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2017年6月

2017年6月22日 (木)

妄想劇場・特別編 (愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ

過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある

大病後も人生は続く


リスカ癖の彼女様と、必ずメンヘラ女と
付き合ってしまう僕の馴れ初め
ファクスもコピーも取れない
世紀末の1998年の僕は、人生の再起をかけて、
都内にある少々ブラックな編プロ
(編集プロダクション)に勤めていた。

その会社の社長に拾われるまでは、出版業界の
底辺を転々としながら下積みし、「取材執筆兼
カメラマン兼レイアウトから印刷フィルムの訂正まで、
雑誌1冊丸々やれます」という、

要するに何のプロでもありませんというフリーランスとして
独立するも、時期尚早にして実力不足。
いくつかの取引先と縁が切れたり担当していた雑誌が
廃刊しただけで、貧乏の真っただ中に落ち込んだ。

悪い先輩の縁だけは豊富だったので、あれこれ
日銭を稼いで何とか食いつなぎつつ借金取りに
追われつつ。そんなどん底ブラックな日常から
拾ってくれた会社だから、たとえ10日ぐらい会社に
泊まり込みで帰れない日が続いていても、
会社の給湯室がふろ場代わりになっていても、
当時の僕にとっては「ホワイト」だった。

埋もれるほどの仕事があるだけで、毎月の給料が
遅配なく施されるだけで、ありがたいと思っていた。
そんな中で、奴はやってきたのだった。

その後僕のお妻様になった奴は、当時19歳。
この編プロにバイトとして入ってきたのが馴れ初めだ。
ちなみに、当初から彼女になんらかの障害があると
知っていたわけじゃなかった。

第一印象は、やかましい! ただただ彼女は、
猛烈に落ち着かなく騒々しい女の子だった。
見事に毛先バッサバサのブリーチ金髪ヘアに、
ソフト目なパンクスファッションに身を包み、小柄で
ガリガリに痩せた手足。膝小僧に小学生男子みたいな
青タンと絆創膏。

なにせ忙しい会社だから社内で走る者は
少なくなかったが、奴が走れば、その体重でなんで?と
突っ込みたくなるほどバッタバッタと走る厚底靴の騒音。
机から顔を上げずとも奴がどこにいらっしゃるのか
わかる。しかもなぜか、走るフォームはがに股である。
   
何度教えてもファクスは裏表を間違えるし、
コピーを取らせればいつだって傾いているし、
遅刻ばかりしやがる癖にコピーを取っている間に
コピー機に寄りかかってウツラウツラと寝てることも多い。

近所の書店に資料書籍を買いに行けと金を渡せば、
何時間も帰って来ない。何か事故でもあったかと
心配するころにようやく帰ってきたと思えば、
何故かその手にガシャポンのカプセル満載の
ビニール袋。

「それは何ですか?」
「ざっつガシャポンです」
見りゃわかるわ! 問いただせば本屋にお目当ての
本がなかったのでガシャポンに突っ込んだと
悪びれずに言うが、それは立派な業務上横領である。

日々こんな糞伝説を作り上げるものだから、
編集部内では頻繁に彼女を怒鳴る編集部員の罵声と、
呼ばれて社内を走る彼女の足音が響いていた。
   
単純作業でとんでもない集中力

一体、ハチャメチャでツッコミどころ満載すぎる
パーソナリティの少女は何者なのだろうか。
あらゆる行動が想定外だが、仕事が全く出来ない
というわけでもない。というのも、
彼女は「単純作業においての集中力」については、
仕上がりはともかくとんでもないものを持ってた。

何百枚ものデジタル入稿用画像のサイズ変更とか、
細かい画像のパス抜き(背景の切り抜き)作業といった、
誰もが嫌がる面倒くさい作業を頼むと、
MDプレイヤーに突っ込んだヘッドフォンから大音量の
音楽を漏れさせながら、その音楽に身体を揺すりながら、
何時間も休憩なしでモニターに向かって黙々と
マウスを動かしている。

仕上がりが悪くてリテイクを出せば、冗談なのかと
思うほどあからさまな膨れっ面になり、
「ホントに世界はつまんない♪」(ピチカートファイヴ)やら
「つまんないつまんないつまんないなー♪」やら
「わたしは駄目な子、要らない子~」(彼女様オリジナル)等と
絶妙に残念選曲な歌を小声で口ずさみながら、
また何時間もモニターに向かい、ムスッと不機嫌な顔のままで
仕上がりデータの入ったMOディスクを突き出してくる。

信じ難いが、作業中の数時間の間をしても機嫌が
戻らなかったらしい。
ヤバい。思い返すほどに、彼女は規格外だった。

何歳も年上の上司にワタちゅー(石綿さん)やらタカちゅー
(孝志さん)やらサイトゥー(斉藤さん)、てるリンコ
(照井さん)などと彼女だけが呼ぶ奇妙なあだ名を
勝手につけて、臆することないタメ口コミュニケーション
(ちなみに彼らは全員編集長)。

敬語が使えないわけではなく。見ていると敬語を
使わなければならない相手はそもそも苦手であまり
近づいていかないみたいだし、残業で会社に
泊まりになった日には嫌いな社員の机に飾ってあった
私物を夜中にハサミで切り裂いてゴミ箱にフルスイングで
投げ込むという凶悪な側面も持ち合わせている。

おそらく女子集団の中では相当に嫌われるタイプかも
知れないが、「私を嫌いなひとは私が嫌い」の
女王様理論で我関せず。

ここまで規格外だと、何故か年上の上司たちからは
可愛がられ(いじられ)るキャラクターである。
つきあう女性が全員メンタルを病む

そんな奴がなんの縁だか僕とおつきあいすることになり、
奴が「僕の彼女様」になったのは、思えば彼女の
中にあった脆さや危うさに反応する何かが
僕にあったからだろうか。

ここでカミングアウトすると、実は僕がそれまで
おつきあいしてきた女性は、何の呪いか全員が
メンタルを病んで精神科のお世話になっている
女性ばかりだった。

そして、その誰のことも本気で好きだったにも関わらず、
助けることが出来ずに結局逃げ出すようにして
別れてしまったり、彼女様と付き合う直前にも地元の
飲み屋で知り合った女の子にストーカーされかけて
強引に縁を断ったりしてきた中で、僕は一つの
誓いを立てていた。

「もし次に好きになった女性が心を病んでいたとしても、
絶対に逃げない」 
いや、そんなカッコよくなかったな。

むしろ、いつ恋人が自殺しちゃうか分からない恐怖に
怯える日々は辛いし面倒くさいので「どうせ精神病んだ
女性しか縁がないのなら、もう誰ともつきあわなくても
いいや〜、寂しいけど」なモードに逃げ込んで
しまっていたというのが、本当のところだろう。

寂しいです。本音言ったらめっちゃ寂しいけど、
ちょっともう恋愛怖いのです。25歳にして僕自身も、
大変痛々しく面倒くさい男だった。

そんなガードポジションだった僕の心に、この騒々しく
破天荒な彼女様は見事なまでに正拳突きを
ぶちかましてきた。
いやむしろ、ガードなど取りようがなかった。
なぜなら付き合って10日あまりで、仕事中の僕の
PHSに彼女様からこんな電話がかかってきたのである。

「もしもしあたし。今あなたの家。家出してきたから」
「ファ〇ク!?」
大いに混乱である。家出の前に貴様、朝から会社に
連絡入れたか? 無断欠勤は良いとして(良くねえけど)、
荷物はどうしたのか。まさか着の身着のままか。

「いや、お父さんの車に荷物積んで来たから」
とりあえず僕もそんなに人生経験積んできた
わけじゃなかったけど、家出するときに実の父親を
荷物持ちで使うお嬢さんのケースは聞いたことがない。
   
こうして1998年の年末に、彼女様は我が2DKの
アパートに飛び込んできた。
これが2人の馴れ初めだ。
・・

次回へ続く



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こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「雨の糸」




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Bu

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2017年6月21日 (水)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・


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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。

第一の手記

自分の父は、東京に用事の多いひとでしたので、
上野の桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京の
その別荘で暮していました。
そうして帰る時には家族の者たち、また親戚の者たちにまで、
実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、
父の趣味みたいなものでした。

いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、
こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に
笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち
手帖に書きとめるのでした。
父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。

「葉蔵は?」と聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。
何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。
どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか
無いんだという思いが、ちらと動くのです。と、同時に、
人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、
それを拒む事も出来ませんでした。

イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、
おずおずと盗むように、極めてにがく味あじわい、
そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。

つまり、自分には、二者選一の力さえ無かったのです。
これが、後年に到り、いよいよ自分の所謂「恥の多い生涯」の、
重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます。

自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な
顔になり、「やはり、本か。浅草の仲店にお正月の獅子舞いの
お獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが
売っていたけど、欲しくないか」

欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。
お道化た返事も何も出来やしないんです。
お道化役者は、完全に落第でした。

「本が、いいでしょう」
長兄は、まじめな顔をして言いました。
「そうか」父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、
パチと手帖を閉じました。

何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐ふくしゅうは、
きっと、おそるべきものに違いない、
いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、と
その夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、
そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の
机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、
お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、
シシマイ、と書いて寝ました。

自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは
無かったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。
けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って
与えたいのだという事に気がつき、父のその意向に
迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、
客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。

そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの
大成功を以て報いられました。やがて、父は東京から
帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で
聞いていました。

「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、
ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。
はてな? と首をかしげて、思い当りました。
これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、
にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が
欲しくてたまらなくなったんだね。

何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。
知らん振りして、ちゃんと書いている。
そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。
私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。
葉蔵を早くここへ呼びなさい」

また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、
下男のひとりに滅茶苦茶めちゃくちゃにピアノの
キイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、
たいていのものが、そろっていました)

自分はその出鱈目でたらめの曲に合せて、インデヤンの
踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。
次兄は、フラッシュを焚たいて、自分のインデヤン踊りを
撮影して、その写真が出来たのを見ると、自分の腰布
(それは更紗さらさの風呂敷でした)の合せ目から、
小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の
大笑いでした。自分にとって、これまた意外の成功と
いうべきものだったかも知れません。

自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、
またその他ほかにも、さまざまの本を東京から取り寄せて
黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、
また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな
馴染なじみで、また、怪談、講談、落語、江戸小咄などの類にも、
かなり通じていましたから、剽軽ひょうきんな事をまじめな
顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を
欠きませんでした。

しかし、嗚呼ああ、学校!自分は、そこでは、
尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、
甚はなはだ自分を、おびえさせました。
ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの
全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、
死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、
「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。

人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、
そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、
だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、
復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。
想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。

自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、
俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を
得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、
よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで
学校を休んだ事さえあったのですが、
それでも、病み上りのからだで人力車に乗って
学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、
クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。

からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、
学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、
休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、
笑わせてやりました。

また、綴り方には、滑稽噺こっけいばなしばかり書き、
先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。
先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみに
している事を自分は、知っていたからでした。

或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて
上京の途中の汽車で、おしっこを客車の通路にある
痰壺たんつぼにしてしまった失敗談

(しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずに
したのではありませんでした。子供の無邪気をてらって、
わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな
筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信が
ありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、
そっとつけて行きましたら、

先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、
他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、
廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、
やがて職員室にはいって読み終えたのか、
顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、
さっそくそれを読ませているのを見とどけ、
自分は、たいへん満足でした。

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…




紅い雪

2017年6月20日 (火)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・


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「俺の言うことだけ聞いていればいい」 典型的な
九州男児で亭主関白だった父。 お酒を飲んでは
理由なく怒り、 ちゃぶ台をひっくり返していた。
そんな父が大嫌いで、中学の頃から反発していた私は、
高校を卒業したら家を出ることを決めていた。

その矢先に、母が、くも膜下出血で倒れ、 重度の
障がい者に。 厳格な父を中心に回っていた我が家の
生活が 一変することになる。 ちょうど受験を
控えていた私は一浪し、 幼い弟と妹の母親代わりを
しなければならなくなった。

吞んだくれの父親に障がい者の母親。 道を踏み外しても
おかしくない状況だった。 でも、振り向けば不安そうな
目をした弟妹がいた。 ここで私が全てを投げ出してしまったら、
この二人を路頭に迷わすことになる。

誰かのせいにするのは簡単だが、 それで自分の人生を
台無しにしていいのかと自問自答した。
答えは”そんなの嫌だ。自分の人生は自分で決める”だった。
そして、”人生を諦めない”ということを二人に伝えたかった。

共働きでようやく生活出来ていた我が家の経済状況は、
母の入院でどん底に落ちた。 通帳を開いて驚いたのは、
預金がゼロだったこと。

厳しい家計のやりくりに母の介護。 とにかく置かれた状況を
受け入れるしかなかった。 そんな私を救ってくれたのは、
車イスの生活になった母だった。

右半身麻痺と言語障害、自暴自棄になっても仕方が
ないはずなのに、 母は暗く落ち込んだ姿を一度も
見せることはなかった。 一番辛くて悔しいはずなのに……。

倒れる前から、母は小さいことにこだわらない
大らかな性格だった。 父に反抗して夜遅く帰るなど、
私が困らせることをしても いつも「仕方がないな」と
受け止めてくれていた。

その大らかさに、より磨きがかかっていた。
悪い意味で変わらないのは父も同じで、家のことは
何もせず、 相変わらずお酒を飲んでは暴れていた。
そんな父の反面教師ぶりを笑い飛ばすことにした私たちは、
「あんな大人になっては駄目」を合言葉に団結できた。

同級生と同じような青春時代を送ることができず、
失ったものも沢山あった。
だが我が家には、天使のような笑顔の母がいた。
「母の笑顔が見たい」 十年に及ぶ介護をやってこられた
理由だ。

春には菜の花や桜を、夏には海や蛍を、秋には紅葉を、
冬には梅を見に行った。 たいしたところには連れて
行けなかったが、 写真の中の母はいつも笑ってくれていた。
支えているつもりが、母に支えられていたのだった。

このまま穏やかな日々が続くと思っていたが、
神様はまた大きな試練を母に与えた
八年半あまりが経った頃に宣告された母の末期がん。
余命は半年、 もう手遅れだった。

在宅医療の体制も整わない時代だったが、
住み馴れた我が家で最期を迎えさせたいと思った私は
在宅を選択した。

最期のその時まで泣かないと決めても、
ふと気が緩むと、涙があふれてくる……。
そんな絶望の中の光となったのは、またしても母だった。

母は、自分は長くないことを悟っていたはず。
ガリガリに痩せ、寝たきりとなった母の身体には、
点滴の管、尿カテーテル、オムツ、 そしてがんが
腸を巻き込むように大きくなったため、
人工肛門が付けられていた。

ある日、「ほらほら」と私をベッドサイドに呼ぶ母。
「なあに」とのぞきこむと、 ちょうど人工肛門から
便が出るところだった。

まるで珍しいおもちゃを見せるかのようにおどけた
笑顔だった。
その明るさに、 「本当に良いウンチが出たね」と
私も笑った。

母には勝てないと思った瞬間だった。
訪問看護師さんにも、母は拙い言葉で「感謝だわ」と
語りかけ、 帰り際に枕元にある飴やガムを手渡していた。
もし私だったら母のように出来るだろうか……。

生きている意味があるのかと思われる状態だったかも
しれないが、 「最期の最期まで人には役割がある」ということ、
そして「限りある命だからこそ輝く」と教えてくれた。

「仕方ないのよ~」。
悩みを相談するといつもこう言ってくれた母。
これは諦めの気持ちではなく、 悩んでいても仕方がない、
ありのままを受け入れて頑張ろうという意味だった。

母が太陽のように照らしてくれていたから、
私は前を向いて歩けたのだった。

母亡き今も、落ち込んだ時に空を見上げると、
「仕方がないのよ」と屈託のない声が聞こえてくる……。


            
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父が嫌いだった。 ガサツで自分勝手。
とんでもないことをしでかしても、 自分だけは
許されると、どこかでタカをくくっている。

お母さんは生前、言っていた。
「お父さんはあれだね、末っ子の唯一の男の子
だったから、 お義母さんに甘やかされたんだよ。

いいかい、人間っていうのはね、窮地に陥ったときに、  
誰かがなんとかしてくれると思うタイプか、  
自分でなんとかしようと思うタイプか、  
二つに分かれるんだよ」

私が小学生のとき、父はいきなり学校にやってきて
勝手にひとり、授業参観。
「せんせ、すんまへんなあ。
今日しか見れまへんさかい、頼みまっさ」

コメディアンのようにふざけた調子。
当然、クラスは騒然となり、いつも私を冷やかす男子は、
「おい、あれ、おまえの父ちゃん、ちゃうんか?」 と
私をつつく。 (ああ、恥ずかしい、なんでウチの
お父さんはあんなんやろ、  
もっとまともな人やったらよかったのに…)
そう思って俯いた。

あれは高校生のときのこと。 バレーボールの
全国大会決勝戦で、私は大きなミスをした。
競っていた試合。 私の打った一番大事なサーブは、
ネットを越えなかった。

地元の駅に降り立つのが怖かった。
みんなの視線を浴びることを思うと胃が痛かった。
改札を抜けたとき、一番前に、父が立っていた。
父はまったく私の意表をつく姿だった

父はなんとメガネをかけていた。 ただのメガネではない。
カラフルな糖衣チョコがメガネ型のブリスターに入った
駄菓子の代物。輪ゴムで耳にかけている。

「いやあ、○○○(私の名前)、おつかれさん。  
恥ずかしいミス、しでかしたもんやなあ」
大きな声で言ったので、そこにいた人、
みんなが笑った。

私は頬を真っ赤にして、その場を立ち去った。
(ひどい、なんで傷口に塩を塗りつけるような
真似するんやろう。  親子なのに……信じられへん。  

なんてひどいお父さんなんやろう!)
川べりまで走って泣いた。 大きな声で泣いた。
悔しかった。 何もかもが悔しくて、泣けた。

その日、家に帰ると、父はベランダで メガネの
駄菓子をプチプチ開けて、チョコを食べていた。
その丸い背中をよく覚えている。 今なら分かる。

お父さんが自分でも恥ずかしい恰好をすることで、
娘を守ろうとしてくれたこと、 率先してミスのことに
触れることで、周りの揶揄を鎮めてくれたこと。

ただ・・・・・・不器用すぎたよ、お父さん。
今、父が煙になっていくのを眺めている。
真っ青な気持ちのいい天気だ。
ぐんぐん登っていく黒煙の行方を追いながら、
それがやがて「8」の字に見えた。

改札でおどけながら私を待っていた、
あの駄菓子のメガネを思い出した。
・・・


            
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ソ連からの命令が下りました。
「外国人の墓地を更地にして整備せよ」
これに対し、ウズベク人たちは「ニェット(No!)」 と
言って従わなかったのです。
            
なぜか? なぜなら、そこには日本人の墓地が
あったからです。第二次世界大戦において、
抑留された日本人 兵士たちの墓。

日本兵は、ソ連にとっては敵兵です。
にも関わらず、ソ連の一員であったウズベク人たちは、
日本兵士の墓を命がけで守ろうとしてくれたのです。

再び、なぜか? それはウズベク人たちが、日本人を
尊敬する 友人として見ていたからです。
彼らは、日本人兵士のスゴサを目のあたりして
驚いていたのでした。

シベリアに抑留されていた日本人兵士たちは、
日本に帰りたくても帰れない捕虜のようなものです。

絶望と飢えのなかで、抑留生活に本来なら夢も希望も
見当たらないはずです。 にも関わらず、
日本人たちは、ごく日常の暮らしぶりで、
規則正しい勤勉な労働姿勢を彼らに見せていたのでした。

どんな状況でも、手を抜くことをしなかった。
その姿に心打たれたウズベク人が多かったのです。
命がけで、そのときの日本人兵士たちの墓を
守ろうとしたウズベク人。
その判断が全く誤りでなかったことが証明されます。
            
            

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それが、1966年のことでした
ウズベキスタンの首都、タシケントを 大地震が
襲いました。震度8です。
周りの建物が次々に倒壊していく中、無事に残った
建物がありました。

中央アジア最高の格を誇り、オペラやパレエ、
コンサートなどが上演される「ナヴォイ劇場」です。
瓦礫の山となった周囲一面、しかしナヴォイ劇場は、
壁が落ちることも、照明器具が落ちることすら
なかったそうです。

「すごい!この建物を造ったのは誰か?」
日本人でした。
しかもシベリアに強制抑留されていた 日本人
抑留者でした。

「やっぱり日本人はすごかった」 勤勉で規則正しく、
確かな技術を用いた日本人 抑留者たち。
その働きぶりを真近で見ていたウズベク人。
彼らの感銘はすさまじいものだったそうです。

手を抜かない日本人。手を抜くほうが疲れる日本人。
ウズベキスタンでは、「日本人のようになりなさい」と
子どもに諭す母親も現われ、今でも「日本人を
見習おう」が 合言葉になるほどの大変な親日国家です。

僕ら現役の日本人。 サボりたくなったら、先輩たちの
仕事をしてきた 後ろ姿を思い出すのもいいですね。・・・
            
Author :ひすいこたろう
ニッポンのココロの教科書


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、 知りつつ、
  こうして、こうなった

Photo



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隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月19日 (月)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


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付き合って3年の彼女に唐突に振られた。

「他に好きな男が出来たんだー、じゃーねー」

就職して2年、そろそろ結婚とかも真剣に
考えてたっつーのに、目の前が真っ暗になった。
俺は本当に彼女が好きだったし、勿論浮気も
したことないし、そりゃ俺は 格別イイ男って
訳じゃなかったけど、彼女の事は本当に
大事にしてたつもりだった。

なのに、すっげーあっさりスッパリやられた。
どーにもこーにも収まりつかなくて、
電話するも着信拒否、
家行っても いつも留守、バイト先も辞めてた。
徹底的に避けられた。

