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2017年8月

2017年8月31日 (木)

妄想劇場・一考編(ニュースの深層)

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・

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最愛のブスが隣にいた、
かけがえのない日々・・誰もが“あの頃”を思い出す!
…オトナ泣きの異色ラブストーリー!

昔の恋人や、かつて好きだった人とSNS上で
偶然再会し、公開されている範囲の投稿を
こっそり覗いたことがある、という人は少なくないだろう。

色々あって今更親交を再開することなどできそうも
ないから、多くの人は少しの間感傷に浸っただけで、
すぐにその懐かしい人のことは忘れて日常に戻っていく。
でも、もし誤って友達申請の送信ボタンを
押してしまったら……?

人生の中で一人だけいた、
「自分よりも好きになってしまった人」に誤って
友達申請を送ってしまったことから、
長く止まっていた時間が再び動き出す……。

『ボクたちはみんな大人になれなかった』
(燃え殻/新潮社)は、そんなエピソードから始まる。
WEB媒体「Cakes」で2016年2月から2016年8月まで
連載された小説に、大幅に加筆修正をして
書籍化された。

物語は、過去と未来が交錯する形で綴られる。
アートディレクターとして一定の地位を手に入れた
43歳の主人公が、17年前に別れた彼女との思い出や
当時の自分を思い返し、記憶を今へと集約させていく。
蓋をされていた記憶が刺激され、エピソードに過去の
自分を思い出し、重ね合わせる。

主人公は、忘れられない元カノを作中で「最愛のブス」と
呼んでいる。その呼称通り、彼女はけして美人ではない。
中肉中背、三白眼でアトピーもある。

でも主人公が何者にもなれず、どうしようもなく
もがいていた時期に、「キミは大丈夫だよ、
おもしろいもん」と言うのが彼女の決まり文句だった。

これが、「自分にも、全然かっこよくも可愛くもないのに
大好きだった人がいたな」と読者の記憶を
刺激するのだ。

恋愛小説であると同時に、青春小説でもある。
いじめられていた子供時代、エクレア工場での
単純作業から延々と抜け出せないと思っていた
20代前半、なんとか転職した会社で過重労働を
強いられていた頃……。

それぞれの時期に出会った人との交流から生まれる
せつなさと優しさに魅了され、気が付いたら
物語に入り込んでいる。

作中には宇多田ヒカルや小沢健二、ノストラダムスなど、
90年代を生きてきた人に刺さる名詞も満載。
多くの人が物語のどこかに自分を見つけ、まるで
その時その場所にいたような感覚を覚える。

主人公と最愛のブスは、リップクリームを買いに行った
デートで、彼女の「今度、CD持ってくるね」という言葉を
最後に、二度と会えなくなった。

主人公は物語の終盤、なぜそれが最後だったのか
確かめようとするのだが・・・。

恋愛に限らず、「さよなら」を言わないままで二度と
会わなくなった人が、確かに過去に何人もいたような
気がする。

過去の一時、確かに自分を支えてくれていた大切な人。
そんな通り過ぎた人の顔を思い出してせつなくなった。
ずっとこの世界に浸っていたい、と読みながら願うような、
大人の胸に刺さる小説だ。・・・




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娘を亡くした母を慰める為、20年間、女性の服を着て
(娘の代わりになって)母親の世話をしている息子が
中国で話題沸騰!
現在、イギリスの報道番組「BBC」や、1855年に
創刊されたイギリスの新聞「The Telegraph」など、
大手メディアもこぞって伝えている。

このほどその親子の動画が中国の人気SNS
「微博(ウェイボー/weibo)」に投稿されると、
420万回以上の再生となり多くの反響を呼んだ。

チャイナドレスを纏い、母親と2人で生活を
おくっているのは、2000年以上の歴史を持つ
文化都市・桂林市在住の50代の男性
(名前は明かされていません)。

彼が女装を始めたのは20年前。男性の姉(妹)が
突然他界したことがきっかけだったそうで、娘の死を
受け入れることが出来ず、精神疾患に陥った母親を
「なんとか励ましたい!」という想いから藁にもすがる
心境で女装を始めたのだとか ・・・

「私の家族は母親だけ。
母が幸せなら誰にどう思われようと構わないよ」
そう語る男性。

母親は女装した息子を見て 「娘が帰ってきた!」 と
大喜び。精神疾患は日に日に良くなっていったそうです。

息子を誇らしげに紹介する母親。
また、インタビューには 「この子は私の娘なの。
もう一人の娘が亡くなって、息子が娘になってくれたのよ!」
とも話していました。

とっても嬉しそうな母親。その表情が全てを
物語っています。
「男の姿を見たら、また精神疾患に陥るかもしれない」
そんな想いから、今では男物の服はゼロ。
一着も所有していないという男性。
髪も女性らしく見せる為に毎日手入れしているそうです。

フルートの演奏で収入を得ているという男性。
生活はとても貧しいそうですが、大好きな母親と
一緒にいれることが一番の幸せだと語る男性。
本当に素晴らしい息子さんですね。

三輪バイクで外出。もちろん母親も一緒。
息子(娘)を見つめる母の表情。心が穏やかである事は
一目瞭然です。

仲の良い母娘(息子)の様子が伝わる動画はこちら。





歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…




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隙間産業(ニッチ市場)


2017年8月30日 (水)

妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある


されど愛しきお妻様【10-11】


「脳が壊れた夫妻」の命の恩人は、意外な人物だった
ルンバ購入から始めた、「脳が壊れた夫婦」の
家庭再生

小銭が数えられない

発達障害妻&高次脳夫。脳梗塞によって期せずして
お妻様の生きてきた世界の「当事者感覚」を得ることが
出来た僕だったけれど、そこから我が家と夫婦関係を
抜本的に改革していく道筋には、いくつもの発見や
気付きと考察が必要だった。

まず脳梗塞で緊急入院してから、高次脳機能障害を
負った自分の認識が発達障害やその他の精神疾患の
当事者認識に酷似していると気付いた端緒は、
「レジ前のパニック」だった。

緊急入院から10日ほど後のことだ。幸いにも歩行の
機能は失わなかった僕は、入院病棟の購買で
コーヒーとフリスクでも買おうとしたのだと思う。

とにかく頭がぼんやりして世界と自分の間に分厚い
膜のようなものがある違和感に包まれていた僕は、
刺激物を欲していた。

ゆがむ視界に戸惑いながらもなんとか目当ての
商品を手に取り、レジに並んで、前の人の会計が
終わって、次は僕の番。といったところで、僕は
パニックを起こしてしまったのだった。

僕がレジ前でやるべきことは、簡単だったはずだ。
まず商品をレジのおばちゃんに渡し、支払額を聞いて、
それに合った小銭をポケットから出す。

会計をすませ、お釣りがあるならそれを貰って
ポケットに入れて、商品を受け取って購買を出る。
それだけのことなのに、僕はレジ前で固まって
しまったのだ。

商品は右手に持っていた。お金は右ポケットだ。
ならばまずは僕は右手の商品をレジ前に
おくべきなのに、なぜか僕はそれができずに
「左手で右のポケットからお金を出そうと」してしまった。

身体をひねって変な恰好し、左手には結構麻痺が
残っていたからお金は出せないし、
そもそも僕の左手は右ポケットに届くほど
長くはない。

どうしよう。僕は短い左手を必死に伸ばして、
右ポケットの入り口付近を必死に探る。
けど、指は届かない。

店員さんはじっと僕の動きを待っている。
「早くしなさいよ」。そんなことはひと言も言われて
いないのに、言われている気がした。

後ろに他のお客さんがまた並んだ。どうしよう。
焦りの感情が心の中で膨れ上がり、息苦しい。

なんとか知恵をひねり出すようにして商品を
レジ台におき、右手でポケットの中から金を出した。
ところが今度は、小銭を数えようとしているのに、
それが出来なかった。

あれ、いくらって言われたっけ? 
目の前のレジに電光表示される金額は、
僕の商品の金額なのだろうか? 
分からなくて、麻痺で呂律の回らぬ口調で
店員さんに聞く。

「……い……いくら……ですか?」
「392円です」

普通の返答だろうに、その言葉は異常に
聞き取りづらい早口に感じる。
意地悪なおばさんだ。
もっとゆっくりわかりやすく言ってくれれば
いいのに。

言われた値段をすかさず電光表示の金額
と比較すると、同じだ。電光表示も392円。

じゃあ支払おう。ポケットから出した右手の小銭を、
数えようとする。100円を1枚、2枚、あれ? 
会計はいくらだっけ?

電光表示を再度確認。392円。
確認して目を離し、再び右手をの小銭に眼をやって、
100円を1枚、2枚、3枚……あれ? 
会計はいくらだっけ?

電光表示から眼を離すと、小銭数えてる間に
金額が分かんなくなる。
300円まではなんとかレジ台に出して、
今度は10円玉を1枚、2枚、3枚、4枚、5枚……
あれ、今何枚まで数えたっけ? 
いや、そもそもお会計はいくらだったっけ?

経験したことのない頭の混乱に、思考が停止した。
何でこんなことができないんだろう。
ああ、店員さんも他のお客さんも待っている。
焦りの感情が溢れて額と背中に汗がどっと出る。

必死になってもう1回小銭を数えようとすると、
後ろに見舞客の子どもの叫び声が聞こえて、
また何枚まで数えたのか、支払総額がいくらなのか
わからなくなる。

このまま「やっぱ要りません」と言って病室に
逃げ戻りたい。もしくは叫びながら暴れまわりたい。
どうしようどうしようどうしよう。
にゃあああああああああ!!(心の叫び)

なんとか「1000円札で払う」という超必殺技で
クリアした僕は、挫折感と情けなさと絶望感と
、妙な「既視感」を抱えながら、ポケットを
小銭で膨らませて病室に戻った。

そして、見舞いに来てくれたお妻様に呂律の
回らぬ口で、こう報告したのだった。
「お妻様、さっきレジでね。超意味分からんくなった。
俺、小銭数えらんない。ヤバい」

「札で出せたんならいいじゃん。あたしも焦ると
よくやるよ?」
そうか、だから貴様に財布を渡すとやたらめったら
小銭で分厚くなって返ってくるのか。

「まあそうなんだけど。でも俺、これ知ってるんだよ。
俺が取材してきた人たちって、結構ウツとか
パニックとかのメンヘラさん多かったでしょ。
発達障害の人多かったでしょ。

レジでパニック起こして俺の前で泣き出しちゃった
人とかいたし、コンビニで店員さん怒鳴りつけたり
する人いた。小銭が数えられなくなった自分に
絶望したって話、何度も聞いたよ?」(興奮気味)

「大ちゃん、ゆっくり」
「ゆっくりしてたらレジの人待たせちゃうじゃん」
「じゃなくて、ゆっくり話せ」

情緒の抑制が利かず、呂律回らないくせに
早口で噛み噛みにどもりながら話す僕を制御すると、
お妻様は言ったのだった。
「ようやくあたし(ら)の気持ちがわかったか」

ノー目覚ましノー文句

我が家の家事は、お妻様が本音ではあんまり
必要ないと考えているもの。その家事を僕が
一方的に必要だと主張しているのならば、
それは僕が「お願いして、お手伝いしていただく。
やっていただく」という立場にある。

もちろんこの考えが、すんなり僕の中に
浸透したわけではなかった。
「家事はやって当たり前」という僕に染み付いた
価値観が払拭できない内は、どうにも理不尽さを
伴って感じられていたと思う。

脳梗塞後、身体のマヒは軽度だった僕は50日ほどで
退院することになったが、家庭に復帰するにあたって
くだんの言語聴覚士からは、もう一つアドバイスを
もらった。

「夫婦でお互いに一つだけ譲れないことを主張し、
交換する」
さあ、なんだろう。よくよく考えて、僕から先に口にした。

「僕が一番譲れないことは、朝に茶の間の床と
机の上に何もない状態にしておいてほしいってこと。
せっかく買ったルンバがスイッチ入れただけで
掃除が始められるようにしてほしい」

そう、それはお妻様が僕の家に家出してきてから
17年間にわたって続いた、朝起きたら床に落ちている
お妻様のものを拾って回るというストレスフルな
日課にはもう耐えられません、という主張だった。

対するお妻様は、
「だったらあたしは、寝る時間と起きる時間について
何も指摘しないでほしい。ノー目覚ましノー文句」

わー、そこ突いてきましたか。
「それは、そこまで大事なことなの?」という疑問符が
お互いの頭の上に表示されたような気もするが、
それまでの長い夫婦生活を考えれば、お妻様が
寝る前に茶の間を片づけることも、
お妻様の宵っ張りに僕が小言を言わないのも、
相当にハードルの高いこと。
決して不平等条約ではない。

もちろん心の奥底には「そうはいっても午前中に
起きてくれなければ結局洗濯は俺がやることに……」
みたいなわだかまりの根っこはしつこく残ったが、
そんな不平は、入院から退院を経て日々膨れ上がる
お妻様への感謝の気持ちによって、
封じ込められていった。

何しろ脳梗塞によって高次脳機能障害になった僕は、
自力でできないことが圧倒的に増えてしまった。
情緒の抑制が効かず、ことあるごとに気持ちが
いっぱいいっぱいになって子どもみたいに
号泣したり、パニックを起こして息も絶え絶えの
悶絶状態になってしまう。

そんな僕をお妻様は無条件に支えてくれるのだった。
僕自身、自分でも何がどうして辛いのか理解も出来ず
言葉にもできない状態なのに、お妻様は大前提として
「辛いのだ」ということを認めたうえで、ただただ黙って
僕の手を取ってさすり、背中を撫でてくれるのだ。

不思議なことに、なにをしても楽にならない
原因不明のパニックや不安の波は、こうして
「辛いよね、辛いよね」と背中を撫でてもらうことで、
ずいぶんと楽になった。

お妻様によれば、自らがメンタルを病んでパニックを
抱えていた時に「そうして欲しかった」
「そうしてもらったら楽になった」と言うが、
メンヘラでリストカッターだったかつてのお妻様に、
率先してそんなことをしてあげた記憶はない。

有難さに涙しながら、かつての僕自身の
不甲斐なさを呪った。

お妻様が同じような苦しさを抱えて、本当なら
そばにいて背中を撫でてほしかっただけの時期に、
僕はそうしてやらず、小言や叱責を投げかけて
きたのではなかったか。

そんな僕に対して、なぜお妻様はこうも淡々と
支えてくれるのだろう。ただただ、ありがたい。
・・・
・・

次回に続く


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…


新宿情話







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隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月29日 (火)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。・・・

しかし、事態は、実に思いがけなく、もっと悪く展開
せられました。
「やめた!」  と堀木は、口をゆがめて言い、
「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には、……」  
閉口し切ったように、腕組みしてツネ子をじろじろ眺め、
苦笑するのでした。

「お酒を。お金は無い」  
自分は、小声でツネ子に言いました。それこそ、
浴びるほど飲んでみたい気持でした。
所謂俗物の眼から見ると、ツネ子は酔漢のキスにも
価いしない、ただ、みすぼらしい、貧乏くさい
女だったのでした。

案外とも、意外とも、自分には霹靂へきれきに
撃ちくだかれた思いでした。
自分は、これまで例の無かったほど、いくらでも、
いくらでも、お酒を飲み、ぐらぐら酔って、
ツネ子と顔を見合せ、哀かなしく微笑ほほえみ合い、

いかにもそう言われてみると、こいつはへんに
疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、
金の無い者どうしの親和(貧富の不和は、
陳腐のようでも、やはりドラマの永遠のテーマの
一つだと自分は今では思っていますが)

そいつが、その親和感が、胸に込み上げて来て、
ツネ子がいとしく、生れてこの時はじめて、
われから積極的に、微弱ながら恋の心の動くのを
自覚しました。

吐きました。前後不覚になりました。
お酒を飲んで、こんなに我を失うほど酔ったのも、
その時がはじめてでした。  
眼が覚めたら、枕もとにツネ子が坐っていました。

本所の大工さんの二階の部屋に寝ていたのでした。
「金の切れめが縁の切れめ、なんておっしゃって、
冗談かと思うていたら、本気か。
来てくれないのだもの。ややこしい切れめやな。
うちが、かせいであげても、だめか」 「だめ」

それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から
「死」という言葉がはじめて出て、女も人間としての
営みに疲れ切っていたようでしたし、

また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、
金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上
こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に
気軽に同意しました。

けれども、その時にはまだ、実感としての
「死のう」という覚悟は、出来ていなかったのです。
どこかに「遊び」がひそんでいました。

その日の午前、二人は浅草の六区をさまよって
いました。
喫茶店にはいり、牛乳を飲みました。
「あなた、払うて置いて」  
自分は立って、袂たもとからがま口を出し、
ひらくと、銅銭が三枚、羞恥しゅうちよりも
凄惨せいさんの思いに襲われ、たちまち
脳裡のうりに浮ぶものは、仙遊館の自分の部屋

制服と蒲団だけが残されてあるきりで、
あとはもう、質草になりそうなものの一つも無い
荒涼たる部屋、
他には自分のいま着て歩いている絣の着物と、
マント、これが自分の現実なのだ、
生きて行けない、とはっきり思い知りました。

自分がまごついているので、女も立って、
自分のがま口をのぞいて、 「あら、たったそれだけ?」  
無心の声でしたが、これがまた、じんと骨身に
こたえるほどに痛かったのです。

はじめて自分が、恋したひとの声だけに、
痛かったのです。
それだけも、これだけもない、銅銭三枚は、
どだいお金でありません。
それは、自分が未いまだかつて味わった事の無い
奇妙な屈辱でした。

とても生きておられない屈辱でした。
所詮しょせんその頃の自分は、まだお金持ちの
坊ちゃんという種属から脱し切っていなかったの
でしょう。

その時、自分は、みずからすすんでも死のうと、
実感として決意したのです。  
その夜、自分たちは、鎌倉の海に飛び込みました。

女は、この帯はお店のお友達から借りている
帯やから、と言って、帯をほどき、畳んで岩の上に
置き、自分もマントを脱ぎ、同じ所に置いて、
一緒に入水じゅすいしました。

女のひとは、死にました。そうして、自分だけ
助かりました。  
自分が高等学校の生徒ではあり、また父の名にも
いくらか、所謂ニュウス・ヴァリュがあったのか、
新聞にもかなり大きな問題として取り上げられた
ようでした。

自分は海辺の病院に収容せられ、
故郷から親戚しんせきの者がひとり駈けつけ、
さまざまの始末をしてくれて、そうして、
くにの父をはじめ一家中が激怒しているから、
これっきり生家とは義絶になるかも知れぬ、と
自分に申し渡して帰りました。

けれども自分は、そんな事より、死んだツネ子が
恋いしく、めそめそ泣いてばかりいました。
本当に、いままでのひとの中で、あの貧乏くさい
ツネ子だけを、すきだったのですから。

下宿の娘から、短歌を五十も書きつらねた
長い手紙が来ました。
「生きくれよ」というへんな言葉ではじまる短歌ばかり、
五十でした。

また、自分の病室に、看護婦たちが陽気に
笑いながら遊びに来て、自分の手をきゅっと握って
帰る看護婦もいました。

自分の左肺に故障のあるのを、その病院で
発見せられ、これがたいへん自分に好都合な
事になり、やがて自分が自殺幇助ほうじょ罪という
罪名で病院から警察に連れて行かれましたが、

警察では、自分を病人あつかいにしてくれて、
特に保護室に収容しました。  
深夜、保護室の隣りの宿直室で、
寝ずの番をしていた年寄りのお巡まわりが、
間のドアをそっとあけ、

おい!」と自分に声をかけ、
「寒いだろう。こっちへ来て、あたれ」  
と言いました。

自分は、わざとしおしおと宿直室にはいって行き、
椅子に腰かけて火鉢にあたりました。
「やはり、死んだ女が恋いしいだろう」
「はい」ことさらに、消え入るような細い声で
返事しました。

「そこが、やはり人情というものだ」  
彼は次第に、大きく構えて来ました。
「はじめ、女と関係を結んだのは、どこだ」
 ほとんど裁判官の如く、もったいぶって
尋ねるのでした。

彼は、自分を子供とあなどり、秋の夜の
つれづれに、あたかも彼自身が取調べの
主任でもあるかのように装い、
自分から猥談わいだんめいた述懐を
引き出そうという魂胆のようでした。

自分は素早くそれを察し、噴き出したいのを
怺こらえるのに骨を折りました。
そんなお巡りの「非公式な訊問」には、
いっさい答を拒否してもかまわないのだという事は、
自分も知っていましたが

しかし、秋の夜ながに興を添えるため、
自分は、あくまでも神妙に、そのお巡りこそ
取調べの主任であって、刑罰の軽重の決定も
そのお巡りの思召おぼしめし一つに在るのだ、
という事を固く信じて疑わないような所謂
誠意をおもてにあらわし、彼の助平の好奇心を、
やや満足させる程度のいい加減な「陳述」を
するのでした。

「うん、それでだいたいわかった。
何でも正直に答えると、わしらのほうでも、そこは
手心を加える」
「ありがとうございます。
よろしくお願いいたします」

ほとんど入神の演技でした。
そうして、自分のためには、何も、一つも、
とくにならない力演なのです。

夜が明けて、自分は署長に呼び出されました。
こんどは、本式の取調べなのです。  
ドアをあけて、署長室にはいったとたんに、

「おう、いい男だ。これあ、お前が
悪いんじゃない。
こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ」

色の浅黒い、大学出みたいな感じのまだ若い
署長でした。いきなりそう言われて自分は、
自分の顔の半面にべったり赤痣あかあざでも
あるような、みにくい不具者のような、
みじめな気がしました。

この柔道か剣道の選手のような署長の取調べは、
実にあっさりしていて、あの深夜の老巡査の
ひそかな、執拗しつようきわまる好色の
「取調べ」とは、雲泥の差がありました。

訊問がすんで、署長は、検事局に送る書類を
したためながら、「からだを丈夫にしなけれゃ、
いかんね。血痰けったんが出ているようじゃないか」  
と言いました。

その朝、へんに咳せきが出て、自分は咳の
出るたびに、ハンケチで口を覆っていたのですが、
そのハンケチに赤い霰あられが降ったみたいに
血がついていたのです。

けれども、それは、喉のどから出た血ではなく、
昨夜、耳の下に出来た小さいおできをいじって、
そのおできから出た血なのでした。

しかし、自分は、それを言い明さないほうが、
便宜な事もあるような気がふっとしたものですから、
ただ、 「はい」  と、伏眼になり、
殊勝げに答えて置きました。

署長は書類を書き終えて、 「起訴になるかどうか、
それは検事殿がきめることだが、
お前の身元引受人に、電報か電話で、
きょう横浜の検事局に来てもらうように、
たのんだほうがいいな。誰か、あるだろう、
お前の保護者とか保証人とかいうものが」

父の東京の別荘に出入りしていた書画骨董商の
渋田という、自分たちと同郷人で、
父のたいこ持ちみたいな役も勤めていた
ずんぐりした独身の四十男が、自分の学校の
保証人になっているのを、自分は思い出しました。

その男の顔が、殊に眼つきが、ヒラメに
似ているというので、父はいつもその男を
ヒラメと呼び、自分も、そう呼びなれていました。

自分は警察の電話帳を借りて、ヒラメの家の
電話番号を捜し、見つかったので、
ヒラメに電話して、横浜の検事局に来てくれるように
頼みましたら、ヒラメは人が変ったみたいな
威張った口調で、それでも、とにかく引受けて
くれました。

「おい、その電話機、すぐ消毒したほうがいいぜ。
何せ、血痰が出ているんだから」  
自分が、また保護室に引き上げてから、
お巡りたちにそう言いつけている署長の大きな声が、
保護室に坐っている自分の耳にまで、とどきました。

お昼すぎ、自分は、細い麻繩で胴を縛られ、
それはマントで隠すことを許されましたが、
その麻繩の端を若いお巡りが、しっかり握っていて、
二人一緒に電車で横浜に向いました。

けれども、自分には少しの不安も無く、
あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、
嗚呼ああ、自分はどうしてこうなのでしょう、
罪人として縛られると、かえってほっとして、
そうしてゆったり落ちついて、その時の追憶を、
いま書くに当っても、本当にのびのびした
楽しい気持になるのです。

しかし、その時期のなつかしい思い出の中にも、
たった一つ、冷汗三斗の、生涯わすれられぬ
悲惨なしくじりがあったのです。

・・・

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…


居酒屋 花いちもんめ





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隙間産業(ニッチ市場)


2017年8月28日 (月)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


ご紹介する動画は、ノルウェーの児童養護施設が
里親を募るために公開したものです。

ある学校に昼食の時間がやってきました。子供たちは、
いそいそとお弁当を広げ、教室は楽しそうな雰囲気に
包まれています。
しかしその中に、なんだか浮かない顔をした少年が
1人いました。

少年は机の中から自分のお弁当箱を取り出し、
重い表情のままソロソロと蓋を開けていきます。
実は少年のお弁当箱には、中身が入って
いなかったのです。






ブドウを手にしたままニッコリと笑う少年
空のお弁当箱の少年が教室を出ている間に
そっと 中身を入れておくところが感動させます。

見られていることに気づいているのに 素知らぬ
フリをする少年、
人参を片手に振り返る少女、それらのシーンも
感動的です。

自分のものを他人に分け与えるというのはとても
難しことで、これは中々できることではありませ。
こうした行為が難しいことだとわかっているからこそ、
誰かに分け与えて貰った時、また分け与えているのを
目にした時、人の心は深く感動するのだろう。 ・・・


Yume1


ある小児癌病棟に、一人の男の子がいました。
その子の名前は、「 しゅん君。」
彼の脳腫瘍は、誰にも手術できない…
抗がん剤が効かなくなって、愛くるしかった しゅん君の
顔の形は変わっていました。 そういう種類の病状でした。

でも彼はいつも看病してくれる人たちに元気に明るく
振舞っていました。
同じ病棟の子どもたちにもとても優しく
「良くなるから苦い薬を飲もうね。」
「良くなるから頑張ろうね。」って同じ病棟の子に、
常に優しい声を掛けたりしていました。

症状を知らない人が見たら自分も病気だということなど
微塵も感じさせないような男の子だったそうです。
病状が進んだある日、彼は斜視になっていました。

親たちは、病室内の壁に掛かった鏡をあわてて
取り外しました。 シュンシュンが自分の顔を鏡で見て
「お友達と、 学校に行く」という希望を失わないように。

でも、ある日、そんなことを知らなかった若い 看護師の
胸にキティちゃんの手鏡があった。
それを、見つけたしゅん君は「その鏡を見せて」と
看護師から鏡を受け取った。

変わりはてた自分の顔…
しゅん君の顔の奥にあったガンが肥大し、彼の目は
斜視になり、自分の顔を鏡で正面から見ることは で
きなくなっていました。

しゅん君は、以前とは変わってしまった自分の顔を見て
泣くこともなくひと言、
「看護婦さん、僕が鏡で顔を見たこと、お母さんには
黙っててね。きっとお母さん、悲しむから。」

「もうすぐママが売店から僕のジュースを買って
帰ってくる。 ママが帰って来たらね、僕が鏡を
見たのは ママにナイショね」と借りた鏡を看護師に
手渡した。・・・

しゅん君の幼い心は、病気により、研ぎ澄まされ、清く、
すべてを達観した賢人のように、
鏡を大人たちが外したワケも、母が夕方に、 早々と
病室のカーテンを閉じ、窓ガラスが鏡の代わりに
なることを嫌った理由も、一瞬に理解したのでしょう。・・・

そう、すべては「しゅん君が自分の顔を見ないように
するための行動だ」と…悟ったに違いありません。
自分の顔が変わりはててしまった絶望と恐怖よりも、
その大人たちの優しい秘密を、彼は守ろうとしたのです。

そんな心優しいしゅん君が
たった一度だけ、 わがままを言ったそうです。
しゅん君のただ一度の「わがままな」言葉。

「ねぇママ、僕は大人になりたいよ。」
「パパみたいな大人になりたいよ。」
ママや周りの人にそう訴えました。

ママや周りの人は、慌てて
「えっ、大丈夫だよ しゅん。
パパみたいな大人になれるよ。
何言ってるの、なれるに決まってる。」

その慌てる姿を見てしゅん君は、いつもの
冷静なしゅん君に戻り
「うん。なれるよね。ママあの苦い薬飲むね。」
と言って口をつぐんだのです。

そして 彼はその翌朝 大好きなママの腕の中で
安らかに息をひきとりました。

そう彼の夢は「大人になること」
大人の私たちは、しゅん君が夢見て、
果たすことができなかったそんな「夢の時」を
生きています…

死はもう影響力も脅威にもならない。
死んだ者の物語は、生きている人々に
何かを学ばせる物語になると…



018111

昨日4時22分に母が亡くなった
風邪一つひかない元気な母だった。

僕が幼稚園に入るころもう父はいなかった。
借金作って逃げたらしい。

朝は4時に起きて僕らの弁当作って、
6時から17時まで弁当屋でパート。
帰ってきたら晩飯作ってすぐに出て行って、
11時までパチンコ屋で掃除のバイト。

休むのは月に3回あればいいほう。
そうやって僕と妹は育てられた。

反抗期なんてほぼ無かった。
あんなに頑張る母親を見て反抗なんてできる
はずなかった。

いや・・・一度だけあった。
クリスマスの2、3日前ゲームボーイが欲しいと
ねだった。
友達がみんなゲームを持っていたのに
自分だけ持ってないと苛められると。
何故あんな嘘をついたのだろう・・・。

母は「ごめんね・・・」と顔をくしゃくしゃにして泣いた。
僕も何故か悲しくなって家族3人でボロボロ泣いた。
その日は3人とも同じ布団で抱き合って寝た。

クリスマスの日の夕食はおでんとケーキだった。
母親は子供のようにはしゃぎ、歌い、
最後に「はい」とプレゼントを渡した。

古いゲームソフトだけを買ってきた。
「これだけじゃできないんだよ」と言おうとしたけど、
うれしそうな母の顔を見て言えなかった。

あれから20年、兄妹そろって大学まで出してくれた。
俺も妹ももう就職したし、
これからは楽させてあげるから仕事やめなよ、
って言ったのに。

働いてなきゃボケるって・・・そんな年じゃないだろう。
どっか3人で旅行に行こうよって言ってたのに。
妹の結婚式見るまでは死ねないって言ってたのに。

なんで末期癌になるまで働くんだよ・・・。
何度も病院行こうって言ったじゃないか。

先生も言ってた
「あんなに我慢強い人見たこと無い」って。
看護師さんに「迷惑かけてごめんね」ばっかり
言ってたんだってな。
いっつも人のことばっかり気にして・・・。
震える手で書いた枕もとの手紙・・・読んだよ

耕ちゃんへ
 「小さいころはいつもお手伝いありがとう。
 あなたはわがままをひとつも言わないやさしい
 子でした。
 妹の面倒も沢山見てくれてありがとう。
 あなたが生まれてきてくれてほんとうに
 うれしかったよ。あなたのお嫁さんを見たかった」

梓へ
 「女の子なのにおしゃれをさせてあげられなくて
 ごめんね。
 いつも帰ったら『ぎゅっとして』と言ってくるあなたに、
 何度私は救われたかわかりません。
 あなたはあなたを愛する人を見つけなさい。
 そしてその人のために生きなさい」

ふたりへ
 「死は誰にでも訪れるものです。
 悲しまないで。
 あなた達がもし辛いことがあったら
 いつでも枕元に立ちますよ…なんてね。

 あなた達の母親で良かった。
 また生まれ変わってもあなた達の母親でありたい。
 それが私の唯一つの願いです。
 体に気をつけて。
 寒いからあたたかかくして。
 それから・・・それから・・・きりが無いから
 やめとくね たくさんたくさんありがとう」

母さん・・・手紙涙でにじんでボロボロだったよ。
だから紙を買ってきてくれっていってたんだね。

母さん・・・ありがとう、ありがとう。
まだ遊んでるよ。
プレゼントしてくれたスーパーマリオランド。・・・


「犬感動の再会」
飼い主に会えた犬のせつない鳴き声




こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった 



P R :

0661211

隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月27日 (日)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

V0151111114


幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
   不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない



4211111111211411

ブラック企業やブラックバイトなど「ブラック○○」
という言葉はすっかりお馴染み。
そんな「ブラック○○」に“ブラック奨学金”という言葉が
新たに生まれた。

奨学金とは、金銭的な事由から専門学校や短大、
大学に進学できない若者を支援する制度のこと。
この奨学金のほとんどは給付型ではなく貸与型。
つまり学校を卒業し、社会人になれば奨学金を
返済しなければならない。

しかし、就職しても低賃金、就職先がブラック企業で
身体を壊し長期休職、などといった理由から奨学金の
返済が滞るケースが増えているそう。

その際に奨学金返済の取り立てを行うのが、
日本学生支援機構(以下JASSO)なのだが、
このJASSOの取り立て方法が近年問題に
なっているという。

労働・生活相談を行うNPO法人POSSEの代表として
“ブラック奨学金”に苦しむ人の声を聞く著者の
今野晴貴氏。
彼によれば、学生の返済能力が乏しくなる一方で、
JASSOの取り立てが厳しくなっており奨学金問題の
状況は悪化の一途だという。

具体的には本人が病気で働けない、低賃金、
本人が死亡しているなど、やむを得ない事情が
あったとしても、連帯保証人・保証人に対して
取り立てを行う。

しかも裁判所を通じて、奨学金として借りた全額を
一括請求するという。相当厳しい取り立ての
実情については、本書に詳細に記載されているので、
そちらをご覧いただきたい。

そして、そんな現状を端的に示した「昔サラ金、
今奨学金」という本書の言葉が印象的だ。

どうしても返済に困ってしまった場合、どうすることも
できないのだろうか。
実は返済を緩和する方法が存在する。
JASSOに「減額返還」「返還期限猶予」「返還免除」の
申請を行えば可能なのだが、
手続き書類を作るだけでも煩雑で、簡単には
これらの制度が利用できないという。

