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2017年7月 4日 (火)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・

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知的障害者に「働く幸せ」を提供する会社
約80人の従業員の中で、知的障害者が社員の7割を
占める会社がある。
粉の出ないダストレス・チョークで3割のシェアを持つ
「日本理化学工業」である。

知的障害者を採用し始めたのは、もう50年以上も前の
昭和34(1959)年のことだ。
当時、社長だった大山泰弘さんが、近くの養護学校から、
卒業予定の2名に、採用はできなくとも、
せめて働く体験だけでもさせてくれないか、と
頼み込まれて、引き受けたのが始まりだった。

二人の少女が1週間だけ作業体験をしたのだが、
その仕事に打ち込む真剣さ、幸せそうな顔に
周囲の人々は心を打たれた。

約束の1週間が終わる前日、十数人の社員全員が
大山さんを取り囲んで、「みんなでカバーしますから、
あの子たちを正規の社員として採用してください」と
訴えた。

それから知的障害者を少しずつ採用するように
なったのだが、大山さんに分からなかったのは、
会社で働くより施設でのんびりしている方が楽なのに、
なぜ彼らはこんなに一生懸命働きたがるのだろうか、
ということだった。

これに答えてくれたのが、ある禅寺のお坊さんだった。
曰く、幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」。
この幸せとは、施設では決して得られず、
働くことによってのみ得られるものだと。

大山さんは目から鱗が落ちる思いがした。
それなら、そういう場を提供することこそ、
会社にできることなのではないか。企業の
存在価値であり社会的使命なのではないか。

これ以来、50年以上、日本理化学工業は積極的に
障害者を雇用し続けてきた。

「障害者中心の企業」としてやっていくとことを決意

「徹底的に障害者雇用にこだわる」 しかし、
この50年間の歩みは平坦なものではなかった。
「私たちが面倒をみますよ」と言ってくれた
社員ばかりのうちは良かったが、
やがて後から入ってきた人たちは不満が募った。

「自分たちの方が仕事をしているのに、なぜ給料が
変わらないのか」と訴えるようになった。
また社員旅行や忘年会をしても、健常者の社員は、
障害者の世話をしなければならないと思うと、
存分に楽しむことができない。

障害者の方も普段と違うリズムの時間を
過ごさなければならない。
大山社長は、健常者と障害者のどちらに軸足を
おいた経営をするのか、はっきりさせなければ
ならない、と思った。

障害者中心にいきたい、と腹は決まっていた。
しかし、当時の経営状態は決して良くはなかった。
障害者雇用に反対する株主もいた。
障害者を「お手伝い」ではなく、主力にして、
本当に品質・生産量を維持できるのだろうか。
一生懸命働いてくれている障害者の姿を見ながら、
大山社長は迷った。

その迷いを振り切って、「徹底的に障害者雇用に
こだわる」という結論に辿り着くのには、
時間がかかった。
しかし、この時に徹底して自分を問い詰めたことが、
現在に至るまでに障害者雇用をぶれることなく
続けてこられた「礎(いしずえ)」になった。

「世界のモデルとなるような知的障害者の工場を
作ってやろう」 その後、大山さんはアメリカを視察して、
この世界一の先進国でも、身体障害者をたくさん
雇っている企業はあっても、知的障害者を雇用する
民間企業は見あたらないことを知った。

大山さんは発憤した。
よし、日本で、世界のモデルとなるような知的障害者の
工場を作ってやろう。それも、純然たる民間企業として
成立させてやるんだ。

帰国してから、大山さんは知的障害者だけで稼働する
生産ラインを作ることに没頭した。
しかし、いくつもの壁が立ちはだかった。
ダストレス・チョークづくりには、知的障害者には
難しい工程がいくつもあったからだ。

たとえば材料の配合では、それぞれの色のチョークに
使用する材料の種類を間違えずに、重量をきっちり
量らなければならない。これが知的障害者には難しい。

ある材料を100g混入しなければならない時には、
秤の片側に100gのおもりを置き、それに釣り合うように
材料を乗せる。しかし知的障害者は数字が苦手なので、
そもそも「100g」ということを理解できない。
どうすればよいのだろう。