もーショックですげー荒れた。仕事に打ち込みまくった。
それから半年、お陰で同期の中でダントツの
出世頭になってた。

彼女の事も、少しずつ忘れ始めてた、そんなある日。
携帯に知らない番号から電話がかかってきた。
最初は悪戯とかだと思って無視ってたんだけど、
何回もかかってくる。 仕方ないから出た。
別れた彼女の妹を名乗る女からだった。
その女が俺に言った。

「お姉ちゃんに会いに来てくれませんか?」

・・・彼女は白血病にかかっていて、入院していた。
ドナーがやっと見つかったものの、状態は非常に悪く、
手術をしても 助かる確率は五分五分だという。
入院したのは俺と別れた直後だった。
俺は、病院へ駆けつけた。 無菌室にいる彼女を
ガラス越しに見た瞬間、俺は周りの目を忘れて
怒鳴った。

「お前、何勝手な真似してんだよっ!
俺はそんなに頼りないかよっ!!」

彼女は俺の姿を見て、しばらく呆然としていた。
どうして俺がここに居るのかわからない、という
顔だった。その姿は本当に小さくて、今にも
消えてしまいそうだった。
でもすぐに、彼女はハッと我に返った顔になり、
険しい顔でそっぽを向いた。

俺は、その場に泣き崩れた。堪らなかった、
この期に及んでまだ意地をはる彼女の心が、
愛しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。
その日から手術までの2週間、俺は毎日
病院に通った。けれど、彼女は変わらず頑なに
俺を拒絶し続けた。

そして手術の日。俺は会社を休んで病院に居た。
俺が病院に着いた時にはもう彼女は手術室の
中だった。手術は無事成功。けれど、
安心は出来なかった。

抗生物質を飲み、経過を慎重に見なくては
ならないと医者が言った。
俺は手術後も毎日病院に通った。彼女は、
ゆっくりではあるけれど、回復していった。
そして彼女は、相変わらず俺の顔も見ようと
しなかった。

ようやく退院出来る日が来た。
定期的に検査の為、通院しなくてはならないし、
薬は飲まなくてはならないけれど、 日常生活を
送れるまでに彼女は回復した。
俺は当然、彼女に会いに行った。お祝いの花束と
贈り物を持って。・・・

「退院、おめでとう」

そう言って、花束を手渡した。
彼女は無言で受け取ってくれた。
俺はポケットから小さい箱を取り出して中身を見せた。
俗に言う給料の3ヶ月分ってヤツ。
「これももらって欲しいんだけど。俺、本気だから」

そう言ったら、彼女は凄く驚いた顔をしてから、
俯いた。「馬鹿じゃないの」
彼女の肩が震えていた。

「うん、俺馬鹿だよ。お前がどんな思いしてたかなんて
全然知らなかった。本当にごめん」
「私、これから先だってどうなるかわからないんだよ?」
「知ってる。色々これでも勉強したから。で、
どうかな?俺の嫁さんになってくれる?」

彼女は顔を上げて、涙いっぱいの目で俺を見た。
「ありがとう」
俺は彼女を抱きしめて、一緒に泣いた。
ウチの親には反対されたけど、俺は彼女と結婚した。

それから2年。
あまり体は強くないけれど、気は人一倍強い
嫁さんの尻に敷かれてる俺がいる。
子供もいつか授かればいいな、という感じで
無理せず暢気に構えてる。・・・

——後日談——-
嫁さんのお腹に新しい命が宿ってるってわかった。
「子供は授かりものだから、無理しないで
のんびり構えとこう」とか言ってたけど、
正直諦め気味だった。

まだ豆粒みたいなもんなんだろうけど、
俺と嫁さんの子供が嫁さんのお腹の中にいる。
そう思っただけで、何か訳の分からない熱いものが
胸の奥からこみ上げてきて、泣いた。
嫁さんも泣いてた。

実家に電話したら、結婚の時あんだけ反対してた
ウチの親まで泣き出した。
「良かったなぁ、良かったなぁ。神様はちゃんと
おるんやなぁ」 って。

嫁さんの親御さんは 「ありがとう、ありがとう」 って
泣いてた。皆で泣きまくり。
嫁さんは身体があんまり丈夫じゃないから、
産まれるまで色々大変だろうけど、
俺は死ぬ気で嫁さんと子供を守り抜く。
誰よりも強いお父さんになってやる。

でも、今だけはカッコ悪く泣かせて欲しい。
・・おわり


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小学校6年くらいの時の事
親友と、先生の資料整理の手伝いをしていた時、
親友が「アッ」と小さく叫んだのでそちらを見たら、
名簿の私の名前の後ろに『養女』と書いてあった。

その時まで実の両親だと思っていたので心底
衝撃を受けた。
帰り道、どんな顔で家に帰っていいか分からず、
公園のブランコに座って立てなくなった私に、
親友はずっと付き添っていてくれ、
「よし、じゃあ私と姉妹の盃を交そう」とか言って、
カバンからメロンのアイスの容器を出して、
水道の水をくんで飲んだ。

一体何のテレビを見たのか、
「盃の契りは血のつながりより強いんだよっ」
なんてメロンのカップ片手に言う親友がおかしくて、
思わず泣きながら笑いあった。

十数年たって私が結婚する事になり、
結婚直前に二人で酒でも飲む事にした。
『あの時はありがとう』と、驚かそうと思って、
あの時もらったメロンのカップをカバンに
こっそり忍ばせて飲んでたら、
突然親友がポロポロ泣き出して
「あの時、あの時、気付かせてしまってごめんね」と。
『養女』の文字を隠さなかった事をずっとずっと
悔やんでいたと泣いた。

そんな事、反抗期に親に反発しそうな時も、
進学の学費面で親に言えなくて悩んだ時も、
机の上でメロンのカップが見守っていてくれたから、
あなたがいてくれたからやってこれたんだと
伝えたかったのに、

ダーダー涙流しながらダミ声でドラえもんのように
「ごれ゛ぇ~」とメロンのカップを出すしかできなかった。
親友もダーダー涙流しながら「あ゛~ぞれ゛ぇ!」と言って、
お互い笑って泣いて、酒を酌んだ。
もちろんメロンのカップで。
もうすぐ親友の結婚式があるので思い出した。
・・・おわり


B



歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…

 

「女のまごころ」






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Bu

隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月18日 (日)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


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娘婿を、求めている。
 身分や家柄は、一切問わぬ。
 勇気があり、勘の良い者を求めている。
 我こそはと思う者は、集まるように。
 例え婿に選ばれなくとも、来た者には金一分
 (きんいちぶ)をやろう》

それを見た一人の若者が、飛び上がって喜びました。
この若者は前々から長者の娘が好きだったのですが、
身分が違い過ぎるとあきらめていたのです。

さて、大金持ちで美しい娘の婿になれるとあって、
あちこちから大勢の若者が長者の家に
集まって来ました。
長者は、若者たちに言いました。
「これから、婿選びの試験を行う。

裏山から松の木を転がすから、下で見事
受け止めてみよ。
死ぬかもしれんから、怖い者はこの場を立ち去れ」

見てみると、裏山には大人が三人でも
抱え切れないような、太い松の木の丸太が
用意されています。
それが急な裏山の斜面を転がって来るのですから、
失敗すれば間違いなく死んでしまいます。

「あの、おれやめます」
「おれも、まだ死にたくないから」
「おれも、おれも」
そう言って集まってきた若者のほとんどが、
金一分をもらって帰っていきました。

残ったのは二人の男と、長者の娘の事が好きな
若者の三人です。
「それでは、試験をはじめるぞ」
一人目の男は、転がってくる丸太を軽そうに
受け止め、次の男も何とか受け止めました。

そして三人目の若者は、丸太転がしの用意の出来る間、
長者の家の裏側でふるえていました。
「どうしよう。下手をすると、死んでしまうぞ。
お嬢さんとは結婚したいが、死んでしまっては
結婚どころではないし」

するとどこからか、こんな子守唄が聞こえてきました。
♪裏山からの、松の木は
♪紙で作った、偽物よ
それを聞いた若者は、
(なんだ。紙なら、どうって事はない)と、なんなく
丸太を受け止めました。

この試験では娘婿が決まらなかったので、
次に長者は俵(たわら)を二つ下男に持ってこさせて、
三人に言いました。
「この二つの俵の中には何がどれほど入っているか、
俵に触れる事なく言い当ててみよ」

さっきの丸太転がしでは勇気を、そして今度は
勘の良さを試そうと言うのです。
一人目の男は当てずっぽうを言って間違え、
次の男も当てることが出来ませんでした。

若者は順番を待つ間、また家の裏側へ行って、
「どうしよう? さっぱりわからん」と、考えていると、
また子守唄が聞こえてきました。

♪俵の中身は、アワとキビ
♪入っているのは、一斗と五升
それを聞いた若者は、喜んで長者の前に行くと、

「俵の中にはアワとキビが、一斗五升づつ
入っています」と、答えました。
すると見事に正解で、若者は長者の娘婿に
選ばれたのです。

そして祝言が終って嫁さんになった娘が若者に言うには、
実は嫁さんも前から若者の事が好きで、
あの子守唄は嫁さんが手伝いの娘に
歌わせたのだという事です。

・・・

おしまい


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むかしむかし、藤兵衛(とうべえ)というお百姓がいました。
毎日毎日がんばって働くのですが、いくら働いても
暮らしは楽になりません。
そのうちに、子どもたちに食べさせる物もなくなっ
てしまいました。

「ああ、腹がへったよう」「おっかあ、何かないの?」
「腹がへって、眠れないよ」
子どもたちにねだられても、家にはイモ一つありません。
「みんな、よく聞いてくれ」

藤兵衛は子どもたちを集めると、悲しそうな顔で言いました。
「今まで一生懸命に働いてきたが、暮らしは悪くなる一方で、
この冬をこせるかどうかもわからん。そこで、この土地を
すててどこかよそで暮らそうと思うんだが」
「おっとう、それは夜逃げか?」
「まあ、そういう事じゃ。今出て行くと人目につくで、
明日の朝早くに行こうと思う」

その夜、藤兵衛が夜中に起きて便所に行こうとすると、
納屋(なや→物置)からゴソゴソと音が聞こえてきました。
(何じゃ? ドロボウか? 今さら取られる物もないが)
藤兵衛が見に行くと、納屋に見知らぬ老人がいました。

「誰じゃ、お前は?」
「おや、まだ起きとったか? わしは、貧乏神(びんぼうがみ)じゃ」
「び、貧乏神じゃと?」
「そうじゃあ、長い事この家にいさせてもろうた」
「そ、それで、その貧乏神が、こんなところで何をしている?」

「何って、お前ら、明日の朝早くにここから逃げ出すんだろう? 
だからわしもいっしょに出かけようと思って、こうして
わらじをあんどったんじゃあ」
そう言って貧乏神は、あみかけのわらじを見せました。

「それじゃ、お前もついて来るつもりか?」
「そういう事じゃ」
「・・・・・・」
藤兵衛は家に戻ると、おかみさんを起こしました。
「おい、起きろ! 大変じゃ!」
「うん? どうしたね」

「それがな、貧乏神が家の納屋におるんじゃ」
「貧乏神が? それで、いくら働いても暮らしが
楽にならんかったんか」
「そうじゃ」

「でも、わたしたちはこの家を出て行くんだから、
もうどうでもええよ」
「それが、違うんじゃ! 貧乏神のやつ、わしらに
ついて来ると言うんだ!」

「えっー! それなら、夜逃げをしても同じじゃないの」
「ああ、そう言う事だ」
二人はがっかりして、夜逃げをする元気も
なくなってしまいました。

次の日の朝、貧乏神は新しいわらじを用意して、
藤兵衛一家が出発するのを待っていましたが、
いつまでたってもみんな起きてきません。
「おそいなあ。もうすぐ日が登るのに、
どないしたんだろう?

確か、今朝夜逃げするはずだが、もしかすると
明日だったかな?まあ、いい。
それなら明日まで、わらじをあんでおこうか。

どこに行くかは知らんが、わらじはよけいある方が
ええからな」
貧乏神は納屋に戻ると、せっせとわらじを
あみ出しました。

しかし次の日も、その次の日も、藤兵衛一家は
家を出て行く様子がありません。
貧乏神は毎日わらじをあみ続けていましたが、
そのうちにわらじ作りが楽しくなって、いつの間にか
納屋の前にはわらじの山が出来ました。

こうなるとそのうち、わらじをわけてほしいという
村人がやって来ました。
すると貧乏神は、気前良くわらじをわけてあげました。
「さあ、どれでも好きな物を持っていきなされ」
「すまんのう」「ありがたいこっちゃあ」

村人は次々とやってきて、大喜びでわらじを
持って帰りました。
それを見た藤兵衛は、良い事を思いつきました。
「そうじゃ。あのわらじを売ればいいんじゃ」
さっそく藤兵衛は貧乏神のあんだわらじを持って、
町へと売りに行きました。

「さあ、丈夫なわらじだよ。安くしておくよ」
すると貧乏神のわらじは大人気で、飛ぶように売れました。
けれどやっぱり、暮らしは楽になりません。
「やっぱり貧乏神がいては、貧乏から抜け出せんなあ。
こうなったら何とかして、貧乏神に出て行ってもらおう」

藤兵衛はわらじを売ったお金でお酒やごちそうを
用意して、貧乏神をもてなしました。
「貧乏神さま、今日はえんりょのう食べて、飲んでくだされ」
「これはこれは、大変なごちそうじゃなあ」
「はい、貧乏神さまがわらじをあんでくださるおかげで、
たいそう暮らしが楽になりました。ささっ、これも
食べてくだされ。これも飲んでくだされ」

「そうかそうか。それじゃ、よろこんでいただくとしようか」
貧乏神はすすめられるままに、飲んだり食べたりしました。
そのうちに、すっかり酔っぱらった貧乏神は、
藤兵衛にこう言いました。

「いや~、すっかりごちそうになってしもうた。・・・しかし、
こんなに暮らしが良くなっては、わしはこの家におれんな。
今まで世話になったが、もう出て行くわ」

そして貧乏神は自分で作ったわらじをはいて、
家から出て行ったのです。
藤兵衛とおかみさんは、顔を見合わせて大喜びしました。
「出ていった。出ていったぞ! これでわしらも、
やっと楽になれるぞ」「よかった、よかった」

藤兵衛一家は、安心してグッスリ眠りました。
ところが次の朝、藤兵衛が納屋に行ってみると、
出て行ったはずの貧乏神がいびきをかいて
寝ているのです。
「ま、まだいたのか!」

貧乏神は、藤兵衛を見てニッコリ笑いました。
「おはようさん。出て行こうと思ったが、やっぱり
ここが一番住みやすいからな。これからも、よろしく」
藤兵衛はすっかり力をなくして、その場に
へたりこんでしまいました。

でも、それからも貧乏神はわらじを作り続けたので、
藤兵衛はそのわらじを売って、貧乏ながらも
食うにはこまらない生活を送ることが出来たそうです。
・・・


おしまい


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鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる


「一度見ると忘れられない 動物たち ②」





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隙間産業(ニッチ市場

妄想劇場・漢の韓信外伝ー斉の残党

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・

アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kansin

漢の韓信外伝ー斉の残党

田横がたどり着いた島は、即墨の東の海上にある。
島にはある程度の住民がいたが、田横は意に

介さなかった。
住民の多くは、斉地を本拠に活動する漁師の
家族であり、その中には大陸と島の間を行き来して
生活する者もいた。

つまり田横の顔は、この島では利く。

住民たちは「田氏の王さまがこの島にやってきた」と
騒ぎ、揃って貢ぎ物を差し出したりした。しかし、
その貢ぎ物の中身が揃ってどれも魚であったことは、
田横を落胆させた。

当面三食どれもが魚、という生活が続きそうだ。

並み居る豪傑たちと覇権を争い、人を人とも
思わぬような人生を送ってきた自分が行き着いた
場所…それが三食魚づくしの島だった、ということに
思い至ると、彼としては苦笑いするしかない。

これが天罰だとすると、軽いものではないか。
そう考えると、苦笑いが本気の笑いに変わる。
なんと滑稽な顛末。一種の喜劇ではないか、
とも思えてくる。

しかしこのまま終われば、総じてわしの人生は
幸福なものだったといえるかもしれない。
だが、このまま終わるはずがないとも思う。
あるいは自分はこの島を足がかりにして、もっともっと
東の海上へ逃れなければならないのではないかと。

そして大陸に住む者の誰もが知らない土地へ
たどり着き、そこで自給自足の生活を営むしか
生き残る術はないのではないか、と思うのであった。

もちろんそんなことは出来るはずがない。
仮に見知らぬ土地にたどり着いたとしても、
名族に生まれた自分が畑の土をあさり、素潜りして
魚を採って生活するなど、出来ようはずもなかった。

気位の面もあるが、それ以前に技術的な問題がある。
彼は泳ぎの練習などしたこともなかったし、
作物は育てるものではなく、人に命じれば勝手に
育つものだと思っていた。

この段階に至り、ようやく彼は庶民の逞しさと、
自分の人生の浅はかさを後悔したのであった。
にもかかわらず、つき従う五百名の部下たちは
自分にとてもよくしてくれる。

もう自分には彼らに与える土地も、金もないというのに。
名目的な爵位さえも与えることができない。
それは自分があえて王侯を称さなかったからであった。

普通の人間として、生きたい。
田横はそれを強く願った。そして心の片隅で、
自分にはそんな小さな願いを持つことすら
許されないのではないか、と思っていた。

やがてその思いは皇帝の使者を迎え入れることで、
現実味を帯びていく。
田横としては、なぜ放っておいてくれないのか、
という思いを使者にぶつけるしかなかった。

「私はかつて…陛下の使者の酈食其を
煮殺してしまった。
聞くところによると、酈食其には弟がおり、
漢の将軍となっているそうじゃないか。しかも、
なかなか有能な男だと聞く……。

彼は私を恨んでいるだろう。それを思うと、
とても恐ろしくて上洛などできぬ。勇気がないのだ。
笑ってくれてもいい」
使者は笑わずに答えた。

「陛下は貴殿の罪を許す、とおっしゃっています。
陛下が許すのですから配下の将軍に過ぎない
酈生の弟がそれに逆らうことは出来ません。
どうかご安心なされよ」

田横は歯がみしながら、それに返答する。
「許される、ということであれば…どうかもう
私のことは忘れていただきたい。平民として、
海中の島にとどまらせていただくことを
お許し願いたいのだ。…
…そうお伝えしてくれ」
使者との会見は物別れに終わった。

使者との会話の中で、あらためて気付かされた
ことがある。
自分は、いつの間にか命を惜しむようになった。
不思議なものだ。戦いのさなかにいる時は、
より死ぬ確率が高いというのに、それを気にしたことは
なかった。なにが私をこのような腑抜けにしたのか……。

田横の頭の中には、いま二人の兄の姿がある。
田儋と田栄。ともに乱戦の中で戦死した彼らは、
田横にとって自らの生き方の指標となる人物たちであった。
しかし皇帝に向かって「放っておいてくれ」とでもいうような
返答をした自分の姿はとても情けなく、結果的に
二人の兄の顔をも汚したような気分になる。

今さらなんだ! どうせ……我らが支配した斉は滅んだ。
私が彼らの真似をしたとしても、国は再興しない。
ただの……死に損だ! 無駄死にだ!
そう自分に言い聞かせ、気の迷いをごまかそうとした。

島の端の断崖から海を眺め、思いを馳せる。
あのときの酈食其の言葉。
「指揮官は韓信だ! 
彼に比べればお前らなど…犬に過ぎぬ!」
「犬は犬らしく振るまえ。腹を見せて、降参するのだ」

やはり自分は犬に過ぎなかった。怒りに任せて
酈食其を殺したものの、迫り来る韓信に恐れをなして
逃げ回ったあげく、皇帝相手に見逃してほしいなどと
哀訴するとは……。

武力も持たぬ弁士を殺し、自分より強い相手には
腹を見せる……まぎれもなく私は犬だ。
長兄の田儋は、秦の章邯率いる当代最強の軍に
雄々しく立ち向かった。
次兄の田栄は、項羽を相手にしても決して
卑屈にならず、たびたび剣を交えた。それに比べて
自分は……。

田横は幾日も思い悩んだが、この先どうすべきかと
考えても答えは見つからなかった。
そうしているうちにまるで催促するかのように
漢の使者が再び彼のもとに現れたのである。

「衛尉酈商には、貴殿が現れても決して騒動を
起こさぬよう言い渡した。
関中まで来いとは言わぬ。雒陽まで来て、顔を見せよ。
招きに応ずれば、再び王侯を称する身分に戻れる。
しかし、応じなければ貴殿は滅ぼされよう」

その言葉を真に受けて王侯に戻れるとは思わなかった。
それよりも自分が応じないことで、島の五百名の
部下たちに危害が加えられることを恐れた。
そのように感じてしまうあたり、田横は二人の兄と
本質的に違ったのかもしれない。

結局彼は二人だけの食客を連れて海を渡り、
大陸へ上陸した。

使者は通常随員を連れているものだが、このときの
使者は一人だけだった。軽く見られたような気が
しないでもないが、田横としては人数が少ない方が
気楽であった。

これが二十名を越すほどの随員を伴った使者
だったとしたら、彼にとって雒陽までの道中は
刑吏に引きずり回される囚人がたどるものの
ようだったに違いない。

彼らは雒陽までの道のりを駅ごとに馬車を
乗り換えて、共にした。馬車に乗っている間は、
することがあまりない。必然的に使者との
会話が増えた。

使者は自らを「王鄭」と名乗り、気軽に田横に
話しかけた。しかし、その割にはこの王鄭なる
人物は自分のことを話すことを、あまりしない。

そのことに気付いた田横は、やや不安になる。
それも無理のない話で、彼がこれから連れて
行かれる場所は、いわば敵地であった。
使者がなんらかの理由で自分を欺いて
いるのかもしれないと疑いたくなる気持ちも、
自然なものであった。

