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2017年7月

2017年7月31日 (月)

妄想劇場・韓信外伝 (馬邑失陥)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、 
 良いかな・・・


アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい



Kansin


韓信外伝 (馬邑失陥)

韓王信はまず手始めに王黄と曼丘臣に連絡を取り、
かつての趙の王家につながる人物を探し出させ、
これを王位に就けた。
ちなみにこの人物は趙利ちょうりといい、たしかに
趙の王家の子孫にあたるようである。
由緒は正しいが、状況から察して傀儡的な意味合いで
国も王権も位置づけされたようである。

ともかくも彼はこの趙利という人物を中心に敗残兵を
呼び集めさせた。しかしその勢力は脆弱なもので、
匈奴の応援を得なければ軍隊としての機能も充分に
果たさない。

一万余騎の匈奴兵を加えた王黄と曼丘臣は、
晋陽まで南進し、そこで漢軍と戦闘を交えた。
結果は漢の大勝利である。漢は彼らを追撃して
離石りせきでさらにこれを撃破するに至る。

しかしそれでも彼らは再結集し、少し北の楼煩の
あたりで決起した。漢はまたもそれを撃ち破り、
追撃を続ける。

漢兵らは勝利に酔い、すべてに主導権を
握っていると考え始めた。情報に先んじ、自分たちは
その情報を生かしきっている、と信じて疑わなかった。

よって、冒頓単于が上谷じょうこくにいるという
情報を得た彼らが、その情報をもとに攻撃計画を
練ったということは、自然な流れであった。

やがて漢軍は北進して平城という地にたどり着く。
劉邦は自ら兵を率いてこの地にある白登山
はくとさんに登った。高いところから周囲を
俯瞰しようとした、ということだろうか。

ところが彼らはあっという間に山ごと包囲された。
気が付いたときにはすでに麓は人馬の渦であり、
逃げ道は失われていた。

冒頓が上谷にいるという情報を鵜呑みにしたがための
失態である。実際は、冒頓は上谷ではなく最初から
平城にいたのであった。

このときの匈奴軍は四十万で、事実がこの通りであれば
彼らはうまく林間などに隠れていたことになる。
四十万の人馬がすべて隠れきるとはちょっと
信じられないような話だが、それほど匈奴はすばしこく、
野戦に長けていたということかもしれない。

いっぽうこれに対する漢軍は三十二万であったという。
兵力差は確かにあるがこれも大軍であり、
圧倒的不利な条件とは言いがたい。

彼らの中に対抗できる知恵を持つ者が
誰ひとりとしていなかったことも不思議である。
しかし、ともかく結果は韓王信の思惑どおりになった。
季節は冬であり、極寒の中の包囲はまるまる
一週間にわたった。漢の兵士の中には凍傷を患い、
指を落とす者が全軍の三分の一ほどいたという。

交渉などするな。捕らえてしまえ。韓王信は
この場にはいない。長城の北の匈奴の地、
その天幕の中で彼は皇帝の死を願った。
それが彼が中原に帰る唯一の道であったからである。

韓王信は思う。自分たちと匈奴は戦う目的が
同じであることは確かだが、明らかに温度差があると。
自分たちは故郷へ帰るために必死に、しゃかりきになって
戦うのに対して彼らは決してそうではなかった。

匈奴の連中は戦って敵から財宝や食料を強奪すると
それに満足し、最終的な目的に達してもいないのに
平気で撤退したりする。彼の目には、匈奴が戦いを
楽しんでいるだけのように見えるのだった。

それでいて野戦では圧倒的に彼らの方が能力がある。
自分たちにあれだけの力があれば、敵からもっと
多くのものを奪うことができるだろう。

彼らはそれを自覚しているのだろうか。もし
自覚しているとしたら、存外彼らには自制心があり、
その自制心のおかげで天下は決定的な破局を
迎えずに済んでいる、ということになる。

強者の自制。つまりそれは「お情け」に違いなかった。
今、白登山で包囲されている皇帝劉邦がそれを
知ったら烈火の如く怒り狂うに違いない。

韓王信はしかし劉邦がそれを知って怒ることは
ないと信じた。なぜなら劉邦はそれに気付かぬうちに
死ぬことになる、と信じていたからである。

しかしそうはならなかった。漢の護軍中尉の陳平は
ひそかに策を巡らし、ある種の方法で冒頓の妻と
接触を持った。そして大量の貢ぎ物を与え、
それが原因で包囲は解かれたのである。

貢ぎ物に籠絡された冒頓の妻が、夫の鋭気を
和らげたのであった。劉邦は結局生還してしまった。

「いったいどういうことだ。君らはやる気があるのか」
韓王信は帰還した冒頓に思わず詰め寄った。
しかし冒頓はそれをなだめるような、泰然とした
態度で応対する。

「漢からは搾れるだけ搾り取っておかねばならぬ。
ここで皇帝を殺したとしても、今すぐ天下が
我々のものになるとは限らぬ。我々は
局地戦でこそ優位に立てるが……

冷静に考えてみよ。漢は物産が豊富で人口も多い。
彼らに総力で我々に対抗されたら勝ち目はないのだ」
冒頓の言葉はところどころ聞き取れなかったが、
韓王信にはおおよその彼の言いたいことが理解できた。
しかしそれに納得したわけではない。

「漢は確かに人口は多いし、匈奴よりも兵の数は多い。
しかし、総じて烏合の衆だ。君たち匈奴のように
国中の男子がすべて兵士というわけではない。
総力で匈奴に対抗することなど、あるはずがないのだ」

「そうかもしれぬ。しかし今の我々に、漢を
統治する能力はないし、その気もない。
滅ぼす必要がないのだ」

「なぜだ」
「わからない奴だ。漢がなくなってしまったら、
我々はどこから略奪すればいいというのか」
やはり、こいつらは山賊に過ぎぬ。

少なくとも漢の土地を得るという目的だけは
同一だと思っていたが、彼らの目標は中原の
支配権を得ることではなかった。
ただ、そこから供される利益を得られればそれで
いいのだった。

「なるほど、よくわかった。君たちの考えは
理解できたが、以後吾は吾のやり方で
戦わせてもらう。構わないな」

降伏した身で、偉そうに言うものよ。
冒頓は内心でそう思ったが、別に怒った感情はない。
勝手にしろ、最初からあてにしておらぬ。
そういう気分であった。

「韓王が韓王のやり方で戦うのは、構わぬ。しかし、
君が漢を滅ぼして皇帝の座についたとしたら、
わしは君から略奪することになる。そのことを忘れるな」

これを聞いた韓王信は、笑った。
「単于よ。吾にはそんな大それた野望はない。
しかし……君は知らないだろうが、中原には
戦上手の者がいくらでもいる」

「項羽は猛将だったと聞いておるが、すでに
死んだそうじゃないか」
「確かに。だが淮陰侯は存命だ。いざとなれば
君を滅ぼせる者が、まだ漢にはいる。
今君がこうしていられるのはとてつもなく
幸運なことなのだ」

韓王信はそう言い残し、天幕をあとにした。
匈奴と訣別したわけではないが、これ以降、
お互いに頼り合う関係ではなくなったのである。
・・・
(つづく)


愚人は過去を、賢人は現在を、
狂人は未来を語る




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…








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隙間産業(ニッチ市場)

2017年7月30日 (日)

妄想劇場・(歌物語)

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


伝説となった紅白歌合戦の「夜へ急ぐ人」~
ちあきなおみとジャニス・ジョプリンの狂気



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コロムビアのオーディションをきっかけに作曲家
・鈴木淳に師事。昭和44年「雨に濡れた慕情」で
念願のレコードデビューを果たす

デビュー曲、そして2作目「朝がくるまえに」が
ヒットチャート誌で17万枚近い売り上げを記録。
デビューから2年目の昭和45年に4作目の
「四つのお願い」が大ヒットし、第1回日本歌謡大賞
・放送音楽賞を受賞。

同年発売の「X+Y=LOVE」も連続ヒットとなり、
その年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たすなど、
お色気を兼ね備えたアイドル歌手として人気を得る。

邦楽・洋楽を問わず歌のジャンルの枠を超えて、
マイペースな活動を続けていたが、
平成4年、夫・郷氏の死去に伴い活動を休止。
今日(こんにち)まで一切芸能活動を行っていない。・・・



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「ちあきさん、その頃ステージでジャニスの曲も
歌ってたのよ。だから、曲は意外とあっさり作れたの。
ジャニスに曲書いてるような気分だったからね」
(『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』より)

面識もなければ縁もなかったちあきなおみから、
友川カズキが突然に楽曲を依頼されたのは
1977年のことだ。
ジャジーなポップスを歌うシンガーとして1969年に
デビューしたちあきなおみは、「四つのお願い」が
ヒットした翌年には、NHK紅白歌合戦への出場を
果たしている。

1972年には「喝采」がレコード大賞に輝き
「劇場」「夜間飛行」といったヒット曲が続いて紅白の
常連になった。

1975年に27歳になったちあきなおみは意を決して、
13歳の時から15年間も所属した三芳プロを離れた。
それを境にして音楽活動における表現の幅を
広げていった。

その年は船村徹とのコンビで演歌に挑戦した
「さだめ川」がヒットし、11月にはアルバム
『戦後の光と影~ちあきなおみ 瓦礫の中から』を
発表した。

これは戦後という時代の光と影を持つ名曲たち、
「星の流れに」や「カスバの女」を日本の
スタンダード・ソングとしてカヴァーするという、
新しい試みの出発点にもなった。

ヒット曲を追求するレコード会社が展開していた
演歌路線を拒否し、ニューミュージックの新たな
旗手として注目を集めていた中島みゆきに楽曲を
依頼し、シングル盤の「ルージュ」を出したのは
1977年4月である。

テレビの深夜番組『11PM』を観ていて、友川カズキに
出会ったのはそんな時期だった。
番組内で歌った「生きてるって言ってみろ」の歌詞と
パフォーマンスに、ちあきなおみは魂を激しく
揺さぶられたという。






翌日には連絡をとって、その日のうちに事務所へ
友川を招いて、プロデューサーだった郷鍈治とともに
楽曲を依頼したのだ。

ビッショリ汚れた手拭いを 腰にゆわえてトボトボと
死人でもあるまいに 自分の家の前で立ち止まり
覚悟を決めてドアを押す
地獄でもあるまいに 生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ 生きてるって言ってみろ

1971年の中津川フォーク・ジャンボリーに飛び入りで
出演した友川は、「上京の状況」と「生きていると
言ってみろ」の2枚のシングル盤を出した後、
1975年にようやくファースト・アルバム『やっと一枚目』を
リリースした秋田出身のシンガーだった。

まだ他人に楽曲を提供したことがなかった友川は、
どんな曲を書けばいいのかと手がかりを求めて、
新宿「ルイード」で行われたちあきなおみのライブに
足を運んだ。 そこでジャニス・ジョプリンの曲を聴き、
圧倒されて泣いてしまったという。

「もう鳥肌がたつほど感動しました。
私も高校時代からジャニスが大好きでしたから、
ちあきさんのジャニスを唄うのを見た時、
『あー、タダの狂気じゃないな』って感じました」

ジャニス・ジョプリンとちあきなおみに共通するもの、
それは人の心の奥にある狂気だった。 そして
「生きてるって言ってみろ」もまた、自身の中にある
狂気と怒りから生まれた作品である。

それが評価されて楽曲を頼まれた自分に
求められているのは、ジャニスの曲を歌っているときに
見せた狂気を引き出すことだ、友川はそう感じ取った。

こうして生まれた「夜へ急ぐ人」は、1977年の9月1日に
シングルで発売された。 その狂気を多くの人が
目の当たりにしたのは、その年の
第28回紅白歌合戦でのことだ。

演歌の「酒場川」をしっとりと歌っていた前年とは
打って変わり、8年連続での出場となったこの日は
黒尽くめの衣装で髪を振り乱し、「おいでおいで」と
カメラに向けて挑発的に手招きをするのだった。

あたしの心の深い闇の中から おいで おいで
おいでをする人 あんた誰
ちあきなおみの狂気をはらんだ絶唱は、お祭りムードで
和やかだった会場の空気を一変させた。

その模様は日本中の茶の間にも届けられた。
歌が終わるや否や、白組司会のNHKアナウンサー
山川静夫の口から「なんとも気持ちの悪い歌ですねえ」
という、台本にない本音のコメントがこぼれた。

その軽口によって会場に笑いが起こり、それまでの
空気を取り戻した会場では、何ごともなかったように
いつもの紅白が進んでいった。

ちあきなおみがその夜の熱唱ではからずも
明らかにしたのは、「普通の歌手とは違う」と
いうことだった。

翌年にプロデューサーでもあった俳優の郷鍈治と
結婚すると、ちあきなおみは芸能活動を休業する。
当然だが紅白の舞台からも去り、それから10年間
出場することはなかった。

復帰を果たしたのは1981年、シャンソンやジャズ、
ポルトガルのファド、日本のスタンダード、
そして自分のオリジナル曲と、心からうたいたい歌を
ストイックに追求していく、唯一無二のシンガーとなって
戻ってきたのである。

27歳になったちあきなおみは、本当に歌いたい
歌を求めて長い旅に出た ・ちあきなおみによって
奇跡的によみがえった「黄昏のビギン」 ・ボブ・ディランの
「朝日のあたる家」から40年、ちあきなおみの
ライブ音源が発見された…… ・

中島みゆきからちあきなおみを経て、フェイ・ウォンによって
世界に広まった「ルージュ」 「夜へ急ぐ人」








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2017年7月29日 (土)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・

            

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未来工業という会社をご存じでしょうか?
山田昭男さんが立ちあげた岐阜県のユニークな
会社です。電気関連の製品を作っています。

何がユニークかというと、ほとんど一般の会社の
常識の逆をやってるところです。
それでいて、すごく儲かってるから本物のユニーク
企業なんです。

売上高は200億以上。創業以来40年以上赤字なし。
日本トップレベルの給料を支払い、上場まで
果たしています。

常識の逆って、具体的には、どんな社内ルールが
敷かれているのでしょうか。
こんな感じです。


●ホウレンソウ(報告・連絡・相談)禁止
●残業禁止
●ネクタイ禁止
●上司は部下に命令禁止
●ノルマ禁止
●携帯電話禁止
●年間休日140日(休日数日本一)
●育児休暇3年(こんな会社ないでしょう)

なにもかも常識の真逆をいく会社です。
なぜ山田さんが、こんな風に常識の逆をいく
社風にしたのか。
こういうことです。

日本の会社で、経常利益が4,000万円以上ある会社は、
全体の3%しかないそうです。
残り97%は、そこそこまたは儲かってない会社
ということになります。

この比率は、20年来変わってません。

山田さんは思いました。
「なんだ、常識の通りにやったら儲かる会社はたった
3%に過ぎないのか」 ならば・・・

「ならば、常識の逆を行こうじゃないか」

これが非常識・反常識の動機だったのです。
未来工業の本質はどこにあるのか?
常識の逆に行くことが本質じゃないんです。

未来工業では、社員がやりたいと思ったことは、
すぐにやることができます。
相談、報告禁止だからです。

やってみてダメならやめればいい。

それは逆に言うと、自分でちゃんとひとつひとつ
考え抜けということです。
未来工業の壁にはいたるところにこんな標語が
大きく掲げられています。

『常に考える!』

これが未来工業の本質のようです。
ところで、この会社を見学に来る人も海外含めて
数多くあります。
その見学のさせ方についても、非常識・反常識な
やり方をしています。

美術館より高い会社見学料。だからムダにしないでね
非常識経営、未来工業

普通の会社ならば、会社見学は無料でやるのが
常識です。
やはりここでも未来工業は逆を行きました。

他が無料なら、うちは2,000円とる。
2,000円といえば、美術館以上の価格です。
でも、これがバカにならない。

未来工業はマスコミにもよく取り上げられるので、
海外も含めて見学者が年間1万人近くになります。
そうすると、2千円×1万人=2,000万円。

未来工業の総務部は、たったひとりで年間
2,000万円もの利益を確保しているわけです。
究極の総務部ではないでしょうか。

さて、創業者の山田さん、今は「相談役」として
第一線からは退いているそうです。

だけど、未来工業は、報告・連絡・相談が
禁止なので、社員の誰も相談に来ることは
ないそうです(笑)・・・

            


            

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就職活動ではご縁がなかった場合、
決まってこんな文言の不採用通知が届きます。
「慎重に検討させていただきましたが、残念ながら、
 今回は貴意に添うことが出来ません。

貴殿の今後のご多幸とご健康をお祈り致します」
「慎重に選考させていただきましたが、
今回は残念ながら採用を見送らせていただくことに
なりました。 
今後一層のご健勝とご活躍をお祈り申し上げます」
「お祈り致します」などと書きながらも、
本心ではそうは思っていないのが明白です。

日付と名前のところだけを差し替えて、使いまわして
いるのが一目瞭然。
応募人数が多い事情もあるでしょうし、毎回書面を
一から作っていたら、著しく非効率です。
他の業務に支障が出てしまいますから、こうした
書面は止むを得ないのかもしれません。

そんな判で押したような不採用通知を、何通か
受け取っていたある日のこと。とある企業から
封筒が届きました。
連戦連敗だったこと。封筒が届くこと。
開封しなくても、中身は分かってしまいます。
しかし、今回の封筒はいつものものとは様子が
違っていました

会社のお題目とやることが一致している
今回届いた封筒は、社名の入ったいつもの事務的な
封筒ではなく、和紙で作られた封筒でした。
でも封筒は封筒です。きっと不採用通知だろ?
開けなくてもわかるよ。そう思って開封すると、
やっぱり不採用通知でした。

ところが、いつもとは違っていました。
日付と名前のところだけを差し替えて、
使いまわしているものではなく、
和紙にガラスペンのようなもので、丁寧に綴られて
いたからです。でも、不採用通知は不採用通知。

和紙にガラスペンっていったって、あれじゃないの?
よくある「貴方様だけに」とかいう、特別感を演出した
ダイレクトメールみたいに、直筆に見えて、
実は印刷されてるんでしょ?

元になるやつだけは直筆で、あとはそれを上質な
紙に印刷してるだけのやつ。
そう思って透かして見ると、にじんでいる箇所が
ありました。
「あれっ?」裏を向けて、もう一度透かして見ると、
やっぱり裏側にまでにじんでいる箇所がありました。

そして、確かに、一枚一枚、一通一通、直筆で
綴られたものにしかできない筆跡が、裏側に
刻まれていました。
目を閉じて、表をさーっと手でなぞってみると、
デコボコした感じが指先から伝わってきます。

「こんなの初めて受け取ったなぁ」
そう思って読んでいくと、
単なる不採用通知ではありませんでした。

残念ながら、今回はご縁がなかったこと、さらに、
普段なら決して語られることのない、
知りたくても知ることのできない、
不採用理由が書かれていました。

しかもそれはダメ出しではなく、
こういうところを直したら、貴君はきっとうまくいく。
こういうふうに伝えたら、貴君の思いは、
相手の心にしっかり届く。
そんな未来につながるアドバイスだったのです。

それに加え、気がついていない自身の強みや
才能までも、丁寧に綴られていました。
あの1時間の面接で、ここまで見てくれてたのか…。
言葉になりませんでした。
そして、最後に添えられていたひと言、

「再チャレンジも歓迎します」

この言葉で、僕の心は決まりました。
よし、何としても、この会社の合格通知を
受け取ってみせる。
それにしても、不採用通知が印刷書面で送られるなか、
なぜこの会社は直筆だったのでしょう?

世の中には、おもてなしの心、ホスピタリティの精神、
社員を大切にする会社 などなど自社を熱心に
アピールする一方で、何の疑問も感じず、
それに逆行する会社がたくさんあります。

不採用通知の印刷書面については、企業の事情は
よくわかります。
それでも、応募者には、ハードルの高いことを
求めながら、多くの企業のやることは、仕事の
流れとはいえ、どうも矛盾している気がしてなりません。

直筆での不採用通知。

それは、その会社のアピールがお題目なんかではなく、
しっかりと仕事の中に浸透しているからこそできた、
相手への敬意だったのではないでしょうか。

あなたは、日付と名前のところだけを差し替えて、
使いまわしている書面を印刷して送ればいいような、
そんな人ではない。今回はご縁がなかったけれど、

だからといって、君の価値が変わるわけじゃない。
星の数ほどある企業の中から選んでくれてありがとう。
時間を作ってくれてありがとう。
訪ねて来てくれてありがとう。

そうした想いが、お題目ではなく、
自然と湧きあがるような人であったり、企業だからこそ、
お決まりの不採用通知の逆を行き、どれだけ
手間がかかろうとも、直筆の手紙によって、
相手に敬意を払い、想いを伝えたのだと思います。

「現実には、直筆なんて手間がかかる」
そんな声が聞こえてきますが、
おもてなしの心、ホスピタリティの精神、社員を
大切にする会社、
どれも実践しようとすれば、手間がかかるのでは
ないでしょうか?

大切なことほど面倒なもの。
大切なことほど手間がかかる。
そんな言葉を聞いたことがあります。

たとえ不採用通知であっても、世界に一通だけの手紙。
だから大切に贈り届ける。
こんな素敵な会社が、
もっともっと日本に増えてほしいと思います。・・・


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…





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2017年7月28日 (金)

妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある


されど愛しきお妻様【6】

体調最悪だった彼女が断薬に成功、
リスカが減り、復活し結婚に至るまで ・・・


見事断薬に成功

担当医の勧めに従ってバイトをはじめ、驚くほどの
力強さで精神科処方薬の離脱症状と戦い抜き、
見事自力での断薬に成功した彼女様。

同時にリストカットの頻度は減っていき、彼女様の
手首からは1本1本とかさぶたが消えていった。
薬の副作用で常にフニャフニャになっていた彼女様の
目に以前の眼力が戻り、会社で数々の糞伝説を
作り続けていた頃の活力が戻って来た。

ついでに手のつけられない奇行もカムバックして来たが、
僕の中では何よりも「あの彼女様が戻って来た!」
という喜びの方が大きかったように思う。

暑い日も寒い日もふたりでボロスクーターに
2人乗りして隣町の精神科に通い続けた日々。
「覚悟を決めた」とはいえ、本当に一歩間違って彼女様が
死んでしまったらどうしようと怯える日々との別れ。

それまでの、メンタルを病んだ交際相手を
見捨ててきたという挫折感や罪悪感が完全に
拭えたわけではなかったけど、二人三脚で辛い日々を
闘い抜いたという強い達成感と、それまで
感じたことのない深い絆の暖かさに浸って……。

浸っていられるほど、彼女様は甘くなかった。
精神科とリストカット卒業、そしてバイトの開始と同時に、
彼女様のカオスっぷりは一層激しく暴走するようになった。
はじめのころこそ自宅アパートから2㎞ちょっと離れた
バイト先の複合型大型書店へバイクで送り迎え
していたものの、そのうち自分の給料で水色の
ママチャリを買ってきて、自力で通うようになった。

時給は安くて週に5回シフトを入れても月収は
9万円ほど。そのうちの幾分かは猛烈に渋い顔を
しながら生活費として家に入れてくれて、
逼迫していた家計には涙が出るほど嬉しかったが、
残りの給料はすべて彼女様の暴走する謎の収集癖に
費やされることとなった。

初給料は可愛い服でも買うのかと思っていたら、
満面の笑みで買ってきたのはソニーのPS2。
それを皮切りに、広くはないアパートのあらゆるところに、
物が満ち溢れていった。

CD売り場の店員という職権を縦横無尽に乱用した
サンプル版CDやゲームソフトや限定版ほにゃららの
数々が山を成し、商業・同人、少女系からエロまで
ジャンルを問わないコミックが床を満たし、
脱ぎ捨てた服も絡まって寝室の畳を覆っていく。

さながら原作版『風の谷のナウシカ』の粘菌兵器のごとき
浸食力である。というかあれは粘菌である。
ちなみに枕元の畳に宝物のように積まれていくのは、
カルト人気のあるホラー漫画家、伊藤潤二先生の
作品コレクションだった。悪夢見るわ!

「漫画読んだの元に戻せや!」       

お願いします。物を床に広げないで、せめて積み重ねて
上に伸ばしていきましょう。
見かねてカラーボックスを買い足して本棚を作れば、
全蔵書を収納するには積み上げたカラーボックスが
六畳間の一辺を天井まで届く高さになってしまった。

さて地震で倒壊するのが先か、畳の下の根太が
落ちるのが先か。 そんな中で楽し気に通巻物の
コミックを端から奇麗に並べてくださるの彼女様なのだが、
その蔵書を少しでも僕がいじると「漫画読んだでしょ?

元に戻せや!」って君、あのカオスの中で
どんな変化を察したというの。
暴走するのはコミック方面だけではない。
実家に帰るたびに、ベータ版ビデオデッキやら
巨大なぬいぐるみやら生活に不要な大物を
持ち帰ってきやがる。初代からアドバンスまで、
ゲームボーイだけで何台必要なのですかあなたは? 

何やら高額なファッション誌らしきものを大量に
買い込んでいると思えば、その後に間違った方に
尖った女子服の殿堂となった『ゴシック&ロリータバイブル』を
はじめとするエッジなファッション誌の数々だ。

いや、こういう系は色白ふんわり内股ちゃんの
特権であって、彼女様のようなガニ股ダッシュ系には
ちょっと似合わないんじゃないかな~などと
余計なことを言ったことで、変なスイッチが
入ってしまったのだろうか。  

あっという間に彼女様の両耳にはピアスの穴が
合計9か所になり、それでも飽き足らずに唇、舌、
ヘソにまで増殖。缶バッジじゃらじゃらの帆布カバンを
肩になびかせ、鉄板入りのエンジニアブーツで武装して
ママチャリでバイト先に爆走するパンクな
お姉さんになってしまった。・・・

家事は完全にボイコット

一方でこの時期より、家事全般はほぼ完全に
ボイコットとなった。 炊事についてはバイトが休みで
僕が家にいるときは、僕が自分のために作る物を
一緒に食べるか外食するか。じゃなきゃ駄菓子かレトルト。

バイトがある日の彼女様は16時に起きて飯も食べずに
バイトに向かい、仕事先でコンビニ弁当やら
ファストフードなどで2食を済ませ、深夜アニメのために
全力疾走で深夜2時頃に帰って来てからは
何も食べないという不健康極まりないスケジュールだから、
台所に自発的に立つことは皆無になった。

洗濯も完全に僕の担当だが、ほとんど洗濯機の中に
汚れ物が突っ込まれていることはなく、
週に1回ぐらいの頻度で限界まで汚くなったバイトの
ユニフォームトレーナーや靴下が入っている程度だ。

ちなみに自宅で着る服は帰宅後に寝室床の
粘菌の中から拾い上げ、出かけるときに同じところに
脱ぎ捨てるという、よくよく考えれば超合理的
システムを採用。って、そんな合理性は要らんわ
腹が立つ。・・・

「やべえ水虫になった」

天気が良い日の朝は洗濯から始めたい派の僕は、
その粘菌の中からそろそろ洗った方がよさそうな服を
ピックアップし、バイト後に朝方までアニメとゲームで
体力を使い果たして爆睡する彼女様を跨いでベランダで
洗濯物を干す日々なのであった。

なお、夏場は1日に2回はTシャツを着替えたいぐらい
新陳代謝が立派な僕に比べて、悔しいことに彼女様は
無体臭系の人なので、もしかしたらそのまま粘菌状態の
ままでキノコでも生えるまで放置してやれば
よかったのかもしれない。

いや、当時のことを振り返っていて思い出した。
あんまりにも寝室床の粘菌培養状態がムカつくので、
洗濯機の中に放り込まれた彼女様の靴下を
粘菌の中に戻しておいたことがあるじゃないか。

そうだ。あの時の彼女様は「やべえ水虫になった」
と言って皮膚科に行っていたな。ということは、
彼女様なりに汚れのギリギリラインは分かっていた
ということなのだろうか。

ちょっと悪いことをしたな……。 そこで先日、
外出先の喫茶店で恐る恐る水虫事件の真相を
カミングウアウトすると、お妻様はギロっと僕を一瞥し
「おまえ家帰ったら憶えてろよ」だそうである。

おおコワ! 掃除については、もう諦めた。
諦めちゃったもんだから、増え続ける物量に、
ついには貴重な収納である居間の天袋を支える
立派な柱がゆがんで障子が外れるようになり、
脚立と油圧ジャッキで持ち上げて金具で補強する
ハメになり、大家さんごめんなさい案件と
なってしまった。恐るべし彼女様。

ネタの範疇

さあこの暴走、僕も黙って見過ごしていたわけではない。
彼女様の精神科通い卒業の考察として「少なくとも僕が
彼女様に言う小言が減ったことは少し功を奏したのだろうか」
などと偉そうに書いたが、ここは丸々前言撤回だ。

よくよく考えると、僕はその当時も、だらしなく
マイウェイ全開な彼女様に小言を言い続けていたと思う。
というか言わざるを得ない状況は続いていたと思う。
実際に当時のことをご本人に聞いてみれば
「あんたの小言が減るわけないじゃん」
やっぱそうですか。いや、じゃあどうして彼女様は、
僕の小言とリストカットというスパイラルから
抜け出したのだろうか。改めて思い返してみる。

僕の小言は減らなかったが、当時の彼女様には、
「スルー力」と「逆切れ力」が育っていったように思う。
溜まりに溜まった家事に、汚れに汚れた部屋に、
あれをやってこれをやってと僕が言うと、

彼女様は「わかった~やっとく~(気が向いたら)」と
言いながら、結構平気な顔でやらない。それに対して
僕が怒ると、今度は逆切れして不機嫌になる彼女様。

だがこれの不機嫌がまた、滅茶滅茶しつこく長引いて、
僕の方から「言い方が悪かった」などと謝るまで
数日だって継続するし、

もしくは持病の胃痙攣の発作を起こして激しい腹痛に
玉のような汗をかき、近所の総合病院に救急搬送沙汰と
なってしまう。一体何度この繰り返しで彼女様を
夜間救急に運び込んだことか。

これには正直、困りはてた。悪いのは多分彼女様の
方なのに、結局最後に折れるのは僕だし、
腹痛にもがき苦しむ姿を見ると、僕の方が
悪いみたいじゃないか。・・・

彼女様がお妻様に

今考えれば、実は悪かったのは「なぜ彼女様が家事を
やれないのか」について考えが及ばなかった僕であり、
その小言は精神的なDVだったのだが、
当時は分からなかった。

彼女様が育てたスルー力とは、小言をまともに聞くことで
自分自身が壊れてしまうことを予防する、
自己防衛だったのだと思う。 といった考察を
かためたところで、改めて実際のところお妻様、
どうだったのですか? 

僕としては、「長い付き合いの中で、この人は
怒りはするけど最終的に私を見捨てることはないと
信じられるようになったから」とかの美しい
回答を望みます。

だがしかしお妻様の回答は、 「それはだ。
あんたの小言をまともに聞いてると胃が痛くなって
ゲロが出て来てぶっ倒れるので、スルーするしかなかった」
身も蓋もねえなお前。 いずれにせよ、当時の僕は、
彼女様の放任モードに入ってしまっていった。

もちろん2人暮らしをしていて家事をするのが
僕だけならそれは不平等でストレスはたまるが、
カップルというよりは、父娘。だらしない娘がいると
思えばいい。それが当時僕の考えていたことだ。

幸い僕には彼女様が家出してくる前に、7年の
独り暮らしがあったし、炊事は飯屋の厨房バイト経験が
あるから、それほど苦痛ではないし、仕事の原稿執筆が
煮詰まっている時の気分転換にもなる。

疲れて帰ってきたときに温かいご飯ができていたら
いいなと思うけど、それを求めて諍いになるなら、
自分で作ったほうが早い安い美味い。

床の粘菌面積が耐えられる閾値を超えたら、
足で壁際に寄せて歩く場所を確保すればいい。
世の中にどんな同棲カップルがいようと、その形は
それぞれなのだから。

などと自分に言い聞かせられたのにも、また理由がある。
彼女様が精神科卒業してしばらくしたころには、
僕のフリーランスの記者としての仕事も徐々に
安定しつつあったが、その取材ターゲットとコンセプトが
「社会の裏側に居る困窮者たち」に絞り込まれて
いった時期でもあった。

子ども時代に虐待や育児放棄といったバックグラウンドが
あって、未成年で家出して売春をしている少女。
同じく家庭の崩壊や貧困をベースに裏稼業に手を
染めるようになったアウトローな男の子たち。
処方精神薬をドラッグとして鼻腔吸引するなどの

誤用カルチャーにハマる少女たち。
のちには精神疾患を抱えつつ売春ワークの稼ぎで
子どもを育てるシングルマザー等々。

こうした取材対象者のメンタルの病み具合や逸脱行動の
ふり幅は、彼女様と比較すれば圧倒的に大きくて、
手の付けようがなかった。

幻覚幻聴を伴ったり、暴力的衝動を伴う激しい
被害妄想があったり。多くは元々何かの被害者であった
過去をもちつつも、なまはんかではケアしきれない
存在になってしまった人々。

そんな彼らに対しての、細心の心遣いが求められる
取材活動を通して、僕の感覚は相当にマヒしていたと思う。
彼女様程度の逸脱っぷりなら「ネタの範疇」。
一緒に暮らせば不平不満はたまるけど、彼女様の愉快な
パーソナリティと天秤にかけてみれば、僕の我慢は
許容範囲内。

そんな風に当時は思っていたのだと思う。
そんなこんなで、同棲開始から5年を目前にした
2003年9月、僕と彼女様は結婚し、彼女様は
お妻様になったのだった。

次回へ続く



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…






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隙間産業(ニッチ市場)

2017年7月27日 (木)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・

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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。



「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、
そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の
表情なんだ。
お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 
惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、
残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」  
堀木は、色が浅黒く端正な顔をしていて、画学生には珍らしく、
ちゃんとした脊広せびろを着て、ネクタイの好みも地味で、
そうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺったりと
わけていました。  

自分は馴れぬ場所でもあり、ただもうおそろしく、
腕を組んだりほどいたりして、それこそ、
はにかむような微笑ばかりしていましたが、
ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放
せられたような軽さを感じて来たのです。 「

僕は、美術学校にはいろうと思っていたんですけど、……」
「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。
学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 
自然に対するパアトス!」  

しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を
感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、
しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。
つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの
都会の与太者を見たのでした。

それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の
人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷い
している点に於いてだけは、たしかに同類なのでした。
そうして、彼はそのお道化を意識せずに行い、
しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、
自分と本質的に異色のところでした。  

ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、
とつねに彼を軽蔑けいべつし、時には彼との交友を
恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って歩いているうちに、
結局、自分は、この男にさえ打ち破られました。  

しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る
好人物とばかり思い込み、さすが人間恐怖の自分も
全く油断をして、東京のよい案内者が出来た、
くらいに思っていました。

自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌が
おそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の
緋ひの絨緞じゅうたんが敷かれてある階段の両側に
並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、
レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、
皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、
殊にも勘定を払う時、ああ、ぎごちない自分の手つき、
自分は買い物をしてお金を手渡す時には、
吝嗇りんしょくゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、
あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、
世界が真暗になり、ほとんど半狂乱の気持に
なってしまって、値切るどころか、お釣を受け取るのを
忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを
忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、
とても、ひとりで東京のまちを歩けず、それで仕方なく、
一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという
内情もあったのでした。  

それが、堀木に財布を渡して一緒に歩くと、
堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、
わずかなお金で最大の効果のあるような支払い
振りを発揮し、また、高い円タクは敬遠して、
電車、バス、ポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、
最短時間で目的地へ着くという手腕をも示し、
淫売婦のところから朝帰る途中には、何々という料亭に
立ち寄って朝風呂へはいり、湯豆腐で軽くお酒を
飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと
実地教育をしてくれたり、その他、屋台の牛めし焼とりの
安価にして滋養に富むものたる事を説き、
酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものは
ないと保証し、とにかくその勘定に就いては自分に、
一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。  

さらにまた、堀木と附合って救われるのは、
堀木が聞き手の思惑などをてんで無視して、
その所謂情熱パトスの噴出するがままに、
(或いは、情熱とは、相手の立場を無視する事かも
知れませんが)四六時中、くだらないおしゃべりを続け、
あの、二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙におちいる
危懼きくが、全く無いという事でした。

人に接し、あのおそろしい沈黙がその場にあらわれる事を
警戒して、もともと口の重い自分が、ここを先途せんどと
必死のお道化を言って来たものですが、いまこの
堀木の馬鹿が、意識せずに、そのお道化役をみずから
すすんでやってくれているので、自分は、返事も
ろくにせずに、ただ聞き流し、時折、まさか、
などと言って笑っておれば、いいのでした。

酒、煙草、淫売婦、それは皆、人間恐怖を、
たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい
手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。
それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を
売却しても悔いない気持さえ、抱くようになりました。  

自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、
白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、
自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。

みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが
無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでも
いったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、
その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を
示されました。

何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、
二度と来ないかも知れぬひとへの好意、
自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、
マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。  

しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、
幽かな一夜の休養を求めるために、そこへ行き、
それこそ自分と「同類」の淫売婦たちと遊んでいるうちに、
いつのまにやら無意識の、或るいまわしい雰囲気を
身辺にいつもただよわせるようになった様子で、
これは自分にも全く思い設けなかった所謂
「おまけの附録」でしたが、次第にその「附録」が、
鮮明に表面に浮き上って来て、堀木にそれを
指摘せられ、愕然がくぜんとして、そうして、
いやな気が致しました。

はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、
淫売婦に依って女の修行をして、しかも、最近めっきり
腕をあげ、女の修行は、淫売婦に依るのが一ばん厳しく、
またそれだけに効果のあがるものだそうで、
既に自分には、あの、「女達者」という匂いがつきまとい、
女性は、(淫売婦に限らず)本能に依ってそれを嗅ぎ当て
寄り添って来る、

そのような、卑猥ひわいで不名誉な雰囲気を、
「おまけの附録」としてもらって、そうしてそのほうが、
自分の休養などよりも、ひどく目立ってしまっている
らしいのでした。  

堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、
しかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、
たとえば、喫茶店の女から稚拙な手紙をもらった
覚えもあるし、桜木町の家の隣りの将軍のはたちくらいの
娘が、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、
ご自分の家の門を薄化粧して出たりはいったりしていたし、

牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、
そこの女中が、……
また、いつも買いつけの煙草屋の娘から手渡された
煙草の箱の中に、……
また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……
また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……
また、思いがけなく故郷の親戚の娘から、
思いつめたような手紙が来て、……
また、誰かわからぬ娘が、自分の留守中にお手製らしい
人形を、……

自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの
話で、ただ断片、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、
何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかに
つきまとっている事は、それは、のろけだの何だのという
いい加減な冗談でなく、否定できないのでありました。

自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、屈辱に似た
苦にがさを感ずると共に、淫売婦と遊ぶ事にも、
にわかに興が覚めました。 ・・・

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…






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2017年7月26日 (水)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


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富山・長野連続女性誘拐殺人事件

2014.12.17.Wed.18:27 後に連続殺人犯として
死刑判決を受けるT子は、どんな人生を送って
きたのだろうか?