そのうえ、返済に困りJASSOの窓口に電話をしても
制度を紹介してもらえなかった、
そもそも担当者が制度を熟知していなかったという
ケースがある。

極めつきは「頑張ってなんとか支払って」
「借金をしたのだから必ず返すべきだ」と
高圧的に繰り返すだけで、制度の説明すら
しないということも。

もし仮にその気がなかったとしても、このような
対応は悪意があるようにしか思えない。
国立大学の学費は、ここ30年で15倍も値上がりした。
さらに非正規雇用の拡大やブラック企業の増加で
安定した職に就くことが以前に比べて難しくなっている。

「大学全入」の時代であるはずなのに、
裕福な家庭でなければ高等教育を受けることが
できないのは決して平等とは言えないだろう。

“ブラック奨学金”の問題がさらに取り上げられ、
制度が改善されることを切に願うばかりだ。・・・



Brgu11

チンパンジーのワショーは1966年、
赤ちゃんの時に保護されました。
ワショーは、アメリカ手話を教えられた
最初のチンパンジーでした。

ワショーは当時、妊娠していたボランティアの研究者、
カットさんと仲良くなりました。
手話で赤ちゃんについて、質問するのが好きな
ワショー。

しかし、ある日を境いにカットさんがワショーのもとを
訪れなくなります。
数週間後、再びワショーの前に姿を現わした
カットさんが、ワショーに手話で挨拶をしました。

すると、ワショーはカットさんがいなくなって
しまったことに怒っていたのか、カットさんに
距離を置くようになりました。

そこでカットさんは、ワショーに謝り、
自分がいなくなった理由をワショーに説明しました。

「あのね、私の赤ちゃんが死んでしまったの」
カットさんをじっと見つめていたワショーは、
カットさんの説明に対し、驚くべき返事をしたのです

ワショーがカットさんに見せた手話のサイン。
それは、涙が落ちているかのように、彼女の頬に
触れるサインでした。
そのサインは「泣く」という意味だったのです。

実はこのとき、ワショーには悲しい経験がありました。
ワショーもカットさんと同じく妊娠し、そして出産後、
2匹の赤ちゃんを失っていたのでした。

これはチンパンジーが、共感する能力を
持っていることを証明する歴史的瞬間でした。

その後、2007年に42歳で亡くなるまで、周囲に
愛されながら暮らしたワショー。

チンパンジーにも、人と同じような
豊かな感情があることを教えてくれました。・・・



4211111111211311111111

「肩が凝っている。首も凝っている。
肩甲骨のあたりの、もはや肩ではなく背中と
思われる箇所も凝っている。
腕を上からうしろにやるのではなく、
下からまわしたときに触れることのできる、
名実ともに背中でしかないエリアもあまねく
凝っている。

それだけではない。頭も凝っている。
こめかみ、頭頂部、前頭部、後頭部、
全部凝っている。
腕を強くつかめば、腕が凝っていることもわかる。
脚も凝っている。まさかと思いながら揉
(も)みしだくと、尻までが凝っている。

こういうことは、今にはじまったことではない。
思い起こせば、私は高校生のときにはすでに
肩が凝っていた。
教室の机にだらりと上半身を投げ出し、だるいだの
眠いだのめんどくさいだのとぐずぐず言っている
生徒だった。

運動をすればよかったのかもしれないが、私は
運動神経がたいへん鈍く、そのせいで運動全般を
激しく憎悪していた。
なにひとつ対策を講じないまま大学生になり、
ますます肩が凝った。

大学では、周辺の女子学生の多くが肩凝りを
訴える声を上げていた。
たちまち私は闘志を燃やした。
私がいちばん凝っているに決まっている。
みんなもそう思ったようだった。

友よこれが肩凝りだ、と言わんばかりに、
互いの肩をつかみ、肩の硬さを競った。
私がつかんだ肩は、どれもそれぞれに硬く、
熱がこもり、弾力に満ちていた。
薄い肩があり、分厚い肩があった。

おしゃれなカットソーの襟ぐりから、端のよれた
磁気ばんそうこうがいくつも丸見えになっている
肩もあった。

そしてまた、いくつもの手が私の肩を通り
過ぎていった。
そのたびに私は、「効かぬわ」と薄ら笑った。

私たちは誰も勝ちを譲らなかったが、次第に
仲間意識が芽生えていった。
まれに「私、肩凝ったことないで」などと
言い出す者があると、私たちは一斉に彼女に
視線を注いだ。

それはまるで命を賭けた大恋愛に破れ人生に
疲れ果てた女が、まだ恋を知らない生娘を
見たかのような憐憫(れんびん)と懐かしさに
あふれた視線であった。

卒業論文を提出した日、私は数人の好敵手たちと
連れ立ってマッサージ店に入った。
プロに身を任せるのは、それがはじめてだった。

私の担当になった若い女性マッサージ師は、
施術を開始するなり「なんでこんな硬いんですか! 
ここ、こんなところに骨はないですよ!」と
怒りをあらわにした。

私は、やはり自分の肩凝りは相当のレベルに
達しているのだと優越感にひたった。
私は肩凝りを舐(な)めていた。

数年経って、小説を書きながら会社勤めを
していたころ、会社の自分の席でパソコンに
向かっていた私は、突然、頭がまったく
動かなくなった。

背中から頭にかけて鉄板で固定されたかの
ようだった。無理に動かそうとすると悲鳴を
上げそうになるくらい痛かった。でも、
悲鳴は上げられなかった。

首に力が入らないと、声を出すことが
できないのだということをそのとき知った。
私は会社を早退して、頭を微妙に前傾させたまま
鍼灸(しんきゅう)院に駆け込んだ。

すべては私の慢心が招いたことだった。
現在も特に対策は講じていないが、少なくとも
肩凝りを誇るという卑しい心根を捨てる努力は
している。

しかしこのような文章を書くこと自体、
まだまだ謙虚さが足りていない証拠であると思う。
猛省したい。(作家)」・・・


Author:「日経新聞」夕刊



人生で後悔していること、、、
7割の老人が同じ回答結果に!
後悔しないためには!?・・・






P R : 

0661211

2017年8月26日 (土)

妄想劇場・歴史への訪問

V01511111171


昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


Ani_111


むかしむかし、陸奥の国(青森県)のある村に、
万次郎(まんじろう)という、とても気のよわい
男がいました。

村のだれかがなくなると、今度は自分かもしれないと、
いつもビクビクしているのです。
ある日万次郎は、死んだおじいさんから聞いた話を
思い出しました。
「一月十六日のま夜中に、人に見つからないように
家の屋根にのぼれば、その年に死ぬ人の
運命がわかる」と、いう話しです。

(もしかして、自分の運命がわかるかもしれない)
死ぬのがこわくてたまらない万次郎は、つぎの年の
一月十六日、家のみんなが寝るのを待って、
こっそり屋根へのぼりました。

「おおっ、さむい」万次郎はガタガタふるえながら、
あちこちを見回しました。
どの家も明りがきえていて、物音一つ聞こえません。と、
そのとき、村の一本道をゆっくりとこっちへ近づいて
くるものがあります。

白い着物を着て、ひたいに三角の白い紙をつけた
死人です。(ゆ、ゆうれい!)
万次郎はビックリしましたが、でもよく見ると、
それは近くの家にすむ老婆(ろうば)でした。

若者と一緒に畑仕事をしたり、まごの世話をしたりと、
元気な働き者として知られていました。
この前もあったばかりで、死んだなんて話しは
聞いたことがありません。

万次郎は不思議そうに、屋根の上から老婆を
見ていました。
老婆はまるでたましいのぬけたような顔で、トボトボと
歩いていきます。
(いったい、どこへいくのだろう?)

万次郎の家の前をとおりすぎた老婆は、やがて
村はずれの墓場(はかば)の前へいき、そのまま
けむりのようにきえてしまいました。

(さてはあのおばあさん、今年死ぬのだろうか?)
万次郎が首をひねっていると、こんどは近くの家から、
おなじように死人の衣装(いしょう)をつけた娘が
出てきました。

(あっ、あの娘は!)万次郎は、もう少しで声を
出すところでした。
村でも評判の美しい娘でしたが、病気になってからは
寝たきりといううわさです。
娘も村はずれの墓場の前で、けむりのようにきえて
しまいました。

(はたして、あの二人は今年中に死ぬのだろうか?)
そう思うと、おそろしくて人に話すこともできません。
でも万次郎の思った通り、まもなく老婆も娘も
死んでしまいました。

万次郎は、いよいよ死ぬのがこわくなりました。
それでも毎年、一月十六日がくると屋根にのぼって、
今年はだれが死ぬかをたしかめるのでした。

さて、ある年のことです。
今年も一月十六日の夜に屋根にのぼって下を
見ていたら、なんと、そこにあらわれたのは死人の
衣装をつけた自分でした。

(そっ、そんな、バカな!)万次郎はビックリして、
息が止まりそうになりました。
もう一人の万次郎は屋根の上の万次郎には
目もくれず、ゆっくりゆっくりと墓場のある方へ
歩いていきます。
やがて墓場の前にくると、けむりのようにきえて
しまいました。

万次郎は屋根からかけおりると、家の者を
たたきおこしていいました。
「ああ、おらは死ぬ!」
家の者はビックリして、
「何をバカな事を。なにか悪い夢でもみたのだろう」
「いいや、夢じゃねえ! 

実はな・・・」と、
今までの事をみんなにうちあけましたが、
「はん。そんな事、だれが信じるものか」と、
いって、だれもとりあってくれません。

それから万次郎は今まで以上にビクビクして暮らし、
その年の秋、突然死んでしまったのです。
万次郎の事は村のうわさになりましたが、
だれもがこわがって、一月十六日の夜がきても
屋根にのぼる人はいなかったという事です。
・・・

おしまい



Brg111111121

結婚当初、姑と上手く噛み合わなくて、会うと気疲れしていた。
意地悪されたりはしなかったけど、気さくで良く大声で笑う
実母に比べ足を悪くするまでずっと看護士として
働いていた姑は、喜怒哀楽を直接表現せず、
シャキシャキ・パキパキ黙々って感じで、ついこっちも
身構えてしまっていた。

何となく「私、あまり好かれてないな」と思う時も有って、
当たり障りなくつき合っていた。

その年は、私が秋に二人目を出産した事もあり、
混雑を避けて一月中旬に帰省する事になった。
そして早朝、今まで感じたことの無い揺れと衝撃を感じた。
阪神淡路大震災だった。

朝釣りに行くという夫達の為に、お弁当と朝食を
作っていた私と姑は立っていること出来ずに座り込んだ。
食器棚が空いて、次々と皿やグラスが降ってきた。

名前を呼ばれた気がして目を開けると、姑が私に
覆い被さっていた。
私を抱きしめる腕も肩も頭も血が出ていた。

夫と舅が子供達を抱いて台所に飛び込んできて、
私達を廊下に連れだしてくれた。
歪んでなかなか開かない玄関ドアを開けると、
街の景色は一変していた。

義理の実家はマンションの高層階だったが、
エレベーターは止まり、階段にはヒビが入っていた。
呆然とする間にも、大きな余震が襲ってきた。
廊下の壁にも大きな亀裂が入り、揺れが襲う度に
何かガラガラと大きな物が落ちていく音がした。

姑が「あなた達は早く逃げなさい!」と部屋に戻り
皆の上着やマフラーを持ってきた。
泣きながら「あなた達って・・・お義母さんは?」と
聞くと「後で逃げるから、良いから早く!」と
恐い顔で言われた。

足が悪くて階段では逃げられない自分は、
足手まといになると思っているんだと分かった。
夫が「母親を見捨てて逃げたら、俺はもう子供達に
顔向けできない」と姑を背負おうとしたら
姑が夫をひっぱたいた

「あんたの守るのは子供と嫁!
産後で完全じゃない嫁を幼子二人を守ること
だけ考えなさい!」
そして血だらけの手で、私の髪を撫でて「ごめんね。
帰省させなきゃ良かったね。ゴメンね」と笑った。

結局舅が姑を連れて、後から逃げると説得され、
私達夫婦は子供二人と先に階段を下りました。
避難所で無事に再会出来たときは、安堵のあまり
「おうおうおう」と言葉にならない声で抱きついて泣いた。
マンションは数日後に全壊した。

避難所で再会して気が付いたが、姑は家族の
上着を持って来てくれたが自分はセーターに
エプロンという服装だった。

初めから、皆だけ逃がすつもりだったんだと
思ったら、また泣いた。
未曾有の事態に母乳が出なくなったり、
出ても詰まったり色が変だったりで
痛くて脂汗を流しながら、マッサージをしていると、

産婦人科にいた事もある姑が
「熱を持ってるね。痛いね。
でも出さないともっと痛いから。
代わってあげられなくてゴメンね」と泣きながら
マッサージを手伝ってくれた。

避難所では「ブランクがあって、知識が古いけど」
と看護士として働いて、まわりを元気づけていた。

あの時、赤ん坊だった下の子はもう高校生で、
舅は既に他界した。
福島の震災をみていると、どうしても阪神地震を
思い出してしまう。

同居の姑は、今も喜怒哀楽をあまり出さないけど、
今では何を考えているかちゃんと分かる。
ありがとう、おかあさん。
あの時の血だらけの貴方を忘れません。・・・


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる


「猫の最期」
終わりのサインが近づいたら…!・・・






P R :

Bu

隙間産業(ニッチ市場

2017年8月25日 (金)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


ご紹介する動画は、ノルウェーの児童養護施設が
里親を募るために公開したものです。

ある学校に昼食の時間がやってきました。子供たちは、
いそいそとお弁当を広げ、教室は楽しそうな雰囲気に
包まれています。
しかしその中に、なんだか浮かない顔をした少年が
1人いました。

少年は机の中から自分のお弁当箱を取り出し、
重い表情のままソロソロと蓋を開けていきます。
実は少年のお弁当箱には、中身が入っていなかったのです。




ブドウを手にしたままニッコリと笑う少年
空のお弁当箱の少年が教室を出ている間に
そっと 中身を入れておくところが感動させます。

見られていることに気づいているのに 素知らぬ
フリをする少年、
人参を片手に振り返る少女、それらのシーンも
感動的です。

自分のものを他人に分け与えるというのはとても
難しことで、これは中々できることではありませ。
こうした行為が難しいことだとわかっているからこそ、
誰かに分け与えて貰った時、また分け与えているのを
目にした時、人の心は深く感動するのだろう。 ・・・



Yume1

ある小児癌病棟に、一人の男の子がいました。
その子の名前は、「 しゅん君。」
彼の脳腫瘍は、誰にも手術できない…

抗がん剤が効かなくなって、愛くるしかった しゅん君の
顔の形は変わっていました。 そういう種類の病状でした

でも彼はいつも看病してくれる人たちに元気に明るく
振舞っていました。
同じ病棟の子どもたちにもとても優しく
「良くなるから苦い薬を飲もうね。」
「良くなるから頑張ろうね。」って同じ病棟の子に、
常に優しい声を掛けたりしていました。

症状を知らない人が見たら自分も病気だということなど
微塵も感じさせないような男の子だったそうです。
病状が進んだある日、彼は斜視になっていました。

親たちは、病室内の壁に掛かった鏡をあわてて
取り外しました。 シュンシュンが自分の顔を鏡で見て
「お友達と、 学校に行く」という希望を失わないように。

でも、ある日、そんなことを知らなかった若い 看護師の胸に
キティちゃんの手鏡があった。
それを、見つけたしゅん君は「その鏡を見せて」と
看護師から鏡を受け取った。

変わりはてた自分の顔…
しゅん君の顔の奥にあったガンが肥大し、彼の目は
斜視になり、自分の顔を鏡で正面から見ることは で
きなくなっていました。

しゅん君は、以前とは変わってしまった自分の顔を見て
泣くこともなくひと言、
「看護婦さん、僕が鏡で顔を見たこと、お母さんには
黙っててね。きっとお母さん、悲しむから。」

「もうすぐママが売店から僕のジュースを買って帰ってくる。
ママが帰って来たらね、僕が鏡を見たのは ママに
ナイショね」と借りた鏡を看護師に手渡した。

しゅん君の幼い心は、病気により、研ぎ澄まされ、清く、
すべてを達観した賢人のように、
鏡を大人たちが外したワケも、母が夕方に、 早々と
病室のカーテンを閉じ、窓ガラスが鏡の代わりに
なることを嫌った理由も、一瞬に理解したのでしょう。・・・

そう、すべては「しゅん君が自分の顔を見ないように
するための行動だ」と…悟ったに違いありません。
自分の顔が変わりはててしまった絶望と恐怖よりも、
その大人たちの優しい秘密を、彼は守ろうとしたのです。

そんな心優しいしゅん君が
たった一度だけ、 わがままを言ったそうです。
しゅん君のただ一度の「わがままな」言葉。

「ねぇママ、僕は大人になりたいよ。」
「パパみたいな大人になりたいよ。」
ママや周りの人にそう訴えました。

ママや周りの人は、慌てて
「えっ、大丈夫だよ しゅん。
パパみたいな大人になれるよ。
何言ってるの、なれるに決まってる。」

その慌てる姿を見てしゅん君は、いつもの
冷静なしゅん君に戻り
「うん。なれるよね。ママあの苦い薬飲むね。」
と言って口をつぐんだのです。

そして 彼はその翌朝 大好きなママの腕の中で
安らかに息をひきとりました。

そう彼の夢は「大人になること」
大人の私たちは、しゅん君が夢見て、
果たすことができなかったそんな「夢の時」を
生きています…

死はもう影響力も脅威にもならない。
死んだ者の物語は、生きている人々に
何かを学ばせる物語になると…


「犬感動の再会」
飼い主に会えた犬のせつない鳴き声




こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった 



P R :

0661211

隙間産業(ニッチ市場)


2017年8月24日 (木)

妄想劇場・韓信外伝 (馬邑失陥)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、 
 良いかな・・・


アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい

Kansin

韓信外伝 (馬邑失陥)

作戦の概略はわかったものの、それを実行するためには
盤石を帰す必要があり、これは韓王信ならずとも
考えたくなることである。

要は、兵力を充実させたいと思ったのであった。
占領地で徴発した住民を兵となすことも可能だが、
この作戦は戦うことにのみ意味があり、住民と目標を
共有するなどということはなかった。

よって中央の覇権争いなどに無関心な住民などを
兵としたりしても、忠誠心などは期待できない。
また、昨日まで鍬や鋤を持っていただけの男に今日から
剣を持って戦えと命じたとしても、現実的な技術の面で
不安が残る。

結局彼があてにしたのは、匈奴であった。
匈奴兵の実戦力があれば陳豨と協力して漢軍を
奔命に疲れさせることはたやすい、と
彼は考えたのである。

「この作戦の構図はこうだ……
一方で陳豨が兵をあげれば、これを鎮圧しようと
漢軍は動く。
動いたのを確認して吾が兵をあげれば漢はこちらも
抑えなければならない。
つまり彼らに二正面作戦を強いるわけだな」
彼は側近を相手にそう語った。

あらためて説明されずとも側近たちは作戦の概要を
理解していたが、主君が話す以上は付き合わなければ
ならない。つまり話の内容はたいして重要ではなく、
自分たちの主君の気分が高揚している、
その事実が重要なのであった。

「二正面作戦を強いて漢の兵力を分散させるというのは
わかりますが、若干ながら不安はあります」
「わかっている。漢の兵力はもともと我々よりも多いがため、
たとえ分散させたとしても対抗が可能なのではないか、
と思うのだろう」「その通りでございます」

「大丈夫だ。兵は多ければすべてよし、
というわけではない。
吾が思うに、兵力が五十万に至るほどの大軍を
制御できる将は、現在の漢には淮陰侯くらいしかおらぬ」
「他の将が率いたのでは大軍が烏合の衆にしかならぬ、
ということですか」

「そうだ。幸い淮陰侯はこのたびは味方だから、
この心配は杞憂に過ぎぬ。
あるいは黥布や彭越が出向いて来たら苦戦する
かもしれぬが……大丈夫だ。
皇帝は彼らに出撃を命じることはないだろう」

「なぜそうお思いになるのです」
「諸侯王たる彼らが功績をあげたとしても、
皇帝には彼らに恩賞として与える土地がない。
彼らにこれ以上の待遇を与えれば、その勢力は
皇帝に匹敵するものとなるからだ」

「なるほど……皇帝自身がそれをわかっていて、
ゆえに彼らに命じることはないと……」
「そうだ。ゆえに吾は心ゆくまで戦える、
というわけだ。匈奴とともに……
胸のすくような戦いをしてみせるぞ」

そして韓王信が率いる軍は東進していった。
太原を越えて燕に迫ろうかという勢いである。
それを可能にしたのは彼の心理の変化であり、
匈奴兵の戦闘力であった。

統治することを考えずに、ただ敵地を蹂躙するということは
気分的に楽なことである。
民衆の支持を失うことになるが、彼はそれを気にも
とめなかった。

また、匈奴の兵は行く先々で激しく略奪行為をし、
そのことが彼の評判をおとしめた。が、彼はやはりそれを
いっこうに気にしなかった。

民衆の支持が必要なのではない。必要なのは
淮陰侯の支持だ。 
天下に戦乱を巻き起こし、世が乱れに乱れ、
やがて皇帝が討たれて天下は平静を取り戻す……
淮陰侯がそれをやり遂げたときこそが自分の戦いの
終わりである。

そのとき自分は功を認められ、再び王として
君臨することができるだろう。
そのような大きな目的意識が彼の行動を過激にした。
かつての冷静な判断力は影を潜め、目の前の敵と
ただ戦い、敵地にあるものは老若男女を問わず、
容赦しなかった。

心ある者は彼の行為に眉をひそめ、その反対に
彼に従う者は戦果に酔った。
自分たちが本当の意味での逆賊であることに
気が付かなかったのである。

彼らは城をおとすと財物を奪い、食料を奪う。
それらを奪い尽くすと、人々の命を奪った。
人々は様々な形で命乞いをしたが、韓王信は
取りあわなかった。

奴僕になると言われても拒否し、兵となってともに
戦うと言われても首を縦に振らなかった。
女、子供、老人には発言さえ許さず、ひたすら殺した。
養うつもりも、能力もなかったということだろうか。

そして次の目標が決まると、城市を丸ごと焼き尽くして
引き払った。よって彼らの通ったあとにはなにも残らない。
強いて言うなら、廃墟だけが残った。

この地の民衆に推戴されて王となる意思がすでに韓王信の
心の中になかったからであろう。
また、戦って勝つということは敗者を生むことでもあり、
復讐の種を蒔くことでもある。
よって禍根を残さずに勝ち続けるには中途半端は
許されず、徹底的に勝つしかなかった、
ということかもしれない。

柴武という人物は漢の側の将軍の一人で、古くは斉の
田氏につながる人物と戦い、功績をあげている。
ということはあるいは当時淮陰侯韓信の配下にあった
とも考えられるが、それは定かではない。

また、西楚の項羽と雌雄を決した垓下の戦いにおいて、
周勃とともに殿軍を担当したことで名が知れている。
皇帝は、陳豨・韓王信の叛逆による北方地域の混乱を
憂慮し、自らは陳豨を討とうと親征した一方で、柴武に
韓王信の討伐を命じた。

匈奴と戦わなければならぬとは、やっかいな役目を
仰せつかったものだ。
陳豨を相手にした方が気分的に楽だ、と思ったのである。
しかも相手が曲がりなりにも王族であるということは、
彼の気持ちを滅入らせた。

今は裏切り者と成り果てたとはいえ、かつては楚を相手に
ともに戦った名高き男を討つ役目が自分に回って来たことが、
重圧に感じられてならない。

しかもその名高き男が、こともあろうに匈奴という蛮族の
一員となって悪逆の限りを尽くしているという事実は、
信じられなかった。

なにが彼にそうさせたのか。
長安から出発して行軍を重ねる間、彼は常にそのことを
考えていたが、答えは見つけようもなかった。
柴武は王であったこともなかったし、蛮族に包囲されて
敗北した経験も持たない。

よって彼が韓王信の立場を理解しようとすることは
根本的に無理があった。
まあ、理解できない男の方が、討ちやすい。
柴武の思考はそこに落ち着こうとする。

しかし軍を前線に近づけていくごとに、その不可解さは
深まっていった。
なんと、徹底した破壊ぶりよ……。
城市には人っ子一人おらぬ。殺し尽くしたというのか。

韓王信が破壊したと思われる城市を通過するたびに、
激しい死臭が漂い、それが吐き気を催す。
配下の兵の中には、実際に嘔吐する者もいたようだった。

「人道に外れた行為です。これは」
柴武の副将は鼻をつまみながら、そう言った。
「うむ。君の言いたいことはわかる。
しかし……
韓王はすごいな。人としてはどうか知らぬが、
軍人としては非常に優秀な人物だと言わざるを得ない」

このときの柴武の発言は、副将を驚かせた。
「は?」
「意外か? しかし現在の漢軍にこれだけの行為が
できる者はいまい。無論私を含めて」
「それはそうですが……」

「軍人というものは敵対する者を殺さねばならぬ。
しかし多くの場合、君の言う『人道』などを理由に、
それをためらったりする。

私の見るところ、韓王にはそのためらいが
まったくない。まったく完璧な軍人だ」
「では……将軍は、これは正しい行為だと? 
正義だとおっしゃるのですか?」

「そうではない。つまるところ、究極的な軍人とは、
人ではないのだ。少なくとも道徳を学んだ文化的な
人ではない。我々に彼の真似が出来ようか? 

文明社会に生き、人としての道を学んだ我々には
出来ぬ行為だ」
そう副将に語った柴武の心の中に、ある考えが
浮かんだ。

韓王は、人として生きることをやめようとして
いるのではなかろうか?
つまり、もう死にたいと思っているのでは……。
いかにも考えられそうなことだ。

「将軍、どうかなされましたか」
副将の問いにはっとして我に帰った柴武は、あらためて
自分の考えを言葉にした。
「韓王は……匈奴と行動を共にしていて、やり方も
匈奴のやり方に倣っている。が、
おそらく本意ではなかろう。
……あの方を楽にさせてあげねばならぬ」

韓王信が率いる軍は、このとき都市としての代の
北にある参合という地に駐屯している。
そこで得た糧食を食いあさり、食い尽くすと
すべてを焼き払って次の城へ向かう算段であった。  

彼としては、漢軍をおびき寄せるための行為でもある。
必要以上に悪逆な行為を繰り返したのは、
地方の城の守備兵などではなく、中央から
派遣された官軍と早めに一戦したいという
気持ちがあったのだった。  

ゆえに参合城の前に集結し始めた漢軍の姿
を認めたとき、彼は人知れず安堵の溜息を
漏らしたという。  

ようやく来たか。遅すぎるぞ……。  
いったい今の今まで何をしていたのか、という思いが
彼の頭の中を巡った。
危機感が足りなさすぎるとも思ったが、
当然ながらこれはおかしな考え方である。

危機をもたらしているのが他ならぬ自分であることを
忘れているかのようなこの思いは、自分以外の誰
にも理解されないものであろう。

「指揮官は誰か」  彼は、周囲に問うた。
威厳を見せつけたようなその口ぶりは、
内心を見透かされまいとして表現されたものであった。
「旗印などから判断すると、柴武将軍のようであります」
「柴武……そうか」 まずまずといったところの将だ。  

本音を言えば、皇帝自身に出向いて来てもらいたい。
そうでなければ樊噲や灌嬰。より中枢に近い人物と
戦って勝つ機会が得られれば、彼としては
申し分なかった。

しかし柴武が出て来たということは、彼らが
陳豨の方に向かったということかもしれないし、
意外にもまだ長安で待機している、ということかも
しれない。  

危機感が足らぬ。  再び彼は思った。
陳豨の方に向かったとすれば、彼らは判断を誤った、
と言える。陳豨の乱はいわば内紛であり、
説得して事態を平静化しようと思えば、
難しいかもしれないが出来ないことはない。

それに比べて自分は匈奴を従えており、外敵である。
どちらを深刻な問題として重要視するかの判断を、
漢は誤ったように彼には見えた。  

だが、繰り返すようだが、これも馬鹿馬鹿しい
考えである。漢に刃向かっている自分が、
漢の判断を心配することはおかしい。

偽善ではないかと思えると同時に、自分の甘さも
痛感する。柴武に戦って勝てるという保証は
どこにもなかったからだ。  

相手に不足を感じるのであれば、まず目の前の敵を
完膚なきまでに破ることだ。  
実力の差を見せつけ、それによってより強力な相手と
雌雄を決する。

当然の論理であるが、自分に残された道が
それしかないことに思い至ると、彼は寂しさを感じた。  
敗れて死ぬ危険があることを思うと、
いてもたってもいられなくなる。

死に対して美を感じたことはないが、どうせ
死ぬのであれば忠節の士として死ぬのが望ましかった。  
あのときの周苛のように。  

しかし自分は王族なのだから他人に忠節を
提供するのではなく、逆に人から忠節をもって
迎えられるべき存在であった。そう思ったからこそ
馬邑を放棄したのである。

よって自分に周苛のような死に方は期待できない。
戦って勝てないとあれば、単なる叛逆者として
死ぬしかなかった。  

彼は、どうしてもそのことが受け入れられなかった。
・・・

(つづく)

愚人は過去を、賢人は現在を、
狂人は未来を語る




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2017年8月23日 (水)

妄想劇場・都市伝説

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ネットの普及により、テレビ離れする人が増え、
テレビ番組の視聴率は低下している。
テレビ全盛期のころは、平均視聴率20%を超える
ドラマはたくさんあったが、近年では20%超えどころか
15%を超えるものも少ない。

ドラマドラマには、推理ドラマ、刑事ドラマ、熱血ドラマ
などの定番ジャンルの一つに「恋愛ドラマ」がある。
「恋愛」という要素は、「恋愛ドラマ」だけでなく、
いろいろなジャンルの一要素としても登場するため、
ドラマを楽しむために欠かせない要素となっている。

同じ時期に純愛要素のドラマと、不倫や浮気が要素の
ドラマがあれば、不倫や浮気などのほうが
高視聴率となる。

ドラマを見るとき、その登場人物と「自分」を
置き換えたり、その登場人物に憧れてしまう。
現実で満たされていない部分を、ドラマを見ることで
一時的に満足する。

高視聴率となったドラマは、人の願望を反映させて
いるものが多い。権力者を庶民が論破、失敗を繰り返し
バカにされるが最後に大成功を収める、
多くの人が憧れるシチュエーションだからこそ
高視聴率となる。

純愛ドラマより不倫ドラマのほうが高視聴率となるのも、
多くの人が不倫に憧れているからである。
男性は浮気や不倫をする生き物と言われるが、
実は女性の方が浮気や不倫願望は強い。

不倫経験のある男性へ質問すると、ほとんどの人が
「後悔している」と答えるが、女性は「良い経験になった」と
答える。

不倫のきっかけを聞くと、男性は「好きが抑えられ
なかった」と答えるが、
女性は「刺激が欲しかった」と答える。

男性の場合は、不倫であってもそれは「純愛」の
延長であり、妻への愛情がなくなっていたわけでは
ないので後悔することになる。
かわいい女性、きれいな女性、素敵な女性から
チヤホヤされたいが、不倫という関係までは望んで
いない人が多い。
そもそも男性は恋愛が苦手な生き物である。

既婚女性へのアンケートでは、約30%の女性が
不倫経験があり、不倫経験はないが願望はあると
答えた女性と合わせると80%を超える。

願望があるのに不倫しない理由の多くは
「適当な相手がいない」で、夫への罪悪感ではない。
生理的に受け付けない相手でもない限り、
「声さえかけられば」ということらしい。

純愛ドラマよりも不倫ドラマのほうが、高視聴率
となるのは、多くの女性に不倫願望があるからである。


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鮫島事件と言うのをご存知でしょうか?
あまりの内容のひどさに各種メディアの
過去記事からも抹消され、鮫島事件に関する
資料は一切残っていない事件である。
現在、その事件の詳細を知るすべはない。

ネット上で鮫島事件に関する質問をしても、
「あの事件には関わらない方がいい」と返信が
あるだけである。

鮫島事件に関する情報とは・・・

鹿児島県沖に、鮫島といわれる島があった。
ここに5人の2ちゃんねーらが遊びに来たが、
5人とも行方不明になってしまう。

その後、5人のうち4人は白骨死体となって
発見されたが、最後の1人はどうしても
見つからなかった。

そして、4人の遺骨がそれぞれのゆかりの場所に
送り届けられた翌日、2ちゃんねるに
書き込みがされた。

「鮫島にいる」と。

この人物を特定できるような投稿者IPなどの足跡は
発見されず、結局、鮫島で最後の人物らしき
白骨死体が警察によって発見された。

この遺体は、動物や何かによって食い荒らされた
痕跡があったが、中には人間のものと思われる
歯形も残されており、また首には圧迫されたような
跡があったという。

以上が鮫島事件に関する内容である。

実はこの話はまったくの作り話。
事の発端は2ちゃんねるの書き込みで、
「以前に鮫島スレを見て、2ちゃんねるにはまった。
誰かあのスレを保存してないですか?」との
書き込みから。

もちろん当時そんなスレは存在していない。
嘘かホントか分からない状況で、冗談半分で
2ちゃんねらーが盛り上がったのである。

「あの事件を思い出させるな」
「あの事件はやばい」
「報道各社も資料は抹消している」などの書き込みで
盛り上がり、ついには詳細を書きますと、
上記の話を書いた人がいた。

つまりは、事件そのものは存在せず、
メディアからも抹消されたと言う話もまったくの
デマでした。というのが鮫島事件に関する
都市伝説。

しかしこの都市伝説。知らないだけで、本当に
起きた事件を都市伝説として作り話と情報操作
されたものなのかも知れません。

鮫島事件と似たような牛の首という怖い話も
あります。
・・・


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マラソン42.195キロ。この数字はどこから由来して
いるのかと言いますと、 紀元前490年。アテネという国が
戦争で勝ちました。 勝利を収めた場所からすぐに
アテネへ吉報を伝えようと伝令を走らせた距離、
それが42.195キロだったのです。
その戦いがマラトンの戦い。その名を取って
マラソンという競技ができました。
その他にもオリンピックにはやり投げ、ハンマー投げ、
射的など戦争をイメージする競技がたくさんあります。

聖火リレーはいつどこで発祥したかをご存知でしょうか? 