「君、いや、王鄭どのは、どこのお生まれか」
相手に出身地を問うことは、この当時では
素性を知りたいという意思表示のひとつである。
田横のこのときの質問もそれに違いなかった。

「臨湘です。それが何か?」
臨湘とは洞庭湖の南のほとりにある城市である。
春秋時代の楚の領地でかなりの奥地であった。
臨湘…長沙人か。漢の勢力はすでにそこまで
広がっているということか……。

田横は内心驚いたが、相手に対してはそれを
悟られぬよう、素っ気なく言った。
「聞いてみたまでだ」
だが王鄭というその人物は田横の顔を
いたずらっぽい目で眺め、「ははぁ、わかりましたぞ。
疑っておいでなのですな?」と言った。

「そんなことはない」
「臨湘はいいところですよ。夏には洞庭湖で遊び、
秋には遠くに見える山々が真っ赤に紅葉する。
冬は殺風景で私にはつまらなく見えるのですが、
それはそれで味わいがある、という人もいます」

王鄭の口調は屈託のないものだった。緊張している
田横には、それが逆に癇に障る。
「君の出身地に興味があるわけではない。聞いてみた
だけだと言ったではないか」

仮に疑っているとしても出身地を偽っていることを
疑っているのではないのだ、田横はそう言いかけたが
なんとかその言葉を飲み込んだ。

「そうでしたか。これはとんだお喋りを…
…申し訳ござらぬ」
王鄭はそう言って微笑んだ。
そうして見ると不思議に長者らしい風格も漂うように
感じられる。

田横は王鄭が使者として下手したてに態度を
構えていることから、疑いなく相手が年下だと
ふんでいたのだが、もしかしたら自分より
年上なのかもしれなかった。

その辺も聞いてみたいと思った。
いや、根掘り葉掘り聞くのはよそう。

・・・

つづく



愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る





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「別れの街」





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月16日 (金)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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小学三年生。体重は20キロ。
私の胸にはあばら骨がくっきり浮かんでいた。

ドッヂボールの時間は、
ボールの当たるのが怖くて逃げ回るだけで、
相手のボールを正面で捕れなかった。

そんなひ弱で臆病な私が四年生になると、
いきなり「学級委員長」に推薦された。

町外から転任してきた、三十歳手前の担任、
M先生の「勉強が出来るより、真面目な人がいい」
という言葉が影響していたのは間違いない。

私は確かに「真面目」だが、クラス45人を
まとめられる性格ではないことは、私自身が
一番知っていた。

それから、私の苦しみが始まった。

M先生から、全校集会の際に列がなっていないと
注意されたり、提出物を誰かが忘れると、
「揃わないのは学級委員長がリードしないから」
とみんなの前で言われたりした。

そのうち、みんなから「ひょろひょろの
学級委員長は駄目だなあ」とあけすけに
言われるようになった。

私は何も言い返せず「学級委員長」という
言葉が日に日に重くなってきた。
学校がつまらなくなり、次第にM先生に対しての
負の感情も生まれてきた。

ある夏の日の休み時間、M先生が校庭へ来て、
私たちと相撲を取ると言い出した。

実は私は相撲が大好きだった。

友だちと上手く遊べないので、家に帰ると、
丸めた布団を相手に戦い、「上手投げ」や
「うっちゃり」などをしていたのである。

M先生はさすがに強く、友だちが次々と、
短時間で押し出された。
「次はYだ。来い、やせっぽ」とM先生が
私を指名してきた。

「こんな先生に負けてたまるか」という
気持ちが湧いてきた。
M先生との相撲は今でもほとんど覚えている。

私は両手をついた後すぐに、頭をM先生の
お腹へぶつけていった。
そしてM先生のベルトを両手でつかみ
「もろ差し」になった。

もう「がぶり寄り」しかないと思い、
腰を低くしてM先生を全力で押した。

M先生は「ウォ、ウォ」と声をあげながら
私を持ち上げようとするが、私は、そのたびに
「外掛け」で防いだ。

「Y君、頑張れ」の声が大きくなっていった
M先生は土俵を回り続けたが、やっと
土俵を割った。

M先生の髪は崩れ、シャツには私の頭の汗が
こびりついていた。拍手が湧きおこった。

M先生からは、「先生の完敗だ。Yは強いなあ。
前に押したからだなあ」と言われた。

その言葉が実に嬉しくて、一躍ヒーローに
なった気持ちがした。

その後の学校生活は、精神的に
解放されたような毎日で、時間が過ぎるのが
早かった。

私の卒業の年、M先生は転勤となった。

離任式のとき、M先生は私の前に止まり、
「Yは相変わらず体は痩せっぽだけど、
心は痩せっぽじゃないぞ。いっぱい強くなれよ」
と言って、右手を差し出してきた。

先生の手は大きくて厚かった。

時は過ぎ、成人式の夜。母が「お前は、
あの先生のおかげで変わったと思うよ」
と言い出した。

「お前が学級委員長のとき、夕方に先生が
私の職場に来て、『実は、私が怒ってばかりいるせいか、
最近のY君は元気がなく、おどおどしています。

何か自信を持たせたいのですが、
Y君の興味は何ですか?』って神妙な顔で
いきなり聞くから、『相撲ですよ』と答えたことがある」

さらに、担任でなくなってからも、
私が卒業するまで母の職場をよく訪れ、
私が掲示委員会の委員長になったこと、
友だちの喧嘩の仲裁に入ったこと、
全校生徒の前で話したことなどを伝えに来ていたという。

あのとき、M先生がわざと私に負けたことを知ったのは、
いつ頃だっただろうか。

体は痩せていても、心は太くもって前に押していくこと、
そして自信を持つことの大切さを、
体で学ばせていただいた。

人のために役立つ力が、本当の強さであることも。
M先生の気の利いた負け相撲は、
私の人生を左右した大一番そのものである。

Author ::PHP特集「好きなことをして生きていく」




B447111            

            

勤めていた小学校で、三年生を受け持っていた
ころのことです。
担任していたクラスには、自閉症のA子さんと
ダウン症のB子さんの、二人の女の子がいました。

給食の時間はずいぶん苦労しました。
食べ物をこぼし、口の周りは汚れ、
食べてみて美味しくないものは吐き出す始末。

私は二人を左右にすえて、ティッシュ、雑巾、
タオルを構えて、食べさせるのに奮闘していました。

他の先生からも「給食時間は大変ですね」と声を掛けられ、
自分はいいことをしていると思い込んで頑張っていました。

ところが、五月の連休明けの頃、クラスの子どもたちが、
「給食を一緒に食べたくない」と言い出しました。

私はその声を無視するわけにもいかず、
ハンディキャップをもっていても頑張っていることの
意味を話して、学級会でみんなに考えさせることにしました。

しかし、話し合いを進めるうちに矛先は、私に
向けられたのです。
「先生はコスかもん(ズルイという方言)」と言うのです。

自分はこれだけ一生懸命しているのに、まだ子どもだから、
この大変さは理解できないことなのだとムカッとしましたが、
その気持ちを抑えて、「どうしてそう思うんだい?」と
聞きました。

すると子どもたちからは、思いがけない言葉が
返ってきたのです

子どもたちの言葉をまとめると、こうです。

「前にA子さんとB子さんのお母さんが来て、一緒に
給食を食べていたときには、ティッシュやタオルを
持っていなかったよ。

こぼれたのは全部お母さんが食べていた。
でも先生はふきとって捨ててしまうじゃないか」
と主張するのです。

私は、母親同然にはなかなかできないなぁと思い、
ためらっていると、「A子ちゃんたちもこぼれたのは
自分で食べたらいいよ」と言います。

自分で食べられないから、苦労をしているのに
と思いながらも、大変さが分かればすぐ頼ってくるに
違いないと考えたので、

「では、みんなが言うようにしよう」と
学級会は一旦終わりになりました。

それからというものの、子どもたちと机を並べて
食べるようになったA子さんとB子さんは、
周りの子どもたちから矢継ぎ早やに注意を受けていました。

それでも、二人は必死に頑張っているようでした。
二人が「もう食べたくない」といつ投げ出すか、
私はひやひやしながら見ていました。

やがて一か月が過ぎた六月頃、二人は
ほとんどこぼさず、汚さず、吐き出さずに
食べられるようになっていました。

私はクラスの皆をほめました。
それは同時に私の敗北宣言でもあったと思います。

私は、二人は上手に食べられないのだと
決めつけて、自分が食べさせなければとばかり
思っていました。

つまり、子どもの伸びる能力にふたを
していたのです。

「先生はズルイ」と言われても、子どものくせに
生意気を言うな、としか思っていませんでした。

Author :ゆるゆる倶楽部 まとめ


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「神戸北クラブ」






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隙間産業(ニッチ市場)

 


2017年6月15日 (木)

妄想劇場・特別編 (されど愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ

過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある


大病後も人生は続く

15時16分、お妻様起床
      
フリーランスの執筆業なので、自宅2階の寝室隣が、
職場という名の仕事部屋。
特に打ち合わせや取材などで外出予定がなければ、
朝7時の起床後に1階茶の間に降りて軽く掃除だけやって、
すぐに仕事部屋にこもる。
      
誰に管理されているわけでもないが、1日の理想の
スケジュールは、軽食をとりつつも15時ぐらいまで
集中して、1日のタスクの大半をこなしてしまい、
残りの時間は休息タイムと若干の推敲作業に
あてるというもの。
      
何日かぶりに、そんな理想モードで仕事が終わった
年の瀬のある日、15時16分。午後の陽射しと
淹れ立て珈琲の香りも快適な1階茶の間に、
奴らがやってきた。
      
      ダバダバ、ニャー、ドスドス、ニャッパー。
階段を駆け下りて茶の間に駆け込んでくる、
合計23キログラム、5匹の猫。そして、
猫に遅れること数秒で、
「はよーざまー」(おはようございます)と
気の抜けた声で入って来るのは、奴らの主。
      
頭ボサボサで半分目が開いていないパジャマ姿の
我が「お妻様」、おん歳38歳である。
様がついているのは、ヤツは怒らせると怖いというか、
むやみにしつこいからである。
      
全然おはような時間じゃないが、お妻様は
宵っ張り体質でたいがい朝方まで起きていて、
この時間まで猫5匹と寝室で絡まりあっているのが
平常運転。パジャマ姿なのも平常モードで、
お妻様は基本的に外出予定がなければ1日中
寝間着のままだ。

ていうか貴様、なぜ今日「も」靴下片っ方しか
はいてないのだ。
面白いので観察しよう。
      
まず3桁まで血圧が上がることがない超低血圧の
お妻様は、ここからの起動に時間がかかる。
大昔のメモリが足りない安物パソコンみたいに、
なかなか起動しない。
      
窓辺に歩み寄り、陽射しを仰いで「溶ける〜」と
呟きながら庭のポストを確認しに行き、
戻ってくると猫5匹に絡みつかれながら
猫水の入れ替えと、5匹分の猫飯を皿に計量。
見ればその目は未だまともに開いていない。
      
もつれる足でトイレに行く道すがら、
「こんにちは〜」誰と話してるの!? と振り返れば、
天井を見上げて「君はここで越冬するつもりかい?」
視線を追えばクモさんである。
      
お妻様はクモを見ても、キャーともギャーとも
言わない。
家の中にクモがいるのは我が家が農村の
緑に囲まれたボロい中古住宅だからではなく、
お妻様がクモさん大好きだからである。
      
この家に越して来る前のアパートでは色とりどりの
ハエトリグモに「もっくん1号」「もっくん2号」などと
名前を付けて、荷物と一緒に引越してきたぐらいだから、
天井の角や鴨居にクモが張った巣を
僕が掃除すると「なにしてくれとんじゃー!」と
お妻様はめっちゃ怒る。
      
そのため我が家の端々には彼らが自由自在に
巣を張り、ただでさえ古い家が少しホラー風味だ。
時折、子どもの手の平ぐらいあるアシダカグモが
猫どもと大バトルを繰り広げていたりもするから、
虫が苦手な方には冗談抜きのホラーハウスである。
      
「ガッツ石松♪ ガッツ石松♪ 」
やれやれ。トイレに入ったっきり出て来ないのは、
多分トイレの中に積んである
『発光する深海生物図鑑』だとか
『日本の猛毒を持つ生物図鑑』だか
謎の蔵書を読んでいるのだろう。

ようやくトイレから出てくると、紙パックのココアを
冷蔵庫から出してひとくち。
僕の坐る茶の間テーブルの隣に坐ると、
ぼんやりしながらゆらゆら揺れている。
どうやらまだまだ脳は起動準備中らしい。
      
ちなみにお妻様の毎日の朝ご飯は、バナナと牛乳と
豆乳をミキサーで混ぜた特製バナナジュース。
ご自分でお作りになることになっている。
      
目を閉じて船をこいでいるので「バナジュー飲みなよ」と
話しかけると、僕の声に反応してニャーと寄ってきて
立ち上がる猫と手を合わせて「ハイタッチニャー」。
え、猫とハイタッチして、俺の言葉は無視っすか!?
      
その後も観察を続けた結果のお妻様の行動は
こんなである。
前日に僕が飲んだ安物ワインの瓶にじっと見入る。
瓶を置いて、そのままテーブルに突っ伏し、
ガバッと起き上がって深いため息一発。
      
起床から16分、再び天井を見上げて「あのもっ君
(クモ)はどうするべき? 
戸棚の中に入ってくれればいいんだけど」
(床に降りてきて猫に惨殺されるのを
心配しているらしい)。
      
再びワインの瓶を手にとり、「子鹿?」
(瓶に描かれた『プードゥ』(小鹿)のシルエットが
気になっていたらしい)。
      
最も太った猫を膝に抱えあげ、フヨフヨの猫腹に
額を埋めていると思いきや、唐突に「ガッツ石松♪ 
ガッツ石松♪ ね〜ガッツ石松だよね〜」と
猫と会話。意味が分からん。
      
「なにそれ?」と聞けば、「あれガッツ石松じゃん?」
答えになっていない!「だから何それ?」
「いまお外でトラックの人がバックしてて、バックします、
バックしますって警告音がガッツ石松なんだよ
(って聞こえるんだよ)」
      
へえーそうですか。僕は君に早くバナナジュース
飲んで欲しいんだけどな〜〜。イライラ。
      
ちなみに超省エネな体質のお妻様は、朝(?)の
バナナジュースを飲むと、その次に食物が
食べれるようになるのは4〜5時間後。
無理に食べると逆流性食道炎を起こすという
持病もある。

我が家では炊事は僕の担当なので、お妻様の
朝バナナが遅れれば遅れるほど、僕が1日の
家事を終えて休める時間が遅くなる。
      
そして起床24分後、ようやく立ち上がったと思いきや、
ブラシを取り出してボッサボサの髪をとかし出すお妻様。
「あー、お風呂入らなきゃ…」って確かに君、
そのツヤッツヤのキューティクル(脂)、いつから
風呂入ってねーんだこのヤロー。
      
再び猫がニャー。「お前ごはんなの?」
どうやらさっきのターンで餌を食べなかった猫が
食事らしく、座り込んで餌を食べる猫の背中に
ある小さな円形脱毛をチェック。

俺はね、猫じゃなくね、貴様が飯を食うのをね、
一生懸命待っているんだけどね……。
猫のご飯が終わるのを見届けると、居間の座椅子に移り、
タブレットでメールチェックを開始。
なし崩し的にSNSチェックなど始めてしまっているらしい。
      

「で、お妻様は何をしているのかな?」
「Facebookとかメールとか見てるよ」
「それはバナジューのあとじゃ駄目なのかなあ?」
「ごめん」 
でも、動かないお妻様。あー、イライラ。
      
「働いたら負けでごじゃる」
そんなこんなで結局、お妻様のOSがまともに起動し、
キッチンに立ってバナナの皮をむき出したのは、
起床41分後! 

本当に君を見ているとwindows95時代の
パソコンとか思い出しますよ。
絶対インテル入ってない。
      
しかもバナナの実についている筋的なものが
気になるお妻様はバナナの皮をむいて小さく切るだけの
作業にみっちり5分をかけ、ついでにまな板を倒して
「ごめんごめん」となぜかまな板に謝罪。
      
やっとミキサーにバナナと牛乳と豆乳を入れ、
スイッチオン! したと思ったら、今度は自分の服に
ついた糸のほつれが気になったらしく、作業中断。
ハサミを出して糸をカットするも、切った糸は
ゴミ箱じゃなくコンロの方にポイ。
ハサミは出しっ放しで、ミキサー再開……。
      
ようやくできたバナナジュースを手に取ったお妻様は、
茶の間のテレビ前に落ち着くのであったが、
ツッコミどころはさらに加速する。
      
ニュース専門チャンネルを見ながら唐突に
「ねーこのお父さん熟女好きなのかな?」
46歳の女性の息子が母親の再婚相手の男性
(24歳)をハサミで刺したという報道の感想らしい。

僕に話しかけているのか猫に話しているのか
わからないし、いずれにせよ下らないので
無視していると、
「ねえねえねえ、熟女好きだったのかなあ?」
知るか!!

そう言えばお妻様、あなたさっきコンロの方に
糸ゴミポイ捨てして、ハサミも出したままですけど? 
指摘すると、「ふんどしふんどし イチゴパンティ」
ってお妻様、それは何かの言い訳の
言葉なのでしょうか?

(漫画『ワンピース』からの引用らしい)
いいから早く、その、一口飲んだだけで座卓に
置きっぱなしバナナジュースを! 
再び手に取りやがれ!

結局こうしてお妻様がバナナジュースの朝食を
終えたのは、起床から1時間14分後なのであった。
ハアハア……。
      
「さてお妻様、クイズです。今日、君が起きてから
何分ぐらい経ったでしょうか?」
「えー、30分ぐらい?」
その2倍半ですよコノヤロー。
      
賢明な読者の皆さんはお気づきでしょう。
お妻様は、いわゆる大人の発達障害さんである。
注意障害が激しく、ひとつの作業をしていても、
目に入った他のものに注意をそがれると、
本来やっていた作業を遂行することがまずできない。
      
テレビを見ながら食事などしていると、
1時間以上かけて「おかず1品のみ」ということもある。
遅いのはほかのことに気を取られてしまうから。

1品のみなのは、他の皿の存在に「気付かない」からだが、
別にうちの食卓は貴族のテーブルみたいに
端っこから端っこまで何メートルもあるわけじゃない。
      
逆にスイッチが入って何かに集中すると
時間の感覚を喪失するようで、1000ピースもある
糞面倒くさそうなジグソーパズルを半日で
仕上げたりもする。

このスイッチがだいたい夜中に入るものだから、
寝るのはたいがい夜明け間近ということに……。
自発的に行う家事と言えば、猫の世話のみ。
      
入れてやらなければ風呂にも入らない
(体臭がほぼゼロなのでそれでもスッキリした
顔をしているのがまた腹立つ)、
食べさせないと野菜絶対食べない、

こちらが無視していてもひたすら何か
(猫とかクモとかカマキリとか金魚とか
窓にひっついたヤモリとか)と話しているし、
連れ出さなければ一歩も自宅を出ないし、

率先して家事はやらないくせに10年来
無職の無収入で、平然と
「働いたら負けでごじゃる」とか言いやがる

「ようやくあたしの気持ちが分かったか 」
      
「鈴木サン大変ですねえ」
周囲からそんな苦笑混じりの同情を
投げかけられつつ、同棲5年の結婚13年半。
おつきあい開始のときは19歳だったお妻様は、
今や立派なアラフォー無職である。
ああ、大変でしたとも。絶対あんたらが思ってるより
激大変だった! 
      
お願いしても働いてくれないし、不安定なフリーの
記者業でシングルインカムは辛かった。
18年のうち、大半の時期は炊事も洗濯も掃除も、
僕独りで背負い込んで来た。
      
けれども、実はこの1年ほど前から、お妻様は
劇的に変化した。それなりに家事を完璧にこなし、
以前は散らかり放題だった我が家は快適に
維持されて、僕の担当する家事や家事にかける
時間も劇的に減少した。
      
一体我が家になにが起こったのか!?
      
別にお妻様の発達障害が直っちゃった
ワケじゃないのは、上記観察録を見ての通り。
劇的に変わったのはお妻様ではなく、僕の方だ。
      
2015年5月、僕は脳梗塞を発症し、
軽度の高次脳機能障害を抱えることとなった。
      
脳梗塞=脳の血管が詰まって脳細胞が
お亡くなりになってしまうこと。
高次脳機能障害=脳細胞がお亡くなりになったことで、
認知機能や情緒コントロールなどに障害が起きること。
      
だが実はこの高次脳機能障害とは、
「後天的発達障害」と言い換えても良いほどに、
その当事者感覚や抱える不自由感が一致している。
もちろん脳の先天的障害である発達障害と違い、
高次脳機能障害はリハビリや時間経過で
回復していくという違いはある。
      
僕自身の高次脳機能障害もほぼ2年をかけて
大幅に改善したが、ここがポイント。
僕自身が高次脳機能障害を抱えたことは、つまり僕が
一時的とはいえ、お妻様と同じ不自由感を味わった
ということだ。
      
「ようやくあたしの気持ちが分かったか」。
そうお妻様は僕に言い、障害を持つ者の先輩として、
僕の障害の受容やリハビリを全面的に支え続けてくれた。
その一方で僕は、後悔の念に苛まれまくることになった。
      
「なんで〇〇できないの?」
険しい口調で、いったい何百回、何千回、
僕はお妻様のことをなじり続けてきたことだろうか。
      
語弊を恐れず言うならば、障害とは、機能が
欠損しているということ。僕がお妻様に言い続けてきた
叱責の言葉は、片足を失ってしまった人に
「なんで両足で歩かないの? 