1946年2月14日、T子は上新川郡月岡村(現在は
富山市に編入)に生まれた。 前夫に先立たれた母親が
妻ある男と肉体関係を結んだ末に生まれた子が
T子である。

彼女が認知されたのは13歳になったときで、それまでは
庶子扱いであった。 認知される時期は遅かったものの、
継父は聡明なT子を溺愛した。

一方実の母親は兄2人にしか愛情を注がず、
T子は無視されていた。
T子の性格は内向的で親しい友人もなかったが、
成績はつねにトップクラスであったという。

ただし虚言癖があり、癲癇様の発作を起こして口から
泡を吹いて失神することもあった。
高校卒業後の進路は、大学へ進みたいという願いがあった。
東京の私立大学に合格し、その希望の光は
明るくなるはずだったが、学費の工面がつかず
進学を断念させられた。

失意のT子は地元の保険会社に勤めるが長続きせず、
上京して化粧品会社に就職した。
23歳で結婚し、出産する。

―奈落への序曲―

1972年に卵巣嚢腫になり卵巣摘出手術を受ける。
その闘病中に夫が浮気し、さらに彼が会社の金を
使い込んでいたことが発覚したため、やむなく離婚。

T子は失意のうちに故郷の富山へ帰る。
悪いことが立て続けに起こる。
腹壁ヘルニアを発病し、再手術を受ける。
退院後、T子を可愛がってくれていた継父が死去。

茫然自失となった彼女は、老母と幼い子供をかかえ、
生活保護を受けながら暮らす。
再婚が目的で通っていた結婚相談所は、いつの間にか
男を紹介してもらう売春目的の斡旋所と化していた。

―悪意の女―

1977年、T子が31歳の時に転機が訪れる。
25歳の電気工Kと出会った。まだ新婚8ヶ月目であった。
馴染みの売春婦から紹介されたT子を一目見たKは、
彼女の頭の良さとファッショナブルなセンスに
惹きつけられた。

「父親が大地主の息子で、放蕩はしたけれど、
かなりの資産を残してくれた。
だからお金には困ったことがないわ」という嘘を真に受け、
偽られた品格に全幅の信頼を寄せてしまった。

後に取り調べの中に調べられたT子の知能指数は
138。並の男であれば彼女の手玉に取られてしまう。
挫折し虚言癖があり、異常性格という犯罪者になる
条件をすべて備えていたと言える。

1978年、T子とKは100万づつ出資して『北陸企画』を
起業する。T子の口癖は「こんな小商いじゃしょうがないけど、
頭を使えば大金が入るわ」だった。

1979年8月、T子は結婚相談所で紹介された男性に
9000万円の保険金をかける。
顔見知りの喫茶店経営の女性を言葉巧みに
引きずりこみ、殺害計画を企てた。

男に強精剤と偽ってクロロホルムを嗅がせ、
眠らせてから溺死させる計画であったが、
肝心の男が眠らず失敗に終わる。
その後も結婚相談所で紹介された男から金を
だまし取ったり、Kの印鑑証明でサラ金から融資を
受けるなどして生活していた。

一方「私のようなエレガントな女には、このくらいの
グレードの車でなくては」と国産の高級スポーツカーを
購入するなど虚勢を張っている。

―誘拐殺人の実行―

1980年2月23日、富山駅にいた女子高校生に、
T子は「アルバイトの娘を探している」と声をかけ
車に連れ込んだ。
女子高生は家に「アルバイトに誘われた」と翌日
自宅に電話している。

T子は彼女の家に身代金を要求する電話をかけたが、
祖父が出て要領を得ないため「身代金を奪い取るなど
無理かもしれない」と判断し、連絡をやめてしまった。

金にならないというそれだけの理由で、彼女は
絞め殺されてしまう。 既に一人殺してしまったT子は、
新たなターゲットを探すべく、富山を離れることにした。

Kに「いい儲け話があるから」と持ちかけ『北陸企画』を
廃業させる。2人で長野へと向かった。
3月5日、長野市内でバスを待つOLのY子さんに
「このへんに店を出す予定なので、若い女の子の
意見が聞きたい」と声をかけ、食事に誘い出す。

腎臓病で具合のよくなかったKをホテルに残し、
T子は単独行動をする。
Y子さんに睡眠薬を飲ませ、車内で絞殺。
すでに殺人を経験した女にとって人の命を奪うことに
さほど躊躇はなかったのかもしれない。

被害者の財布から金を抜き取り、死体を遺棄した後、
平然とホテルに戻っている。
Kに「これで美味しいものでも食べなさい」と、奪いとった
金から5千円を渡している。

翌6日夕方、Y子さんの自宅に女の声で「お嬢さんを
預かっている。明日10時までに3000万円を姉に
持たせて長野駅まで持ってくるように」という電話が入り、
家族が家に10万円ほどしかないことを伝えると
電話は切れた。

翌7日午後12時23分、再び女から電話があった。
今度は「2時までに2000万円用意して長野駅に
来なさい」というもので、姉が長野駅に向かうと
「4時38分発のあさま16号に乗って高崎駅で降りよ」と
指示された。

指定されたのは高崎駅前の喫茶店だったが、
犯人は現れず、それ以来連絡は途絶えた。
3月27日、Yさんが行方不明のまま、警察は
公開捜査に踏み切った。

富山、長野の両県警は2つの女性失踪事件の手口が
似ていることから、同一犯による犯行と断定した。
さらに2つの事件の犯行現場では、ともに眼鏡を
かけた女と赤いスポーツカーが目撃されている。

そして3月30日、T子(当時34歳)と、その愛人のK
(当時28歳)が逮捕された。
T子とKは、Y子さんがいなくなった前後に長野市内の
ホテルに3泊していたことや、赤いスポーツカーに
乗っていた女に酷似したことからマークされていた。

―殺人の果てに―

逮捕の決め手は、声紋の鑑定をした結果、
T子の声と身代金要求電話の声が一致したことだった。
4月2日午後、長野県小県郡青木村の林道わきを
通りかかった男性が女性の遺体を発見した。
遺体はY子さんのもので、失踪当日のままの服装で
頭を谷に向けて倒れていた。
首には紐が巻きついたままだった。

警察は当初男性のKを主犯と考え、集中的に尋問した。
T子は「年下の恋人(K)に捨てられたくない一心で、
言いなりになった」と供述したため、Kは追いつめられ、
自白調書に判を押した。

しかし公判開始後、自白は強制されたものだとして
Kは容疑を否定した。のちにKは「彼女を女神のように
崇拝していた時期もありました」と供述している。

T子があえてKを相棒に選んだのは、自分の持ち駒として
自由に動くロボットであったからだろう。
1980年3月6日、岐阜県の山林で若い女性の死体が
発見された。翌日、この死体は、行方不明となっていた
富山県の女子高校生であることが彼女の家族によって
確認された。

T子の実像を象徴する証言として、富山地裁でKは
「この清い、静粛な法廷に悪魔の心を持つ女がいる」と
言い放った。

―悪行の裁き―

1986年にT子は再び病に倒れ、子宮筋腫で刑務所内で
手術を受けた。
1988年2月、富山地裁はT子の単独犯行として
死刑を言い渡し、Kについては無罪とした。

1993年2月、名古屋高裁は一審を支持。名古屋高検は
上告を断念し、Kの無罪は確定した。
1998年9月4日、最高裁はT子の上告を棄却し、
死刑が確定した。

2007年3月23日、富山地裁はT子の再審請求を
棄却の決定。
・・・

終わり



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった
 



歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、  人生、絵模様、万華鏡…

2017年7月25日 (火)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
   不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない

      

4212111

      

私が小学校教師になって初めて受け持ったサヤカ。
彼女はクラスのリーダー的存在で、卒業後も年に
何度か会っていました。

ある日、二十三歳のサヤカ、久々に私に会いに
来てくれました。 しかし、驚いたことにとても瘠せていて、
手首にはリストカットの痕があるのです。

聞いてみると、彼女の周りで辛い出来事が相次ぎ、
それを自分の責任と思って苦しんでいる様子でした。
「なんてことをしたの」 私の一言にサヤカは一瞬
ハッとした表情を浮かべました。

きっと痛いほど自分で理由が分かっていたのでしょう。
そのサヤカに私は言葉を続けました。
「サヤカ、命は一つしかないんだよ。 大切な一つなんだよ。
頑張るんだよ。頑張らなきゃ」

「分かっているよ、先生。私、分かっている。頑張るよ」
そして別れ際、私はもう一度、言いました。
「サヤカ、頑張るんだよ」

数か月後、私の元に悲しい報せが届きました。
サヤカが大量の薬を服用して自らの命を絶ったというのです。
サヤカが最後に会った大人が私だったと聞いた時は、
頭をハンマーで殴られたようでした。

彼女はきっと、自分を受け入れてもらいたくて、
私に会いに来たに違いありません。
「よく頑張ってきたね」と、ただただ黙って抱きしめて
ほしかったはずです。 にもかかわらず、私は
「頑張ろう」「命は一つしかない」という教科書どおりの
言葉を使っていたのです。

サヤカの死以来、 「自分は何を子供たちに
話してきたのだろう」
「一人の子供が救えなくて、多くの子が救えるわけがない」
と自分を責めて責め続けました。

教師としてだけでなく人間として自信を失いかけていました。
どん底の私を救ってくれたのが
『107+1~天国はつくるもの~』(てんつくマン監督)という
一本の映画でした。

描かれていたのは夢を追い求めて力強く生きる人たちの姿。
私は途中で涙が止まらなくなりました。
「もう一度夢を追いかけて生きてみたい」という思いが
湧き上がってきたのです。

映画の舞台となった小豆島には、てんつくマンを中心に
人々がともに学び合う場が実際にあると知った私は、
休みをとって約二週間、そこで生活しました。
雄大な自然と仲間の笑顔に包まれながら、一緒に
夢を語り合う中で心が癒やされ、人間の素晴らしさは
肩書など目に見えるものでなく、その人の人間力だと
気づかされるようになりました。

私が六年三組の担任になったのは、小豆島から帰って
間もなくのことです。 私はそれまで誰にも話さなかった
サヤカのことを初めてクラスのみんなに話し、
「先生は二度と子供たちに、サヤカのような思いを
させたくない」 と訴えました。

そして、何があっても目の前の子供たちを信じ続けよう、
愛し抜こう、卒業式では三十二人全員をこの教室から
笑顔で卒業させようと堅く誓ったのです。

この年、受け持った一人にシュウがいます。
シュウは一年生から四年生まで辛いいじめに遭い、
五年生になると急に攻撃的になりました。
クラスメイトを叩く、殴る、暴言を浴びせかける……。
その行為は次第にエスカレートしていきました。

六年生になったシュウのイライラが募り始めたのは五月、
体育会の練習が始まった頃からでした。
リレーで抜かれるだけで怒って砂を投げたりするのです。
みんなは「シュウを何とかしてください」と訴えます。
私も何度も話したり、怒ったり、褒めたり、
考えられる限りのあらゆる手を尽くしましたが駄目でした。
逆に蹴られ、唾や砂をかけて反抗されるばかりでした。
自宅に帰り、洋服の砂を払い落としながら、
それまで抑えていた涙が溢れました。
悔しくて、情けなくて大声で泣いた日のことを
いまも覚えています。

その次の日、シュウは学校を休んでいました。
私はみんなに「ごめんなさい」と謝りました。
「先生はシュウもこの教室から  卒業させて
あげたかったけど、先生一人ではどうすることもできない。  
でも、先生は諦めきれない。

人を信じること、人を好きになることを、
どうかみんなでシュウに教えてあげてほしい。  
そのかわり先生はみんなを全力で守るから……」
私のその声にみんなは 「先生やろう。   
シュウがいたから こんないいクラスになったと言えるように、   
一緒に頑張ろうよ」 と答えてくれました。

子供たちは大きく変わりました。
皆がシュウの行動を受け入れてくれるように
なったのです。 叩かれてもジッと我慢し、
叩こうとするシュウに 「怒っているんだね。
でも人を叩いたらいかん」 と毅然と言い放つ子も
出てきました。

その姿を見て私も命を懸けて、シュウにぶつかることを
決意したのです。
ある時、シュウは私に、なぜ自分がこんな態度を
するようになったか分かるか、と質問してきたことがあります。

「分からない。何があったの」 沈黙の後、彼は言いました。
「俺は、俺は、ただ友達が欲しかっただけなんだ!」
そう言うと爪で床を引っ掻き大声で泣き始めたのです。

私はそんなシュウが愛おしくて、いつまでもジッと
抱きしめていました。 シュウが笑顔を見せ、
みんなに心を開くようになったのは、それからです。

私はどんな子にも素晴らしい可能性があることを
知っています。 教師に大切なのは、可能性をどこまで
信じ切れるかです。

信じ切っていれば子供たちは絶対に裏切ることは
ないのです。
それはサヤカが命を懸けて教えてくれたことでした。
だから私は亡くなったサヤカの分まで人生を
生きようと思っています。・・・


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私は美容師をしています。
私の父が入院する病院には
末期ガン患者の人がたくさんいました。

父を見舞いに行ったとき「頭がかゆい」という父に
シャンプーをしてあげたのを機に 
知り合いの入院患者さんたちから
カットやシャンプーを頼まれるようになった。

依頼されるのは手術のために頭を半分
丸ボウズにされた女性たちだった。
どんな状況でも「きれいにしていたい」というのは
女性の共通の願いなのだろう。

頭部に傷のある人のシャンプーとカットは難しかったが
私はそれから度たびその仕事を引き受けるようになった。

あるとき、1人のおばあちゃんから
今日どうしてもやってくれとお願いされた。
そのおばあちゃんの頑な態度を不思議に思いながらも
私は無心でカットしシャンプーをしてあげた。

終わると、おばあちゃんは言った。
「私さぁ 本当ならもうとっくに 寿命切れてんのよねー。
先生にいわれたわぁ 『Oさんの娘さんに
頭やってもらってたから寿命伸びたんじゃないの?』
ってねー。

最後に、本当に心のこもったシャンプーしてもらったし
寿命まで伸ばして本当に感謝してるわぁー」
その翌日、おばあちゃんは亡くなった。

息子さんに「ありがとうございます。
あなたのおかげで 母は少し欲張って
生きることができました」と言われたとき
私は病院に響き渡るほどの声で泣いた。

それから10年
あのあばあちゃんの笑顔と言葉は
ずっと私の心に残り支えになっている。

「一生けんめい生きなさいよ。
人間、3分後に死んじゃうかもしれない。

心残りがないように仕事も家庭も
手を抜くんじゃないよ…」


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和の鉄人”道場六三郎さん”の修行時代の話

板長にいじめられたんです。
僕、仲居さんとのチームワークをよくしようと思って、
彼女たちに気を使っていたから、けっこうかわいがられて
いたんです。

だから「ろくさんお願いね」って、何かと声をかけられる。
それは本来、板長とか上の人を通してもらわないと
いけないことだったから板長はおもしろくないわけです。
 
僕は当時20代前半。向板(むこういた)という魚を
おろす係をしていました。
それ以外に板場の進行役でもあったから、
1日15、6時間は働きましたよ。

忙しいからなるべく早く調理場で準備したいのに、
板長が意地悪をして開店の1時間前でないと
調理場に入れてくれない。

準備にはどんなに急いでやっても、たっぷり
2時間は必要でした。
僕は調理場を動き回り、いつも以上に「早く、きれいに」
仕事をする工夫をするわけです。

そんな様子を見た先輩は、僕のことを「駆逐艦」と
呼んでいました。それでも板長は 
「このボケ、遅いぞ」と罵声を浴びせてくる。

せっかく作った料理も気に入らないとひっくり返される。
それが毎日毎日続くものだから、
「もうこの仕事をやめようか」と思うようになった。
 
僕は子どもの頃から辛いからといって、途中で
投げ出したことはない。それがこのときばかりは、
真剣にやめようかと考えました。
でも、考え直したんです。

せっかくここまで修業してきたのに、やめてしまったら
また一から出直しでしょう。
ここが踏ん張りどころだと思いました。
そして
「どうやっても、もうこれ以上はできん」というぐらいまで
やってみることにしたんです。
 
「早く、きれいに。早く、きれいに」と唱えながら、
死に物狂いで仕事をこなしました。
どんなにいびられてもへこたれない僕を見て、板長の
いじめも徐々におさまっていったのです。
あのとき頑張れたからいまの僕がある。

もし、苦しいことから逃げ出すことを選択していたら、
ズルズルと落ちるところまで落ちていたと思う。
人生には「ここ一番」という踏ん張りどころが何度かある。
どんな分野でも一流と呼ばれるのは、そういう「ここ一番」の
局面で踏ん張ることのできる人だよね。

二流は踏ん張れないから、いままで築き上げて
きたものまでガラガラと崩してしまうんだ。
人間、一度でも崩れることを許したら崩れグセがついて、
次の「ここ一番」も頑張れない。・・・ 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

誰もが我慢することを忘れた時代。
我慢することがいかに重要であるかを
思い出せてくれます。

辛い、辛いと愚痴っているよりも
今、成すべきことをやっていくしかない。
忍耐あってこその成長です。








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Bu

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2017年7月24日 (月)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー

      
      

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最近では、髭を生やす男性が多くなっています。
過去の歴史を振り返ってみますと、髭は権力の象徴的な
意味合いや、男らしさを誇示する目的で生やしていたと
思われますが、

最近の髭ブームは単純にオシャレが目的に
なっているようです。
中東の国では髭を生やしていない男は「おかま」だと
思われるそうですから、髭の薄い男性の悩みは
さぞかし深いに違いありません。

そんなさまざまな意味合いを持つ男性の髭ですが、
江戸時代には初期の頃を除いて髭を生やしている人が
ほとんどいなかったということをご存知でしょうか? 浮

世絵などをみても、髭を生やしている男性を
ほとんどみかけません。 それはいったい
なぜなのでしょうか?

江戸時代初期に巻き起こった髭ブーム 江戸時代に
髭を生やしている人がほとんどいなかった一番の理由は、
髭を生やすことを禁止されていたからです。

戦国武将たちはみんな髭を生やしていたのですが、
天下を取って江戸幕府を開くと同時に、大名たちは自慢の
髭を剃ってしまいました。
戦国武将たちにとって髭は、ライオンのタテガミの
ようなもので、あるいみ強さのシンボルだったわけです。

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しかし、そういった話は一般庶民にはあまり関係の
ない話だったようで、江戸時代初期の頃の屏風絵などを
見てみると、武士も大工も町人も立派な髭を
生やしていました。

その後、江戸の町に髭ブームが巻き起こるようになります。
しかも目立つ髭ほど粋でかっこいいと思われたようで、
「鎌髭」と呼ばれる、鼻の下から横に大きく広がった髭が
大人気だったようです。

よく「奴だこ」に書かれている大きな髭が、まさに当時
大ブームとなった「鎌髭」です。

徳川家綱による「大髭禁止令」とは?

そんな髭ブームを苦々しく思っていた徳川幕府は、
4代将軍家綱のときに「大髭禁止令」を出します。
あまりにも堂々とした髭をみんなが生やすことによって、
荒っぽい男気をあおることになり、
戦国の時代を想定させかねないというわけです。

この「大髭禁止令」があってからしばらくの間は、
髭ブームが収まることになるのですが、
のど元を過ぎれば熱さを忘れてしまうのが人間の性です。

最初の「大髭禁止令」から10年ほどたつと、
再び江戸の町に髭ブームが巻き起こってしまうのです。

さすがに幕府も黙ってはいません。
それまでは「大髭禁止令」といえ特に罰則の規定が
なかったのですが、こんどは罰金付きの「大髭禁止令」を
出すことになったのです。

さすがに罰金を支払ってまで髭を生やす続ける
男気のある人はいなかったようで、江戸の町で
髭を生やす人はすっかり見かけなくなりました。
ただし、医者や山伏・神官・人相見、さらに還暦を過ぎた
長老と呼ばれるような隠居老人などが髭を生やすことに
関しては、ある程度大目に見てくれたようです。

確かに、時代劇に出てくる江戸時代のお医者さんは
髭を生やしているイメージがありますね。
また、ときどき時代劇などでりっぱな髭を生やした
お侍さんが登場したりしますが、実際にはあり得ない話で、
明らかな時代考証の間違いといえます。

水戸黄門も本当は髭などなかった!?

江戸時代の人物で髭を生やした人として真っ先に
頭に思い浮かぶのが、水戸黄門こと徳川光圀では
ないでしょうか。

ドラマの中の光圀にとってはある意味トレードマーク的な
存在で、石坂浩二が演じた黄門様以外は、
みんな立派な髭を生やしています。

しかし、

      

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そもそも水戸光圀が諸国を漫遊したという事実は
ありませんので、ドラマの中の水戸黄門と実際の
徳川光圀を同一視して考えるのはナンセンスですが、
晩年に隠居生活を送っていた光圀が実際に
髭を生やしていた可能性までは否定できません。

・・・
おしまい



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むかしむかし、スズメとカラスが林に行って、
楢(なら)の木に一夜の宿を頼みました。
すると楢の木は、
「ふん。お前たちみたいなやつに、宿なんか貸せんわ」
と、断ったのです。

するとそこへ神さまがやって来て、楢の木に言いました。
「これこれ。へる物でもないし、一宿ぐらい貸してやれ」
しかし楢の木は、首をふって言いました。

「いいえ、いくら神さまに言われても、こればっかりは
ゆずれません。
わしは木の中でも、位の高い楢の木です。
他の木とは、格が違います。

ツルやタカと言った格の高い鳥ならまだしも、
スズメやカラスごときには宿は貸せません」
「そこを曲げて、今回だけでも」
「いいえ。曲げられません」
「どうしてもか?」
「はい、どうしてもです」

この楢の木の態度には、さすがの神さまも腹を立てました。
「それなら、仕方がない。今日以降、お前たちは、
冬は葉のないようにしてくれる。それでも、いいのか?」
「はい、お好きなように」
「よし、わかった! 

・・・では、お前たち、わしが他を当たってやるから、
一緒に来るがいい」
神さまはそう言うとスズメとカラスを連れて、今度は
杉や松や檜(ひのき)のところへ行きました。

「実はな、これこれこういう訳で、スズメとカラスが
困っておるのだ。
どうだ、一晩の宿を貸してもらえないだろうか?」

すると、杉も松も檜もこころよく言いました。
「はい。それでは、どうぞ私たちを宿にお使い下さい」
これを聞いた神さまは、とても喜びました。

「おお、そうかそうか、お前たちは、実に良い
心がけをしておる。この褒美に、お前たちは
どんな時でも葉があるようにしてやるからな」

こんな理由で、今でも楢の木は冬になると
葉がなくなり、杉や松や檜たちは冬でも
葉が青々としているのです。

・・・
おしまい


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる


感動  実話!
人間の子供を救うために顔を半分失った犬・・・





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Bu

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2017年7月23日 (日)

妄想劇場・韓信外伝 (馬邑失陥)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、 
 良いかな・・・


アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい



Kansin


韓信外伝 (馬邑失陥)

冒頓は父親の頭曼とうまんを殺して単于の位に
就いた男です。到底話し合いが通じる男ではありません」  
側近たちは口を揃えて反対の意を表明した。

韓王信はそれに対して言う。 「しかし、あの兵数を見ろ。
ざっと見積もって十万は下らない数だ。
我々の軍は、これに対して三万に過ぎぬ。
……
しかし、彼我の兵力差に怖じ気づいたと思ってくれるな。
確かに少数の兵力で匈奴を破ることができれば、
朝廷の我々に対する評価は高まるだろう。しかし、
事態はそんな悠長な状況ではない。

名をあげるための努力をするより、隣の匈奴とどうやって
付き合っていくか考えるべきだ。
大局を見て行動せねばならぬ」 「

では、戦っても勝てないとお考えですか」
「当たり前だ。余は勝てぬ戦いはしたくない。
だから争わなくても済む両国の関係を築くつもりだ。
……
彼らが危険を犯しながら、こうして大挙侵入して
くるのはなぜか。彼らの土地には食が少ないからだ。
折しも今は秋。中原には収穫物が溢れ、
彼らはそれを欲する。だから、くれてやるのだ」

「お言葉ですが……それは屈辱的すぎます」
「耐えろ。武力でかなわないのだから仕方がない。
漢の内政が安定するまでの辛抱だ」
「ですが」・・・

「欲しい物を施してやれば彼らは骨抜きになる。
その間にこちらは国力を蓄え、兵を鍛錬して養成すれば、
逆転は可能だ」
「大局を見る、とはそういうことですか」
「そうだ。むやみに死ぬことを考えてはいかん。
無謀に戦って敗れてしまってはどうにもならぬ。
馬邑を守るためには…
長期的な戦略的思考が必要なのだ」

韓王信は匈奴と和睦すべく使者を送り、事態を
打開しようとした。これに関してはいろいろな解釈があり、
その多くは彼に批判的なものが多い。
しかし自分の領地と領民を守り、なおかつ彼が自分の命を
大事に考えたとすれば考えられる行動である。

しかも一時の激情に流されることのない、すこぶる
冷静な対応であったといえよう。
言葉の壁にぶつかり、文字を持たない相手に意思を
伝える難しさを再確認しながら、それでも二、三度と
使者を往来させ、おぼろげながら良い結果が期待できそうな
頃合いになった。

少なくともその間に両者の間の戦闘は止み、緊張も
緩和したのである。だが運の悪いことが起きた。
間が悪いと言った方がいいだろうか。

漢は冒頓単于が大挙して侵入してきていることを伝え聞き、
ちょうどこのときになって馬邑に兵を派遣してきたのである。
「援軍だと? 今さら要らぬ。帰らせろ」  
韓王信は吐き捨てるように言った。

彼らの存在はせっかくの和平の気運を妨げるものであった。
あるいは彼らが登場することで一気に状勢を
逆転できるのならまだよいが、見たところそれもあやしい。
彼らが加わったところで、たいして戦力の足しに
なるとは思えなかった。

「彼らの登場が匈奴を刺激する結果になるかもしれぬ。
そうなっては今までの努力が、水の泡だ」  
韓王信は援軍の漢兵を決して前面に出さず、
その存在を匈奴に気付かれぬよう配慮した。
当然ながらその様子に漢の兵たちは不信感を抱く。

どうも、夷狄に使者を送ったりしているようだ。  
韓王は匈奴に土地を売り渡すつもりか?
それはすこし違う。売るのではない。
彼は代価も貰わずに土地を……しかも財物をつけて
渡すつもりだ。ただの献上だ。

そういった兵たちのささやき合いがやがて将官の
耳に入るに至った。しかし疑念を抱いた将官は直接
韓王信に問いただすことはせず、櫟陽の皇帝劉邦のもとに
事を告げた。

そして韓王信は劉邦から叱責されることになる。
木簡に記された皇帝の書を突きつけられ、彼は嘆息した。  
淮陰侯は鍾離眛を匿っていた事を余人に察知され、
密告されたというが……この国はいつもそうだ。
小人に足元をすくわれることが多すぎる。

「死んでみせることばかりを考える者は、
勇者とはいえない。かといって生き続けることだけを
考える者も、侠者とはいえない。

夷狄が馬邑を攻め続けるのは、彼らが君王の心を
見透かしているからだ。
なににおいても城を堅守しようという意志が、
いったい君にはあるのか。たとえ危亡の地にいようと、
動じることのない忠と信の心を持って守っていれば、
危機は取り除かれ、亡は薄められる。

思うに、君には忠と信が不足している。
これこそが朕が君王を責める所以なのだ」
皇帝劉邦の書簡には、そう記されていた。
言いたいことがよくわからない文面ではある。
しかし、このときの韓王信には、劉邦の言いたいことが
よくわかった。

城から突出したことが冒頓を呼ぶ原因となった……
外形のみから判断すれば、これは私の行為が
浅はかなものだった、ということだ。

いい格好を見せようとして武力を行使してみたものの、
それに倍する強大な敵の姿におののき、後退したことは
確かにそういえるかもしれない。
しかし、あのときは……仕方がなかった。

強大な敵を前に和睦を結ぼうとして使者を送ったことは、
間違いではない……しかし皇帝にとってこのことが
裏切りに見えることも……あるかもしれない。

不利な条件を前提に講和を結ぶ、ということは
降伏と見えないこともない。だがこのことも、
ほかにどうしようもなかったことである。

後知恵で物を言える身分のうらやましさよ。
皇帝は自分で考えることもせず、戦うこともしない。
やることと言えば結果に対する批評ばかり
……気楽なものよ。

しかし彼は思う。自分は皇帝から土地を割き与えられ、
その権利を子孫に伝えることを保証されている。
ゆえに言うことを聞くのは当然ではないかと。
「……土地というものは、厄介なものだ」

「は?」
彼は口に出してそう言ったが、周囲の人物たちには
その真意が理解できない。
「他人から与えられた土地は、目に見えぬ糸で人の行動力を
制限しようとする。余が皇帝から与えられた恩義とは、
この土地を与えられた、その一点に尽きる」

「どういうことでしょう」
「韓の王室の血を引継ぐ余が平民の身分に
甘んじていた時期に、余を見出し、引き上げてくれたのは
張子房どのだ。そして当時未熟だった余に対し、
武勲を譲り、王権を引継ぐにふさわしい功績を
与えてくれたのは淮陰侯だ。

皇帝は、それを許可したに過ぎない」
「…………」
「よって、余と皇帝の関係を繋ぎ止める糸は、
この土地でしかない。余は……
いっそ、その糸を断ち切ろうと思う」

「と、申しますからには……」
「うむ。一度馬邑は手放して、無から再出発しようと思う。
そして、取り返すのだ。余自身の力で土地を得たい。
漢兵に気付かれぬよう城を脱出し、時期を見て反転し、
再奪取する。匈奴と手を組むことになるが、
それもやぶさかではない」

皇帝が配下の王を信用して叱責した文書が、結果的に
反発を生んだ。これは、土地を与えるという一点のみで
配下との信頼関係を築こうとした当時の伝統的な
政策の誤りであった、と言えるかもしれない。

ひそかに城内から脱出した韓王信は、その後の匈奴軍の
行動になにも口を挟まなかった。
よって馬邑は攻めたてられ、城壁をよじ登られて匈奴の
手に落ちた。失陥したのである。

匈奴の世界は、彼らにとってまったく初めて
見るものばかりであった。
まず第一に、大きいという印象が強かった冒頓単于の馬は、
実際に近くに寄ってみると馬ではなかった。
首が長く、毛深い。何やら口元をもぐもぐと常に動かし、
泡を吹いているようでもあった。

そしてなによりも特徴的なのは、背中に大きな瘤がふたつ
見受けられることである。異世界の生物を初めて目にした
韓王信には、それが幻覚ではないかと思われた。

「こいつは、駱駝という。見た目はそうでもないが、
実は足も速い。そして何よりも、馬より手がかからぬ」
基本的には彼らの話す言語は自分たちのそれと同じもので
あるかのように思われた。しかし中原の人物たちにとって、
彼らの言葉はひどく訛が強いように感じられ、
聞き取るのにも苦労する。
結果、あまり親交は深められなかった。