実は聖火リレーを考案したのはナチスドイツの
ヒトラーだったのです。
ギリシャのオリンピアからブルガリア、ユーゴスラビア、
ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを通って
ベルリンオリンピックの開催地ドイツまで聖火が
運ばれました。

ベルリンに聖火が到着したとき会場10万人の観客は
大盛り上がり、しかしヒトラーの真の目的は
そこではありませんでした。

3年後、第二次世界大戦が勃発すると、
チェコスロバキア、オーストリア、ハンガリー、
ユーゴスラビア、ブルガリアがドイツに攻め込まれて
負けてしまいます。

実は聖火リレーの真の目的は敵地の詳細な地形を
把握することだったのです。

ドイツの策略は成功となったわけです。  
そして、オリンピックのメダル獲得数上位10位と、
世界の軍事力10位をリスト化して並べてみましょう。
すると驚くべき事実がわかります。

「世界の軍事力ランキング2016年版」

1位 アメリカ   2位 ロシア  :3位 中国  
4位 インド  5位 イギリス  :6位 フランス  
7位 韓国  8位 ドイツ   :
9位 日本   : 10位 トルコ 11位 イスラエル
12位 インドネシア


ほとんどが一致するのです。
つまり、オリンピックの金メダル獲得数は
軍事力を示しているといえるのです。・・・




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2017年8月22日 (火)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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1.洋さんの期待

平成11年4月14日、山口県光市。本村弥生さん
(23才)と、娘の夕夏ちゃん(11ヶ月)が、
水質検査を装って侵入した福田孝行(18才、当時)に
殺害された。

弥生さんの首を絞めて殺害後にレイプし、傍らで泣く
夕夏ちゃんも床にたたきつけた上で、用意していた紐で
絞殺するという残忍な犯行だった。

犯人は弥生さんを押し入れに運び込んで座布団で隠し、
夕夏ちゃんは押し入れの天袋に放り込んだ。
帰宅した夫の洋さんが、二人の変わり果てた姿を
発見した。

やがて犯人が逮捕され、裁判が始まった。

私(洋さん)は裁判官というのは、いかに弥生や夕夏、
そして私になりかわって加害者を断罪してくれるのか、
どう厳しく追及してくれるのか、それをやってくれる
存在なのだと、信じこんでいました。

裁判や犯罪と無縁だった私にとっては、裁判官に対して、
漠然とその程度の知識しかなかったのです。

しかし、この期待が裏切られ、なおかつ山口地裁の
渡邊了造・裁判官から新たな苦しみを与えられようとは、
洋さんは予想だにしなかった。

2.「私たち裁判官は、あなたたち被害者に
  会う義務もない」

洋さんが「裁判官というのはおかしいぞ」と
気がつき始めたのは、3ヶ月後の第3回の公判だった。
この日、洋さんは裁判所に弥生さんと夕夏ちゃんの
遺影を掲げて入ろうとした。

しかし、入廷の時に裁判所の廷吏が「荷物」を
預けるように、と洋さんに命じたのである。
「これは遺影です。荷物ではありません」と言うと、
廷吏は手を広げて「これは規則だ。
持ち込みは許さない」と立ちふさがった。

洋さんが「裁判長に会わせてください。直接、
話をします」と言うと、廷吏は「ごじゃごじゃ、
ぬかすな!」とすごい剣幕。

10人ほどのマスコミの人が「そんな言い方は
おかしいだろう」と応援してくれたので、廷吏は
「じゃあ、裁判長に聞いてこよう」と法廷に入っていった。
しかし、裁判長からの伝言は信じられない
ようなものだった。

私たち裁判官は、あなたたち被害者に会う
義務もないし、あなた方が裁判官に会う権利もない。
裁判というものは、裁判官と検事と被告人の
三者でやるもので、被害者には特別なことは
認められていない。

廷吏は平然と裁判官の伝言を伝えた。
裁判官は被害者や遺族の味方などではない、
と洋さんは知った。

3.「計画性がない」

やがて洋さんは裁判官が「味方」でないどころか、
被害者・遺族の「敵」であることを知ることになる。

検察官は、被告が夕夏ちゃんの首を絞める紐を
持っていた事を、事件の計画性を示すものだと追求した。
被告側は「紐は偶然ポケットに入っていた」と主張したが、
検察側は「それはおかしいではないか」と迫った。
水質検査を装って侵入した犯人のポケットに剣道の
小手を絞める紐が入っていたのを、偶然だと
いうのである。

裁判官は、このやりとりが終わっても、何も言わないので、
犯罪に計画性があったと認めたのだな、と洋さんは思った。
しかし、後の判決では、「計画性がない」ことが減刑の
理由の一つになっているのを知って、愕然とする。

被告の福田は「更正の可能性がないとはいえない」として、
死刑にはならず、無期刑に減刑された。
しかし、少年法58条には、少年の無期刑は7年で
仮出獄できる、という規定がある。

渡邊裁判長は、無期判決を言い渡したあと、最後に
被告に向かって「本当に反省しなさい」と声をかけた。
遺族には会うことも、言葉をかける事もなかった裁判長は、
加害者には声をかけたのである。
福田は「ハイ、分かりました」と元気よく答えた。

弥生さんのお母さんは泣き崩れた。洋さんも泣きながら、
「すみません」というのが精一杯だった。
検察官は目を真っ赤にしながら、洋さんに言った。

こんな判決は絶対に認められない。ここであきらめたら、
今度はこの判決が基準になってしまう。
たとえ百回負けても、百一回目をやる。

4.「終始笑うのは悪なのが今の世だ」

広島高裁で、検事側は新たな証拠として福田が
友人に送った獄中書簡を提出した。
この友人は、洋さんが妻子の思い出を綴った
『天国からのラブレター』に感銘を受け、
福田の真実の姿を見ることが裁判には必要だと
思って、手紙の公開に踏み切ったのである。
その中にはこんな一節があった。

犬がある日かわいい犬と出会った。・・・
そのまま「やっちゃった」、これは罪でしょうか。

知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。
本村さんは出すぎてしまった。
私よりかしこい。だが、もう勝った。
終始笑うのは悪なのが今の世だ。

5年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、
刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。
キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。
じゃないと二度目のぎせい者がでるかも

こんな手紙を証拠として見せられながらも、高裁の
重吉孝一郎・裁判長は「悔悟の気持ちは抱いている」
として、一審の無期懲役を支持し、検察側の
控訴を棄却した。洋さんは言う。

つまり、結論は最初から決まっているのです。
事実認定のお粗末さというより、そもそも事実認定を
しようとしないのです。
そこから逃げているだけなのです。・・・

正義とは何か、日本の価値基準とは何か、
そういう大原則に、裁判官は向かって欲しいと思います。

洋さんは、全国犯罪被害者の会を結成し、
幹事として活動を続けている。

5.「江戸時代だったらよかったね。仇討ちができるから」

洋さんは、テレビの生放送で「裁判所が加害者を
死刑にしないのなら、自分が死刑にする」と殺人予告をし、
波紋を呼んだ。しかし、洋さんは例外ではない。

判決の後、親戚の人から江戸時代だったらよかったね。
仇討ちができるから、とよく言われましたが、
私もそう思います。

こんなおかしな判決が出るなら、裁判なんかやめて、
被告人を釈放して、私たちが仇を取るのを認めてください。
そうしたら、私が、この手で被告人をぶっ殺してやります。

こう語るのは、娘を殺された嵯峨正禎さん(59歳)。
被告人・横田謙二は、少年時代から空き巣、詐欺、
窃盗などの犯罪を繰り返し、昭和53年に知人の
父親を殺して金を奪った。

これにより無期懲役判決を受け、19年4ヶ月服役した後、
仮出獄。しかし1年も経たないうちに、嵯峨さんの娘
を殺したのだった。
それも死体を遺体を細かく切り刻んで、ゴミ袋に
捨てるという残虐さであった。

さいたま地裁での論告求刑の際に、検察がこの
死体損傷の場面を読み上げると、横田は
「いつまでやっているんだ」「しつけえなぁ」と横やりを入れ、
退廷の時には検事に「たわけっ」と吐き捨てて出て行った。
これほど反省のかけらも見せない被告人は珍しい、
とはある司法記者の言だ。

6.「何らの反省の態度を示していないわけではない」

「こんなおかしな判決」は、平成13年6月28日、
若原正樹・裁判長によって下された。
順調にエリート街道を走り、埼玉県下の重要裁判は
ほとんど若原裁判長に任されていたという。

判決は「無期懲役」であった。
殺人を犯して、一度無期懲役となった人間が仮出獄し、
また人を殺しても、刑務所に戻るだけなのである。
「被告人は、当公判廷においても、被害者を
殺害した事実自体は認めて謝罪の言葉を
述べてはいるのであって、本件について何らの
反省の態度を示していないわけではないといえる」
というのが、死刑にしなかった理由の一つであった。

嵯峨さんは、その時の気持ちをこう語る。

許せなかったのは、若原裁判長が無期刑言い渡しのあと、
横田に向かって「これからはしっかりと罪を償って生きて
いくように」と励ましたことです。

私は思わず涙と怒りで目が眩(くら)んでしまいました。
横田は、若原裁判長に励まされたあと、弁護人と
ニコニコ笑いながら握手をして勝利を喜んだんですよ。

裁判官が人の死をそんなに軽く考えているのかと思うと、
悔しくて悔しくて仕方がなかった。
私は周囲を憚(はばか)ることもできず、大声で
泣きながら検事に「この判決はおかしい。
なんとかしてください」と訴えました。

幸いな事に嵯峨さんの無念は2審で晴らされた。
東京高裁の高橋省吾裁判長は、一審判決を破棄し、
横田に死刑の判決を下した

。「原判決が、極刑も考慮に値するとしながら、
その選択を回避した各事情の認定、判断については、
いずれも是認できない」と、これほどまでに徹底的に
一審判決を糾弾した判決文は珍しいと言われた。

7.「写真は片付けてください」

もう一つ、遺族を苦しめた判決があります。
「私はあの裁判官の名前は忘れることができません」
という青木和代さん。

息子の悠君は15歳の時に交通事故にあい、
左半身不随となったが、持ち前の頑張りで
リハビリに没頭し、足を引きずりながらもなんとか
歩けるまでに奇跡的回復を遂げた。

勉強も頑張り、全日制の高校にも合格した。
ところが17歳と15歳の二人の少年に呼び出され、
「障害者のくせに生意気だ」とリンチを受けたのである。

悠君は顔、頭、腹、足と所構わず、70回以上殴られ、
意識を失った所を、コンクリート上に頭を下にして
3回も打ちつけられた。
悠君の脳はぐちゃぐちゃになり、6日後に
意識を取り戻すことなく死亡した。

少年の一人は、審理中、鑑別所から友人に
次のような手紙を出している。
 ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、
ヒマ、ヒマ・・・青木なぐったん、広まっているか、
ここ出たら遊ぼう

人の命を奪ったことへの反省も悔悟も見られない。
こういう少年を村地勉・裁判官は「内省力あり」
「感受性豊か」などという理由で、少年院送りに
したのである。・・・

今日の朝のオリエンテーションのテープで、
少年院に入っている期間は、2年以内ってわかって
バリバリさぁがんばるぞ~!! って思ってん! 
オレ早く出て早く結婚するわ!

これらの手紙は、少年を検察に送致して厳罰に
処すよう要求する膨大な署名簿と共に、
家裁に提出された。

これに対して、家裁の書記官は「署名の数が
何十万あろうと、審判には何の意味もありません。
裁判官は判例で裁きますから」としか反応
しなかったという。

少年法が改正された直後で、和代さんは
村地裁判官に遺族としての意見陳述を行った。
和代さんが悠君の写真を抱えて部屋に入ると、
村地裁判官は一言「写真は片付けてください」と
冷たく言った。

和代さんが約40分間、「少年を検察に逆送して
厳罰に処してください」と泣きながら訴えたが、
村地裁判官は最後に「加害者から謝罪は
ありましたか」と聞いただけだった。・・・

8.裁判員制度で偏向裁判長にブレーキを

以上、3つのケースを見ると、いくつかの共通点が
浮かんでくる。

第一の共通点として、犯罪者への刑を軽くする
理由として、「更正の可能性がないとはいえない」
「何らの反省の態度を示していないわけではない」
「内省力あり」「感受性豊か」などを挙げている
事である。・・・

加害者の手紙などから、それらは一般人には
到底、納得できない事だ。
「結論は最初から決まっているのです。
事実認定のお粗末さというより、そもそも
事実認定をしようとしないのです」という
本村洋さんの言が説得力を持つ。・・・

裁判は事実認定とそれに基づく刑の決定という
二つの部分からなる。
問題は本村洋さんの言うように、最初から
結論を決めて、それにあわせて事実認定を
ねじ曲げてしまう裁判官がいる事である。

これに関しては、これから導入される裁判員制度で、
一般国民が刑事裁判に参加し、事実認定にも
加わることで、こうした裁判長の独断にブレーキを
かけることができるだろう。・・・

9.司法の健全化を阻害する人権擁護法案

第二の共通点は、これらの裁判官が遺族の
気持ちなどにはまったく配慮していない、という事である。
「写真は片付けてください」、
「被害者に会う義務もない」と言ったり、
判決でも遺族には言葉もかけない。

これらの裁判官たちは、加害者の人権のみを
考慮して、被害者やその遺族の人権を配慮しない
偏った人権思想の持ち主だと見られる。
こうした偏った裁判官を、報道機関やインターネットで
糾弾することは、再発防止のためにも、
きわめて重要である。

ただし、現在、提案されている人権擁護法案が
成立すると、こうした批判や報道自体が、
加害者や裁判官への人権弾圧だとして
封じ込めされる恐れが大きい。
司法の健全化のためにも、自由な言論が
不可欠なのである。・・・

裁判官とは刑事訴訟法に則って、あくまで検察の
捜査に落ち度はないか、証拠に遺漏がないかを
判断し、刑法の定めによって忠実に量刑を
斟酌する仕事を行う者であり、敵は検察です。

見方を変えれば被告の味方といってもよい。
犯罪被害者が視野に入ってこないのは当たり前の話。
この辺に混線があると思う・・・


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月21日 (月)

妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある


されど愛しきお妻様【9-2】

支えられてきたのは、僕だったのだ。

一方で、お妻様は常に僕がなにを望んでいるのかを
考え、自身の持つ能力の中でやれる限り精いっぱいの
ことをしてくれている。

相手がした方がいいと思うことを考えて、
押し付ける僕。
相手がしてほしいことを考えて精いっぱいやる
(けどちょっとズレてたり中途半端だったりする)
お妻様。

果たしてどちらが優しいのだろう。
そのことに思い至った僕は、深夜の病室で滂沱と
流れる涙を抑えることができなかった

なんて時間がかかったんだろう。ここに至って、
お妻様の大病をもってしても半端にしか
たどり着けていなかった本当の理解に、
ようやく僕はたどり着いたのだと思う。

こうした気づきの経緯や、お妻様がその後
もどのようにして僕を支えてくれたのかの諸々は、
拙著「脳が壊れた」にも、本連載開始の
契機でもあった
『42歳「脳が壊れた」ルポライターのその後〜
私が障害を受容するまで』にも記した。

が、そこに書き漏らした(というか書くことから
逃げた)のは、僕がお妻様を責める気持ちが、
自らの脳梗塞後にも、上記のような気づきののちも、
根強く残っていたことだろう。
改めて大懺悔である。

シビアな現実

ようやくあたしの気持ちがわかったか
ともあれ、ようやく気付きに至って、改めて
立ち位置は確定した。
僕は支えているようで、実は支えられている。
そして、僕は脳梗塞を経て高次脳機能障害を
負うこととなり、いよいよお妻様の支えが
なければ生きていけなくなってしまった。

ならばどうしよう。どんなに気づいたところで、
現実はシビアだ。
なぜならお妻様は大人の発達障害当事者。
僕にとって最大の支援者でありながら、
具体的に家庭の運営とか維持とか収入面での
支援を丸投げで期待することはできない。

お妻様がそれでいいと言っても僕はゴミ屋敷には
住みたくないし、毎日コンビニ弁当食べてたら
お互いに病気が再発しかねないし、
何より僕も再び仕事に復帰して所得を得なければ
ならない。

お妻様が望まなくとも、僕自身がある程度の
生活環境を維持できなければ、またストレスから
別の病気になってしまいかねない。

ではどうすればいいのか?

身体面のマヒは比較的軽度だった僕はほんの
50日ほどで退院することになったが、それに先立っての
一時帰宅の日に家の中のあまりのカオスぶりに
パニックを起こし、1歩も歩けなくなってしまった。

梅雨明けの高い湿度に、床にもテーブルにもへばりつく
猫の毛。茶の間の床は物に埋め尽くされて、
文字通り足の踏み場がない。

そして僕の抱えた高次脳機能障害には「注意障害」
「遂行機能障害」などがあったから、僕はその床に
散らばった物を見つめてパニックを起こすだけで、
どう片せばいいのか考えることもできなくなっていた。

とはいえ、このカオス振りは、もともと片づけられない
お妻様が毎日毎日病院の僕を見舞って支えてくれた
結果でもある。うう、どうすればいいのだろう。
物の多さに混乱して心が窒息しそうだ。

楽にこの状況を抜け出したいのならば、茶の間の
掃き出し窓を開けて床に散らばる物を片っ端から
庭に放り出すのが最善の手段のような気がするが、
そんなことをすればお妻様は激昂するだろうし、
何より傷つくだろうし、掃除よりもはるかに
大変な夫婦の関係修復というタスクを作り出して
しまいかねない。

結局その日の僕は、何分かハアハアしながら
動けなくなり、そこからなんとか気力を振り絞って
立ち上がり、2時間にも及ぶ掃除を開始。

どうにか茶の間を人の(僕の)過ごせる空間にした
僕だったが、その後に血圧を測定したら、
今度は脳梗塞じゃなくてくも膜下出血を起こしそうな
ほどの数字が出てしまった。

けれどこの日の経験は、その後の我が家の「改革」に
大きなヒントを与えてくれたのだった。
脳梗塞後の僕には、高次脳機能障害の中でも注意障害や
遂行機能障害と情緒の抑制困難が残った。
けれども、お妻様は子どものころから注意障害や
遂行機能障害をもっていて、それは大人になっても
改善していない。

高次脳機能障害と言う言葉は主に脳外傷や脳卒中
などを原因として、脳の高次脳機能=記憶や
認知判断機能が失われることを指すが、発達障害とは
生まれつきこの高次脳機能に問題があったり、
ある時点から発達しなかったりといった障害を指す。

つまり、先天なのか中途障害なのかの差はあっても、
基本的に高次脳機能障害と発達障害は
同じものだとしても言い過ぎではない。
ならば、僕は脳梗塞に倒れることで、僕はお妻様と
同じ当事者感覚を得たことになるといっても、
また言い過ぎではない。

「ようやくあたしの気持ちがわかったか」(お妻様)
「わかったけど、ちょっと辛すぎっす」
発達障害妻&高次脳夫。我が家の大改革が
始まった。
・・・

次回に続く



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



A111



歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…








P R :

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隙間産業(ニッチ市場)

妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある


されど愛しきお妻様【9-1】

脳腫瘍で倒れたものの、懸命な治療が功を奏して
快復しつつあったお妻様。
しかし今度は、そんなお妻様を支えるべく、
オーバーワーク 気味だった鈴木さんが脳梗塞で
倒れてしまい……。
脳が壊れて、ようやく妻と僕が求める「優しさの違い」に
気づいた

なるべくしてなった

お妻様が脳腫瘍を患い、5年生存率8%の告知を
受けてから3年半の、2015年5月末。僕は41歳で、
脳梗塞に倒れた。
右側頭葉に、アテローム血栓性脳梗塞発症。
原因は高血圧や動脈硬化などというが、自らを顧みて
この脳梗塞は、「なるべくしてなった」のだと思う。

お妻様の死を考えることは、僕にとってはとても
耐えきれるものではなかった。
当時の僕は、友人にもお妻様本人にも「早く死にたい。
お妻様より先に死にたい」とたびたび言っていた。
そしてその死の影に怯えるあまり、僕はほぼすべての
家事を一人で背負い込んだ。完全に暴走していたのだ。

お妻様と僕は食事の時間が合わないから、
毎日六食を作る。
お妻様のメニューに関しては本人の食欲は無視して、
高たんぱく高ミネラル高カロリーの免疫対策メニュー。
加えて日々の掃除と洗濯と庭の維持と……
お妻様にお願いしていたのは、猫の世話と、
どうにも手が回らない時の食器洗いぐらいだ。

一方で仕事も詰めて詰めて詰めまくった。
稼いでも稼いでも、溜めても溜めても安心は
できなかった。
残念ながら30代前半で脳腫瘍に倒れたお妻様は
医療保険にも生命保険にも加入していなかったし、
一度脳腫瘍をやってしまえばその後に新規で
保険加入は困難だ。

再発したらまず予後は絶望的と言われている
膠芽腫だから、5年生存率8パーセントは、
5年再発率92%とも置き換えられる。

そして、この92%に入ってしまった場合には、
最大限の先端医療と最後には苦しむことのない
緩和ケアをしてあげたかったから、
身を削るようにして働いた。

幸いにも(不幸にも)もともと睡眠時間は極端に
短い方だったから、起きている間中、仕事を
詰め込んだ。

そんな中で、脳梗塞に倒れる少し前から
「もう無理かな」という予感もあった。
特に当時抱えていた週刊漫画連載の原作仕事は
猛烈な負荷だった。

毎週出版社に赴いて次話の簡単な物語の流れを
プレゼンし、担当編集や漫画家の希望を聴取して
その場でシナリオ化。
さらにそのシナリオを2稿3稿とブラッシュアップする。

そんな作業は最も短くても6時間、
最長で16時間ぶっ続けということもあり、
出版社に缶詰で作業して明け方に帰宅し、
座って休むこともなく台所に立ってお妻様の
朝食を作ることが、たびたびあった。

ちなみにこうして出かけている間のお妻様の食事も、
やはり弁当箱に作り置いて家を出るから、本当に
休む間がない。

座ってしまったら立ち上がれなくなりそうで、
座れなかった。
自らの食事は台所で丼物を作って立ったまま
済ませることも少なくなかった。

「このペースで働いているとそろそろ倒れると思う」
そうお妻様に言って、倒れた際に連絡してほしい
担当編集や大事な継続取材対象者をリストアップして
渡していた。

リストを手渡した際のお妻様の反応は覚えていないが、
たぶん僕の内心はこうだったとおもう。

「お妻様に生き延びてほしいから家事も仕事もすべて
俺が背負い込むし、俺がそうするって言ったけど、
君は本当に俺が倒れてしまうまで、そうやって家事も
仕事もしないでいるの?」

そう、よく考えなくても僕の脳梗塞は
「なるべくしてなった」。
「お前のせいで倒れた」3年半かけた「自殺企画」
むしろあの暴走は、3年半の時間をかけた
自殺企図だったし、どれほど僕が僕自身を追い込んでも
「やっぱり何もしてくれない」お妻様に対して仕掛けた
耐久レースだったのだと思う。

しかも僕しか走っていない独り相撲の耐久レースだ。
なんという愚かさなのだろうか。

こうして追い詰めた結果、死ぬならぽっくり死ねると
思っていた僕は、全然ぽっくり死ねずに脳梗塞で倒れた。
そして倒れた翌日には、病院のベッドに付き添って
くれているお妻様に対して、マヒして呂律の回らぬ口調で
相変わらずの叱責の言葉を投げつけた。

「分かってる? お妻様は、俺が本当に倒れちゃうまで
何もしてくれなかった。
死ぬかもって言ってたのに。俺はお妻様に
殺されかけたんだと思う」

ちがう。あほか僕は。
家事も仕事も何もしないでいいから生きてくれと
お妻様に宣言してすべてを背負い込んだのは、
誰でもない僕自身だ。それを棚に上げて、なんという
理不尽なことを言うのか。

けれど、感情の抑制が効かずに(脳梗塞を起こした部分に
感情抑制をつかさどる部位があった) 
ワナワナしながら「お前のせいで倒れた」と呪詛の言葉を
吐く僕に、お妻様はひとことも言い返すことなく、
ただただ毎日病院にやってきて、定められた面会時間内
いっぱいを使って、僕に寄り添ってくれたのだった。

僕がどんなに取り乱していても、制御できない感情に
パニックを起こしていても、お妻様は毎日毎日
欠かすことなく病院に来てくれた。

病床の僕の横に付き添い、まっすぐ歩けずやたら
壁や段差にぶつかる僕の手を引いて病院内を歩き、
僕が倒れる前と同じに、今日の猫と何を話しただとか、
昨日の動物&自然科学系まとめサイトの面白い
記事報告だとか、庭のカマキリが三齢幼虫になった
といったとりとめもない話をしてくれる。

そんなお妻様だったが、僕に付き添いながら、
泣き言は一言も言わなかった。
今後の仕事のこと、生活のこと、家の維持。
そして残ってしまった障害の回復について。

不安に思うことは数えきれないほどにあったとだろうに、
泣き言は一言も漏らさずに、ただ「頑張りすぎたね、
すこし休もうよ」と言ってくれた。
そして、ただただ僕の手を握って、背中をなでてくれた。

「でも頑張りすぎたのも休めなかったのも、
お妻様のためじゃないか」 
そんな僕の憤りは、淡々と傍らに居続けてくれる
お妻様の前に、徐々に封じ込められていった。
そしてあれはまだ緊急入院から急性期病棟に入って、
1週間ぐらいのことだったろうか。

僕の中で、憤りの感情と感謝の感情が逆転した。
まだ意識は朦朧としていることが多かったし、
夜中にそれまでの人生で経験したことのない
パニックに襲われて、あまりの苦しさに体中を
かきむしっていた中で、僕は一つのことに
気づいて呆然としたのだ。

僕はお妻様から、「その言葉」を聞いたことが
ないのだ。
お妻様が本当に望んでいたこと
ただ「そばにいてほしい」

家を掃除して綺麗に保ってほしい、洗濯をしてほしい、
美味しい食事を作ってほしい、
仕事を頑張って成功させてほしい。
稼いでほしい、貯金をしてほしい。

どれほど過去を掘り起こしても、ただ一言とて
そんな言葉をお妻様に言われた記憶がない。
お妻様がまだ彼女様で、僕の家に押しかけ同棲を
かましてから、実に16年以上のふたりの生活の中で、
お妻様からこんな要求の言葉を言われたことが、
一度たりとないのだ。

そうだった。お妻様が16年間僕に言い続けて
きたことは、一貫して「そばにいてほしい」
「一緒に居る時間がもっとほしい」
「どこそこに行きたいね(一緒に)」といった
願いばかりだったじゃないか。

もちろん変な物欲魔人のお妻様だから、あれが欲しい
これが欲しいと(安い&妙な)物をねだることは
あったけど、少なくとも僕がお妻様の「ために」
やってきたつもりだった家事も仕事も何もかも、
お妻様から「やってほしい」と言われたことは
一度たりともなかったじゃないか。

だとすれば、僕はそれまで何をしてきて、
何を頑張ってきて、倒れたのだろう。
お妻様がなにを望んでいるかなど関係なく、
僕自身が「お妻様は、我が家は、こうしたほうが
いい」と思ったことをやって来て、勝手に
倒れただけではないのか。 ・・・


次回に続く


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった

A111


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







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隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月20日 (日)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。・・・

どこにいても、おそろしく、かえって大カフエでたくさんの
酔客または女給、ボーイたちにもまれ、
まぎれ込む事が出来たら、自分のこの絶えず
追われているような心も落ちつくのではなかろうか、
と十円持って、銀座のその大カフエに、ひとりではいって、
笑いながら相手の女給に、 「十円しか無いんだからね、
そのつもりで」  と言いました。

「心配要りません」  どこかに関西の訛なまりがありました。
そうして、その一言が、奇妙に自分の、震え
おののいている心をしずめてくれました。
いいえ、お金の心配が要らなくなったからではありません、
そのひとの傍にいる事に心配が要らないような
気がしたのです。  

自分は、お酒を飲みました。そのひとに安心して
いるので、かえってお道化など演じる気持も起らず、
自分の地金じがねの無口で陰惨なところを隠さず見せて、
黙ってお酒を飲みました。

「こんなの、おすきか?」  
女は、さまざまの料理を自分の前に並べました。
自分は首を振りました。
「お酒だけか? うちも飲もう」  秋の、寒い夜でした。

自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、
記憶が薄れ、たしかではありません。
情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです)
言いつけられたとおりに、銀座裏の、或る屋台の
お鮨すしやで、少しもおいしくない鮨を食べながら、
(そのひとの名前は忘れても、その時の鮨の
まずさだけは、どうした事か、はっきり記憶に
残っています。

そうして、青大将の顔に似た顔つきの、丸坊主の
おやじが、首を振り振り、いかにも上手みたいに
ごまかしながら鮨を握っている様も、眼前に見るように
鮮明に思い出され、後年、電車などで、はて見た顔だ、
といろいろ考え、なんだ、あの時の鮨やの親爺に
似ているんだ、と気が附き苦笑した事も再三あった
ほどでした。

あのひとの名前も、また、顔かたちさえ記憶から
遠ざかっている現在なお、あの鮨やの親爺の顔だけは
絵にかけるほど正確に覚えているとは、
よっぽどあの時の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛を
与えたものと思われます。

もともと、自分は、うまい鮨を食わせる店というところに、
ひとに連れられて行って食っても、うまいと思った事は、
いちどもありませんでした。
大き過ぎるのです。親指くらいの大きさにキチッと
握れないものかしら、といつも考えていました)

そのひとを、待っていました。  
本所の大工さんの二階を、そのひとが借りていました。
自分は、その二階で、日頃の自分の陰鬱な心を
少しもかくさず、ひどい歯痛に襲われてでもいるように、
片手で頬をおさえながら、お茶を飲みました。

そうして、自分のそんな姿態が、かえって、
そのひとには、気にいったようでした。
そのひとも、身のまわりに冷たい木枯しが吹いて、
落葉だけが舞い狂い、完全に孤立している感じの
女でした。  

一緒にやすみながらそのひとは、自分より二つ
年上であること、故郷は広島、
あたしには主人があるのよ、広島で床屋さんを
していたの、昨年の春、一緒に東京へ家出して
逃げて来たのだけれども、主人は、東京で、
まともな仕事をせずそのうちに詐欺罪に問われ、
刑務所にいるのよ、

あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、
刑務所へかよっていたのだけれども、
あすから、やめます、などと物語るのでしたが、
自分は、どういうものか、女の身の上噺ばなし
というものには、少しも興味を持てないたちで、
それは女の語り方の下手なせいか、つまり、
話の重点の置き方を間違っているせいなのか、
とにかく、自分には、つねに、馬耳東風なので
ありました。  

侘びしい。  自分には、女の千万言の身の上噺よりも、
その一言の呟つぶやきのほうに、共感をそそられるに
違いないと期待していても、この世の中の女から、
ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事が
ないのを、奇怪とも不思議とも感じております。

けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは
言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、
からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに
持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだも
その気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした
陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く
枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、
離れる事が出来るのでした。  

あの白痴の淫売婦たちのふところの中で、
安心してぐっすり眠る思いとは、また、全く異って、
(だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした)
その詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は、
自分にとって、幸福な (こんな大それた言葉を、
なんの躊躇ちゅうちょも無く、肯定して使用する事は、
自分のこの全手記に於いて、再び無いつもりです)
解放せられた夜でした。  

しかし、ただ一夜でした。朝、眼が覚めて、はね起き、
自分はもとの軽薄な、装えるお道化者になっていました。
弱虫は、幸福をさえおそれるものです。
綿で怪我をするんです。
幸福に傷つけられる事もあるんです。

傷つけられないうちに、早く、このまま、
わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を
張りめぐらすのでした。

「金の切れめが縁の切れめ、ってのはね、あれはね、
解釈が逆なんだ。金が無くなると女にふられるって
意味、じゃあ無いんだ。
男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気銷沈して、
ダメになり、笑う声にも力が無く、そうして、
妙にひがんだりなんかしてね、

ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、
半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、
金沢大辞林という本に依ればね、可哀そうに。
僕にも、その気持わかるがね」  

たしか、そんなふうの馬鹿げた事を言って、
ツネ子を噴き出させたような記憶があります。

長居は無用、おそれありと、顔も洗わずに素早く
引上げたのですが、その時の自分の、
「金の切れめが縁の切れめ」という出鱈目でたらめの
放言が、のちに到って、意外のひっかかりを生じたのです。  

それから、ひとつき、自分は、その夜の恩人とは
逢いませんでした。別れて、日が経つにつれて、
よろこびは薄れ、かりそめの恩を受けた事が
かえってそらおそろしく、自分勝手にひどい束縛を
感じて来て、

あのカフエのお勘定を、あの時、全部ツネ子の
負担にさせてしまったという俗事さえ、次第に
気になりはじめて、ツネ子もやはり、下宿の娘や、
あの女子高等師範と同じく、自分を脅迫するだけの
女のように思われ、

遠く離れていながらも、絶えずツネ子におびえていて、
その上に自分は、一緒に休んだ事のある女に、
また逢うと、その時にいきなり何か烈火の如く
怒られそうな気がしてたまらず、逢うのに
頗すこぶるおっくうがる性質でしたので、