遅いから両足で歩けよ」と言い続けてきたような
ものだったのだ。なんという残酷なことを、
無意識にやってきてしまったのだろう。
      
なんでって言われても、できないものはできないのだ。
みずからが高次脳機能障害になったことで、
ようやくそのことに気づけた。
      
そして、改めてお妻様がなにができないのか、
「何だったらできるのか」を深く考えた結果、
僕はそれまで15年以上僕を苦しめてきた
「仕事も家の中のことも全部僕が背負う」という
重荷から解放され、お妻様に小言を言うことはなくなり、
お妻様は家事の大半を担うようになった。

現在では1日の家事にかける時間と労力は、
お妻様の方が多いぐらいだと思う。  
嗚呼、本気で思う。
こんなにもお妻様が動いてくれるなんて、夢のようで、
信じられない。
色々辛かったけど、脳梗塞になってよかった。
      
同時に思うのは、これまでの記者活動の中で
会ってきた人々のこと。そこには、様々な障害を持つ
パートナーに苦しんでいる人や、障害を抱えていることが
原因で陰惨なDVの被害者となってしまった
女性などが数多くいた。
      
確かに発達障害を抱えた大人は、加害的な面と
被害者になり易い側面を併せ持つ。
けれども彼ら彼女らは、他に得難いユニークな
パーソナリティの持ち主だし、ちょっとした
コツさえつかめば、家族も含めてその障害と共存して
平和に家庭を運営していくことは、十分に可能なのだ。
      
「ちょっとしたコツ」だって、我ながらよく言うわ。
実際に僕がそれを獲得するには15年以上の
同居生活と自身の脳梗塞経験まで必要になったが、
きっとその経緯は世の中のアンハッピーな
発達障害さんたちとそのパートナーさんたちに、
ちょっとは役立つ情報かもしれない。
      
世の中のギリギリなカップルや夫婦たちへ、
お妻様の辛さを分かってあげられずに叱責し続けた
僕自身の人生の懺悔も込めて、僕ら2人の記録を
掘り起こそう。
      
「お妻様、そういうことで連載にしますけど、
いいですよね?」
そう聞くと、キラキラした笑顔で人差し指と親指で
丸を作ってOKサインのお妻様。
「OKなのね。ありがとう」
      
「そうじゃなくて、マニー(money)」お金!!
貴様そこでギャラの要求ですか!?  
コノヤロー分配率は相談させてください。・・・

次回へ続く



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こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「信じています」




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2017年6月14日 (水)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・


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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。



第一の手記


自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、
めいめいのお膳ぜんを二列に向い合せに並べて、
末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、
その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、
十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている
有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。

それに田舎の昔気質かたぎの家でしたので、
おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、
豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、
いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。

自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた
震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、
人間は、どうして一日に三度々々ごはんを
食べるのだろう、

実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の
儀式のようなもので、家族が日に三度々々、
時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を
順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを
噛かみながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに
祈るためのものかも知れない、とさえ
考えた事があるくらいでした。

めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、
ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。
その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように
思われてならないのですが)しかし、いつも自分に
不安と恐怖を与えました。

人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために
働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど
自分にとって難解で晦渋かいじゅうで、そうして脅迫めいた
響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

つまり自分には、人間の営みというものが未いまだに
何もわかっていない、という事になりそうです。
自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の
観念とが、まるで食いちがっているような不安、
自分はその不安のために夜々、
転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた
事さえあります。

自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は
小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に
言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、
かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、
比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように
自分には見えるのです。

自分には、禍わざわいのかたまりが十個あって、
その中の一個でも、隣人が脊負せおったら、
その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのでは
あるまいかと、思った事さえありました。

つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、
まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、
ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、
しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の
十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、
凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、

それは、わからない、しかし、それにしては、
よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、
屈せず生活のたたかいを続けて行ける、
苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、
しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を
疑った事が無いんじゃないか? 

それなら、楽だ、しかし、人間というものは、
皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、
わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快そうかい
なのかしら、どんな夢を見ているのだろう、
道を歩きながら何を考えているのだろう、
金? まさか、それだけでも無いだろう、

人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は
聞いた事があるような気がするけれども、
金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、
いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、

……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、
自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に
襲われるばかりなのです。

自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。
何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
そこで考え出したのは、道化でした。

それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。
自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、
人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。
そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間に
つながる事が出来たのでした。

おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は
必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき
危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。

自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、
彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、
まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに
堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。

つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を
言わない子になっていたのです。
その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、
他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、
必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。

これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。
また自分は、肉親たちに何か言われて、口応くちごたえ
した事はいちども有りませんでした。

そのわずかなおこごとは、自分には霹靂へきれきの如く
強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、
そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」とか
いうものに違いない、自分にはその真理を行う力が
無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのでは
ないかしら、と思い込んでしまうのでした。

だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。
人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい
思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を
黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。

それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりして
いい気持がするものでは無いかも知れませんが、
自分は怒っている人間の顔に、獅子ししよりも鰐わによりも
竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。

ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、
何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で
寝ていて、突如、尻尾しっぽでピシッと腹の虻あぶを
打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、
怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも
髪の逆立つほどの戦慄せんりつを覚え、
この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも
知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。

人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、
人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、
そうして自分ひとりの懊悩おうのうは胸の中の小箱に秘め、
その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、
ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化た
お変人として、次第に完成されて行きました。

何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、
人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」の外にいても、
あまりそれを気にしないのではないかしら、
とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、

自分は無だ、風だ、空そらだ、というような思いばかりが
募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、
家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、
必死のお道化のサーヴィスをしたのです。

自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て
廊下を歩き、家中の者を笑わせました。
めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、
「それあ、葉ちゃん、似合わない」と、
可愛くてたまらないような口調で言いました。

なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て歩くほど
、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを知らぬ
お変人ではありません。

姉の脚絆レギンスを両腕にはめて、浴衣の
袖口から覗かせ、以もってセエターを着ているように
見せかけていたのです。

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



蜩 ひぐらし

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・


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テレビドラマ『スイッチガール』『主に泣いています』や
ドラマ・映画『信長協奏曲』といった作品で脚本家として
活躍する宇山佳佑。

その新作書き下ろし小説『桜のような僕の恋人』は、
美容師の有明美咲とカメラマンになることを夢見る
朝倉晴人の約1年の恋を描くラブ・ストーリーだ。

夏が終わりかけた、ある日の午後。晴人は初めて入った
下北沢の美容室で出会った美容師の美咲に一目惚れ。
美咲と会うことを目的に店を訪れるようになっていく。
やがて訪れた翌年の桜の季節、晴人は彼女を
デートに誘うことを決意。

ところが、ヘアカット最中に誘いの言葉を口にしたところで
大ハプニング!なんと美咲がハサミでうっかり晴人の
耳たぶを切り落としてしまったのだ。

病院に運ばれて耳たぶは無事に縫い付けられたものの、
デートのお誘いを思わぬ形で失敗して落ち込む晴人。
そこに美咲が息を切らせて駆けつけてきた。
何度も頭を下げる美咲が「わたしにできることがあれば、
なんでも!」と言ったとき、「フェアじゃない」ということを
わかっていながらも晴人は「僕とデートしてください!」と
要求。

美咲は思わず絶句しながらも晴人の誘いに乗ることに。

春の陽光が穏やかに輝く日、初めてのデート。
晴人は美咲にひとつの告白をすることになる。
それは自分が“プロのカメラマン”だと偽っていたこと。

カメラマンになるという夢を持っていたことは事実だったが、
プロの現場の厳しさに逃げ出してしまった晴人は、
その夢を諦めてしまっていた。

そんな晴人の“嘘”を知った美咲は自分が「職業で
人を判断するような女」と思われていたことに激怒。
そして自分の夢をあっさり諦めてしまった晴人の
情けなさにも腹を立てるのだが、

晴人はそれを自分への激励と誤解してしまう。
そして、もう一度カメラマンの夢を目指す気になって、
美咲に「僕はあなたに相応しい男になってみせます!」と
宣言。

そんなまっすぐな言葉に怒っていたはずの美咲の胸は
思わず熱くなって・・・。
晴人の純真な想いに美咲も惹かれていき、やがてふたりは
恋人同士になる。つき合い始めたばかりのぎこちなくも
初々しいやりとり、少しずつ親密になって距離が近づき、
進展していくふたりの関係。

好きな人と時を共に過ごす幸せ・・・
しかし、そんなふたりの始まったばかりの恋の喜びは
無残に断ち切られる。

美咲が通常の何十倍もの早さで老いていくという難病を
発症してしまうのだ。
急速に年老いていく自分の姿を見せたくないと
悩んだ美咲は晴人に一方的に別れを告げる。
そんな美咲の態度の急変に晴人もまた混乱していく。
2人はこのまま終わってしまうのだろうか…?

突然の悲劇に襲われたふたりの選択。
それが正しいものであったのか、その判断は人によって
分かれるだろう。しかし、それは相手を思う気持ちゆえの
行動であったことだけは確かだ。

そのどこにも行き場のない想いの切なさ、
取り返しのつかないすれ違い、儚く散っていく恋。
そこに人の運命の非情と残酷さ、

そして恋に生きることの美しさを感じるからだろう。
世界の終わりのような悲しい出来事の後も、
時はただ移ろいでいく。

季節はめぐり、桜はまた同じように花を咲かせる。
その桜の花と同じようにいつまでも変わらない
想いはあるのだろうか。

そんな晴人の問いに自分を重ねてしまう人もきっと・・・。


  

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「親父が倒れた!!」
その知らせを聞いたのは、高校三年生になったばかりの、
進路ガイダンスの最中だった。
僕は動転しながら、家族や親戚と横浜へ向かった。

岩手から横浜までの距離が果てしなく遠く感じられた。
親父は現場監督だった。
その日も現場で指揮をしていて、不幸にも倒れてきた
機械の下敷きになったのだ。

頭蓋骨骨折で意識不明。絶望的だった。
だが親父は驚異的な生命力で一命をとりとめた。

その代わりに左足を失って・・・
眠ったままの親父の顔を見ていたら、
ボロボロと涙がこぼれてきて止まらなかった。

と同時に、自分は長男だからしっかりしなきゃいけない、
という気持ちがわいてきた。
そして真っ先に浮かんだのは、大学進学のことだった。
ただでさえ生活が豊かでない我が家。

それでも親父は僕を大学へ行かせようと出稼ぎにまで
出て、入学費用を稼ぎ、そのあげくに事故に遭った。
もしかしたら僕が悪いのかもしれない。

そんなことを考えていると、窓から見える横浜の夜景が、
また少しにじんで見えた。そして心の中で決意した。
もう大学は諦めよう。
これからは僕が父のために働く番だと。

数日後、付き添いの母を残して、僕と妹は
岩手へ戻った。
まだ眠ったままの親父のことは気がかりだったが、
僕と妹には学校があった。

そして、その日から僕の闘いが始まった。

妹はまだ小学校三年生だったから、
その世話はすべて兄である僕がやらねばならなかった。
朝起きて、洗濯機を回しながらの朝食。
妹を小学校へ送り出した後、慌ただしく高校へ。

授業が終われば、帰り道スーパーでお買い物。
家に戻って、束の間の復習。
妹に食事をさせ、風呂に入れ、寝かしつけた後、
やっと問題集に向かった。

大学進学はとっくに諦めていたけど、勉強だけは
続けたかった。
それに家が大変で、成績が下がったなんて
言われたくなかったからだ。

≪中略≫

やがて五月になり、親父が目覚めたとの連絡が入った。
父は事故の記憶を失っていて、
真っ先に言ったのは、僕の進学のことだったと言う。
そして「合格しろよ」と言ったそうだ。

僕は複雑な心境だった。
そんなある日、担任のО先生が二枚の
紙を持ってきた
一枚は育英会の奨学金申請書。
もう一枚は、先生が自ら作ってくれた、
奨学金がもらえる大学のリストだった。

先生は一通り説明してくれた後、
「俺だけじゃない。どの先生も、お前のこと
応援してるから、頑張れ。負けるな!」と
励ましてくれた。

本当に辛い時期だったから、その言葉が
心に沁みた。
そして僕は、”やるだけやってみよう”と思った。
またいつもの生活が始まったが、もう僕は
泣かなかった。

五月も下旬になると、妹の遠足があった。
いつもなら母が腕によりをかけて弁当を
作るところだが、今回は無理だった。

近所のおばさんに頼めば作ってもらえたが、
僕はこれ以上頼りたくなかった。だから
兄である僕が作ることにした。

大きくて不細工なおにぎり二個とゆで卵。
タコの形に切ったウインナーとハンバーグ。
僕にとっては最高のお弁当のはずだった。
だがやはり失敗した。

ショックを受けた僕は「人に見せるなよ」と
妹に言い聞かせ、送り出したのだった。

ところが、その日、帰ってくるなり妹は、
「みんなスゴイってほめてたよ!」と嬉しそうに言った。
そして先生から頼まれたという手紙を僕に渡した。

それには、妹が
「これ、お兄ちゃんが作ったの」とみんなに
自慢しながら、おにぎりにかぶりついていたということと、
「大変でしょうが、頑張って」という励ましの言葉が
記されてあった。

僕は嬉しかった。こんな情況の中でも暗くならず、
元気に振る舞っている妹が誇らしかった。
小学校三年生と言えば、まだ母親が恋しくて
しょうがないはずなのに。

そして先生からの言葉。
ここにも僕たちを見守ってくれてる人がいた。
そう思っただけで、また勇気がわいてきた。

あくる年の四月、菊池さんは晴れて大学生になることが
できました。

≪後略≫

現在、放送局のアナウンサーとして活躍中の菊池さん。

菊池さんの番組に寄せられる中高生の便りを受けつつ、
豊かではあるが何か欠けていることを、菊池さんは
感じるそうです。

それが何かを、自分の番組から感じ取ってくれればと、
マイクの向こう側に向けて、メッセージを送り続けています。
菊池さんの「恩返し」は、”頑張れ”の一語を
決まり文句のように使うことです。

なぜなら、その言葉で本当に頑張れることを、
その言葉で見えなかったものが見えてくることを、
知っているから、と語っています。
・・・



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「愛のはじまり」





こうして、こうすりゃ、こうなるものと、 知りつつ、
  こうして、こうなった



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隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月12日 (月)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


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平成十四年に、担任する小学五年生の学級で
私が初めて行ったのが「あずさからのメッセージ」
という授業です。

梓は私の第三子でダウン症児として生まれました。

梓が大きくなっていくまでの過程を子供たちへの
質問も交えながら話していったところ、ぜひ
自分たちにも見せてほしいと保護者から
授業参観の要望がありました。

以降、他の学級や学校などにもどんどん広まっていき、
現在までに福岡市内六十校以上で出前授業や
講演会をする機会をいただきました。

梓が生まれたのは平成八年のことです。

私たち夫婦はもともと障がい児施設で
ボランティアをしていたことから、我が子が
ダウン症であるという現実も割に早く
受け止めることができました。

迷ったのは上の二人の子たちにどう
知らせるかということです。

私は梓と息子、娘と四人でお風呂に入りながら
「梓はダウン症で、これから先もずっと自分の名前も
書けないかもしれない」と伝えました。

息子は黙って梓の顔を見つめていましたが、
しばらくしてこんなことを言いました。

さあ、なんと言ったでしょう?

という私の質問に、子供たちは
「僕が代わりに書いてあげる」
「私が教えてあげるから大丈夫」と
口々に答えます。

この問いかけによって、一人ひとりの持つ優しさが
グッと引き出されるように感じます。
実際に息子が言ったのは次の言葉でした。

「こんなに可愛いっちゃもん。
いてくれるだけでいいやん。
なんもできんでいい」

この言葉を紹介した瞬間、
子供たちの障がいに対する認識が少し
変化したように感じました。

自分が何かをしてあげなくちゃ、と考えていたのが、
いやここにいてくれるだけでいいのだと価値観が
揺さぶられるのでしょう。

さて次は上の娘の話です。

彼女が「将来はたくさんの子供が欲しい。
もしかすると私も障がいのある子を産むかもしれないね」
と言ってきたことがありました。

私は「もしそうだとしたらどうする?」
と尋ねました。

ここで再び子供たちに質問です。
さて娘はなんと答えたでしょう?

「どうしよう……私に育てられるかなぁ。
お母さん助けてね」
子供たちの不安はどれも深刻です。

しかし当の娘が言ったのは思いも掛けない言葉でした。
「そうだとしたら面白いね。
だっていろいろな子がいたほうが楽しいから」

子供たちは一瞬「えっ?」と息を呑むような
表情を見せます。
そうか、障がい児って面白いんだ。

いままでマイナスにばかり捉えていたものを
プラスの存在として見られるようになるのです。
逆に私自身が子供たちから教わることもたくさん
あります。

授業の中で、梓が成長していくことに伴う
「親としての喜びと不安」には
どんなものがあるかを挙げてもらうくだりがあります。

黒板を上下半分に分けて横線を引き、上半分に喜びを、
下半分に不安に思われることを書き出していきます。

中学生になれば勉強が分からなくなって
困るのではないか。
やんちゃな子たちからいじめられるのではないか…。

将来に対する不安が次々と挙げられる中、
こんなことを口にした子がいました。

その質問はひとつの核心をついていました
「先生、真ん中の線はいらないんじゃない?」

理由を尋ねると
「だって勉強が分からなくても周りの人に
教えてもらい、
分かるようになればそれが喜びになる。
意地悪をされても、その人の優しい面に
触れれば喜びに変わるから」

これまで二つの感情を分けて考えていたことは
果たしてよかったのだろうかと自分自身の教育観を
大きく揺さぶられた出来事でした。

子供たちのほうでも授業を通して、
それぞれに何かを感じてくれているようです。

「もし将来僕に障がいのある子が生まれたら、
きょうの授業を思い出してしっかり育てていきます」
と言った子。

「町で障がいのある人に出会ったら自分に
できることはないか考えてみたい」と言う子。

「私の妹は実は障がい児学級に通っています。
凄くわがままな妹で、喧嘩ばかりしていました。
でもきょう家に帰ったら一緒に遊ぼうと思います」
と打ち明けてくれた子。

その日の晩、ご家族の方から学校へ電話がありました。
「“お母さん、なんでこの子を産んだの?”と
私はいつも責められてばかりでした。でもきょう、

“梓ちゃんの授業を聞いて気持ちが変わったけん、
ちょっとは優しくできるかもしれんよ”と、
あの子が言ってくれたんです……」。

涙ながらに話してくださるお母さんの声を聞きながら
私も思わず胸がいっぱいになりました。
授業の最後に、私は決まって次の自作の詩を
朗読します。

「あなたの息子は
 あなたの娘は、
 あなたの子どもになりたくて生まれてきました。

 生意気な僕を
 しっかり叱ってくれるから

 無視した私を
 諭してくれるから

 泣いている僕を
 じっと待っていてくれるから

 怒っている私の話を
 最後まで聞いてくれるから

 失敗したって
 平気、平気と笑ってくれるから

 そして一緒に泣いてくれるから
 一緒に笑ってくれるから

 おかあさん
 ぼくのおかあさんになる準備をしてくれていたんだね
 私のおかあさんになることがきまっていたんだね

 だから、ぼくは、私は、
 あなたの子どもになりたくて生まれてきました。」

上の娘から夫との馴初めを尋ねられ、お互いに
学生時代、障がい児施設でボランティアを
していたからと答えたところ

「あぁ、お母さんはずっと梓のお母さんになる
準備をしていたんだね」
と言ってくれたことがきっかけで生まれた詩でした。

昨年より私は特別支援学級の担任となりましたが、
梓を育てる中で得た多くの学びが、いままさに
ここで生かされているように思います。

「お母さん、準備をしていたんだね」という
娘の言葉が、より深く私の心に響いてきます。
・・・


            
            

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赤ちゃんは「新生児微笑」と言う生理的な笑顔を
持っており、笑うことで、周囲の人に可愛がられ、
愛されようとする。
そういう本能を持ち合わせて生まれてきます。

そして、徐々にそういった生理的な微笑から、
自らの意思で笑う「社会的微笑」を覚え、
感情を表現するようになるのです。

しかし中には全く泣かない、全く笑わない、
表情の乏しいそんな赤ちゃんもいます。
そんな赤ちゃんのことを、”サイレントベビー”と
言われています。

全く笑わない、あやされても笑わず、
大人と目を合わせることもしない、
声をかけても反応しない。
一見すると、おとなしく育てやすい赤ちゃんに
見えますが、これらのほとんどは
ネグレクト(育児放棄)が原因と言われています。 

どのような親がサイレントベビーを作って
しまうのでしょうか?

それは・・・赤ちゃんの声に関心を示さず、
長時間赤ちゃんを放置している親が原因と
言われています。

もちろん、お母さんはとても忙しいので、家事の
合間に泣かれても直ぐに反応できないこともあります。
それは全く問題ないので、心配ありません。

この場合の「赤ちゃんの声に反応しない」とは、
赤ちゃんがどんなに泣いても抱こうともしない、
また赤ちゃんが泣いたら「うるさい!」と怒鳴りつけ、
時には暴力を振るうことがあるなど、

ネグレクト(育児放棄)また虐待の要素がある
ケースを示しています。

また、最近では、スマートフォンの普及から、
赤ちゃんが泣いていても携帯の画面から顔をあげず、
片手間に赤ちゃんの相手をしている親が
多いことも問題であると指摘されています。

要するに
赤ちゃんが「泣いても構って貰えない」
「笑っても抱きしめて貰えない」と思ってしまうことで、
徐々に表情をなくし、自分の感情を押し殺すため、
サイレントベビーになると言われています。
 
それでは、サイレントベビーがそのまま成長したら、
どうなってしまうのでしょうか?