「構わないさ」彼らは彼ら、我らは我らである。
中原の地を奪うという目的が一緒である以上、
細かいことを気にする必要もあるまい……
韓王信はそう思ったが、寒空の下、天幕だけを張って
暮らすという生活様式には決して慣れることはなかった。

彼に従う兵たちも同様で、それがどうしても望郷の念を
呼び起こす。さらに、食い物が違うことはそれを決定的にした。
米や麦を主食とする中原人にとって、肉と乳製品ばかりの
食事は馴染めないことこの上ない。

彼らは故郷を思う心だけでなく、体調さえ制御できなくなった。
なんとか早く中原の土地を得て、拠点を築かねばならぬ。
そう感じた韓王信は、幾度となく長城を越えて中原に侵入する。
彼らの軍は、閼与を越え、晋陽を越え、銅鞮どうていに至った。
もう少しで邯鄲に到達するという勢いである。

当初彼らに与えられた太原郡という地は、かつて「代」と
呼ばれた地であったが、彼らはそれを越えて趙へ
侵入しようという凄まじさを持っていた。

匈奴の協力を得た彼らの勢力が大変なものであったことを
物語るものであろうが、それ以前にやはり韓王信の統率力が
人並み以上のものであった、ということであろう。

しかし残念なことに銅鞮で彼らの進撃は止められた。
皇帝が親征し、その軍が韓王信率いる隊を
迎え撃ったのである。
この戦いに敗れた韓王信は一人の将軍を失い、
自らは長城を逆に越えて匈奴の地まで後退した。

「敗兵をまとめ、様子を見よ。吾は、まだ死ぬわけにはいかぬ」
彼は戦地に残した王黄おうこうと曼丘臣まんきゅうしんという
二人の将軍に命じ、再起を期した。
「匈奴兵は強いが、作戦に深みがないようだ。
負けて勝つ、ということをまったく考えていない。
だからその戦いはすべてが局地戦であり、ある戦いの結果
が次の戦いの結果に結びつくということがない」

韓王信は冒頓を相手に話した。言葉が通じるように、
ゆっくり丁寧に話す。しかし、冒頓は彼のいう言葉の音が
わかっても、意味が理解できないようであった。
「どういうことかな?」

「……むこう(漢)は皇帝が親征してきている。
これを討ち、捕らえれば漢は実質上、滅ぶ。
皇帝は元来感情的なお方だ。勝ちが先行すれば調子に乗って
深みにはまる。博打のようなものだ……

いや、博打の意味は君らにはよくわかるまい。……
とにかく最終的な勝利を得るために、我々は小さな敗北を
何度も重ねる必要がある。五度戦って四度負ける、
そのような覚悟が必要なのだ」

冒頓からすれば、韓王信の考えは素直に受け入れがたい。
彼は心の中で中原に帰りたいと望み、それがゆえに
我々に負けろと言っているのではないかと
疑いたくなるのであった。

言葉巧みに我々を誘導し、最後の最後で寝返るのでは
ないかと……。
「疑うな。最後には必ず勝つ。吾の言う通りにせよ。
いや、してほしい」
韓王信は冒頓の疑心暗鬼を打ち消すように言った。
それもそのはず、彼にとってもはや皇帝は討つべき
存在なのである。

中原に帰りたいという感情は確かにあったが、
皇帝を討たない限りそれは不可能だと彼は考えて
いたのであった。

「疑うなというが、やはり君の言葉を信じるための
保証が欲しい」冒頓はしかしそう言った。当然の反応だろう。
「ならば、生まれたばかりの子と孫を君に預けよう。
あまりに年若いので人質とも言えぬかもしれぬが……
それで吾の気持ちを斟酌してほしい」

韓王信は馬邑を捨てる際に、太子を連れて匈奴に投降した。
匈奴の地に至った後、その太子に子が生まれた。
これが孫であり、韓嬰かんえいである。

同時期に韓王信は自分の妻にも子を産ませている。
生まれた子は地名をもとに頽当たいとうと名付けられた。
子と孫を同時に得るあたり、自分はなかなかに強運の
星のもとに生まれたと考える彼であったが、
これはやはり由緒正しき韓王室の血を途切れさせないことに
由来する。

しかし大事な血脈を持つその子や孫であっても、
政争や戦略の道具にせざるを得ないのは仕方の
ないことだったと言えよう。
・・・
(つづく)



愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…








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Bu

隙間産業(ニッチ市場)

2017年7月22日 (土)

妄想劇場・一考編

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・




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ビューッと風が吹く寒い日だった。
前日の夜、飼い犬のシロが死んだ。
私が生まれる前から我が家にいた大きな
真っ白の雌犬だった。
優しい性格で、私にとっては姉のような存在だった。

学校に行く道すがら、ずっと涙がこぼれていた。
二年生の教室に着いて椅子に座っても
心の中はシロのことで一杯だった。

先生が入ってきた。
笑い声が大きい、とびきり明るくて、
どこか私の母に面影が似ているS先生だ。
先生は私の顔を見るなり、
「どうしたの?」と聞いた。

私はしかめ面に涙をいっぱい浮かべていた。
答えようとしたけれど
「シロが…、シロが死んで…」と言うのが
精一杯だった。

先生は、「そうかぁ、今日は悲しい日やな。
思う存分、泣いてもええで」
涙が次から次へとこぼれた。そこが教室でも
止まらなかった。

先生は、普通に授業を進めた。
友達も先生も、それきり何も言わなかった。
私は何ものにも邪魔されずに、
枯れるまで涙を流すことが出来た。

私たちが通う山間の小学校は、人数が少なく、
二クラスしかなかった。
私は、一年生から六年生まで、変わらず
S先生が担任だった。

母に似ている先生が私は大好きで
何かと甘えたり、ひっついたりしていた。
うちは母子家庭だったので、
母は働きに出ていて不在気味だった。
そのせいもあって、先生は
「お母さん」のような存在でもあった。

実際、私は先生のことを何度も、「お母さん」と
言い間違えたが、先生は「お母さんちゃうでぇ」と
笑いながら頭を撫でてくれた。

夏休みや冬休みになると、先生に会えないのが
寂しくて、学校に行ったり、先生の家に
遊びに行ったりした。

先生は、私が一人で突然訪れても迷惑な
素振りも見せず、いつも優しく受け入れてくれた。
皆の先生なのだけど、私にとって特別な人だった。

6年生になって冬を越した頃、先生は病気になった。
丸くて艶々した顔が、見る間に細くなっていった。
私たちは心配で、何度も
「先生、早く元気になってやぁ」と言った。

2月に、先生はとうとう学校を休むことになった。
担任は臨時で、教頭先生が兼ねた。

卒業式の前日、
先生から家に電話がかかってきた。
「卒業おめでとう!6年間、よく頑張ったなぁ、
先生、卒業式に行けんでゴメンなぁ」
私はその声を聞いて、すぐに涙があふれた。

涙声で、「先生、卒業式にはこれへんの?」と聞いた。
先生は、「一足先に電話で卒業式やね。
声だけやけど、顔が目に浮かぶで。

また泣いてるんか?
小さい時から変わらへん泣き虫やなぁ。
でもそれは、アナタの良いところやな。
優しい証拠の涙やな」

卒業式でS先生の電話のことを、
クラスメートに話したら、一人一人、みんなの家に
電話があったらしい。
先生は、私たち皆を心から可愛がってくれた。
卒業まで担任が出来なくて残念だっただろう。

それから私たちは山を降りてマンモス校の
中学生になり、部活や新しい友人との毎日に
埋没していった。
高校に入り、大学生になり、その頃、初めて
先生が亡くなったと聞いた。

卒業式のすぐ後だったという。
なぜ知らせてくれなかったのか…
今からでも先生のお墓にお参りしたい、
そう思って、私は先生のご実家に電話をかけた。

先生のお母さんが出られて、
先生の生前のご意志で、子供たちには
その死が知らされなかったのだと聞いた。

「優しくて大好きな子供たち、その門出を
力いっぱい元気に祝ってあげたい。
先生の死を悲しまないで。
先生はいつも皆のことを見守っています」
お母さんは、それだけ告げて電話を切られた。

先生…
私は涙をこらえることも出来るようになったよ。
悲しくても、
それを乗り越える力も身につけたよ。

2年生だったあの時、
先生が思いっきり泣かせてくれたから…。
今の私は、悲しくてたまらなくても、
先生の笑顔を思って、笑うこともできる。

でもやっぱり、涙が少し頬を伝った。
『優しい証拠の涙やね』
先生、ありがとう。
先生、大好き…。



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ある日、首に退行的変化が起こり四肢麻痺に
なってしまいます。
飼い主のジェイニーさんはサミーに手術を
受けさせたものの、残念なことに症状は改善せず、
自由に歩くことができない体になってしまいました。

医師からは「もう二度と歩く事ができない」と
診断されましたが、ジェイニーさんとサミーは
決して諦めませんでした。

ジェイニーさんはリハビリテーションにサニーを移し、
スタッフたちに最後の望みとして託しました。
そこではサミーの復活のために、サミー自身はもちろん
スタッフの方達も全力でリハビリに臨みます。

車椅子を使ったりバランスボールを使ったりと、
四肢を動かす感覚を取り戻すため様々なリハビリが
試されます。

3カ月に及ぶリハビリはサミーにとってとても
大変なものだったと思います。
しかし、諦めず継続した結果、奇跡は起きたのです。

ある日リハビリ施設に呼ばれたジェイニーさん。
何も知らされず「どうしたのかしら?」といった様子で
ロビーを歩いていると…

なんと目の前に自分の足で歩くサミーの姿が!
思わず持っていたものを落とし、両手で口を塞ぎ
言葉を失うジェイニーさん。

ずっと望んでいた奇跡の光景が、そこにはあったのです。

            
 
            

サミーもジェイニーさんもスタッフの方達も、誰一人として
諦めない姿勢がこの感動の結末を生んだのです。
サミーを抱きしめたあと、スタッフの方達ともきつく
抱きしめ合う姿はとても素敵な光景でした。


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…





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Bu

隙間産業(ニッチ市場)


2017年7月21日 (金)

妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・

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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある


大病後も人生は続く

思えば糞貧乏なのにその当時でも合計4台のバイクを
所有していたけど、彼女様のジャッジは「趣味のない男は
つまらん」のひと言。

そんな趣味を維持しつつも、フリーランスとして立てた第一の
目標は「1年間仕事がなくても何とかなる貯金を作る」で、
請けられる仕事はどんなものでも請けようとした。

そんな中で幸いなことには、彼女様は「金のかからない女」
だったということだろう。お金はあるだけ使ってしまいがちだし、
貸した金はまず返ってきたためしがないし、
変な蒐集癖はある。けれども欲しがるものはさほど
高額ではなく、グルメというわけでもなく、
誘わなければまず自発的に外出しない超インドア派。

2人の楽しみは、仕事の少ない日に海を見に行くとか、
仕事が終わった夜中にドン・キホーテで変な食材や駄菓子を
買うとか非常にシンプルなもので、贅沢らしい贅沢は
月に1回都心のクラブで行われていたラウンジ系の
イベントに顔を出すぐらいのものだった。

カオスパワーに敗北

こうして、少々不気味なほどに一心同体で動き回った日々。
結果として確かに彼女様のリストカット頻度は
下がっていったように思う。

大きな喧嘩(というか僕のしつこい小言)があった時などには
相変わらずトイレへの駆け込みリスカがあったが、
きっかけがなければ、彼女様の手首に傷が増えることは
なくなっていった。

ビバフリーランスデビュー! 二人三脚で乗り越えた
あの辛い日々! なんてきれいごとじゃない。
今思うとそれは、彼女様の心の傷が回復するより前に、
僕自身が彼女様のカオスパワーに敗亡した結果のように
感じているからだ。

何しろ彼女様は相変わらず朝には起きれなかったけども、
そもそもフリーランスになった僕は朝方まで働いて
昼近くまで寝ることも増えたから
(後に超朝方生活に再設定したが)、2人が起きる
時間もさほど変わりない。

相変わらず掃除はしてくれないけど、多忙の中で僕自身の
仕事机の周りも仕事の書類や書籍でカオス化し始め、
徐々に僕も人のことを言えなくなっていった。

部屋の汚れにせよ溜まった家事にせよ、さすがに
限度を超えていたら小言は言ってしまう。
特に仕事がないのが分かっている日は朝から集中して
家事をやりたいにの彼女様はずっと布団の中で爆睡中だ。

フリーランスという仕事は、その日やる仕事がない=その日の
収入はないということ。
そんな焦りと、散らかりきったカオス部屋と、
起きてこない彼女様に、いらだちはつのる。

だがここで彼女様に小言を言ってしまえば、
大事な休みは彼女様の不機嫌なむくれっツラで
灰色に塗り込められる。強く言えばリスカが復活する。

ああもう、もういいや! 言ってもほぼ効果のない小言に
無駄な体力を使うより、自分で動いてしまった方が
楽じゃん!
僕、ついに敗北である。

フライングカレー皿事件

当然のことながらその背後には僕の我慢があるわけだから
、決して平和が訪れたわけじゃない。
むしろ我慢している分、もともと短気ですぐに激昂して
激昂後に記憶があまりないというタイプの僕は
、ブチ切れ癖が強くなっていった。

例えば当時の我が家では、今もその話題を出されると
僕が謝るしかない『フライングカレー皿事件』なる
出来事があった。

あれは僕が独立して1年ちょっと経った頃のことだろうか。
その日は取材と打ち合わせが数件重なっていたから、
出かける前に彼女様が起きてくれなかったので、
とにかく彼女様を連れないで都内に出ていた僕。

たぶん帰路に着く直前に「そろそろ帰るので何かご飯
作っておいて」のメールを1本彼女様に入れた気がする。
だが帰宅すると、やはりというか案の定というか、
相変わらず床に物が広がったカオス部屋に、
食事のできている気配はない。

彼女様はというと、部屋の奥のテレビに向かって
ゲーム中だ。ちょうどそのころの彼女様は、
『ファンタシースターオンライン』なるオンラインゲームに
ハマっていて、大ゲームメーカーのSEGAを
家庭用ゲーム機から事実上撤退させた不人気機種
『ドリームキャスト』をモデムにつなげて、幻想的な音楽を
1日中鳴り響かせていた。

極寒の中をバイクで走って帰ってきて、身体も芯まで
冷え切っているし、何より腹が限界まで減っている。
「ただいまー。っていうか、飯は?」
「ごめんメールしたあ?」
(カタカタカタ←協力プレイ中の仲間とチャット中)

したわ! そりゃあんた、そんだけ集中してゲームやってりゃ
メールなんぞ気づきませんよね。まあ、電話しなかった
俺が悪いんだけどね。イラ。

「なんか作ろうか~?」
なんか作るならまず立ち上がれ。テレビ見て
コントローラー手に言うんじゃねえ。せめてこっち向け。
「いい。彼女様に頼んだら何時間かかるか分かんねえから。
ゲーム楽しいんだろ?」

ちなみにこのオンラインゲームは女友達の少ない彼女様が
高校時代から大事にしている親友に誘われて
始めたようだった。思えばそのゲーム仲間と深夜チャットを
するようになってから、彼女様が薬のトレードなんかをしていた
メンヘラ仲間とはすこし疎遠になっていたようだったから、
頭ごなしにえー加減にせいとは言い辛い事情もあった。

だがな彼女様。それにしたって限度があろうよ。
「どうせゲーム終わんねーし終わらす気もねーんだろ?」
冷たく言い放つ僕の「一言多さ」にカチンと来たのか、
彼女様から返答はない。イライラ。

ハアと、ため息一発、荷物を仕事机の横に投げ出して、
まずは台所のチェックだ。シンクは洗い物で一杯。
食材は大根玉ねぎニンジンジャガイモなどの常備菜に、
肉類は冷凍した豚コマぐらいしかない。
あとはサバの水煮缶ぐらいか。

まあ食材が乏しいのは買い物に行っていない俺が
悪いからだけど。いや、本音を言えば1日中家にいる
彼女様に買い物に行ってきて欲しかったけど。
文句より飯が先だ。

気を取り直して炊飯ジャーを見れば、なんとか
昨日炊いた米が2人前。
でもこんなにも冷え切った身体でサバ缶ご飯と
みそ汁じゃ寂しいし、同じコンロに火を入れるなら
味噌汁もほかの料理も大して変わらない。

となれば、思いつくのは野菜をミネストローネサイズに
刻んでフライパンで作る「時短カレー」だ。
タマネギは始めから粗めのみじん切りに、
ジャガイモもニンジンも1センチの賽の目に。

強火で豚コマを炒めたフライパンにこの野菜を投入し、
ちょっと酒を振って蓋をして弱火のタイマー5分で火を通す。
そしてここに水を入れ再沸騰したらカレールーを
味噌漉しで溶いてタイマー10分。あら簡単♪ 
これで時短カレーは出来上がる。

加熱調理時間もシンクの洗い物を終わらせて
風呂の準備をするのにちょうどいいぐらいの長さだ。
これで行こうレッツ野菜皮むこう!

実は飯屋の厨房バイト経験が長かった僕にはこうした
「計画魔&ノンストップ魔」な部分があって、
この日も仕事の帰宅から腰を下ろすこともなくノンストップで
野菜に包丁を通し始めた
。給湯器のお湯の暖かさが凍えた手に染みるう。

さて、こんな準備の間に、ダイニングキッチンから居間の
彼女様に「お前も食べるの?」とか
「机の上食事できるようにして」など声をかけた気もする。

だが、狭いアパートにうまそうなカレーの香りが満ち、
白米を皿によそってカレーをかけ、「できたから
取りに来て~」と声をかけても、返事はない。
ああ、イライライラ。

そして、そしてである。両手に皿とスプーンを持ち居間へと
向かうと、視野に広がるのは、僕が帰ってきた時のままの
カオス部屋! 

テーブルの上には物が溢れていて皿など置く場所もない、
そのテーブルに向かう床も物で一杯で、
何かを踏まずに歩くことはできない、
そんな部屋の奥で、彼女様はやはり僕が
帰ってきたときと全く変わらぬ姿勢で、ゲームに
集中していやがる!!

どうやら仲間と協力してクエストを攻略しているらしいが、
んなことは俺の知ったこっちゃねえ。

「ぬらああ!」

Kare11

悪いことにこの黄色いカレー皿が当時の我が家では
最高級だった『アフタヌーンティ』のお品だったために、
現在に至るまで「あのお皿大事にしてたのに」と
言われ続ける逸話になってしまった。

思い返せば、こうした物への八つ当たりも十分に
DVの一つだが、いいかげん僕も限界だった。

このフライングカレー皿事件以降も、年に一度か二度、
限界を超えた僕が物に八つ当たりして壊すという
イベントがあり、掃除機全損事件やちゃぶ台正拳割り
事件や天井醤油事件、夜(冬)のアパート窓ガラ〜ス
壊して凹んだ事件等がおきたが、
相変わらず彼女様はどう考えても彼女様が悪い
シチュエーションでも頑なに謝らず、そして頑なに
変わろうとはしなかった。

言うだけ無駄、言うだけ疲れる。何年かをかけて、
僕は彼女様に敗北を重ねていった。その一方で
彼女様は「こんなに私が駄目でもこの人は私を
捨てないんだ」と思っていたのだろうか。

断薬と同時にバイト開始

少なくとも僕が彼女様に言う小言が減ったことは
少し功を奏したのだろうか。主治医の精神科医から
「そろそろお薬をやめて働いてみましょうか?」と
言われたのは、通院2年目ぐらいのことだった。

正直、少し時期尚早な気はしたが、経済が楽だった
わけではないし、処方されていた薬の副作用は
相当に強いもので、見ているだけでも辛かった。

ガリガリの痩せ型だった彼女様は信じられない勢いで
太ったし、乳腺が張って母乳が出たり、
日中に無理をして歩くと一歩一歩捻挫するような感じで
腰砕けになって歩けなくなってしまうなんてこともあった。

その痛ましい姿に僕自身も耐えられなくなってきていたが、
驚いたのは彼女様がその主治医の言葉にきちんと
反応したことだった。
「駄目でもいいじゃないですか、駄目だったら
また休めばいいんですから」

という主治医の言葉を支えに、彼女様はいくつかの
バイトの面接を受け、その中の、書籍やゲームや
音楽ソフトに雑貨まで扱う大型複合書店から採用の
返事をもらった。

配属はCD売り場、週5日、夕方5時から深夜2時までの
シフトで働き出した。

断薬してからバイトではなく、バイト開始と同時に
断薬だから、すんなりと行くはずはない。
何しろ彼女様が当時処方されていた薬剤は、
一般的な睡眠導入剤などに加えて当時革命的
抗うつ剤と言われた
(同時に最凶の副作用と言われた)SSIRが
含まれており、その中でも「パキシル」という薬剤の
離脱症状が激しかった。

薬を飲まないと襲ってくる強い不安感、悪夢、めまい、
そして激しい動悸。ぼんやりすることも多かったから、
バイト先の先輩女性に嫌がらせを受けている
みたいでもあった。

「男前」な性格を秘めている

「やめたかったらいつでもやめていいよ」
バイトから帰ってアパートの床でへばっている彼女様の
背中を撫でてやると、驚くほどの握力で僕の膝を
つかみながら「やめない」と言った。

歯を食いしばるように、瞳に一杯の涙を浮かべて、
でも決して嗚咽はせず。ちょっと怖いような表情の
彼女様だった。

この頃からだろうか、彼女様の精神構造に、僕は
新しい発見をしていたように思う。
メンタルを病むということは、心がもろく弱いという
ことだと僕は思ってきた。けれど本当にそうか? 

確かに彼女はメンタルを病んで激しいリストカットを
続けてきたが、実は僕に対して泣き言らしい泣き言を
言うことはめったになく、猛烈に頑固で自分の
信念は曲げず、負けず嫌いで悔しがり。
一言でいうとかなり「男前」な性格を秘めている
ようなのだ。

朝起きず家事せずグウタラを絵にかいたような
生活態度とは、まるで背反して感じるこのパーソナリティ。
なぜこんな男前の彼女様がそんなにもダメ子ちゃん
なのかの答えにたどり着くまでに、ここからさらに
10年以上の時間を要するとは、さすがに当時の僕は
考えてもいなかった。

結局この断薬の離脱症状との戦いには、ほとんど
僕が手を貸すことはなかったと思う。
離脱症状が完全に抜けるには4ヵ月ほどかかったが、
その後の彼女様は精神科からはすっかりきっぱり
足を洗うこととなったのだった。

そしてここから、彼女様の更なる暴走カオス人生が
始まるのである。

・・・

次回へ続く

こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







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2017年7月20日 (木)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・

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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。



第二の手記

また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、
アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、
いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、
「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。
そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうが
いいのだわ。助けてね。助けて」などと、
はげしい事を口走っては、また泣くのでした。

けれども、自分には、女から、こんな態度を
見せつけられるのは、これが最初では
ありませんでしたので、
アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、
かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、
そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、
その一きれをアネサに手渡してやりました。

すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本が無い? 貸してよ」  と言いました。  
自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、
本棚から選んであげました。 「ごちそうさま」

アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て
行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、
どんな気持で生きているのかを考える事は、
自分にとって、蚯蚓みみずの思いをさぐるよりも、
ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに
感ぜられていました。

ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、
何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を
直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って
知っていました。

また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の
部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に
皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、
必ずその友だちの悪口を言うのでした。

あのひとは不良少女だから、気をつけるように、
ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて
来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、
ほとんど全部が女、という事になってしまいました。

しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の
実現では未だ決して無かったのでした。
つまり、自分は、日本の東北のハロルド・ロイドに
過ぎなかったのです。

竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、
なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するように
なったのは、更にそれから、数年経った後の
事でありました。

竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物を
していました。 「お化けの絵だよ」  いつか竹一が、
自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の
口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。

おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が
決定せられたように、後年に到って、そんな気がして
なりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの
例の自画像に過ぎないのを知っていました。

自分たちの少年の頃には、日本ではフランスの
所謂印象派の画が大流行していて、洋画鑑賞の
第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、
ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどという
ひとの絵は、田舎の中学生でも、たいていその
写真版を見て知っていたのでした。

自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、
タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えては
いたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、
いちども考えた事が無かったのでした。

「では、こんなのは、どうかしら。
やっぱり、お化けかしら」  
自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、
焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を
竹一に見せました。

「すげえなあ」  竹一は眼を丸くして感嘆しました。
「地獄の馬みたい」 「やっぱり、お化けかね」
「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」  
あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、
もっともっと、おそろしい妖怪ようかいを確実に
この眼で見たいと願望するに到る心理、

神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に
強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、
人間という化け物に傷いためつけられ、おびやかされた
揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、
ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを
道化などでごまかさず、見えたままの表現に
努力したのだ、

竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいて
しまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、
と自分は、涙が出たほどに興奮し、「僕も画くよ。
お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」  と、
なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。  

自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、
見るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、
自分の綴り方ほどには、周囲の評判が、
よくありませんでした。

自分は、どだい人間の言葉を一向に信用して
いませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、
ただお道化の御挨拶みたいなもので、小学校、
中学校、と続いて先生たちを狂喜させて来ましたが、
しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、
(漫画などは別ですけれども)その対象の表現に、
幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。

学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は
下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現法を
自分で工夫して試みなければならないのでした。

中学校へはいって、自分は油絵の道具も一揃そろい
持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、
印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、
まるで千代紙細工のようにのっぺりして、
ものになりそうもありませんでした。

けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分の
それまでの絵画に対する心構えが、まるで間違って
いた事に気が附きました。
美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと
努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、
何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、
或いは醜いものに嘔吐おうとをもよおしながらも、
それに対する興味を隠さず、表現のよろこびに
ひたっている、

つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、
画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、
れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、
自画像の制作に取りかかってみました。  

自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上りました。
しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している
自分の正体なのだ、

おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、
実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、
仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、
竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。

自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急に
ケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、
これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向の
お道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも
知れぬという懸念もあり、それは何よりも
つらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの
奥深くしまい込みました。  

また、学校の図画の時間にも、自分はあの
「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの
美しいものを美しく画く式の凡庸なタッチで
画いていました。

自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を
平気で見せていましたし、こんどの自画像も安心して
竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、
お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、 「
お前は、偉い絵画きになる」  という予言を得たのでした。  

惚れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言と、
この二つの予言を馬鹿の竹一に依って額に刻印せられて、
やがて、自分は東京へ出て来ました。  

自分は、美術学校にはいりたかったのですが、父は、
前から自分を高等学校にいれて、末は官吏にするつもりで、
自分にもそれを言い渡してあったので、
口応え一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに
従ったのでした。

四年から受けて見よ、と言われたので、
自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、
五年に進級せず、四年修了のままで、東京の
高等学校に受験して合格し、すぐに寮生活に
はいりましたが、その不潔と粗暴に辟易へきえきして、
道化どころではなく、医師に肺浸潤の診断書を
書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に
移りました。

自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。
それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう
言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、
ハイスクール・スピリットとかいうものには、
ついて行けなかったのです。

教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめ
みたいな気さえして、自分の完璧かんぺきに近い
お道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。

父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しか
その家に滞在していませんでしたので、
父の留守の時は、かなり広いその家に、
別荘番の老夫婦と自分と三人だけで、
自分は、ちょいちょい学校を休んで、
さりとて東京見物などをする気も起らず
(自分はとうとう、明治神宮も、楠正成くすのきまさしげの
銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終りそうです)

家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。
父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと
登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、
安田新太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、
デッサンの練習をしている事もあったのです。

高等学校の寮から脱けたら、学校の授業に出ても、
自分はまるで聴講生みたいな特別の位置にいるような、
それは自分のひがみかも知れなかったのですが、
何とも自分自身で白々しい気持がして来て、
いっそう学校へ行くのが、おっくうになったのでした。

自分には、小学校、中学校、高等学校を通じて、
ついに愛校心というものが理解できずに終りました。
校歌などというものも、いちども覚えようとした事が
ありません。  

自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草と
淫売婦いんばいふと質屋と左翼思想とを知らされました。
妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。  

その画学生は、堀木正雄といって、東京の下町に生れ、
自分より六つ年長者で、私立の美術学校を卒業して、
家にアトリエが無いので、この画塾に通い、
洋画の勉強をつづけているのだそうです。

「五円、貸してくれないか」  お互いただ顔を
見知っているだけで、それまで一言も話合った事が
無かったのです。
自分は、へどもどして五円差し出しました。

「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。
よかチゴじゃのう」  自分は拒否し切れず、
その画塾の近くの、蓬莱ほうらい町のカフエに
引っぱって行かれたのが、彼との交友の
はじまりでした。・・・

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







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隙間産業(ニッチ市場)

2017年7月19日 (水)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


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▼事件発覚  (被害者は仮名)

平成6年11月14日、東京都葛飾区 西新小岩の
公団住宅の賃貸マンションの一室から、
母(49)と娘(23)の二人の他殺死体が発見された。

数日前から、電話をかけても出ないことを不審に思った
親族が、この部屋を訪ねて発見したのだ。

母の遺体は、四畳半の部屋に敷かれた布団の上で、
顔にはバスタオルが、身体には夏用の薄い布団が
かけられていた。首にはロープなどで絞められたような
跡がくっきりと残っており、寝ているところを
絞殺したものとみられた。

娘の遺体は、自室のベッドの上に横たえられており、
布団がかけてあった。母と同じように首に絞められた
跡が残っていた。

しかしこの家庭の夫である松田雅夫(まさお = 50歳)は
行方不明となっていた。この事件は結果的には
一家無理心中である。

自分の妻・良子(よしこ)と娘・恵(めぐみ)の二人を
殺害した雅夫は、現場である自宅から逃走し、
この後宛てのない旅に出た。

雅夫は、最終的には長野県のホテルで首を吊って
自殺しているのだが、この事件が特殊なのは、
雅夫が逃走の最中、自分の気持ちを随所で
カセットテープに録音していることである。

録音時間は全部で約40分。そしてその録音は
最後に自分が首を吊る瞬間で終わっていた。

▼殺害の動機と状況の告白

松田雅夫は、平成3年、47歳の時に、それまで務めていた
「ソニーミュージックエンターテイメント」を退職し、
自分で会社を起こした。

自分の趣味であり、大好きだったクラシック音楽を扱う
ソフト製作会社で、事務所も構え、自家用車もベンツを
乗りまわす毎日だった。
しかし見かけとはうらはらに、会社の経営は困難を
極めていた。

元々市場が大きいとはいえないクラシックの世界で
需要がそうあるわけではなく、借金に借金を重ね、
その額は2800万円にもなっていた。
そして三年で事業は破綻した。

妻と娘を殺害したのは11月10日の朝。この日は、
金融機関への支払いの第一回目の日となっていた。
この日に700万円払わなくてはならない。
金の準備に万策尽き、雅夫は一家無理心中を選んだ。

自殺に至るテープはまず、「松田雅夫が喋っています。
こんなことをする気はなかったんですけれども、
いくら手紙を書いてもしょうがありませんし、
自分の気持ちを正直に言うにはこれが一番いいかな、
と思って、思いついたように喋っています。」

といった口調で始まり、この中で資金に困って
いたことにも触れている。
「資金のこと、もう本当に信じられないくらい一生懸命
やったんですけれども、結局最終的には
11月10日に間に合わない、と。翌11日からは、
もう矢のような催促が来るわけですし、捕まってしまえば
逃げられなくなりますから、どうしても10日のうちに
決めてしまわなければならない、と。」

決めてしまわなければならない、とは即(すなわ)ち、
二人を殺して自分も死ぬ、ということを意味していた。

殺害した時のことについては、
「10日の早朝に良子を、それから恵に対しては
『母さん、病気でちょっと寝てるから、ちょっとそっとして
おいてくれ』というような形にして恵対峙(たいじ)
してですね、それで朝食も食べ終わり、彼女の後ろから、
カミさんと同じロープで絞殺した、というわけです。」

この日の朝、近所の人が女性の「助けてーっ」という声
を聞いている。まだ寝ている良子さんを布団で殺害し、
娘である恵さんは台所で殺し、遺体はベッドまで運んだ。

雅夫はすぐに後追い自殺はせずに、この後旅に出る
。殺した二人のことを思うと、生前みんなで旅行に
行った時に「あそこにも行きたいね、ここにも
行ってみたいね。」といった会話を思い出し、
死ぬのはいつでも出来るから、彼女らが生前、
行ってみたいと言ってたところを時間の許す限り
まわってみようと思った、という発言を
テープの中でしている。

▼旅に出発

二人の遺髪を持ち、自家用車である白のベンツに
乗って出発する。最初に訪れたのは神田駿河台
(するがだい)にある「山の上ホテル」である。
ここは御茶ノ水駅前にある雅夫の会社からわずか
300mくらいの距離である。
肉マンのおいしい、このホテルに泊まってみたい、と
彼女らが以前言っていたことがあったからだ。

ここで一泊して、翌日は車で名古屋へ向かう。
名古屋から飛行機で海外へ行くつもりだったのだが、
途中で心変わりして、「日本にもまだ見てないところが
いっぱいあるし、日本の良さもまだそんなに知って
いないんだし・・」と、テープにも予定変更の
メッセージが残っている。

名古屋で一泊し、次は伊豆半島の下田へ。
下田プリンスホテルで一泊し、箱根では箱根プリンス、
その後は富士山を巡る。
「富士山を近くで見たいと、太平洋の側から
見せてあげたいなあ、と思ったからですね。」

旅に出て4日目の11月14日。
この日に東京で良子と恵の死体が発見される。
当日雅夫は富士ビューホテルに宿泊している。

「朝はもう、ほーんとに信じられないくらい美しい
富士山を見ることが出来ました。」
「富士山に関しては、一番いい姿を見せて
あげられたんじゃないかな、と思います。」
随所に、まるで家族三人で旅行をしているかのような
発言がある。また、その逆に、自らの死を
意識した発言もある。

「私としてはですね、死に場所をいつも求めて
いたわけですね。
10日、殺害に使いました物を、テレビ用の
アンテナコードですね、
常にいつも持ちまして死ぬ用意をしておりました。
それ一本では足りないと思いまして、白の、
倍くらいの長さのコードも常に持参しておりました。」

また、この時点ではすでに事件は発覚している
わけだから、警察に関しても注意を払っている。
「パトカーに停止されたら、華々しく事故死でも
してやろうかと思いましてですね。

私、助手席にいつも、えー、ガソリンは買えない
ものですから、メチルアルコール三本とですね、
後ろの席にはベンジンを三本の、ペットボトル
というんですか、置いておきました。
パトカーから停められても、ライターを
擦(す)ればいい、と。」

「死に対する恐怖はありませんでしたけれども、
逆に言うと、死に対して憧(あこが)れのような気持ちで
走っていたのは確かです。」

▼自殺を決行するも失敗

15日。奈良に到着する。宿泊先は皇室も使用している
一流ホテルであり、ここは娘の恵が「一度泊まって
みたい」と言っていたホテルでもある。
「私は、もうそこで最後にしようということを心に誓って
おりましたものですから。」と、ここで旅も終了し、
このホテルで死ぬ決心をしている。