いよいよ、銀座は敬遠の形でしたが、しかし、
そのおっくうがるという性質は、決して自分の狡猾
こうかつさではなく、女性というものは、休んでからの事と、
朝、起きてからの事との間に、一つの、塵ちりほどの、
つながりをも持たせず、

完全の忘却の如く、見事に二つの世界を切断させて
生きているという不思議な現象を、まだよく呑みこんで
いなかったからなのでした。

十一月の末、自分は、堀木と神田の屋台で安酒を飲み、
この悪友は、その屋台を出てからも、さらにどこかで
飲もうと主張し、もう自分たちにはお金が無いのに、
それでも、飲もう、飲もうよ、とねばるのです。

その時、自分は、酔って大胆になっているからでも
ありましたが、「よし、そんなら、夢の国に連れて行く。
おどろくな、酒池肉林という、……」
「カフエか?」

「そう」 「行こう!」  というような事になって二人、
市電に乗り、堀木は、はしゃいで、「おれは、今夜は、
女に飢え渇いているんだ。女給にキスしてもいいか」  
自分は、堀木がそんな酔態を演じる事を、あまり
好んでいないのでした。

堀木も、それを知っているので、自分にそんな念を
押すのでした。
「いいか。キスするぜ。おれの傍に坐った女給に、
きっとキスして見せる。いいか」 「かまわんだろう」

「ありがたい! おれは女に飢え渇いているんだ」
銀座四丁目で降りて、その所謂酒池肉林の大カフエに、
ツネ子をたのみの綱としてほとんど無一文ではいり、
あいているボックスに堀木と向い合って腰をおろした
とたんに、ツネ子ともう一人の女給が走り寄って来て、
そのもう一人の女給が自分の傍に、

そうしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたので、
自分は、ハッとしました。
ツネ子は、いまにキスされる。惜しいという気持では
ありませんでした。自分には、もともと所有慾と
いうものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持は
あっても、その所有権を敢然と主張し、人と争うほどの
気力が無いのでした。

のちに、自分は、自分の内縁の妻が犯されるのを、
黙って見ていた事さえあったほどなのです。自分は、
人間のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。
その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。

ツネ子と自分とは、一夜だけの間柄です。
ツネ子は、自分のものではありません。
惜しい、など思い上った慾は、自分に持てる筈は
ありません。けれども、自分は、ハッとしました。

自分の眼の前で、堀木の猛烈なキスを受ける、
そのツネ子の身の上を、ふびんに思ったからでした。
堀木によごされたツネ子は、自分とわかれなければ
ならなくなるだろう、しかも自分にも、ツネ子を
引き留める程のポジティヴな熱は無い、

ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネ子の不幸に
一瞬ハッとしたものの、すぐに自分は水のように
素直にあきらめ、堀木とツネ子の顔を見較べ、
にやにやと笑いました。
・・・

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







P R :

Bu

隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月19日 (土)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


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消えた少年

昭和59年1月10日午前9時30分ごろ。北海道札幌市 
豊平区に住む、城丸 隆氏の家の電話が鳴った。
この日はまだ札幌市内の学校は冬休みで、たまたま
電話の近くにいた次男で小学校4年生の秀徳君(9)が
電話に出た。

この電話も後で考えれば不信な電話だった。
電話に出た秀徳君は、家族の誰とも電話を代わらず
相手の話を聞いている。
たまたま自分宛てにかかってきた電話だったのだろうか。
しかも秀徳君は時おり「はい・・はい・・。」と
返事をしている。友達と話しているという感じではなく、
まるで年上の誰かに文句でも言われているような対応だ。

「誰からの電話?」母親が近寄ってそっと尋ねてみるが
秀徳君は返事をしない。
間もなく電話は終わり、受話器を置いた秀徳君は、
「ちょっと出かけて来る。」と言い出した。

「どこへ行くの?」と母親が尋ねる。
「ワタナベのお母さんが、僕のものを知らないうちに
借りたらしいんだ。それを返したいと言ってる。
函館に行くと言ってる。車で来るからそれを
取りに行くんだ。」

その場には父も兄もいたが、誰も言っている意味が
よく分からなかった。
秀徳君はすぐに出かける用意をして玄関で
長靴を履(は)き始めた。

「寒いからジャンバーを着て行きなさい。」母親が言うと、
ジャンバーを着た秀徳君はすぐに家から出発した。
悪い予感を感じたのか、母親は長男(小6)に
「秀徳の後をつけて。」と頼んだ。

すぐに兄も家を出た。前日降った雪の積もる道を
秀徳君が歩いていく。その後を兄が追う。
しばらく歩いて秀徳君は「ニ楽荘」というアパートの
あたりで左に曲がった。

しかし姿が確認出来たのはここまでで、兄は近眼で
慌てて家を出たためにメガネをかけないまま
出て来てしまったのだ。左へ曲がったところまでは
見えたが、その後秀徳君がニ楽荘に入っていったか
どうかまではよく見えなかった。

ニ楽荘に近寄って辺りを見まわしたが、秀徳君はいない。
ニ楽荘の隣には「ワタナベ」という家が立っている。
これが秀徳君の言っていた家だろうか。
しばらくそこで待っていたが秀徳君が出て来ないので、
兄はいったん家に戻って母親に報告し、母親と
一緒に再びここへ戻って来た。

しばらく待ってみたが秀徳君は現れる様子はない。
母親は思い切ってワタナベ家のインターホンを押して
尋ねてみることにした。
ワタナベ家にはその時、高校三年生の娘が一人で
留守番をしていたが、秀徳君のことを尋ねても
「誰も来ていませんけど・・。」と言う。

ことの経緯を伝えても、電話などはかけていないという
返事だった。この家にいないとなれば手がかりはない。
母親と兄は手分けしてその辺りを探し回ったが、
秀徳君を見つけることは出来なかった。

父親に相談し、12時30分ごろ、交番に捜索を頼んだ。
連絡を受けた警官はすぐに辺りの聞き込みを行った。
目撃者は案外すぐに見つかった。

ニ楽荘の2階に住む工藤加寿子(くどうかずこ)という
女性が秀徳君に会ったと証言したのだ。
工藤加寿子は2歳の娘と2人暮らしで、以前は
ススキノでホステスをしていが、勤めを辞めたばかりで、
この日も家にいたのだ。

しかしこの工藤加寿子こそ、後に秀徳君の誘拐容疑で
逮捕されることとなる女性である。

この時加寿子は、警官に対して「今日の午前中、
外の空気を吸いにアパートの前の道路に出て、
5分くらいで部屋の前まで戻ったんですけど、その時に
小学生くらいの男の子が近づいて来て
『ワタナベさんの家を知りませんか。まっすぐ行って
階段を昇る家だと聞いたんですけど。』と尋ねるので
『隣の家がワタナベさんだけど、その家でないの?』
と言うと『どうも。』と言って立ち去りました。
その後私は部屋に戻ってドアを閉めました。」
と答えている。

ワタナベ家は一軒屋ではあるが、玄関が二階にある
造りになっている。
階段を昇る家という言葉には確かに該当する。
警官はワタナベ家にも事情聴取を行ったが、
留守番の女子高生は先ほどと同じ答えを困ったように
繰り返すだけだった。

更に任意でワタナベ家の家の中も捜索したが、
秀徳君は見つからなかった。

この後警察は公開捜査に切り替えて捜索を行ったが、
何も手がかりは得られなかった。また、誘拐ならば
犯人側からの何らかの連絡がありそうなものだが、
それもない。

事件は秀徳君の失踪(しっそう)という形でいったん
終了し、これ以降の展開は何もなかった。
ただ、最後に接触した人物が工藤加寿子ということもあり、
加寿子に対して容疑者として警察は疑いを
持ってはいたものの証拠は何もなく、捜査は
行き詰まることとなった。


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▼もう一つの疑惑

工藤加寿子は昭和30年に北海道 新冠(にいかっぷ)町 
節婦(せっぷ)に生まれ、中学までここで過ごした後、
集団就職で東京の紡績会社に就職した。

しかしすぐにそこを辞め、19歳の時から熱海の
スナックで働くようになった。これ以降、夜の世界で
横浜や神戸の店を転々とするようになる。

昭和57年に上野のショーパブのオーナーと結婚し、
娘が生まれたのだが翌年離婚し、子供を連れて
北海道へ帰って来ていた。

秀徳君が失踪して2年後である昭和61年、加寿子は
樺戸(かばとぐん)郡 新十津川町の農家の男性と
見合い結婚した。加寿子にとっては二回目の
結婚である。

相手は初婚で35歳の和歌 寿美雄さんという男性だ。
寿美雄さんの方が加寿子を随分と気に入り、
結婚を決めた。
ただこの結婚は、寿美雄さんの親戚や身内からは
反対の声が上がっていた。

寿美雄さんは農家で生きてきた男、加寿子は
東京にもいて、夜の店で生きてきた女で、
これまでの環境が違い過ぎてうまくいくはずがないと
誰もが思ったのだ。

「農作業はやらんでいい。ただ家にいてくれれば
いいから。」農作業は手伝わないという約束で、
寿美雄さんの住んでいた二階建ての一軒屋で
2人で暮らすこととなった。

だが周囲の思った通り、2人はやはりうまくは
いかなかった。約束とはいえ、忙しい時期でも
加寿子は全く農作業を手伝わずに、しょっちゅう
パチンコに出かけ、昼まで寝ていて食事の用意も
ほとんどしない。

時々娘を連れて札幌に遊びに行き、一週間くらい
帰らない時もあった。
金を渡さないと怒鳴りだし、保険金の名義も自分
(加寿子)を受け取り人に書き換えさせた。
また、寿美雄さんは将来家を建てるつもりで
2千万円ほど貯金していたのだが、それも
気づかない間に加寿子に全て使われていた。

寝室も別々で一階を加寿子、二階を寿美雄さんが
使っており、冷蔵庫や洗濯機も別々だった。
家庭内別居とほとんど変わらないような生活である。
寿美雄さんからすれば、家事や作業もほとんど
しない上に金だけ吸い上げられているようなものである。

結婚してから寿美雄さんの顔から生気がなくなり、
顔色がだんだんと悪くなっていった。
こういった生活を寿美雄さんは、仲の良かった
義理の兄にたびたび相談していたが、

ある日2人で酒を飲んでいる時、寿美雄さんは
「俺、殺されるかも知れない。」と真剣な顔で
兄に訴えた。
保険金の名義のことや、加寿子の金使いの荒さ、
結婚してから体調がだんだんと悪くなっていたことなど、
保険金殺人の可能性を薄々感じ始めていたのだ。

元々加寿子に良い印象を持っていなかった兄は
この時から寿美雄さんに離婚を勧めている。また、
親戚たちからも「無理やりにでも離婚させなければ。」
という意見が出始めていた。

そして昭和62年12月30日深夜、事件は起こった。
寿美雄さんの家が火事になったのだ。
午前3時ごろ寿美雄さんが寝ている部屋から
出火した炎は、またたく間に燃え広がり、
家全体に広がった。

義理の兄の家にも近所の人から電話で連絡が入った。
兄の家は寿美雄さんの家が見える場所に建っている。
急いでカーテンを開けてみると、寿美雄さんの家が
炎に包まれているのがはっきりと見えた。

「やられた!」思わず兄は叫んだ。
あの女の仕業に間違いない。兄は直感した。
火災がおさまったのは2時間後の午前5時ごろである。
焼跡から寿美雄さんの焼死体が発見された。

加寿子と娘は逃げていて無事だった。
しかし後の調査で加寿子の不信な行動が次々と
発覚することになる。

深夜の火災であるにも関わらず、寝まき姿などで
慌てて逃げたような様子がない。
加寿子と娘は逃げる準備が整っており、
髪もセットして靴下も履(は)いている上に
ブーツを履き、きちんと外出用の服を着ていた。

二階で出火したことを気づいた時点で、一階で
寝ていたはずの加寿子は自宅から119番出来た
はずであるが、それもせずに近くの家に助けを
求めに行っている。
それもすぐ隣の家ではなく、300メートル先にある
二番目の隣の家を訪れている。

緊急事態ならば家のドアを激しく叩いて助けを
求めそうなものであるが、娘と手をつないで玄関の
チャイムを鳴らして相手が出てくるのを待っていた。

焼け残った納屋(なや)には、火災の間に家から
持ち出した衣装箱が積み上げられていたが、
中身は加寿子と娘の物ばかりで、寿美雄さんの物は
何も入っていなかった。

寿美雄さんには1億9千万円の保険金が
かけられており、受け取り人は加寿子になっている。
親戚一同も当然保険金殺人を疑う。

警察も事件の方面から調査を開始したが、
消防が出火原因を特定出来なかったこともあって
加寿子の放火が立証されることはなかった。

しかし保険会社は保険金の支払いを拒否し、
加寿子も後に保険金請求を取り下げている。
そしてこの後加寿子は新十津川町を去って行った。

四十九日の法要の時には出席した親戚たちから
激しく問い詰められたが加寿子は疑惑を全面否定し、
あくまでも悲劇の妻の立場を貫いた。


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▼火災の跡から発見された人骨

寿美雄さんの家が焼け落ちてから半年後、
あの時の火災で焼け残った納屋の中を、
寿美雄さんの義理の兄が片付けていた。

棚の上を片付けようと、そこに置かれてある
ビニール袋を手にとってみた時、その中に
妙なものが入っていることに気づいた。

それは何かの骨だった。骨は焼かれた形跡があり、
細かく砕かれている。
加寿子を放火殺人の犯人と疑っていた兄は、
『あの女、まさか別の殺人でもしているのでは?』
との考えが頭をよぎり、念のため警察に通報した。

すぐに警察が来て骨の鑑定をすることとなった。
骨は人骨であり、血液型や歯の大きさから、
行方不明になっていた城丸 秀徳君のものでは
ないかと推定された。

「ワタナベさんの家に行って来る。」といったまま
行方不明となり、加寿子が最後の目撃証言をした、
あの秀徳君である。

この時点で秀徳君の事件から4年が過ぎていた。
義理の兄も、この時になって初めて加寿子が
誘拐犯として警察からマークされている
人物だと知った。

あの時から行き詰まっていた「秀徳君失踪事件」が
再び動き出した。
秀徳君が失踪した当時から、加寿子には多額の
借金があったことも判明している。

城丸秀徳君の父親は会社社長で、家も町内では
目立つ豪邸である。そのため加寿子がここへ
目をつけ身代金目的で秀徳君の誘拐を企て、
電話で誘い出して拉致(らち)するところまでは
成功したものの、思ったよりも警察の捜査が早く、
身代金を断念して秀徳君を殺した、と
警察は推定した。

捜査の結果、秀徳君が行方不明になったのは
1月10日の午前中だが、その同じ日の夕方、
加寿子がニ楽荘から大きなダンボール箱を
運び出して親族の家まで運んだことが
明らかとなった。

その後、その大きなダンボール箱は加寿子の
引越しに合わせて持ち運ばれ、最終的に
新十津川町の嫁ぎ先の農家で燃やされた。

この時加寿子が燃やしていたのを覚えていた
人もおり、周囲に異様な臭(にお)いが
立ち込めていたと証言した。

警察は加寿子を任意聴取したが、「何も知りません。」
の一点張りで、完全に黙秘(もくひ)を貫いた。
聴取は三日間続いたが、世間話には応じるものの
事件については一切しゃべらなかった。

しかも当時のDNA鑑定ではこの骨を秀徳君の
ものだと完全に特定することは出来ず、
それ以外の証拠も何もなく、結局検察は起訴を
断念することになり、加寿子は釈放された。

▼逮捕・無罪裁判

再び秀徳君の誘拐事件が伸展を見せたのはそれから
10年も後のことである。進歩したDNA鑑定の結果、
この人骨が秀徳君のものだと断定され、
事件発生から14年もの時を経て、平成10年11月、
ついに警察は加寿子を逮捕した。
時効成立の二ヶ月前だった。

しかし逮捕されてからも加寿子は以前と全く同じ態度で、
肝心なことは一切しゃべらない。
公判中でもそれは続き、特に第19回公判では
「お答えすることは何もありません。」という言葉を
262回も繰り返している。
容疑を否認した上で完全黙秘を貫き通した。

平成13年5月30日、午前10時、札幌地裁5号法廷で
加寿子の判決が言い渡された。
非常に犯人である確率が高いものの証拠がなく、
沈黙し続けたまま始まった裁判は世間の注目を集め、
TV局も取材に来ていた。しかしそこで出された判決は、
意外なことに無罪判決であった。

ただ判決は無罪であったものの、佐藤学裁判長も
加寿子が潔白であると認めたわけではない。

「被告人が何らかの行為により城丸秀徳君を
死亡させ、その後遺体を保管したり遺骨を
隠していたこと、取り調べの最中、事件との関わりを
ほのめかすような発言をしていたことなど、
被告人が秀徳君を死亡させた疑いは強い。」と、
検察側の主張をほぼ認めている。

以前、加寿子は事情聴取された時に、
「私がしゃべれば事件は全て解決する。」
「私を逮捕すればあと5人逮捕することになる。」と
意味深な発言もしており、犯罪行為を行ったことは
ほぼ間違いない。

しかし決定的な証拠がなかったことと、
「殺意を持って秀徳君を死亡させたと認定するには、
なお合理的な疑いが残る。」という理由で
無罪判決が下されたのである。

殺人罪とは「殺意を持って」人を殺したかどうかが
重要なポイントとなる。殺すつもりで殺したと
認められた場合だけ殺人罪が適用される。

それ以下は傷害致死罪となる。仮に傷害致死罪が
適用されたとしても、事件から年月が経ち過ぎており、
傷害致死罪の時効は加寿子逮捕の7年十ヶ月も前に
成立してしまっているので、今さら罪にすることは
出来ない。

加寿子に刑罰を科すならば、まだ時効となって
いなかった殺人罪の方でなければならなかったのだが、
その殺人罪が「殺意があったとは認められない。」
という理由で成立しなかったのである。

限りない灰色でありながら工藤加寿子は無罪を
勝ち取り、この結果は社会的に大きな波紋を
呼ぶこととなった。
要するに、どう考えても犯人に間違いないのだが、
証拠も自供もない灰色の段階では無罪に
なってしまうのだ。

検察側はこの一審の判決を不当であるとして
すぐに控訴したが、平成14年3月、高裁は検察側の
控訴を棄却し、これによって工藤加寿子の無罪は
確定した。また、放火殺人の件も時効が成立した。

そして平成14年5月、加寿子は札幌地裁に対し、
1160万円の刑事補償を請求した。
刑事補償とは、刑事裁判で身柄を拘束された上で
無罪となった場合に支給される補償金のことで、
加寿子は拘束されていた928日に対し、
一日当たりの上限12500円を請求したのである。
また、この他にも裁判費用も請求した。

その半年後の11月、札幌地裁は加寿子に対して
刑事補償928万円と弁護士費用250万円の支払いを
認める決定をした。
補償金は一日当たり一万円の計算となる。

「誘拐殺人と放火殺人の真の犯人が工藤加寿子
であったならば」という前提ではあるが、
一つは無罪、一つは時効、そして釈放され、
補償金と弁護士費用1178万円を支給された
ということは、この事件は犯罪者側の完全勝利に
終わった事件と言える。
・・・


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった 


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、  人生、絵模様、万華鏡…





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Bu

隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月18日 (金)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

V0151111114


幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
   不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない

加藤一二三九段が引退を決めた後に
マスコミの取材を拒否した理由に羽生夫人が
涙した…!


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「ひふみん」の愛称で知られる加藤一二三 九段が、
2017年6月20日に行われた
竜王戦6組昇級者決定戦をもって引退しました。

加藤九段が棋士になったのは14歳の時です。
当時、史上初の中学生棋士ということで注目を集め、
その後63年間棋士として活躍し続けました。

最後の対局後、報道陣からは加藤九段に
コメントを求める声が寄せられました。
しかし彼は報道陣に対して15分ほど長考し、
「感想戦(対局を振り返ること)はしません」
と言い、その場を後にしたのです。

いつもなら快くインタビューに答える加藤九段が、
この日だけコメントを控えたのには理由がありました。
多くの人が感動したその理由は、・・・

引退の報告

加藤一二三 九段が最後の対局後、
報道陣に対してコメントをしなかった理由について、
その翌日に加藤九段はこのように答えました。
「一番最初は、家族に報告したかったから」・・・


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現役最年長の棋士、加藤一二三(ひふみ)九段(77)が
6月20日午前10時から、「第30期竜王戦」
ランキング戦6組で高野智史四段との対局に臨んだ。
この対局に勝てば、自身の持つ史上最高齢勝利記録
(77歳0カ月)を更新するが、敗れれば即引退となる。

加藤九段は1月19日、棋士の序列を決める
「名人戦」の順位戦C級2組からの降級が確定。
定年規定により今期限りでの引退が決まっているが、
予定される公式戦の全対局が終わるまでは
現役扱いとなる。

加藤九段に残された公式戦は、「竜王戦」
ランキング戦6組の対局のみ。
一つ格上の「5組」に昇格する棋士を決める
トーナメントの対局に敗れたため、63年間の
現役生活に終止符を打つた。 ・・・

Author : NAVERまとめ公式ブログ
https://matome.naver.jp/

          

A9361111111

母は私を育てるため、毎日毎日遅くまで残業していて、
朝しか顔を合わせない日もたくさんありました。

休みの日は、疲れて遅くまで寝ていて、
どこかへ連れて行ってもらった記憶も殆どありません。

父兄同伴の遠足や運動会も、友達みんなが
お母さんと嬉しそうに、手をつないでいるのを見て、
やりきれない気持になりました。

私は手のかからない子供だったと思います。

自分の感情を抑えて、「会社休んで参観日に来て」
なんて、無茶を言ったことなんかもありませんでした。

一人遊びも上手でした。

すべてに遠慮して、幼い頃からおとなに敬語を
使う子供でした。
小学校3年の時でした。
遠足に行った後、作文を書くように言われました。

「五感」をテーマに書くように言われました。

先生は、視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚について
説明してくれました。
私はその中で触覚というものをテーマに選びました。

遠足でこんなことがあったのです。
山道を歩き、学校までの道でのこと。
皆2列になって、手をつないで歩くわけですが、
私は列の一番後ろを歩いていました。

生徒の数が奇数だったため、
私は一人で歩いていました。
一人でいるのが上手だから、
こんな時の巡りあわせも、やっぱり一人。

そんなことをぼんやり思いながら、
ぽつねんと歩いてました。
その時、ふいに私の肩をたたく人がありました

先生が来て、私の肩をたたき、
微笑んでくれました。
そして、私と手をつないで歩いてくれたのです。

いつも先生が手をつなぐのは、もっと手の
かかる子ばかりで、私はいつも心の中で、
羨ましいと思ってました。

なんだかすごくドキドキ嬉しくて、歩いてるうちに、
目の前がうっすらぼやけてきました。
前がよく見えないまま学校に着きました。

作文には、遠足の帰り道での、
先生の手の温かさについて、書きました。

私の作文を読みながら、先生が、
「手くらい、いつでもつないであげるのに」
と震える声で言って、
私の手をもう一度つないでくれました。

友達たちは、私の作文に何が書いてあったか
気になるみたいで、私に聞いてきました。

でも、私は照れくさくて、走ってトイレに
逃げ込みました。
鏡を見たら、涙がこぼれそうになっていました。

ブルっと顔を洗い、パンパンと頬っぺを打って、
にっこり笑顔を作りながら、教室に戻りました。
・・・


            

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スティーブ・ジョブズは自分が作った会社から
一度はクビになります。
さらに再度復帰して、ITにおけるアップルの
地位を絶対的なものにしました。

1997年、ジョブズが復帰した直後のアップルは
経営に行き詰まり、銀行口座には、2週間分の
運転資金しか残っていませんでした。

いろんな危機を何度もくぐり抜けてきたジョブズですが、
お金のやりくりは不得手の方でした。
絶体絶命の危機の時です。

しかし、この状況で救いの手を差し伸べた
人物がいます。それがアップルと長らく
ライバル関係にあった、マイクロソフトの
ビル・ゲイツだったのです。

当時、両社は著作権において10年以上も裁判を
続けており、決していい関係とはいえませんでした。
ゲイツは、1億5千万ドル(約180億円)の出資と
マック用のオフィスソフトを開発することを
約束しました。

優れたビジネスマンでもあるビル・ゲイツは、
ここでなぜライバルの窮地に手を差し伸べる
ようなことをしたのでしょう?

敵に塩を送るには、あまりにも桁外れの塩の量です。

金持ちケンカせずという言葉もありますね
ビル・ゲイツは、その時のことをこう言っています。

「うちの社内にはマックの好きな開発グループが
いましたし、 我々はマックが好きでしたから」と、
これは表向きの談話でした。

マイクロソフトの暗黙のルールとして、こういう
不文律があります。
「味方と仲良く、敵とは更に仲良くしろ」

実は、この言葉はマフィアの掟として、
口伝えされている言葉だそうです。

※ ビル・ゲイツやマイクロソフト社は、
マフィアとの関連はありません。

経営戦略的な視点からは、こんなことも
言えます。
「出資する」とは、その会社の株主になると
いうことです。
大きな株主になれば、その会社を所有する
ことになります。

その時点でボロボロのアップルであっても、
その潜在価値を知るビル・ゲイツにとっては、
お安い買い物として株主になった、・・・
ということも言えるでしょう。
・・・

Author :ゆるゆる倶楽部
http://yuru2club.com/wp/


「助けて!」人間の病院に助けを求めにきた
妊娠中の野良猫!
お腹の子を守るために必死の行動だった・・・





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Bu

隙間産業(ニッチ市場)


2017年8月17日 (木)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


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■.メキシコ人とアメリカ人の反目

テキサスからカリフォルニアにかけて、アメリカと
メキシコとの国境沿いに、マキラドーラと呼ばれる
保税地域が点在している。
アメリカ側から部品を無税で持ち込んで、メキシコの
安い労働力で組み立てし、またアメリカ国内に
出荷するという形で、多くの企業が集まっている。

テキサス州のエルパソもその一つで、メキシコ側の
ファーレス市とリオ・グランデという川一つ挟んで、
隣接している。
エルパソから、ファーレスに入ると、道路は穴だらけ、
住居は小さく貧しく、高層建築も全然ない、
というように貧富の差は歴然としている。

ここにある日系企業で聞いた話では。
メキシコ人とアメリカ人との対立の深刻さに、
日本人はみなびっくりするという。

アメリカ人はメキシコ人を馬鹿にし、メキシコ人は、
もともとメキシコのものだったテキサス、ニューメキシコ
からカリフォルニアに至る広大な領土をアメリカに
戦争や詐欺まがいの手段で取られたことをうらんでいる。

(エル・パソ、ロサンゼルス、サンフランシスコ等、
皆スペイン語の地名である。) 
したがってアメリカ人がメキシコ人を使うと、なかなか
うまく行かないという。

ところが、間に日本人が入るとスムーズに行くそうだ。
アメリカ人から見れば、日本人は雇い主なので当然
一目置くし、メキシコ人から見ると、日本人は差別を
しないので安心だという。

さらに同じ非白人が、アメリカ人を使っているのは、
メキシコ人としてもうれしいという感情もあるようだ。

■.
自らの文化を失ったメキシコ人

メキシコ人はアメリカに土地を奪われ、今は経済的に
従属しているが、さらにかわいそうなのは、固有の
文化・文明そのものをスペイン人に破壊されて
しまったという点である。

彼らの話すスペイン語は、その文化・文明を滅ぼした
侵略者の言葉である。
彼らの固有の神話、文学、宗教もすべて失われ、
文化的には二流のスペイン人となってしまっている。

1521年まで、メキシコにはアステカ文明が栄えて
いたのだが、スペイン人コルテスの侵略に屈した後は、
鉱山開発で過酷な労働を強いられ、
天然痘などの流行もあって人口が激減した。

さらにキリスト教宣教師が固有の宗教を破壊し、
経済的にも教会が国の資産と土地の3分の1を
占有した。人種の混合政策がとられ、スペイン人の
血の濃さに従って、複雑な階層に分化した。
こうした過程で、アステカ文明は根絶やしに
されたのである。

■.
日本も同じ運命をたどる危機があった

実はこれは日本人にとっても他人事ではない。
戦国時代にスペインやポルトガルからキリスト教の
宣教師がやってきたときに、日本が信長や秀吉のような
すぐれた人物に恵まれず、また民族的なエネルギーも
不足していたら、メキシコ人と同じ運命をたどった
可能性があった。

現実にアジアでもフィリピンがそうなっている。
イエズス会の宣教師たちは、日本を占領するつもりで
来たのだが、その少し前に伝わった鉄砲が日本全土で
10万丁も普及しているのに驚き、本国に
「日本占領をあきらめるべし」という手紙を書いた。

そのかわりに狙ったのが、西国の大名を改宗させ、
それを手下に使って、九州の神社仏閣を破壊し、
さらに明の侵略に使おうとしてのである。

秀吉は、明がスペイン人に征服されては、元寇と
同じ事が起こると考え、外国人バテレン追放令を出し、
さらに先手をとろうと明征伐に向かったのである。

(歴史の教科書では、こうしたスペイン人の侵略を
伏せているので、キリシタン弾圧も、明征伐も、
秀吉の狂気の沙汰としか描けない)

もし日本がメキシコと同じ運命をたどっていたら

もし日本がアステカやフィリピンのように脆弱で、
キリスト教宣教師の野望が実現していたら、
どうなっていたであろう。

今日のメキシコと同様、日本語は忘れさられ、
現在の我々は、ホセだとか、カルロスなどという
スペイン風の名前になっていたことであろう。

白人との混血の度合いで、様々な階級差別が
作られたに違いない。
全国の神社仏閣は破壊され、カトリックの教会が
あちこちに建っているであろう。

日本語や日本文学は、もの好きな考古学者が
研究するだけの存在になっていたであろう。
また植民地として徹底的に収奪されていれば、
江戸時代の文化的物質的蓄積もありえず、
明治維新のエネルギーもありえなかったに違いない。

おそらく没落したスペインのかわりに、台頭してきた
アメリカか、ロシアの植民地となっていたであろう。

■.
誇りと使命感と、思いやりを

今日の日本が数千年の固有の文化・文明を
保ちつつ、かつ経済・ 技術大国として世界に
伍しているのは、まさに我々の先祖の並外れた
能力と志の結果であると言える。

国際派日本人としては、祖先への誇りと感謝、
それを受け継ぎ発展させていこうとする子孫に
対する使命感、

そしてメキシコ人のような虐げられた民族への
思いやりをもって、国際社会に臨んで欲しい。・・・

おしまい


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お春ばあさんは六十才で、お花は七才です。
お花の両親は、お花が三才の時に死んで
しまったので、お春ばあさんはよその家の
畑仕事や針仕事を手伝って暮らしていました。

お花はお春ばあさんが仕事をしている間、
近所の男の子たち相手に遊び回っています。
「お花、今度こそはおらの勝ちだぞ。えいっ!」
「よわいくせに、何を言ってる。やあっ!」
男の子が相手でも、勝つのはいつもお花でした。

夕暮れになってお春ばあさんの仕事が終わると、
お花はお春ばあさんと一緒に家へ帰りました。

「ばあちゃん、今日は、吾助とごん太をやっつけたよ」
じまんげに言うお花に、お春ばあさんはあきれ顔で
言いました。

「お花。棒切れ遊びは、男の子の遊びじゃ。
おなごのするもんじゃあねえよ」
「だって、女の子と一緒に遊ぶなんてつまらんもん。
体は女でも、心は男じゃ」
「やれやれ、死んだ母親にそっくりじゃ」

やがて秋になり、畑のかり入れが終わってしまうと、
お春ばあさんの仕事が少なくなりました。
毎年の事ですが、これから春までは家で針仕事を
する時間が多くなります。

そんなある日、お花がお春ばあさんに言いました。
「わたし、もう遊ぶのをやめる。これからは
ばあちゃんの手伝いをする」

それを聞いて、お春ばあさんはおどろきました。
「どうしたんじゃ? あんなに棒きれ遊びが
好きだったのに。子どもは子どもらしく遊んで
おればええんじゃ」

「だって、ばあちゃんは、いつも夜遅くまで働いて
いるじゃないか。わたしも手伝えば、
夜遅くまで働かなくてもいいだろう」

「何を言っている。お前に手伝ってもらったって、
かえってじゃまになるだけだ。・・・
まったく、急になまいきな事を言いよって!」
そういうお春ばあさんのほおに、ポロリと
うれしなみだがこぼれました。

ところがその冬、お花は流行病(はやりやまい)の
『百日ぜき』にかかってしまったのです。
「ゴホン、ゴホン、ゴホン」
朝も夜も、お花のせきはとまりません。

お春ばあさんは必死で看病をしますが、
小さな村では医者も薬もありません。
「お春、がんばるんだよ。春になれば、
必ず良くなるから」
「うん、ゴホン、ゴホン!」

そしてあんなに元気だったお花は、あっけなく
死んでしまったのです。
お花が死んでしまってから、お春ばあさんは
たましいが抜かれたように何日も何日も
仏だんの前から動こうとしません。

ある日、近所の人が心配してやって来ました。
「お春ばあさん、もちを持ってきたから食べて。
少しは食べんと、体に悪いよ。

お春ばあさんにはつらい事だが、お花はきっと、
あの世でおっとうやおっかあと親子水入らずで
暮らしているよ」

お春ばあさんは、やっと顔をあげて言いました。
「ああ、わたしも、その事だけをいのっていたんだ。
でも、お花はまだおさない。ちっちゃなお花が、
まよわずにおっとうとおっかあのところに
行けるだろうか?