毎日毎日、考え続けた。そして、ふと思いついたのが
交通信号だった。
知的障害者たちは、駅の改札を出てから会社の
門をくぐるまで、一人で歩いてくる。
その途中にはいくつかの信号がある。

「そうか!」とひらめいた。
彼らは文字や数字は理解できなくとも、色の識別は
できるのだ。材料の配合を数字で教えようとするから、
難しくなる。色だけで識別すればよい。

赤い容器に入っている材料は、赤いおもりをのせて量る。
そう準備して、知的障害者にやらせてみたら、
ちゃんと量ることができた。

今までは、健常者向けのやり方を障害者に
押しつけようとしていたのだ。
彼らができなかったのではなく、自分たちの工夫が
足りなかっただけなのだ。

これをヒントに、大山さんは全工程を子細に観察して、
知的作業者のやれる方法に変えていった。

大手メーカーと変わらぬ生産性を実現

健常者に負けない生産性を しかし、世の中には
心ない声を投げかける輩がいる。
知的障害者中心にやっていけるのは、
「(障害者でもできる)チョークだから」という。
大山さんは悔しく思って、チョーク以外でも
作れることを証明してやろうと思った。

そこで東京青年会議所での活動を通じて
親しくしていた音響メーカー・パイオニアの松本誠也さん
(3代目会長)に「なにか仕事を発注してくれませんか」と
お願いした。 松本さんは「そういうことなら」と快く、
ビデオカセットの組み立ての仕事を回してくれた。

カセットの中に5つの部品を組み付ける仕事である。
同じ仕事を、別の大手メーカーにも発注しているが、
そこでは一人1日約1,000個組み立てるという。

大山さんはこれを目標にとりかかった。
最初は、その大手メーカーと同じように、
ベルトコンベアで運ばれてくるカセットに、
一人で5つの部品をすべて組み付けるように
したところ、せいぜい1日200個から
300個しかできない。

そこで5人が並んで、各人が部品を一種類ずつ
組み付けるようにした。
すると5人で1日5,000個を組み立てることができた。
一人当たりにすれば1,000個と、大手メーカーの
健常者と変わらない生産性である。
しかも、不良率はこちらの方が勝っていた。

工程を単純化したことで、知的障害者たちは
目の前の作業に集中できるようになり、
その結果、自分の持てる能力を最大限に発揮して、
健常者以上の仕事ができるようになったのである。

企業こそ「働く喜び」を与えられる こうした試行錯誤を
繰り返しながら、知的障害者を主力として会社を
経営していけるという確信を持つにいたった。

知的障害者を初めて雇用してから15年たっていた。
知的障害者が健常者並みに働いて、その喜びを
味わって貰う工程改革ができたのは、
企業なればこそだと、大山さんは考えている。

企業は市場競争に勝って、利益を生み出さなければ
生き残っていけない。障害者だから生産性は
低くとも良い、ということでは、企業は成り立たない。

だからこそ、知的障害者でも健常者並みの品質、
生産性を発揮できる工程を必死で考えなければ
ならなかった。

福祉の世界ではこうはいかない。税金を貰って、
それで知的障害者の面倒をみている限りは、
彼らに健常者並みの仕事をしてもらわねば、
という切羽詰まった危機感は生まれない。

そこでの知的障害者はあくまで保護を受ける側だが、
企業ならば働くことを通して、社会に役立ち、
その対価として給料を受け取る存在となれる。
知的障害者達に、このような「働く喜び」を
与えられるのは、福祉でなく企業であると、
大山さんは考える。

「ぜひ、サポートしたい」 障害者を主力とする
「工程改革」に目処がついた頃、願ってもない
チャンスが訪れた。

昭和48(1973)年、労働省が障害者多数雇用モデル
工場の融資制度を作り、日本理化学工業も
対象に入ったのである。

工場のあった大田区では宅地開発が急速に進んで、
周囲は住宅に取り囲まれ、騒音の問題もあって、
いずれは移転しなければならない状況にあった。
この融資制度を使って、新工場に
移転しようと考えたのである。