夜、ホテルで最後の儀式を行う。
「私は良子と恵の分の食事も取りまして、
二人の遺髪を飾り、花を飾り陰膳(かげぜん)と一緒に
最後の食事をしました。
まだまだ名残惜しい気持ちでいっぱいでしたけれども・・。」

そしてついに深夜2時ごろ、雅夫は自殺を決行するが、
ロープが切れて失敗に終わる。
「鴨居(かもい)に、良子と恵に使ったブルーのコードを
かけてですね、自分の・・もちろん自分の首にまわして
・・(略)私は本当に、全く自然に足の下にあった椅子を
蹴ったんですけれども、今、こうしてまだ
生きているということ・・。

これをどう説明したらいいのか分かりませんけれども、
とにかく私は、あのー、その後、突然ですね、
時間が長いのか、時間が短いのか、一瞬なのか、
一時間、三時間以上経ったのか、全く覚えて
いませんけれども・・。」

「首吊りの途中でヒモが切れて、そしてテレビコードが
切れて下に落ちてしまったんですね。
真下に落ちたといっても、その周りはですね、
とりあえず、あのー、自殺者特有の便ですとか、
尿ですとか、それが全部外に出ているわけですから、

とにかく、もう豚小屋みたいなもんですね。
その上でもって、つるつるすべるわけですから、
あっちこっちにぶつかって当然なんですけれども、
まあ、その中で三、四時間、自分を取り戻すのに
精一杯でしたけれども。」

「ただ、チェックアウトの時間が11時だってことだけは
薄々感じてましたので、時計を見たら10時40分くらいだと
思いますから、もちろん、それまで、かなり以上
片付けてありましたけれども、まあ、手短に身支度を
しまして、逃げるように出てきたわけです。」

首を吊る前にかなり酒を飲み、実行したのだが、
結果は失敗し、首や手、ヒザや顔に激痛を負(お)って
ホテルを出た。この後、5時間ほど車の中で
横たわり、回復を待つ。

「うん、これは一回目は死なしてくれないんだなあ、と。
当然私も良子と恵の二人を絞殺しているわけですから、
一回の自殺で許してもらえないことは当たり前ですから、
もう一度チャレンジしよう、と。」

▼二度目の自殺を決行

雅夫は、再び死に場所を求めて旅立つ。
頭に浮かんだのは、自分の故郷である松本だった。
ベンツに乗り込み、夜通し走って故郷を目指す。
長野県に入ったのは17日の早朝だった。
長野県塩尻市の山間部にあるホテルに宿をとった。

だがこの日は自殺には至っていない。
「その日は、絶対に、今度は失敗したくないなあ、
という思いがやっぱり強く出てしまいまして、
白いコードだけではどうしても不安にならざるを
得ませんでしたので、17日、つまり昨夜は
決行を諦めました。

丈夫なロープと、それから部屋を汚さないためのシートと、
いろいろ買ってきて一日遅いけれども、万全の形で
決行しようと、今日18日の深夜に至っているわけであります。」

この後は、先に殺害した妻と娘に対して謝罪の言葉が続く。
そしていったん録音を止め、自殺の準備が整ってから
再び録音が始まっている。
これ以降は小型のマイクを胸元に装着して録音したらしい。

再開された録音は、なぜかここからずいぶんと
ノイズが入っている。バックの方で「ゴー・・」という音が
延々と続く。

「全ての準備が整いましたので、私はこれから一人で、
良子と恵の後を追いたいと思います。
うーん、正直言ってちょっと怖いですね。
一回目の時にスムーズにいってくれれば今ごろは
終わっていたと思いますけれども、
でも二人をこの手で殺したんですから、
二回やるくらいの死ぬ苦しみをしないことには
許してもらえないでしょう。」

深呼吸のようなものをしたり、息使いが荒くなったり
しながらも録音は続く。
「気分を落ち着けるためにビールを一杯飲みます。
情けないですね・・はぁぁ・・ふぅ・・」

「良子と恵が『いつまでウジウジしてんよ、早くおいでよ。』
なんて言ってるような感じがします。
そのすぐ傍(かたわ)らまで迎えに来ているような感じです。
本当に死んでも悔いがないし、何もないし。
一番大事な二人が先にいっているんですから、
思い残すことは何もないはずなのに、気が
小っちゃいんでしょうね、うん・・ふぅぅぅ・・
今度こそ、死にたい。」

「今日は強いロープを二重にして、ぶらさがっても
大丈夫な梁(はり)につけておりますから。
もっと早いうち、死ねますから。排尿の中、
動き回るということはないと思います。

今日はホテルに迷惑がかからないように普通の
支度をしてますから排尿の屎尿(しにょう)は
全部靴下ズボンの中に入るはず。

あっ、そうか、靴下をもう一枚重ねておこう。
その方が迷惑がかからない。
一枚だと染み出してしまう。
二枚履いとけば・・はあー・・ふうー・・。」

なかなか決断がつかず、荒い息使いが聞こえる。
恐怖に耐えながら時間が過ぎていく。
「最後に間違えないようにしないと・・ふー・
・一切が完了します。鏡台の上に乗って・・
今・・落ちます・・ふーっ・・ふーっ・・。」

「・・ここで死にます。思いっきり・・ふーっ・
・死ねましたか・・ふーっ・・ふーっ・・ふーっ・・。」
「はい、・・ふーっ・・良子、恵、今から待っててくれっ。」
「絶対死なせてくれよ、頼むなっ!」

この直後、「うわぁっ!」という絶叫が聞こえ、
これ以降の録音はない。
後はゴーッという雑音がしばらく続いてテープは
終わる。

翌日19日、ホテルの従業員によって雅夫の遺体は
発見された。

雅夫は生前、「松田家の墓」として親族と共に墓を
購入していたが、その墓に入ったのは結局
雅夫一人だけである。

親族が別に墓を建て、妻と娘の遺骨は、
そちらの方へ葬られた。
親族たちは、雅夫と良子、恵を一緒に
埋葬することを、拒否したのである。

・・・

終わり



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった
 



歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、  人生、絵模様、万華鏡…




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隙間産業(ニッチ市場)


2017年7月18日 (火)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
   不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


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電車に乗車していた3人の聴覚障がい者が、
車内で座りながら手話にて会話していました。
そこに座っている誰もが、その3人に対して、
特に気に留めることもなく、ごく日常的に
平穏な車内でした。

しかし、この後、その電車内の空気が
一変することとなったのです。

この3人が座っていたのは、車両端にある優先座席。
電車は次々と停車駅を進み、主要駅へと到着しました。
そこは大きな主要駅ということもあり、多くの人が
乗車してきました。

大勢の人がホームから車内へと流れ込み、
この3人の優先座席付近にも、多くの人が詰め寄せます。
3人のちょうど真ん前に、まだ若いカップルが
吊り革を持って立ちました。
そして電車が発車。

しばらくすると、電車の車内に奇声が響き渡ります。
「すっげーウケる!手話とか初めて見たんだけど!」
目の前にいる3人組の聴覚障がい者が、手話で
会話している姿を見て笑っているのです。

それは目の前に立っているカップルの女性の方でした。
何てヒドいことを…
その場近くにいる誰もがそんな顔をしながら
横目で見ていました。

しかし、この3人にはもちろん、この女性の声は
聞こえていません。手話を続ける3人に対し、
この女性はさらに非常識な行動に出たのです。

「手話とかウケるね!めっちゃレアじゃん。
動画撮っとこ(笑)」
こともあろうか、手話で話している3人の姿を
見て面白がり、その姿を動画におさめようと
しているではありませんか。

しかし、この後起こる意外な展開により、
3人が動画に撮られることはなかったのです

「なあお前、そろそろやめとけよ。
それは非常識だろ。てか、めっちゃ失礼なことしてんの
分からないの?」

こう注意しながら、彼女が今にも動画撮影を
開始しようとしていたスマホを取り上げたのは、
隣にいた連れの男性でした。

この連れの男性の行動に、そこにいた誰もが
「お、いいね!」といった雰囲気。
しかし、彼の本当に”すげー行動”はこれだけでは
なかったのです。

目の前で言い合いのように騒いでいる事態に、
さすがに3人も気づいたのか、カップルを
見上げています。そしてちょうど電車が次の
停車駅に到着したところでした。

扉が開く寸前、この男性は女性の手をギュッと握り、
空いていた片方の手で、3人の方に向かって
思わぬ行動に出ました。

この男性は、3人の顔を見ながら、
親指と人差し指をつまむようにして、
それをおでこに付け、その手を軽く下ろしながら
頭を下げる、といった動作をしました。
そして女性を引っ張りながら電車を降りて
行ったのです。

おそらくそこにいた全ての人が、その動作が
何を意味しているのか知っていたわけではないと
思われます。

しかし、この一連の流れの中から、それが
手話で「ごめんなさい」といった意味であることは、
容易に想像がついたようです。

まだ若い彼が、最後にちゃんと”ケジメ”をつけた
この行動。
彼たちが電車を降りた後、そばにいた乗客たちには、
ホッとした安心感と一種のさわやかさが
残残りました。


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「人生の段差」

全国で幼児教育事業を展開しているポピンズでは、
「子どもが成長するためには、どのような経験が必要か」
という視点を大切にしています。

保育園の環境づくりもその一つです。
0歳児から3歳児までが過ごすスペースは、
段差のないバリアフリーであるのに対し、
4歳児以降のスペースには、あえて段差を設けています。
理由は「危険を回避する力」育てるためだといいます。
いざというとき、自分の身を守るためにも必要な
教育なのです。

「高齢者施設では、少し元気な高齢者にとっては
バリアフリーが衰えにつながることから、
少し段差を設けているところもあるそうです。
何事も安全すぎると、いざというときに大きな事故に
遭う場合があるので、安全を考慮した
小さな段差から実践すべきだと感じました」

「段差のある環境では『先を見て注意する力』や
『社会のルール』、『創意工夫』などが学べます。
それらは社会生活や仕事でも生かせますので、
生活の中に段差を取り入れて、気を付けていくよう
心掛けます」

「私の子どものころは、何事も身をもって体験することで、
良いことも悪いことも学びました。
そして自然に危険を回避する力が身に付きました。

今の子どもたちは、この保育園のような環境を
作ってもらうことで危険察知の体験ができることは
よいと思います」 という意見が出ました。

危険を回避する力を学ぶことは、子どもだけに必要な
話ではありません。守られた世界しか知らない人は、
危険を察知できず、事故やトラブルに巻き込まれて
しまう可能性があります。

ある程度自立した後は、適度な段差を経験することも、
人間の成長には大切なことなのです。・・・




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、     
  世は歌につれ、人生、絵模様、万華鏡…


 


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隙間産業(ニッチ市場)

2017年7月17日 (月)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


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この世で最も金持ちの国とはどこなのでしょうか?
ドバイ? アメリカ? スイス? かつてそれらの国を越え、
地上の楽園と言われたのが、南太平洋の小さな島
・ナウルでした。

東京都の10分の1、直径2キロほどのこの小さな島では、
税金はゼロ、病院はタダ。 働くことがないどころか、
住民たちは人生で働いた経験が一度もないので、
『働く』ということの意味すらわかっていません。

食事はすべて外に食べに行きます。
しかし、レストランを運営する人すらもいないので、
中国人が経営している中華料理屋で食事を済ませます。
なにもしなくても毎月莫大な年金が政府から
振り込まれてくるため、友達と遊んだり、
南の島でぼーっとしたり、恋愛したりしているだけで
大金持ち。

結婚すると、国から一戸建ての家まで建ててもらえます。
人々の生活は、ぶらぶらするか、お酒を飲むか、
車を走らせるか。 小さな島には道路が一本しかなく、
スクーターでも30分で一周できる程度のものなのですが、
ありあまるお金によって、一日中ベンツなどの高級車が
走り回っています。

走る意味は特に何もなく、「なんか暇だし、
走ってると涼しいから」。 通常は南の島であれば、
お金がないので観光客に来てもらうことが
産業になります。 そのために住民たちは必死で
観光客に対するおもてなしを考えますが、

ナウルの人々は、お金だけは有り余っているので、
まったく誰にも来てもらう必要がありません。
むしろ、観光客がくると邪魔であると考えているため、
非常に閉鎖的で、国外に情報が流れることが
なかったのです。

地元民たちは誰も働かず、空港などもあるものの、
すべての経営に外国人を雇って済ませているため、
働いている人間は国会議員18人だけ。

議会などの政府機関も、ほとんど平屋建ての一軒家で
すべてをまかなっています。
なんやかんやしているうちに、2003年には総理大臣が
2人生まれるという事態まで起き、
さらに国にたった一台しかない電話が壊れたため、
世界から音信不通に。

ナウルに最も親しい国であるオーストラリアは、
この時このように発表しています。
「ナウルがよくわからん!! 
総理大臣も知らんまに2人いるし、電話も全然
繋がらなくなった! 
国がまるまる行方不明になった!!」  

この現代社会に、お金があふれるほどあり余り、
誰もが好き勝手しているナウル。 果たして、
ナウルとはどんな国なのでしょうか?
なぜこんなにお金があふれているのでしょうか?
ナウルは、誰もが夢に見るような地上の
楽園なのでしょうか?

アホウドリの糞でできた島 ナウルは南太平洋にある
美しく小さな島です。
もともとサンゴ礁がつらなっていたのですが、その上に
アホウドリが糞をしていき、それが数万年
繰り返されているうちに、やがて島となりました。

このアホウドリの糞こそが、島の人々を豊かにしている
理由なのです。
アホウドリの糞は、サンゴ礁とまざり合うことで
『リン鉱石』と呼ばれるものに姿を変えていき、
このリン鉱石は、非常に素晴らしい肥料として
高値で売買されます。

なんとピーク時には1年間で200億円以上の売上があり、
1980年から2000年までの20年間でのトータル売上は
5000億円にものぼりました。

ナウルに住んでいるナウル人はたったの5000人
ですから、ざっと1人1億円の産業です。
さらに働かないナウル人の生活を支えるため、
4000人もの外国人が、レストランやホテル、
政府の役職に就くため出稼ぎに来ています。

ナウルが地上の楽園と言われていたのは、
南の国の小さな美しい島に、のんびりした時間と
豊かさがあふれ、何の悩みもなく生活していけるからです。

Google Mapsで島の写真や美しさを見ることが出来ますが、
恐ろしいほど美しいです。
南の島としての美しさだけではなく、文明がごつごつとした
違和感で入り込み、異常なノスタルジックさを感じさせます。

南の島に不釣り合いな、リン鉱石の採掘場
なにか見ていると切なくなる光景です  
ナウルは島全体がリン鉱石なわけですから、
豊かさを保つために、ありとあらゆる場所が
掘り起こされていきます。

そんな採掘の作業さえもすべて外国人に任せ、
ナウルの人々はそこから得るお金だけをもらっています。
島が穴ぼこだらけに削り取られ、昔ながらの住宅も壊され、
人が住めるところはなくなり、ついに道路沿いにしか
住宅が建てられなくなりました。

森におおわれていた島はぼろぼろになり、
農業を行うことは出来ません。 しかし人々は、
そもそも農業という仕事自体を知らないのです。
働いたことがないという信じられない裕福さと幸せは、
いつしか、働いたことがないという強烈な
ハンディキャップとなって襲いかかってくることは
自明の理だと言えるでしょう。 1

968年の独立以降、なに不自由なく暮らしていた
ナウルの人たちでしたが、年を経るごとにリン鉱石は
減少し、ついに強烈な現実がつきつけられることになります。


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永遠につづく富はない

もともと、島がリン鉱石で出来ている以上、島を
削っていけば、いつしかリン鉱石はなくなって
しまうだろうことは分かっていました。

しかし、あまりにも裕福な生活と、生まれた時から
働いたことのない人々は、危機感というものを
感じられなかったのです。

18人の政治家たちは、未来のためになにかして
おかなければと焦り、リン鉱石で得た莫大なお金で、
リン鉱石がなくなった後も遊んで暮らせるように
準備をし始めました。

「お金だけはあふれるほどにある! 
このお金でなんか空港始めたりとか、
海外のホテルとか買って家賃収入で暮らすとか、
なんかいろいろ方法あるよ! 

たった5000人の国民だよ!? 
何百億円も手元にあるのに、みんなが暮らせなくなる
わけないじゃん!」 そのはずでした。

しかし、ここからナウルは、働いたことがないという
大きなハンディキャップを痛烈に実感させられることに
なるのです。      

莫大なお金を騙し取られる

お金はあるし、どんなものでも買える。
買って買って、どんどん増やしていこう。
ここまで決めたナウルの政治家たちは、このお金の
運用すらも、外国人に投げっぱなしにしながら
進めていきます。 その結果、世界の百戦錬磨な
実業家たちに、とんでもない金額を騙し取られて
いくことになります。

時には、15億円程度の価値しかない病院を、
50億円で買わされてしまったこともありました。
家賃だけで暮らしていこうと、オーストラリアの
メルボルンに高層ビルも建てました。

しかし、この高層ビルにはどんなテナントも決して
入ってこようとはせず、常に廃墟のように静かに
なっています。 それもそのはず、ナウルの人々の
まじめな計画として、もしも自分たちがナウルの島に
住めなくなった時には、メルボルンの高層ビルに
国民まるごと移り住もうと考えていたからです。

将来のシェルター

;それまでは家賃収入用ビルとして作られたこの
『ナウルハウス』は、ナウルの人々にとって
「天才的発想!」だったはずですが、
メルボルンの実業家たちにはこのように映りました。

「え!? このビル借りたとしても、もしかしたら後で
国民大移動してくるかも知んないの!? 
そんならいらねーーーよ、別のとこでいーーーよ!!」
これは当たり前の拒否反応です。  

また、収入を見込んでいたナウル航空も、
誰も観光に来ようという人がいません。
かつては日本から直行便も出ていましたが、
ナウルには本当になにもなく、国民がおもてなしの
精神ゼロという恐ろしいほどつまらない国です。
ナウル航空は、誰も乗ってないのに飛行機だけが
飛んでいるというラジコンみたいな状況で、
やがて閉鎖されていきました。  

90年代からは、ついにリン鉱石の採掘量が減り始め、
しかも数々の海外投資が失敗したため、
莫大な赤字を抱えることになります。
この赤字を埋めるため、まずいことに返済計画も
ないまま、海外に持っていた不動産などを担保にして
借金をし始めましたのです。

この借金も、国際機関などから行えばよかったのですが、
てきとうに海外の民間金融業者からお金を
借りてしまったため、返済に困り、ついには
海外資産を手放すことになりました。
遊んで暮らすための準備のはずだった海外資産を失い、
それでも足りず、ついにはリン鉱石の売上を削って
借金を返済していくとになったのです。

5000億円の売上でたった5000人、十分に
暮らしていけるはずが、いつの間にか考えられないほど
国家運営がかたむいていました。
働くという考え方すら知らないまま海外に出たナウルは、
何もかも搾り取られてしまったのです。  

しかし、このような事業の失敗は日本でもよく行われており、
莫大な税金が無駄遣いされている事実は変わりません。
そんな場合でも、日本人たちは働いており、
政府の失敗を立て直していく力があるのですが、
ナウルの国民たちには働くという概念がなく、
民間経済がない国では、ひとたび国策が失敗すると、
そのまま破滅へと直結してしまうのです。

ようやくナウルの学校では、「世の中には『働く』
というものがある」ということを教え始めましたが、
時既に遅しでした。

破滅を近くに感じて、ナウルの政治家たちは
起死回生の作戦に出ますが、このすべてが失敗して
しまいます。

誰でも銀行を作れるようにしよう

なんとかお金を集めるためにナウルが考えたのが、
誰でも銀行を作れる島にすることでした。
ナウルのような小さな島では、自分たちの思うように
法律を変えられます。 法律を変え、「1800万円あれば、
誰でもうちの島に銀行を設立できます!」と世界に宣伝、

世界初の税金ゼロ、後腐れなし、いつでも
どの国からでも自由に銀行を設立できるという仕組みを
作り上げました。

このアイディアに世界の金持ちが乗り、ナウルの
ひとつの住所に、447件もの銀行が登録される
事態にまで進んだのです。

これでみんなが暮らしていける…と思いきや、
そのうちのひとつがマフィアであり、自分たちの汚い金を
銀行につっこみ、出処不明にして再利用するという、
典型的なマネーロンダリング(お金の洗濯)を始めました。

その総額はなんと700億円。 これによってアメリカに
激怒され、アジア開発銀行レポートのマネーロンダリング
・ブラックリストにまで入れられたことで、銀行事業は
やめざるを得なくなります。

さらにナウルは諦めずに次の一手を打ちます。
国籍を売ろう

次に考えたことが、国籍を売ることでした。
なんか本気でやばいことばかり考えています。
日本では二重国籍が禁止されていますが、
多くの海外では二重国籍が認められていますし、
仕事で長く海外に滞在するビジネスマンなどは、
ビザを取るのがめんどくさいので国籍を取って
しまうこともよくあります。

ナウルは、ナウル国籍を自由に買えるシステムを
作ることに決め、『300万円ほどで君もナウル人になれる』
と世界に宣伝しました。

このシステムもそれなりに受け、ナウル国籍を
買いたいという人が多く現れました。
ナウルの人々は、これでナウルに新しい事業が
できたと思っていましたが、しかし、客のうちの1人が
実はアルカイダで、ナウル国籍で得たパスポートを
9.11の同時多発テロで使うとは思ってもみず、
アメリカからのとんでもない怒りを買います。

アメリカ「9.11のテロ、

なんでアメリカに入国できたのかと思ったら、
てめーのところのパスポート使ってるじゃねか!! 
絶対許さん!!」  
これはそうなるだろ!! ってゆーか
ちゃんと人を見て売ってよ!!  

またしても事業が失敗したナウルに、オーストラリアから
声がかかります。
アフガニスタン難民の受け入れ 以降に起きた
アフガニスタンの戦争で、多くのアフガニスタン難民が
生まれました。 オーストラリアへの亡命を願って、
海をさまよっていた1153人の難民たちですが、
オーストラリアは受け入れに難色を示します。

「オーストラリアで1153人を受け入れるのは
ちょっとできないな…。
そういえばナウルはどうしてんの? 
30億円あげるから、責任全部そっち持ちで9ヶ月
受け入れてくれない?」 責任全部持ちというこの条件。

普通はこのような申し出を受けるのは相当に
ためらいますが、ナウルの人々はアフガニスタン
難民の受け入れを承諾します。
1153人を受け入れることにしたものの、
ナウルには宿泊する場所がまったくありません。

アパートみたいな国営ホテルと、ほとんど民家みたいな
民間ホテルがひとつずつあるだけで、
他にはなにもないのです。
「とりあえずホテルに入ってもらっておこう」と
アフガニスタン難民にホテル住まいをさせますが、
なんと難民から、「こんな国はいやだ!!」と
ストライキを起こされます。 難

民に住むのを拒否されるとは、どれだけ
居心地が悪いのでしょうか?
2001年から始まったこの受け入れは、なんやかんやで
2008年になるまで続きましたが、

この難民受け入れこそがナウルの貴重な収入源でした。
すべての収入のうち、20%はこの難民受け入れ
からだったのです。

難民受け入れがなくなると、大幅に収入が減って
しまうことは避けられない現実でした。
よその国から金をもらおう!!
ここにきて、かなりやけくそ感が漂ってきましたが、
ついにナウルはよその国から金をたかる方法を
とり始めます。

リン鉱石が少なくなり始めた1989年にも、
「昔オーストラリアとイギリス、ニュージーランドがうちを
植民地・信託統治してた頃、みんないっぱいリン鉱石
持って行ったりしたから、その分のお金ください!!」と
賠償請求し、90億円近いお金をもらったことがありました。

今回は賠償請求でもなんでもなく、中華人民共和国と
中華民国を相手にした交渉。  
まず前知識として、中華人民共和国(中国)と
中華民国(台湾)は対立しており、お互いに国家で
あることを主張しているものの、どちらかを認めれば、
どちらかが認められなくなる存在であるということを
知っておいて下さい。

たとえば日本は中国を認めていますので、台湾を
正式に国家だとは認めていません。
これは国際マナーでもあり、日本はかなり注意深く
行動しています。

ここでナウルが注意ゼロのとんでもない行動を
起こし始めます。
2002年、台湾と仲良くしていたナウルは、
突然こんなことを言い出しました。
「なんか今急に思ったんだけど、台湾とは
国交断絶しますから!! 
これからは中国とだけ取引しますから!! 
仲良くいきましょうや! 
今後いろいろな面でよろしくお願いします!」

これにより、国交樹立された中国は、130億円もの
援助金を支払います。  
それから3年後の2005年、またこんなことを言い始めます。
「なんていうか今気づいたわ! ぼくが本当に
好きだったのは台湾だってこと! 
よりを戻そうよ!! 

中国のこととかもう知らないんで…。誰それ? 
そんなんあった? 
うちは台湾一筋!! 中国は国交断絶!! 
台湾復交!! いろいろな面でよろしくお願いします!」
これにより、台湾がナウルに対して17億で
飛行機を買ってあげることになりました。

閉鎖されていたナウル航空が再開します。  
えーーッ!! 中国と台湾を両天秤にかけて、
うまいことふたりからお金を引き出してる!!  
信じられねーー中国から130億円ももぎとってる!!!
どうなってんのこの国!? こんなふらふらした外交あり!?

こんなことしてたら、国際社会でどこからも信用されないよ!!  
事実、昔ナウルを植民地にしていたオーストラリアは、
ことあるごとに援助金を支払っていたものの、
ついに国民からは「これ以上援助するべきではない!」
という声も高まってきています。 そらそうだろ!! 

こんなやり方してたら! ちなみに2002年に中国から
130億円、2005年に台湾から飛行機をもらっていますが、
その中間である2004年には、オーストラリアから
17億円の無償援助をいただいています。
もっと言うと2001年には日本も1億円寄付しています。
よそから金たかりすぎ!!!

世界一の金持ちはどこにいったの!?
しかしこれらの行動は、本当にナウルが破滅寸前の
状態であることを示しています。
もはや公務員への給料も払えなくなり、水道も
制限した状態でしか使えず、燃料もなく、2003年には
賃金未払いの外国人から暴動が起き、ついでに
国に1台しかなかった電話も、お金がなくて
止まってしまったのがこの年です。

1970年の独立から30年近く続いた栄光が、
あっというまに崩れ去ってしまいました。
もはや援助金だけが頼りとなったナウルは、
その資金をもとに、ナウルは最後の計画に突入します。      
またたくさんリン鉱石が出るかも!!もっと掘ろ!!

もうだめだこの発想!! と諸外国が言いたくなるような
状態ですが、どんどんなくなっているリン鉱石も、
更に深く深く掘り進めば、第二層があることが明らかに
なってきました。

たった直径2キロの小さな島を形がなくなるほど掘り起こし、
残ったリン鉱石を手に入れ、大事に使えばあと
30年は持つだろうというのがナウル政治家たちの
見通しです。 実際、30年も持てば、今の政治家たちが
年寄りになることであり、今は何も考えなくてすむでしょう。

今のところは。 これこそがナウルを堕落させてきた
原因でした。 あまりにも莫大な財産、
あまりにも豊かな生活があり、目の前に危機がないため、
先延ばしにして、誰もまじめにがんばろうという
発想を持つことが出来なかったのです。

ナウルの政治家とて、『自国の発展』を考えて
いなかったわけではありません。 まずは、
「物を作って売ったらお金が手に入る」ということを
国民に教えなくてはと、魚市場などを設立したことが
ありました。

魚釣りして獲った魚を、あまった分は売る。
そしてお金を手に入れる。 ここから国民に働くということを
教えるつもりでしたが、国民はすでに満ち足りた生活をして、
高級車に乗って外食して、一日中お酒を飲んだり
しているため、魚釣りも趣味で自宅分程度しか
しようとしないのです。

魚市場は店員以外誰もおらず、ただの水槽置き場と化し、
これが本当に意味があるのかと議論になっています。
ナウルにも、やはり今の状況を危機だと思っている
国民がおり、改革派の政治家となって、現状を
変えなければならないと考えています。

そういった人々は、今回のリン鉱石第二層にも慎重であり、
「これが本当に最後の最後、ここで復興しなければ
すべてが終わる」と考えていますが、同時に、
「今までのように何もせず楽に暮らしたい、
俺の収入だけは確保しといてくれたらそれでいい」という
保守派の声も根強く、ナウル議会で争われています。

世界一の富豪であり、極小国家であったナウルが
どのような結末を迎えるのか、世界中が注目しています。      
栄光の果てに 世界で一番の金持ち。

美しい南の島の生活。 何の悩みもなく、
何も考えることなく毎日幸せに過ごしていられる。
地上の楽園と言われたナウルは、楽園の体験を
大きなツケとして、何倍返しにして支払わされる
ことになっています。 今さら戻ろうとしても、
石器時代の生活には戻れない。

ナウルはオーストラリア、イギリス、ニュージーランド、
日本、アメリカなどからの植民地や信託統治の
時代を経て独立した国ですが、リン鉱石に頼りすぎ、
民間経済や政府も整わないままに独立したことは
本当に正しかったのでしょうか?

ナウルの情勢が報じられるたび、話題に上るのは
次のようなことです。  
「もっと、リン鉱石があるうちに、うまく運用しておけば
よかったのに。
無駄遣いしなければ、今でもゆとりを持って
生活出来たのに…」  

実際にそれは正鵠を射ているでしょう。 しかし、
これはナウルだけの話ではないのです。
リン鉱石があるうちに、いつかなくなるその未来を
見つめて行動していけばよかった…

では我々の文明は、いつか石油がなくなる未来を
前にして、十分な備えをできているのでしょうか?
電気自動車や天然ガス、水素、シェルオイルなど、
多くの新しい石油の代替品が開発されていますが、
それら新資源・新技術を製造し社会で運用するためには、
多くの石油が必要なのです。

もしも石油がなくなれば、確実に現在の文明は
ストップします。 そうなりますと、ナウルの未来は、
即刻我々の未来そのものとなります。

実際に、世界幸福度ランキング1位だったノルウェーは、
天然資源をもとに豊かな財政と国民の幸せを
維持していましたが、ついに天然資源が枯渇し始め、
「やばくなってきた!!」と声明を発表しています。

我々がナウルの事実を見て、気付かされるべき点も
とても多いでしょう。   また、ナウルが陥っている
過酷な未来は、我々にもうひとつの事実も
示唆してくれます。

それは、お金だけでは、決して人間は幸せには
生きていけないということです。
発展途上国に支援を行う際、よく「資金援助だけでは
不十分」だと言われます。

貧しい国にお金をあげただけでは、その国は
自分で立ち上がれる力をなくしてしまい、
一時的に裕福になっても、その後いっそう
助からない状態になってしまうということです。

これはナウルの現状を見ればよくわかるはずです。
ですから、発展途上国への援助は金銭ではなく、
インフラ整備にあてられています。
水道などを整備して、生きるためだけで精一杯に
なるのではなく、勉強できる時間を作ること。

さらに学校を建てて、国民が新しい世界を
見られるようにすること。
これにより、初めて発展途上国が自分で
生きていける力がつくのであり、先進国から
金銭を得るだけでは決して得られない、

国家の安定を得ることができるのです。
こういった言葉は、ナウルの現状を見ていると
痛感させられます。

ナウルは植民地を経て独立していますが、
先進国に教えられるがまま近代国家になった
といっても、国家が破綻すれば、いつまた
オーストラリアなどの属国になってもおかしくない
状態です。

リン鉱石だけを得ることは、ナウルの幸せには
つながりませんでした。 人にあげるための優しさは、
一時のものではなく、その国の未来を考えた
ものであるべきなのです。
・・・ 
・・・
おしまい


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる


感動できない実話
アグリーと呼ばれた野良猫  






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Bu

隙間産業(ニッチ市場


妄想劇場・韓信外伝 (馬邑失陥)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・


アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい

Kansin


韓信外伝 (馬邑失陥)

吾の背の高さで淮陰侯なみの軍事的能力があったら……。  
彼は自分の身長が実質的に見かけ倒しであることを嘆いた。
身の丈が本質を伴っていたとしたら、今頃は天下に
覇を唱えていたのではなかろうか、と。  

だが実際は、それほど世間が彼を過小評価していた、
ということは無いようである。
後の述懐を見ると、劉邦は韓王信の武勇を評価し
(警戒したともいえる)て太原に移したらしく、
これは充分に彼が諸侯としてあてにされていたことを
皮肉にも示しているのであった。  

滎陽で生き残ったことが、彼の名を高めたのである。
「……韓王信は戦いにおいて粘り強く、一時の激情に
駆られて死を選ぶような男ではない」  

淮陰侯韓信が皇帝劉邦相手に残したこの言葉から、
彼は確かに、同時代人には一定の評価を
なされていたことがわかる。

思えばそれも、彼が身の丈に恥じぬ行動をとろうと
常に細心の注意を払ってきた結果かもしれない。
「国境付近の防備に専念しろ。胡の侵入があったとしても、
我らの側から胡の土地に攻め入ることは許さぬ。

穀物も実らぬ痩せた土地を得ても、我らには
ひとつの利もない」 このとき韓王信が発した指令は、
彼の慎重な性格を象徴したかのようなものであった。

匈奴は毎日のように国境を襲い、彼らを苦しめた。  
匈奴の軍隊は中原のそれとは違い、軍旗などを持たない。

兵はどれも騎兵であり、各々が単独に行動する。
進軍に際して合図などを必要とせず、優勢だと見ると
死した獣に群がる烏や蝿のように、どこからともなく現れた。  
しかし、ひとたび敗勢だと見ると無秩序に
背を向けて逃亡した。

各々が勝手な方向に、誰が誰を守って戦う、
誰かの敗走を救うということをまるで考えなかった。
よって、彼らを殲滅することは非常に難しかったのである。  
そして、そのことを恥と感じる文化を持たなかった。  

匈奴の社会では、父親が死ぬと子がその財産の
すべてを受け継ぐ。その財産とは単なる所有物にとどまらず、
父親の妻、つまり自分の母親も含まれた。

部族の血脈の維持のために匈奴の男たちは自分の
母親を妻とし、子でありながら兄弟にあたる
赤ん坊を産ませたのである。  

また、戦場で死んだ者の遺体を担いで家族に届けると、
死者が家長であった場合、やはりすべてが
担いできた者の所有になった。  

ひと口に善悪を判別することはできない。
彼らにとってこれらの決めごとは、絶えない
戦乱のなかで未亡人やみなしごをうまないために
必要なことだったのである。

「だったら、彼らは戦いをやめればいい。
それですべてが解決するじゃないか」  
韓王信は側近の展開する匈奴論にそう口を挟んだ。
善悪を論じるつもりはなくても、矛盾を感じるのである。

要するに、そこまでして戦う理由はなんだ、と
言いたいのである。  
彼が心の奥底で戦いたくないと望んでいるからこそ、
提起したくなる矛盾である。

「彼らは常に……草と水のある地を求めて北の地を
放浪します。家畜に餌を与えるために……。
これは想像以上に過酷な環境といえましょう」  

匈奴の事情に通じた側近の一人はそう説明した。
しかし、韓王信にはその真意がよくわからない。
「つまり……どういうことだ?」

「彼らの生活環境は厳しいことこの上ありません。
気候は冷涼で乾燥しており、土地は痩せ、
生産に向きません。

つまり、彼らは常に飢えの危険を感じながら
生きております。彼らの生業とする狩猟や牧畜だけでは
自分たちの栄養を満たせず、それでいながら他者と
交易するという文化も持ちません。