あの世のどこかでまい子になって、一人さみしく
泣いてはせんじゃろうか?
いっその事わたしも死んで、お花を探しに行きてえ」

「何言っているの!死ぬなんて、そんな事を考えたら
だめだよ。
大丈夫、お花はしっかり者だから」
「ああ、そうじゃな。・・・そうじゃと、いいが」

夜になって近所の人が帰ると、お春ばあさんは
また仏だんの前にすわり込みました。
「お花、大丈夫だろうか?どこかで、
ばあちゃんをさがしているんじゃないだろうか?
一人さみしく、泣いていないといいが。

お花は、かわいい子じゃった。
笑い顔なんて、まるでおじぞうさまにそっくりじゃった。
・・・おじぞうさま。 そうじゃ!!」
お春ばあさんは、その夜から、おじぞうさまを
ほり始めました。

おじぞうさまは子どもの守り神で、死んだ子どもを
天国にみちびいてくれると言われています。
そこでお春ばあさんはおじぞうさまをつくって、
早くお花を天国へ送ってやろうと思ったのです。

しかしおじぞうさまを作ることは、年老いた
お春ばあさんには大変な事です。
お春ばあさんは毎日毎日おじぞうさまをほり続けて、
春が来る頃にようやく出来上がりました。

それはお花にそっくりの、小さな小さな
おじぞうさまです。
「これできっと、お春はおっとうとおっかあに
会えるにちがいない」

お春ばあさんはその小さなおじぞうさまを、
村を見渡せる丘の上に置く事にしました。

やがてこのおじぞうさまは『お花じぞう』とよばれ、
村人たちは子どもが百日ぜきにかかると、
お花が大好きだった「いり米」をお供えしました。
するとその子どもは、必ずすぐに良くなったそうです。
・・・・
おしまい


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる


一人の女性に恋した野良犬。
一途に待ち続けた結果、驚くべき展開が・・・





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Bu

隙間産業(ニッチ市場

2017年8月16日 (水)

妄想劇場・韓信外伝 (馬邑失陥)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・


アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい



Kansin


韓信外伝 (馬邑失陥)


「韓王さまにはご機嫌うるわしゅう……」  
使者はそんな型通りの口上を言葉にし、だらだらと
時節の挨拶を繰り替えしてなかなか本題に入ろうとしない。
韓王信はしかし、それを遮ったりはしなかった。

使者が本当に言いたいことを聞くのが怖かったからである。  
あるいは使者が用件を率直に言わないのも、言うのが
怖いという事情があるかもしれないと感じられた。
そうでなければ自分の反応をうかがっているのだろう。

だとすれば、このたびの話はやはり、よほど深刻な
ものだと思われる。そう思うと余計話を聞くのは
ためらわれた。

「使者どの。君は吾のことを先ほどから韓王と呼ぶが、
今の吾はもはや王ではない。強いて言うなら、
もと韓王の信だ。知っての通り匈奴の将軍という
肩書きもあるが……」  

結局彼は使者の言上とあまり関係のなさそうなことから
話を切り出した。しかしこれが話題を展開させる
結果となる。

使者は韓王信の言葉にうまく反応した。
「お話がありましたので言わせていただきます。
実は私どもの狙いは、あなた様に韓王として復権して
いただくことにあります。

つまり韓王さまにはさらに中原に進出していただき、
私どもはそれに連動して挙兵したいと思っております」
「挙兵だと? 鉅鹿の太守はつまり……逆臣なのか? 
吾と行動をともにしようというのか」  
韓王信は目をぱちくりさせながら、使者に問いただした。

彼としては嬉しい事態でもあり、同時に罠の危険を感じる
事態でもある。
「お聞きください。我が主の陳豨は皇帝の信任厚く、
それがために行為に多少の不可解さがあったとしても
皇帝は疑いません。
現在食客を集め、私的勢力の拡充に努めておりますが、
なんの問題も起きておりませぬ。

皇帝は陳豨がそうした行動をとる以上、鉅鹿の鎮撫に
必要なことだと信じて疑わないのです」
「ほう……。それはわかったが、吾の聞きたいことは
少し違う。

吾は、その陳豨とやらが鉅鹿の太守などという重責を
担いながら、なぜ叛逆したいと思ったのか聞きたいのだ」
「話せば長いことになります」
「構わぬ。ぜひ聞きたい」  

使者は咳払いをした後、ゆっくりと話し始めた。
「ご存知のことと思いますが、かつて楚王であった現在の
淮陰侯は陳で捕らえられました。

敵将の鍾離眛を隠匿した罪を問われてのことと
聞いておりますが、その実は将来起こりうる淮陰侯を
核とした叛乱を未然に防ぐ目的です」

「ふむ。淮陰侯は軍事に秀でた男だから、彼自身の
意思はともかく能力は削いでおきたいという皇帝の
腹から出た逮捕劇だろう。

皇帝は淮陰侯の功績のおかげでこそ皇帝になり
得たというのに……ひどいことをなさるものだと
当時吾も思ったものだ」

「我が主の陳豨は逮捕された淮陰侯が雒陽に
護送される際、その守将として先導をなさいました。
そこで二人は親交を深めることとなったのです」

「つまり……?」
「我が主陳豨の叛逆は、淮陰侯が使嗾したものです。
淮陰侯は我が主の人柄を見込み、皇帝に推挙しました。
そして時間をかけて戦略を練り……
我が主が鉅鹿の太守に任命されるにあたってその
計略を実行に移したのです」

「吾にもその計略に乗ってほしい、というのだな。
確かに天下無双と言われた淮陰侯の軍事能力があれば
漢王朝を転覆させることも可能だろう。して、
吾に何をしてほしいのか?」  

韓王信は、この時点で話に乗り気になった。
使者には彼の目が輝いたように見えた。そして、
周囲の側近たちには彼が理想の死に場所を
見つけたように思えたのである。

「現在淮陰侯は手持ちの兵力を持っておらず、
このため大規模な叛乱を自ら起こすわけには参りません。
そこでその役目は我が主の陳豨が担うことになったのですが、
せっかく起こした叛乱がやすやすと鎮圧されてはまずい。
そこで韓王さまには陳豨が劣勢に追い込まれた際に
機を見て兵を挙げていただきたい」

「ふむ」 「そういった争いが二度三度繰り返されて
いくうちに、皇帝はその性格上、我慢しきれなくなります。
先日の匈奴に包囲された経験も忘れ、自ら鎮圧しようと
するに違いありません」

「親征するというのだな。そこを討て、と? 
しかしそれでは話がおかしい。
吾や陳豨が軍を統率して戦うより淮陰侯自ら兵を
率いた方が確実だ。

彼を首都から脱出させ、我らの軍に迎えた方が
よいのではないか?」
「もっともなご意見ですが、それでは駄目なのです」
「ほう。なぜだ?」 「皇帝は淮陰侯を恐れ、
敵対する軍にその存在が確認されれば絶対に
戦いません。十中八九、逃げ出します」

「なるほど。そう言われれば確かにそうだ」
「よって淮陰侯は我が主と韓王さまには時間を稼いで
くれればよい、とおっしゃっております。

つまり皇帝を前線に引きずり出しさえして
もらえればよいと。必ずしも討つ必要はない、とも」
「では……」
「皇帝が首都を留守にした隙に、淮陰侯は独自に
兵を集めて宮殿を襲い、皇后と太子を
捕らえるおつもりです。

その上で皇帝と決戦するのです」
「そうか……皇后と太子を人質に取られたのでは、
皇帝も戦うしかないな」  
韓王信は口に出してはそのような感想を漏らしたが、
内心では驚愕を禁じ得なかった。

あの若くて律儀そうな淮陰侯がそこまでの決意を
しているとは……。  
しかし、同時に快心の笑みを漏らさざるを得ない。  

さすがだ。完璧な作戦だ!・・・

(つづく)


愚人は過去を、賢人は現在を、
狂人は未来を語る




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



元禄花見踊り






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Bu

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2017年8月15日 (火)

妄想劇場・都市伝説

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ユダヤの法則の中に『78対22の法則』があります。

78対22という宇宙の法則があり、この世はこの
黄金比でバランスを保っている。と言うのです。

不要に思える22%にも重要な役割があり、この
黄金比を維持しようとする不思議な力がある。
「完璧主義者」がこの黄金比を崩そうとすると、
やがて精神が崩壊する。

切りよく「7対3の法則」や「8対2の法則」ともいわれ、
ビジネスなどにも応用されている。
科学的に「78対22」という黄金比が証明されていたり、
この黄金比が統計の中から見つかっているものも多い。


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地球上の海と陸の割合は78対22。
人の体の水分とそれ以外の割合は78対22。
空気の酸素以外と酸素の割合は78対22。

肺呼吸と皮膚呼吸の割合は78対22。
善玉菌と悪玉菌の割合は78対22。
かかととつま先の体重負荷の割合は78対22。

働きアリの1つの集団のうち、まじめに食料を
集めているのは78%しかおらず、
22%の働きアリはサボっている。

サボっている22%を集団から隔離すると、
まじめに食料を集めていた働きアリの22%が
新たにサボるアリになる。

逆に、まじめに食料を集めいていたアリの数を
減らすと、サボっていたアリの中から、まじめに
働くアリが現れる。
常に78%がまじめに働き、22%がサボる
状態になる。

22%の存在が不要に思えるものも多いが、
この22%が存在することは必要で、アリの例でいうと
サボっている22%は、まじめな78%に何かあった
時のために力を残しているのである。

人の社会においても同じことで、集団が大きくなれば
集団にそぐわない人が現れる。
また「成功者」といわれる人の多くが、他の人より
多く失敗している。
多くの失敗が大きな成功につながっている。

人が気づいていないだけで、まだまだ多くのこの
黄金比は存在し、世界のバランスを保っている。
この黄金比が崩れ始めると黄金比へ戻ろうとする。

黄金比が元に戻らなければ世界は崩壊
することになる。
22%のサボりアリを取り除いても、新たな22%の
サボりアリが現れる。これを続けていけば
その集団は存在できなくなる。

この黄金比を無理に壊そうとするのが
「完璧主義者」である。
100%を目指すことが間違っているわけではないが、
100%になることはありえない。

不要だと感じる22%を取り除こうとすれば、
元に戻そうとする力が働くからだ。
それでも無理やりこの黄金比を壊そうとすれば、
「黄金比を壊そうとする存在」を壊す力が働く。

100%にならないことへのいら立ちやストレスから、
周りからキチガイ扱いされたり疎遠になる。
やがては精神が崩壊する。

多くの芸術家や発明家の晩年が、変人
扱いされていたり、気が狂ってしまっているのは
このためである。

「78対22」という宇宙の法則の不思議な力により、
完璧主義者が「完璧」を成すことはできない。
完璧を成す前に自分自身が壊されてしまう。・・・

78対22 タロットと同じ構成である。

Author :都市伝説
https://tdtaizen.com/



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■ 荒涼たるクラス風景■
平成10(1998)年4月1日、広島県福山市立
加茂中学校教諭、佐藤泰典氏が参議院予算委員会で
学級崩壊の実態について 衝撃的な証言を行った。
たとえば、

始業のチャイムが鳴って教員が教室に行った時、
生徒はほとんど席についておりません。
その生徒たちを教室に入れて席につかせるのに
五分から十分ぐらいかかります。

やっとの思いで授業を始めても、教室の窓から
抜け出したり、もっとひどい時は、廊下を自転車で
二人乗りして、「イエーイ」と声をあげながら手を振って
他の先生や生徒をからかったりという状態です。  
教室に残った生徒も後ろの方でボール遊びをしたり、
机の上に足を上げてマンガを読んでいます。

それでは先生はというと、生徒たちに背中を向け
黒板に向かって黙々と字を書いているという状態です。
何名かの生徒が黒板の近くに行って字を写しています。

しかし、こうした真面目な生徒たちも言い掛かりを
つけられて校舎の裏や屋上に呼び出されて殴られたり、
お金をとられたり、いじめられたりします。

バラバラに遊び回る生徒達、
「生徒に背中を向け」黒板に字を書き続ける先生、
お互いの心のつながりを失った荒涼たる
クラス風景である。
なぜこんなことになったのか。

■ 学力低下と非行増大■  

佐藤教諭が証言をした広島県の公教育は、
学力面、素行面ともに、まさに惨状としか
言いようがない。  
大学入試センターは、毎年、国公立大学入試センターの
試験データを公表しているが、広島県の学力低下は
著しい。
平成2年に47都道府県中21位だったのが、
平成8年には45位まで急降下した。  

また平成9年の全国調査によると、同県の少年
(14歳以上、20歳未満)人口千人あたり、
犯罪少年は23.9人で全国1位の高率である。

これらのデータから見ると、佐藤教諭の証言した
クラス崩壊は、一部の学校の特殊な状況ではなく、
程度の差こそあれ、学力低下、非行増大など、
県全体で教育の荒廃が進んでいると言ってよいだろう。

■ 平等教育の結果は■  

問題は、このような教育の荒廃がなぜ起きたかである。
学力低下の原因の一つとして言われているのは、
偏向教師による行きすぎた平等教育である。  
ある中学校で、高校受験を控えた3年生を対象に
「進路」を題材にした授業が行われた。

教師が作成した学習計画には、「差別と選別の
受験体制にクラスとして具体的にどう戦っていくか、
明らかにする」という授業目標を設定し、
「差別」と戦う生き方として、

「1、底辺校に進学すること。
2、塾の受験競争と戦うこと」等々が例示されていた。
受験を控えた生徒を、反受験体制の闘士とすべく
洗脳しているのでは、学力は落ちるのは当然である。  

こうした教師は、受験体制に象徴される成績評価を
「平等」に反する事と考えているようだ。
運動会では順位をつけるような徒競走やリレーは行わない、
クラスでは勉強の出来る生徒が手を挙げても指名しない。  
さらに生徒の学習意欲や行動を評価する指導要領も、
記入を拒否する。

福山市の公立中学校27校のうち、20校で
各教科所見欄が未記入となっていた。
この背後には未記入を指示した「教員向けマニュアル」が
あって、「各教科の関心・意欲・態度は教職員の
指導性の問題。

子供にのみ責任を負わせ『C』(努力を要する)と
評価する差別に加担することはできません...
空欄とする」と書かれている。  

これでは真面目な生徒は、成績をあげようという
意欲を失い、不真面目な生徒も、安穏として
怠けていられるわけである。

過度の平等主義が、やる気を失わせるというのは、
すでに共産圏でさんざん見られた失敗である。
たとえば、中国の国営企業の大半が赤字で、
国家財政全体を危機に陥れているが、
その縮図が日本の学校の中で起きてるのである。

■ 人権教育の果てに■  

もう一つの青少年犯罪の方はどうか。平成10
(1998)年の7月に広島県立沼南高校の一年生が、
非行少年グループに暴行や恐喝を受け自殺するという
事件が起きている。

事件後の高校側の調査では、生徒の7割が
「集金」「カンパ」と称する恐喝を受け、2割の生徒は
暴行を受けていた事が分かった。
こういう状態に教師達はどう対応していたのか。  

一年生の自殺のあと、学校側が実態調査や関係生徒の
処分に乗り出した所、日教組所属の教師の一人が
「加害者とされた生徒の人権をどう考えるのか」と
校長に詰め寄ったという。

ある小学校で起きたいじめ事件について、保護者
懇談会の席上で、教師が「なぜいじめている子供に
注意しなかったのか」との質問が相次いだ。
答弁にたった教頭は「先生は警察官ではありません。
ルールを押しつけることは教育ではありません。
子供同士が注意し合うのを待っているのです。」と
答えたという。

すべてのルールの押しつけは、人権尊重、自主性尊重に
反すると考えているようだ。
「生徒人権手帳-生徒手帳はもういらない」
(三一書房)という本は「子どもの権利条約の順守」を
掲げる全国の中高生の間でバイブル的存在になっている。

この本には「生徒の人権」として、次のような項目が並ぶ。
「遅刻をしても授業を受ける権利」
「飲酒・喫煙を理由に処分を受けない権利」
「セックスするかしないかを自分で決める権利」
「子供を産むか産まないかを決めるのは女性自身の権利」

…伝統的な道徳や規範の否定が、犯罪を激増させ、
社会の基盤を崩壊させるのも、共産主義国で
良く見られる現象である。

中国で1996年の一年間で死刑にされたと確認されたのは、
4,367人、実体はその数倍と推定されている。
確認された数値だけでも、他のすべての国の
合計の3倍である。
中国と同様の無法社会が、日本の教育現場に
発生していると言えよう。

■ 官僚的腐敗■  

平等教育による成績の低下、人権教育のよる犯罪の
激増、と、広島県の公立校の荒廃は、まさに
共産主義国家で起こった経済・社会崩壊のミニチュア版と
言える。共産圏では、これに共産党や政府の官僚の
腐敗が加わるが、この点はどうだろうか?  

国が定めた一年間の標準授業時間は1050時間だが、
文部省の調査では、福山市の中学校27校を平均すると、
3年生は857時間しかない。しかも、この中には
教師不在の「自習時間」がかなり含まれている
可能性が高い、と指摘されている。
これはまさに組織的怠業である。

また広島県内では、公立高校で授業中に有料の
進路指導試験「中国ブロックテスト」を実施しているが、
問題の作成や、採点に県内11校の現職教員が携わり、
平成10年度は5百万円が支払われた。  

許可を受けないアルバイトは、地方公務員法の
『兼職禁止』の規定に抵触する。
それだけではない。教師の立場を利用して、
生徒に強制的に有料のテストを受けさせ、
自分はその収益の一部をとるというのは、
まさに権力を悪用した搾取である。  

組織的怠業といい、立場を悪用した搾取といい、
やはり共産圏の党幹部、政府官僚の腐敗と同じ事が
起こっているのである。

■ 閉ざされたクラスルーム■  

以上のように、広島の公教育で起こっている事は、
まさに共産主義国で起こった経済・社会・政府組織の
崩壊の縮図である。

そしてその原因は、いったん公立校に入ってしまえば、
生徒には先生を選ぶ権利もなく、また保護者も、
内申書を握られては、表だった抗議はできない、
という教師側の独占的な権力があるからである。

いわば共産党が国家権力を独占して、国家を
私物化するのと、同じメカニズムが働いている。  
6月16日に、広島市内で開かれた新社会党県本部の
決起集会では、矢田部理・新社会党中央本部委員長は
「政治、行政は教育の中身に口をはさんではいけない。
平和、人権を教えるのは教師の義務であり、権利だ」と
述べた。

税金で運営されている公立校を私物化する権利が
教師にあるという主張は理解しがたい。
さらに無気力と恐喝・いじめの中に放置されている
子供達の平和と人権は眼中にないのか。

このように教師の独占権力で閉ざされたクラスルームでは、
北朝鮮と同様、外の情報がなかなか入らないので、
一般社会の常識はまったく通用しなくなる。

たとえば、国旗国歌に関して、平成4(1992)年2月に、
当時の菅川健二・県教育長名で、入学・卒業式の
国旗(日の丸)掲揚、国歌(君が代)斉唱にブレーキを
かけるような文書が同県高等学校教職員組合に
提示された。  

その文書は「菅川確認書」「二・二八文書」と呼ばれ、
君が代が国民の十分なコンセンサスを得られて
いないこと、
日の丸が天皇制の補強や侵略、植民地支配に
援用されたことなどが教育内容として補完されなければ、
君が代斉唱や日の丸掲揚はできない、という
趣旨である。  

福山市のある会社役員は、商社マンとして海外で
十年以上暮らした経験から、「海外では国旗掲揚は
当然という感覚。国旗・国歌に“アレルギー反応”を
示す教員たちは、感覚がずれているとしか
思えない」と話している。

グローバル化の流れから最も取り残されているのは、
こうした閉ざされたクラスルームなのである。

・・・



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
世は歌につれ、
人生、絵模様、万華鏡…




なんや知らんけど








2017年8月14日 (月)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・

 

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詩人・茨木のり子さんの詩に、
「苦しみの日々 哀しみの日々」という作品があります。

 苦しみの日々
 哀しみの日々
 それはひとを少しは深くするだろう
 わずか五ミリぐらいではあろうけれど

 さなかには心臓も凍結
 息をするのさえ難しいほどだが なんとか
 通り抜けたとき 初めて気付く
 あれは自らを養うに足る時間であったと

 少しずつ 少しずつ深くなってゆけば
 やがては解るようになるだろう
 人の痛みも 柘榴のような傷口も
 わかったとてどうなるものでもないけれど
(わからないよりはいいだろう)

 苦しみに負けて
 哀しみにひしがれて
 とげとげのサボテンと化してしまうのは
 ごめんである

 受けとめるしかない
 折々のちいさな刺や 病でさえも
 はしゃぎや 浮かれのなかには
 自己省察の要素は皆無なのだから

茨木のり子さんは大正十五年、大阪府に生まれました。
上京後、学生として戦中戦後の動乱期を生き抜き、
昭和二十一年に帝国劇場で見たシェークスピアの
『真夏の夜の夢』に影響を受け劇作家としての
道を歩み出します。
その後、多くの詩や脚本、童話、エッセイなどを発表し、
平成十八年に八十歳で亡くなります。

茨木さんの作品はどちらかと言えば反戦色が強く、
過激なものが目立ちますが、
「苦しみの日々 哀しみの日々」はそれとは趣の異なる、
内省的で穏やかな詩の一つです。
おそらく作者自身、いろいろな人生体験を経ていて、
それを克服していく過程でこの詩は生まれたのでしょう。

私たちは人生の中で
時として大きな試練や困難に直面することがあります。
「苦しみなんて嫌だ」
「この苦しみさえなければ幸せに生きられるのに……」
と思ってしまいがちですが、
苦しみをしっかりと受け止め、味わうことがなければ、
自己省察、すなわち自分の内面を見つめることの
ないままかけがえのない人生の時間が過ぎ去ってしまう。
この詩はそのことを私たちに教えてくれているのです。

人間に苦しみが与えられるのはなぜなのか。
それは自己を省察し、
深く自分を見つめるためである、という
茨木さんの考えは
まさに人生の試練に直面した時の
大切な心の姿勢だと思います。

テレビを見ていて感動的だった話しです。

それは三・一一(東日本大震災)で
愛するご両親を失った小学生の女の子の話です。
その子は小学校に入学したばかりの頃、
運動会のかけっこで転んで一番ビリになったことが
ありました。悔しくて泣きながら応援席にいた
お母さんのところに行ったところ、お母さんは
しっかり抱きしめながら「よく頑張ったわね」と
励ましてくれたといいます。

その子はいま上級生となり、
陸上競技でクラスの代表選手に選ばれるまでに
成長しました。
ライバルとの競争心をむき出しにするのではなく、
一年生の頃抱きかかえてくれたお母さんの
愛情や両親の笑顔を思い浮かべながら
自分でできることを精いっぱいやってきたと
話していました。

彼女の素晴らしいところは、
お父さん、お母さんを失った哀しみに
打ちひしがれそうになっても、そこで止まることなく、
その苦しみを子供ながらに受け止めて、
家族の愛情や思い出を心の支えにしながら
力強く前進していることです。

泣きついてきた子供を温かく受け止めるのは、
どこにでもある母子の情景です。
しかし、その何気ないひとこまが
彼女にはいまかけがえのない思い出、
宝となっています。

たとえ姿は見えなくても、
お父さん、お母さんがいつも見守ってくれていると
素直に信じる姿が健気でもあり、
また力強くもあり、
心打たれずにはいられませんでした。

両親と一緒に過ごした期間は決して長くは
なかったかもしれませんが、注がれた
深い愛情は
これからの人生においても
彼女を支え続けるに違いありません。

            

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58歳のとき、身体のだるさが抜けず、違和感が
いつまでも続いた。ある日の昼下がり、突然私の
視界が勢いよくぐるぐると回った。
驚いたが、少し安静にしていると、めまいは
おさまった。

帰宅して、いつも通り、夫婦で晩御飯を食べていると、
妻が、「あなた!口から食べ物がこぼれ
落ちているわよ!」と指をさした。
口元に触れてみると、左側の感覚がなかった。

麻痺していたのだ。
瞬間的に「脳梗塞」という言葉がよぎった。

予感を確信させるような身体の症状と、
それを否定したい気持ちとが葛藤しながらも、
急いで総合病院に向かった。

脳外科の医師は、検査結果を見ながら、
無表情な顔で言った。
「脳梗塞です。すぐに入院してください」
私の不安は、現実になってしまったのだ。
ショックで目の前が真っ暗になる。

事実を受け入れられないまま、茫然とする
私の横で、看護師は病室への移動準備を
たんたんと進めている。
生まれて初めて乗る車いすだった。

内心「まだ歩けるぞ」と思い拒否したかったが、
そんな気力もなくしていた。
ベッドに横たわるにも、看護師が手を貸した。
「一人でできるのに」と無性に腹が立つ。

ベッドは簡単に降りられないように調整してあった。
私は、特別な患者なのだと思い知った。

早速、点滴が始められる。
看護師が頻繁に訪れ、そのたびに、
私は氏名と生年月日を言わされた。

「バカにするのもいい加減にしてくれ」
と心の中で思った。
私の怒りは、トイレに行くときでさえも、いちいち
看護師を呼び出し、車いすに乗せられることに
も向けられた。

おそらく、これらの怒りに、看護師も気づいていたと思う。
とにかく、私は、今までの出来事を消し去りたかった。
こんな状況がしばらく続いたある日、ようやく
入浴が許された。

一人で入浴できるものと思っていたが、
看護師のKさんが付き添った。
入浴の手助けをしながらKさんが言ったひと言。
その言葉に私は、はっとした。

そして、その言葉が、その後の私の闘病生活の
支えになろうとは、そのとき、思いもしなかった
ほんの小さなひと言だった。

Kさんは、「一人で当たり前にできることほど、
むずかしいことはないですよね」と言ったのだ。

私ははっとした。
この言葉がとても新鮮に感じられたのだ。
毎日、トイレや入浴など日常的にしていることに、
今まで意識を向けたことがなかった。

入浴を終えてベッドに戻ってからも、
Kさんの言葉が脳裏から離れなかった。

冷静に考えてみると、当たり前にしていることの
全てが、他の人の手助けがあって、
はじめてできることだ。

たとえば、食べるという行為も、
農家など作り手の存在が前提にあって、
自分で箸を持ち、口へ運ぶ。消化し、
身体がつくられる。
人は一人きりでは生きられない。私が当たり前に
していたことは、奇跡に近いことだったのだ。

こう考えたら、今まで悲観的だった気持ちから
解き放されて、漠然とだが、心が軽く、
広くなったような気がした。

Kさんの言葉のおかげで、私は大事な身体の
ことではなく、プライドが傷つくのが嫌で怒って
いたことに気がつき、反省した。

こんな私に対して、今後も当たり前に話しが
できるようにと、医師や看護師たちは親身に
なってくれる。周りの思いを素直に受け入れないで、
感謝もしなかった自分を責めた。

次第に私は、自然と感謝の心で接することが
できるようになっていった。
同時に、当たり前にできるありがたさに
気づかせてくれ、反省までさせてくれた。

Kさんの患者思いで豊かな人間性に感謝した。
退院後も、その一年後に定年退職してからも、
私はKさんの言葉と一緒に歩んでいる。


愛情

自閉症の子どもは、普通の子供に比べて、幼い頃は
親のこともわからないのではないかということを、
時々聞きます。

僕も、親のことを認識したのは、普通の子供より、
遅かったのではないでしょうか。
そのために、親子関係がなかなか構築できないと
考える方もいるかもしれませんが、僕は そうは思いません。

親という意味がわからなくても、それまで自分にどれだけ
愛情を注いでくれたかは、体に沁みこんでいるものだと
感じるからです。

僕にとっては、母は便利な人だったのかもしれませんが、
心が育つにつれて、どれだけ僕のために尽くして
くれているのか わかるようになりました。

愛情を注いでもらっているから、心は育つのです。
心が育ってから愛情を注ぐ、または、何もわからないから、
愛情を受け取ってもらえないというのは、
少し違うような気がします。・・・

Author:東田直樹
 会話のできない重度の自閉症。
 絵本、詩集など21冊の本を執筆
 http://higashida999.blog77.fc2.com/


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…






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2017年8月13日 (日)

妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

V0151111112


昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



421211111111


※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある

憧れの田舎暮らしを始めた矢先に、激しい頭痛を訴えた
お妻様。慌てて病院へ行くと「脳腫瘍」と診断され、
そのまま意識を失ってしまい……。

直径65mmの巨大脳腫瘍を緊急摘出!お妻様
「5年生存率 8%」に。。。

されど愛しきお妻様【8-2】

手術は成功するのか
「ヒャッハーしてましたよね」・・・

緊急入院から4日後、何時間にも及ぶ手術の結果、
お妻様の脳腫瘍の摘出は成功。
担当医から「ほぼ100%切除できた」
「少なくとも命は取り留めたと言える」との
言葉を聞いて、僕はICUの床に腰を抜かして、
目から涙、鼻から鼻水、口からよだれと、
顔面から流れ得るあらゆる液体を垂れ流して
立ち上がれなくなった。

とはいえ、一命を取り留めたからには最大の心配は、
直径60㎜以上もの巨大な腫瘍を切除して、
そのパーソナリティが失われてしまわないかだ。
手術翌日、病室に行くとお妻様はすでに目を
覚ましていて、スッキリした顔をしていた。
「ああ、死ぬかと思った」 返す言葉がない。

「なんかいろいろ覚えてないんだけど、そういえば
夢見たよ。映画の実験室みたいな感じに、ガラス越しに
ICUを観察できる部屋があって、あたしベッドで
寝てるじゃん。

そうしたらガラスの向こう側で手術した先生たちが、
三角のパーティ帽かぶって、みんなでなんか
クラッカー鳴らしてヒャッハーってフィーバーしてんだよね。
それで、朝に先生に『ヒャッハーしてましたよね』って
聞いたら、ヒャッハーしてませんって言われた」

聞いたんかい! 間違いなくお妻様だった。
あの得難い性格は、失われていなかった。
「あたしの腫瘍とったところって、丸めた読売新聞
入ってるのかな?」 手術翌日の夜にかけて顔面に
手術による内出血の鬱血が出てきて腫れあがり、
試合後のボクサーのようになってしまったけれども、
とにかくお妻様としては悩まされていた頭痛が
なくなったことで相当スッキリなようだ。

後遺症さえなければ、多くの脳腫瘍は「腫瘍を
取ってしまえば健常」と言われているらしい
。けれど……。 膠芽腫 、
脳腫瘍の中でも最も悪性が高いもの。5年後の
生存率8%。
一命を取り留め、そのパーソナリティを失わずに済んだ。
そんな喜びから急転直下、2011年末、主治医より
告知された腫瘍の組織検査の結果は、考え得る
最悪のものだった。

膠芽腫 は、腫瘍細胞が浸潤(染みわたる)ように
正常な脳細胞の間に広がり、しかも外縁部はMRIにも
造影されないため、手術で全腫瘍細胞を摘出することが
困難で、再発率も高い。

ネットで当事者や家族の発信する情報を見ても、
1年そこらで再発して亡くなりましたといったものばかり。
「完治はない」と断言する無慈悲な医師の言葉も
散見された。

治療方針は、まず標準療法として、従来型の薬品より
分子が細かく 膠芽腫に効果が見込めるとして承認されて
数年の「テモダール」なる抗がん剤と、手術で摘出した
腫瘍の外縁部に集中して放射線を照射する療法の併用。
加えて抗がん剤の奏効率を上げる目的の治験として、
インターフェロン点滴の併用。

まずはこれを入院加療として集中して1ヵ月行い、
その後は毎月5日間、自宅での抗がん剤服用を
続けるというもの。
だが、この突き付けられた現実に、僕とお妻様の
立ち位置は、あまりに異なっていたように思う。

後追い自殺も考えた (たった一度の涙)

僕はといえば、失うことばかりを考えていた。
もし再発したらどうやって生きていくか、
生きることを あきらめて後追い自殺をすることを
含めて考えた。

せっかく念願の自然に囲まれた田舎暮らしを始めたのに、
日々移り行く季節の花々を見ては、来年この花を
夫婦で見ることはできないかもしれないと思い、
2ヵ月に一度のMRIが無事に「再発兆候なし」の結果で
検査終了すると、次のMRI検査までの2ヵ月が夫婦で
過ごせる最後の時間だとしても悔いのない夫婦生活を
送ろうと、毎回誓った。

一方のお妻様はというと、生きることだけを考えていた。
不安や恐怖しかない宣告を受けても、お妻様が
涙を流したのはたったの一度きりだ。

手術が無事に終わり、病名告知を受けた後、
抗がん剤治療が始まると生モノが食べられなくなる
ということで、僕らは茨城県の那珂湊に寿司を
食いに行った。
その帰り、車の窓から美しい冬の夕日を見て、
お妻様は涙を流した。

予定されている放射線治療は、切除した腫瘍の
外縁部を最大限広範囲で照射することが求められ、
左右の視神経が交差する視床下部をギリギリ
攻めることになる。

放射線の担当医からは、この際の弊害として
「最悪のケースは全盲」と告知されていた。
お妻様は生きることだけを考えていたが、夕日を、
空を、小鳥を見られなくなるかもしれない可能性に、
一度だけ涙を流した。

そのあとのお妻様は、「死ぬときは死ぬし、
死なない人間はいない」と宣言し、生きている今を
最大限楽しむモードに見事にシフトチェンジ。

いや、もともとそれこそがお妻様の主義そのもの
なのだが、一層楽しむモードを加速させたのであった。
そんな男前のお妻様を前に、僕もまた、間違った
方向に加速した。

まずお妻様には毎月の抗がん剤治療に集中して
もらうべく、「家事は一切しないでいい」宣言。

従来のものに比べれば圧倒的に副作用が少ないと
言われている抗がん剤テモダールだったが、
やはりどうしても正常な細胞にもダメージを与えてしまうため、
免疫の強さの指標である「WBC(好中球)」が落ちてしまう。

この数値が一定の基準を満たしていないと抗がん剤
治療が継続できないため、とにかくストレスになることは
一切してほしくなかった。

同時にやはり免疫を強くするために、三度の食事は
「免疫を強くする食事〇品」みたいなレシピ本を参考に
僕が管理し、食事と起床就寝時間を管理するために、
携帯電話のタイマー機能に「僕の起床、お妻様起床、
朝食、昼食、夕食、就寝」と、複数の設定を
入れるありさま。

今度は僕の「脳が壊れた」1日でも長生きしてほしくて
今思えば、お妻様にとって最もストレスがない生活とは、
「好きな時間に起きて好きな時間に寝る」なのだが、
とにかく毎回の血液検査の数値に一喜一憂してしまう僕は、
健康情報を見ればどこにでも書いてある

「午前中の日の光を浴びる」=太陽信仰みたいなものを、
お妻様に押し付けた。
お妻様に1日でも長生きしてほしいという思いがさせた
こととはいえ、完全に僕は喪失の恐怖にとらわれ、
暴走していたのだと思う。

お妻様はと言えば、見事なまでに、変わらなかった。
面倒くさい僕との生活の中でご立派に育てあげた
圧倒的スルー力で、小うるさい管理魔の僕をのらり
くらりと巧みに交わし、愛想のかけらもない地域の猫に
滅茶滅茶しつこく話しかけるという謎ロジックで
篭絡しては、我が家に招きまくる日々。

お約束の酷いネーミングセンスは脳みそに直径65ミリの
大穴が空いているくせに健在で、「くさいちゃん、
汚いちゃん、ひゃんちゃん、眉毛、にゃん王、ビビり玉、
うなしー、エレノアさん、大白、中白、小白、汚れちゃん、
錆ぃさん、おばやん、ラテ男ちゃん、しっぽさん、
ロングしっぽさん、しっぽぼーん」と、えーと、
あと誰がいましたっけお妻様?