サイレントベビーは、将来、うつや引きこもり、
また自傷行為を起こす可能性が強いと
言われています。
また、反対に「相手から好かれたい」と思う
気持ちから、相手の感情ばかりを推し量ります。

自分の気持ちを伝えることが出来ない大人
「アダルトチルドレン」になるとも言われています。 
サイレントベビーは、泣かない・笑わないため、
感情がないように見えます。

しかし、それは大人がそうさせてしまっているだけです。
心の中では常に「愛されたい」「抱きしめられたい」と
思っています。
そのため、赤ちゃんに多く笑いかけ、
赤ちゃんのことを抱きしめてあげるようにすれば、
徐々にその症状は改善されると言われています。

サイレントベビーを作る原因は「愛情不足」です。
そう思ったときは、なるべく笑いかけ、抱きしめて
あげるようにしましょう。

昨今の育児環境は、核家族化の影響もあり、
孤独であると言われています。
周囲に相談する人もおらず、たった一人で
子育てをしている女性は、赤ちゃんとの関わり方が
分からず、ときには「ネグレクト(育児放棄)」
「虐待」と呼ばれる行動に出てしまうこともあります。

しかし、本来、赤ちゃんとは望まれて生まれてくるべき
存在であり、愛して大切に育ててあげるべきものです。
また、子育てとは、人と人が関わりあいながら
みんなで助け合い行っていくものです。

もし「サイレントベビー」の可能性のある
お子さんを見かけたら、周囲が手助けし、
子どもの心を救える世の中であって欲しいと
願います。
子育てに悩むすべてのママの一助になれる
といいですね。
・・・


B



歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…

 





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月11日 (日)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


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むかしむかし、つるぎ山という、すもう取りがいました。
はじめはガリガリの小さな体でしたが、
いっしょうけんめいけいこをして、ズンズン
大きくなりました。


「はやく大関(むかしは大関が一番強い位でした)になって、
お母さんに喜んでもらうんだ」
つるぎ山は大関になるために、毎日きびしいけいこを
続けました。

ところがある日から、つるぎ山は急に弱くなって
しまいました。自分よりも体の小さい者にも、
コロコロと負かされてしまうのです。
さっきのは、ちょっとゆだんしたからだ。
もうゆだんしないぞ。さあこい!」
でもやっぱり、いくらがんばってもコロコロと
負けてしまいます。

「もうだめだ。残念だが、すもうをやめよう」
そして、お世話になった親方(おやかた)に言いました。。
「わたしは、もう限界です。田舎へ帰ってお母さんの
そばで働くので、ひまをください」

しかし親方は、つるぎ山をはげましました。
「調子の悪い時は、誰にでもある。もう少し、
ガマンするのだ。負けてもけいこを続ければ、
必ず強くなる」

けれどつるぎ山は親方の家を逃げ出して、
お母さんのいる田舎へ帰ったのです。
「お母さん、すもう取りになりましたが、
どうしても大関になれそうもありません。
これからは田舎で働くので、お母さんのそばへ
おいてください」

手をついてあやまるつるぎ山に、お母さんは
きびしく言いました。
「いけません! そんな意気地なしは、お母さんの
子ではありません。もう一度、親方さんのところへ
帰って、しっかりけいこをしてごらんなさい。
大関になるまでは、二度と帰ってはいけません!」

「でも」
「はやく、親方さんのところに帰りなさい!」
「・・・はい」
そこまで言われれば、仕方がありません。
つるぎ山は親方のところへ、帰ることにしました。

その帰る途中に、けわしい山があります。
つるぎ山が山を登っていると、
「おーい、おーい」と、誰かが後ろから呼びました。

それは頭の毛がボウボウとのびていて、
体はやせて骨と皮ばかりの老人です。
「わたしに、何か用かね?」

「さようです。ヘヘヘへ。わたしをおいてきぼりに
しないでくださいよ。今朝はうっかりして
遅れましたが、わたしたちは、いつも一緒でしょう。
さあ、行きましょう」

「・・・? いつも一緒だって? 
お前は一体、誰だ?」
「わたしですか。ヘヘヘへ。わたしは、
貧乏神(びんぼうがみ)です。
いつもあなたに、ついているのですよ」

つるぎ山はビックリして、貧乏神の顔を
にらみつけました。
「わかったぞ! お前がついているから、
わたしはすもうに負けるのだな。そうだろう!」

「ヘヘヘへ。その通りですが、ちょっと違います。
わたしがいるから弱くなったのではなく、
あなたが弱いから、わたしがやって来たのです」

「わたしが弱いだと! なにを言う、わたしは
すもう取りのつるぎ山だぞ!」
「ヘヘヘへ。あなたのどこが強いのですか? 
ちょっと負けが続いたからといって、
親方のところから逃げ出して、
お母さんに泣きつくお人が」

「なっ、なんだと!!」つるぎ山は大声で
怒鳴りましたが、しかし貧乏神の言う事も
間違いではありません。

(確かに、貧乏神の言う通りだ。
わたしが意気地なしだから、貧乏神が
やってきたのだ。よし、元気を出そう。
貧乏神なんかに、負けてたまるか!)

つるぎ山ははだかになってまわしをしめると、
貧乏神に言いました。
「貧乏神! ひとつ、すもうをとろうじゃないか」
「ヘヘへへ。すもうですか? 
まあ、とってもいいですが、でも、
わたしの方が勝ちますよ」

「そんな事はない。勝つのは、このつるぎ山だ!」
「いいえ、意気地なしのあなたでは、
わたしに勝てませんよ」
「勝てないかどうか、ためしてみるがいい!」

つるぎ山は、ドシン、ドシンと、しこをふんでから、
貧乏神に組み付きました。
そして全身に力を込めて、
「えいっ!」と、貧乏神を投げ飛ばしたのです。

「おみごと! あなたはきっと、大関になれますよ」
貧乏神はそう言って、消えてしまいました。
そのとたん、つるぎ山の体に力がわいてきました。

力があふれ出て、自分でも強くなったのがわかります。
つるぎ山は元気いっぱいで、親方の家に帰りました。
そしてつるぎ山はけいこをつんで、それから三年目、
ついに大関になる事が出来たのです。

・・・

おしまい




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今から四百年ほどむかし。
あるボロ寺に、天極秀道(てんごくしゅうどう)という
お坊さんが住んでいました。
本当にボロ寺で、屋根は傾き、くずれた土塀
(どべい)の穴から中が丸見えでした。
それでも秀道はまったく気にせず、迷い込んだ
一匹のネコとのんびり暮らしていました。

ある年の春、秀道は寺の緑側(えんがわ)に座って、
ひざの上のネコの頭をなでながら何気なく言いました。
「『ネコの子ほども、役立たず』、という言葉があるが、
お前もそろそろ役に立つネコになってはどうじゃ?」

そのとたん、ネコはひざからピョンと飛び降りて、
「ニャーオ」と、鳴きました。
「おや、怒ったのかい? あははははは。
気にするな。今のは冗談じゃ。

お前は今のまま、役立たずでけっこう」
秀道はふたたびネコをひざに抱き上げて、
一日中ネコと一緒にひなたぼっこをしました。

それから数日後、表の方からにぎやかな
ウマのひづめの音が聞こえてきました。
「おや? 客かな?」
秀道が庭(にわ)に出てみると、七、八人の狩装束
(かりしょうぞく→狩りの時の服装)をつけた侍が、
次々とウマをおりて境内(けいだい)に入ってきました。

「何か、ご用かな?」
秀道が声をかけると、その中の主人らしい侍が
ていねいに頭を下げて言いました。
「わしは、彦根(ひこね→滋賀県)城主の井伊直孝
(いいなおたか)と申す。この地方を新しく将軍さまから
拝領(はいりょう→主人からいただくこと)することに
なったので、遠乗りのついでに土地を見に来た。

そしてたまたま寺の前を通りかかると、
ネコがわしに手招きをする。そこでつい、
立ちよったのじゃ」

「それはそれは。こんな破れ寺→荒れ果てた寺に、
よく立ち寄ってくださいました。
わたしはこの寺の住職で、天極秀道と申します。
ごらんの通りの貧乏暮らしで何もさしあげるものは
ございませんが、せめてお茶なりともいっぷくしてください」

秀道は一行(いっこう)を居間(いま)に案内して、
お茶の用意を始めました。
すると急に空がくもりだし、はげしい雷鳴(らいめい)と
ともに滝のような雨が降ってきたのです。

この寺に立ち寄らなければ、今頃はずぶぬれに
なっていたところです。
直孝(なおたか)は、とても喜んで、
「助かった。あのネコに招かれたおかげで、
運よく雨やどりが出来た。これも何かの
巡り合わせであろう」と、言いました。

「おそれいります。役立たずのネコにしては、
上出来でした。どうぞ雨があがりますまで、
ゆっくりしていってください」

城主だというのに、とても親しみやすい直孝の態度に
秀道はすっかり感心して、心からもてなしました。
直孝の方も、貧乏寺の住職とは思えない秀道の
人柄(ひとがら)にほれこみました。

やがて雨もあがり、直孝の一行は晴れ晴れとした
気分で寺を出ていきました。
一行を見送った秀道は、すぐにネコを抱きあげて
頭をなでました。
「人助けをするとは、大したやつ。おかげでわしも、
久しぶりに立派なお方と話すことが出来たぞ」

「ニャー」
ネコはうれしそうに、秀道の胸に顔をうめました。

この事がきっかけで、直孝はちょくちょくこの寺を
たずねるようになりました。
そしてその度に、秀道は直孝に仏の道について
語って聞かせました。

そのすぐれた秀道の知識に、直孝はとても感心して、
「これぞ、まことの高僧(こうそう)である」と、この寺を
井伊家の菩提寺(一家の先祖を代だいをまつってある寺)と
したのです。

こうして今までは荒れるにまかせていた寺は、
井伊家によって改築(かいちく)され、各地から次々と
修行僧も集まり寺は栄えていきました。

さて、あのネコは寺が立派になって間もなく
死んでしまいました。
秀道はネコのために石碑(はかいしのこと)を建てて、
命日には必ず訪れたそうです。

そして直孝もネコの事が忘れられず、秀道に言いました。
「あのネコは、観音菩薩(かんのんぼさつ)の化身(けしん
→仏が、人間や動物の姿に変身したもの)にちがいない。

わしはネコに招かれたおかげでそなたに会い、
仏の道のすばらしさを学び、寺を復興(ふっこう)させる
喜びまで与えてもらった。

どうだろうか、あのネコを招き観音として本堂のそばに
まつってあげては」
「はい。ネコにとっても、わたしにとっても、この上なく
ありがたいお言葉です」

この話しがたちまち広まり、『幸運を招くネコ』として、
お寺にお参りに来る人がますます増えたということです。

・・・
おしまい




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鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる




「一度見ると忘れられない 動物たち」






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2017年6月10日 (土)

妄想劇場・漢の韓信外伝ー斉の残党

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・

アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kansin

漢の韓信外伝ー斉の残党

田横が梁を去り、海上の島へ向かったという一報は、
すぐに櫟陽の皇帝のもとへ届けられた。このあたり、
古代だというのに漢の情報収集力はたいしたものである。
しかし情報を得た劉邦は、その情報をもとにどう
行動すべきか迷った。せっかく情報を得ながら、
行動を起こせずにいたのである。

消し去ってしまいたい。

劉邦がそう思うのには、わけがあった。
かつて斉を韓信に攻略させておきながら、酈食其を
講和の使者として派遣したことは、彼の見通しの甘さを
露見させた。
劉邦はそれを恥じ、生き残った田横を滅ぼしたい、と
思ったのである。田氏をすべて滅ぼし、最初から何も
なかったことにしたかったのだった。

このとき傍らに控えた相国の蕭何は努めて冷静に
劉邦に進言した。
「田横の行動は、いわば消極的不服従というものでしょう。
陛下の統治は受け入れがたいが、あえてそれに武力で
対抗しようという意思はない……そう見えます。

個人的に面識もなければ禍根もないのですから、
そっとしておいてやるのが上策かと」蕭何らしい
意見であった。

しかしこのとき劉邦は珍しく蕭何に向かって怒気を
あらわにしたという。
「禍根がないだと……そんなことはない!酈生を殺された!」
だが、蕭何は動じなかった。

「お怒りですな。しかしですな、陛下……田横としては、
あの場合酈生を殺さずにはいられなかったでしょう。
酈生の言葉を信じて行動したのに、ひょっこり
韓信が現れ、国を奪われたのですから。
したがって田横に行動の誤りはありませぬ。
……陛下の方にそれがあります」

劉邦はこの言葉を聞き、極めて不機嫌さをあらわしたような
仏頂面をしてみせた。
「蕭何……お前、わしのせいだと言うのか。
そうやって直言してくれるのはいいが、わしがいつもそれを
喜ぶと思ってくれては困る」

「お許しを。しかし、言わねばなりません。
あのとき酈生を失った悲しみは陛下だけのものでは
ありませんでした。
楚王韓信は当時、迷いながら斉に攻め込みましたが、
自分の行為の結果に立ち直れないほどの衝撃を受けたと
いいます。彼の気持ちも考えてやるべきでしょう」

劉邦はしかし、こんなことを言われても素直に反省する
男ではない。
「だったら奴は徹底的に討てばよかったのだ。
田横を討ち漏らすなど……奴らしくもない」

「仕方がありませぬ。田横は彭越のもとに
逃げ込んだのですから韓信としてはどうしようも
なかったでしょう」
「なら彭越が悪い。どうして奴は匿ったりしてわしの意に
反することをしたのだ」

「彭越は、あの時点では陛下の臣下ではありませんでした。
彼は中立的な存在でしたので、田横を匿うことで漢に
対抗できる勢力を培おうとしたのでしょう」

「韓信にも彭越にも罪はない、としたらやはりわしに罪が
あるということになるのか」
「陛下のお立場、そして決断にはそれほどの
重みがあるのです。これを機に深く自覚なされた方が
よいと存じます」

自分の立場が軽いことをいいことに、よく言いおるわい。
劉邦は内心でそう思ったが、若干それが態度に
出たようだった。そばにいた蕭何の耳には彼の口から
発せられた「けっ」という音が確かに聞こえたのである。

しかし、蕭何はあえてそれを無視し、
「田横を討つおつもりですか」と聞いた。

「どうせ討つな、というのだろう。しかし、奴の背後には
斉の賢者たちが控えているのだ。情報では今のところ
五百名しかいないとのことだが、それらが核になって
ひとつの勢力になったとしたら、どうする? 
島にこもったからといって座視しているわけにはいかん」

これは確かに劉邦の言う通りであった。
さらには田横の行動を黙認することで次々に同様の行動を
起こす者が現れても困る。

消極的不服従者が数多く現れ、それらがひとつに
まとまったりしたら、それは立派な叛乱勢力に
なってしまうからだ。

その時、消極者たちは積極者に転じるに違いない。
「ならば、懐柔したらいいでしょう。その島の王にでも
封じたらいかがですか」

「王だと! ふざけたことを言うな。
いや、わしは討ちたいのだ。
酈生の仇を討ちたいのだ」
「またそれをおっしゃる……本心なのですか、
それは? 

おそれながら陛下より酈生の仇を討ちたいと
願っている人物を私は知っています。
その者を呼んで、意見を聞いてみるがいいでしょう」

このとき劉邦は、自分の思いで頭が一杯で、
他者のことに思い至らなかったようである。
蕭何の口から自分より田横を恨んでいる者が
いると聞いても、それを想像することが
できなかったらしい。

「誰のことだ、それは? 韓信のことか」
「いえ、まあ彼もその一人かもしれませんが……
違います。お忘れですか? 
衛尉(近衛隊長)にあたる人物です」
「ふむ。そうか……そうだったな。奴ならわしよりも
田横を恨んでいるかもしれん」 劉邦は得心した。

その後、劉邦と蕭何は衛尉と会見するに至った。
その場に現れた男の名は酈商といった。
高陽の生まれで、陳勝が兵を挙げてから半年後に
劉邦の配下になった男である。
劉邦にとって極めて早い時期から付き合いのある
男であった。

彼は田横に煮殺された酈食其の弟であった。
酈商は兄の食其とは違い、学問に興味をもつことは
なかった。
兄が世間からつまはじきされるような人物であったため、
若い頃の彼はそのとばっちりを受けて苦労することも
多かったようである。

兄は「狂生」と呼ばれたのに対し、彼も「狂生の弟」と
呼ばれ、ともに蔑まれた。
まったく一族の中に変人がいるということは迷惑なことで、
自然、酈商は兄を恨むようになった。
まだ若かりし頃の酈商は、よく兄に詰め寄ったものである。

「今日も路地裏で殴られたぞ、兄上! 
彼らが兄上の学問を理解できないからといって
やみくもに罵倒したり、殴ったりすることはやめてください。
私は、その仕返しを受けねばならないのです」

酈商の切なる訴えはたびたび続いたが、食其の
答えはいつも決まっていた。
「大いなる目的のためには、小さな屈辱や痛みには
耐えねばならぬ」その答えを聞くたびに
酈商は激怒した。

「耐えているのは兄上ではありません。私なのです! 
いったい兄上の言う、大いなる目的とは何なのですか!」
酈食其はいつもその問いかけを黙殺したが、
たった一度だけ、それに答えたことがある。

「善悪の峻別だ」
しかし酈商にはその答えの意味がよくわからなかった。

悪は兄上、あなただろう。
酈商はそう思ったが、このときの酈食其の言葉は
不思議と彼の中で重みを持った。
そして以後は屈辱を受けても兄にそれを
言いつけることをしなくなったという。

そして酈商は劉邦の軍に参じて現在に至っている。
学問を志した兄とは違い、彼は純粋な武官として
数々の戦いを経験し、相応の地位を築いた。が、
善悪の峻別という兄の言葉の意味は未だ
解明できずにいる。

「私に言えることは、兄は兄らしく死んだ……
本望だったろう、ということだけです」
酈商は召し出された場でそう自分の考えを述べた。

「お前は、ことの仔細を知っていて、そう
言っているのか?」劉邦は聞いた。
あるいは自分に対する遠慮が彼にそう
言わせたのではないか、と勘ぐっているのである。

「知っております。陛下が兄に使者としての任務を
与えながら、楚王韓信に攻撃命令を出していたこと……
楚王は兄が使者として臨淄に滞在していることを知って
攻撃をためらったが、配下の弁士・蒯通の言を用い、
結局攻撃したこと……

一連の出来事はすべて聞き及んでおります」

「では、お前は兄の死に関して誰をも恨んでいない、
そういうことか? そう捉えてよいのだな?」
聞かれた酈商は、少し悩んだ表情を浮かべたが、
やがて心の中のおぼろげな思いを押し出すように、
言葉を継いだ。

「誰かを恨んだところで……兄が帰ってくるはずが
ありません。
生前の兄は……学問を追究するあまり……
とらえどころのない人物でした。
弟の私が言うのですから、それは間違いありません。……

兄は、死ぬ運命を承知で臨淄に向かった。
そして望みどおり死んだ……
兄の意思がどういうものか私には未だにわかりませんが、
兄には兄の望む死に方があったのだと思います」

劉邦はこれを聞き、あからさまに安堵したような
顔をした。
威厳がないようにも見えるが、これは少なからず
酈食其の死に責任を感じていた彼の気持ちを
よくあらわしていたと言える。

「では、わしの指令に間違いはなかった、と?」
「私に陛下の詔を評価する権限はありませぬ。また、
たとえあったとしても……陛下のご判断に間違いは
なかったと思います」

酈商の態度はまったく不自然さがなく、それによって
劉邦も蕭何も、この言葉を信じた。

しかし彼らの質問はまだ続く。蕭何がその口火を切った。
「実際に君の兄を煮殺した斉の王室に対しては……
とりわけ一族の最有力者であった田横については
どう思う?」

やや酈商の表情は固まった。そして額には汗が浮かぶ。
「田横……楚王韓信が討ち漏らした男、ですな!」
酈商の眼光の鋭さが増したように、二人には見えた。

落ち着いて兄の死を受け止めているように見えた
彼にとって、唯一虚心でいられない相手が田横、
ということになるのであろうか。

「田横を恨んでいるか? 憎いか?」蕭何の問いに
酈商は目を閉じた。自ら眼光の鋭さを消し、
それによって次第に心が落ち着いていく様が
傍目にもわかるようであった。

やがて彼は答えて言った。
「憎くないか、と言われれば憎い。ですが憎いかと
問われれば、そうでもありません、とお答えしましょう。

今、陛下が私に田横を討てと命令されれば、
私は無心でその命令を実行します。しかし、命令が
下されなければ……なにもしません」

劉邦と蕭何はこれによって田横を懐柔しようと決めた。
兄を殺され、誰よりも田横を恨んでいるはずの酈商が
「討つことに乗り気でない」と言っているのである。

情を優先させたような形ではあるが、必要以上に
争いごとを起こす余裕は、政情が未だ不安定な
この時期の漢にはない。

しかも酈商が「指令に間違いはなかった」と
言っている以上、劉邦としては無理に田横を討つ
理由がなくなった。
胸のつかえがとれた劉邦は、海上の島にいるとされる
田横に対して使者を送り、罪を許すと宣言した。

そして一度上洛して顔を見せよ、と指令を出すに至る。
しかしそれを聞いた田横の胸中は複雑なものだった。

・・・

つづく


愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る




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「大連の街から」





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月 9日 (金)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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いつの時代も必ず話題になる住民問題の一つ、
「子供の声」。
マンションや住宅集合地ではおなじみといっても
過言ではないこの問題は、常に賛否の声が分かれる
話でもあります。

とある大型マンションでの話。管理人室に
寄せられたのは、3世帯からの苦情の声でした。

「隣の家の泣き声がうるさくて、夜も眠れない。
なんとかしてほしい」
「夜中にも関わらず大きな泣き声が聞こえてきて、
眠れない。こんなところには住めない」
「子供の声がうるさすぎる。騒音」