したがって、彼らの生活の中では他者から物を奪う、
という行為が日常のものなのです」
「戦って、略奪するという行為が日常生活の
一部だというのか? では彼らは大げさに
首領などをたてたりしているが、その実は
山賊と変わらない、そうに違いないな?」  

自分を安心させたい、という感情からだろうか。
このときの韓王信の発言は敵を過小評価するものであった。
「そうに違いありませんが、だからこそ我々は、
油断すべきではありません。

彼らは……戦うことに何の感情も持ち合わせておりません。
敵が憎いから戦うのではなく、略奪することに
罪悪感を持ったりしません。
彼らの中ではそれは善人がすることであり、
略奪できない人物は、悪人なのです。

よって、なまなかの覚悟では、彼らに対抗することは
出来ませぬぞ」  
農耕民族が春に種を蒔き、夏に水を与え、
秋に収穫する……そのことに関して善悪を論じることは、
通常考えられない。匈奴の侵略行為がそれと同じだとは
どうしても彼には考えられなかったが、世の中には
思いの通じない相手というものはよくいるものである。

まして国外の異民族ともなれば……。  
そう考えた韓王信は、決断を下した。
「現在の都である晋陽は国境から遠く、匈奴の侵犯に
対抗できない。よって我々は、馬邑に遷都し、軍事上の
拠点とする」

馬邑県は秦代に設立され、現代の山西省朔州
さくしゅう市朔城さくじょう区がそれにあたる。
北は内蒙古自治区に接しており、春秋時代には
北狄ほくてきの勢力範囲にあった。

それが戦国時代に趙の版図となるも、当時は
無人の荒野であったようである。  
もともとこの地域は地盤が弱く、人が普通に歩くのも
困難なほどの泥地だった。

しかし秦代に至り、匈奴対策に有効な地理的条件が
注目され、城壁が建設されることとなったのだが、
足場が悪いことが原因で、城壁は建てるたびに崩れる。  

誰もがあきらめかけたとき、一匹の馬が同じ場所を
ぐるぐると走り回る光景が工兵たちの目に入った。
もしやと思い馬の足跡をもとに城壁を建設すると、
見事それが完成したという。

その事実にちなんで「馬邑」という地名になったのである。  
では城壁の内側にあるべき建物はどうだったのか、
という疑問は当然生まれるが、それは考えないことにする。
これは、あくまで地名に含まれる伝説なのである。  

ともかく城壁の完成以来、この地は中原の人々にとって、
異民族の侵略に対する最終防衛拠点となった。
そして韓王信もこの地に拠点を置いた、というわけである。  

しかし睨みをきかせたところで匈奴の襲撃が収まる
わけでもない。蚊や虻を壊滅させることが人類にとって
不可能なことと同じように、無秩序に姿を現す彼らを
滅ぼすことは不可能に近い。

「兵がいくらいても足りぬ。彼らの進撃をとめるためには、
城壁を空まで高くするか、国中の男子を城壁の守りに
つかせるかしかない」  
韓王信がここでいう「国」とは、彼の治める太原周辺の
ことではなく、漢のことである。

つまり漢とその支配下にある諸侯国の総力を挙げて
対抗しないと事態は解決しない、そう言ったのであった。  
しかしそんなことはもちろん不可能であり、彼自身も
それをわかっていた。

「蜂の集団を発見したとして、それを一匹ずつ排除しようと
あがいても無駄なことだ。その場合は巣を見つけ、
長い棒で叩き落とす……それが最善の策であるが、
我々には匈奴の巣がわからない。いったいどうするべきか……」  

対処に迷っているさなかにも、馬邑城を囲む匈奴兵の数は
増えていく。  逡巡していてもどうにもならぬ。
ここは一戦を交え、我々の武勇を一度示すべきだ。  
敵が城壁の前に集中しているときこそ、逆に攻めやすいと
考えた彼は、配下に命を下して出兵した。  

城壁の門を一箇所だけ開放し、そこから兵を突出させる。
間断ない歩兵の突撃で包囲網に穴をあけることに成功すると、
その穴を広げるためにさらに兵力を投入して、
徐々に敵騎兵の統制を乱していく。  

元来もろいといわれる匈奴の陣形は、あっという間に崩れた。
包囲は解かれ、敵兵は四散していく。韓王信は
そのもくろみどおり、一戦して自らの武勇を示すことに
成功したのだった。  

しかしやがて遠目に新たな敵の集団が見えた。
逃亡した騎兵たちはそれに合流し、さらに数を増やしていく。
その数はざっと見て十万以上であった。  
大将旗があるわけでもないし、きらびやかな装飾を
施しているわけでもなかったが、集団の先頭を駆けてくる
人馬は充分に彼の目を引いた。

というのもその姿は他の兵に比べて騎乗する人、馬ともに
一・五倍はあろうかと思われたのである。
「……冒頓ぼくとつだ」 「は?」  韓王信の言葉に
周囲は固唾をのむ。

「匈奴の王、冒頓単于だ。間違いない……退くぞ」  
包囲を突き崩した彼らであったが、押し寄せる匈奴兵の数と
それを率いる単于の迫力に圧倒され、ふたたび
馬邑に立て籠ることになってしまった。

・・・
(つづく)




愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







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2017年7月16日 (日)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・




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本来なら、かわいい子供たちに会う前ですから、
ドキドキワクワクのはずですが、私の場合は…。

実習の一週間前、打ち合わせのために、
受け入れの中学校に行くと、指導教官の先生が
困惑した顔で言いました。

「実は、あの学級は問題がありましてね。
入学してから一度も教科書を持ってこない
生徒がいるのです。
その上、手が付けられませんでねえ」

「ええっ!?」
ベテランの先生方さえ手を焼く生徒!
それも2年間も教科書を持ってこない!

「甘い顔は絶対しないように。大丈夫、
何かあったら、われわれがついていますから」
(そっ、そんな……何かあってからじゃ遅いのよ!)

かくして、私の実習へのワクワクはみごとに消え去り、
鉛のように重い不安な気持で始まったのでした。

「起りーつ、れい」
いるいる、本当に何も持ってきてないわ。
こっちを珍しそうに見てるじゃないの。髪型、服装、
みごと違反ね。

それでもとりあえずは何ごともなく授業が終わり、
控室で小テストの採点をしていると、例のA君の
答案が0点!(当然ね、白紙だもの)

「ん?」
(でも、名前の字がなかなか上手)
私は全員の生徒にそうしたように、
A君の答案にひと言を書き添えました。

「字がとても上手」
当時、自分というものにとても自信が無かった私は、
せめて未来を担う子供たちには、大きな自信を
持ってもらいたかったのです。

二週間の実習の中で私は何度、生徒に言葉を
書き添えたことでしょう。

「テスト嫌だけど先生の言葉が楽しみ」
「趣味は何ですか?」
「勉強の仕方を教えてください」

日を重ねるごとに子供たちからの言葉も
見られるようになりました。
でも、A君の態度はまったく変わりません。

「ああいう子供は、もうひねくれて固まって
しまったんだから、 どうしようもないよ」
同じ実習生の言葉に現実の厳しさをひしひし
感じました。・・・

やがて、二週間の実習もあっという間に過ぎ、
いよいよ最終日がやってきました。

その日、私は15分ほどの余った時間で生徒に
授業の感想を書いてくれるようお願いしたのです。

すると驚くべきことに、
あのA君がほかの生徒と同じように、
一生懸命に鉛筆を動かし始めるではありませんか。

けれど、「ああいう子は人の優しさなんかちゃんちゃら
おかしいってタイプだよ」との同じ実習生だった人の
言葉が、私の頭に浮かびます。

「あーあ、きっと私のことをめでたいバカなやつ 
とでも書いているんだわ」とすっかりしょげていました。
そして彼の手は、チャイムが鳴っても鉛筆を
動かすのをやめませんでした。

受け取ったときからずっと気になる彼の文を、
実際に開くとなるとなかなか勇気が湧きません。
それに学校では読まないという約束があるので、
目を通したのは、帰宅後遅くなってからのことでした。

書かれていた内容はこうでした。
「せんせは、大学卒業したらほんとのきょうしに
なるんですか?
だったらひとつ注意があります。
ダメだよ。オレみたいなヤツいたらもっと
きびしくすること。

本で殴るもいい。ワルいんだからあたりまえだよ。
せんせはとってもヤサしすぎるよ。
いつもニコニコしてて、だけどやさしいところが
いいせんせいとおもいました。がんばってください」

読みながら私の手はぶるぶると震えていきました。
ノートを一度もとったことがない子が、
宿題をやってきたことのない子が、
数分間でこの文を書くことはどれほど面倒で
大変だったことでしょう。

A君、あれから四年が過ぎようとしています。
もうすぐ19歳になるあなたの目は今、
未来に向かって輝いているでしょうか。
もし自信を失って落ち込んでいるとしたら、
私はあなたに向かって言いたい。

「悩みごとがあるたびに、先生は何度も
あの手紙を読み返しました。
だってそうすると心がとても元気になれるんですもの。
そんなすごい文章がかけるあなたは、
誰にも負けない力を持っているのよ。
自信を持って未来に向かって自分の
夢を描くのよ」と。・・・






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困っている人の顔を見ると、一声かけたくなるものだ。
私もこれまでの人生、励ましの言葉を
たくさんもらってきた。
しかし、五十歳のときに「がんばれ」の一言は、
私にとって今までとは真逆の意味になっていた。

ある日突然、私の体を病魔が襲ったのだ。
副腎白質ジストロフィーという難病で、
両下肢が麻痺し、車いすの生活を余儀なくされた。
あまりのことに茫然とするしかなかった。

「大変だけど、頑張ってね」
多くの方から励ましの言葉をもらった。
今までの私なら、その一言で発奮していたことだろう。

しかし今回ばかりは、そう言われてもどうしても
がんばれなかった。

日常生活を普通に遅れる健常者の方に言われると、
「あなたはがんばって。・・・私は知らないけど」と
突き放されたような感じがするのだ。

次第に、励まされること自体が苦痛になっていった。
自分でも嫌になるほど、私は荒んでいった。
心の状態に比例するかのように病状も進行し、
ついには寝たきりの生活になってしまった。

ある日のこと、障がい者団体の方が家に訪ねてきた。
私より十歳年上の男性で、彼も車いすに乗っている。
何をしにきたのだろうと構えていると、
彼は穏やかな口調でこう言うのだ。

「なんだか近ごろずいぶん辛いようだね」
今まで励ましの言葉はたくさんもらってきたが、
彼のように私の心情に寄り添ってくれた人は
初めてだったので驚いた。

温かな言葉だった。
荒んでいた私の心はパッと明るくなった。
気がつくと、抱え込んでいた苦しさのたけを、
彼に思い切りぶつけていた。

彼は目を細め、穏やかな笑顔で私の愚痴に
ひとつひとつ相槌を打ってくれる。

「毎日が大変なんだね。よくわかるよ」
同じ車いす生活という境遇のためだろうか。
彼に対しては素直になれた。

一通り愚痴を吐き出し、少し落ち着いてきたころ、
彼から問いかけがあった
「ところで、何かいいことは最近なかったかな」

いいこと・・・。
私は考え込んでしまった。
こんな自分に、いいことなどあるはずがない。
ないに決まっている……。

「どんなに小さなことでもいいんだよ」
いや、待てよ……。
最近は自分のことしか頭になく、身の回りで
何が起こっているのかさえ見ようとしていなかった。

彼の問いかけから、
自分の視野がいかに狭くなっていたかに気づかされた。
「そうだな……」

長い間考え込んだ私は、最近五年生になる息子が
学校から帰って遊びに出る前に、洗濯物を取り込み、
たたんでくれる話をしてみた。

その話にも、彼は温かく相槌を打ってくれる。
話すうちに、久しく忘れていた子どもを思う気持ちが
蘇ってくるのが分かった。

「すごくいい話じゃないか。
そんないいことが見えているTさんは、絶対大丈夫だ。
勝てるよ、きっと。 病気に勝てる。
だから僕と一緒にがんばってみませんか」

「一緒に」という言葉の響きが、私にはとても新鮮だった。
彼は、がんばれない私をすべて肯定してくれたのだ。

「がんばれよ」と突き放すのではなく、
私と同じ車いすに乗った目線で、
「一緒にがんばってみませんか」と寄り添ってくれた。

「一緒に」という言葉の響きが、私の中で大きく
広がっていった。
「Tさんに会えてよかった。ありがとう」
そう言って帰った彼の後姿に、手を合わせ、
何度もお礼を言った。

こんなに晴れやかな気分になったのは、本当に
久しぶりだった。
一時は寝たきりだった体も回復し、今では
車いすで旅行にも行けるようになった。
彼との出会いが、私を変えてくれたのだ。

その後、この障がい者団体のメンバーの一人として、
私も一緒に活動をさせてもらうことになった。
彼のように、苦しむ方のための手助けが
出来ればと願っている。

一人一人の思いに寄り添う……
彼が私に示してくれた姿勢を常に目標にしている。




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B27
 



歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







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2017年7月15日 (土)

妄想劇場・特別編・(お妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ

過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある

大病後も人生は続く


寝室が毛埃でいっぱいなので掃除機をかけておいて欲しい
と言っても、床に敷いた布団をかたづけず床を埋め尽くす
(彼女様の)コミック本を本棚に戻すこともなく、
それでも「掃除機かけた」と言い張る。

やっておいてほしい家事をメモして仕事に出かけても、
その家事がすべて完遂されていたことはほとんどなかった。
「ごめん。でも〇〇の家事はやったんだよ?」 
「やってない。やったとしても、その家事は
『やったうちに入らない』よ」

彼女様のカオスっぷりに耐え切れずに、そんな風に
彼女様を否定する小言が増えていった。

ああ彼女様の御母堂よ。この娘が心を病んでいるのは、
間違いなくあなたたちが叱責のなかで育てたことに
原因があるのだと思います。
けれども今ならその気持ち、分からなくもありません。

小言、言いたくもなります。
けれど、そんな僕の小言の一言一言が増えるごとに、
その数だけ彼女様のリストカットは増え、手首から
肘まで瘡蓋のシマシマ模様を描いていった。
ついに切るところがなくなると、首や太ももにまで
カミソリを当てるようになっていった。

リストカットがパターン化していた。何かに堪え兼ねて
僕が怒ると、彼女様は絶対に謝らずに膨れっ面で
黙りこむ。しばらくすると僕は怒ったことを忘れて
話しかけるが、彼女様はまだ膨れっ面。

え、逆切れですか? そもそも俺が怒ったのは
彼女様に原因があるんじゃないかと再び僕が怒ると、
それでも決して謝ることなく、一層の膨れっ面で
トイレに駆け込む彼女様。

待つこと数十分。案の定で、彼女様はトイレの中を
血まみれにして手首を切り、スッキリした顔で出てくると、
僕をちらっと見て「ちっ」と舌打ちして寝室に直行。
僕はトイレの床の血が乾いてしまう前に拭きに行き、
絶望的な気分になる。

「ちっ」てお前、どこのヤンキー嬢なの? 
だが舌打ちなど大した問題じゃない。
最大の問題は、そんな逆切れリスカを決め込んだ翌日、
昨日の喧嘩を片付けたいと話しかけても、
信じ難いことに彼女様はトイレで手首を切った
記憶などないと言う。

じゃああれは別人なのか? 記憶が飛ぶほどに
処方されている精神薬がキツいのか。
      
小言=言葉のDV

勘の良くない読者でもすでにお気づきだろう。
この時点で僕は、彼女様に対して言葉の
DVを行っていたに等しい。

確かに黙っていたら部屋は一層カオスになってしまうし、
生活も苦しいから仕事をするようになってほしいし、
そのためにもなにしろ朝に起きる習慣をつけて
もらわんことには、どうにも始まらない。
そんな気持ちを小言にしてぶつけてしまう日々。

彼女様が心を病んだ原点が家族の叱責にあるという
考察は間違ってはいなかっただろうが、
次は僕がその叱責の主になってしまったというわけだ。

日々、「どうしたら手首を切らずに済むと思う?」
の話し合いをした。今ならわかる。
「僕が小言を言うのをやめれば切らずに済む」が
正解だ。だが、その言葉は彼女様の口からは
出なかった。出せなかったと言った方が
正しいのかもしれない。

そして僕のやるべきことは、小言を言うのではなく、
その小言の原因となった彼女様の「できない」に対して、
なぜできないのかを、一緒になって考えてあげる
ことだったが、それもまたできなかった。

その当時に彼女様が僕に書いたメモ書きの手紙が、
現在の我が家のパンドラボックス
(彼女様のばあちゃんからもらった桐ダンスの一番下)に
取ってある。そこにはこんな文面があった。

前後の文脈からすると、僕が仕事から帰ってきたときに、
朝に頼んでいた食材の買い出しをしていなくて、
夕食の準備も出来ていなくて、怒鳴ってしまった、
その夜に、彼女様が僕に書いた手紙だ。

……私が全部悪かったよ。でも寂しいよ。
いつでも仲良くしたいよ。今日は出ていこうかと思った。
明日もおいしい料理を作るね。だから
怒らないでほしいです。って言っても無理か……

その翌日、仕事から帰ってもご飯はできていなかった。
それに対して僕の返したメモは、
……トイレの床が汚い。寝室の布団干して
床のほこりを掃除して。コンロの周りが汚いです。
小松菜が傷む前におひたしにしよう。ってことは、
油揚げ買いに行ってね。あとバターもね……

同じパンドラ箱から、当時の彼女が書いた
独り言日記みたいなメモも出来てた。

……脳みそがお豆腐になって耳から流れる。
胃とか内臓が逆流してって中をかき混ぜられている。
大介が怖い。怖いけど好き。なんで怖いかわからない。
どうしたらいいのかわからない助けて。

何を考えても話しても最終的には「私は独りぼっち
なんだ」に行き着いてしまい、悲しくなると
手首切っちゃってる……
 
こんなにも明快なSOSを出されていたのに、
その当時の僕は何をやっていたのだろう。
今、こうして過去のメモを引っ張り出してきて、
こうして原稿に書いていても、到底平常心では
居られない。

ということで今さっき、仕事部屋から隣の寝室に
駆け込み、そろそろ正午だというのに平常運転で
爆睡中の現お妻様=元彼女様に謝ってきたところ、
大変迷惑そうに「昨日のさとし君(猫・6㎏)の
ゲロ拭いた?」と言われた。

そんなもんは朝一番で拭きましたよ!
思い返すだに最低の彼氏だったと思う。けれども、
何しろお互いに若かった。責めると手首を切る。
でも黙っていたら部屋は一層カオスになってしまうから、
僕も小言を言ってしまう。そんでまた切る。
無限ループだ。・・・
      
貧乏でも一緒にいたい

2007年秋、僕27歳、彼女様がアパートに家出してきて
2年弱。そんな叱責と流血の悪循環を断ち切るために
僕が取った最後の手段は、「勤めていた会社を
やめてしまう」だった。

フリーランスの記者として、自宅を事務所として
仕事をする。これなら少なくとも一緒にいる時間は
とれるだろう。

彼女様とお付き合いを始めた当時の会社内での
僕の立場は、雑誌の記事ページや表紙などの
デザインを受けてくる営業兼デザイナーだったが、
デザインと同時に記事も請けるようになっていて、
取引先の開拓もある程度進んでいた。

貯金はゼロだが、抱えている仕事を継続していけば、
何とか会社から出ていた薄給と同程度は稼げる
かもしれない。めちゃめちゃ希望的観測ではあるが。

暗闇の未来に一歩踏み出した僕に対しての
彼女様の言葉は、「どんだけ貧乏でも一緒に居れる
時間があったほうがいいから、私は嬉しいよ」
だった。

死なばもろとも、一蓮托生、覚悟を決めた。

取材先でもトイレでも一緒、
会社を辞めて自宅を仕事場にすれば、僕の小言と
彼女様のリストカットという無限ループからは
脱出できるのではないか。

9割の不安と1割の期待といった心理状態で
踏み出した、2人の新生活。
この決断によって「劇的な何か」は起きたのか? 
だが実は、この時期は僕の記憶そのものが
少しあいまいだ。・・・

当時のことを思い出そうとすると、僕の頭の中には
何故かサザンの『TSUNAMI』のサビメロが流れ出す。
嗚呼あれは、ファクスの呼び出し音。
江戸っ子気質で金は持っているだけ使ってしまう主義の
彼女様が、フリーランスになった僕のために買ってくれた
ブラザー工業製ファクスの呼び出し音だ。

♪見つめあ~うと~素直に~おしゃべりでき~ない。

やばい。彼女様と桑田様には申し訳ないけど、
思い出すだけで具合悪くなってきた。
なぜならその電話ファクス複合機のメロディを
朝な夕なに流して呼び出してくれたのは、他でもない
当時の取引先の編集者たちであり、用件は
「原稿どうですか〜」。ならまだ良いが、多くは
「そろそろヤバいぞー」とか「家に居るのは
分かってんだぞ〜」だったりしたからだ。

済みません、今頑張って書いてるところです! 
いや、本当言うと今起きました!
本当に、記憶がすっぽり飛ぶほど働いた。
出版業界でのフリーランス経験は二度目だが、
一度目は大失敗してド貧乏のどん底を這いずり
回ったトラウマがある、二度とあんな思いは
したくない。

だが一方で、どれほど忙しくなっても、再びお妻様を
独りぼっちでアパートに残してどこかへ
行ってしまったら、本末転倒だ。

ではどうしたのかと言うと、僕と彼女様は
「ひとりになった」。・・・
実際その当時の彼女様と僕には「一緒にいなかった
記憶」があまりない。なにがなんでも2人で行動。
仕事の取材に行く際も、打ち合わせで取引先の
編集部に行くときも、とにかくひたすら一緒に
行動していた。

はてはお風呂も。そしてトイレですら、中で本を
読んでいると彼女様に乱入襲撃を受ける始末。
ここまでくるとラブラブを通り越してキモイというか、
少しは独りになりたいと思う僕であったが、
これもまた苦しむ彼女様を放置してきた反動であり
報いなのだろうと、あえて甘受した。
      
金のかからない女

僕は小さなころからとことん電車が苦手で、
大雨か大雪でもない限りはバイク移動の生活を
していたものだから、常に移動するバイクの後ろには
彼女様がちょこんと乗っかっていた。

取材や取引先に移動するときは600ccの単気筒、
買い物や隣町の精神科までへの毎月の通院は
90ccの古いスクーター。

指先が凍り付くような真冬の日も、アスファルトの
照り返しで煮えそうな夏も、昼も夜中も明け方も、
2人乗りのバイクで走り回っていた。
・・・

次回へ続く



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







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隙間産業(ニッチ市場)

2017年7月14日 (金)

妄想劇場・妄想劇場・(ある犬のお話)

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犬は施設のガス室で最後の瞬間まで、

飼い主が迎えにくることを堅く信じ続けるのです…。

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犬は、人間と密接なかかわりを持つ動物として
知られています

常にそばにいることでその忠誠心を示す。
誰に指示されるわけでもなく、自らの強い意志で
そばにいることを貫き通す。

いつもは飼い主の言いつけを忠実に守る犬でも、
飼い主の身に危険が降りかかった時には、
自らの意志でその命令に背く。 ・・・



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隙間産業(ニッチ市場)

2017年7月13日 (木)

妄想劇場・妄想物語 「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。

第二の手記

その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、
眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘 (この娘は、
いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ
帰っているひとでした。

自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、
アネサと呼んでいました)
それと、 最近女学校を卒業したばかりらしい、
セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、
三人だけの家族で、下の店には、文房具やら
運動用具を少々並べていましたが、
主な収入は、 なくなった主人が建てて残して行った
五六棟の長屋の家賃のようでした。

「耳が痛い」   竹一は、立ったままでそう言いました。
「雨に濡れたら、痛くなったよ」  
自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。
膿うみが、 いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。

「これは、いけない。痛いだろう」と自分は大袈裟おおげさに
おどろいて見せて、 「雨の中を、引っぱり出したりして、
ごめんね」 と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」謝り、

それから、 下へ行って綿とアルコールをもらって来て、
竹一を自分の膝ひざを枕にして寝かせ、
念入りに耳の掃除をしてやりました。

竹一も、さすがに、 これが偽善の悪計であることには
気附かなかったようで、 「お前は、きっと、
女に惚ほれられるよ」と自分の膝枕で寝ながら、
無智なお世辞を言ったくらいでした。

しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、
おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、
自分は後年に到って思い知りました。

惚れると言い、 惚れられると言い、その言葉は
ひどく下品で、ふざけて、 いかにも、
やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の
場であっても、 そこへこの言葉が一言でもひょいと
顔を出すと、みるみる憂鬱の伽藍がらんが崩壊し、
ただのっぺらぼうになってしまうような心地が
するものですけれども、 惚れられるつらさ、などという
俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、
あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、
奇妙なものだと思います。  

竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、
お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、
自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、
何も答えませんでしたけれども、しかし、 実は、
幽かすかに思い当るところもあったのでした。

でも、 「惚れられる」というような野卑な言葉に依って
生じるやにさがった雰囲気ふんいきに対して、
そう言われると、思い当るところもある、
などと書くのは、 ほとんど落語の若旦那のせりふにさえ
ならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、
まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、
「思い当るところもあった」わけでは無いのです。  

自分には、人間の女性のほうが、 男性よりもさらに
数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが
男性よりも数が多く、 また親戚にも、女の子がたくさんあり、
またれいの「犯罪」の女中などもいまして、
自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても
過言ではないと思っていますが、 それは、また、しかし、
実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って
来たのです。

ほとんど、まるで見当が、つかないのです。
五里霧中で、そうして時たま、 虎の尾を踏む失敗をして、
ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける
笞むちとちがって 、内出血みたいに極度に不快に内攻して、
なかなか治癒ちゆし難い傷でした。  

女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、
女は、人のいるところでは自分をさげすみ、
邪慳じゃけんにし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、

その他、女に就いてのさまざまの観察を、 すでに自分は、
幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようで
ありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、
そうしてまた、 この不可解で油断のならぬ生きものは、
奇妙に自分をかまうのでした。

「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、
自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、
「かまわれる」とでも言ったほうが、 まだしも実状の説明に
適しているかも知れません。  

女は、男よりも更に、道化には、 くつろぐようでした。
自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでも
ゲラゲラ笑ってもいませんし、 それに自分も男のひとに対し、
調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると
失敗するという事を知っていましたので、必ず
適当のところで切り上げるように 心掛けていましたが、

女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、
自分にお道化を要求し、自分はその限りない
アンコールに応じて、へとへとになるのでした。

実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも
快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。
自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、
妹娘も、ひまさえあれば、 二階の自分の部屋に
やって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりに
ぎょっとして、 そうして、ひたすらおびえ、
「御勉強?」 「いいえ」  と微笑して本を閉じ、
「きょうね、学校でね、コンボウという地理の先生がね」  
とするする口から流れ出るものは、心にも無い滑稽噺でした。

「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん」  或る晩、妹娘の
セッちゃんが、 アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、
さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、
そんな事を言い出しました。

「なぜ?」 「いいから、かけてごらん。
アネサの眼鏡を借りなさい」  
いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。

道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。
とたんに、二人の娘は、 笑いころげました。
「そっくり。ロイドに、そっくり」  
当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、
日本で人気がありました。  

自分は立って片手を挙げ、 「諸君」  と言い、
「このたび、日本のファンの皆様がたに、……」  と
一場の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、
ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、
ひそかに彼の表情などを研究しました。

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、
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隙間産業(ニッチ市場)

2017年7月12日 (水)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想


『海賊とよばれた男』のモデル!
人間尊重を訴える男がイギリス海軍に立ち向かい、
世界を変えた。日章丸事件

石油やダイヤモンドは、価値と歴史が作られてきました。
現代でも、石油やダイヤモンドを独占している国や
企業の間で値段が決められ、一部の国の人間だけが、
裕福に生きていける仕組みになっています。



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イランの叫び

当時のイランは、世界でも有数の石油産出国でした。
なにもしなくても、莫大な石油が出てくる現実。
しかし、イランの石油は完全にイギリスが権利を握っており、
湧き出る石油利益の90%近くを独占していたのです。

なにもしなくても湧いてくる財産は、がっつりと権利を握り、
誰にも渡さない。その国に住んでいる人間にも。
これは、人間の欲望を考えれば当たり前のことですが、
イランの人々にとっては、自分の国でこれだけ
石油が出ているのに、なぜ、自分たちがこれほど
貧しいのかがわかりません。

なんとイランの人々の80%が慢性的な栄養失調に
陥っており、食べるものにすら苦労していたのです。
地面の下から石油が出る土地に住んでいるというのに、
国民は栄養失調に苦しんでいるという現実。

ついにイランでクーデターが起こり、イギリスの
搾取に『ノー』を突き付けました。
「自分の土地から出る石油は、自分たちのもの。
自分たちが生きるために使わせてもらう」

このイランの対応は、アメリカに次いで世界2位の
軍事力を持つイギリスをとてつもなく怒らせました。
「イランの訴えはまったく何の正当性もない! 
これより、イランに通じる海域を、イギリス海軍の
力で封鎖した。もしもイランと石油の取引に来る船を
発見すれば、イギリス海軍の力で撃沈する!」

イギリスが世界に宣言したこの経済制裁は、
イランの人々を悩ませました。
しかしそれでも、イランの石油の安さに、多くの海外企業が
イランを訪ね、石油契約をしようと持ちかけてきました。

イランは期待しましたが、どこの企業も契約を
かわしたっきりで、実際にタンカーを持ってくる企業は
ひとつもありません。誰もが結局、イギリス海軍の
力を恐れていたのです。

莫大な石油利益を、イギリスは絶対に手放さない。
イランは誰とも商売などできないと痛感させられていました。
その後、イランに出光の弟である計助が現れ、
「石油を買いたい」と言った時、モサデク首相は
鼻で笑いました。

「これまで多くの国が、うちの石油を買いたいと
話をしにきた。だが、結局、本当にタンカーを出してきた国は
ひとつもない。お前たちも、そうなんだろう? 
結局は、来ないんだろう? 
イギリス海軍を敵に回して、誰が買い取りに来るものか」

計助は答えました。
「私たちは、そんな不義理はしません」
モサデク首相はこう切り返します。
「ならば、来年の春までに必ずタンカーを持ってこい。
必ずだ」

68歳の決断

海外資本からの圧力で、どこからも石油が買えなくなった
出光にとって、イランの石油はのどから手が出るほど
欲しい存在でした。

しかし、当時のイランから石油を世界で初めて
買い取ることは、相当な決断だったといえます。
イギリスが所有権を主張し、イギリス海軍が
封鎖しているイラン。

イランから石油を買い取ると、イギリスに対して
どうなってしまうのか?
しかし、イギリスがやっていることは、本当に
人として正しいことなのか?

石油しか資源がないイランでは飢えに苦しみ、
国民の8割が栄養失調になっているのに、
自分の足の下にある石油は他国のもの。

それは本当に正しいことなのか?

日本は外国石油資本の犬となり、質の悪い石油を
高い値段で買わされて、歯向かう我々には
圧力がかかり、石油を仕入れることも出来ない。

敗戦した日本が焼け野原から復興するために、
石油が今こそ必要だというのに、なぜ
言いなりになって大金を払い続けなければならない?

イランに石油を買い付けに行ったら、
殺されてしまうのか?
イギリスは『イランと取引する船は撃沈する』と
言っていても、いきなり殺人は犯さないだろう。
しかし、恐らく乗組員は捕まり、船は奪われるだろう。

今の出光興産が『日章丸』を失えば、それこそ
石油業界で生きる道はなにもなくなってしまうが…
しかし… それでもイランから石油を買うべきなのだ。

これこそが、本当に人間たるべき道なのだ。

人の幸せを考えれば、飢えに苦しむイランから
石油を買い、高値で買わされている日本人のために
安く提供することは、人が進むべき大道なのだ。

もしも捕まって『日章丸』を失っても、健全な
石油業界作りのために大きな一歩を作れるのなら、
船一隻くらい安いものだろう。

68歳になった出光はこの時、何の後ろ盾もなく、
ただの日本の民間企業でありながら、
イギリス海軍を敵に回す覚悟を決めました。

第三の矢が放たれる

日章丸は、船長と機関長以外、乗組員にすらも
目的地を告げず、ひっそりと日本を旅立ちました。
インド洋に向かう途中、「アバダンへ向かう」という
船長の宣言とともに、出光からの手紙が
読み上げられました。

『出光はこれまで、消費者のためを考えて会社を
運営してきた。
消費者のために安く石油を販売するという志は、
大儲けしたい多くの国際資本の怒りを買い、
数々の嫌がらせをされてきた。

石油をどこからも仕入れられないよう圧力をかけられ、
困難な状況を打ち破るために『日章丸』建造という
第一の矢を放った。

自分たちで石油を仕入れようと、海外の独立企業との
取引という第二の矢を放った。
しかしそこにも圧力がかかり、正に出光は孤立し、
たったひとりで戦っている状態だ。

いま、イランのアバダンへ向かって第三の矢が
放たれるが、敵は今までで最も強大な
イギリス海軍である。

けれどもこれこそが、日本が初めて世界の石油
とつながる瞬間なのだ。
誰の言いなりにもならず、自分たちで石油を手に入れ、
初めて日本の基礎を作ることができる。
今こそが日本の始まりなのだ』……

船員である出光の社員たちは、「アバダンへ向かう」
という話に耳を疑い、正気かと考えていましたが、
出光の手紙を聞いて、出光のこれまでの行動を思い、
国を思い、自分たちのこれまでの生活を思い、
決心を固めました。

「自分たちの手で、国の未来が作れるかもしれない…」
船員たちは世の中を変える希望に燃えて、
アバダンへと船を進めます。

アバダン到着、イギリスの怒り

アバダンに向かう海路は、整備された海ではなく、
あちこちに土砂が流れ込み、いつ座礁してもおかしくない
状態でした。
船底が海底でなにかにぶつかれば、その瞬間に
船底にヒビが入り、沈没する可能性もあります。

船乗りが最も恐れる事故のひとつであり、スクリューが
黄色い泥をかきあげるたび、海底の浅さを実感し、
誰もが冷や汗をかいていました。

イギリス海軍に決して見つからないよう、座礁しないよう、
静かに静かにアバダンへと船を進めていた日章丸でしたが、
ついにマスコミにその存在をキャッチされてしまいます。

UPI通信は次のように報じました。

『アバダンにタンカーで乗り込み、石油取引を
しようとしている国があるようだ。
船名や国籍はわからない。しかしこれは
…日本のものであるようだ』

日章丸はアバダンに到着しましたが、もうマスコミに
知られてしまった以上、逃げることはできません。
日本の出光は記者会見を開き、世界に対して、
イランと石油取引することを公表します。

「日章丸がイランに到着しました。これからイランと
石油の取引を行い、日本に持ち帰ります」
この言葉に世界中が湧き、質問が殺到しました。

これは国際問題になるぞという声、船員たちの命を
粗末にしているという声、あらゆる声に出光は
毅然として答えていきます。

ある記者からはこう尋ねられました。

「江戸時代に、嵐が起きて江戸にみかんを
運ぶことが出来ず、みかんの値段が高騰した時、
紀伊国屋という商人だけが嵐の中みかんを運び、
莫大な利益を得ましたね。ご感想は?」

出光は激昂して言い返します。

「とんでもない! とんでもない勘違いだ。私が、
自分ひとりのちっぽけな利益ごときのために、
こんな乗組員の命を粗末にするようなことをするものか。

あなたがたは、私が出光のためにイランとの
貿易をしていると思っているのですか?
これは、広く真っ直ぐな道をゆっくりと歩くだけの、
人間として自然な歩みなのです。

利益のためでも、名誉のためでもなく、私が日頃から
主張している、人間尊重という行動のひとつでしか
ありません」
この言葉に記者たちは静まり返りました。

自分のことだけを考えれば、国際石油資本が
石油を独占している中、自分もその下に入ればいい。
すべての日本企業がそうしたように…。

しかし、本当に人々の未来を考えれば、イランの叫びを、
奴隷のように過ごす日本人を、本当に
見て見ぬふりすべきなのか?