「パンティちゃんな。最近あの子来ないなあ」
とまあ、思い出すだけでうんざりする命名をなさっている。
僕が手汗びっちょりかくほどに緊張して聞く毎回の
MRI検査後の問診時にもお妻様はシレッとしたもので、
主治医からも「お妻様は、その突き抜けた性格だから
いいんだと思います」(うまく闘病できています)と
太鼓判。

結局毎月1回の抗がん剤治療を2年間クリアし、
2017年初春をもって、5年存命率8%の中にも
滑り込んだのであった。
が、残念ながら、そこまで僕の身体がもたなかった。

2015年5月末、僕は脳梗塞を発症し、緊急入院する
ことになってしまったのだった。

次回に続く



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった


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 世は歌につれ、
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妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

V0151111112


昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



421211111111


※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある

憧れの田舎暮らしを始めた矢先に、激しい頭痛を訴えた
お妻様。慌てて病院へ行くと「脳腫瘍」と診断され、
そのまま意識を失ってしまい……。

直径65mmの巨大脳腫瘍を緊急摘出!お妻様
「5年生存率 8%」に。。。

されど愛しきお妻様【8-1】

死を予感し、神に祈り自分を責める
2011年晩秋の、その日の前後のことは、思い出したくない
と思っても細かな出来事や時刻まで克明に覚えている。
病院で脳腫瘍と診断され、そのまま意識を失ったお妻様は、
当然のことながら緊急入院となった。

目を向けるのも苦しいほどの七転八倒が始まった。
お妻様は激しい頭痛に全身から大量の汗を流して
もだえ苦しみ、1時間ほど意識を失うと、今度は猛烈な
寒さを訴えて意識が半覚醒したり、逆に暑さを訴えて
着ているものすべてをはだけてしまったりを繰り返した。

起き上がって半分目が開いていても、意識はなく
問いかけに答えはない。
ちょうどその時僕が抱えていた仕事は雑誌の取材記事の
ような動きのある仕事ではなく、ムック本の執筆だったから、
僕はそうして七転八倒を繰り返す入院病棟の
お妻様の横でノートパソコンに向かって仕事をし続けた。

ふとお妻様の上半身がワイヤーか何かで引っ張られた
ようにスッと起き上がったので、後ろから支えようとすると、
白目をむいて激しく痙攣し、口元から泡が落ちた。

すぐに担当医の処置があって落ち着いたが、てんかんの
発作だった。お妻様の死を予感した。
大規模で困難になるだろう手術は、入院と意識喪失から
4日後に決定されたが、MRIに造影された腫瘍は
本来左右均等な筈の脳の形を大きくゆがめるほどに
巨大で、主治医からは手術の結果に一命を
取り留めたとしても、性格に変容があるかもしれない
と言われた。

一刻一刻と迫る手術を、もがき苦しむお妻様の手を
握ることしかできずに待つ日々の中、
僕は祈ったことのない神に祈りつつ、自分を
責めることしかできなかった。

お妻様がその性格でなくなってしまうとは、
どういうことだろう。
負担に感じ続けていた奇行もだらしなさも、
変な発言も、何もかもが、失われてしまうかもと思えば、
絶対に失いたくないものだ。

働かない、家事をしない、気が利かない、
たまに優しくない。それが何だというのだろう。
僕は家事と結婚したいのか、気が利く人が好きなのか、
僕が働かなくても大丈夫よと言ってくれる
キャリアウーマンさんが欲しかったのか。

もしお妻様が死んでしまって、残りの人生を
どうするのか? 再婚する?
この世の中には、お妻様以上どころか、お妻様に
似ている女性だっていない。
少なくとも僕にとってお妻様に代わる人は、
人類70億人の中に1人もいないのだ。

なんて人を好きになってしまったのだろう。
せめて、どこにでもいる凡庸なパーソナリティの人ならば、
僕はこんなにも大きな喪失に怯えることはなかっただろうに。

確かにあまり家庭運営に協力的でないお妻様に
苦労してきてはいるが、それ以上に僕はお妻様に
支えられてきたんじゃなかったか。

僕の取材記者としての仕事は、とても危険だったり
面倒くさかったりする人たちをターゲットにしてきたけど、
お妻様は一言として文句を言ったことはない。
言うとすれば「無事ならいいよ。お世話になった人には
ちゃんとお礼するんだよ」。

限界まで「病院連れてって」と言えず 支えてきた
以上に支えられてきた

心に深い闇を抱えた取材対象者に会う時には、
その闇に引っ張られてしまうこともたびたびあった。
あまりに凄絶な人生を送ってきた取材対象者に
何をしてやることもできず、無力感で泣きながら
家に帰ってみれば、足の踏み場もない部屋の中で
ステテコみたいな変な服一枚で大の字で寝ている
お妻様。

悲嘆の世界から一気に「僕の日常」に引きずり
戻されて、どんなにかありがたく思ったものではないか。
そんなことを重ねるうちに、精神的につらい取材の時には
お妻様についてきてもらい、取材の間何時間も
待ってもらうのが、僕の取材スタイルになっていった。

やはりお妻様は何も言わず、「旅行みたいで
こういうの好きよ」と言っては、仕事で疲れ果てた僕を
取材エリアに近い水族館などに引きずりまわして、
「キツイ取材」を本当に「小旅行」にしてくれるのだった。  

支えてきた。けれどそれ以上に、支えられて
きたんじゃないか。 けれど、そんなかけがえのない
相手に、僕は何をしてきたのだろう。

脳腫瘍は晴天の霹靂だったが、前兆はあった。
腫瘍がそこまでのサイズになるということは、
相当前からあった腫瘍なのだろうと医師は言うし、
原因として何か特定できるものはないとは言うが、
お妻様の乱れた食生活を放任してきたのは僕だし、
僕の車の中はいつも積んであるレーサーから
漏れるガソリンの匂いで充満していた。

僕のした何かが、もしくはしなかった何かが、
お妻様を腫瘍の引き金になったのではないか。
頭痛についてだって、訴え始めたのは引っ越しの
準備を始めた夏ごろからで、寝苦しさにもがいて
起きる時には枕の方に足があるということが
たびたびあった。

朝どころか日が暮れるまで布団の中に居るものだから、
大量の荷物の梱包や行政上の手続きまで、
そのほとんどを僕がやることになり、きつい叱責の
言葉を投げ続けた。

引っ越しが終わってからも、荷物の片づけや
あちこちの掃除などを手伝わずにひたすら頭が
痛いと言って寝ているお妻様をなじり続けた。

食欲がないというのにお粥を作って無理に
食べさせるも、一口くちをつけただけで器は
寝室の出窓に置かれ、直後にトイレで嘔吐。
「吐いちゃってごめんね」と言ってトイレの前の床で
腹を押さえるお妻様に、この忙しいさなかに
また恒例の胃痙攣発作かと、冷たい目を向けた。

「謝るんじゃなくて、具合が悪いなら病院に行けば
いいじゃん。連れてくから、連れてってって言いなよ」
言えるものか。気はあまり利かないが「気を遣う」のは
人一倍のお妻様は、忙しそうに仕事と引越の後
片付けをバタバタやっている僕に、ギリギリのギリギリ、
本当に限界まで「病院連れてって」と言えなかったのだろう。

いよいよおかしいということで病院に連れて行ったら、
意識不明という経緯だ。忘れていた。
お妻様はたいがいのシーンではヘタレの根性なしっぽいが、
その心の芯は驚くほど強くて、しなくていい我慢も、
言えばいい弱音も、ギリギリまで自分の中に
封じ込めて耐え続けてしまうのだ。

意識不明のままベッドの中でどんどんやつれていき、
ただただこの細い体のどこにそんな力があるのかと
思うほどの握力で、僕の手を握り返してきた。
意識が半ば覚醒した瞬間があったとしても、
つらい、苦しい、助けて、どんな泣き言も一言も
言わずに、ただただ僕の手を握りしめ続けた。

なぜお妻様のこの痛みが、僕の痛みにならないのだろう。
つないだ手を通じて腫瘍が僕の脳に移動してくれれば
どんなに良いだろう。そんなことを思いながら、
結局僕はベッドの横に座っていることしか
してやれないのだった。

次回に続く


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった


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2017年8月12日 (土)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。・・・


父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ
理由のあった事に違いありませんが、もうこれきり
選挙に出る意志も無い様子で、それに、故郷に一棟、
隠居所など建てたりして、東京に未練も無いらしく、
たかが、高等学校の一生徒に過ぎない自分のために、
邸宅と召使いを提供して置くのも、むだな事だとでも
考えたのか、(父の心もまた、世間の人たちの気持ちと
同様に、自分にはよくわかりません)

とにかく、その家は、間も無く人手にわたり、自分は、
本郷森川町の仙遊館という古い下宿の、薄暗い部屋に
引越して、そうして、たちまち金に困りました。

それまで、父から月々、きまった額の小遣いを手渡され、
それはもう、二、三日で無くなっても、しかし、煙草も、
酒も、チイズも、くだものも、いつでも家にあったし、
本や文房具やその他、服装に関するものなど一切、
いつでも、近所の店から所謂「ツケ」で求められたし、
堀木におそばか天丼などをごちそうしても、
父のひいきの町内の店だったら、自分は黙って
その店を出てもかまわなかったのでした。

それが急に、下宿のひとり住いになり、何もかも、
月々の定額の送金で間に合わせなければならなくなって、
自分は、まごつきました。
送金は、やはり、二、三日で消えてしまい、
自分は慄然りつぜんとし、心細さのために狂うようになり、
父、兄、姉などへ交互にお金を頼む電報と、
イサイフミの手紙(その手紙に於いて訴えている事情は、
ことごとく、お道化の虚構でした。

人にものを頼むのに、まず、その人を笑わせるのが
上策と考えていたのです)を連発する一方、
また、堀木に教えられ、せっせと質屋がよいをはじめ、
それでも、いつもお金に不自由をしていました。

所詮、自分には、何の縁故も無い下宿に、ひとりで
「生活」して行く能力が無かったのです。
自分は、下宿のその部屋に、ひとりでじっとしているのが、
おそろしく、いまにも誰かに襲われ、一撃せられるような
気がして来て、街に飛び出しては、れいの運動の
手伝いをしたり、或いは堀木と一緒に安い酒を
飲み廻ったりして、ほとんど学業も、また画の勉強も
放棄し、高等学校へ入学して、二年目の十一月、
自分より年上の有夫の婦人と情死事件などを起し、
自分の身の上は、一変しました。

学校は欠席するし、学科の勉強も、すこしも
しなかったのに、それでも、妙に試験の答案に要領の
いいところがあるようで、どうやらそれまでは、
故郷の肉親をあざむき通して来たのですが、しかし、
もうそろそろ、出席日数の不足など、学校のほうから
内密に故郷の父へ報告が行っているらしく、
父の代理として長兄が、いかめしい文章の長い手紙を、
自分に寄こすようになっていたのでした。

けれども、それよりも、自分の直接の苦痛は、
金の無い事と、それから、れいの運動の用事が、
とても遊び半分の気持では出来ないくらい、
はげしく、いそがしくなって来た事でした。

中央地区と言ったか、何地区と言ったか、
とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺の
学校全部の、マルクス学生の行動隊々長というものに、
自分はなっていたのでした。

武装蜂起ほうき、と聞き、小さいナイフを買い
(いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、
きゃしゃなナイフでした)それを、レインコートの
ポケットにいれ、あちこち飛び廻って、所謂いわゆる
「聯絡れんらく」をつけるのでした。

お酒を飲んで、ぐっすり眠りたい、しかし、お金が
ありません。しかも、P(党の事を、そういう隠語で
呼んでいたと記憶していますが、或いは、違って
いるかも知れません)のほうからは、次々と
息をつくひまも無いくらい、用事の依頼がまいります。

自分の病弱のからだでは、とても勤まりそうも
無くなりました。もともと、非合法の興味だけから、
そのグルウプの手伝いをしていたのですし、こんなに、
それこそ冗談から駒が出たように、いやに
いそがしくなって来ると、自分は、ひそかに
Pのひとたちに、それはお門かどちがいでしょう、
あなたたちの直系のものたちにやらせたらどうですか、
というようないまいましい感を抱くのを禁ずる事が
出来ず、逃げました。

逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。
その頃、自分に特別の好意を寄せている女が、
三人いました。ひとりは、自分の下宿している仙遊館の
娘でした。
この娘は、自分がれいの運動の手伝いでへとへとに
なって帰り、ごはんも食べずに寝てしまってから、
必ず用箋ようせんと万年筆を持って自分の部屋に
やって来て、「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、
ゆっくり手紙も書けないのです」  と言って、何やら
自分の机に向って一時間以上も書いているのです。

自分もまた、知らん振りをして寝ておればいいのに、
いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげの
様子なので、れいの受け身の奉仕の精神を発揮して、
実に一言も口をききたくない気持なのだけれども、

くたくたに疲れ切っているからだに、ウムと気合いを
かけて腹這はらばいになり、煙草を吸い、
「女から来たラヴ・レターで、風呂をわかしてはいった
男があるそうですよ」
「あら、いやだ。あなたでしょう?」
「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです」
「光栄だわ、飲んでよ」  

早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、
見えすいているのに。へへののもへじでも書いて
いるのに違いないんです。

「見せてよ」  と死んでも見たくない思いでそう言えば、
あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、その
うれしがる事、ひどくみっともなく、興が覚めるばかり
なのです。

そこで自分は、用事でも言いつけてやれ、と
思うんです。
「すまないけどね、電車通りの薬屋に行って、
カルモチンを買って来てくれない? 

あんまり疲れすぎて、顔がほてって、かえって
眠れないんだ。すまないね。お金は、……」
「いいわよ、お金なんか」  よろこんで立ちます。

用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる
事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると
喜ぶものだという事も、自分はちゃんと
知っているのでした。  

もうひとりは、女子高等師範の文科生の所謂
「同志」でした。
このひととは、れいの運動の用事で、いやでも毎日、
顔を合せなければならなかったのです。
打ち合せがすんでからも、その女は、いつまでも
自分について歩いて、そうして、やたらに自分に、
ものを買ってくれるのでした。

「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」  
そのキザに身震いしながら、自分は、
「そのつもりでいるんです」  と、愁うれえを含んだ
微笑の表情を作って答えます。

とにかく、怒らせては、こわい、何とかして、
ごまかさなければならぬ、という思い一つのために、
自分はいよいよその醜い、いやな女に奉仕をして、
そうして、ものを買ってもらっては、(その買い物は、
実に趣味の悪い品ばかりで、自分はたいてい、
すぐにそれを、焼きとり屋の親爺おやじなどに
やってしまいました)

うれしそうな顔をして、冗談を言っては笑わせ、
或る夏の夜、どうしても離れないので、
街の暗いところで、そのひとに帰ってもらいたいばかりに、
キスをしてやりましたら、あさましく狂乱の如く興奮し、
自動車を呼んで、そのひとたちの運動のために
秘密に借りてあるらしいビルの事務所みたいな
狭い洋室に連れて行き、朝まで大騒ぎという事になり、
とんでもない姉だ、と自分はひそかに苦笑しました。  

下宿屋の娘と言い、またこの「同志」と言い、
どうしたって毎日、顔を合せなければならぬ具合に
なっていますので、これまでの、さまざまの女のひとの
ように、うまく避けられず、つい、ずるずるに、れいの
不安の心から、この二人のご機嫌をただ懸命に
取り結び、もはや自分は、金縛り同様の形に
なっていました。  

同じ頃また自分は、銀座の或る大カフエの女給から、
思いがけぬ恩を受け、たったいちど逢っただけなのに、
それでも、その恩にこだわり、やはり身動き
出来ないほどの、心配やら、空そらおそろしさを
感じていたのでした。

その頃になると、自分も、敢えて堀木の案内に
頼らずとも、ひとりで電車にも乗れるし、また、
歌舞伎座にも行けるし、または、絣かすりの
着物を着て、カフエにだってはいれるくらいの、
多少の図々しさを装えるようになっていたのです。

心では、相変らず、人間の自信と暴力とを怪しみ、恐れ、
悩みながら、うわべだけは、少しずつ、他人と真顔の
挨拶、いや、ちがう、自分はやはり敗北のお道化の
苦しい笑いを伴わずには、挨拶できないたちなのですが、
とにかく、無我夢中のへどもどの挨拶でも、
どうやら出来るくらいの「伎倆ぎりょう」を、れいの
運動で走り廻ったおかげ? 

または、女の? または、酒? けれども、
おもに金銭の不自由のおかげで修得していたのです。

・・・

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。





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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…









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2017年8月11日 (金)

妄想劇場・妄想物語

V01511111112



信じれば真実、疑えば妄想・・・


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日本武人の闘い方

平安時代と言えば、藤原氏が摂関政治を行い、
源氏物語などの女流文学が花開いた平和な貴族の
時代というイメージが強い。そんな時代から兵法が
あったのか、と思ったのである。

しかし、考えてみれば、九州の地から大和に進出して
建国した初代・神武天皇 九州と関東を平定した
日本武尊(やまとたけるのみこと)など、皇室の先祖は
なつき従う部族は受け入れつつ、抗(あらが)う部族は
戦い従わせて、国家統合をなし遂げたのだった。

平安時代に入っても、東北地方を統合するために、
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が
征夷大将軍として派遣され、いまだ耕作を知らなかった
蝦夷たちに農業技術を教えつつ、抵抗する勢力は
武力で帰順させた

そういう武人たちの闘い方を説いた書物が平安時代に
あってもおかしくはない。
その武人たちの闘い方とはどのようなものだったか。


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■.「武」は秩序を生み出す力

『闘戦経』の第1章はまさしく、我が国を形作った
「武」のあり方について述べている。
私たち日本人の「武」というものは天地の初めから
あるものである。
その「武」の力によって天と地がわかれたのだ。
それはまるで雛(ひな)が卵の殻を割るように
自然なことであった。

私たち日本人の「武」の道はすべての根元であり、
いろいろな考え方の大元になるものである。
我が武なるものは天地の初めに在り、しかして
一気に天地を両(わか)つ。雛の卵を割るがごとし。
故に我が道は万物の根元、百家(ひゃっか)の
権與(けんよ)なり。

「天と地がわかれる」とは、古事記の冒頭で、
世界の最初は混沌としていたが、やがて天と地が
別れて秩序が生まれてきた、と書いてるように、
「秩序が生まれた」という意味である。

日本列島はかつて無数の部族があちこちに
割拠していたが、それを一つの国家として統合し、
秩序を生み出したのが「武」であった。

「武」という言葉は「矛(ほこ)」を「止める」という
字からなっています。つまり「矛を収める」という
意味も含んでいるのです。

武によってすべてをやっつけてしまっては何も
なくなってしまいます。武の力で混沌としたものに
秩序を与えていくことが大事なことなのです。

国家とは、人々が一緒に暮らしていくための
「秩序」を支える存在だ。たとえば、湾岸戦争後の
イラクでは国家が崩壊して、民衆を守る
秩序が失われた。

そこに多国籍軍の一環として自衛隊が進出し、
荒廃した土地に住む人々のために飲料水を
提供したり、学校を作ったりして、生活を支えた。

残存する武装勢力がロケット砲を打ち込んで
くることもあったが、それで自衛隊が帰って
しまうことを恐れ、140名の現地人のデモ隊が
自衛隊宿営地に詰めかけて、「日本の支援に
感謝する」「帰らないで」と懇願した。

自衛隊の「武」が支える秩序がなければ、これらの
人々は武装勢力の餌食になったであろう。
「武」は秩序を生み出すもの、これが『闘戦経』の
大前提である。

敵を欺く『孫子』の兵法は日本人のスタイルではない

『闘戦経』の著者の大江匡房(まさふさ)は、朝廷で
『六韜』『三略』『孫子』などの中国の兵書の
管理をしている兵法の大家の35代目であった。

『闘戦経』と『孫子』の関係について。

その当時は特に『孫子』が広く世に知れていましたが、
大江匡房は『孫子』の説く「兵は詭道なり」つまり
「戦いの基本は敵を欺くことにある」という兵法は
どうしても日本人のスタイルではない、と考えたのです。

「戦いというのはただ勝てばいいのではない、
ズルをして勝つのではなく、正々堂々と
戦うべきである」と、中国ではなく日本の戦う
スタイルを宣言しました、
それが『闘戦経』なのです。

そうした思いを匡房は『闘戦経』を入れた函に
金文字で書いています。
「『闘戦経』は『孫子』と表裏す。
『孫子』は詭道を説くも、『闘戦経』は真鋭を説く、
これ日本の国風なり」

「武」が秩序を生み出す力であるとしたら、単に
戦闘に勝てば良いというものではない。
敵を欺いて勝ったとしても、その敵は恨みを抱き、
いつか復讐してやろうと思うだろう。
それでは真の平和にはつながらない。
まさに中国大陸のように戦乱の世が続く。

『孫子』は戦闘に勝つ方法を教えた。
『闘戦経』は世を治める道を教えている。
そこに次元の違いがある。

「日本では真実をよしとする」

それでは『闘戦経』では、どのような闘い方を
理想とするのか。
中国の古い文献では相手を騙すことも一つの
作戦としていいことだと言う。
しかし日本では真実をよしとする。偽(いつわり)は
所詮(しょせん)偽りにすぎない。
鋭く真実であれば、やがてそれははっきりとした
結果を生む。・・・

漢の文は詭譎(きけつ)有り、倭(わ)の教は真鋭を説く。
詭ならんか詭や。鋭なるかな鋭や。・・・

『闘戦経』では日本人の価値観を的確に捉えていて
「どんな手を使っても勝つことをよしとするのではなく、
正々堂々と戦うことがまず大切だ。

何か汚い手を使って勝つよりも、負ける方がまだいい」
といった潔(いさぎよ)さを求めるのです。
千年近くも前に書かれた本に、現代にまで続く日本人の
価値観が記されていることに驚きます。

例えばサッカーの国際試合などでは審判の
見ていないところでズルをする外国の選手をよく見ます。
わざと倒れて相手に反則の判定をとらせるなどと
いうこともよくあります。日本はそうしたずる賢さが
ないから勝てないんだと言われたこともありました。
しかし、日本人にはそうしたことができないのです。

そして今は、日本チームはそれでいい、フェアプレーを
貫いて正々堂々と闘おうではないかという、それが
日本のスタイルになっています。
高校野球もまさに正々堂々、そこに日本的教育が
あります。

日韓サッカーワールドカップでの戦い方の違い

この一文から思い出されるのは、平成14(2002)年の
日韓サッカーワールドカップである。
日本チームは決勝進出したが1回戦で敗退したのに対し、
韓国チームはイタリア、スペインと強豪を連破し、
準決勝にまで進出して4位を得た。

しかし、この両試合で、世界10大誤審に4つも
ランクインする韓国有利の誤審が出て、審判買収まで
噂された。やぶれたイタリア、スペインのみならず、
第3国のマスコミまで以下のような報道をした。

・ イギリス デイリーテレグラフ紙:茶番判定で汚れた
 韓国の奇跡
・ アルゼンチン ラ・ナシオン紙: W杯を中止に
・ オーストリア クリア紙: W杯に正義はなくなった

スポーツは正々堂々と戦ってこそ、勝っても負けても
敵味方を超えた友情が花開く。
韓国と日本のサッカーの違いは、まさに「相手を
騙すことも一つの作戦」と考えるか、あくまでも
「真実をよしとする」か、という闘い方の違いであった。

黒田博樹投手の志

武を秩序を生み出す力と捉えると、どういう秩序を
目指すのか、という志が問われる。
この点について『闘戦経』はこう説く。

人の道を説く儒教は戦いには弱く、
戦いの場では死ぬしかない。
謀略ばかり練っている人は人から信用されず、
いざという時は逃げるしかない。・・・
策略ばかりで生きてきた人が名を残したり
することはない。

儒術(じゅじゅつ)は死し、謀略は逃る。
・・・未だ謀士の骨を残すを見ず。

「大事なことは志を持って一途に生きること、
志士の魂を持つことです」その例として、
黒田博樹投手がメジャーリーグで79勝もあげて、
さらに年間20億円以上のオファーを受けながら、
それを蹴って古巣の広島カープに戻ってきた
逸話を挙げる。

その理由が、広島という町に自分を待ってくれている
人たちがいる、その人たちのためにカープを優勝させたい、
まだ第一線で活躍できるうちに日本に帰ってきて、
自分が培ってきたものを若い選手に伝えたい。
日本に帰るならカープしかない、というものでした。・・・

広島ファンだけでなく、多くの人に「黒田は男だったなあ」と
長く語り継がれることでしょう。
まさに、黒田選手は目先の損得よりも自らの志を貫き、
「骨を残した」のです。

「手足の自由を失っても、気を失わず」

武人の一途な志を支えるのが「気」である。
武人は志を遂げるために「気張って」いなければならない。
気について『闘戦経』はこう説く。

気は形があるものから生まれるが、形がなくなっても残る。
薬草は枯れた後もその気が宿り、体を癒やしてくれる。
肉体が壊れていないのに、心が衰おとろえてしまうのは、
天地の法則に則っていないということだ。

気なるものは容(かたち)を得て生じ、容を亡って存す。
草枯るるも猶(なほ)疾(やまい)を癒(いや)す。
四体未だ破れずして心まず衰ふるは、天地の
則に非ざるなり。

肉体は壊れても気力を失わなかった生き方とし、
例えば星野富弘(とみひろ)さんという画家がいます。
もとは中学の体育の先生でしたが、クラブ活動の
指導中に脊椎を損傷し手足の自由を失ってしまいます。

しかし、そこで気力まで失ってしまうことはなく、
口に筆をくわえて絵や文字を書き始め、今や自らの
名前がついた美術館までできています。
たとえ手足の自由を失っても、気力を失わず、
志を遂げようとするのが、日本の武人の生き方である。

数千年も続いてきた「日本武人の生き方」を説いた書

『闘戦経』の説く武人の生き方を見ると、その理想は
中世以降に武士が登場してからも、そのまま
受け継がれていったことが判る。

後に武士の理想像とされたのは楠木正成だが、
人々が仰いだのは戦いでの卓抜な機略もさることながら、
あくまでも後醍醐天皇の理想に殉じ、
最後は弟と「七生報国(七たび生まれ変わっても国に
報じよう」と言い交わし、高笑いした後に差し違えて
自刃した一途さだった。

身の栄達も、謀略による勝利も願わず、
ひたすらに志を遂げんとする一途さは、
幕末に多くの志士を振るい立たせた吉田松陰、
明治時代の軍人としてもっとも敬愛された乃木希典将軍]、
さらには先の大戦の特攻兵にも受け継がれていく。

こうして見ると、我が国を創り護ってきたのは、まさに
こうした武人たちの精神であることが判る。
その「武」の精神は2千年以上にわたって、
日本人の心の奥底を流れてきたのである。

現代においても、黒田博樹投手や星野富弘氏のような
生き方に我々が感銘を受けること自体が、
我々の心の奥底に武人の精神が流れていることを
示している。

『闘戦経』は「日本最古の兵書」というより、
数千年も続いてきた「日本武人の生き方」を説いた
書というべきであろう。
それは現代社会においても、そのまま立派に通ずる
生き方である。

■「戦乱が続くのは孫子の国の宿命」
(犬飼裕一さん)

 
日本武人の闘い方」で重要なのは、いわゆる
「戦略論」の人々が無条件の真実、
最低限の常識として疑おうとしない『孫子』を、

実は日本人が疑ってきたのだという点です。  
現に孫子の国であるシナ(中国)は、長く
戦乱が収まらず、孫子の国民であるシナ人
(中国人)は、互いに信頼し合って集団力を
発揮することが難しい。  

常に足を引っ張り合い、騙し合い、
嫉妬する相手に対しては、どんな汚い手でも使う。
そんな人生観や組織観が、実は長期的に不利で、
秦始皇帝みたいな大人物が死ぬと、すぐに
殺し合いの戦乱状態に戻ってしまう。  

孫子の国の宿命です。これに対して、日本では
戦乱があっても、その恨みがあまり残らない。  

武田を滅ぼされた山梨県の人々が織田・徳川の
地元の愛知県の人々に復讐したいと思ってませんし、
会津の人々が長州の人々を恨んでいても、
機会があれば反撃して虐殺したいなどと
思っているわけではない。  

日本の歴史に、孫子的な要素が多くない点が、
今日の日本社会の財産であるともいえます。
・・・


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった 


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、  人生、絵模様、万華鏡…






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隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月10日 (木)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
   不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


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毎年、最難関の東大・京大など国公立大学に
150名前後の合格者を送り出す進学校でありながら、
スポーツにも熱心な学校です。


2010年、2011年には野球で甲子園にも出場しました。
この高校の校長先生は、山野隆夫さんという方です。
山野さんご自身は、かつて水戸一高の高校球児でした。

大学では野球はやらなかったそうですが、その後
高校教師となり、行きがかり上、野球部の監督に
なったことがあります。

その時のエピソードです。

山野さんは、水戸南高校という通信制の高校に赴任
しました。水戸南高校は、通信制にしては珍しく、
硬式の野球部がありました。

ただ、山野さんが水戸南高校に赴任した当初は、
野球部の監督も他にいましたし、山野さん自身ももう
野球に携わる気持ちはありませんでした。

ところが、その野球部の監督をしていた先生が
転勤になり、学校の中で野球部の監督をできそうな人は、
山野さんだけという状況になりました。

山野さんは、皆から懇願され、監督を引き受けることに
したのです。しかし、監督を引き受けたものの、当時の
水戸南高校の野球部は、ハッキリ言ってかなりの
弱小チームでした。

トスバッティングはおろか、キャッチボールもままならず、
さらに、部員たちのグローブも軟式用だったり、ボールも
ボロボロのものが20個あるだけという有様でした。

高校野球というようなレベルではなかったようです。
ただ、そうした中でも、選手たちはとても必死でした。
朝5時に起きて一日立ち仕事をし、夕方から授業を受けて、
夜の9時から11時まで練習をする。

そして、ヘトヘトになって帰り、また次の朝5時に起きて
仕事に行くのです。
そんな選手たちの姿を見て、ある日、山野さんは
こう思ったそうです。

「何でコイツらはこんな辛い思いをして、毎日野球を
続けるんだろうか?勝ちたいからなのか?
それとも、単純に野球が好きだからなのか?」

前任監督の義理だけで、グランドに立つ自分が、
正直辛かったのです。
そして、山野さんは満を持して選手たちに問いかけて
みました。

「お前ら何で硬式なんだ?今まで野球やったこと
あんのか?
金もかかるから軟式で良いんじゃないのか?」
その問に対する選手たちの答えに、山野さんは
とんでもないショックを受けました

「野球は、夏の大会の前には、出場各校の部員全員の
名前が新聞に載ります。
また、球場に行けば、写真入りの冊子に自分が
載ります。

軟式は分からないけど、硬式は確実に載るんです。
だから、僕たちは野球で頑張っているんです」

山野さんは、最初聞いたときは、何を言っているのか
意味が分かりませんでした。
しかし、その答えは、他の選手に聞いてみても同じ。

そこで、山野さんはもう少し選手に聞いてみました。
「どうして新聞や冊子に名前が載るのが良いんだ?
そんなに名前が載りたいのか?」

選手たちの答えはこうでした。
「父ちゃんか、母ちゃんが、新聞や冊子を見て、
俺の名前を見つけてくれるかもしれないと思って」

そう。実は、この水戸南高校の選手たちの多くは、
近くの孤児施設出身の子どもたちだったのです。

顔も知らない、記憶にも無い親に会えるかも知れない
大きなチャンスが、この夏の県予選だったのです。

そんなことも知らず、自身は野球のレベルのことを
考えたり、義理でグランドに立っていた自分が
情けなくなり、自分を恥じたそうです。

それからというもの、山野さんは母校関係者から
ボールをかき集め、朝練も始めました。

そして、それでもまともなユニフォームも無かったので
寄付をお願いし、背番号は墨で書きました。
当然ながら、夜の練習にもより一層熱が入りました。

その夏、水戸南高校は、県予選に出場しました。
試合は0-38。1回戦で敗れてしまいました。
しかし、山野さんは恥じる気持ちなど一切なく、
選手たちをとても誇らしく思ったそうです。