そのためには、まず移転先の土地を見つけ
なければならない。地元の東京都に相談すると、
「大田区に福祉工場をつくる計画を進めているから、
支援するつもりはない」とにべもなく断られた。

気を取り直して、川を隔てた川崎市に相談すると、
思いもかけず暖かく迎えてくれた。
伊藤三郎市長(当時)が直々に、こう声をかけてくれた。

大山さん、川崎市は障害者施設の延長上に
雇用施設をつくるのではなく、みなさんのような
企業に障害者を雇用していただくのが一番よいと
考えています。ぜひ、サポートしたい。
土地はなんとしても探しますよ。

そして、市内の約4,000平米の土地を安く貸して
くれることになった。 「大山さん、ぜひやってください」
もう一つ乗り越えなければならない山があった。

労働省から融資を受けるには、金融機関の保証を
得ることが条件となっていた。
長年つきあっていた地元の信用金庫に相談すると、
当時はまさに第一次オイルショックの真っ直中、
支店長は渋い顔で「この不景気なときに、
そんなにお金を借りたら、返せなくなることは
目に見えています」とけんもほろろの応対だった。

万事休すかと気落ちしていたところに、
得意先開拓をしていた三菱銀行(編集部注:当時)の
営業マンが飛び込んできた。

大山さんは、障害者雇用への思いを述べ、
現場で一心に働く彼らの姿を見てもらった。

営業マンは、大山さんの話をじっと聞いて、
「わかりました。早急に検討します」と帰っていった。
しかし、長年のつきあいがある信用金庫にも
断られた小企業を、天下の三菱銀行が
相手にしてくれるとも思えなかった。

数日後、「支店長から了解が出ました。
大山さん、ぜひやってください」という連絡を
受けたときに、大山さんは「本当ですか?」と
思わず大声を出した。

後で聞いたところでは、支店長はしぶったが、
担当者が粘ってくれたという。
大山さんの障害者雇用の思いに心を
打たれたのだろう。

徳のある人間は、決して孤立しない

「徳は孤ならず」 大山さんの知的障害者雇用への
挑戦には次々と難関にぶち当たったが、
その都度、大山さんの思いに共感して、
助けてくれる人々が現れた。

ホワイトボードの普及によって、オフィスでの
チョーク需要が激減したことで、日本理化学工業は
危機に陥った。それを乗り越えるべく、大山さんは
ホワイト・ボードにも書ける、まったく粉のでない
チョークの開発にとりかかった。

しかし、開発部門は一人のみ。毎日知恵を絞っても、
なかなかうまくいかない。
そんな時に、川崎市は「産学連携の助成金制度が
あるので、それを利用して商品開発をしてはどうか」と
勧めてくれた。

共同開発の相手としては、早稲田大学が
「障害者をたくさん雇用している会社ならば、
ぜひ協力したい」と名乗りをあげてくれた。

専門家の協力を得られ、平成17(2005)年、
まったく粉が出ず、ホワイトボードにも書ける
新商品「キット・パス」を完成。

ビニールやガラス、鏡などにもチョークの書き味で書け、
水拭きで簡単に消せる。 学
校はもちろん、企業や病院、工場現場でも
利用が広がっていった。

このキット・パスで、子供たちが窓ガラスなどにも
落書きができ、情操教育にも有効であることが分かった。
しかも知的障害児も3歳までに「感じる心」を
目覚めさせるような経験をさせると、
障害の程度が改善される可能性があるとのことだ。

知的障害者が働ける喜びを味わえる企業作りを
追求してきた過程で、再び知的障害の治療に役立つ
新製品に辿り着いたことに、大山さんは
不思議な「縁」を感じた。

「徳は孤ならず」という。知的障害者たちが
「働ける喜び」を味わえる職場を作りたいという
大山さんの志に共鳴して、様々な人々が
力を貸してくれた。

我が国には、こういう人々があちこちに、
たくさんいることを、ありがたく、誇りに思う。



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こうして、こうすりゃ、こうなるものと、 知りつつ、
  こうして、こうなった

Photo


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







P R :

Bu

隙間産業(ニッチ市場)

http://campbll-net.com/ofurosabu.html

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