出光は自分の意志を世界に伝えました。しかし、
イギリスはこのように声明を出しました。
『日本が行っているイランとの石油取引、壊すために
あらゆる手段を使う必要がある』。

石油を買っても、その後どうしたらいいというのか。
日本に戻れるのか、イギリスとの国際問題は
どうするのか。
日章丸は、いまや世界中の人間が注目する
船になりました。

イギリスの包囲をかいくぐる

日章丸には、タンカーに載せられる限度いっぱいまでの
石油が積み込まれました。
60時間以上かけて積み込まれた石油の重さで、
日章丸はずっしりと海の中に沈み込み、
なんと船底から海底まで1メートルほどしかないような
状態でした。

もしも船底が海底でなにかに接触すれば、沈没する
危険性があります。
しかし、安全な海を行くことはもうできないと
分かっていました。

船が通るべき安全な海域のすべてをイギリス軍が
包囲しており、通過しようとすれば確実に
捕まってしまいます。
危険であっても、船の墓場であるスンダ海峡を
抜けるしかありません。

スンダ海峡には、戦争中に撃沈された日本の輸送船が
大量に沈んでおり、船の上からではほとんど見えませんが、
もしもそれらの船に乗り上げてしまったら、
その瞬間に船は沈没してしまうでしょう。

目のいい船員が選ばれ、必死に海中にある船の残骸を
見極めようとしながら、慎重に船を進めていきます。
戦争で撃沈された日本の輸送船たち。
どうか乗り上げず、自分たちを守ってくれと思いながら進む
日章丸でしたが、夜にもなるとなにも見えないので、
運を天に任せるしかありません。

ある朝起きると、後方に沈没船の大きなマストが2本あり、
知らない間にその間をくぐり抜けていたこともありました。
座礁しなかったのはただの奇跡だとしか思えませんが、
沈没した船たちも自分たちを守ってくれたのだろうと、
船員たちは勇気を振り絞って船を進めます。

しかし、イギリスの戦略は、海域を封鎖することだけでは
ありませんでした。
あらゆる方法で石油取引を阻止するとは、文字通り
すべての手段を使うことであり、日章丸が日本に
帰ろうとしている間に、イギリスは日本政府に激しい
抗議を行います。

「これは国際問題である。出光興産が日章丸で
イランと石油取引していることは、イギリスの
法的措置を無視する、許しがたいことだ」

たった8年前、アメリカとイギリス連合軍にぼろぼろにされて
敗戦した日本が、イギリス相手に正面から反発する
行動を取るとは、誰も思いもよらないことでした。

更にイギリスは、この抗議の後、日本の裁判所に対して
『差し押さえ』を要求するだろうことは容易に想像できました。
イランの石油はイギリスのものである。
日章丸が持ち帰った石油の一切を、どこにも
売ることは許さない。すべてイギリスが差し押さえる…。

出光は、イギリス海軍との海の戦いと同時に、
裁判による陸の戦いにも勝たなければならなくなったのです。

イギリスとの裁判

出光は必死にこの状況を打開するために
頭を張り巡らせました。
もしも、日章丸が日本に着いた瞬間に船ごと
石油を差し押さえされたら、もうどうしようもない。
そこから解決できる方法はないだろう。

最大の抜け道は、裁判所が日曜日休みであること。
土曜日の昼頃に日章丸を到着させ、同時に、
裁判所には「いきなり差し押さえず、
こちらの言い分も聞いてくれ」と伝える。

これにより、イギリスと我々との口頭弁論が始まるが、
土曜日中には決着がつかない。
日曜までもつれこんでも、日曜日に法廷は休みである。

まず、積み荷を下ろすことが出来、完全な差し押さえを
受けてしまうことはないはずだ・・・ 

これと同時に出光は記者会見を行い、イランとの
石油取引は公正であり、国際的にもなんら
ルールに反する行動ではないと主張しました。

裁判は9日から始まることになり、いよいよイギリスとの
裁判が始まります。
この敗戦直後の日本で、ただの民間企業が、堂々と
イギリス相手に裁判で戦うなど、考えられないような
話でした。

イギリスは裁判で、出光に強く切り込んできます。

「イランは、自分の国の石油を自分のものだと言っているが、
これは彼らが勝手に言っていることであり、
我々イギリスはまったく認めていない。
つまり、今も、石油は我々のものなのだ。

裁判所には、出光が今回の石油を一切どこにも
販売しないよう、仮処分命令を出してもらいたい。
また、日章丸は続々と積み荷の石油を陸にあげている。
これをどう横流しするか分かったものではない。
即刻、船ごと差し押さえしてもらいたい」

出光側の弁護士はこう答えました。

「出光は、何も話が進まないまま、石油を売り払う
ようなことはしない。船から陸にあげれば、
そのままにしておくことを約束する」

イギリス側は鼻で笑います。

「そのようなことが、信用できると思っているのかね。
出光の社長が何をするか、わかったものではない」

裁判長はこう告げました。

「出光の社長がちょうどここにいる。彼から
証言を取ってみてはどうでしょうか」
出光は証言席に立ち、イギリスが激しくにらみを
きかせる中、毅然として主張します。

「この問題は今、国際問題になっています。

しかし私は、日本国民として、自分の心にも
自分の行動にも、一点も恥じることなく、裁判を
最後まで行うことを誓います」

このあまりにも堂々とした主張に、法廷の中には
感嘆の声があふれました。
敗戦国である日本で、強大なイギリスとの裁判が
始まります。

しかし、『正道を行くのみ』と常に主張している出光には、
いつしかたくさんの味方がつくようになっていました。

搾取から目を覚まされた!!

出光の多くの行動は、新聞を通じて、
無関係であったようでいて、実は多くの日本人の
心を震わせていました。
誰もが、敗戦後、焼け野原になった日本で、
いつしか心も卑屈になっていたのです。

言いなりになるまま、高い金で石油を買い、
生活も安定せず、敗戦国の人間という大きな
負の言葉が頭の上にのしかかっていました。

アメリカやイギリスに逆らうなど、もってのほか。
しかし出光は、なぜ、こんなことができるのか??
なぜ、イギリスに対して噛み付いていけるのか?

イランにやっていることが間違っていると分かっていても、
石油を独占することがずるいと思っていても、
誰もが「そういうものだ」と息を殺していた時に、
なぜこんなに堂々と噛み付いていく?

自分にはなにもできないが、せめて、あの人を
応援したい。
日本中に出光を応援する声が響き、世論は、
『出光を処分したら許さない』という方向に
流れて行きました。

出光が敗戦後、社員に対して行った宣言は、
「愚痴をやめろ。もう後ろを振り返るな。ただ、
自分たちを反省し、ただ、アメリカやイギリスの
長所には学ぶこと。そして、堂々と日本を
立て直していくのだ」ということでした。

本当に出光がこれを行おうとしていることを知り、
人々はそこに希望を見つけたのです。
イギリスは、戦争で勝ったというおごりがあり、また、
戦勝国は敗戦国になんでも言えるとも考えていました。

しょせん、日本は我々の属国。こちらの言い分が
どれだけおかしくとも、『負け』だけは絶対にない・・・

しかし、裁判の結果はイギリスの予想を大きく
裏切るようなものでした。
『イギリスの言い分を却下し、裁判にかかった費用も
イギリスの負担とする』。

日本中が喜びの声に震える中、イギリスは怒り、
控訴も行いましたが、最終的には諦めざるを
得ませんでした。

出光の思いと行動は、日本国民だけでなく、
裁判所をも動かし、搾取と独占が当たり前であった
石油のルールを変えたのです。

イランは飢えから救われ、日本人は粗悪品を
高値で売りつけられることもなく、石油製品は一気に
値下がりし、日本の高度成長期を支えました。

まさに、68歳の老人の決断が、世界を変えた瞬間でした。

「日本人に、感謝の気持ちを伝えて欲しい」
裁判を終え、日章丸が2回目の石油取引のために
アバダンへ向かうと、そこにはイラン人たちの
歓迎の嵐がありました。

日章丸が到着することを待ちきれない少年たちが
丸太船で近づき、大歓喜の声を上げ、人々は
港でシーツを振って日章丸の到着を歓迎し、
空には飛行機が舞い上がって、空中から
色とりどりの花を振らせ続けます。

「ジャパン!! ジャパン!!」と叫ぶイランの人々の
歓喜の声は終わることなく、乗組員たちの胸を
震わせました。

モサデク首相は日章丸の乗組員を呼び寄せ、
握手をしながら深く深くこう言いました。
「あなた方日本人の勇気と偉大さを、イラン人は
永遠におぼえているだろう。

今は焼け野原の日本でも、必ず、あなた方は
また立ち上がると信じている。
お互いに東洋人として、ずっと協力しあっていこう。
あなた方は我々の救世主だ。どうかこの思いを、
すべての日本人に伝えて欲しい」

イランには、どの国も自由に石油を買い付けに
これるようになりましたが、最初の日本との
石油取引だけは無料とし、その後も日本だけは、
半年間の取引のすべてを半額としました。

正道を行くという出光の思いは、イランの人々にも
間違いなく伝わっていたのです。


「あなたの努力ですよ」

その後、出光興産はイランからの石油を販売することで
石油業界に返り咲き、消費者優先の事業を行うことで、
日本有数の石油企業としてその地位を確立していきました。

イランから石油を買い取った『日章丸事件』から3年後である
1956年には、徳山湾に日本最大の製油工場を建設し、
正に日本を代表する石油企業になっていったのです。

この工場の建設が完成した時、出光には、
どうしても呼ばなければならない人間のことが
心の中にありました。

それは、自分がまだ個人商店の使いっ走りで、
家庭教師をしながら生計を立てていた時、そんな自分を
高く買ってくれ、何の約束もなく8,000円(現在の8,000万円)を
貸してくれた大富豪・日田のことです。

出光は82歳になっていた日田を、日本最大の製油工場の
竣工式に呼び寄せて、「すべては、あなたの御恩の
おかげです」と深く深く頭を下げました。

日田は優しく、「あなたの努力ですよ」と言いながら
手を差し出してきたため、もう出光はそれ以上
言葉にならず、深く手を握り返し、そのまま、
しばらく離すことができなかったといいます。

出光はずっと日田に対する恩を忘れておらず、
日田が年老いてからは、日田のことを思いやれる社員を
毎晩日田の家に向かわせ、晩酌の語り相手をさせたり、
自分の別荘を提供したりしてきていましたが、
日本最大の製油工場を立てた今、ようやく日田との
約束を果たせた思いでした。

日田が亡くなった時、出光はこれを『社葬』として扱い、
自分自身が出席して、会社ぐるみでその死を弔います。
その後、93歳まで生きた出光は、多くの人々に
影響を与えたその人生を終えるのですが、
出光と40年以上も苦楽をともにした側近の石田は、
出光についてこう語りました。

「40年以上ものつきあいで、生涯のうちでただの一度も、
彼は私に『金を儲けろ』とは言わなかった」
若き日に、人間の尊重などの美しい思いを掲げることは
誰にでもありますが、最後までその思いを貫き続けた出光は、
多くの人間に慕われながら、独占状態だった
石油業界を変えた人間として、その行動力に
敬意を表されています。・・・

終わり



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった
 



歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、  人生、絵模様、万華鏡…






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妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想

『海賊とよばれた男』のモデル!
人間尊重を訴える男がイギリス海軍に立ち向かい、
世界を変えた。日章丸事件

石油やダイヤモンドは、価値と歴史が作られてきました。
現代でも、石油やダイヤモンドを独占している国や
企業の間で値段が決められ、一部の国の人間だけが、
裕福に生きていける仕組みになっています。



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しかし、ほんの60年前の1950年代はもっとひどく、
世界の石油のほとんどを英国などが独占し、
考えられないような高値で販売していました。

持っている者が、持たざる者に決して譲らない。

世界において当然ともいえるこの欲望の構造を
変えたのは、なんと何の後ろ盾もないまま、
単独でイギリス海軍に立ち向かった日本の
民間企業だったのです。

『海賊とよばれた男』での国岡鐵造のモデルでもあり、
日本の勇敢な経営者として世界的に愛されている
出光佐三(いでみつ さぞう)氏です。

出光佐三は、1885年の福岡市に生まれました。
出光は生まれついて病弱であり、特に目が非常に悪く、
人生ではっきりとものが見えたことは一度もないと
語るほどの弱視でした。

その生涯において独創的な発想を生み出し続けた出光は、
「生まれつき目が見えないから、よく考える。だから、
私は独創的なんだ」と語っています。

本を読むことも出来ないからこそ、とにかく人一倍、
懸命に考える努力をしたと伝えられています。
出光はエリート校である神戸大学を卒業し、当時の
卒業生は海運会社の社員になることが当たり前でしたが、
ひとりだけ石油の個人商店で手伝いとして働き始めます。

このことを、同級生からは「大学のつらよごしめ」とさんざん
非難されたそうですが、出光にとっても考えに考えぬいた
末の決断でした。

エリートとして歯車の一部になるのではなく、
小さな個人商店で、仕事の大部分を扱って勉強したい。
最終的に商売人として独立したい。
そして、金のことばかりではなく、世のため人のためとなる
商売がしたい。

日本が豊かになり、世の中が『金』のために動き出していた
この頃、出光がこのような考えを持つに至ったのは、
神戸大学で尊敬していた校長の影響でした。

校長はかたくなに、『金目当ての人間が増えたが、
決して金の奴隷になるな』と人の道を説いていたため、
このことが出光の心に深く残り続けていたと語っています。

25歳の時、出光は商店の手伝いと、大富豪・日田家の
家庭教師を掛け持ちしていましたが、日田はつねづね、
出光の人柄に尊敬の念を持っていたそうです。

出光の夢は、『つぶれかけている実家のためにも、
早く独立したい。しかしお金がない』というものでした。
悩む出光のために、日田はこんな話を持ちかけます。

「君は独立がしたくても、お金がないと言って
苦しんでいるんじゃないかね。
ところで、私が持っている別荘を売却したところ、
それが8,000円(現在の8,000万円)にもなった。

このお金は君にあげよう。返す必要もない。
利子もいらない。なにに使ったのかの報告もいらないし、
好きなように使えばいい。
ただし、必ず独立すること。そして君の弟と仲良く
経営してほしい」

出光は考えられないこの大金に驚きますが、
今こそ自分の夢を叶える時と決断し、弟とふたりで、
石油の小売店である出光商会を立ち上げます。

独立したふたりは、抱えきれないほどの夢と希望を
持っていました。

3年で8,000円すべて失う

出光商会を立ち上げた二人に、世間の厳しさが
襲い掛かってきました。
当初、日本石油の支店から特約を受け、機械油を
扱う商店としてスタートすることができた出光商会ですが、
世間では電気モーターが主流であり、利益を
上げていくことは困難だったのです。

しかも、金目当てではなく、商人であってもサムライのように
仕事をすると決めていた出光は、ワイロを要求してくる
人間に対し、「そんなことをしてまで売る気はない」と
突っぱねていったため、あっという間に
孤立していってしまいます。

わずか3年で、8,000円はつゆのように消えてしまいました。

お金を貸してくれた日田に対して、申し開きもできないほどの
惨敗。
出光は商会をたたむことを決意し、日田に謝罪に行くと、
日田は出光にこう告げました。

「君は、なぜがんばらない? 3年でダメだったなら5年、
5年でダメだったなら10年と、なぜがんばろうとしない? 
私の別荘を売って8,000円だったが、私の家は神戸に
まだ残っている。これを売れば、運転資金には
困らないだろう」

出光はこの日田の申し出に心の底から驚きました。
この恩人に、これ以上家を売却させるようなことを
してはならない。
出光は歯を食いしばって、出光商会を立て直す
決心をします。

そして、漁師や業者が、船に高い機械油を
使い続けていることに目をつけ、出光の軽油を使えば、
もっと安く漁に出ることが出来ると説得します。

これが大当たりして、2,3年後には近隣一帯のすべての
漁船や運搬船が、出光の軽油を使いはじめることに
なりました。ようやく光が見えた出光は、社会の闇である
石油産業の癒着へメスを切り込みます。

世界的に成功するが、敗戦ですべてを失う

当時、満州(中国)の満州国鉄では、外国資本の
石油企業が完全な独占状態にあり、日本企業が
入り込む余地のない状態でした。

機械油を高い金で満洲国鉄に買い取らせ、
ワイロなどが横行し、癒着が蔓延してしまっていたのです。
これを崩すことは並大抵のことではありませんでしたが、
出光は真っ向から理を説きます。

「高い油をわざわざ買わずとも、うちの安い機械油を
使っても品質に何の問題もない。しかし安い機械油を
使えば、国民の負担が減り、必ず国民に喜ばれるのだ」

これらの交渉が、少しずつ満州国鉄の中に味方を生み、
ついには外国資本を追い出し、出光が満州国鉄の
機械油を扱うこととなります。

その後、中国、朝鮮、台湾へと商売を進めた出光は、
社員を1,000人近くも抱え、押しも押されぬ大企業へと
成長していきました。

出光は成功したかのように思われましたが、
第二次世界大戦での日本の敗北により、
すべてを失ってしまったのです。

世界中にあった会社も、資産も、仕事もすべてがなくなり、
お金がないのに、1,000人近い社員だけを抱えて
しまうことになりました。
なにもない日本の焼け野原で、この時、出光は60歳。
歴史において知られる出光の本当の人生は、
ここから始まります。

戦争に負けた程度のことで、大切な社員を放り出せるか

当時の日本は失業者であふれ、戦争に負けために、
働くことや仕事をするなどという当たり前のことが、
とてつもなく困難な時代になっていました。

日本にいる出光のもとに、海外から何もかもを失った
857人の社員たちが戻ってきますが、仕事もお金も
ありません。当時の常識として、全員クビにするものだと
誰もが考えていました。
しかし出光は、決して一人もクビにすることはないと
宣言します。

「この終戦において、考えるべきことは、今までの敵
(アメリカら)の長所を見て勉強し、自分たちの短所を
反省すること。
そして、堂々と日本人として国を立て直していくこと。
人間は資産であり、海外から戻ってくる857人は
会社の財産だ。

出光興産が掲げるのは『人間の尊重』である。

たかが戦争に負けたくらいで慌てふためいて、
大切な資産を捨てるようなことがあってはならない」
こうして社員を受け入れるも、実際の出光興産には
まったく仕事がなく、ラジオや醤油・酢の販売、
鶏の畜産など、ありとあらゆるものに手を出しますが、
どれもまったく上手くいきません。

ついに社員たちに、『待機』を命じるしかない
状態になります。
収入がなくとも、出光は自分がコレクションしていた
骨董品や絵画を売り払い、社員に給料が
支払えるように計らいました。

出光の経営方法は前代未聞であり、社員を決して
クビにしないどころか、タイムカードもなし、
いつでも好きな時間に働いて帰って良い、
定年も設けないという考えられないものでした。

「社員は家族。家族に決まりを作るものがどこにいる」。

この出光の強い信念はきれいごとではなく、
実際に行動として示し続けています。
ある社員は、戦争が終わった後やる気が無くなり、
田舎にこもり、出光に辞表を出そうとしていました。
そこを父親からこう咎められたといいます。

「お前が戦争に行っている6年間、出光さんは毎月
ずっと給料を送り続けてくれていた。
働いてもいないのに、家族として。
ここで会社をやめるなら、6年分タダ働きしてからやめろ!」

そんな出光に、社員たちは自然と信頼で応えるように
なっていき、出光興産がふたたび立ち上がる
原動力になっていきました。

正しく生きていれば、かつての敵が味方になる

出光がようやく見つけた最初の仕事は、
日本を占領しているGHQの石油タンクの底から、
ポンプなどではすくいきれない石油を、
バケツリレーでさらうというものでした。

巨大なタンクの中に、縄ばしごを使ってふんどし一枚で
降りて、熱気と悪臭の中、ひたすらバケツリレーする
この仕事は、中毒、窒息、爆発などの危険を常に伴い、
体はあっというまに石油でただれていく、とてつもなく
おぞましいものでした。

だからこそ誰もやらなかった仕事ですが、出光興産の
社員たちは、出光の恩に応えるべく、やっとお金が
稼げるようになったこの仕事に取り組みます。

「仕事があるだけ幸せだ」

出光の社員たちはそう言いながら、ひたすら
もくもくとこの仕事をやり遂げ、本来では
回収できなかったタンクの底油を、1年4ヶ月かけて
2万キロリットルも回収することに成功しました。

社員たちはこう考えていました。

石油業界であれほど大企業だった、出光興産の
すべてがなくなった。
だから、もはや大企業の誇りは捨て、もう一度
石油タンクの中に帰って働こう。

社員は出光への信頼に応えるように懸命に働いたため、
その毅然とした態度がGHQの人間たちを感心させました。
社員を決してクビにしない家族のような繋がりも、
GHQを驚かせたと言われています。

再スタートを切ろうとした矢先に、出光は日本人と
戦うことになります。
出光は人間尊重を掲げていたため、石油は自由に業者が
競争しながら販売し、価格も下げていくべきだと
主張していました。

しかし他の石油業者は、昔と同じように、石油を完全な
配給制にして独占的な利益を上げたかったのです。

石油業者たちは一斉に、出光を排除しようと
たくらみますが、なんとこの状況から守ってくれたのは
GHQでした。GHQは出光の排除を不当とし、
出光が石油業に戻れるようにはからってくれたのです。

「正しい道を進んでいれば、いずれ必ず、
敵も味方になる」と出光は語っています。
しかし、どれだけ正しい道を歩んでいようとも、
敗戦直後の日本の経済は厳しいものでした。

出光興産以外の、日本の石油業者すべてが
外国企業の支配下に置かれ、出光はたった一社だけ、
日本の企業として孤立することになります。

また、当然ながら海外資本にとって、出光の存在は
邪魔でしかありません。出光をつぶすための
数々の工作が行われます。

海外諸国が、出光に石油を販売してくれなくなりました。
石油業者でありながら、石油がなく、売ることも
買うこともできない状態。出光はもう終わりだろうと
誰もが噂していました。

欧米石油資本との戦い

誰も出光に石油を売ってくれない。すべての道は
閉ざされた。それなら、自分で巨大タンカーを作って、
石油を売ってくれるところまで買いに行けばいい。
海外には、独立して石油を販売している会社もある。

自分で巨大タンカーを作ってそこまで行けばいい……
しかし、敗戦直後の日本は、物資などなにもないような
状態で、政府が決められたわずかな物資を
『配給』している状態でした。

特に船などは海運会社が奪い争っており、ただの
石油会社に配給するような物資もお金もありません。
出光は政府におもむき、経済安定本部の金融局長に
直接訴えます。

「日本に14あった石油業者のうち、13が海外資本の
支配下に置かれ、言いなりの値段で石油を販売しています。
高い。とにかく、高い。
質の悪いものしか流されてこないのに、それでも高い。

石油はなにをするにも必要な物なのに、今のままで
どうやって国を復興させることができるでしょうか?
私は、13の石油業者に対し、ただ1社の日本企業として
戦っています。

私がもしも自分の会社のことだけを考えれば、
13の企業と同じように海外資本の傘下に入ればいい。
そうすれば、1,000人の社員は全員救われます。

しかし、日本国民は、永遠に海外資本の言いなりのまま、
高い金額で質の悪い石油を使い続けることになるでしょう。
私に、タンカー建造のための費用を頂きたい」

金融局長は、出光の申し出を受け、出光興産に
タンカーの建造を許可しました。
こうして作られたタンカー『日章丸』は、なんと
規格外れの世界最大級。

当時のタンカーは12,000トンが相場でしたが、
『日章丸』は18,500トンという巨大なものだったのです。
出光は世界最大の『日章丸』を使い、海外資本の
息がかかっていない、独立系企業との取引に挑みます。
アメリカ西海岸を渡り歩き、独立系企業から
石油を買取り、日本まで戻ってきたのです。

この行動には、日本のみならず、アメリカ国民をも
驚かせました。
敗戦国であり、焼け野原で過ごしていた人間が、
まさか世界最大のタンカーを作り出し、海を渡って
自分で石油を買い取りに来るなど、夢にも
思っていなかったからです。

『日章丸』は、安く買い付けした石油を、『アポロ』という
名前で日本国民に販売し始めました。
素晴らしく質が良く、しかも安い『アポロ』は大人気となり、
同時に、人々の目を覚まさせたのです。

「こんなに安くていい物でも利益が出るのなら、
今までの外国企業に買わされていた石油は
一体何だったんだ? あんなに質の悪いものを、
敗戦国だからと、言いように高値で売りつけられて
いたんじゃないか…」

これを見た海外の石油企業たちは、当然『アポロ』の
人気を喜ばしく思っていません。
彼らはこう考えました。

出光が、自分のタンカーを作ってまでアメリカの
独立起業から買い付けを行うのならば、二度と
どこからも仕入れられないように圧力をかければいい。
出光が世界のどの企業からも石油を買えなくすればいい。

こうしてアメリカの独立系企業には、欧米石油資本から
とてつもない圧力がかけられ、どこも出光には
石油を販売しなくなりました。

せっかく作った巨大タンカーが活躍できなくなり、
出光はまたも危機に追いやられたのです。

つづく


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった


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 世は歌につれ、  人生、絵模様、万華鏡…





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2017年7月11日 (火)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
  不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


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そもそもギャンブルで病んだ症状には、共通点があります。
目が虚ろになったその人の頭の中には、「ギャンブル」と
「借金」と「ウソ」が3点セットになっているようです。

多くのギャンブルでは、負けます。負けたらお金が必要です。
お金には限界があります。限界を超えようとしたら、
借金です。借金が膨らんだら、ありとあらゆる
次の借金可能性を考えます。

その可能性を実現させるためには、ウソを捻出せざるを
得ないのです。それほどまでして、離れられない
そのギャンブル。
もはや、中毒というか、はっきり「心の病気」に
違いありません。

Tさんは自己紹介するとき、こう切り出すそうです。
「祖父、父、夫がギャンブラーで、三代目ギャンブラーの
妻となります」

そんな環境で育ってきたから、Tさんは、経済的に
塗炭の苦しみを経験しています。
ご主人は、優しくて穏やかで、高学歴でもあり、Tさんは、
ご主人のことを、理性がきちんと働く人だと思っていました。

ところが、くしくもギャンブルについては、
そうではなかったのです。
2~3年に一度は、三百万円前後の借金が発覚し、
せっかく尻ぬぐいしても、また借金が繰り返されます。

ちなみに、この三百万円という金額については、周囲の
人間を見てきて、よく了解できます。
大きい企業に勤めてる人が、サラ金や信販会社などを
渡り歩く時、だいたい、もうこの三百万円あたりが
天井になるのです。

それ以上は、どこも貸してくれなくなります。
だから、家族に借金がバレるのも、ほとんど
三百万円前後のところです。

さて、Tさんは、そんな生活を10年ほど続け、
借金の肩代わりが1,500万円にもなりました。
そして、お手上げになり、ようやく心療内科という
専門医療に辿り着きました。

そこで初めてご主人に「ギャンブル依存症」という
診断が下されました。治療の一環として、
ひとつは、ご主人の自助グループへの参加、
そして、もうひとつは、妻であるTさんにも
「家族のための自助グループ」への参加を
勧められました。

ここで得た体験が、Tさんの目からうろこを落とし、
Tさんを変え、ご主人を変えることになったのです
Tさんは、そのグループの扉をたたくまでは、
「貧乏で惨めな人たちが集まっているんだろうなぁ」と
覚悟していました。

ところが実際には、それを裏切る明るい世界が
待っていたのです。「ようこそ!」と、グループの
皆さんからTさんは迎えられました。

若くて明るい奥様や、優しそうな年配の奥様など、
多様な集まりでしたが、皆さん、自分の生き方について
話をしているのです。夫のギャンブル問題で
泣いているのは、Tさんだけでした。

問題があるのは夫の方なのに、なぜ皆さんは
自分の生き方について語っているのか、
Tさんは、その意味がわかりませんでした。

数日後、Tさんはあるキーワードを知り、理解に
近づいてきました。そのキーワードとは「共依存」
という言葉です。
共依存とは、簡単に言えばこういうことです。

ご主人は、困り果てた先の最後の砦として、
Tさんに依存しています。一方、Tさんも、やはりご主人に
心の奥底で依存しているのです。
夫から依存されることが、あたかも自分の
使命であるかのような錯覚。

テレビ番組によく出てくる場面で、だらしない夫に対して、
よく出来た妻が「この人は私がいないとダメなのよ」
というあの心理です。

この心理も、依存されて、ある種の生きがいを
感じる意味で、相手に依存していることになる。
それが「共依存」という概念です。
Tさんは、まさに自分のこととして、「共依存」を
受け止めました。

「夫にギャンブルを止めさせなきゃ」と、夫の問題を
自分の手に握りしめている時は、同じ苦しみを
繰り返していました。
けれども、夫を「管理」したくなる自分を手放したとき、
Tさんの精神は、楽になったのです。

「夫のギャンブルの問題は、夫自身にしか
解決できないんだ」
そう開き直ることで、結果としてTさんもご主人も
精神的な自立を確保し、ギャンブルの問題が
やがて解決したそうです。

地獄から脱出できたTさんは、思いました。
「自分に出来るのは、同じ問題で悩んでいる人を助けること」
生まれながらに、ギャンブル依存症に縁が深いTさん。

現職はTさんにとって、天職に違いありません。
苦しい苦しい体験が、Tさんを天職へと
導いてくれたのでしょう。
・・・


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子育てというのは親の犠牲の上に成り立っていくものです。
出産自体、母親の命を削っているんです。
出血もするし、傷もできる。中には亡くなる
お母さんだっています。

それから一年半も二年もお乳を出すこともお母さんの
命を削っています。
体重はどんどん減っていきますし、夜中に
授乳するのも大変です。
でも、そうやって自分の時間を犠牲にしないと
子育てはできません。
それが子どもに伝わるから、いい子に育ってくれる。

ところが最近は、子どものために自分の時間を
犠牲にしたくないという若い親が増えています。
子どものために我慢したくないんですね。

夜遅く子どもを連れ回している親を見かけますが、
昔はそんなことはなかったと思います。
九時にはちゃんと子どもを寝かしつけていたんですよ。
子どもと一緒に少し寝てからまた起きて、
夜中に掃除したり洗濯したりするお母さんもいました。
いまはそういうお母さんが減っていますね。

若いお母さん方は、「我慢しなくていいよ」、
「頑張らなくていいよ」、と育てられてきたのでしょう。
その人が親になったからといって、急に
「子どものために我慢しなくちゃ」
「頑張らなくちゃ」とはなりにくいです。

自分が甘やかされて大きくなってきたので、
子育てのために自分を犠牲にしようとは
なかなか思わないのです。

「可愛がる」と「甘やかす」の違いは分かりにくいですよね。
私が母親学級でお母さんたちに言うのは、
「してやりすぎると、すべてしてもらうことが
当たり前の子どもが育っていきますよ」ということなんです。

してやることだけが親の務めではない。
大人になったら我慢することや
頑張らなければならないことがたくさんありますから。
できないことを一つずつできるようにしてあげて、
親元から離れた時に一人でも頑張って生きていける
子どもを育てるのが親の仕事なんですよ。

一から十まで全部してやっておいて、
そのまま放り出されたら子どもは悲劇です。
自分のことが何もできない大人になってしまう。
それは間違った子育ての結果ですね。

手をかけることと、甘やかしてしまうことの違いは
そこにあると私は思います。
・・・


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2017年7月10日 (月)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー




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今からおよそ100年以上も昔のことです。
日露戦争に勝利した総理大臣の大隈重信は、
国民に向けてこんな演説をしました。

「日本がロシアに勝利したのは、大和魂のおかげである。」
しかし、この国粋主義的発言が思わぬ事態に発展します。

小学生の中に、アメリカの男性と日本の女性の間に
生まれた少年がいました。
彼の同級生たちは、大隈の「大和魂」の話を受けて、
彼に「大和魂半分」というあだ名をつけて
からかうようになりました。

悔しい思いをした少年は、アメリカにいる父親に相談。
父親は、何とすぐに大隈に手紙で訴えました。
この事実を知った大隈もさすがに硬骨漢と
呼ばれる宰相です。
即座に行動を起こしました。 

この事実を知った大隈重信。 少年を自宅に招きました。
そして、少年に帯同してきた校長を差し置いて、
少年の手を握ると、 「私が悪かった」と詫びたのです。
さらに「困ったことがあったら私のところに来なさい」と
励ましの言葉も贈ったと言います。

その後、その少年は、度重なるいじめにも屈せず、
著名な詩人・仏文学者として成功を収めることに
なります。 彼の名前は平野威馬雄。
料理研究家でシャンソン歌手でもある、平野レミさんの
父親でした。

Author:ゆるゆる倶楽部
http://amijuku.com/

・・・
おしまい





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むかしむかし、ウナギつりの上手な
おじいさんがいました。
ある日、おじいさんがウナギをつりに行くと、
とても大きなウナギがかかりました。

あまりにも大きくて重いので、なかなか
さおがあがりません。
「ええいっ、これでどうじゃ!」
おじいさんが力一杯引き上げると、そのはずみで
ウナギは川を飛び出して向こうの山まで
飛んで行きました。

「ああっ、せっかくの大ウナギを逃がしたら大変じゃ」
おじいさんはウナギを追いかけて、向こうの
山まで行きました。
「おっ、おったぞ。ウナギのやつ、こんなとこまで
飛んだのか。・・・おや?」 

よく見ると、ウナギのそばに一頭のイノシシが倒れて
いるではありませんか。
イノシシはここで昼寝をしていたのですが、ちょうどそこへ
ウナギが落ちてきたので、イノシシは運悪く
死んでしまったのです。