相当、悩まされていたのでしょうか。
非常に強い文調で綴られている、子供の声に
対しての苦情文。

それに対して、マンションの管理人が、
一つの行動を起こしたのです

3世帯から寄せられた、子供の声に関する苦情。
それに対して、マンションの管理人は、
「意見書」という書式で、一つのメッセージを
綴るのでした。

そしてその3世帯に対して、プリントを投函します。
その意見書の中味には・・・

管理人の問題の解決に尽力している「努力」と、
それでもこの問題の根本にある「子供との接し方」
についての意見が綴られていたのでした。

管理人の○○です。△△△号のお子様の泣き声等に
関わる騒音のご意見、拝読しました。
この度、管理会社に稟議を通し、特別予算として、
子供の泣き声に対しての防音措置を取るべく
防音シートの購入予算を確保いたしました。

(中略)

取り急ぎ、△△△号の部屋に防音シートを施工することが
決まっており、これによりかなりの防音効果が見込めると
考えております。
またご希望者には△△△号に隣接している部屋に対しての
防音シートの施工を行いますので、ご希望の場合は
管理人室までお申し付けください。

ただ、一点、管理人の○○から、個人的な考えを
お伝えさせていただきたいと思います。

私たちには皆、幼少期がありました。
個人差はあれども、私たちは記憶にない時間の中で、
幾多の癇癪を起こし、部屋を汚し、お漏らしをし、
他人に迷惑を掛け、そうして今の時まで成長することが
できました。

それができたのは、記憶にもない時期の、
迷惑極まりない赤ん坊行為を数多くの人々が受け入れ、
許容し、それでも愛してくれたからではないかと
考えております。

(中略)

今回、△△△号のお子様の泣き声等について、
相当のストレスを抱えていることと存じます。
ただし、それは、私たち大人が記憶にない
幼少期にやったことと、全く同じことなのです。

その時、親は、近所の人は、町の人々は、
どのようにあなたのことを見ていたでしょうか。
迷惑と責め立て、騒音と扱い、排除しようと
していたでしょうか。

(中略)

この度、生活に支障をきたしているということを
理解した上で、特別措置を行いました。
ただそれでも尚、私たち大人のあるべき姿として、
赤ん坊行為を排除する様な態度・言動を行うのは
控えた方がいいのではないでしょうか。

彼ら・彼女らは、まだ記憶もない赤ん坊です。
泣くのが仕事です。
迷惑をかけながらも成長するのが仕事なのです。

どうか、マンション内や近隣の場所で△△△号の家族や
子供に会った時は、温かく受け入れる様、
お願い申し上げます。

その後、この管理人のメッセージに共感したからなのか、
単純に元の部屋の音が軽減されたからなのか、
結果的にこの3世帯から、防音シートの施工依頼は
全く来なかったそうです。

もちろん、子供の声で本当に生活に悪影響を
及ぼしてしまう人がいて、苦しんでいる人が
いることはわかっています。

それでもこの管理人の話を聞いて、そうして
私たちも子供の頃に迷惑をかけてきたという事を、
決して忘れてはいけないように感じました。

私たちが記憶のない時に、たくさんの人たちが、
私たちの迷惑な行動を受け入れてくれて
きたのですから。・・・

多くの人に関わるこの問題。

この管理人様からのメッセージが、
何かしらの気づきのきっかけになる事を
願ってやみません。・・・




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近所に住んでるご夫婦の話です。
おじさんは無口な土建屋の事務員。
おばさんは自宅で商売をしていて、雑貨から
野菜などまで何でもある、ミニスーパーみたいな店で、
朝から晩まで年中無休で働いている人でした。

当然、晩ご飯なども、遅くなるのが常でした。
おじさんが7時ころ帰ってきても、食事するのは
9時過ぎ、そんなことがしょっちゅうでした。

洗濯ものはたまる。掃除も毎日はできない。
休日も一緒に過ごせない。
おばさんは、結婚して以来、そのことを心の中で
申し訳ないと思い続けていたそうです。

昨年の秋、おばさんは、長年の疲れからか
体調をくずし、1週間の入院をすることになりました。

コンビニがあるから大丈夫だとおじさんは
言ってましたが、おばさんは、毎日持っていく
お弁当や食事の支度さえ出来ずに、迷惑ばかりかけて
申し訳ないと落ち込んでいました。

おばさんが入院した4日後、おじさんの会社に
ラジオ番組の取材がきました。
ローカル番組のコーナーのひとつで、
「会社対抗クイズ」みたいなものです。

私は前日に知っていたので、翌日、ラジオを
持ってお見舞いに行きました。
休憩室のような場所で、持っていたラジオを
おばさんと二人で聞きました。

そのクイズ自体におじさんは登場しませんでしたが、
話の流れで、「自分の奥さんは○点だ」と
いうようになってインタビューには、
クイズ参加者以外の人にマイクがまわってきます。

それぞれが「結婚後にプラス20キロだから
50点」とか、「料理が下手だから40点」とか、
自分の奥さんの悪口を言って笑いをとる、
みたいな雰囲気になっていました。

私は、「あ、やばいかな・・・」と思いはじめ、
おばさんも何か落ち着かないような暗い表情に
なってきました。

そう、もしもおじさんにマイクが渡されたら、
おじさんは何というだろう、
いったいおばさんに何点をつけるんだろう。

日ごろから、申し訳ないと思ってるおばさんの
気持を考えると、私までいたたまれない
気持になってきました。

そして・・・
ついにアナウンサーがおじさんの作業服の
ネームを呼びました。

小学校の授業中でもよくあることでしたが、
あたってほしくない、と思ってるときに限って、
自分によく指名がきたものです。

このときもそうでした。
おばさんの気持を考えれば、当たって
欲しくないなぁと私は思っていたのです。

「○○さんの奥さんに点数をつけるなら
何点ですか?」
おばさんは、小さく泣きそうな声で
つぶやきました。「20点……」

その瞬間、おじさんがラジオの向こうから
大きな声で言いました。
「98点!あれでなきゃ、ワシの嫁は無理だ」

おばさんを見ると、両手に顔をうずめて
泣いていました。

おじさんとおばさん、なんていい夫婦
なんだろう!と、昨年で一番の感動を
私はいただいたのでした。
            

      
      
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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



ゆれて・・・恋ごころ






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隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月 8日 (木)

妄想劇場・特別編「お妻様」

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ

過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある

大病後も人生は続く

病気になり、後遺障害を抱えて生きていくということは、
以前とは違う自分になって生きていかなければ
ならないということ。

そして受容に立ちはだかるのは、病前の
「やれた自分」というセルフイメージと、病後の
「やれなくなった自分」とのギャップだ。

俺はもっとやれたはず。こんなに使えない人間じゃ
なかったはず。こんなに駄目な自分は自分じゃない。
セルフイメージが高い者ほど、そのギャップを
受容できずに苦しむことになる。

だがこれを子ども時代から困った人当事者であった妻に
置き換えると、そもそも妻には「かつてのやれた自分」という
病前のセルフイメージなんてものは存在しない。

子どものころから「やればできるのにやらない」と
責められ、やれない自分と折り合いをつけ、
折り合いがつかない苦しさにリストカッターになり、
それでも生き抜いてきた。

なんということか、こんなにも身近に受容の
先輩がいたのだ。

「ねえ、何でも自分でやるっていうのは、自立じゃなくて
孤立だって言うでしょ? あなたの場合はいずれ回復
するかもしれないんだから、やれないことはもっと
周りに頼れよ」

できないことはしょうがない。逆にできることを緻密に
真剣にやればいいし、できないことは人にやらせるという
男前な女王様体質が、妻の受容のスタイルだ。

周囲からすれば結構迷惑だが、生き抜く上で
理にかなってはいる。

「本日ザワチンです」

そんな妻のせいで(おかげで)、僕は人に
頼るということを初めて知ったように思う。
一気に前向きに自分の障害と向き合えるようになり、
「やれなくなってしまったこと探し」という
自己観察モードに入ることができた。

高次脳の回復は想像以上に時間がかかったが、
仕事に戻りつつ取引先の担当さんたちにも自分の
抱えた問題を告げ、理解と協力を
お願いすることができた。

例えば病後最も早く復帰した仕事である漫画連載の
原作仕事では、担当氏に「10日前には鈴木を予約して
欲しい。明日明後日〆切ですという仕事には対応
できません」と告げた。

物語をよりよく展開するための方針変更やディテールの
描写変更や追加の資料提出など、常に予定が
流動しがちな週刊漫画連載の原作仕事でこれは
メチャメチャな要求だが、これは注意障害によって
シングルフォーカス・シングルタスク

(ひとつの物事・作業にしか集中できない)に
なってしまった僕が、突発的な仕事の依頼を受けると
パニック発作に陥ってしまうことへの対策だ。

担当氏は半泣きになり、ご自身も半ば身体を壊しながらも
この要求を受け入れて共に作品と戦ってくれた。

再発予防も含めて仕事の総量を減らし、取引先各位には
自分で設定した業務時間(午後6時まで)以外の発注には
対応しませんという宣言までした。

また、自己観察の結果、会話はうまくできなくても
文書によるやりとりなら比較的うまくできることに
気付いてからは、仕事の連絡のやりとりをメールや
LINE中心に移行し、ついには「携帯電話の着信には
対応しません」宣言に至る。

新規の取材仕事は難しいため、対談形式の仕事を
検討してもらったり、日常業務では注意障害による
メールや原稿の誤送信誤字脱字と変換ミスの多さや、
遂行機能障害で原稿が長くなりがちで刈り込み作業
(推敲して文章を短くまとめる)が困難であることなどを
説明、理解してもらった。
 
日常生活も同様。病後の僕は外食時に蕎麦を
選ぶことが増えたが、これは注文が「ざる」の
二文字で済むから。うまく話せない結果として注文を
聞き返されるとパニックになる自分を観察した結果の
対応だったし、コンビニでは釣り銭を急いで考えて
出すことでパニックになるため、交通系プリペイドの
Suicaを常用するように。

その他のプリペイドサービスもあるが、少なくとも
関東圏では緑色のSuicaのカードを見せるだけで
話が通じる。

親しい友人には「感情失禁(情緒の抑制困難)があるので
いきなり泣きます」とあらかじめ宣言しておいて、
思う存分メソメソ泣いた。

最も苦しい障害は情緒の抑制困難と注意障害が
絡み合って起きるパニックだったが、妻はここでも
駄目人間先駆者としてのアドバイスをくれた。

注意障害と言えば思い浮かぶのはまず不注意に
なることだと思うが、実際には人の注意機能は
集中と無視のバランスの上に成り立っていて、
病後の僕は無視してもよい情報に振り回されることで
度々パニックを起こした。

例えば病前だったら取るに足らないマイナスな気分を
払拭することができず、考えたくない思考に集中してしまう。
さわやかな晴天の朝に起きても胸の中にパニックの
種を抱えていて、そんな心がざわつく日は普段以上に
喉に異物が詰まったような苦しさで、言葉が出てこない。

そもそもざわつきの理由が皆目わからない時も多く、
こうなるともう一層対処ができない。
そんな僕に妻は「きょうもザワチンなの?」と言うのだ。

ザワチンとは妻の造語で、心の中が落ち着いていない
状況を指す。自分がパニックを抱えているというのは、
それを考えることだけでもパニックを呼びそうな不安感だが、
「ザワチン」だったらなんだか受容可能だ。

しかも、そんな心のざわつく日に「実は仕事で○○な
状態があってうまく対応できずに心がざわついているから
○○されるとパニックになるかも」などと言わなくても、
「実は本日ザワチンです」と言えばことたりる
簡便な言葉でもある。

そしてこのようにザワチン宣言をすると、妻は僕を
放置モードに入るのだ。無視するのではなく、
関わらなくなる。

ザワチンモードな日は、無駄にかいがいしく気を
遣われるのも、どうしたら楽になるのかなどと
問われるのもまたパニックの種になり、
「適度に」放っておかれるのが一番楽というのを、
妻はその身を以て知っているらしい。

もちろんすんなりと受容できない障害もあったが、
一方で病後の変わってしまった自分だからやれる仕事や、
そんな自分を肯定できる部分もでてきた。

なるほど、これが受容の本質だ。
受容には2種類ある。リハビリの現場などで
忌避される受容は、「諦観を伴う受容」。
自らの障害を認識した上で、抗うことをやめてしまうものだ。
もう一方の受容とは、自らの障害を認識して見つめ、
それによって周囲の環境調整を企図するものである。

そもそも立脚点として受容がなければ、
僕はこうした自己観察もできず、周囲にそれを
カミングアウトして理解と協力をお願いすることは
できなかったろう。

病前の自分のパフォーマンスに拘泥して「やれるはず」と
意固地になっていれば、その闘病はずっとずっと
苦しいものになっていたに違いない。

自身が脳梗塞に倒れて、同様に脳梗塞後に
高次脳を抱えて家族や職場とうまく行かずに
苦しんでいる人たちがいることを知った。

それは脳梗塞と高次脳に限らず、若くして大病を患い、
継続治療や再発不安といったストレスの中で
日常に復帰していく現役世代全てに当てはまる
ことなのかも知れない。

例えばガン診断を受けた者のうち、治療で一命を
取り留めた者のうつ病発症率や自殺率が有意に
上昇することは、国内外の研究でエビデンスが
取れていることだという。

病前にバリバリ働いていたセルフイメージの高い人間ほど、
病後のやれなくなった自分を受容するのはプライドの
折れる苦しい経験だとは思う。

けども、この受容ができなければ余計に日々
立ちふさがるハードルが増え、心を病んでしまうこともあり、
結果としてその後の現場復職が遅れたり
余分なQOLの低下を招いてしまう。

40代や50代という、まさに現役世代 ど真ん中という年齢で
大病に倒れるということは、その後何十年という人生が、
ある者は後遺症を抱え、ある者は再発のリスクにおびえ、
以前のようには働けなくなった自分と折り合いをつけつつ
過ごしていくということなのだ。

そして痛感するのは、自らの病後を受容して前向きに
生きていくのは、当事者一人では相当に苦しい
思いをするということだ。

僕の場合は妻も友人も取引先も、僕自身の受容に
力を貸してくれた。
仕事に復帰する過程で一番言われたくなかった言葉は、
「病気に甘えるな」「いつまでも病気のせいにするな」だろう。

この言葉が何よりも残酷なのは、病後の当事者が
やれなくなった自分に対して心の中で日々自ら
問いかけている言葉だからだ。

もし僕の周囲にこんな言葉投げかける人がいたら、
僕はどれほど辛い思いをし、日常復帰が
遅れたことかと思う。

いずれは自身が当事者になるかもしれないが、
それ以上に自らの周辺に大病サバイバーが
現われた際に、どうかその受け入れ難い受容を
支えてあげて欲しいと切に願う。
・・・

次回へ続く



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ある新聞社にカズが養護学校の施設に1人で来て、
たびたび障害者の子供たちと会っているとの
情報が入ってきた。
通常こういう施設に有名人が来る場合はマスコミに
事前に知らされるものだ。

カメラと一緒にパフォーマンス的に訪問するものなので、
記者もこの情報には半信半疑だった。
しかし、もしかしたらカズ自身に何かの秘密が
あるのでは?とスクープの可能性も感じながら、
その情報の養護学校に向かった。

3日ほど張り込んだだろうか、
場違いな高級スポーツカーが養護学校に横付けされた。
中から出てきたのはカズこと三浦知良だった。

記者はかたずをのんでカズが何を目的に
来ているのか見守っていた。
もちろん他にマスコミの姿は見当たらない。

やがてジャージに着替えたカズが
障害者の子供たちとサッカーボールを持って
中庭に出てきた。

子供たちの中には満足に歩けないような重度の
障害がある子もいた。
しかしその子供たちの目は真剣そのもので、
倒れても起き上がっては泥だらけになって
ボールを追いかけている。

いつしか記者のカメラはカズではなく障害者の
子供たちに向けられていた。 
やがて時間が過ぎてカズと子供たちは
施設の中に入っていった。

着替えを終え施設を出ようとするカズに子供たちは
全員で手を振っている。

そしてカズはこう言った。
「今日もみんなありがとー!」
記者は耳を疑った。
なぜならカズの方がお礼を言っていたからだ。

高級スポーツカーに乗り込み施設を出ようとする
カズに急いで記者は駆け寄って、少し意地悪な
口調でこう質問してみた。

「カズさん〇〇新聞ですけど、こういう施設にきて
子供たちとサッカーをしてあげているというのは
やはり好感度とか人気取りなんでしょうか?」

突然記者が飛び出してきたので
少し驚きながらもカズはこう答えた

「僕が彼らに何かをしてあげてるって?
逆に僕が何かをもらっているようには
見えなかったかい?」
そう言い残してカズはスポーツカーを走らせて
帰って行った。

記者は職業がら意地悪な質問をしたことを
すぐに後悔することになった。

なぜなら、自分が撮影したカメラにはカズの姿は
殆ど映っておらず、その殆どが泥だらけになりながらも、
倒れながらもボールに向かっていく障害者の
子供たちの姿だけでした。
・・・


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「時間の花びら」

 



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隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月 7日 (水)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・

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著作権フリー小説・SS人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。
でも、男が不在になると、彼を懐かしんで、
ある女性は語るのです。・・・

「とても素直で、よく気がきいて神様みたいな
いい子でした」と。・・・


はしがき

私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、
十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が
大勢の女のひとに取りかこまれ、その子供の姉たち、妹たち、
それから、従姉妹いとこたちかと想像される

庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、
首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。

醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに
関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような
顔をして、「可愛い坊ちゃんですね」といい加減な
お世辞を言っても、まんざら空からお世辞に
聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」
みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、

しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来た
ひとなら、ひとめ見てすぐ、「なんて、いやな子供だ」と
頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも
払いのける時のような手つきで、その写真を
ほうり投げるかも知れない。

まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、
何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。
どだい、それは、笑顔でない。

この子は、少しも笑ってはいないのだ。
その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って
立っている。
人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは
無いのである。

猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺しわを寄せている
だけなのである。
「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、
まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、
へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。

私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、
いちども無かった。第二葉の写真の顔は、これはまた、
びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。
学生の姿である。

高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、
はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく
美貌の学生である。

しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の
感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから
白いハンケチを覗のぞかせ、籐椅子とういすに
腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。

こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、
かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、
人間の笑いと、どこやら違う。

血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ、
とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、
それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、
ただ白紙一枚、そうして、笑っている。

つまり、一から十まで造り物の感じなのである。
キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。
ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、
もちろん足りない。

しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、
どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて
来るのである。
私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、
いちども無かった。

もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。
まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん
白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋
(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、
その写真にハッキリ写っている)の片隅で、

小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。
どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手を
かざしながら、自然に死んでいるような、まことに
いまわしい、不吉なにおいのする写真であった。

奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わりに
顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の
構造を調べる事が出来たのであるが、

額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、
鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、
印象さえ無い。特徴が無いのだ。

たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。
既に私はこの顔を忘れている。
部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、
その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、
どうしても、何としても思い出せない。
画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。

眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、と
いうようなよろこびさえ無い。
極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を
再び見ても、思い出せない。そうして、ただもう不愉快、
イライラして、つい眼をそむけたくなる。

所謂いわゆる「死相」というものにだって、もっと何か
表情なり印象なりがあるものだろうに、
人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな
感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、
見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。
私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、
やはり、いちども無かった。


第一の手記


恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当
つかないのです。
自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて
見たのは、よほど大きくなってからでした。

自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうして
それが線路をまたぎ越えるために造られたものだと
いう事には全然気づかず、ただそれは停車場の
構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、
ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるもの
だとばかり思っていました。しかも、かなり永い間
そう思っていたのです。

ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、
ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは
鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの
一つだと思っていたのですが、のちにそれは
ただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る
実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに
興が覚めました。

また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを
見て、これもやはり、実利的な必要から案出
せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、
地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、
とばかり思っていました。

自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、
寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、
つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に
実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、
人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

また、自分は、空腹という事を知りませんでした。
いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという
意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、
自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、
さっぱりわからなかったのです。

へんな言いかたですが、おなかが空いていても、
自分でそれに気がつかないのです。
小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、
周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、
自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の
空腹は全くひどいからな、

甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、
などと言って騒ぎますので、自分は持ち前の
おべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と
呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、
空腹感とは、どんなものだか、ちっとも
わかっていやしなかったのです。
<br>
自分だって、それは勿論もちろん、大いにものを
食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた
記憶は、ほとんどありません。

めずらしいと思われたものを食べます。
豪華と思われたものを食べます。
また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、
たいてい食べます。そうして、

子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、
実に、自分の家の食事の時間でした。

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…




紋黃蝶





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月 6日 (火)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・


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東京新聞とは、中日新聞東京本社が発行する日刊
一般紙のことです。
その幹部社員は、Kさんという方です。

1999年秋、中日ドラゴンズが11年ぶりに優勝を
決めた数日後のこと。
北関東を担当するKさんは会合に出て遅くなり、
タクシーに乗りました。

運転手さんが『ジャイアンツが優勝できなくて
残念でしたね』と話しかけてきました。
北関東はジャイアンツ一色の土地柄であり、
Kさんも当然ジャイアンツ・ファンだろうと
思われたのでしょう。

Kさんが『いや、私はドラゴンズの関連会社に
勤めている者だ』と言うと、運転手さんが言いました。

『そうですか、ドラゴンズの関係者でしたか。
実は、私も2年前(1997年)からドラゴンズの
熱烈なファンなんです。
特に星野監督さんの男気が好きなんですよ』
さらに続けて運転手さんが言いました。

『お客さん、もしお耳障りでなかったら、聞いて
いただけませんか』
運転手さんはこう言って、話し出しました。

私は生まれた時からジャイアンツの洗礼を受けて
育った者です。両親も弟も親戚もみんな、
野球はジャイアンツでした。
私の弟は名古屋で葬儀社の運転手をしておりまして、
偶然星野監督の奥さんの葬儀の霊柩車の
運転をさせていただきました。

出棺の際、監督は大勢の弔問客に涙をこらえながら
『妻はナゴヤドームでお父さんの胴上げを見たいね。
それまで生きていたい、と言い続けていました』と
挨拶しました。

いよいよ火葬場へ出発の段になって、星野さんは
後続の運転手に何ごとか話し、霊柩車には
自分一人にしてくれと言って、出発しました。

星野さんは弟に『運転手さん、ナゴヤドームヘ
行って下さい』。前例のないことに、弟は
『ナゴヤドームですか?』と驚いて聞き返しました。
そして車はナゴヤドームへと向かいます

霊柩車はそぼ降る小雨の中、ドームを一周し、
雨よけのひさしのある所に止めました。
星野監督は
『運転手さん、家内の棺を出したいので、手伝って下さい。
全部下ろさなくてもいいですから、下ろせる所まで
下ろしたいのです』

弟は何事が起きるかと恐れながらも、それに従いました。
棺は頭の方を車にかけ、斜めに下ろされました。
すると監督は『運転手さん、5分間だけ泣かせて下さい』
と言って、棺にすがりついて号泣しました。

『なぜ死んだんだ。ドームでパパの胴上げを見たいね、
それまで頑張ると約束したではないか。
母さん、なぜ死んだんだ!』
弟は感動に打ち震えながら、監督に負けないくらい
泣いたとのことです。

監督は『必ず優勝して見せる。母さん、見守っててくれ』
と言って、火葬場へ向かいました。

弟はその年の暮れ、正月前に休暇で帰った際、
親戚が集まった席でこの出来事を涙ながらに
語りました。
弟はこの日のことは一生忘れないと言いましたが、
私たちだって星野ドラゴンズを決して忘れません。

この話を聞いたKさんも、それを話す運転手さんも
泣きました。
『お客さん、この話は初めて人に話すことなんです。
誰かに伝えたいと、いつも思っていました。
今日、やっと弟の感動をお客さんに話すことが
出来ました…』

Kさんはタクシーの運転手さんの話を受けて、
その会合(中日新聞・幹部社員研修会)で
『男・星野』を熱く語ったそうです。

会合の出席者は涙にうるんだ瞳に、星野監督の
ドームでの情景を思い描き、改めて優勝を誓い、
そして奥様の死の2年後にそれを実現させた
闘将星野と、監督を男にしたドラゴンズ選手たちの
執念に感激を覚えました。・・・


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警察官は、雨の日も風の日も管轄内をパトロールし市民の
安全のために日々勤めてくれる優しさと、
悪と対峙しても決してひるむことのない強さを兼ね備えた
『スーパーヒーロー』のようなものですね。
子供の頃、警察官にすぐに現場へ駆けつけてほしい時、
何かトラブルに巻き込まれた時は「110番にかける」と
教わった人も多いのではないでしょうか?

