわらかな気持ち”の連鎖を願う、
ということではなかろうか。
誰も自分の百年後は分からない。
でもその連鎖を信じるなら、それまで
不確だったことも確かに思えてくる。

個人的に心に響くのは、“一緒に渡るには
“船は沈んじゃう”のところ。これは
人間の欲望を受け止めるにしても、
「そろそろキャパ・オーバーですよ」という
警告とも受け取れ、“お先にゆきなさい”からは、
無私の愛が感じられる。・・・

フジテレビ系連続ドラマ
「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」
主題歌 一青窈「他人の関係






一青窈 ・女性シンガー。
1976年9月20日生まれ。
2002年にシングル「もらい泣き」でデビュー。
独自の世界観が注目を集め、
数々の音楽賞や新人賞を受賞する。

音楽以外でも、映画への出演や詩集「一青窈詩集
みんな楽しそう」を発売するなど、活動の幅を
広げている。

フジテレビ系ドラマ「昼顔~恋人たち~」の
主題歌で金井克子(69)のヒット曲をカバーした
「他人の関係」がヒットした

まさにご自分の不倫 関係を堂々と肯定し、
せつせつと情感をもって歌っているようだった

音楽特番で同曲を披露した際には、あまりにも
感情が入り過ぎたパフォーマンスで、
司会をつとめたSMAPの中居正広が
『一青さん、なんかあったの?』と心配していた。

交際が報じられていた、音楽プロデューサーの
小林武史氏と破局していたことを発売中の
「フラッシュ」)が報じていた。

やはり、昼顔と同じように・・・
不倫や略奪愛はうまくいかないということでしょうか。


Author : 小貫信昭の名曲!言葉の魔法





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年5月 1日 (月)

妄想劇場・番外編・「蜜月の逆説」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



181011


「Bitter Moon 〜蜜月の逆説〜 

都心にありながら、その喧騒を忘れさせるような施設が、
紹介されたホスピスだった。
全室個室。ホテル並みの快適な設備。完全看護でありながら、
プライバシーは守られる、理想的な場所だった。

ただ忘れてならないのは、ここから出るときはもう、
息をしていないということだ。
案内してくれたのは、瑤子と同じくらいの歳の女性所員だった。
女性は、施設の概要や費用、決まりごとなどを話しながら、
中を案内してくれる。

そんな中、患者同士が交流するラウンジのような場所を
通りかかった。「こちらで少し、休んでいらしてください。
実際に入所している方に話を聞いてみるのも良いと思います。
私は少ししたら、戻りますので。」

突然一人置いていかれ、瑤子はどうしていいかわからず、
とりあえずソファに座った。
ちょっと辺りを見回すと、若い夫婦の姿があった。
女性が車椅子に乗り、男性が後ろについている。
男性は女性に促され、背中を擦っていた。

「違う、そうじゃないってば!」
「・・・じゃあ、こう?」
「痛いってば!何度言ったらわかるのよ!」
女性がワンマンで、言いたい放題言っているように見える。
ご主人が、よく我慢していて偉いなあと思って見ていた。

すると、いつの間にか隣に座っていた年配の女性が
声をかけてきた。
「いつもはね、とても仲睦まじいご夫婦なのよ。
ただ奥さんの方が、ここ何日かずっと具合が悪いみたい。」
瑤子は軽く頷きながら、やっぱりああは
なりたくないな、と思った。

「ご主人、偉いですよね。献身的に看病なさって。」
「夫婦ですもの、当たり前・・・と言いたいけど、
昨今の夫婦はそうでもないのよね。
あのご主人は確かに立派かもしれないわ。
何せ癌だとわかった途端に、離婚届けを
つきつけられたって人もいるし。」

「本当ですか?」
「そうよ。
男の人。将来どうやって食べていけばいいんだって、
文句言われた挙句の話ですって。
他にも女の人でね、跡継ぎが産めない嫁なんて
いらないって、放り出されたなんてことも聞くわよ。」

瑤子は、自分も他人事ではないかもしれないと思った。
正志が便利な女でない瑤子をいつまでも妻にしておく
理由はないと思う。
「でも、ここに入所する費用って結構かかりますよね。
どうしてるんです?」

「残り数ヶ月の命だもの。長い間入院されるよりは
安いと思って、慰謝料がわりに払って
もらったんじゃないの?
お金を払って厄介払いできると思ってる家族も
いるらしいわ。」

瑤子は、唇を噛み締めた。
「ひどい話ですね。病気になったのは、その人の
責任じゃないことだってあるのに。
しかも余命何ヶ月って宣告されて精神的にまいって
いるのに、家族に見放されるなんて、そんな
追い討ちかけるみたいな・・・。」