「ウナギとイノシシが一度に取れるとは、今日は
何と良い日だろう」
おじいさんはイノシシをしばって運ぼうと思いましたが、
あいにくなわを持ってきていません。

「なわがないと、イノシシを運べんし。何か
なわになる物は?」
辺りを見回すと、ふじのつるがありました。
「よし、このふじのつるをなわにしよう」

おじいさんはふじのつるを両手でつかむと、ぐいっと
引っ張りました。
すると、ふじのつるにヤマイモのつるがからまっていて、
ふじのつると一緒にヤマイモがズルズルと抜けたのです。

「おおっ、これは大もうけだ」
おじいさんがヤマイモを数えてみると、十本もありました。
「しかし、こうたくさんあっては持ちきれないな。
ちょうどあそこにかやがあるから、あのかやで、
つと(→わらなどを束ねて物を包んだもの)を作ろう」

おじいさんはかやをつかむと、草切りガマで
ザックリとかり取りました。
するとかやのむこうから鳥の羽が見えて、
バタバタバタと動きました。

何とかやの中に、キジがかくれていたのです。
「はてさて、今日は何て良い日だ。
ウナギとイノシシ、ヤマイモとキジが一度に取れるなんて」
おじいさんがキジを引っ張り出すと、かやの中に
白い物が転がっていました。

「ありゃ、これはキジのタマゴだ」
タマゴは全部で、十三こありました。
「さて、どうやって持って帰ろうか?」
おじいさんはイノシシを背中に背負い、ウナギを
右手に持ちました。

左手にはかやのつとを持っており、つとの中には
キジとヤマイモとタマゴが入っています。
「こんなには食いきれんから、村人たちにも
ごちそうしてやろう」

おじいさんは家へ帰る途中、かれ枝のたばを
ひろうと背中のイノシシの上にのせました。
ごちそうを作る時の、たき火にするためです。

「ふぅー、重かった」
何とか家にたどり着いたおじいさんは、村中の人を
呼び集めました。
「今日は、ごちそうを作るぞ。

ウナギにイノシシ、キジにヤマイモ、キジのタマゴも
たくさんあるから、どれでも好きなのを食べてください」
おじいさんは大きななべに、イノシシの肉を入れました。
小さななべには、ウナギを入れました。

そして火を燃やそうとかれ枝を持つと、かれ枝が
『クッ、クッ』と鳴きました。
「おや? 何だろう?」
かれ枝を調べてみると、中にイタチが三匹
かくれていました。

「おおっ、ウナギにイノシシにキジにヤマイモにタマゴも
取れた上に、三匹のイタチまで手に入るとは。
これはきっと、わしがよく働くので、神さまが
ほうびにくださったにちがいない」
おじいさんはニコニコして、おいしいごちそうを
村人たちにふるまいました。

・・・

おしまい




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鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる









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Bu

隙間産業(ニッチ市場

2017年7月 9日 (日)

妄想劇場・韓信外伝 (馬邑失陥)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・

アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kansin


韓信外伝 (馬邑失陥)

都合の悪いことは忘れ去るという得意技を持っていた
彼にしても、あのときの光景は今でも目に
焼き付いている。
滎陽を囲んだ無数の兵の先頭に立つ項羽の姿。
城中の食も尽き、彼らは進退極まった。

――いよいよだな。
遅かれ早かれ、滎陽は落城する。彼らの使命は、
それを出来うる限り引き延ばすことであった。
しかし当然のことながら、落城後に彼らが辿る
運命には、保証がなされていない。

「銘々に城を脱出し、落ち延びよ。これまで
ご苦労であった」
滎陽の守将は城中に残った兵卒たちに向かって、
そう言った。そして、守将は彼にも言い渡す。
「あなた様もお逃げください」

その瞬間、不覚にも彼は安堵した。しかしほぼ同時に
そんな自分に嫌気がさす。
「いや、ともに吾も戦おう。ここで逃げ出したとして、
捕われれば虜囚の辱めを受けることとなる。
それよりはいっそ奮戦して雄々しく命を
散らした方がましだ」

彼はそう言ったが、守将は首を縦に振らなかった。
「いけません。あなた様が乱戦で命を
散らしてしまっては、王家の血が絶えてしまいます。
これは……とてつもない損失だ。
二百年以上にもわたる王家の血筋を私の決断で
絶やすことはできない。
私にはそんな権限はないのです」

「吾が、それで構わないと言っているのだ」
彼はそう答えたが、結局守将はそれを
受け入れなかった。
彼我の兵力の差を考えると、事実上、脱出しても
逃げ切ることは不可能であった。
これはつまり脱出は同時に捕虜になることを意味する。
しかし守将はあえてそうしろ、と言っているのであった。

「生き延びてください。その後、楚に味方するか
漢に味方するかはお任せします。
まあ私としては、せっかくなので漢に味方して
ほしいのですが」

不承不承、彼は守将に言われたとおり、脱出を
果たした。そして結局楚軍に捕らえられたのである。
これも言われたとおりであった。

それからほどなくして滎陽は陥ちた。
楚兵たちは守備兵のいなくなった城壁をよじ登って
侵入したかと思うと、あっという間に守将を捕らえ、
城外の原野に引き連れてきたのだった。

虜囚となった彼の目にもそれは見えた。
項羽と二、三の問答を交わした後、
守将は煮殺された。
しかし彼の耳にはその問答は聞こえなかった。

およそ二か月の籠城戦が、ここに終結したのである。
彼にとって忘れられない光景……
それを象徴するのが煮殺される守将の
周苛の姿であった。

彼の名は、韓信。しかし当時漢の大将軍であった
韓信との混同を避けるため、一般に彼は
韓王信と呼ばれた。

周苛のような死に方は美しく、どうせ死なねば
ならぬ運命にあるとすれば、彼もあのような
死に方をしたいと望んだ。

だが、確かに彼は生きながらえていることを
喜んでいたし、虜囚の辱めも死ぬことに比べれば
耐えられないことではなかった。

だから彼の周苛の死に対する感じ方は、
どちらかというと自分にないものに憧れを抱く、
そういったものであった。  

しかし、当然ながら生きながらえたことには
罪悪感を抱く。死にきれなかったことに
後悔しながら、おそらくは自分にとって後悔せずに
死ぬことよりも、後悔しながら生き続けることの
ほうが幸せだと自覚しながら。

再び人生で同じ場面に遭遇したとしても、
きっと自分は死を選ぶことはない、と
思っていたのである。  

それでも楚軍の隙を見て脱走して漢に
帰順したことは、他でもない周苛に対する
贖罪の意識のあらわれであった。
生前の彼の言葉に従い、彼の意思を尊重した
結果の行為である。  

そしてその行為は彼の望んだ結果を生んだ。
漢はついに楚を撃ち破り、彼は諸侯王として
広大な領土と、権力の世襲を認められたのである。

「よかった」  
どちらかというと純朴な男であった彼は、
周囲に素直にそう述べた。
自分という男が生きているおかげで、
奇跡的に韓の王家は存続しえた、と
うれしがっていたのである。  

確かに彼は戦国末期の韓に王の職にあった
韓倉(襄王)の孫であった。
しかし側室の腹をその起源としたものであり、
彼自身も張良に見出されるまでは村里で農作業に
いそしむ青年の一人に過ぎなかった。
平民として過ごしていたのである。  

だからこうして韓王として君臨していることは、
どう考えてみても奇跡なのである
。彼はその気持ちを隠しもしなかった。

「趙の王室は、韓信によってとり潰されて現在は
張敖が君臨している。斉にしても同じだ。
田家は滅ぼされ、現在は韓信自身が
王を称している。

魏も韓信によって滅ぼされた。
魏の王家の末裔は平民におとされたが、
周苛は彼を斬り殺した。

楚の熊家の最後の一人は、長沙で
黥布に斬られている。
よって……春秋、戦国の昔から存続する王家は、
この韓しかない。

余は、この事実を深刻に受け止めている」  
成上り者どもが支配する天下で、伝統や
正当性を主張できる存在は自分だけだという
自覚は確かにある。
だが自分は高貴であるという認識はあまりない。

しかし、軽々しく死んではならないという思いは、
彼の頭の中の大部分を占めるようになっていった。  
だが、その思いは皇帝にあまり
伝わらなかったようである。

静かに、大過なく過ごそうとした韓王信に対し、
皇帝は国替えを命じた。
すなわち、旧来の韓の地を捨て、太原郡を新たに
韓としたのである。

「太原郡とは、もとの西魏の領地だ。
淮陰侯(韓信)がかつて魏豹を破った際に
得た、と聞いているが……
どうして余にそんな所を?」  

命じられた韓王信は言うことを聞くしかないと
わかっていても、周囲に確認せざるを得ない。
「かの地は伝統的に強兵が生まれる所だ、と
聞いております。皇帝陛下は、それを
抑えたいのでしょう。

王さまの力をもって」  宰相などはそのように答えた。
しかし、彼には納得がいかない。
「強兵が生まれる地だと? 
強兵など、どこでも生まれる。皇帝はこの地が
欲しいだけさ。雒陽に近いからな。

直轄の郡にしたいのだろう」
「では、勅命に応じないおつもりですか」
「そんなことはできない。皇帝が行けというのであれば、
行くしかないだろう」  

かくして韓王信は太原をその領地とした。
しかし実際に行ってみて甚だ後悔するに至った。
太原は常に胡えびすの侵犯する地だったのである。  
胡とは他ならぬ匈奴であり、首領に冒頓単于を抱えた
この時期は、その勢力の絶頂期であった。

韓王信は身の丈が八尺五寸あった。
当時の一尺は約二十三センチなので、彼の身長は
一メートル九十五センチもあったことになる。
その彼が苦労したことは、その目立つ身長のおかげで
何ごとにも失敗できないことであった。

心ない人は、彼が物事をうまく進められないでいると、
すぐ彼の背の高さを引き合いに出す。 「図体ばかりでかくて、
なにも出来ない奴だ」 「あいつは背が高いから
遠くのものは見える。しかし、足元はなにも見てない」

自慢の背の高さが、逆にやっかみの種になるのである。
その極めつけは、 「奴の背の高さは、
一種の病気ではないのか」  というものであった。

平民の頃の彼は、そんな陰口を耳にして、時には悩み、
時には相手を殴ったり、罵倒したりした。  
だから彼は王として君臨して以降、誰もそんな陰口を
叩かなくなったことを歓迎していた。

しかし、問題はまだある。彼の背の高さは人々の
印象に残りやすく、その結果望まぬ任務につかねば
ならないことが多々あったのである。  

周苛らとともに滎陽の守備に残されたことも
あるいはそれが一因としてあったのかもしれない。
そして、今回の国替えも、もしかしたらそれが原因
なのではないかと疑いたくなるのであった。

「匈奴の侵入に対する防衛のための国替えで
あったとしたら、言いたくはないが余より適任者は多い。
淮陰侯などはそのいい例だろう。

彼は、軍事に明るい。戦うために生まれてきたような男だ」  
彼は愚痴を言うような口調で言った。
側近たちはそれを咎める。
「どうか、勅令にご不満をあらわされないよう、
お気をつけ下さいませ。下手をすると不敬罪を
適用されます」

「ああ、せいぜい気をつけよう。しかし、どう思う? 
余は韓の正統な血脈を保つために日々努力しているが、
どうも皇帝はそれをわかってくださらぬように感じる。
陛下はひょっとして余を除きたいのであろうか」

「そんなことはございませぬ」
「では、淮陰侯や淮南王(黥布)らをさしおいて、
余がこの地に派遣されたという事実はどう捉えるべきか? 
彼らは明らかに余より軍事的に能力があるし、
実績でもそれを証明している。

にもかかわらず選ばれたのが余だということは……
陛下が余を除こうと思っていないとすれば……
単に背が高いことで印象に残っていただけ、
ということであろうか」

「さあ、あるいはそうかもしれませぬ」
「迷惑な話だ」 そう吐き出してみたものの、
自分は意外にも過去を忘れていないことに気付く。

都合の悪いことは忘れることを旨としてきた
つもりなのに、今思いだされるのは自分の背の
高さによって苦労したことばかりなのである。  

小さいこと、つまらないことと笑ってはいけない。
特に古代であるこの時代、人の外見的特徴は
我々の想像以上に大きな意味を持つ。

現代のように情報を伝達する手段も少なく、
統一された教育も施されていない社会では、
理想的な人物という概念もない。よって、
人は見かけで判断されることが多いのである。
・・・
(つづく)


愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…


      




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Bu

隙間産業(ニッチ市場)

2017年7月 8日 (土)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・

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友達の薦めで某チェーン店の美容院に行った。
外観も接客も明るい雰囲気でとても良い感じだった。
ふと車椅子で深く帽子をかぶった女の子
(おそらく12.3才)が連れの人と一緒に来店した。

飛び込みだったらしく、しばらく待たされたあと
彼女は店内に案内され、何人かの美容師達の
手によって椅子に座ったところまでは
良かったのだが。・・・

帽子をとると、そこには薬か何かの影響なんだろう、
パサパサの髪に、ところどころ抜けてしまって、
とてもカットやカラーができるような頭じゃなかったのです。

その場の空気も一瞬凍りついた感じになりました。
僕も含め、周りの人たちも奇異な目を彼女に向けました。
彼女自身、何だか辛そうな顔をしていました。

どうやら連れの女の人が、半ば強引に連れてきた
様子でした。
連れの女性は、母親という感じではなく、
おそらく看護師さんのように見受けられました。

少女を椅子に座らせた後、
奥の方から40歳くらいの男性が出てきました
その人は、やたら陽気な人で、ガハガハ笑うような、
ほんとに美容師なのか、と問い質したくなるような
オッサン。で、オッサンが女の子に、「絶対きれいに
するから、ばっさり切っちゃってもいいかな?」と
聞きました。

僕は内心、髪の毛が抜けてて、傷ついてる
みたいだから、そんなに切ったらよくないんじゃないか、
とか思ってました。僕はもう、自分の頭よりも、
そっちの方が気になりました。

しかし、僕の心配をよそに、それはもうびっくりもの。
その出来上がりには驚かされました。
ものすごいショートにして、その毛先もなんだか
クルクルして、…僕が書くと何だかおばさんの髪型か、
と想像されそうですが、そうではありません。

雑誌とかでよく見る、モデルみたいな髪型で…。
パーマもカラー剤も使ってないのに、大変身です。
もう、全然、前と違うんです。
で、何より違ったのは、その少女の表情でした。

仕上がりを見て、ものすごいニコニコして。
ちょっと痩せてたけど、すごい可愛い子だというのが
分かりました。
少女、最初はあんなに無口だったのに、もうオッサンの
バカみたいなおしゃべりに、いちいち反応して
大笑いしてました。

もうその美容院の中が、ほんわかムードでした。
美容師の人って、ほんとスゴイなと思ったのです。
一緒についてきた人も、すごい感謝してました。

僕もその日は、なんだかとてもいい気分で、
いい美容院を見つけたと思いながら帰りました。

先週、またその美容院に行ってきました。
その日のサービスも滞りなく終わって、さあ支払いだ
というときに、この美容院、次回の予約ができるので、
そうしようとしました。

そうすると、顧客ファイルを開いてチェックするわけですが、
僕の後ろが例の少女のファイルだったのです。
少女は、あのあと毎月予約してはキャンセルしていた
ようです。予約の期日や時間が記入されては、
バッテンがついていました。

僕の行った日の、三日くらい前の日から、
ずーっと黒い太い線が引かれていたのを見た時に、
急に不安な気持ちになりました。

その線は、何となく悲しげに書き殴ったように
見えたからです。
普通、美容院変えるとしても、連絡なんてしないし、
もう行きませんなんて、わざわざ伝えるなんて
こともしません。

ああ、これは・・・と、ちょっと覚ってしまいました。

僕の思い違いで、引っ越しだとか、なんかそういう
理由で来れなくなったんだと思いたいけど。
美容院の、あのオッサンが黒いスーツパンツで、
仕事をしてるのを見てしまったのです。

あの時の、少女の表情とか笑い声が、すごい
フラッシュバックして、帰り道に僕は胸が締め付けられる
思いに陥ったのです。

口をきいたこともないのに、
少女のために、涙がこぼれました。
・・・


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「幸せになりたい」とか「どうしたら幸せになれるの?」
とかの声は山ほど聞きます。
だけど「幸せを手に入れた」という声は滅多に聞きません。
なぜでしょうか?

『幸せを手に入れるんじゃない。
 幸せを感じることのできる心を手に入れるんじゃ』

とは、甲本 ヒロトというミュージシャンが言った言葉です。

それでは、どうやって幸せを感じることのできる心を、
手に入れることができるのでしょうか?

もう、半世紀ほども前になるでしょうか?
「愛と死を見つめて」という純愛物語が大きな話題を
呼びました。後に映画やテレビドラマにもなりました。
歌でも歌われました。

純愛物語ですが、実話が下敷きにされています。
大島みち子さんは、高校2年生の時、
顔面の軟骨肉腫という病気で、入退院を
繰り返していました。

同志社大学に入学できましたが、再発して入院します。
大島さんは、ある大学生と知り合いになり、
互いに手紙を取り交わす間柄になりました。

でも、とうとう二人は一緒になれずに、
彼女は21歳の短い生涯を病院のベッドの上で
閉じました。

彼女が書き残した日記を集めたのが、
「若きいのちの日記」。
その冒頭には、次の文章があります。

「病院の外に、健康な日を三日ください。
一週間とは欲張りません、ただの三日でよろしいから、
病院の外に健康な日がいただきたい」

大島さんには、もしその三日があれば、こうもしたい、
ああもしたい、という望みがありました。

さて、ここで想像してみてください。?
あなたが、明日をも知れない命だったとして、
そして、三日という時間が与えられたとしたら…。
わが身に置き換えてお考えいただければと思います

大島みち子さんの三日間の希みはこうでした。

「一日目、私はとんで故郷に帰りましょう。
そして、お爺ちゃんの肩をたたいてあげたい。
母と台所に立ちましょう。
父に熱燗を一本つけて、おいしいサラダを作って、
楽しい食卓を囲みましょう。
そのことのために一日がいただきたい」

「二日目、私はとんであなたのところへ行きたい。
あなたと遊びたいなんていいません。
お部屋の掃除をしてあげて、ワイシャツに
アイロンをかけてあげて、おいしい料理を
作ってあげたいの。
そのかわりお別れの時、優しくキスしてね」

「三日目、私は一人ぼっちで、思い出と遊びましょう。
そして、静かに一日が過ぎたら、三日間の
健康をありがとうと、笑って永遠の眠りにつくでしょう」

いかがでしょうか?

僕を含めて、ここを読んでおられる多くの方には、
ほとんど当たり前のように動かせる身体があります。
そして、明日も明後日も、当たり前のように
訪れるであろう自由な時間を持っています。

冒頭紹介した甲本ヒロトさんの、
「幸せを感じることのできる心」とは、
日常、目の前にある「当たり前」に感謝したり、
「当たり前」の中の奇跡に気づくことと関係が
深いように思います。

また大島さんの三日間の使い方にも胸を
打つものがあります。
彼女は大切な一日を、家族の喜びのために
使いたいといいます。

さらにもう一日は、大切な彼のために使いたいと
いっています。
「あなたと遊びたいなんていいません」という言葉には、
ただ、愛する彼が喜ぶことをしてあげたいという
一途な気持が感じられます。

そして、最後の一日は、それまでの自分の人生と
向き合い、健康な三日間に心から感謝する。
その三日間は決して「当たり前」なんかじゃない。

夢であり、奇跡の三日間だから、
彼女は眠りにつく前に「ありがとう」と言います。
自分の死を悟った大島さんが、大切な時間を
自分のためでなく、人の喜びのために使いたいと
いっています。

……自分にこんな選択ができるのだろうか、と
考え込んでしまいます。

最後に瀬戸内寂聴さんの幸せについての説話を
ご紹介します。

「どうしたら幸せになるかといえば、
まず自分の幸せよりも、他人の幸せを考えること。
そうしたら、自分の幸せが、自然に達せられます」




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…








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隙間産業(ニッチ市場)

2017年7月 7日 (金)

妄想劇場・特別編 (お妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ

過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある

大病後も人生は続く


無数に出てくる病名症例の内で最も符合して感じられたのが、
「スケープゴート型のアダルトチルドレン」だった。

叱られた記憶しかない

アダルトチルドレンは、今ではずいぶんと使い古され
陳腐化された言葉に感じるし、現代的には
「生育環境に問題があったが故の不定形発達と、
それを主因とする心理症状や適応障害」などと
言い換えたくもなる。

だが当時としては、その「大人になってもうまく社会に
適応できずメンタルを病んでしまう理由を
機能不全家庭に求める」とする解釈が、特に当事者にとって
納得できるとして大いに共感をもって語られたものだった。

いくつか分類されるアダルトチルドレンの中でも、
スケープゴート=身代わり型とは、特に機能不全な家族の
問題の原因を、過剰に自分の中に求めてしまうというもの。
家族が壊れてるのは自分のせいであり、自分が犠牲になれば
それが解決すると誤認した子ども時代を過ごした者に
多いという。

特徴として自己否定の強さと自分の存在意義の喪失や、
非所属感や見捨てられ感情が強く、自罰感情や
自傷が多いなどなど。

思い当たる節は山ほどあった。とにかくダメな子として
叱られた記憶しかない彼女だった。
ルーツをたどると、彼女様の育った生家は、なるほど
なかなかに複雑だ。

曾祖父は東京の下町に金属加工業の工場を立てた創業者。
彼女様の父親は、その長女と婿の間の長男だ。
だが、曽祖父も婿で入った祖父も比較的若くして亡くなり、
彼女様の父は工場を継がなかった。

つまり、彼女様が生まれる前にその下町の古く大きな
家に住んでいたのは、創業者の妻だった曽祖母と、
江戸っ子気質で猛烈に癇の強い祖母、
そして家庭に無関心な趣味人でありあまり家に
寄り付かない長男(彼女様の父)、加えて工場を継いだ
大叔父と叔父。

なんだかNHKの朝の連続なんとかみたいな複雑設定だが、
そんな中に嫁として嫁いできたのが、彼女様の母。
嫡流として生まれた一人娘が、彼女様だったというわけだ。

彼女様の母は、どれほど大変だったことだろうか思う。

彼女様が物心つく頃には大姑の介護が始まり、
姑の希望は将来的には彼女様を跡取り娘として
婿を取ること。

ところが当の彼女様はお転婆娘を通り越して
暴れん坊娘。暴れる走る、片っ端からものを壊す。
そんな彼女様をまっとうに育てようと、この複雑な本家を
つつがなく維持しようと、日々娘を怒鳴りつけながら、
家の中を駆けずり回ったのだろう。

開戦のゴング

だがひとまず、僕の家に家出してきてハードな
リストカッターになってしまった彼女様について、
一番わかりやすい「原因」はこの母親、そして
癇の強い祖母であり、積み重ねられた叱責と
否定の記憶だ。

少なくともまずはその強い自己否定感の根源の
根源である家族から一度引き離し、そのあとに
「対峙」させることが、苦しみの緩和と解消への
道なのではないか。

「もうあの家(彼女様の実家)に帰る必要ないよ。
俺の部屋にずっといていい。連絡も取らなくていいし、
必要な連絡は俺がする。彼女様はダメな子じゃないし、
人より優れた部分がたくさんあるじゃないか。

彼女様は生きていていい。だいたいお前が死ぬと
自動的に俺も後追い自殺することになっているので、
できれば彼女様には死なないでほしい。

少し元気が出たら、(彼女様の)お母さんと戦おう。
俺が味方になるから」
そんなことを言ったのが、果たしてどこまで
正しかったのかはわからない。
そして、まさかこの彼女様の母親が、その後
僕の人生を何度も救ってくれる恩人になるとは、
この時点では思ってもいなかった。

母親と対峙せよ! 

僕自身が鳴らした開戦のゴングは、実は僕と彼女様の
戦いのゴングでもあったのだった。
「大介が怖い。怖いけど好き」彼女様に言葉のDVを
してしまった僕

圧倒的「汚部屋力」

子ども時代から「何をやらせてもできない子」という
母や祖母の叱責の中で育った彼女様。
避難的に我がアパートに家出してくるや盛大な
リストカットが始まったが、どうやらそれは「再発」であって、
実は中高時代にもリストカットはあったらしい。
聞いてないよ!

でも、でももう大丈夫。僕の家に来たからには、
来たからには、来たからには……。
彼女様が嵐のように舞い込んできた我がアパートは、
「戦場」になってしまった。

初めは父親の車で家出してきた際に持ち込んだ
小さな折り畳みテーブル周辺が彼女様の
私物置き場だったが、買い足しているのか
俺の知らぬ間に実家から持ち帰っているのか、
みるみる増える私物は、整理されることなく積み上げられ、
見事万有引力に従って雪崩を起こす。

テレビの前に積み重ねられるレトロなファミコンゲームの山と、
流れ出る8ビットのチープなゲームミュージック。
よく見ればどこの怪しい外国人から買ったのか、
数十のゲームが1つのカセットに書き込まれた違法ROMと、
その中に収録されているタイトルのオリジナル
ROMが混在している。

「この怪しい違法ROMがあれば、オリジナルって
要らないんじゃないの?」
そう聞けば、「要るの! 紙の箱が大事なの!」と
むくれ顔。
 
はあそうですか。そんな大事ならしまっておけばいいものを。
床に出しっぱなしで、たまにその上に座ったりもしてる
パッケージの箱は、昭和時代からの歴史を感じさせる
見事なボロボロぶりじゃねえか。ていうか
君はなんでそんなに平気な顔で「物の上に座る」の?

かと思いきや、ステレオ周りにはビジュアル系、
ボサノヴァ、渋谷系、オールディーズと、
時代もジャンルも一切の節操を感じないCDが
積み重ねられ、隙間という隙間にペットボトルの
キャップフィギュアが並べられていく。

服は脱ぎっぱなし。それを僕が黙って洗濯機に
突っ込んでおくと、あれがなくなったこれがなくなったと
部屋中を探し回って余計に散らかしている。

貴重な収納スペースである天袋には、
買うだけ買って組み立てられることのないプラモデルの箱が
押し込められ、トイレに行けば床に日々増えてゆく
トイレットペーパーの芯。

その芯もコレクションか何かですか? 
クラフトアートでも作るんですか?
 違いますか? じゃあ捨てろ! 
ゴミはゴミ箱に!

おかしい。
彼女様が乱入してくるまでの我がアパートは、
2DKの間取りのうち、食事をとるのはダイニングのみ。
1部屋は書架と衣類の入る押し入れと布団のみの寝室。
リビングは天井付近のクリップライトが照らす
淡い照明だけの「音楽と読書の部屋」と、
洒落こんでいた筈だった。

いや、ここでちょっと彼女様の名誉のために
カミングアウトすると、このお洒落部屋は
1つの「反動」だった。この部屋に越してくる前の
18歳から7年近く住んだ6畳1間の日当たりの悪いアパートは、
友人から「産廃小屋」と呼ばれていた気がする。
いやいや、認めよう。気がするじゃなくて、
そう呼ばれていた。

特段、友人の口が悪かったわけではない。
バイクを部屋の中に入れて整備するから「土足」、
友達が来た時に僕が不在だとかわいそうなので
「無施錠」、ユニットバスは「簡易塗装ブース」、
壁際に堆く積んだ大量の雑誌の奇跡的バランスは
芸術的ですらあった。

言わば典型的な男子のゴミ部屋というのか、
最も酷いときには1000ccのバイク2台
(乾燥重量合計490㎏)を室内に入れて床に穴が開き、
「そこが一番平ら」という理由で床に寝かせた
バイクの上に座布団を敷いて寝ていたこともある。

認めたくないが、あれはひとつのトラウマだった。
そして、新たなる部屋は、あの貧乏で寒くて汚くて、
あの解体屋の倉庫と同じ酸化したガソリン臭が
ただよっていた産廃小屋から抜け出して、
ようやく定職に就き、実現した憧れの快適
ハウスだったのだ。

嗚呼夢に見た、布団やバイクのタンクの上とかじゃない、
ダイニングテーブルでのお食事という文化的生活! 
もう二度とあの貧乏カオスには戻るまい!

そんな決意のもとで作り上げられ維持されてきた
我がお洒落部屋が、彼女様の圧倒的「汚部屋力」によって
蹂躙され、あのジャンク部屋以上のカオスに戻っていく。

この当時、僕が彼女様に書いた手紙を発掘すると、
いくつかのお願い事リストが書いてあった。

・出かけたときに限らず、毎日お風呂は沸かそう。
・フリカケだけでご飯食べないで。
・ダイニングやリビングの机の上を物で
 いっぱいにしないで。ご飯食べれない。
・洗い物の食器には水を張ろう。
・食材が全部なくなる前に買い出しに行こう。
 せめて納豆と卵は常備したいです。
・食材を買いに行くときは買い物メモを書いて行こう。
・缶ゴミ溜めんな!ラスト半ば切れ気味。

裏読み・深読みができない

だが何よりも彼女様と一緒に暮らしていて
苦しかったのが、彼女様が「朝に起きてくれない」
ことだった。
同棲を始め、仲良く一緒に会社に通っていたのは
ほんの少しの間のこと。

すぐに僕は彼女様を置いて先に出勤し、
彼女様はその後自力で起きて会社に向かうという
方針に変更した。

毎朝忙しい中、焦りつつ彼女様を起こし続けることに、
僕の方から音を上げたわけだ。
結局その後、彼女様は通い始めた精神科の
薬の強い副作用で一層朝に起きれなくなり、
会社にたどり着いても仕事机で大口あけて大爆睡。
あえなく解雇となったというのが、その後の流れだ。

だが、彼女様が会社をやめたら僕らが
一緒にいる時間はそれまで以上に減る。
朝に起きて少しでも一緒に食事や会話をしてから
出勤したいものだが、やっぱり何をしても
起きてくれない彼女様。

じゃあ昼には起きるのかと言えば、「ごめんなさい
今起きた」のメールが来るのは、僕が会社に行って
ひと仕事もふた仕事も終えた夕方頃だ。

おかしい。そもそも実家から会社に行っていたときは、
どうやって起きていたのか。
遅刻がちだったけど、少なくとも午前中には
出勤していたはず。

「前はどうしてたの?」
「起きるまで死ぬほどモーニングコールしてもらってた」
「誰に?」
「たかちゅーに」

悪びれない顔で言う彼女様。だがそのたかちゅーなる
人物は、会社の編集長様じゃねえかよ。
呼び方以前に、所属する職場の職長クラスに
毎朝モーニングコールをかけさせるその心臓の毛を、
僕は剃りたい。

せめて昼には起きて欲しい、今日はいい天気だから
洗濯日和だよ。せめて昼に起きないと夕方までに
洗濯物乾かないよ。起きれなかったならしょうがない。
じゃあ、せめて帰った時にご飯を作って
待っていて欲しいな。

せめて、せめて、あらゆる「せめて」が全て
彼女様に打ち負かされて行く日々。

疲れ果てて家に帰っても、お米は炊けていないし、
大量の料理本を買い込んでダイニングに
積み重ねているにもかかわらず、作る料理は
いつも火を通しすぎてカチカチか、焦げついている。

「せめてご飯と塩鮭だけでいいからお弁当
作って欲しい」と言えば、本当に白米のど真ん中に
塩鮭を1本乗せただけの男子力マックスな
お弁当が毎日続く。

その後気付いたが、彼女様は「物事を、
言った言葉の通りの意味でしか理解できない
(裏読み・深読みはできない)」のであった。

・・・

次回へ続く

こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…






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隙間産業(ニッチ市場)


2017年7月 6日 (木)

妄想劇場・歌物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・

ロカビリー出身の歌手・水原弘の「黒い花びら」という
曲が 大ヒットしたのは、昭和34年(1959年)でした。

当時の彼はクラブ、キャバレーを中心に全国を
まわっていましたが、6月23日に巡業先の
山口県下関のクラブで仕事をした後、
北九州市小倉北区のホテル・ニュー田川に
宿泊しました。

24日の未明に吐血し、意識不明となって救急車で
病院に運ばれましたが、約10日後に
帰らぬ人となったのです。
水原弘は、1978年7月5日、北九州市戸畑区の
健和総合病院で死去しました。


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その当時、ラジオから流れてきた『黒い花びら』を
耳にしたとき、これはいったい誰の歌なのだろうと訝った。
歌唱力、声質、曲想、歌詞のすべてが、新人の歌う
曲のものとは思われず、かと言って既存の歌手の
声ではなかった。

三連符をかさねたロッかバラードの曲、冒頭に鳴りひびく
松本英彦のサックス、そして次に歌いだされるしわがれて
ドスのきいてしかも甘い低音・・・・・
その感触は、あきらかにこれまでの日本の歌謡曲に
ないものだった」

若き日の永六輔が作詞した歌詞を水原弘が
歌っていくうちに、歌謡曲やロックン・ロールとは違った
世界が展開されました。
その歌声にはクラッシックの歌唱法のような、
ケレン味のないオーソドックスなテイストが表れたのです。

「黒い花びら」の作曲は、中村八大が手掛けます。
永六輔と中村八大がコンビを組んだのでした。
ただし、坂本九が歌った「上を向いて歩こう」よりも、
「黒い花びら」のほうが先に作られました。





新興の東芝レコードから発売されるや、「黒い花びら」は
30万枚の大ヒット。
そして、第1回レコード大賞をも受賞してしまうのです。
「レコード大賞を受賞したことで、『黒い花びら』の
売れ行きにはさらに拍車がかかった。

「黒い花びら」によって、水原弘は“スター”の
仲間入りを 果たしますが、当時は、若いスターが
大量に世に出た時代でした。 そして、その中でも
ダントツの存在として 石原裕次郎がいました。

「あの頃、若い人気者が輩出していたといっても、
石原裕次郎はやはり破格の存在だった。
小林旭、赤木圭一郎、川口浩、川津祐介などが
各社の新人として押し出されたが、“裕ちゃん”との
あいだには距離があった。

東映の中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵は
どちらかといえば少年少女向けのスターだった。
三船敏郎や鶴田浩二のように大人びたスターは
いたものの、若者の救世主的スーパースターは、
やはり“裕ちゃん”をおいて存在しなかった」

水原弘は昭和10年(1935年)生まれですから、
昭和9年(1934年)生まれの石原裕次郎のひとつ
年下でした。
年齢は1歳差でも、石原裕次郎は3年も前に
デビューしていました。
当然、水原弘は“裕ちゃん”の影響を強く
受けることになります。

「髪型、両手をポケットに突っ込むかたち、歩き方、
斜め上を見上げる目配り・・・・・当時よくあった
“裕ちゃん”のコピーと水原弘の風貌はかさなっている。

その“裕ちゃん”は、昭和32年『嵐を呼ぶ男』で
日活ドル箱スターの地位を不動にしていたが、
追いかけるようにして水原弘の『黒い花びら』が
爆発的ブームを呼んだ」

後に水原弘も映画に出演するようになります。

「当時、映画スターはスターの中のスターだった。
石原裕次郎は、そこに存在する並み居るスター連を
顔色なからしめ、一気にスーパースターの座に
駆けのぼった、破格中の破格と言ってよい存在だ。

歌舞伎から映画スターを目指して転出した中村錦之助や
大川橋蔵や市川雷蔵、
歌手から映画へと幅を広げた美空ひばり、江利チエミ、
雪村いづみ、
落語を捨てて映画入りした桂小金治・・・