この体験が、この現・水城高校校長である
山野さんの原点。『野球はすべてを結集させる』という
信念が生まれた瞬間でした。

そしてその後も、山野さんは荒廃し、野球部も
休部状態だったような高校を、野球の力を使って
立て直したり、その信念を貫き通して、ここまで
やってきたのです。

そして2010年夏のこと、自身が校長を務める
水城高校で、初の甲子園出場を果たしました。

この水城高校は、私立校ではありますが、
「単純に良い選手を野球留学させて、強くしましたよ」
というチームではありません。

山野さんの高校野球に対する信念が、選手たちを
強烈に支援し、ノーシードのノーマークから、
甲子園出場へと押し上げていったのです・・・



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大阪の貧乏な寺の子で、三島海雲(みしまかいうん)と
いう人がいました。
この人は、風変わりな人で、坊さんになるのを嫌い、
みなぎる冒険心を抱えて、中国大陸に渡ります。

海雲さん、大陸放浪の道すがら、モンゴル地区の
貴族の天幕(パオ)にしばらく厄介になる経験をしました。
彼らの住まいであるパオというテントの入口には、
牛や羊などの乳を蓄えた大ガメが置いてありました。

毎日、大ガメの中の乳を飲んだ海雲さん、
そのパワーにすっかり感動しました。
その効果を、こう述べています。

「長くつらい旅のために、すっかり弱っていた胃腸の
調子が、目を見張るばかりに整った。その上、
日ごろ苦しんでいた不眠症も全く治った。
身体、頭、すべてがすっきりして、体重も増え、
それはあたかも、不老長寿の霊薬にでも遭遇した
印象さえ受けた」

この乳に出会った海雲さん、日本に帰ってからの
運命が変わります。
また、日本人にとっても、大変象徴的な飲料として、
これが普及することになります。
もう勘のいい方は、うすうすお分かりでしょう。

その飲み物は、今日このように商品化されています
関東大震災で、人々を救ってくれた飲み物

日本に帰ってきた海雲さん、何で再起を期そうかと
考えましたが、直ぐに、蒙古民族の乳飲料の
素晴らしさを思い出し、それを参考に、新しい乳製品の
開発に着手することにしました。

何年も試行錯誤を続け研究、改良を重ねた結果、
ついに海雲さんは、国民的飲料となる乳酸菌飲料を
生みだすことに成功したのです。

それが「カルピス」です。
カルピスは、蒙古民族の不思議な乳飲料をヒントに
つくられたのでした。

1923年、関東大震災の時です。
東京の大半は見るも無残な状態。
水道が止まって飲み水もままなりません。
いたるところに避難民が溢れかえりました。

飲料水の不足を放っておくと、地震、火事の
不幸に続いて、もっと恐ろしい疫病が蔓延しかねない、
そんな状況にありました。
幸い、カルピス本社の山手方面では水道の損傷が
少なく、水が出ました。

そこで海雲さんは、自分で出来ることは何かを考え、
水を配ることにしたのです。
それもせっかく水を配るのであれば、氷とカルピスを
入れて美味しく配って上げようと思いつきました。

金庫のあり金、2,000円(現在の価値で2,500万円ほど)を
全部使い、トラック4台を調達し、翌日には東京中に
配って回りました。

この行動の早さは、たちまち大きな反響を呼ぶことに
なりました。このことがきっかけとなり、「カルピス」が
広く世間に知られることになりました。

それをもって、「お安い広告料だった」などなどの
やっかみも出てきました。
しかし、多くの人は知っています。
大混乱の時に、素早く行動できる反射神経は、
計算ずくで出来るものではない。

真に人が困窮にあえいでいる時、即刻身を捨てて
行動する。そこに利己ではなく、利他があることを
直感的に感じ取ります。
そんな人、そんな企業を、大衆はよく見ているのです。

震災20年経ってから、某省の高官が海雲さんに
こう言ったそうです。
「私はカルピスのことなら、喜んでどんなことでも
協力いたしましょう。
それは震災の時に、上野でもらった一杯の
カルピスのうまさが 生涯、忘れられないからです」

カルピスといえば「初恋の味」のキャッチフレーズが
あまりにも有名です。でも、キャッチフレーズだけで、
国民に愛飲されるようになったわけではない、
そんなことがお分かりいただけるかと思います。
・・・



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当時、私は2歳半の一人娘の世話をしながら、外回りの
営業をしていました。
妻が闘病中でやむを得ず、 上司の許可を得て、
営業車に娘を乗せながらの業務でした。
しかし、妻の入院が長期に渡ることになり、
期間の途中から娘を保育園に預けることにしました。

準備するもののうち、カバンはどうやら探したものの、
保育園から借りる絵本入れの袋とか、連絡帳袋とかは、
保育園の先生の話によれば、一般のお店でも
売ってるとのことでした。

翌日、園児服を求めに行ったお店で、 世間話的に
こんな時期に入園することになった事情など話しました。
そして、絵本入れの袋や連絡帳袋の在庫の有無を
聞いてみたところ、 やはり、季節的に置いて
ないとのことでした。

「端切れなどで作られたらどうですか」 と店員さんが
言いました。 やむなく、その売り場の近くにあった端切れを
物色していたところ、 その店員さんがこう言ってくれました。

「じゃあ、私が作ってあげましょうか。    
私にも子どもがいますから気にしないでください。  
すぐにとはいきませんが、今度の土曜日に店に来て、
私を呼んでください。作っておきますから」

まったく見ず知らずの、 それも初めて行った店の方が
そう言ってくれるなんて驚きでした。
その店は量販店であり、そう言ってくれた方は普通の
従業員の方だったので、 なおさら、半信半疑でした。

言われるままに、土曜日に伺うと、 かわいい柄の絵本袋と
連絡帳入れの入った包みをくださいました。 名
前用のテープまでつけてありました。 私は恐縮し、
適当な言葉も見つからず、 持参した菓子箱を出すのを
ためらったほどです。

菓子箱以上にお金と手間がかかっていることがわかり、
それをさらりと、まったくの他人にしてくれたことに対して、
その菓子箱があまりに貧弱に思えたからです。

後日、保育園の園長先生にその話をすると、
思わぬ返事、予想外のお話がかえってきました。

そこまで気を配ってくれる店員さんがいるお店、
そしてこの街

保育園の園長先生の話によると、 私の知り合い
という人から電話があったとのこと。 そ
の電話の内容は、これこれこういう袋だというが、
どのようなもので、 寸法や色はどんな感じか、
というお問い合わせだったとのこと。

「ああ、あの時の貴方のお知り合いという方が、
その親切な店員さんだったのね」 と園長先生も
驚いてらっしゃいました。
また、その方の子どもさんは、保育園や幼稚園に通う
小さなお子さんではなく、高校生だとのことでした。

てっきり、私の娘と同年輩の小さなお子さんが
いらっしゃってて、 同じような袋物を作ることが
あるんだろうな、と私は思ってました。

ところがそうではなく、わざわざ、私の娘のために
そこまでしてくれたのです。 改めて、この店員さんの
ご好意に感謝し、 こんな素敵な人が私の街にも
いた幸せを痛感したものでした。

4歳になった娘は、今もその袋を持って、
ニコニコと通園しています。 ・・・


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、     
  世は歌につれ、人生、絵模様、万華鏡…






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隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月 9日 (水)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー

キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペイン
の植民地とすることを、神への奉仕と考えた。



キリシタン宣教師の野望

■日本布教は最も重要な事業のひとつ■


イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは
日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けで
マカオからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに
次のような手紙を出した。

私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、
神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、
断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ
有能にして、理性によく従うからである。

尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては
不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた
中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは
何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず
軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土では
ないからである。

しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと
思っていることのために、日本は時とともに、非常に
益することになるだろう。
それ故日本の地を極めて重視する必要がある。

「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、
スペイン国王によるシナの植民地化である。
日本は豊かでなく、強すぎるので征服の対象としては
不向きだが、その武力はシナ征服に使えるから、
キリスト教の日本布教を重視する必要がある、と
いうのである。

■シナ征服の6つの利益■

スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、16世紀半ばには
太平洋を横断してフィリピンに達し、そこを足場にして
シナを始めとする極東各地に対し、積極的な貿易と
布教を行っていた。

宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の
献策を続ける。
1570年から81年まで、10年以上も日本に留まって
イエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、
1584年6月27日付けで、スペイン国王あてに、シナ
征服には次の6つの利益があると説いている。

第1に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は、
主への大きな奉仕であり、
第2にそれによって全世界的に陛下の名誉が高揚される。
第3に、シナとの自由な貿易により王国に多額の利益が
もたらされ、
第4にその関税により王室への莫大な収入をあげる
ことができる。
第5に、シナの厖大な財宝を手に入れる事ができ、
第6にそれを用いて、すべての敵をうち破り短期間で
世界の帝王となることができよう、。

このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、
車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていた。

■日本人キリスト教徒の「ご奉公」■

さらにカブラルはシナ人が逸楽にふけり、臆病であるので
征服は容易であると述べ、その例証に、13人の日本人が
マカオに渡来した時に、2~3千人のシナ人に包囲されたが、
その囲みを破り、シナ人の船を奪って脱出した事件があり、
その際に多数のシナ人が殺されたが、日本人は一人も
殺されなかった事件をあげている。

私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃
至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分
であろう。・・・

日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が
容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることが
できるだろう。
彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に
大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または
2エスクードの給料で、暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、
陛下にご奉公するであろう。

日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、
日本人を傭兵の如くに見ていたのである。

■人類の救済者■

宣教師は教会のほか、学校や病院、孤児院を立てた。
地球が球形であることを伝え、一夫一妻制を守りるよう
説いた。
これらにより、キリスト教の信者が西日本を中心に増えた。
この当時、キリスト教とその信者をキリシタンといった。

中学歴史教科書の一節である。同じページにはザビエルの
肖像画があり、そこに記されたIHSという文字について、
「イエズス会の標識で『耶蘇、人類の救済者』の略字」と
説明される。
キリシタン宣教師達は、まさに未開の民に科学と道徳を教え、
社会事業を進める「救済者」として描かれている。
数ページ後には家康によるキリシタン弾圧が次のように
描かれている。

家康は貿易のために、はじめキリシタンを黙認していた
が、やがて禁教の方針をとった。信者に信仰を捨てるよう
に命じ、従わない者は死刑にした。[1,p130]

さらに家光が、「キリシタンを密告した者に賞金を
出すなどして、キリシタンを完全になくさせようとした」
事を述べ、厳しいキリシタン取り締まりに島原・天草で
約4万人の農民が一揆を起こして、「全滅」した事を
述べている。

この教科書を読んだ中学生は、「救済者」達に対する
なんと野蛮な宗教弾圧かと思うであろう。しかし、なぜ
家康は黙認から禁教へと方針を変えたのか、については
一言も説明がない。

秀吉も同様に、初めのうちはキリシタンを奨励していたのに、
急に宣教師追放令を出している。
いずれもキリシタン勢力から国の独立を守ろうとする
秀吉や家康の防衛政策なのである。

■日本準管区長コエリョの秀吉への申し出■

キリシタン宣教師の中で、イエズス会日本準管区長
ガスパル・コエリョは、最も行動的であった。
当時の日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の
日本での活動の最高責任者にあたる。

天正13(1585)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった
豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。
その際に、大友宗麟、有馬晴信などのキリシタン大名を
全員結束させて、秀吉に味方させようと約束した。
さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」
と述べると、その時には2艘の船を提供しよう、と
申し出た。当時、日本には外航用の大艦を作る技術は
なかったのである。

秀吉は、表面はコエリョの申し出に満足したように見せかけ
ながらも、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、
メキシコやフィリピンのように、我が国を侵略する野望を
持っているのではないかと疑い始めた。

■コエリョの画策とバテレン追放令■

翌々年、天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために
博多に下ると、コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に
乗って、大提督のような格好をして出迎えた。
日本にはまったくない軍艦なので、秀吉の軍をおおいに
驚かせたという。

その前に秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって
無数の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。
秀吉は軍事力を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が
事実であると確信し、その日のうちに宣教師
追放令を出した。

コエリョはただちに、有馬晴信のもとに走り、キリシタン
大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。
そして自分は金と武器弾薬を提供すると約束し、
軍需品を準備した。しかし、この企ては有馬晴信が
応じずに実現されなかった。

コエリョは次の策として、2,3百人のスペイン兵の
派兵があれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教会を
守れるとフィリピンに要請したが、その能力がないと
断られた。
コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、
これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。

■秀吉のキリシタンとの対決■

秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、
最近では、スペインやポルトガルのシナ征服への
対抗策であったという説が出されている。
スペインがメキシコやフィリピンのように明を征服したら、
その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇の時を
上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくるだろう。

そこで、はじめはコエリョの提案のように、スペインに
船を出させ、共同で明を征服して機先を制しよう、と考えた。
しかし、コエリョが逆に秀吉を恫喝するような態度に
出たので、独力での大陸征服に乗り出した。
その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、
朝鮮半島経由で行かざるをえなかったのである。

文禄3(1593)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに
手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く
予の指下にある」と脅している。

慶長2(1597)年、秀吉は追放令に従わずに京都で
布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師と
日本人信徒26名をわざわざ長崎に連れて行って処刑した。

これはキリシタン勢力に対するデモンストレーションであった。
一方、イエズス会とマニラ総督府も、すかさずこの26人を
聖人にする、という対抗手段をとった。丁々発止の
外交戦である。

■天草をスペイン艦隊の基地に■

全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、
キリシタン勢力の中では、布教を成功させるためには
軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。
1590年から1605年頃まで、15年間も日本にいた
ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けで次のような
手紙を、イエズス会総会長に出している。
要点のみを記すと、

日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこで
もしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙して
この国を襲うことが出来よう。
この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち
下(JOG注:九州のこと)又は四国を包囲することは
容易であろう。
そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、
さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするような
ものを奪うことも出来るであろう。・・・

このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と
協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用
出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が
非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船で
そこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海に
とって格好な位置にある。・・・

(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設する
ことの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共に
キリスト教的な統治を経験することになる。・・・
多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、
子弟をスペイン人の間で育てることになるだろう。・・・

スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべき
シナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に
日本から調達することが出来る。

キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、
そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、
というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進
めてきた常套手段であった。

また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地を
イエズス会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が
入るだけでクルスの計画は実現する。
秀吉はこの前年に亡くなっており、キリシタンとの戦いは、
徳川家康に引き継がれた。

■国家の独立を守る戦い■

家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が
大のキリシタンびいきで、大阪城にこもって、スペインの
支援を受けて徳川と戦うという事態であった。
当時の大阪城内には、宣教師までいた。
大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、
キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに
追放している。

1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、さらに
1637~38年のキリシタン勢力による島原の乱をようやく
平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。
これは鎖国と言うより、朝鮮やオランダとの通商は
その後も続けられたので、正確にはキリシタン勢力との
絶縁と言うべきである。

キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を
立てることと、日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を
破壊して唯一絶対のキリスト教を広めることは、
ともに「人類の救済者」としての疑いのない「善行」であった。

その独善性を見破った秀吉や家康の反キリシタン政策は、
国家の独立を守る戦いだった。これが成功したからこそ、
我が国はメキシコやフィリピンのように、スペインの
植民地とならずに済んだのである。
・・・・

おしまい



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むかしむかし、ある空き寺に、源哲(げんてつ)という
名前の新しい和尚(おしょう)さんがやって来ました。
村人たちは新しい和尚さんにあいさつをしようと、
畑仕事を途中で終えるとお寺にやって来ました。

「こんにちは、和尚さん。・・・?」
「はて? どこにも、おらんようじゃが」
村人たちが和尚さんを探すと、何と源哲和尚は
お堂の屋根の上でお酒を飲んでいたのです。

これには村人たちも、すっかりあきれて、
「坊主のくせに、昼間から酒を飲んでおるとは」
「あんなやつ、相手にしとれんわい」と、
みんな帰ってしまいました。

村人たちからは相手にされなくなった源哲和尚ですが、
裏山に住む子ダヌキたちには気に入られて、
「和尚さん。 おらたちに、何か教えてくれ」と、
子ダヌキたちは人間の子どもに化けて、
遊びに来たのです。

「いいとも、いいとも。それじゃあ、読み書きを
教えてやろう」
子ども好きの源哲和尚は、子ダヌキたちに
喜んで勉強を教えてやりました。

「和尚さん。お月さまって、どう書くんじゃ?」
「和尚さん。おらには、山と海じゃ」
子ダヌキたちは熱心に勉強をして、読み書きが
とても上手になりました。

すると村の子どもたちもやって来て、一緒に
勉強を教えて欲しいと言いました。
「ああ、遠慮はいらんぞ。仲間は多ければ多いほど、
はげみになるからのう」
こうして子ダヌキと村の子どもたちは、一緒に
勉強をする様になりました。

ある日の事。村の子どもたちが近くの川でとった魚を、
源哲和尚に差し出しました。
「勉強を教えてくれる、お礼だよ。
酒のさかなに、してくれろ」

その日の帰り道、子ダヌキたちは集まって
相談をしました。
「人間の子が、和尚さんに勉強を教えてくれる
お礼をしたぞ。おらたちも、何かお礼をせんとな」
「ああ、恩は返さんとな。しかし、おらたちは何をする?」

「うーん。そう言えば和尚さんは、雨の日に酒を
買いに行くのがなんぎじゃと言うとったぞ」
「それじゃ! 雨の日は、おらたちが酒を買いに行こう」

それから雨の日になると、子ダヌキたちは人間の
子どもに化けて酒屋にお酒を買いに行き、
源哲和尚に届ける様になりました。

ところが酒屋の主人が、雨の日に子どもたちが
お酒を買いに来ると、お金の中に木の葉が
まじっている事に気づいたのです。

「あの子どもたちは、きっとタヌキかキツネに違いない。
今日こそは、尻尾をつかんでやる!」
そうとは知らない子ダヌキたちは、いつもの様に
木の葉をお金に変えてお酒を買いに行きました。

すると酒屋の主人が店の入り口にカギをかけて、
太鼓(たいこ)を『ドン!』 とならしました。
いきなりの太鼓にびっくりした子ダヌキたちは、
尻尾を出してタヌキの姿に戻ってしまいました。

「やっぱり、お前らはタヌキじゃったんだな! 
このいたずらダヌキめ!」
酒屋の主人にひどいめにあわされた子ダヌキたちは、
それからは二度と人前に姿を現さなくなりました。

この話を聞いた源哲和尚は、ぽろりと涙を
こぼしました。
「あの子たちが、タヌキじゃったとはな。
よく勉強の出来る子どもたちだったのに、
わしの為にかわいそうな事をした」

でも、この事で村人たちは源哲和尚のやさしい人柄
(ひとがら)を知り、それからはお寺に親しく
行き来する様になったそうです。
・・・・
おしま



鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる


長い間引き取り手がなく悲しみに暮れていた猫。
手を差し伸べてくれた一人の女性によって
別猫に生まれ変わる・・・







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隙間産業(ニッチ市場

2017年8月 8日 (火)

妄想劇場・韓信外伝 (馬邑失陥)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、 
 良いかな・・・


アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい

Kansin

韓信外伝 (馬邑失陥)

韓王信は思う。冒頓が自分を受け入れてくれたのは、
やはり自分の背の高さが原因ではなかったかと。
自分がどのような人間で、どんな能力を持っており、
何を愛し、何を嫌うか……

彼にとってはそのようなことはどうでも
よかったのではないかと。
重要なのは目を引く容姿、異彩を放つ外見的特徴、
そして人々の印象に残る風体……

いろいろな言葉を自分に当てはめてみたが、
結局これらはすべて同じ意味だった。  
しかし、そんなことはどうでもいい。  
匈奴は、基本的に中原からの亡命者を歓迎した。
中原人の持つ文化や知識、大は強力な攻城兵器を
開発する能力や、荒れ地を開墾して一大農地を作る
技術と知恵、

小は茂みの中に生息する薬草を見分ける能力や、
虫の吐き出す糸から織物を作り出す技能など、
そのどれもを有益とみなし、積極的に自分たちの国の
発展のために生かそうとした。

とどのつまり、自分もそれらのうちのひとつであったに
過ぎない。  確かに自分は戦略眼のない匈奴に
知識を授け、それを勝利に導いた。

彼らはその勝利の結果に喜んだが、自分は
不満を抱いた。たったそれだけのことであった。  
つまり破局を導いた原因は自分の側にあり、
冒頓に吐いた挑発的な台詞は、あまり自分の本意を
あらわしたものとはいえない。

比較的純朴な性格であった彼は、思いどおりに事態が
進んでいないことを知って反発を示したのだった。
自分でも驚くような子供じみた反応である。  
この土地が嫌だ。この風、雪、冬のどんよりとした空の色
……すべてが嫌だ。  
彼の真意はそこにあったのかもしれない。  

大気中のわずかな水分が小さな氷の結晶となって
空中に漂い、それが朝の日の光に反射してきらきらと輝く
幻想的な風景。それは人界と自然界の境目で
あるかのように彼には思われた。

不可侵の領域はつまり、まともな人間が暮らすべき
場所ではない。  零下の低温のもとでも暖かに過ごせる
匈奴の衣服は主に動物の毛皮で作られており、
それが彼らの荒々しさや逞しさを象徴的に示して
いるようにも見える。

彼は試しにそれを身に付けたことがあった。
しかしその着心地はごわごわとしており、確かに
温かいがお世辞にも快適とはいえない。
さらに気に入らないのは、鼻が曲がるほどの不快な
異臭がすることであった。

文明人ならば、やはり綿を詰めた布地の衣服を
身にまとうべきだ。  
匈奴の女は素朴で、素直であった。しかし、
肌が日にすすけているようで、一言でいうと汚い。
頬はあかぎれて艶もなく、女性特有の透明感など
皆無であった。

また、その手のひらは見るからに硬く、
握る気さえ起きない。
そんな女どもが毛皮の衣服をまとい、やはり異臭を
漂わせているのだった。

彼はこれでも女かと思い、近づくことすらできなかった。  
自分は王族という高貴な血脈を持って生まれ、
それを途切れさせることのないよう生き続けてきた。
そのために匈奴に身を売り、捲土重来を期して
不遇な現況にも耐え続けている。

しかしそれを覆すのが結局そうした世俗的な
欲望であったことには、嫌悪を抱いた。  
いいところに住み、きらびやかな衣服を着て、
夜にはたおやかな女性を抱く……

自分が求めているのは本質的にそれに過ぎず、
王家の血筋などというものは生き延びるための
建前に過ぎなかった。 死んでしまった方が楽だ。  

確かに死ぬことは、少し勇気を出せば済む。
しかし彼には死ぬ建前がなかった。  
まさか匈奴の女が醜いことを理由に
死ぬわけにはいくまい。  

彼はそんな思いを抱き、ひとり、くっくと笑い声を
漏らした。 「どうかなさったのですか」  
このとき行動をともにした側近の一人が尋ねた。
「いや、なんでもない。しかし結局匈奴との連携も
うまくいかなかったと思うと…もはや笑うしかない、
と思えたまでよ」

「ですが匈奴が敵となったわけではありません。
これまで我々は匈奴軍の中の一軍でありましたが、
これからは匈奴は友軍になった、
そういうことでしょう?」
「半ば独立した二つの軍。形ではたしかにそうだ。
しかし吾の身分は相変わらず匈奴の将軍でしかない。
それも実質を伴わないものだ」
「どういうことでしょう」
「本当の意味での匈奴の将軍であれば、吾が戦いに
敗れれば匈奴が窮地を救いに来たり、
失地を回復してくれたりする。

彼らは集団で戦うからな。しかし、吾にはそれが望めぬ。
だが……その方がかえって気楽だ。
やはりこれでよかったのだ」  韓王信はそこで再び
笑い声を漏らした。
それは笑い声であったことは確かだったが、
不思議なことに側近には嗚咽に聞こえたのである。

「韓王といっても吾はもとの韓王。将軍としても、
もとの匈奴の将軍。いまや吾は何者でもない。
その中途半端な立場の吾が求めるものは……
自分にとって理想的な死に場所……

これしかない。吾のこれからの戦いは、
これ一点のみが主題だ」  
彼は匈奴の地から長城を越え、王黄と曼丘臣の
勢力範囲内となっている晋陽に向かった。
孫の嬰と子の頽当は未だ匈奴に預けたままであった。

配下の将である王黄と曼丘臣に再会を果たした
韓王信は、何度か出撃を繰り返し、ある程度の
戦果を得た。辺境の地を我がものとし、
中原に領地を少しづつ増やしていく。

彼はそれを自分のためにやっていたのだが、
結果としてそれは匈奴を利することになっていた。  
匈奴は韓王信の領地を、我が物顔で通過する。
彼はそれにいまいましさを感じたが、
抗議することはできない。友軍であるという理由は
もちろんのこと、彼は息子と孫を人質に
取られているのであった。

この状況を打開するためには、交渉によって
人質を取り返し、匈奴に替わるあらたな味方を
探すしかない。 その機会は意外にも早くやってきた。
戦陣から戻った王黄のもとに使者が現れたことに
それは始まる。

使者の言上を聞いた王黄はその旨を韓王信に
取り次ぎ、この時点から黄河より北の地は
以前にもまして叛逆色に染められることに
なったのである。

「使者とは?」  興味を持ちながらも不安を禁じ得ない
韓王信は、言葉少なに王黄に尋ねた。
「新たに任命された鉅鹿の太守の食客にあたる人物です。
その人物が臣の食客と古くからの懇意でありましたので…」
「それで君のもとに話が舞い込んだというわけか。
それでその者は何と言っているのだ」

「それが……」
「どうせ新任の鉅鹿の太守の言うことだ。
帰順しろとか降伏しろとか言っているのだろう」
「それがそうでもないらしいのです」  
王黄は言葉を濁し、そのために韓王信の興味と
不安は余計にかき立てられた。
その様子を察した王黄は周囲を憚りながら、
さらに言葉を継ぐ。

その言葉は韓王信の耳元で囁かれるように
発せられた。
「新任の鉅鹿の太守は陳豨と申す者で、使者の
話の内容ではどうも……
淮陰侯の息のかかった者であるようです」
「…………!」 「お会いになりますか」  

彼は、このとき淮陰侯の名に恐怖感を抱いた。  
ついに皇帝は北の地の鎮圧に彼を用いたのか!   
観念したかのように彼は天を仰ぐ。

「王黄。君はよくもそんな落ち着いた態度を
とっていられるな! 吾は怖い。
どうして使者などに会っていられよう。追い返せ。
追い返して我らは再び匈奴の地へ逃げ込むのだ。
それしかあるまい」  

王黄にとっては予想外の主君の反応であった。
取り乱そうとする主君に対し、自分の言葉足らずの
言上を後悔しながら、必死に取りなそうとする。

「どうかお心をおしずめください。臣の思うところでは、
このたびの話は決して大王の不利になるものでは
ありませぬ。使者にはぜひ会って、その話を
お聞きになるのが賢明です」

「淮陰侯が、吾を討つのではないというのか。
なぜそう言える?」 「淮陰侯がそのつもりであれば、
すでに我々は滅ぼされています。そう思いませぬか?」  

韓王信はそう言われて考えた。確かに
淮陰侯韓信についての話は風聞に聞いたことがある。
彼は敵と戦うにあたって詭計を用い、
必要であれば不意打ちや夜襲も厭わない、と。

つまり、戦争相手に対して正々堂々とした態度を
持つことなど無意味だと考えている人物であるという噂。  
しかし彼は過去に淮陰侯韓信と面識があり、
その印象は決して悪いものではなかった。

かつては武勲を譲ってもらった経緯もあり、
詭計を好むと言われているが、実際に正攻法で
戦ってもその実力は当代随一のものであるということを
知っていたのである。  

だから淮陰侯が戦う前に相手に降伏を迫るということは
絶対にないとはいえなかったし、その逆に
討つつもりがない相手に接触を求めることも
ないとはいえなかった。

「王黄。では君の言うことを信じて使者に会うこととしよう。
だが話の内容によっては使者を斬り殺す。
そして進言した君も同様に……わかるな!」
「わかります。お言葉のとおりに」  

韓王信は恐れを心に抱きながら、使者を眼前に通した。
これが紀元前一九七年のことである。

・・・
(つづく)

愚人は過去を、賢人は現在を、
狂人は未来を語る




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…





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隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月 7日 (月)

妄想劇場・「歌物語」

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


「大都会」は、1979年11月21日にクリスタルキングが
リリースした楽曲で、翌1980年の2月〜3月にかけて
連続6週間ヒットチャートの首位を独走し
ミリオンセラーを記録した。
      
ロングのカーリーヘアー、田中昌之と、パンチパーマ+
サングラスのムッシュ吉崎のツインボーカルをメインに
据えたバンド、クリスタルキング。
そのビジュアルの異様さから、北斗の拳の主題歌の
話が来るなど当時から半ばイロモノ扱いの感もあった。
      
また、『大都会』のインパクトがあまりにも強すぎたせいで
損な立ち位置にいたことは否めない。
      
静かなピアノから始まるこの曲は、無駄な部分を
そぎ落としたベース、ギター、ピアノ、それぞれの
互いに邪魔しあわない演奏がむしろ魅力的だ。
このことで田中の超ド級のファルセットボイスが
生きている。
      
楽曲誕生のきっかけは、こんなエピソードだったという。
1978年の秋、ポプコン本選大会で円広志が
「夢想花」でグランプリを獲得。
クリスタルキングは入賞に終わっていた。
      
「お前ら、九州の男やったらもう一回勝負するよね?」
ポプコンのスタッフによるこのひと言がグランプリを獲って
区切りをつけるはずだった彼らに火をつけた。

「次は絶対にグランプリを獲る!」 そう奮起した彼らが
作った曲がこの「大都会」だった。
「前回はあの;夢想花;のサビのインパクトに
負けただけだから、とにかくサビのフレーズで審査員を
驚かせればいい。

田中の高音で歌メロが始まればビックリして審査員が
マルをつけるやろうって(笑)」
翌1979年秋、宣言どおりに「大都会」はポプコンで
グランプリを受賞し、さらに続けて第10回『世界歌謡祭』
グランプリも受賞した。

当時、曲のタイトルから東京やニューヨークなどを
連想する人が大半だったというが;この作詞を共作した
一人でもあるボーカルの田中昌之によれば、歌の舞台は
博多(福岡)だったという。

クリスタルキングのメンバーが育った当時の
佐世保市から見た福岡市(博多)は、まさに;大都会;だった。
田中はあるインタビューで当時のことをユーモアたっぷりに
語っている。

「佐世保から見るととにかく博多は都会だったんです。
当時は博多に行こうとすると選別を頂くくらいの距離感が
あったんですよ(笑)
佐世保に比べると道路が広くて足がガクガク震えた
記憶があります(笑)」

1970年代前半、ベトナム戦争の真っただ中で彼らは
佐世保の米軍キャンプやクラブで米兵などを観客に
ライブをやっていたという。 そういった環境で腕を磨いた
彼らは、1975年に博多のディスコから好待遇で引き抜かれる。
しかし、そこで待ち受けていたのは厳しい現実と
葛藤だった;。

当時、彼らは「ポプコンはアマチュアのためのコンテストだから
自分達のようにすでに音楽で金を稼いでいる;箱バン;は
出場してはいけないものなんだ」と勘違いしていたという。

ある日、関係者から「そんなことはない、君達にも
チャンスはある!」と聞き、その誤解が解けたときに
彼らは決断をする。

「クリキンで6年間やってきたことにケジメをつけたい!」
彼らは夜の9ステージ(夕方6時から朝4時まで)を
休む間もなく働いて金を貯め、少し余裕ができたところで
ステージ数を少なくしてコンテストのための練習に
励んだという。

リーダーの吉崎勝正は当時のことをこう振り返る。
「入賞だけではレコードデビューはできなかった。
ならば次は絶対にグランプリを獲得してデビューするんだと。
それでみんなと相談して、とにかくクリキンの最大の
武器であるツインボーカルを活かすこと、

そしてハッタリを利かすために田中の高音を曲の冒頭に
持ってこようと;それだけで決めたんです。」
彼らの狙いどおり、当時の担当ディレクターだった萩原暁は
こう語っている。
「出だしの田中くんのハイトーン、あれで決まりでした。」

・・・
      

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「大都会」高音を草野球で失う、
元クリスタルキング田中昌之の悲劇。
      
1989年のある日、バンド仲間たちと草野球を
楽しんでいたときのこと。
サードを守っていると強烈なゴロが飛んできたため、
華麗にさばこうとしたところ、喉にボールが直撃して
声が出なくなるという悲劇が起きてしまった。

それから自慢のハイトーンボイスは戻ることなく、
「ほとんどガラガラの声」になってしまったという。

      
作詞 田中昌之・山下三智夫・友永ゆかり、
作曲 山下三智夫、編曲 船山基紀
1979年(昭和54年)11月21日、キャニオンレコード




      
あー果てしない 夢を追い続け
あーいつの日か 大空かけめぐる
参考文献『フォーク名曲事典300曲』
      
      
Author :TAP the POP
http://www.tapthepop.net/       


・・・




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隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月 6日 (日)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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腰塚さんは大学卒業後、天職と思えた中学校の
体育教師になり、学級担任やバスケット部顧問として
充実した教員生活を送っておりました。

しかし、2002年3月(37歳)、スキーで転倒して「首の骨」を
折るという大事故に見舞われます。

幸い手術により一命は取り止めますが、一週間たっても
首から下は全く動かず、担当の医師からは、
「一生寝たきりか、車椅子の生活になるでしょう」と
宣告されます。

絶望の余り腰塚さんは、舌を噛んで自殺を図りますが、
あまりの痛さに未遂に終わります。 
そんな死ぬことばかりを考えていた腰塚さんに、
生きる勇気を与えてくれたのは、周りの人々の温かい
応援と励ましでした。