女性は、遠慮がちに聞いてきた。
「あなたは、どうしてここへ?」
「・・・入所の下見です。」
「あなた自身が?」
「ええ。もう少し先になりますけど。」

「ご主人は、何て?」
「え?」
「結婚指輪。どう見ても新しそうだけど。」
瑤子は左手の薬指を擦りながら、言った。
「私、病気のこと、言ってないんです。」
「・・・え?」
「言ったら、さっきの話の人みたいに
放り出されちゃいそう。」

明るく茶化してみたが、言葉にしたら涙が滲んだ。
瑤子は立ち上がると、女性から顔を背けるようにして
軽く会釈をし、その場から離れた。

今、改めて見直すと、ここは決して健全な場ではない。
施設はシティホテル並みでも、ここにいるのは
非日常を求める人々ではない。
死と現実に向き合わねばならない病人なのだ。
その重い空気が、いつまでも瑤子の背に
のしかかって離れなかった。

ドラマによくある「余命何ヶ月」の伴侶を持つ夫婦の
美しすぎる愛情物語は、文字通り「物語」であり、幻想だ。
瑤子はノンフィクションの闘病記を何冊も読み漁った。
妻を献身的に看病する夫の姿に感動するどころか、
自分は絶対正志に看病されたくないという思いだけが
強く残った。
その決意が今再び、瑤子の胸をよぎった。

夕方マンションに戻ると、玄関には正志の革靴があった。
帰宅にはまだ早いはずだと思って正志の部屋を
覗くと、そこにはベッドに横たわる正志の姿があった。

二人の部屋は別々になっている。寝室も別。
これは二人が必要以上に自分のテリトリーに
踏み込まれることを嫌う性格が一致しての結果だ。
これは良かった。病気のことを隠し通すにはもってこいだ。

瑤子は驚いて傍らに走りよった。すると枕に
頭を埋めたまま、正志が口を開いた。
「どこに行ってたんだよ。」
「・・・。」
答えに困っていると、正志の声が更に不機嫌になった。
「いい身分だよな。亭主が働いている間、
遊んでいられるんだから。」

「・・・具合が悪いのね?」
「久々に、発作が・・・な。」
「病院へは行ったの?」
「ああ。薬をもらってきた。」
隙間風のような苦しげな息を吐きながら、正志は
うつぶせになって目を閉じた。
「食事は、できそう?」
「・・・軽いものなら。」
「じゃあ、準備するわ。」
瑤子は静かに部屋を出た。

結婚して初めての、正志の病気。わからないことが
あれば、すぐに頼るよう正志の母から言われている。
だが、初めから甘えていては駄目な嫁と思われそうだ。
そんなことを考えながら、瑤子は苦笑した。

どう思われようと、どうせ一月もたたないうちに
この家を理由も言わずに出て行く身だ。
望むのは、葬式の時に正志と正志の家族が、
「あんなにいい嫁は二人といなかった。」と泣く姿。

なんて空しい夢。なんて滑稽な未来予想。
だが、それがなければ、瑤子は立っていられない。
正志のための特別な食事を作りながら、瑤子は
訪れたホスピスのことを思い返していた。

病気のことを言ったら、放り出されちゃいそう。
そうだろうか。正志は、そんなに情のない男だろうか。
そうではない、と思いたい。
瑤子を便利な女だと思って結婚したとしても、その実、
少しは瑤子に対する情があってもいいはずだと、
信じたい。

わかっている。こんなに固執するのは、
正志が好きだから。正志の唇が、腕が、
真実の愛を証明してくれたと思ったから。

その時、瑤子は突然眩暈を感じて、フローリングの
床にくずれた。胸の奥が苦しい。
突き刺すような痛みで、思い切り呼吸ができない。
浅い呼吸に耐えながら、瑤子は症状が治まるのを
じっと待つしかなかった。

(私は、いつまでこの家にいられるのだろう?
いつまで、こうして生活できるのだろう?)
本当に倒れてしまう前に、正志の下を
去らねばならない。

気付かれたら、計画は駄目になってしまう。
知らなかったからこそ、後悔の念が深くなる。
それが狙いだ。尽くして、尽くして、突然いなくなる。
「探さないで。」という書置き一つ残して。
それが瑤子の企てなのだから。

・・・

つづく

Author :井浦美朗( イウラミオ)
http://mypage.syosetu.com/

性別: 女性; 血液型: AB型;


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



愛の行方






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