世界の各国でも数字は違うものの、緊急通報用電話番号が
存在します。
日本以外では、ドイツや中華人民共和国などで同じ110番が
使われているほか、アメリカ合衆国が911番、
イギリスでは消防と同じ999番です。

コロンビアで、ある住民がかけた耳を疑うような内容の
通報が警察署に届きました。
警察官達は、現場の森の中へ何かを探すように
入っていきます。
そこで、森の下生えにある物を発見し、驚愕することに
なるのです。

なんと、そこにはひっそりと『産まれたての赤ちゃん』が
置かれていたのです。

とっても小さく、まだへその緒が付いていた赤ちゃんは
とても衰弱していて、泣くことさえもしませんでした。
誰もがこの赤ちゃんが助かることを祈り、
今か今かと救急隊員の到着を待っていました。
そんな中、一人の女性警官が動き出します。

その咄嗟に取った女性警察官の行動が、赤ちゃんの
運命を大きく変えることになりました。


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そして、生まれたままの状態で何も身につけていなかった
赤ちゃんの身体がこれ以上冷えないようにと抱きあげました。
その後、やってきた救急車で病院に無事運ばれ、
必要な処置を受けた赤ちゃんは回復に向かっています。

診察にあたった医師によると、この女性警官の
行動がなければ赤ちゃんは低体温症で助から
なかったそうです。

そして、養子の受け入れ先が決まるまで、コロンビアの
児童施設で保護されることになりました。

命の恩人・女性警察官は新米ママだった!

この勇敢な女性警察官の名前は
「ルイサ・フェルナンダ・ウレラ」さん。
実はルイサさんは、最近職場に産後復帰したばかりの
新米ママさんで、その当時まだ母乳が出ていたのです。

小さな赤ちゃんを見たとき、ただ見守ることができず、
自然と体が動いていたというルイサさん。

後日インタビューを受けたルイサさんは当時のことを
思い出し、こう話しました。
「私の行動は特別なものではないわ。」
同じ状況に置かれた女性なら同じことをすると思うと
語っていました。

もう一つの大事な任務

とっさの判断で小さな命を救った、ルイザさんを含めた
警察官達はこの赤ちゃんを捨てた母親の行方を探しています。
コロンビア警察によると、母親を「殺人未遂」の容疑で
逮捕することも検討していると言います。

尊い、人の命。

今回はさまざまな偶然が重なり、無事助かった赤ちゃんですが、
もし少しでも発見が遅れていたら・・と考えると恐ろしいです。
この出来事が美談で終わるのではなく、
「親になる責任」や「命の重み」を考えるきっかけに
なればと願います。

そして、「私たち市民を守ってくれる」「私たちの住む社会を
守ってくれる」という二つの責任ある任務を負い、
日々職務に励んでいる警察官達に感謝を忘れてはいけませ。


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「女の爪あと」






こうして、こうすりゃ、こうなるものと、 知りつつ、
  こうして、こうなった


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隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月 5日 (月)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


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現在活躍中の作家で、もっとも多くの言語に
翻訳されている日本人作家は村上春樹氏。
ではその次の作家は誰か?
世界30カ国語に翻訳されている
『自閉症の僕が跳びはねる理由』の著者
・東田直樹氏である。

東田氏について知らない人もいるだろう。
彼は重度の自閉症で人と会話することが困難だ。
けれども、キーボードや文字盤のポインティングにより、
コミュニケーションが取れる。

13歳のときに発表したエッセイから、会話が困難な
自閉症の人の内面を伝え、その思慮の深さ、
豊かな感受性に多くの人に衝撃と感動を与えた。
これまでにエッセイ、絵本、小説などを発表している。

今作では、NHKドキュメンタリーで放送された、
英語版の翻訳者デイヴィッド・ミッチェル氏を訪ねる
アイルランド旅行記を中心に、二人の対話や
短編小説が収められている。

「生きる」ことに思いを馳せる

旅行記から始まる本書だが、東田氏の豊かな表現力、
そして達観した人生観は静かな感動を誘う。

アイルランドの古き要塞を前にして、戦いに
命を落とした人を思い、生のありがたみを再確認する。
これだけなら、普通の人も思い馳せることができる。
けれども東田氏は、その先をも見通す。
「命のバトン」という言葉があるが、これは命をつないで
生きることを意味しているのだろうか。…

命がつなぐものであるなら、つなげなくなった人は、
どうなるのだろう。…
他の人がバトンをつないでくれるという意見もあるだろう。
でもそれなら「命は完結する」でいいと思う。

人生を生き切る。

残された人は、その姿を見て自分の人生を生き続ける。
誰もが「命のバトン」を渡せる立場にいられるわけではない。
普通のカップルでも不妊に悩んでいたり、
不慮の事故で子どもを亡くしたり、「バトン」を
渡せない立場の人もいる。

彼らの生に意味はないのか。そうではない。
生き様そのものが「命」の価値であり、誰しも
平等に生をまっとうするべきだ。
そう背中を押してくれる。

念のために東田氏の情報を付け加えると、
重度の自閉症だけではなく、知的機能にも
ハンデがあるとの診断を受けている。

しかし彼が綴った言葉を読むと、私たちがどれだけ
色眼鏡でものを見ているかを再認識させられる。
会話ができない、だから何も考えていないわけではない。
むしろ表現できない分、人生や生き方について
考えに考え尽くしている様子が見て取れる。

自閉症の人にとって、結婚や死はどう映るのか

翻訳者のデイヴィッド・ミッチェル氏との往復書簡からも、
東田氏の卓越した観察眼や人生観を知ることができる。

ミッチェル氏が、インタビュアーとして、東田氏に
結婚や死生観、創作活動について率直に聞き、
それに東田氏が素直な感情で答えている。
このやりとりから、いわゆる健常者と東田氏の
共通するところ、また異なる視点について
知ることができるだろう。

だがもっとも東田氏に近づけたと思えるのは、
小説「自閉症のうた」である。
小説では、加奈子という重度自閉症の人物の
目を通して物語が進む。

加奈子は14歳で特別支援学校に通う。
会話ができず気持ちが高ぶると体を制御できない。
そして加奈子には毎日ルーティンが存在する。
例えば授業の前に12ピースのパズルを必ず
完成させること。

また帰り道ではマンホールのふたを踏まないと
気持ちが落ち着かない。けれども内面は
普通の中学生と同じで、家族を思いやる気持ちや、
これから将来がどうなるのか不安も持っている。

自分が生きる意味は何か?

物語はある日、加奈子のルーティンである
マンホールのふたを踏み損ねたところから始まる。
マンホールのふたをうまく踏めなかったため、
加奈子は道路へ走り出し交通事故に遭う。
そこで入院中に四肢が不自由な少年、
高雄と知り合う。

自分と同じようにコミュニケーションに不自由している
高雄に親しみを感じると同時に、自分より
不自由な境遇に哀れみを持つ。

夢のなかで、加奈子と高雄は、自由に動き回り
会話をする。けれどもそれは叶わない。
東田氏は、加奈子に次の様な言葉を語らせる。
もしかしたら私たちは、あんな風に自由だったはず。

話もできず、人の世話がなくては生きられない二人。
疲れ果て生きることが嫌になっても、
誰にもわかってもらうことなどない。…
私や高雄君が生きる意味は何なのだろう。

恐らく東田氏は物心がついてから、自分の生きる
意味を何百回も、何千回も考えてきたのだろう。
その答えの一つがこの小説には描かれている。

物語の終盤で、それまで意思表示をまるで
してこなかった高雄が、わずかに人差し指を動かし、
加奈子と視線を交えるシーンがある。

健常者から見ればわずかな動作だが、
加奈子と高雄君はそれだけで思いを共有する。
そして彼は哀れみの対象ではなく、知性に無限の
可能性を秘めていることを発見する。
さらにこのような思いを胸に抱く。

今、ここで私たちは息をしている。
この世界に存在している。
私たちが生きていることに意味などいらない。

いつしか雲が流れ青空が広がった。
生きているから命は美しいのだ。

私たちは理不尽な人生に意味を求め、
占いや宗教、SNSに頼る。
でも生に意味付けするのは他人ではない、
自分なのだ。

だから自分と他人を比べ、ひがんだり
哀れんだりするのは愚かな行為である。

わずかな物語から東田氏は生の本質を
説いてくれる。
あらゆる人の根源的な悩みが描かれている。
そしてハンデのありなしを超越し、あらゆる
境遇の人に突き刺さる。・・・

Author :『自閉症のうた』(東田直樹)



「子どもの歌」

僕は、子どもの歌を、よく聞きます。
それは、歌詞やメロディが覚えやすいということも
ありますが、幸せな気分に浸れるからです。

小さい頃を思い出すわけではありません。
幼い子供にやさしく語りかけるような雰囲気が
いいのです。

実際に、そんな口調で話されたら、バカに
されていると、頭にくるのに
歌になったとたん、そう感じるのは不思議です。

子どもの歌が好きなのと、小さな子ども扱いされることは、
別だとわかってもらいたいです。・・・

Author :東田直樹 オフィシャルブログ



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私が4歳の時、父と母は離婚した。
祖父母と同居していたため
父が私を引き取った。
母は出て行く日に私を実家に連れて行った。

家具や荷物がいっぱい置いてあって
叔母の結婚の時と同じだったので
「わぁ、嫁入り道具みたいだねー」
と嬉しそうに言ったのを覚えている。

家に戻ると母はドアの所で
「おばあちゃんちに又行かなきゃいけないの」
そう言った。
「いつ帰ってくるの?」
と聞くと困った顔をして少し黙り

「日曜日かな?」と答えた。
疑いもせずに私は
笑顔で手を振って送り出した。
日曜日がいつかも知らなかった。

それから私は祖母に日曜日がいつかを聞いては、
玄関で待つ日々が続いた。
何回か繰り返したある日、母以外の家族全員が揃う
夕食の時間に私は聞いてみた。

「あのね、ママが帰ってくる日曜日っていつだか
知ってる?」
食卓が凍り付いた。それまでの笑顔が全く消えて
みなが押し黙って目を伏せた。

「私、うっかり聞くのを忘れちゃったのよー」と
笑いかけたが、誰1人笑ってはくれなかった。

それ以来、
私はママの話しは絶対にしないようにして・・
もう30年が経つ。

結婚式にも呼ぼうとはしなかった。
今では1歳の娘と5歳の息子がいる。

先日、5歳の息子が
「ねぇ、妹と僕を産んだのはお母さんだよね?」と
聞いてきた。
「パパを産んだのはばぁばだよね?
ママを産んだのは誰?」

「おばあちゃんよ、でもどこにいるかわかんないから
会えないのよ」
「僕会いたいなぁ」
「どうして?」
そこまでは平気な受け答えだった。

「ママを産んでくれてありがとうって言わなきゃ!」
(うん、会いたいねぇ)と言うはずだったのに
涙が止らなくなってしまった。

ずっとずっと封印してきた言葉。
育てられないなら産まなきゃいいのにって
思ったこともあった。・・・

ありがとう息子。
私はやっと素直になれそうだ。
・・・

Author :人間力.com
http://chichi-ningenryoku.com/



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



道 明日に向かって





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年6月 4日 (日)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


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むかしむかし、吉四六さんと言う、とてもゆかいな人が
いました。
以前、吉四六さんはキジを売っていると勘違いさせて、
カラスを売りつけて大もうけした事がありましたが
これはそれからしばらくたったある日のお話しです。

今度は吉四六さん、町にすす竹を売りにやって来ました。
「ささや~ぁ、すす竹~ぇ」
吉四六さんが声を張り上げて町の中を歩いていると、
その姿を見た一人の商人が隣の店に飛び込みました。

「河内屋(かわちや)さん! ちょっと、ちょっと」
「これはこれは、虎屋(とらや)さん。どうしました?」
「ほれ、いつか。かごの上にキジを乗せて安い値で
『カラス、カラス』と言って売りに来た男がいましたね。

それを見て『きっと、カラスとキジの見分けがつかない
田舎者だ』と思って、『カラスをくれ』と言うと、中から
本物のカラスを取り出して売りつけたではありませんか」
「ああ、ありました。覚えていますよ」

「そう、その男が今、すす竹売りに来たんですよ。
どうです?あの時の腹いせに、うーんと油をしぼって
やろうじゃありませんか」

そう言って虎屋と呼ばれた男は、河内屋にある
作戦をささやきました。
「なるほど、これはおもしろい」
「でしょう。そら、やって来ましたよ。・・・

おい、すす竹売り!」虎屋が吉四六さんに、
声をかけました。
すると吉四六さんは、すぐにやって来て、
「へい、ありがとうございます」と、頭を下げました。

「ささを、一本くれないか。いくらだ?」
「はい。十文でございます」
「それ十文だ。とっときな」
「はい、ありがとうございます」

「おい、おれには、すす竹一本くれ」
 今度は、河内屋が声をかけました。
「はい、ただいま」
吉四六さんが何気なくすす竹を一本渡すと、
河内屋はいきなり怒り出しました。

「おいこら! これは虎屋に売ったのと同じではないか! 
虎屋は『ささ』で、おれは『すす竹』と言ったんだ!」
虎屋も、吉四六さんに詰め寄りました。
「そうだ! 『ささや、すす竹』と言うからには、
違う物でなければならん。

見れば、みんな同じ物だ。お前はかたりだ!
(→人をだまして、お金を取ること) 
ふといやろうだ!」全くのいちゃもんですが、
でも吉四六さんは平気な顔で言いました。

「これはこれは、誰かと思ったら、虎屋の旦那で」
「うん、いかにもおれは虎屋だ」
「お名前は、権兵衛さんで?」
「ああ、権兵衛だが、それがどうかしたか?」

「ヘヘへ、そちらさまは、河内屋の久六(きゅうろく)さんで?」
「そうだ。河内屋が屋号(やごう)で、名が久六だ。
さあそれよりも早く、ささでないすす竹を寄こせっ!」

すると吉四六さんは、腹をかかえて笑い出しました。
「な、なにを笑う!」
「いや、実はわたしの売っている竹は、屋号が笹屋で、
名前がすす竹と申すのです。

屋号で呼んでも名前で呼んでも、物はどちらも
同じ物ですよ」
それを聞いた二人の商人は、
「ちくしょう、またやられたわ!」と、言って、
おとなしく店の中に帰って行きました。

・・・

おしまい



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そこで村人たちは、『カブ焼き甚四郎』と呼んでいました。
でも、甚四郎は気にする様子もなく、毎日、畑で
カブを作っては、そのカブを焼いて食べていました。

ある日の事、村人たちがこんな話をしていました。
「甚四郎も、嫁さんでももらえば、村の為に頑張って
くれるかもしれんなあ」
「そうだな。どこかに、いい嫁さんはいないだろうか?」
「そう言えば、朝日長者に娘がおったぞ」

そして貧乏な甚四郎のところへ嫁に来てもらうために
、村人たちは朝日長者の屋敷の前で、ちょっと
芝居をすることにしました。

「かぶ焼き甚四郎のお国とりー」村人たちは、
大声で長者に知らせたのです。
朝日長者はそれを聞いて、甚四郎を立派な長者だと
勘違いをして、娘を嫁に行かせることに決めたのです。

「よし、うまくいったぞ」村人たちは、大喜びです。
ところが、嫁にきた朝日長者の娘は、甚四郎の
家を見てびっくり。
立派な屋敷だと思っていたのに、甚四郎の家は
ボロボロの掘っ立て小屋です。

それに夫の甚四郎は、毎日ニコニコとカブばかり
焼いて食べているのです。
嫁さんは、そんな暮らしにがまん出来なくなり、
嫁入りの時に持ってきた反物を出して言いました。
「あなた、この反物を町で売ってきて!」

「へい」 甚四郎は上等できれいな反物を持って、
町へ売りに行きました。
すると、反物屋の主人は喜んで、
「これは、素晴らしい反物ですな」と、甚四郎に
たくさんのお金を払いました。

大金を手に入れた甚四郎は、家に帰る途中の畑で、
わなにかかった鷹を見つけました。
「おや、かわいそうに」甚四郎がわなをはずしてやると、
鷹はバサバサと羽を広げて空へ飛んで行きました。

「鷹よ。元気でなー」甚四郎が見送っていると、
それを見た畑の持ち主が、かんかんに怒りながら
走って来ました。

「この野郎! せっかく捕まえた獲物を逃がしやがって!」
甚四郎が謝っても、畑の持ち主は許してくれないので、
「では、これでかんべんしてくれ」と、反物を売ったお金を
全部あげてしまいました。

「嫁さん、怒るかな?」甚四郎は、そう思いましたが、
鷹を助けた事がうれしくて、
「まあ、何とかなるだろう」と、のんきに口笛を
吹きながら歩いていきました。

すると川の岸に、さっきの鷹がいるのが見えました。
甚四郎がかけよると、鷹は、何とカッパを
おさえつけているのです。
鷹に押さえつけられたカッパは、泣きながら甚四郎に
頼みました。

「助けてください。助けてくれたら、カッパの宝物の
延命小槌(えんめいこづち)を差し上げます。
延命小槌は、振りながら欲しい物を言うと、
その願いをかなえてくれます」

それを聞いた甚四郎は、鷹に言いました。
「助けてやれや」そのとたん、鷹はカッパを離して、
空へと飛んで行きました。
「ありがとうございます」

カッパは甚四郎にお礼を言って、約束通り川の底から
延命小槌を持って来ました。

さて、家に帰った甚四郎は、嫁さんを呼ぶと、さっそく
延命小槌を試してみました。
「米出ろ。米出ろ」すると本当に、小槌を振るたびに
ザクザクとまっ白な米が出て来るのです。
甚四郎も嫁さんも、大喜びです。

そして小槌から立派な屋敷を出して、自分たちも
いい着物を着て、嫁さんの両親の朝日長者を招待しました。
招待された朝日長者は、立派な屋敷を見てびっくりです
「こんなに見事な屋敷と庭は、見たことがない」
「本当に。娘は幸せ者ですねえ。いい方に
もらっていただいて」朝日長者は、ご機嫌です。

その夜、家へ帰ろうとする朝日長者に、嫁さんが
いいました。「泊まっていかれないのですか?」
「ああ、若い二人の邪魔をしてはいけないからな」
「でも、こんなに帰る道が暗いと、わたくしどもも
心配です」

すると甚四郎は、火の付いた松明を持ってきて
言いました。「なら、夜道を明るくしましょう」
そして甚四郎は、なんと自分の屋敷に、松明の火を
つけたのです。

メラメラと音をたてて甚四郎の屋敷が燃えあがり、
あたりが昼間のように明るくなりました。
「なんと、もったいない」

おどろく朝日長者に、甚四郎と嫁さんは、
「どうぞ気になさらずに。朝日長者のお屋敷に着く頃まで、
わたくしどもの屋敷は燃え続けて明るいでしょう。
さあ、ゆっくりとお帰りください」と、笑いながら
見送ったそうです。

・・・

おしまい


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鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる








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隙間産業(ニッチ市場


2017年6月 3日 (土)

妄想劇場・漢の韓信外伝ー斉の残党

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・


アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kansin


漢の韓信外伝ー斉の残党

「客人、何用だ」そう言いながら玉座に座ったのは、
老人であった。六十歳を過ぎたあたりだろうか。
この当時では充分老人といえる年ごろであった。

どういうわけで自分がこんな老いぼれを頼るはめに
なったのかは、説明がつかない。
ただ、敵に追われたところで近くにいたのが
こいつだった、というだけなのか。

それとも自分はこの男を味方に付けることで
天下にもう一波乱起こそうと願っているのか。
どちらも答えは「否」だった。

確かに自分は捲土重来を期して、ここ定陶に
たどり着いた。そのときは確かに戦うつもりでいた。
しかし、こいつは自分のそんな気持ちをくじいた。

韓信はまだしもその配下の灌嬰にまで負けたことが
許せず、ひとり気炎を吐く自分に向かって、
この老いぼれは 言ったものだ。
「まあ、しばらくゆっくりなされよ」 と。

とんだ珍客が舞い込んだものだ、と思ったに違いない。
しかし、この男は表面的にはそれを示さず、
破格の待遇をしてくれた。

静かな居宅、豪勢とはいえないまでも充分な食事、
身の回りの世話をする女官……そのすべてを
用意してくれ、さらに自分の引き連れてきた部下にも
同様の待遇を示してくれた。

その結果、自分は骨抜きになってしまった。
戦うのが嫌になり、静かな生活を求めるようになった。
それがこの男の狙いだったのだろう。
この男は、やはり自分を厄介者として感じていたのだ。

自分がいつまでも戦おうとしたら、韓信が黙っていない。
自分を匿うことで韓信に攻め入られることを、
こいつは恐れたのだ。

しかし、こいつはたいした奴だ。いまでこそこうして
椅子などに座っているが、あの当時はゆっくり
座っている姿など見たことがなかった。

人には「ゆっくりなされよ」などと言いながら……。
この、彭越という男は王になった。
逆に自分はなりそびれた。

自分は確かに王家に通じる家柄に生まれたというのに。
この目の前の男は、ただの漁師に過ぎなかった。
しかもそれだけでは食っていけず、追剥ぎなどをして
生計を立てていた……そんな奴が!

