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2017年7月 6日 (木)

妄想劇場・歌物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・

ロカビリー出身の歌手・水原弘の「黒い花びら」という
曲が 大ヒットしたのは、昭和34年(1959年)でした。

当時の彼はクラブ、キャバレーを中心に全国を
まわっていましたが、6月23日に巡業先の
山口県下関のクラブで仕事をした後、
北九州市小倉北区のホテル・ニュー田川に
宿泊しました。

24日の未明に吐血し、意識不明となって救急車で
病院に運ばれましたが、約10日後に
帰らぬ人となったのです。
水原弘は、1978年7月5日、北九州市戸畑区の
健和総合病院で死去しました。


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その当時、ラジオから流れてきた『黒い花びら』を
耳にしたとき、これはいったい誰の歌なのだろうと訝った。
歌唱力、声質、曲想、歌詞のすべてが、新人の歌う
曲のものとは思われず、かと言って既存の歌手の
声ではなかった。

三連符をかさねたロッかバラードの曲、冒頭に鳴りひびく
松本英彦のサックス、そして次に歌いだされるしわがれて
ドスのきいてしかも甘い低音・・・・・
その感触は、あきらかにこれまでの日本の歌謡曲に
ないものだった」

若き日の永六輔が作詞した歌詞を水原弘が
歌っていくうちに、歌謡曲やロックン・ロールとは違った
世界が展開されました。
その歌声にはクラッシックの歌唱法のような、
ケレン味のないオーソドックスなテイストが表れたのです。

「黒い花びら」の作曲は、中村八大が手掛けます。
永六輔と中村八大がコンビを組んだのでした。
ただし、坂本九が歌った「上を向いて歩こう」よりも、
「黒い花びら」のほうが先に作られました。





新興の東芝レコードから発売されるや、「黒い花びら」は
30万枚の大ヒット。
そして、第1回レコード大賞をも受賞してしまうのです。
「レコード大賞を受賞したことで、『黒い花びら』の
売れ行きにはさらに拍車がかかった。

「黒い花びら」によって、水原弘は“スター”の
仲間入りを 果たしますが、当時は、若いスターが
大量に世に出た時代でした。 そして、その中でも
ダントツの存在として 石原裕次郎がいました。

「あの頃、若い人気者が輩出していたといっても、
石原裕次郎はやはり破格の存在だった。
小林旭、赤木圭一郎、川口浩、川津祐介などが
各社の新人として押し出されたが、“裕ちゃん”との
あいだには距離があった。

東映の中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵は
どちらかといえば少年少女向けのスターだった。
三船敏郎や鶴田浩二のように大人びたスターは
いたものの、若者の救世主的スーパースターは、
やはり“裕ちゃん”をおいて存在しなかった」

水原弘は昭和10年(1935年)生まれですから、
昭和9年(1934年)生まれの石原裕次郎のひとつ
年下でした。
年齢は1歳差でも、石原裕次郎は3年も前に
デビューしていました。
当然、水原弘は“裕ちゃん”の影響を強く
受けることになります。

「髪型、両手をポケットに突っ込むかたち、歩き方、
斜め上を見上げる目配り・・・・・当時よくあった
“裕ちゃん”のコピーと水原弘の風貌はかさなっている。

その“裕ちゃん”は、昭和32年『嵐を呼ぶ男』で
日活ドル箱スターの地位を不動にしていたが、
追いかけるようにして水原弘の『黒い花びら』が
爆発的ブームを呼んだ」

後に水原弘も映画に出演するようになります。

「当時、映画スターはスターの中のスターだった。
石原裕次郎は、そこに存在する並み居るスター連を
顔色なからしめ、一気にスーパースターの座に
駆けのぼった、破格中の破格と言ってよい存在だ。

歌舞伎から映画スターを目指して転出した中村錦之助や
大川橋蔵や市川雷蔵、
歌手から映画へと幅を広げた美空ひばり、江利チエミ、
雪村いづみ、
落語を捨てて映画入りした桂小金治・・・

映画スターという特別な立場を、誰もがスターの頂点と
見ている時代だった。

そんな中で飛び抜けてカッコよく、世代も同じ
石原裕次郎の坐る位置が、『黒い花びら』によって
衝撃的なデビューを果した水原弘の次なる
ターゲットとなったことは、十分に考えられるのだ」

「黒い花びら」の大ヒットによって一躍スターの
仲間入りをした水原弘でしたが、続くヒット曲に恵まれず、
彼はエア・ポケットに入り込み、酒に溺れていきます。

週刊誌の「微笑」昭和53年7月29日号には、
次のように書かれています。

「23才のとき、第1回レコード大賞をとった。
“黒い花びら”で芸能界に華々しくデビュー。
遊び続けた。歌と酒の人々。
その遊びは“役者の勝か、歌の水原か”と、
喧伝されるほど徹底したものだった。

見も知らぬ男たちをひき連れて銀座のクラブからクラブへと
渡り歩く。飲む酒はレミー・マルタン。一晩で1本は
確実にあけた。

関西に行けば、京都・祇園の料亭にいつづける。
すべて自分の金。昭和34年当時で、一晩に300万円も
飲んだことさえあった。

人気が続いている間は、それでよかった。しかし、
芸能界の常、やがて人気は低迷する。これまで彼を
ちやほやしていた人も、1人2人と彼の側から離れていく。
さびしかった。人間の底にある“イヤシサ”に、
彼は絶望した。・・・

その絶望、怒りをまぎらすために、彼はまた酒を浴びた」
全盛期の豪遊ぶりはすさまじく、レミー・マルタンの
水割りを作ってくれた付き人やボーイに「サンキュー」と
言いながら1万円のチップをはずんだり、時には
数百万円もする腕時計を気前よく与えたそうです。