映画スターという特別な立場を、誰もがスターの頂点と
見ている時代だった。

そんな中で飛び抜けてカッコよく、世代も同じ
石原裕次郎の坐る位置が、『黒い花びら』によって
衝撃的なデビューを果した水原弘の次なる
ターゲットとなったことは、十分に考えられるのだ」

「黒い花びら」の大ヒットによって一躍スターの
仲間入りをした水原弘でしたが、続くヒット曲に恵まれず、
彼はエア・ポケットに入り込み、酒に溺れていきます。

週刊誌の「微笑」昭和53年7月29日号には、
次のように書かれています。

「23才のとき、第1回レコード大賞をとった。
“黒い花びら”で芸能界に華々しくデビュー。
遊び続けた。歌と酒の人々。
その遊びは“役者の勝か、歌の水原か”と、
喧伝されるほど徹底したものだった。

見も知らぬ男たちをひき連れて銀座のクラブからクラブへと
渡り歩く。飲む酒はレミー・マルタン。一晩で1本は
確実にあけた。

関西に行けば、京都・祇園の料亭にいつづける。
すべて自分の金。昭和34年当時で、一晩に300万円も
飲んだことさえあった。

人気が続いている間は、それでよかった。しかし、
芸能界の常、やがて人気は低迷する。これまで彼を
ちやほやしていた人も、1人2人と彼の側から離れていく。
さびしかった。人間の底にある“イヤシサ”に、
彼は絶望した。・・・

その絶望、怒りをまぎらすために、彼はまた酒を浴びた」
全盛期の豪遊ぶりはすさまじく、レミー・マルタンの
水割りを作ってくれた付き人やボーイに「サンキュー」と
言いながら1万円のチップをはずんだり、時には
数百万円もする腕時計を気前よく与えたそうです。

その彼に重大な影響を与えた先輩がいます。
勝新太郎です。
デビューして間もない頃、映画で一緒になったよしみで
2人は毎晩のように飲み歩きました。

勝新太郎は「これまで俺と五分につきあったやつは、
おミズだけだよ」と語ったそうです。
“家元”の勝からこんなお墨付きをもらった水原弘は、
さしずめ“名取り”といったところでした。これが、
「おミズ」こと水原弘の遊びの原型、芸人の哲学を
作り上げていったのです。

勝新太郎も、また生活無頼の典型のような人でした。

想像を絶する放蕩の日々のため、水原弘は多額の
借金を抱えてしましました。
本業の歌のほうはヒット曲に恵まれず、
鳴かず飛ばずでした。

そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、芸能事務所を
経営する長良じゅん氏でした。
長良氏は、勝新太郎や石原裕次郎とも親しい関係に
ありました。長良氏いわく、「勝さんと裕次郎は
“兄弟”関係でね、

まあ、勝さんが年長であんちゃんだけど。裕次郎は
人のいるときは“きょうだい”って言えない。『きょうらい』って
・・その微妙なセンスがね。
裕次郎は水原のことを“おミズ”って呼んで、
水原は裕次郎を“チャンユー”と。

勝さんは、『裕次郎は歩いてても何してもスターだけど、
オレは芝居をしなかったらスターじゃねえ、
これは大きい』と言ってたけど。
匂いで生きて、匂いで分ってる人たちだから
・・ひばりちゃんも含めてね」

いま、勝新太郎、石原裕次郎、水原弘、美空ひばりと
いったタイプのスターは芸能界にはいません。
いずれも、浴びるほどの酒を飲んだために長生きは
できませんでしたが、彼らは間違いなくスターでした。

「借金の解決、カムバックのための資金繰りと同時に、
長良氏は勝新太郎に計画を打ち明けた。
日頃から長良じゅんに『水原は俺に会わなかったら、
あんなふうになんなかったな。
俺はすごい責任感じてるんだよ』と言っていた

勝新太郎は、弟分の水原弘のカムバックの助けに
なるのなら、何でも協力すると約束してくれた。

そして、勝新太郎と組んでの、川内康範口説き落とし
作戦が始まる。つまり、水原弘のカムバック曲の詞を
川内康範につくってもらおうというプランだ」

川内康範といえば、「月光仮面」をはじめ、多くの名曲を
作詞した御大です。
最近では、亡くなる直前に「おふくろさん」の
歌唱許可をめぐって森進一とトラブルになったことが
記憶に新しいです。

あの「おふくろさん」の騒動以来、わたしは川内康範の
ことを「気難しいおじいちゃん」ぐらいに思っていたのですが、
実際は非常に真面目で誠実な人だったようです。

その川内康範が水原弘のカムバック曲として書いた
作品こそ、「君こそわが命」でした。この歌は、
原爆の被爆者を取り上げた小説に基づくものです。
川内康範は、雑誌「明星」に「君こそわが命」という
小説を連載していたのです。




これは原爆の犠牲者に捧げる精神に裏打ちされた作品で、
主人公は小夜子という名の女性でした。
その小夜子が死ぬ寸前に、初めて自分の裸身を
恋人である男性に見せるのです。

彼女は原爆の被爆者で、背中にはケロイドがありました。
この小説の主人公を男にしてつくったのが
「君こそわが命」の歌詞だったのです。

「川内氏は、『君こそわが命』を書くにあたって、
被爆者たちに会い、『頑張ってください』と励ましても、
その言葉の虚しさをかみしめるのみ、慰問に行っている
自分自身に苛立ち、個人の限界を痛感したという。

広島や長崎の病院のベッドにいた人たちの顔を
思い浮かべ、こみ上げる思いに耐えかねて、いっとき
嗚咽というより慟哭し、言葉をつまらせていた」・・・

そんな作詞家の思いが込められた歌を、水原弘は
全身全霊で歌いました。
レコーディングには、じつに12時間を要したといいます。
わずか3分37秒の歌に、半日を費やしたのでした。

そして、水原弘の新しい出発の曲となった
「君こそわが命」は80万枚を超す大ヒットとなりました。
酒や博打三昧の生活と、それに伴う借金・病気からの
「奇跡のカムバック」が実現したのです。

結果的に、水原弘は昭和42年(1967年)
レコード大賞で歌唱賞を受賞しました。
ところが、そんな奇跡のカムバックも束の間、
水原弘は再び放蕩三昧の生活に戻ってしまい、
以前よりも多額の借金を背負ってしまいます。

そのために、全国のクラブやキャバレーを
巡業し続けなければならなくなりました。

「水原弘は、借金に追いまくられながら、その結果として、
睡眠2、3時間というハードなスケジュールを
こなさなければならなかった。

そして、強行日程で歌いつづけるその場その場が、
彼のオアシスとなっていた。そんな皮肉な因果関係が、
水原弘の時間を辿り直してみると、うっすらと
浮かんでくるのである。

『おミズは、飲んでいても人のことばかり気にしていた。
真から楽しむ酒ではなかった』
勝新太郎は、水原弘の死後にその死を惜しみながら、
そう言っていたという。

それは、自分の羽振りの波紋の広がりを、じっと
探りながら飲んでいた勝新太郎だからこそ気づく
ことなのだろう。つまり、二人は同じ病いなのである」

Author : 一条真也オフィシャル・サイト
 作家・経営者・平成心学塾塾長
http://www.ichijyo-shinya.com/home/ 


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2017年7月 5日 (水)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・


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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。

第二の手記

海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい
岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが
二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、
山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉わかばと共に、
青い海を背景にして、その絢爛けんらんたる花をひらき、
やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく
海に散り込み、海面を鏤ちりばめて漂い、
波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、

その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている
東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくに
しなかったのに、どうやら無事に入学できました。

そうして、その中学の制帽の徽章きしょうにも、
制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて
咲いていました。  
その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に
当る者の家がありましたので、その理由もあって、
父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。

自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ
近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、
走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、
それでも、れいのお道化に依って、日一日と
クラスの人気を得ていました。  

生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、
自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、
ずっと気楽な場所のように思われました。

それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり
身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を
必要としなくなっていたからである、と解説しても
いいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、
故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の
難易の差が、どのような天才にとっても、たとい
神の子のイエスにとっても、存在しているものなのでは
ないでしょうか。

俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の
劇場であって、しかも六親眷属けんぞく全部そろって
坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も
演技どころでは無くなるのではないでしょうか。

けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、
かなりの成功を収めたのです。
それほどの曲者くせものが、他郷に出て、万が一にも
演じ損ねるなどという事は無いわけでした。  

自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも
劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動ぜんどうしていましたが、
しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、
いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは
大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と
言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。

自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、
実に容易に噴き出させる事が出来たのです。  
もはや、自分の正体を完全に隠蔽いんぺいし得たのでは
あるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも
背後から突き刺されました。

それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、
クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、
そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の
袖みたいに長すぎる上衣うわぎを着て、

学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という
白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ
警戒する必要は認めていなかったのでした。  

その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま
記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)
その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の
練習をさせられていました。

自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、
鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま
幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地に
ドスンと尻餅をつきました。

すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、
自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、
いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、
低い声でこう囁ささやきました。

「ワザ。ワザ」  自分は震撼しんかんしました。
ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に
見破られるとは全く思いも掛けない事でした。

自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて
燃え上るのを眼前に見るような心地がして、
わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で
抑えました。  

それからの日々の、自分の不安と恐怖。  
表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせて
いましたが、ふっと思わず重苦しい溜息ためいきが出て、
何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに
見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと
誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、
と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、
狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく
見廻したりしました。

できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一の傍そばから
離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい
気持でした。
そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、
自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであった
というよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、
あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、

もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を
祈るより他は無い、とさえ思いつめました。
しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは
起りませんでした。
自分は、これまでの生涯に於おいて、人に殺されたいと
願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと
思った事は、いちどもありませんでした。

それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの
事だと考えていたからです。  
自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に
偽クリスチャンのような「優しい」媚笑びしょうを湛たたえ、
首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、
そうして猫撫ねこなで声に似た甘ったるい声で、
彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば
誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、
黙っていました。

しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の
頃の事でした、
夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困って
いたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で
外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、
竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、
傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、
一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を
小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を
二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。


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 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…





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2017年7月 4日 (火)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・

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知的障害者に「働く幸せ」を提供する会社
約80人の従業員の中で、知的障害者が社員の7割を
占める会社がある。
粉の出ないダストレス・チョークで3割のシェアを持つ
「日本理化学工業」である。

知的障害者を採用し始めたのは、もう50年以上も前の
昭和34(1959)年のことだ。
当時、社長だった大山泰弘さんが、近くの養護学校から、
卒業予定の2名に、採用はできなくとも、
せめて働く体験だけでもさせてくれないか、と
頼み込まれて、引き受けたのが始まりだった。

二人の少女が1週間だけ作業体験をしたのだが、
その仕事に打ち込む真剣さ、幸せそうな顔に
周囲の人々は心を打たれた。

約束の1週間が終わる前日、十数人の社員全員が
大山さんを取り囲んで、「みんなでカバーしますから、
あの子たちを正規の社員として採用してください」と
訴えた。

それから知的障害者を少しずつ採用するように
なったのだが、大山さんに分からなかったのは、
会社で働くより施設でのんびりしている方が楽なのに、
なぜ彼らはこんなに一生懸命働きたがるのだろうか、
ということだった。

これに答えてくれたのが、ある禅寺のお坊さんだった。
曰く、幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」。
この幸せとは、施設では決して得られず、
働くことによってのみ得られるものだと。

大山さんは目から鱗が落ちる思いがした。
それなら、そういう場を提供することこそ、
会社にできることなのではないか。企業の
存在価値であり社会的使命なのではないか。

これ以来、50年以上、日本理化学工業は積極的に
障害者を雇用し続けてきた。

「障害者中心の企業」としてやっていくとことを決意

「徹底的に障害者雇用にこだわる」 しかし、
この50年間の歩みは平坦なものではなかった。
「私たちが面倒をみますよ」と言ってくれた
社員ばかりのうちは良かったが、
やがて後から入ってきた人たちは不満が募った。

「自分たちの方が仕事をしているのに、なぜ給料が
変わらないのか」と訴えるようになった。
また社員旅行や忘年会をしても、健常者の社員は、
障害者の世話をしなければならないと思うと、
存分に楽しむことができない。

障害者の方も普段と違うリズムの時間を
過ごさなければならない。
大山社長は、健常者と障害者のどちらに軸足を
おいた経営をするのか、はっきりさせなければ
ならない、と思った。

障害者中心にいきたい、と腹は決まっていた。
しかし、当時の経営状態は決して良くはなかった。
障害者雇用に反対する株主もいた。
障害者を「お手伝い」ではなく、主力にして、
本当に品質・生産量を維持できるのだろうか。
一生懸命働いてくれている障害者の姿を見ながら、
大山社長は迷った。

その迷いを振り切って、「徹底的に障害者雇用に
こだわる」という結論に辿り着くのには、
時間がかかった。
しかし、この時に徹底して自分を問い詰めたことが、
現在に至るまでに障害者雇用をぶれることなく
続けてこられた「礎(いしずえ)」になった。

「世界のモデルとなるような知的障害者の工場を
作ってやろう」 その後、大山さんはアメリカを視察して、
この世界一の先進国でも、身体障害者をたくさん
雇っている企業はあっても、知的障害者を雇用する
民間企業は見あたらないことを知った。

大山さんは発憤した。
よし、日本で、世界のモデルとなるような知的障害者の
工場を作ってやろう。それも、純然たる民間企業として
成立させてやるんだ。

帰国してから、大山さんは知的障害者だけで稼働する
生産ラインを作ることに没頭した。
しかし、いくつもの壁が立ちはだかった。
ダストレス・チョークづくりには、知的障害者には
難しい工程がいくつもあったからだ。

たとえば材料の配合では、それぞれの色のチョークに
使用する材料の種類を間違えずに、重量をきっちり
量らなければならない。これが知的障害者には難しい。

ある材料を100g混入しなければならない時には、
秤の片側に100gのおもりを置き、それに釣り合うように
材料を乗せる。しかし知的障害者は数字が苦手なので、
そもそも「100g」ということを理解できない。
どうすればよいのだろう。

毎日毎日、考え続けた。そして、ふと思いついたのが
交通信号だった。
知的障害者たちは、駅の改札を出てから会社の
門をくぐるまで、一人で歩いてくる。
その途中にはいくつかの信号がある。

「そうか!」とひらめいた。
彼らは文字や数字は理解できなくとも、色の識別は
できるのだ。材料の配合を数字で教えようとするから、
難しくなる。色だけで識別すればよい。

赤い容器に入っている材料は、赤いおもりをのせて量る。
そう準備して、知的障害者にやらせてみたら、
ちゃんと量ることができた。

今までは、健常者向けのやり方を障害者に
押しつけようとしていたのだ。
彼らができなかったのではなく、自分たちの工夫が
足りなかっただけなのだ。

これをヒントに、大山さんは全工程を子細に観察して、
知的作業者のやれる方法に変えていった。

大手メーカーと変わらぬ生産性を実現

健常者に負けない生産性を しかし、世の中には
心ない声を投げかける輩がいる。
知的障害者中心にやっていけるのは、
「(障害者でもできる)チョークだから」という。
大山さんは悔しく思って、チョーク以外でも
作れることを証明してやろうと思った。

そこで東京青年会議所での活動を通じて
親しくしていた音響メーカー・パイオニアの松本誠也さん
(3代目会長)に「なにか仕事を発注してくれませんか」と
お願いした。 松本さんは「そういうことなら」と快く、
ビデオカセットの組み立ての仕事を回してくれた。

カセットの中に5つの部品を組み付ける仕事である。
同じ仕事を、別の大手メーカーにも発注しているが、
そこでは一人1日約1,000個組み立てるという。

大山さんはこれを目標にとりかかった。
最初は、その大手メーカーと同じように、
ベルトコンベアで運ばれてくるカセットに、
一人で5つの部品をすべて組み付けるように
したところ、せいぜい1日200個から
300個しかできない。

そこで5人が並んで、各人が部品を一種類ずつ
組み付けるようにした。
すると5人で1日5,000個を組み立てることができた。
一人当たりにすれば1,000個と、大手メーカーの
健常者と変わらない生産性である。
しかも、不良率はこちらの方が勝っていた。

工程を単純化したことで、知的障害者たちは
目の前の作業に集中できるようになり、
その結果、自分の持てる能力を最大限に発揮して、
健常者以上の仕事ができるようになったのである。

企業こそ「働く喜び」を与えられる こうした試行錯誤を
繰り返しながら、知的障害者を主力として会社を
経営していけるという確信を持つにいたった。

知的障害者を初めて雇用してから15年たっていた。
知的障害者が健常者並みに働いて、その喜びを
味わって貰う工程改革ができたのは、
企業なればこそだと、大山さんは考えている。

企業は市場競争に勝って、利益を生み出さなければ
生き残っていけない。障害者だから生産性は
低くとも良い、ということでは、企業は成り立たない。

だからこそ、知的障害者でも健常者並みの品質、
生産性を発揮できる工程を必死で考えなければ
ならなかった。

福祉の世界ではこうはいかない。税金を貰って、
それで知的障害者の面倒をみている限りは、
彼らに健常者並みの仕事をしてもらわねば、
という切羽詰まった危機感は生まれない。

そこでの知的障害者はあくまで保護を受ける側だが、
企業ならば働くことを通して、社会に役立ち、
その対価として給料を受け取る存在となれる。
知的障害者達に、このような「働く喜び」を
与えられるのは、福祉でなく企業であると、
大山さんは考える。

「ぜひ、サポートしたい」 障害者を主力とする
「工程改革」に目処がついた頃、願ってもない
チャンスが訪れた。

昭和48(1973)年、労働省が障害者多数雇用モデル
工場の融資制度を作り、日本理化学工業も
対象に入ったのである。

工場のあった大田区では宅地開発が急速に進んで、
周囲は住宅に取り囲まれ、騒音の問題もあって、
いずれは移転しなければならない状況にあった。
この融資制度を使って、新工場に
移転しようと考えたのである。

そのためには、まず移転先の土地を見つけ
なければならない。地元の東京都に相談すると、
「大田区に福祉工場をつくる計画を進めているから、
支援するつもりはない」とにべもなく断られた。

気を取り直して、川を隔てた川崎市に相談すると、
思いもかけず暖かく迎えてくれた。
伊藤三郎市長(当時)が直々に、こう声をかけてくれた。

大山さん、川崎市は障害者施設の延長上に
雇用施設をつくるのではなく、みなさんのような
企業に障害者を雇用していただくのが一番よいと
考えています。ぜひ、サポートしたい。
土地はなんとしても探しますよ。

そして、市内の約4,000平米の土地を安く貸して
くれることになった。 「大山さん、ぜひやってください」
もう一つ乗り越えなければならない山があった。

労働省から融資を受けるには、金融機関の保証を
得ることが条件となっていた。
長年つきあっていた地元の信用金庫に相談すると、
当時はまさに第一次オイルショックの真っ直中、
支店長は渋い顔で「この不景気なときに、
そんなにお金を借りたら、返せなくなることは
目に見えています」とけんもほろろの応対だった。

万事休すかと気落ちしていたところに、
得意先開拓をしていた三菱銀行(編集部注:当時)の
営業マンが飛び込んできた。

大山さんは、障害者雇用への思いを述べ、
現場で一心に働く彼らの姿を見てもらった。

営業マンは、大山さんの話をじっと聞いて、
「わかりました。早急に検討します」と帰っていった。
しかし、長年のつきあいがある信用金庫にも
断られた小企業を、天下の三菱銀行が
相手にしてくれるとも思えなかった。

数日後、「支店長から了解が出ました。
大山さん、ぜひやってください」という連絡を
受けたときに、大山さんは「本当ですか?」と
思わず大声を出した。

後で聞いたところでは、支店長はしぶったが、
担当者が粘ってくれたという。
大山さんの障害者雇用の思いに心を
打たれたのだろう。

徳のある人間は、決して孤立しない

「徳は孤ならず」 大山さんの知的障害者雇用への
挑戦には次々と難関にぶち当たったが、
その都度、大山さんの思いに共感して、
助けてくれる人々が現れた。

ホワイトボードの普及によって、オフィスでの
チョーク需要が激減したことで、日本理化学工業は
危機に陥った。それを乗り越えるべく、大山さんは
ホワイト・ボードにも書ける、まったく粉のでない
チョークの開発にとりかかった。

しかし、開発部門は一人のみ。毎日知恵を絞っても、
なかなかうまくいかない。
そんな時に、川崎市は「産学連携の助成金制度が
あるので、それを利用して商品開発をしてはどうか」と
勧めてくれた。

共同開発の相手としては、早稲田大学が
「障害者をたくさん雇用している会社ならば、
ぜひ協力したい」と名乗りをあげてくれた。

専門家の協力を得られ、平成17(2005)年、
まったく粉が出ず、ホワイトボードにも書ける
新商品「キット・パス」を完成。

ビニールやガラス、鏡などにもチョークの書き味で書け、
水拭きで簡単に消せる。 学
校はもちろん、企業や病院、工場現場でも
利用が広がっていった。

このキット・パスで、子供たちが窓ガラスなどにも
落書きができ、情操教育にも有効であることが分かった。
しかも知的障害児も3歳までに「感じる心」を
目覚めさせるような経験をさせると、
障害の程度が改善される可能性があるとのことだ。

知的障害者が働ける喜びを味わえる企業作りを
追求してきた過程で、再び知的障害の治療に役立つ
新製品に辿り着いたことに、大山さんは
不思議な「縁」を感じた。

「徳は孤ならず」という。知的障害者たちが
「働ける喜び」を味わえる職場を作りたいという
大山さんの志に共鳴して、様々な人々が
力を貸してくれた。

我が国には、こういう人々があちこちに、
たくさんいることを、ありがたく、誇りに思う。



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こうして、こうすりゃ、こうなるものと、 知りつつ、
  こうして、こうなった

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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







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隙間産業(ニッチ市場)

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2017年7月 3日 (月)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
  不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない



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「無農薬でリンゴを育てる」という夢


木村さんが、無農薬でリンゴをつくるという夢に
とりつかれたのは、ふとした偶然がきっかけだった。

研究熱心な木村さんが、本屋で農業の
専門書を見つけた。書棚の最上段にあるので、
ちょうどそばにあった棒でその本をつっいた所、
隣にあった本も一緒に落ちてきた。

床は雪とか雨で濡れていて、汚れた本を仕方なく
一緒に買った。
『自然農法』というタイトルで「何もやらない、
農薬も肥料もなにも使わない農業」とコピーが
ついていた。

木村さんは、その本を擦り切れるほど読んだ。
リンゴを育てるには、年に13回も各種の農薬を
それぞれ最適な時期に散布しなければならない。
そうしないと、昆虫、カビ、細菌など、多種多様の
外敵にやられて、虫食いのない、甘くて大きい、
美しいリンゴは育たないのだ。

農薬の残留量は、人体に影響を与えないよう、
厳しく決められている。しかし、妻の美千子さんは
農薬に過敏な体質で、散布するたびに
1週間も寝込んでしまう。

無農薬のリンゴができたら、妻に辛い思いを
させることもなくなるし、より安心なリンゴを
消費者に届けられる。
こうして木村さんは重すぎる夢を背負い込んだ
のである。

冬のように葉のない寒々とした光景

リンゴ畑での農薬散布をやめてみると、
害虫が一斉にリンゴの木に襲いかかった。
蛾の幼虫が何万匹も枝に集まってきて、葉を
食べ尽くしてしまう。
虫の重さで、リンゴの枝がしなって垂れ下がる
ほどだった。

一家4人で毎日、朝から晩まで虫取りをしたが、
1本の木からスーパーのビニール袋 3杯分の
虫がとれた。

それでも虫はあとからあとから湧いてくる。
さらには病原菌が、残った葉を冒した。
黄色くしなびた葉が1枚、また1枚と落ちていく。

殺菌作用のある酢やニンニク、焼酎などを
片っ端から農薬のかわりに散布してみたが、
満足な結果は得られなかった。

周囲の畑のリンゴの木々は鬱蒼(うっそう)と
葉を茂らせているのに、木村さんの畑だけが、
冬のように葉のない寒々とした光景をさらしていた。

結局、リンゴはひとつもとれず、収入もなかった。
あと1年だけ頑張ってみよう。
その繰り返しで、2年過ぎ、3年が過ぎた。
蓄えは底をつき、自家用車も農作業用のトラックも
売り払った。

電話代も払えないので、止められてしまった。
3人の娘たちには穴のあいた靴下にツギをあて、
短くなった鉛筆2本をセロテープでつないで使わせた。

「あいつは頭がおかしくなった」

4年目が過ぎ、5年目に入ってもリンゴ畑の状態は
悪化するばかりだった。
木村さんの友人たちは心配して激しい口調で
忠告した。

「無農薬では無理だってことは、もうわかっただろう。
いい加減に目をさませ」
「少しは奥さんや、子供たちのことを考えたらどうだ」
しかし、木村さんは頑(かたく)なに首を横に
振るだけだった。

友人たちは心からの忠告に耳を貸さない木村さんに
腹を立て、愛想を尽かして、去って行った。
「あいつは頭がおかしくなった」

「バカが感染(うつ)るから、近づくな」と陰口を
叩かれるようになり、木村さんも人を避けて
、道で誰にも出会わないように、夜が明ける前に
畑にでかけ、日が暮れてから家路についた。

ただ一つの救いは、家族がバラバラになって
いなかったことだ。
木村さんが「もう諦めた方がいいかな」と珍しく
弱音を吐くと、いつもは大人しい長女が
色をなして怒った。

「そんなの嫌だ。なんのために、私たちはこんなに
貧乏しているの?」。
いつしか長女は父親の夢を共有していたのである。

6年目になると、リンゴの木々は根っこまで
弱ったのだろう。幹を押しただけで、ぐらぐら
揺れるようになった。

木村さんはリンゴの木を1本づつ回って、
こう言いながら、頭を下げてあるいた。
「無理をさせてごめんなさい。
花を咲かせなくとも、実をならせなくてもいいから、
どうか枯れないで下さい」

もう出来ることは無くなって、あとはリンゴの木に
お願いするしかなくなっていたのである。
この頃から、木村さんはリンゴの声が
聞こえるようになった、という。


万策尽きた昭和60(1985)年7月31日、
木村さんは死を決意して岩木山に登っていった。
満月の下、リンゴ畑の間の道を通って、
黒い影となってそびえる津軽富士こと岩木山に
向かって歩いていた。

手にはロープを握りしめ、誰にも見つからない
所まで登って、そこで首を吊って死のうと思っていた。

長年の労苦で老人のように皺が刻まれた顔は、
死を決意した解放感で、もとの30代の男の表情を
取り戻していた。

6年もの間、無農薬でリンゴをつくるという夢に
とりつかれて、財産を潰し、家族を貧乏の
どん底に突き落としてまで頑張ってきたが、
ついにその夢は潰えたのだった。

その夢こそが自分の生まれてきた意味と
信じていたが、その夢が果たせない以上、
生きている意味はない。

自分がいなくなれば、家族も今よりは幸せに
なるだろう。そう思うと、この何年も背負い続けてきた
自分には重すぎる荷物を下ろせるという開放感を
感じていた。

2時間ほど登って、首を吊るすにはちょうどいい
具合の木が見つかった。
持ってきたロープを枝に投げると、ロープの端が
指をするりと抜けて、あらぬ方向に飛んでいった。

ロープを拾いに山の斜面を降りかけると、
月光のもとに1本の木が立っていた。
のびのびと枝を伸ばし、そのすべての枝に
みっしりと葉を茂らせて、思わず見惚れてしまうほど、
美しい木だった。

そうだ、森の木々はそもそも農薬など必要としていない。
6年間、探してきた答えが、目の前にあった。
そして偶然、山中の斜面に立つ美しい木を
見つけたのである。

走って近づくと、それはドングリの木であることに
気がついた。しかし、リンゴの木でもドングリの木でも
同じことだった。虫の音は周囲にうるさいほど
鳴り響いている。

病気の原因となるカビや菌もたくさんあるに違いない。
それなのに、なぜこの木は農薬もなしに
こんなに葉をつけているのか。

決定的な違いは地面にあることに木村さんは
気がついた。雑草が生え放題で、足が沈むほど、
ふかふかだった。

木村さんは無我夢中で土を掘った。柔らかい土は、
素手でいくらでも掘ることができた。
ツンと鼻を刺激する、山の土の匂いがした。
思わず、土を口に含んでいた。
よい匂いが口いっぱいに広がった。

「そうだ。この土をつくればいい」。 この土は
ここに住む生きとし生けるもの、すべての合作なのだ。
落ち葉と枯れ草が何年も積み重なり、
それを虫や微生物が分解して土ができる。

そこに落ちた木の実が、土の深い部分まで
根を伸ばしていく。 ここではすべての命が、
他の命と関わり合い、支え合って生きていた。

その中で生き物は、このドングリの木のように、
本来の力で自分の身を守ることができるはずなのだ。
そういう自然の強さを失っていたから、
リンゴの木はあれほどまでに虫や病気に
苦しめられたのだ。

今までの自分は、農薬の代わりに、虫や病気を
殺してくれる物質を探していただけのことなのだ。
自分のなすべきことは、この柔らかい土を
畑に再現して、本来の自然の力を引き出して
やることなのだ。

一心に土にまみれる木村さんの姿を、中天の満月が
皓々(こうこう)と照らしていた。

8年目にとれたリンゴ

翌年は、春から大豆を播いた。
大豆は腰の高さにまで育ち、リンゴ畑が
ジャングルのようになった。
草刈りも一切やめてしまったから、大豆の下には
様々な種類の雑草が生えた。

その草陰で鳴く虫を蛙が追い、蛙を狙って蛇が
姿を見せる。野ネズミや野ウサギまでが
走り回っていた。
木村さんの畑は、急に賑やかになった。

リンゴの病気も害虫も相変わらず猛威を
振るっていたが、リンゴの木は少しだけ
元気になった。

木村さんはこう気づいた。 農薬を使っていると、
リンゴの木が病気や虫と戦う力を衰えさせてしまう、
楽するからいけないんだと思った。
クルマにばかり乗っていると、足腰が弱くなるでしょう。
同じことが起きるわけ。

翌年の春先には、新しい枝が10センチほど伸びていた。
何年も生長を止めていたリンゴの木が、ふたたび
生長を始めたのだ。

無農薬を始めたときには、800本あったリンゴの木の
半分近くが枯れていたが、残る400本余りの
リンゴの木のうちの1本だけが、7つの花を咲かせた。

自分の畑でリンゴの花が咲くのを見るのは、
ほんとうに久しぶりだった。
農薬の使用をやめてから8年目、
ドングリの木から得たヒントで大豆を播くように
なってから3年目であった。

その7つの花のうち、二つが実をつけた。
収穫できたリンゴはたった二つだった。
そのリンゴを神棚にあげ、それから家族全員で
食べた。

驚くほどおいしかった。
リンゴ農家だから、物心つく前からリンゴを
食べ続けてきたけれど、こんなにおいしい
リンゴを食べたのは初めてだと思った。

9年ぶりの涙の花見

翌年の春、その光景を最初に見たのは、
隣のリンゴ畑の持ち主、竹屋銀三さんだった。

「あいつ、とうとうやりやがった」と思わず、
声をあげた。
竹屋さんはお祝いを言いたくて、木村さんを
探したが、見当たらない。

方々探し回って、人に借りた田で農作業を
していた木村さんを見つけた。
「岩木山のお前のリンゴ畑に、花咲いたぞ。
行ってみろじゃ」

木村さんはオンボロ・バイクの後ろに奥さんを乗せ、
畑に向かった。隣の畑の農具小屋に辿り着くと、
その陰からそっと首を伸ばした。

畑一面に白いリンゴの花が咲いていた。
言葉を失って、二人はその場に立ち尽くしていた。
二人の目には涙が浮かんでいた。

9年ぶりのリンゴの花見は、涙に濡れていた。
その日は、何度も花を見に行った。
夕方にはお祝いをしようと、お酒を持っていき、
リンゴの木の1本1本の根元に、少しずつ
かけて回った。

「ありがとう、よく花を咲かせてくれた」と。
木村さんは言う。
みんなは、木村はよく頑張ったと言うけどさ、
私じゃない。リンゴの木が頑張ったんだよ。

…だってさ、人間はどんなに頑張っても
自分ではリンゴの花のひとつも咲かせることが
出来ないんだよ。
… それがわからなかったんだよ。

自分がリンゴを作っていると思い込んでいたのさ。
自分がリンゴの木を管理しているんだとな。
私に出来ることは、リンゴの木の手伝いでしか
ないんだよ。

失敗に失敗を積み重ねて、ようやく
そのことがわかった。
それがわかるまで、ほんとうに長い
時間がかかった・・・。

奇跡のリンゴが教えてくれた「メッセージ」

奇跡のリンゴ 、しかしゴールはまだまだ先だった。
その年の秋にとれたリンゴはピンポン球ほどの
大きさだった。そこから通常の大きさのリンゴが
とれるようになるまで、さらに数年を要した。

木村さんのリンゴは今でもそれほど
大きい訳ではないし、形が歪んだり、
小さな傷もある。しかし、そのリンゴを一口
かじった途端に、あまりのおいしさに
涙が出そうになるという。 ・・・

二つに切って2年間、保存しておいても、
普通のリンゴのように変色して腐ることなく、
小さくしぼみながらも、赤い色をほのかに
残したまま、お菓子のように甘い香りを放っている。
まさに「奇跡のリンゴ」である。

平成3(1991)年の秋に、台風が直撃して、
青森県の大半のリンゴが落花しただけでなく、
リンゴの木そのものが風で倒れるという
被害が起こった。

ところが、木村さんの畑ではリンゴの木は
揺るぎもせず、8割以上の果実が枝に残っていた。
通常の木の根の長さは、せいぜい数メートルと
いうところだが、木村さんの畑では20メートル以上も
伸びていた。

それほどに長い根から吸収する養分が、
害虫や病気を跳ね返す力になっていのだろう。
生きとし生けるものの間で、リンゴの木の本来の
生命力を引き出した木村さんの農法は、
日本古来からの自然観に立脚したものだ。

それは環境破壊と食糧危機に脅かされている
人類への重要な示唆を含んでいる。 ・・

余談・・・


木村さんはいつでもまぶしいほどの笑顔。
でも・・・口元を見ると、歯がありません
歯を入れない理由

「ツラかった時代も忘れたくない」
無収入が長く続いた時代、歯医者に行く
お金もなかった
木村さんは自分で虫歯を抜いたのだそうです。
りんごに葉があれば、自分には
歯がなくてもいい (笑) ・・・ 

Author :伊勢雅臣Japan On The Globe
http://www.mag2.com/

・・・おわり

追記・・・

「奇跡のリンゴ」嘘と本当
木村秋則氏に抱く疑問

「UFOに乗って宇宙人に遭った」
「龍を見た」
「世界の終わりカレンダーをソクラテス似の
老人に見せてもらった」とか平気で言っちゃう人

「無農薬栽培は嘘か本当か」
無農薬・無肥料栽培への私見
「奇跡のリンゴ」という幻想 



信じれば真実、疑えば妄想・・・



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 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







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