軽蔑の念が確かに自分の中にはあった。
しかし、今になって思ってみると彭越に対する
自分の感情は、「感謝」だけだ。

戦いを忘れさせてくれたことは、自分の人生を楽にした。
そしてこの老人は自分が楽をしていることを尻目に、
ひたすら戦い続けていたのであった。

「客人……」
「聞こえているのか、田横どの!」
「少し、考えごとをしておりました……」
田横は彭越を前にしてややぼんやりとした口調で
話し始めた。

「よからぬ考えではないだろうな」
「いえ……ところで折り入ってお話がございます」
彭越は少し迷惑そうな顔をした。
「あまり聞きたくはないが……言うがいい」

「は……申し上げにくいのですが、そろそろ
おいとましようと思います。長らく世話になり
なんのお礼も出来ないのですが」

田横の表情は依然ぼんやりとしたままで、前の
気炎に満ちたものはないように見えた。
「おいとま……出て行くと言うのか。
いったいどこに行くあてがあると言うのか」

「東へ。ひたすら東へ……」
この言を聞いた彭越は、ふう、とため息をひとつもらし、
「東へ行くということは、斉に戻るつもりか。…
…やめておけ。天下は定まったのだ。
君の宿敵の韓信はすでに斉にはいないが、
曹参がまだいる。

君が今さら斉に舞い戻ったとしても…
手持ちの部下はどのくらいだ? 
せいぜい五百名がいいところだろう。
そんな数では彼らに勝てはしない」とさとすように
言った。

「わかっています」
田横は少し微笑んだようだった。
おや? こんな男だったかな?
あらためて彭越が田横を見ると、以前と比べて
目尻が下がったように見えた。また、
両の眉毛の角度もやや下がったようにも見える。

表情が穏やかになったようだ。
「わかっているとは……ではどこに行くというのだ」
「東です」
「東はわかった。さっき聞いた」

「海にまで行こうと思っています。そしてどこかの島へ」
「島?」
「天下がすでにおさまったというのに、いつまでも
お世話になるわけには参りません。
それに私がここにいれば、梁王たるあなた様に
いつか迷惑がかかることでしょう。

漢の皇帝がいつ私のことを思い出すかと思うと…
…私を匿っていることは決してあなたのためには
なりますまい。出て行こうと思います」

彭越はそれを聞いてひとしきり考えた。
この男は殊勝な態度を装っているが、実は漢によって
統一された社会など見たくないだけではないか、と。
考えられることではある。

ほんの一瞬だけではあったが、この男は王を称した。
それも気位が高い田一族の中枢にいた男である。
人の下で小さく膝を折って暮らすことを
よしとするはずがない。

「君らしくない殊勝な言葉だな。かつて酈食其を
煮殺した男の言葉とは思えん」
彭越はあえて挑発するような言葉を選び、
田横の反応を待った。

しかし、その言葉は本当に彼を傷つけたようだった。
「ああ……そのことはもう言ってくださるな! 
忘れてしまいたいのです」

これには彭越の方がびっくりした。
この男は本当に鋭気を失ったのかもしれない。
「触れてはいけないことだったか…いや、申し訳ない。

しかし、君が戦いを忘れて静かな暮らしを
望むのであれば、もう少し待たれるがよかろう。
あと二、三年もすれば…わしの地位もしっかりして
くるような気がする。

まあ、わしの中央に対する発言力がある程度
高まれば、君の平穏を確約してやることは
可能だろう」

その彭越の言葉はありがたかった。しかし
迷惑でもある。田横は島に行きたかったのであった。
戦いを忘れ、政治を忘れるには、誰もいない
ところの方が望ましい。

誰かがいれば、自分は戦いを思い出すに違いない、
と思っていたのであった。「ありがたいお言葉ですが
…どうか行かせていただきたい。

私は戦いにも、隠れて過ごすことにも…疲れました。
どこか誰も知らない土地で、自由気ままに過ごしたい、
つまるところ私の言いたいことはそれだけなのです」

これを聞いた彭越は、意を決した。
「君がそこまで言うのであれば…。好きにするがいい。
どこの島に行くかは知らないが、旅中に必要な
食料はある程度持たせよう。しかし…それ以上の
援助はできんぞ。それでもいいのか」
「はい」

彭越は不安を抱きながらも、田横の出立を許可した。
しばらく我慢すれば平穏を約束する、という言葉に
嘘はなかったが、厄介払いができたという気持ちは
確かにあった。
・・・

つづく


愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る




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「女の爪あと」





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2017年6月 2日 (金)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


            

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二人とも、ソフトボールの強豪・京都の明徳商業高校
(当時)のソフトボール部でした。

その練習が、とにかく厳しかった!
毎日夜遅くまで練習で、当時は水も飲んだらダメ、
泣いても笑ってもダメ。
思い返しても、あの三年間ほど辛いものは
ありませんでした。

吉本に入ったのは、高校卒業後に知り合いから
「吉本が漫才師を募集してる」と聞いたからです。

でも面接の結果は、全然ダメ。
面接官全員から「やめとき」と言われました。が、
やめろと言われたら燃えるのが体育会系です。

「根性も貯金もあるから大丈夫です!」と言い切って、
島田洋之助・今喜多代師匠に弟子入り
させてもらいました。

そこからが長かった。

師匠や先輩からは怒られてばかりやし、
やってもやっても売れへんのです。
お金もなくなるから、ガソリンスタンドや喫茶店で
必死にアルバイトをして。

でも、辛いとはまったく思わなかった。
二人とも、
「あのソフトボール部の練習に比べたら、
何でもあれへん」と思っていたのです。

そして十年目。転機がやってきます。

当時の大スター、やすしきよし師匠が出演する
大人気番組「花王名人劇場」に出演する
チャンスが飛び込んできた。

うれしかったけど、実は、
「ここでウケなかったら芸能界に見切りをつけよう」
と二人で考えていました。

当日は二人で気合を入れて、
「それいけーっ」と舞台へ出て行きました
必死やから力が入ったんでしょう。

私がお腹をポーンと叩いたら、
ベルトのバックルが弾けて飛んだんです。
それでお客さんがドッと笑った。

いくよちゃんも、つけまつ毛をバタバターッとさせて、
首の筋が浮き上がって。それを見て思わず、
「あんた首に筋が出てるやん」
「御堂筋や!」と。私たちを支えたギャグ誕生の
瞬間です。

悔いが残らないよう、全力でやったらウケた。
それからは信じられへんくらい仕事がきて、
二人で全力で駆け抜けてきましたね。

いくよちゃんにがんが見つかったとき、
私は謝りました。
ずっと一番近くにいたのに、全然気づけなかった。
でも、彼女は逆に私を励ましてくれたんです。

「普段からやるべきことをやってたら、
ここ一番のときも大丈夫やから」と。
本当に前向きな人でした。

彼女が亡くなるときのことです。
心拍がだんだん弱くなって、もう(止まった・・・)。
そのとき、私は出せる限りの大きな声で
叫びました。「大丈夫かーーー!」と。

そしたら、ピクッと動いたんです!
感動しました。
あれはきっと、「ありがとう」と言ったんやと思う。
そこまで周りに気を遣う、素晴らしい人でした。

それを思うと、私も頑張らんわけには
いかんでしょう。
いくよちゃんと漫才はもうできないけど、
私なりにできることをやっていきたい。

私はお客さんが大好きやし、大笑いしてもらいたい。
いくよちゃんも、「くるよちゃんは明るくて、
どこへ行っても喜ばれるんやさかい大丈夫。
一人であかんかったら私が空から突っ込むし」と
背中を押してくれてる気がします。

誰よりも、そして最期まで前向きやった
いくよちゃんを見習って、これからも笑顔で
生きていきたいと思います。
・・・



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彼が17歳のとき。
短編マンガが準入選に選ばれ、担当編集者が
ついてくれることになり、気をよくした彼は
九州から東京に上京してきます。

当時は、すぐトップになれるぐらいの
気持ちだったそうです。しかし、甘くはなかった……。
作品のネーム(あらすじ)を提出しても全然通らない。
連載にはいたりませんでした。

描いても描いてもボツになる……。
「さすがに自分の力のなさに気づいて、
そうすると壁がどんどん高く見えてくるわけです。

1週間で19ページも面白いマンガを描き
続けるなんていうのは、人間にできる技じゃない。
マンガ家になるべくして生まれた人にしか
できないことなんだと思うようになって、
ショックでしたよ」

描いても描いてもボツになる。
描いても描いてもボツになる。
描いても描いてもボツになる……。

彼は、ついには倒れて、
1週間ほど体が動かなくなったそうです。
もう、マンガ家になることを諦めようとした。
サラリーマンに今からなれるかなとも考えた……。

でも、そのとき、当時の担当編集者が
こう言葉をかけてくれたのだとか。
「こんなに頑張って報われなかったヤツを
俺は今まで見たことがない」必ず
報われる日がくる、と……。

ケンカばかりしていたその編集者が、ふと
言ってくれた言葉に 彼は泣いた。
とことん泣いた……。「また頑張れるぞ」

気力が湧いてきた。「泣く」という文字は
「涙」のさんずいに「立」ち上がると書きます。

涙のあとに立ち上がり、彼が描きあげた
作品が……そう、あの国民的マンガ、

「ONE PIECE」(ワンピース)なんです。
彼の名前は、尾田栄一郎さんです。

人生というシナリオには法則があります。
トコトンまで頑張って、それでも結果は出ず、
「もうダメだ」と力尽きるその瞬間に、
あなたの人生を一変するシーン
(名場面)と出合うようになっているのです。

まさに「ONE PIECE」の世界観そのものです。
人は、力尽きるところまで頑張ったとき、
尽きることのない無限の力が湧きあがるのです。

・・・

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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



泣けへんよ







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2017年6月 1日 (木)

妄想劇場・特別編 (知られざる深層)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ

過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある


大病後も人生は続く
「トイレでこっそりゼリーを食べる」


幸い一命は取り留め、血圧や血液の状態などを
改善維持すれば再発リスクはそれほど高くないというが、
左半身に軽度のマヒと、構音障害(呂律障害)、
そして高次脳機能障害(以下「高次脳」)という
聞きなれない後遺障害が残った。

リハビリを経て比較的短期間で回復したのは、
身体や口回りなどフィジカル面のマヒ。
ところが一方の高次脳については感情の抑制困難や
注意障害・遂行機能障害が複雑に絡み合った形で
残存し、結果として「声は出るのにうまく人と
会話できない」という、取材記者としては少々
致命的な状況になった。

定まらぬ視線、能面のような表情と、震えがちで
吃音も伴う弱々しい声……。
自分の意図するコミュニケーション表現ができない
苦しさとの戦いの日々が始まったが、
一方で期せずして得ることになった高次脳の
当事者認識がそれまで取材対象者としてきた
社会的困窮者や精神疾患・発達障碍の当事者の
抱えている苦しさに酷似しているのではないかと
気付けたのは、僥倖。

そこから自己観察を続けて脳にトラブルを抱えた
当事者認識の言語化に挑戦したのが、
発症からちょうど一年で上梓した闘病記
『脳が壊れた』(新潮新書)である。

だがこの闘病記の発行後、脳卒中の後遺症ケアに
携わるリハビリ職や精神疾患に携わる心理職の
先生たちからは、異口同音にこんな意見をいただいた。

「鈴木さんほど早い時期から障害を受容して自己観察し、
かつ前向きに社会復帰に挑めたケースは珍しい。
鈴木さんも十分に苦しかったと思うが、他の患者さんは
もっと社会復帰に苦しい思いをしているかもしれない」

意外だった。僕自身、リハビリと社会復帰は
「なんでひと思いにスッキリ死ねなかったんだろ」と
しばしば思うぐらいは辛かったし、もう回復は
ないのではないかと絶望した時期もあった。

闘病記はあくまで自分自身への取材であって、
他者への取材と執筆というそれまでの仕事とは違うから、
きちんと復職できたという感覚もない。

そもそも受容という言葉はリハビリの現場では
あまり好ましくないもので、例えば入院中には
左手のマヒがあっても仕事に復帰できるように
パソコンの音声入力環境を整えたと言ったら、
それはよろしくないとリハビリの先生に強めの
制止を受けたなんてこともあった。
「不自由でも使わなくては回復しない」がその理由だ。

受容したら回復しない。でも、先生たちは、
受容しなかったらもっと苦しい思いをしたという。
ちょっとした謎掛けだ。

この謎についてよくよく考えていたら、脳裏に甦った
ひとつの記憶がある。
トイレの個室の中、こっそりとフルーツゼリーを
食べている自分の姿だ。桃味だった。
まだ脳外科の急性期病棟にいたが点滴は
外してもらった後だから、脳梗塞発症から
2週間程の頃だったろう。

だがなぜ便所で桃ゼリー? 別に禁じられていた
食物だったからではない。
その頃の僕には、高次脳の中でもポピュラーな
半側空間無視の症状が出ていて、
病院食のトレーの左側にある食べ物を認識できずに
食べ残してしまうことがあった。

そのゼリーは、まさにその食べ残しだったのだが、
これを残してしまったことを看護師や家族や
主治医に見られてしまえば、半即空間無視の障害が
重いと判断されてしまうかもしれない。

そこで食事のトレーを回収しに来た看護助手さんに
気付かれないようにゼリーをすかさず隠し、
後に便所でご賞味というわけだ。
そういえばヨーグルトでも同じことをやった記憶がある。

ちょっとまて、受容、全然できてないではないか。
思い起こせば発症から少しの間は、自身の障害を
認めない、または周囲に隠したというエピソードが
多くあることに気付いた。

だが前述したように僕の書いた闘病記は、
自らの後遺障害を観察し、その苦しさを
言語化したものだ。
確かに障害を受容しなければそもそも観察に
至らないわけだが、はてさて、では僕はどのタイミングで
自分の障害を受容したのだろうか。

「尿漏れパッドついてるくせに」

間違いない。あいつのせいである(おかげである)。
あいつとは、我が妻である。
「ようやくあたしの気持ちがわかったか」

これは妻が入院中の僕に投げかけた言葉だ。
高次脳になった僕が、感情のコントロールが効かず、
うまく話すことができず、世の中の動きが速すぎて
自分だけがスローモーションの世界に叩き込まれたような
猛烈な苦しさに翻弄される中、

「これって俺が取材してきた『困った人たち』と
同じかも知れない」と一番最初に告げたのが、妻だった。
そんな僕に妻の返した言葉が、これ。

妻は子ども時代には典型的なLD(学習障害)児で、
かなり激しい注意欠陥もあり、適応面に色々と
問題があって20代前半にはハードな
リストカッターだったし、ここ10年来仕事に
就いたこともない人だ。

そんな妻がこう言った。

「大ちゃん(僕)は病気になることで劣等生になった。
わたしから言わせれば、あなたは子どものころから
何でもやれちゃう優等生だったんだよ。で、
それで病気で劣等生になったから辛いんでしょ。
でもね、優等生だったときの自分に戻りたいと
思うから辛いんだよ」

いやでも、そんな「やれなくなっちゃった」自分は
嫌なんだもん。ていうか、少なくとも病前の「働ける俺」に
戻らなきゃ、働かない君を養えないじゃないか!

情緒のコントロールができなかった僕は、
呂律のまわらぬ口でかなり激しく妻に反論したと思う。
だが妻の返事は、「分かるけど、何でそこまで
頑張るの?」だった。

「何でそこまで優等生でいなくちゃいけないの? 
わたしなんかは30年以上劣等生でやってきた結果、
優等生になりたいと思わないよ。
優等生なあなたに養われてるけど、優等生なあなたが
好きなわけじゃないし、むしろそういうとこ
あんま好きくない。・・・

色々やれなくなって辛いと思うけど、やれないことは
わたしが手伝うよ。何でも1人でやろうと思うなよ。
尿漏れパッドついてるくせに」

その時点ではなぜか排尿時にうまく尿を切ることが
できなかった僕は、妻にお願いして(看護師さんたちに
バレないように)こっそりと尿漏れパッドを
もってきてもらっていた。

そうなのだ。やれないできない苦しい苦しい。
でもまだ俺は、所詮尿漏れ男なんだ。・・・

次回へ続く


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野球に対しての理論には、一本筋がねの通っている
野村克也さんです。
好き嫌いはあるでしょうが、この人は苦労人であるだけに、
選手たちを「野球人」として育成するのにも
手腕を発揮していました。

野村さんは選手時代には、戦後初の三冠王に輝く
実力派でもありました。

余談ではありますが、野村さんは南海ホークスに
テスト生として入団。
三冠王3回の落合博満さんもドラフト3位でロッテに入団。
今をときめくイチロー選手にしても、ドラフト4位で
オリックスに入団です。

他にも入団時、順位の低いドラフトから、入団後、
素晴らしいスター選手に育った人は数多くいます。
最初に不遇の時期からスタートし、這い上がる過程で、
大きくなっていく人たちであり、この人たちはまた
大きくなり方も破格のようです。

やはり、人は最初に恵まれた地位から歩むより、
不遇の地位から歩む方がより成長率が高くなるような
実例です。

野村さんと言えば「野村ID野球」です。
その「野村ID野球」が生まれたきっかけも、
不遇の時期がキーポイントでした。

野村さんの話です。
「日々コツコツ努力を続けるのは、確かに苦しくてつらい。
努力には即効性がないから、気持ちがくじけて
続かなくなってしまうんですね。

しかし、努力をやめることは、イコール自分に負けること。
自分に負けて、相手との戦いに勝てるはずがありません」

南海ホークス入団3年目で一軍に上がり、4年目で
ホームラン王。
自信をつかみかけた5年目あたりからだったでしょうか。
思うように打率が伸びず、野村選手は
スランプに陥りました。

そんな時、悩む野村選手を見かねて、ある先輩が
声をかけてくれました。
いろんな四方山話をしながら、
ワルだったその先輩の学生時代のケンカの話しを
聞いてる時でした。

先輩のある言葉が、妙に野村さんの頭に
ひっかったのです。
その言葉の中に「野村ID野球」の種が仕込まれていたとは、
当のご本人も気づく由もありませんでした
先輩の口走った言葉はこうでした。

「ぶん殴ったほうが忘れても、殴られたほうは
忘れてないぞ」
その言葉が、悩む野村選手にとっては、どうしても
頭の中で通過させるわけにいかず、何か心に
突き刺さるのでした。

ぐるぐる思いを巡らせるうちに、さすがは野村選手です。
はっと思い当たりました。
つまり、ヒットを打ったバッターはその打席について
忘れても、打たれたピッチャーは苦い記憶を忘れない。
「よし、次こそやり返す」と策を練っているということです。

それまで「なぜ打てなかったのか」と自分ばかりを
見ていました。
しかし、この言葉でストンと腹に落ちたのです。
そうか、相手(ピッチャー)の視点に立って考えてみようと。

スタッフに頼んで、相手投手が自分に投げた球種と
コースのすべての記録を出してもらいました。
そして、それを12種類あるボールカウント別に
分析してみました。

たとえば、
「1ボール2ストライクの場面では、どんな球をどこへ
投げてくる確率が高いのか?」といった具合に。
すると、野村選手、投手のクセや傾向が見えて
きたといいます。

「ノーストライク2ボールのカウントの時は、
インコースの球は100%来ない」といったことまで
わかるのだから、相当に驚いたそうです。

傾向が分かれば、攻め方も変わる。
これが後に名付けられた「野村ID野球」の
始まりでした。

要するに、ただ「頑張れ、頑張れ」という精神論の
努力から、データを踏まえた努力へと、
努力の方向を変えたということです。

「才能には限界があっても、
頭脳には限界がないということが分かり、
野球ががぜん楽しくなりました」と野村さんは
述懐しています。

僕ら普通の人間に対しても、野村さんは
こうメッセージを送っています。

「皆さんもスランプや努力が実らない焦りを
体験することがあるでしょう。
そんな時は、チャンスの種が芽吹いている
時かもしれません。

まずは、視野や考え方を少し変えてみる、
そこから新しい景色が見えてくるかもしれません」
・・・


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



A111


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



「水鏡」





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