その彼に重大な影響を与えた先輩がいます。
勝新太郎です。
デビューして間もない頃、映画で一緒になったよしみで
2人は毎晩のように飲み歩きました。

勝新太郎は「これまで俺と五分につきあったやつは、
おミズだけだよ」と語ったそうです。
“家元”の勝からこんなお墨付きをもらった水原弘は、
さしずめ“名取り”といったところでした。これが、
「おミズ」こと水原弘の遊びの原型、芸人の哲学を
作り上げていったのです。

勝新太郎も、また生活無頼の典型のような人でした。

想像を絶する放蕩の日々のため、水原弘は多額の
借金を抱えてしましました。
本業の歌のほうはヒット曲に恵まれず、
鳴かず飛ばずでした。

そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、芸能事務所を
経営する長良じゅん氏でした。
長良氏は、勝新太郎や石原裕次郎とも親しい関係に
ありました。長良氏いわく、「勝さんと裕次郎は
“兄弟”関係でね、

まあ、勝さんが年長であんちゃんだけど。裕次郎は
人のいるときは“きょうだい”って言えない。『きょうらい』って
・・その微妙なセンスがね。
裕次郎は水原のことを“おミズ”って呼んで、
水原は裕次郎を“チャンユー”と。

勝さんは、『裕次郎は歩いてても何してもスターだけど、
オレは芝居をしなかったらスターじゃねえ、
これは大きい』と言ってたけど。
匂いで生きて、匂いで分ってる人たちだから
・・ひばりちゃんも含めてね」

いま、勝新太郎、石原裕次郎、水原弘、美空ひばりと
いったタイプのスターは芸能界にはいません。
いずれも、浴びるほどの酒を飲んだために長生きは
できませんでしたが、彼らは間違いなくスターでした。

「借金の解決、カムバックのための資金繰りと同時に、
長良氏は勝新太郎に計画を打ち明けた。
日頃から長良じゅんに『水原は俺に会わなかったら、
あんなふうになんなかったな。
俺はすごい責任感じてるんだよ』と言っていた

勝新太郎は、弟分の水原弘のカムバックの助けに
なるのなら、何でも協力すると約束してくれた。

そして、勝新太郎と組んでの、川内康範口説き落とし
作戦が始まる。つまり、水原弘のカムバック曲の詞を
川内康範につくってもらおうというプランだ」

川内康範といえば、「月光仮面」をはじめ、多くの名曲を
作詞した御大です。
最近では、亡くなる直前に「おふくろさん」の
歌唱許可をめぐって森進一とトラブルになったことが
記憶に新しいです。

あの「おふくろさん」の騒動以来、わたしは川内康範の
ことを「気難しいおじいちゃん」ぐらいに思っていたのですが、
実際は非常に真面目で誠実な人だったようです。

その川内康範が水原弘のカムバック曲として書いた
作品こそ、「君こそわが命」でした。この歌は、
原爆の被爆者を取り上げた小説に基づくものです。
川内康範は、雑誌「明星」に「君こそわが命」という
小説を連載していたのです。




これは原爆の犠牲者に捧げる精神に裏打ちされた作品で、
主人公は小夜子という名の女性でした。
その小夜子が死ぬ寸前に、初めて自分の裸身を
恋人である男性に見せるのです。

彼女は原爆の被爆者で、背中にはケロイドがありました。
この小説の主人公を男にしてつくったのが
「君こそわが命」の歌詞だったのです。

「川内氏は、『君こそわが命』を書くにあたって、
被爆者たちに会い、『頑張ってください』と励ましても、
その言葉の虚しさをかみしめるのみ、慰問に行っている
自分自身に苛立ち、個人の限界を痛感したという。

広島や長崎の病院のベッドにいた人たちの顔を
思い浮かべ、こみ上げる思いに耐えかねて、いっとき
嗚咽というより慟哭し、言葉をつまらせていた」・・・

そんな作詞家の思いが込められた歌を、水原弘は
全身全霊で歌いました。
レコーディングには、じつに12時間を要したといいます。
わずか3分37秒の歌に、半日を費やしたのでした。

そして、水原弘の新しい出発の曲となった
「君こそわが命」は80万枚を超す大ヒットとなりました。
酒や博打三昧の生活と、それに伴う借金・病気からの
「奇跡のカムバック」が実現したのです。

結果的に、水原弘は昭和42年(1967年)
レコード大賞で歌唱賞を受賞しました。
ところが、そんな奇跡のカムバックも束の間、
水原弘は再び放蕩三昧の生活に戻ってしまい、
以前よりも多額の借金を背負ってしまいます。

そのために、全国のクラブやキャバレーを
巡業し続けなければならなくなりました。

「水原弘は、借金に追いまくられながら、その結果として、
睡眠2、3時間というハードなスケジュールを
こなさなければならなかった。

そして、強行日程で歌いつづけるその場その場が、
彼のオアシスとなっていた。そんな皮肉な因果関係が、
水原弘の時間を辿り直してみると、うっすらと
浮かんでくるのである。

『おミズは、飲んでいても人のことばかり気にしていた。
真から楽しむ酒ではなかった』
勝新太郎は、水原弘の死後にその死を惜しみながら、
そう言っていたという。

それは、自分の羽振りの波紋の広がりを、じっと
探りながら飲んでいた勝新太郎だからこそ気づく
ことなのだろう。つまり、二人は同じ病いなのである」

Author : 一条真也オフィシャル・サイト
 作家・経営者・平成心学塾塾長
http://www.ichijyo-shinya.com/home/ 


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P R :

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