「何があってもずーっと一緒にいるから」と言ってくれる奥さん…
「代われるものなら代わってあげたい」と言うお母さん…
「腰塚さんの辛さは本当には分ってあげられないけど、
私に出来ることは何でもしますから、我慢しないで
言ってくださいね…」と声をかけてくれた看護師さん…

「先生、待ってるから!」
回復をひたすら信じ、心温まる激励を送り続けてくれた
学校の生徒や同僚の先生たちでした。
その後、厳しい困難なリハビリに取り組んだ結果、
ついに4ヵ月後、現場復帰を果たすまでに回復するのです。

主治医の先生も、
「首の骨を折ってここまで回復した患者は腰塚さんが
初めてです」と驚嘆するほどの回復振りでした。
まるで奇跡のような出来事でしたが、腰塚さんは、
自らも驚きとともに、その理由についてこう語っています

腰塚さんには、色んな人たちからの応援の声に、
自分の心の変化を感じたそうです。
事故で死んだ教え子の存在、
病気で死んだ友達の存在。

生きてる人たちからも、亡くなった人たちからも
勇気と優しさを、実感としていただいた瞬間がありました。

「ああ自分は一人じゃない」「生きなきゃ・・・」
「助けて」って言っていいんだって気がつきました。
動けなくても「花」のように生きることは、
出来るかも知れない。

腰塚さんはいつも「笑顔」でいることに決めました。
どんなことにも「ありがとう」を言おうと決めました。
腰塚さんは人々の深い愛情に包まれながら、
「これからは、今のすべてを受け入れ、そのすべてに
自分が責任を負い、すべてに感謝をしていこう」と
心に誓います。

そうしたら、いつしか手足が動き始めてくれたそうです。
そして、必ず学校へ戻ると決めました。
現場復帰に当たって、腰塚さんは次のような
「五つの誓い」を立てます。

「口」は…、人を励ます言葉や感謝の言葉を 
  言うために使おう
「耳」は…、人の言葉を最後まで聴いてあげるために
  使おう
「目」は…、人の良いところを見るために使おう
「手足」は…、人を助けるために使おう
「心」は…、人の痛みがわかるために使おう

この「誓い」は自分を助けてくれた人たちが
してくれたことを、今度は自分がしようという思いから
生まれたものです。
念願の現場復帰を遂げた腰塚さんは、今回の体験を
「命の授業」と名づけ、6分ほどの「ムービー(動画)」にして、
インターネット上に公開しました。

そうしたら、たちまち多くの人々の知るところとなり、
さらには学校関係者などから講演の依頼が
相次いで寄せられるようになりました。腰塚さんの講演は
どこも大きな反響を呼びました。

命の尊さ、生きていることの素晴らしさ、
仲間の大切さなどを訴える腰塚さんの講演は、
特に子供たちにとって素晴らしい「命の授業」になりました。

反響の大きさを身をもって知った腰塚さんは、
この活動(「命の授業」の講演)を
自分の使命にして生きていこうと決意しました。

そうして、2010年3月、22年間の教員生活を退き、
現在は、全国の小学校、中学校、高校を始め
一般企業の方々に、講演活動を続けておられます。
腰塚さんは今回の事故を振り返り、次のように
語っています。(一部抜粋)

……私は首の骨を折るという大きな失敗をしました。
しかし失敗したことによって、私の命が周りの人々、
あらゆる命によって生かされ、支えられていることを
知りました。失敗は決して悪いことではありません。

本当に悪いことは、他人のせいや環境のせいなどの
言い訳をして何もしなくなることです。
この人生はすべて自分が源で作られています。
だからそのすべてに責任を負い、今のすべてを受け入れ、
すべてに感謝していくことが大事なことです。

どんな出来事も、すべて必要があって起こっているのです。
何事も自分が成長し幸せになるための「学び」になるのです。
私は今でも下半身から下は余り感覚がありません。

しかし、そのことがいつも私に「手足が当たり前に
動くことの幸せ」を教え続けてくれています。
だから麻痺して余り動かない右半身と下半身は、
私にとって「宝物」です。
今は、そんな大切なことを気づかせてくれた事故に
感謝しています。

「いつも笑顔でいよう」
「いつも感謝しよう」
「周りの人々の幸せを願おう」
これが私の原点です……・・・



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慰謝料も養育費もなく、厳しい経済状態のスタートでした。
当然、私は働かなくてはいけません。
下の娘を保育所に預け、知人の紹介で営業の
仕事をすることに。
私が仕事に慣れても、娘は毎朝、私を追って泣きました。

子供の方が順応性があるだろうという予想とは逆に…。
私は心のうちで何度もわびました。
娘たちからは笑顔がなくなり、下の娘は言葉を教えても
しゃべりません。

私もストレスのせいか、肺炎、肝臓病、ウイルス性の高熱と、
三度の入院を繰り返しました。
この現実をどうしたものか、悩みは深まるばかり。
そんなとき言葉をかけてくださったのが園長先生でした。

先生は50代の女性で、私の話を真剣に聞いては、親身に
アドバイスしてくださいました。

「エミちゃんも頑張っているんだから、お母さんも
頑張らなくっちゃね」仕事柄、車で移動していて
迎えの時間に間に合わないこともあります。

そんな時は電話で、「延長保育お願いします」と
連絡していました。すると保育士さんたちはみな同様に、
「お母さん、エミちゃんは大丈夫ですよ。
それよりも、ゆっくりでいいから運転、気をつけて
くださいね」と答えてくれました。

ある日、仕事でアクシデントがあり、保育園に
着くのが夜の8時になってしまいました。
「どうしよう、どうしよう」と園内を走ると、
保育園の窓の明かりは、ほとんど消えています。

玄関で「すみませ~ん」と声をかけても人の気配は
ありません
静まり返った園舎の二階のほうから、かすかに
歌声が聞こえます。

急いで靴を脱ぎ、二階に行きました。
子供たちが忘れていったものを洗って干している
園長先生の後ろ姿が目に飛び込んできました。

背中には、私の娘をおぶって子守唄を歌っています。
時おり、娘のお尻を優しくトントンしながら。
私は声もかけられず、深く頭を下げました。

自分だけがつらいと思ったり、忙しさにイライラしたり、
そんな私に母親としてのやさしさ、
子を慈しむ心を思い出させてくれました。

「アラッ」

私に気づいて園長先生は「お帰りなさい。
遅くまでご苦労さまでした」といつもの言葉をかけて
くださいます。

「遅くなって申し訳ありません」と言うと、
「エミちゃん、今日もおりこうさんだったのよね~」
と娘に語りかけられました。

先生にも家庭があり、帰りを待っている家族がいます。
私と娘のせいで遅くなってしまったことに
申し訳なさや感謝の気持でいっぱいに。

言葉にできぬ思いが涙となってあふれてきます。
すると、「エミちゃんは泣かないで待っていたのに、
お母さんが泣いたらおかしいね」と、優しいまなざしを
向けてくださいました。

笑わない、しゃべらない、病気がちだった娘は、
明るいおしゃべり好きな、元気な子になって
卒園しました。
愛情だとか人の情けなど、忙しくて考える余裕すら
なかった私はあの夜、失ってはいけない「優しい心」、
忘れてはならない「家族への思い」を大切にしようと
心に決めました。


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…





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Bu

隙間産業(ニッチ市場)


妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ 



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・ 



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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある



されど愛しきお妻様【7-2】

「大人の発達障害」と合法ドラッグカルチャーの
切っても切れない関係


そんな疑問を解消してくれたのは、独りのこんな
ジャンキー少女だった。
子ども時代から学校に馴染めず、両親の不仲という
ストレスもあって中学校時代に不眠とリストカットと
不登校を経験したというその少女は、
スクールカウンセラー経由で紹介された精神科で
処方薬をもらうように。

ところがその薬の副作用がきつくて不登校どころか
家からで歩くこともキツくなってしまい、そのまま
自宅に引きこもる生活を続ける中で、
ネット情報を頼りに処方薬乱用にハマって
いったのだという。

なお、彼女が処方されたその副作用のきつい薬剤とは、
パキシル。あのお妻様が離脱症状に最も苦しんだ
SSRIのパキシルだ。
確かに取材した少女の中でも、MDMAはクラブ仲間から
貰う(主に下心MAXの男から)というケースが
多いのに対し、エリミンは精神科から処方されたもの、

しかも本人が処方されたものとして、病院が出す
処方薬の袋のまま持ち歩いている少女までいた。
子どもにそんな薬が普通に処方されていて、
しかもそこが乱用の入口になっている状況まであるのに、
医療の現場は気付いているのだろうか? 

その先はあまり踏み込んで記事にすることは
なかったが
(取引先の雑誌から要請を受けなかったから)、
それにしても不気味な後味が残った。

ちなみに現在ではリタリンは流通規制対象薬となり、
エリミンは一昨年に販売中止。
ベゲタミンも「薬物乱用防止の観点から」という
日本精神神経学会からの要望提起によって昨年末
販売終了。パキシルも厚生労働省から「自殺リスクが
高くなる可能性」と注意喚起があり、
特に未成年への処方は極力慎重にすべきとされている。

当時のこうした状況を昨今のハーブ(危険ドラッグ)
周辺の若い子たちに話すと、「人体実験すか(笑)」とか
「合法ドラッグ天国だったんすね、日本て」
なんて言われて、返す言葉がない。

本当に、むちゃくちゃな時代だったと思う。 そ
もそも脳神経に作用する薬剤は、乱用すれば
ドラッグとして使用できるものが少なくないが、
安易に子どもにもこうした薬を処方する風潮と、
乱用の作法がネットで易々手に入る環境は、
薬剤の「加害的」な側面を強調してしまったのだ。

そして、そんな側面ばかりを追った取材活動の中で、
さすがに僕もお妻様が強く大人の発達障害的な
問題を抱えていることを認識すると同時に、
とても積極的に薬物を伴う治療には踏み切れないと
思うようになっていた。

たしかにお妻様は相変わらず家事やってくれないし、
約束の時間とかまるで守ってもらえない。
けれども部屋のカオスぶりの半分はすでに僕が
作り上げたものになっていたし、ギリギリまで僕が
負担して、耐えられなくなったらブチ切れて
小言を言うってルーチンでもまあいいじゃないか。

せっかくあの辛かったリスカ期を乗り越え断薬して
戻ってきた元気な変人のお妻様に、また人体実験
みたいな投薬はされたくない。 なんて奇麗ごとの半面で、
この時期の僕たちの結婚生活は、結構な
崖っぷちだったと思う。

僕の我慢も相当にギリギリで、ストレスがたまりすぎて
一線を越えたら、精神的ではなく肉体的なDVに
進行していたかもしれない。

そもそも精神的DVが肉体的なDVよりも
軽いという考え方も変で、僕の小言=精神的DVの
ダメージは、リストカットではではなく慢性化
してしまって年に数回救急病院のお世話になる
お妻様の胃けいれん発作に現れていた。

そんな関係性に耐えかねてお妻様の方から
離婚を言い出す可能性だってあったわけだ。
けれども、その夫婦間の危険に、僕たちは
鈍磨していた。

2人の関係性の危機と同時に、アパートの床も
危機を迎えていた。2011年の東日本大震災では、
大揺れに水を溢れさせる13本の熱帯魚の水槽を
2人で必死に支えた。

せめてこの物量を収納できる場所に引っ越そう! 
条件は高速道路のバイク移動で都心東側まで
1時間でアプローチできることと、
お妻様が万が一何かで倒れても車で15分以内に
たどり着ける総合病院があること。
最寄りの駅など不要!

お妻様倒れ/田舎暮らしを敢行

選んだのは、千葉県中央部の水田と森林に
囲まれた農村(最寄り駅まで徒歩1時間)の
中古戸建だった。 通

常こうした田舎暮らしデビューには「妻の理解」が
最も大きなハードルと言われているが、
お妻様は物件の下見に行った際に、敷地入り口で
白くて人懐こく細長い猫を見つけ、「うなしー」と命名
(細長くてウナギ的なため)。 「

うなしーのいる村に引っ越すだ!」 と即断即決
なのである。 そしてその2011年晩秋、
夢の田舎暮らしに突入。

憧れの床面積、収納たっぷりの、敷地なんか
250平米ありゃバイクの解体屋が作れるぜ! 
と思っていた引っ越し数日後の朝、お妻様は
激しい頭痛を訴えて病院に行き、その場で受けた
検査で右脳に巨大な脳腫瘍があるとの診断。
そのまま意識不明となってしまったのだった。

次回へ続く



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった

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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…






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2017年8月 5日 (土)

妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ 



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・ 



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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある


されど愛しきお妻様【7】 


「大人の発達障害」と合法ドラッグカルチャーの切っても
切れない関係

給料1ヵ月分の指輪と、同人誌40冊分の結婚式場

同棲開始から5年を目前にした03年9月、僕と彼女様は
結婚し、彼女様はお妻様になった。 とはいえ結婚に
踏み切った理由は、彼女様側は「母親がうるさいから」で、
僕側は「親と対峙せよと言いながら親が彼女様の税金を
払っているのは理不尽だから」というめちゃめちゃ
消極的な理由だ。

婚約指輪と結婚指輪にしたところで、宝飾品の
デート商法をやっている不良な女友達と一緒に
御徒町の宝飾問屋街をめぐり、サラリーマンの
給料3ヵ月分程度の品を問屋価格で給料1ヵ月分ぐらいで
買い求めた。 そ

んな指輪だけど、渡す時ぐらいはロマンチックにいきたい。
選んだ場所は、彼女様が子ども時代から家族で通っていた
六本木のイタ飯屋。いざサプライズ! 
ちょっと目をつぶっていてもらえますか? 
開けていいですよ。

「なにこれ?」
「ぼぼぼぼくとけけけけっこんしてください」
「えーと。この指輪、質屋に持っていったらいくらになんの?」
わー、そう来ましたかこのやろー。
こうなるともうロマンも屁ったくれもない。

結婚式に金をかけるぐらいなら「『ゼクシィ』と同じ厚みの
エロ同人誌に金をかけたい」という彼女様だから、
式場は都内最安値のエロ同人誌40冊程度
(基本料金4万円)という冗談みたいな場所を発掘し、
両家両親に彼女様サイドのばあちゃん2人と
僕サイドの姉家族を加えた合計9人という極めて
シンプルなお式を挙げた。

レンタルドレスの試着時に撮った記念写真には、
純白ドレス姿のお妻様が、舌のど真ん中にピアスを
光らせて中指を立てている。
なお、手続きごとがめっぽう嫌いな彼女様は
式場の予約にも家族への連絡も一切任せっきりだったし、
いざ挙式が終わってみれば僕は、 「入籍の書類を
市役所に出しに行くのが糞面倒くせえし、
挙式までの手続きは全部俺がやったんだから
入籍ぐらいはお妻様でやってほしい」

対するお妻様は 「そんなに入籍したいなら市役所の人が
婚姻届を取りに来ればいいと思うの」(無理) という理由で、
結局2人で市役所の夜間受付に婚姻届けを
投げ込みに行ったのは、翌年の2月末なのであった。
おかげで我が家の結婚記念日は2回ある。

また、お妻様になった彼女様は、結婚とほぼ同時に
「俺はドール服のお針子さんになる」
(人形の服作りをして稼ぐ)と宣言して、頑張っていた
バイトを退職。物であふれかえるアパートのダイニングには
新たにミシン机と裁断机と資料本の棚やらが増設され、
一層床の見えない部屋になった。

暴走趣味夫妻
おばあちゃんの家に来たみたい


一方の僕はと言えば、フリーの記者業としての僕も
ようやく脂がのってきた時期。
毎日のように取材や打ち合わせで東奔西走し、
仕事用のバイクを新たに買い足したのをきっかけに
それまでの仕事バイクに稼ぎをぶち込んで、
バイクのレースに参戦するようになった。

思えばこの当時の取材ターゲットは、どんどん
社会的弱者を中心に収斂していった時期。
無知だった僕は、日々出会う取材対象の抱えた
苦しみや心の闇と、どの程度の距離感で対峙すれば
いいのかがつかめず、時にはダークサイドに思いっきり
引きずり込まれたりもしていた。

日々の取材活動におけるストレスは尋常ではないし、
そこそこ稼げるようになると20代のド貧乏時代の
フラストレーションも頭をもたげてくる。
それらすべてが僕の趣味方面にも暴発した。

それじゃー私も~ということで、お妻様もバイクの
免許を取得。免許取得前にサーキットに連れて行くと、
1日で6回も転倒して大喜び(しないでください)。

どうにもやっぱり頭のねじが数本足りないので、
速度に対する恐怖心というものがあまりないらしく、
そこそこのタイムで走るお妻様である。
こうなると、もう僕もお妻様のことばかり言ってられない、
暴走趣味夫婦だ。

僕はレース活動のために、毎週土日は軽貨物車に
バイク積んで、助手席に無理やり起こしたお妻様を乗せて
練習会場へ。 平日も競技車両のセッティングをしたくて、
取材や打ち合わせにバイク積みっぱなしの
軽貨物で出かけて、そのまま港湾地帯などに車を停車し、
その中で原稿を書いて、バイクをいじって帰宅なんて
日々が続いた。

物好きがこうじて古いバイクでの参戦だから、
アパートの階段から居間や台所の隅っこまで、
最大時で7本のストックエンジンが置かれ、
それでも足りずに近所のコンテナ倉庫を借りて
予備フレームやら練習用車両など突っ込む始末だった。

お妻様はお妻様で、僕が仕事からの逃避で近所の沼で
釣ってきたクチボソ(小魚)なんかを飼い始めたのを見て
何か変なスイッチが入ってしまったらしく、熱帯魚飼育を開始。
1年後には居間の壁際に13本の水槽が並ぶ
水族館状態を作り上げる。

なお、なぜか飼育するのは「淡水フグ」が中心で、
メコン川やらアマゾン川やらコンゴ川やら世界各地の
河川に棲むお魚が我が家の居間に大集合! 
それぞれに「ルンルン」「ちーちゃん」「だいだいさん」
「だいごろうさん」「あほちゃん」「おなかちゃん」
「米倉兄」「米倉弟」などと絶妙に最低のセンスで命名し、
日々「ルンルンは可愛いねえ、お姉さん襲っちゃいたいよ」
「だいさんこの戦争が終わったら僕と結婚してください」
などと水槽のガラス越しに話しかけている。

こうして数年、我がアパートは、大量の書籍と
鉄とアルミの塊と熱帯魚の水槽で、日本の木造建築の
耐力テストみたいな状況になってしまったのだった。 「
なんだただの似た者夫婦じゃないか」という読者の
ツッコミが聞こえるようだが、断じて違う! 
相変わらず僕はなんとか部屋の秩序を保とうとしていたし、
朝起きればお妻様が床に散らかしたものを拾い、
脱ぎ捨てたお妻様の服を洗濯機にフルスイングで
突っ込む日常を続けていた。

けれどなぜかお妻様の作る生活感マックスなカオス
我が家は、訪れる友人らから「鈴木さんのアパートに
来るとおばあちゃんの家に来たみたいな感じがある」と
好評であったことを付け加えたい。

「そう言ってもらえる雰囲気なんだからいいじゃない」 と
お妻様。あまりの惨劇にいたたまれず、
「気を遣ってそう言ってくださっている」という発想は
ないのか君には。・・・

発達障害とジャンキーカルチャー
発達障害を語る上で外せない「リタリン」


さて一方で、ハードリストカッターだったお妻様の
メンタルの具合と、小言大王の僕との夫婦関係は
どうだったろうか。
振り返ると、相変わらず僕の小言は続いていたが、
自ら育て上げたスルー力と逆切れ力によって
リストカットは再発することはなかった。

また、そのころ(2000年代中盤)は、いわゆる大人の
発達障害が一つの言説として盛んに語られるようになった
時期でもあり、僕自身も飛びつくようにして書籍を読んだり、
その著者の取材もした。

となれば当然、お妻様の抱えてきた問題が、
実は発達面にあるという確信はこの頃には
できていたことになる。
けれど、残念ながら僕は記者といっても、ご立派な
新聞記者などではなく単なる雑誌記者。
発達障害界隈のことを記事にするとなれば、
その取材の切り口はお妻様の抱えた問題の根底を
探るためとかではなく、「あなたの職場にもいる
発達障害の大人たち」みたいな興味本位な記事だったり、

その当時大人の発達障害に特効的な効果があると
されていた中枢神経活性剤=「リタリン」についての
アンダーグラウンドな取材がほとんどだった。

言い訳がてら、少々脱線させてほしい。
なぜ発達障害の薬がアングラ記事のネタなのか。
それはこのリタリンの成分が極めて覚せい剤に
近いもので、これに強く依存したり、日常的に乱用する
ジャンキーなスニッファー(スニッフィング=
薬剤を砕いて粉末を鼻腔吸引する者たち)が
現れたからだ。

当時の僕はいわば、不良少年少女の専門記者。
リタリンの乱用ブームが起こる随分前からクラブ
(踊る方の)を中心とした10代の不良少女カルチャーの
中では、タマ=MDMAや精神科処方薬のドラッグとしての
乱用が着実に広まりつつあったところで、
リタリンもそうした乱用薬物の中に現われた
ひとつという認識が、僕の中であった。

元々クラブとドラッグは親和性が高かったし、
2000年代初頭のクラブには、当時でいう合法ドラッグが
かなり蔓延していて、ハードなドラッグユーザーが
数えきれないほど種類のあったケミカル
(化学合成系の合法ドラッグ)を自ら人体実験みたいにして
昏倒したりゲロ吐いたりしながら試していった。

結果、最終的にクラブに最もフィットするとして
選抜されたのが、MDMAだったという経緯がある
(MDMAには他者に対しての親近感がアップする=
クラブにおけるフロアの一体感がメチャ増す
効果があった)。

後には規制薬物となり、乱用による死亡者も問題になった
MDMAだったが、当時はドラッグとしての怖さの
認識は薄く、少女らの中には 「学校は不登校だし
人と話すのも苦手だけど、一発バツ(MDMA)食えば
知らない人に自分からガンガン声かけられるし、
ハグれるし、バツとクラブがわたしを孤独から救ってくれた」
みたいな肯定的な捉え方をしている子が多かったように思う。

けれど、そんなクラブ通いのジャンキー少女らを
取材する中で耳にするようになったのが、「エリミン」=
通称赤玉なる錠剤だった。 エリミンは精神科から
処方される睡眠導入剤だったが、MDMAのラブ感に加えて
アルコールを飲んだような酩酊感がブーストできるとかで、
一気にジャンキー少女らの中に広まっていった。

彼女らは明らかに、日常生活に、学校や地元や家庭での
生活に違和感や苦しさを感じている子たちの
集団だったと思う。 とはいえ、薬効をダイレクトにするために、
ダイエットコークで鼻うがいし、中身を抜いたボールペンを
巧みに転がして錠剤を粉末にし、そのボールペンを
ストロー代わりにして白い粉末をスニッフィングする姿は、
まるで洋画のコカイン中毒者みたいだった。

精神系処方薬でジャンキーに
ドラッグがジャンキー少女たちの孤独を紛らわす?


エリミン以外の様々な精神系の処方薬の名前が
出て来るようになるまで、そんなに時間はかからなかった。
そして、そんな乱用カルチャーの中で「あれはヤバい。
まじパキる」と聞かれるようになったのが、
リタリンだったというわけだ。

リタリンは本来はナルコレプシー(睡眠障害)に
処方されていた薬で、大人の発達障害(ADHD=
注意障害と多動)にも大きく奏功するとされていたが、
その特異な「覚醒効果」がドラッグとして注目されて
しまったのだ。

当時の取材ケースでは、ベゲスニ(ベゲタミンという
強い睡眠薬の鼻腔吸引)で強制的に睡眠して、
強い覚醒効果のあるリタスニ(リタリンの鼻腔吸引)で
精神を強制起動するというルーチンにハマっている
ミドルティーンの少女らもいたが、こうなるともう
クラブ遊びの一環なんてステージは通り越して、
廃人状態だ。

だがここで疑問。そもそもなぜ10代半ばの少女らと
こんなに近距離に薬があったのか。
多くの少女はクラブ遊びを通じた友好関係の中に
薬との接点があったが、そこにエリミンだのベゲタミンだの
リタリンだのといった精神系の処方薬が入って来る
理由が分からない。


次回へ続く



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった


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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…






2017年8月 4日 (金)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・




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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。



堀木は、また、その見栄坊みえぼうのモダニティから、
(堀木の場合、それ以外の理由は、自分には
今もって考えられませんのですが)或る日、
自分を共産主義の読書会とかいう(R・Sとか
いっていたか、記憶がはっきり致しません)
そんな、秘密の研究会に連れて行きました。

堀木などという人物にとっては、共産主義の秘密会合も、
れいの「東京案内」の一つくらいのものだったのかも
知れません。
自分は所謂「同志」に紹介せられ、パンフレットを
一部買わされ、そうして上座のひどい醜い顔の青年から、
マルクス経済学の講義を受けました。

しかし、自分には、それはわかり切っている事の
ように思われました。それは、そうに違いない
だろうけれども、人間の心には、もっとわけの
わからない、おそろしいものがある。

慾、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と
言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、
言いたりない、何だか自分にもわからぬが、
人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみた
ものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている
自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように
自然に肯定しながらも、しかし、それに依って、
人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って
眼をひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は
出来ないのでした。

けれども、自分は、いちども欠席せずに、そのR・S
(と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません)
なるものに出席し、「同志」たちが、いやに一大事の如く、
こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、
ほとんど初等の算術めいた理論の研究にふけっているのが
滑稽に見えてたまらず、れいの自分のお道化で、
会合をくつろがせる事に努め、そのためか、
次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、自分は
その会合に無くてかなわぬ人気者という形にさえ
なって来たようでした。

この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはり
この人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的な
おどけ者の「同志」くらいに考えていたかも知れませんが、
もし、そうだったら、自分は、この人たちを一から十まで、
あざむいていたわけです。

自分は、同志では無かったんです。けれども、
その会合に、いつも欠かさず出席して、皆に
お道化のサーヴィスをして来ました。  
好きだったからなのです。

自分には、その人たちが、気にいっていたから
なのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って
結ばれた親愛感では無かったのです。  
非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。
むしろ、居心地がよかったのです。

世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、
(それには、底知れず強いものが予感せられます)
そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、
底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の
海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて
死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。  

日蔭者ひかげもの、という言葉があります。
人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を
指差していう言葉のようですが、自分は、自分を
生れた時からの日蔭者のような気がしていて、
世間から、あれは日蔭者だと指差されている程の
ひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。

そうして、その自分の「優しい心」は、自身で
うっとりするくらい優しい心でした。  
また、犯人意識、という言葉もあります。
自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に
苦しめられながらも、しかし、それは自分の糟糠
そうこうの妻の如き好伴侶はんりょで、そいつと二人きりで
侘わびしく遊びたわむれているというのも、
自分の生きている姿勢の一つだったかも知れないし、

また、俗に、脛すねに傷持つ身、という言葉も
あるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、
自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで
治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、
骨にまで達し、夜々の痛苦は千変万化の地獄とは
言いながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な
言い方ですけど)その傷は、次第に自分の血肉よりも
親しくなり、その傷の痛みは、すなわち傷の生きている感情、
または愛情の囁ささやきのようにさえ思われる、

そんな男にとって、れいの地下運動のグルウプの雰囲気が、
へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の
目的よりも、その運動の肌が、自分に合った感じなのでした。

堀木の場合は、ただもう阿呆のひやかしで、
いちど自分を紹介しにその会合へ行ったきりで、
マルキシストは、生産面の研究と同時に、
消費面の視察も必要だなどと下手な洒落しゃれを言って、
その会合には寄りつかず、とかく自分を、その消費面の
視察のほうにばかり誘いたがるのでした。

思えば、当時は、さまざまの型のマルキシストが
いたものです。堀木のように、虚栄のモダニティから、
それを自称する者もあり、また自分のように、
ただ非合法の匂いが気にいって、そこに坐り込んで
いる者もあり、もしもこれらの実体が、マルキシズムの
真の信奉者に見破られたら、堀木も自分も、
烈火の如く怒られ、卑劣なる裏切者として、たちどころに
追い払われた事でしょう。

しかし、自分も、また、堀木でさえも、なかなか除名の
処分に遭わず、殊にも自分は、その非合法の世界に
於いては、合法の紳士たちの世界に於けるよりも、
かえってのびのびと、所謂「健康」に振舞う事が
出来ましたので、見込みのある「同志」として、
噴き出したくなるほど過度に秘密めかした、さまざまの
用事をたのまれるほどになったのです。

また、事実、自分は、そんな用事をいちども
断ったことは無く、平気でなんでも引受け、へんに
ぎくしゃくして、犬(同志は、ポリスをそう呼んでいました)
にあやしまれ不審訊問じんもんなどを受けて
しくじるような事も無かったし、笑いながら、また、
ひとを笑わせながら、そのあぶない(その運動の連中は、
一大事の如く緊張し、探偵小説の下手な真似みたいな
事までして、極度の警戒を用い、そうして自分に
たのむ仕事は、まことに、あっけにとられるくらい、
つまらないものでしたが、それでも、彼等は、その用事を、
さかんに、あぶながって力んでいるのでした)、
彼等の称する仕事を、とにかく正確にやってのけていました。

自分のその当時の気持としては、党員になって捕えられ
、たとい終身、刑務所で暮すようになったとしても、
平気だったのです。

世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、
毎夜の不眠の地獄で呻うめいているよりは、
いっそ牢屋ろうやのほうが、楽かも知れないとさえ
考えていました。  

父は、桜木町の別荘では、来客やら外出やら、
同じ家にいても、三日も四日も自分と顔を合せる事が
無いほどでしたが、しかし、どうにも、父がけむったく、
おそろしく、この家を出て、どこか下宿でも、と
考えながらもそれを言い出せずにいた矢先に、
父がその家を売払うつもりらしいという事を
別荘番の老爺ろうやから聞きました。
・・・

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…









P R :


Bu 

隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月 3日 (木)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


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冬のポーランドの古都クラクフ。
ホテルの窓から、うっすらと雪化粧した街並みを
見おろすように歴代ポーランド王の居城だった
ヴァヴェル城がそびえている。
ポーランドは日本からはなじみの薄い国で、一般の人は
せいぜいショパンやキューリー夫人くらいしか
知らないだろう。

しかし両国の間には善意と友好の歴史が100年もの間、
人知れず地下水脈のように流れている。

知られざる1920年の感動秘話」では、
20世紀初頭にシベリアで困窮していたポーランド人孤児
765名を帝国陸軍と日本赤十字社が救出し、
母国ポーランドに送り届けた事。

その返礼として、75年後に阪神大震災の孤児たちが
ポーランドに招かれて歓待を受けた佳話を紹介した。
しかし、両国の交流はそれ以外にも脈々と続けられている。

「日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おう」
ポーランドは18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアに
分割され、独立を失った。
その後、粘り強く独立運動が続けられたが、彼らに
勇気を与えたのが日露戦争だった。

後にポーランド独立の英雄として敬愛される
ヨゼフ・ピウスツキは1904(明治37)年7月、
日露戦争の最中に日本を訪れ、明治政府に対して
日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おうと呼びかた。

ポーランドがシベリア鉄道の破壊やロシア軍に徴発されている
ポーランド兵の脱走・投降工作をする代わりに、
日本は独立運動への支援を行う、という具体的な提案だった。

この時にもう一人の独立運動の指導者で穏健派の
ドモスキも来日して、ピウスツキの提案は非現実的だと
日本政府に進言した。

結局、日本政府はピウスツキの提案のうち、最後の
ポーランド人捕虜に対する好意的な取り扱いだけを
採用することにして、松山にポーランド人捕虜のための
収容所を作り、特別に厚遇した。

捕虜の正確な数は判っていないが、一説には数千人の
規模に達したという。
日本海海戦で日本がバルチック艦隊を破った時には、
ポーランド人捕虜全員が万歳を叫んだ。
「日本人に出会ったら恩返しをして欲しい」

後にポーランド大使となる兵藤長雄氏は外務省入省の後、
1961年に英国の陸軍学校に留学してロシア語を学んだが、
その時の先生がグラドコフスキという元ポーランド
陸軍将校であった。

グラドコフスキ先生はどういうわけか、兵藤氏を何度も
自宅に呼んでご馳走したり、特別に勉強を助けてくれた。
なぜこんなに自分にだけ親切にしてくれるのだろうと
不思議に思って聞いてみると、先生は父親の話を始めた。

父親はロシアに徴集されて日露戦争に従軍したが、
捕虜となって数ヶ月を日本で過ごしたのだった。
そこで周囲の見知らぬ日本人から親切にもてなされ、
深い感銘を受けた。

父親は日本人の温かい心と数々の善意が終生忘れられずに、
息子にその時の話を詳しく聞かせては
「お前も日本人に出会ったらできるだけ親切にして
恩返しをして欲しい」と口癖のように話していたという。

「父親が受けた日本人からの親切を、今、貴君を通じて
お返しできることは本当に嬉しい」と先生は兵藤氏に
語った由である。

ポーランドの人々が感動した日本人の「サムライ魂」

「ヤポンスカはサムライ魂を持っているんだ」
阪神大震災の孤児たちをポーランドに呼ぼうと働きかけた
中心人物は、外交官スタニスワフ・フィリペック氏である。

フィリペック氏はポーランド科学アカデミーの物理学教授
だったが、ワルシャワ大学で日本語を学び、東京工業大学に
留学した経験もあった。

フィリペック氏のお父さんは、第2次大戦中、ドイツ占領下の
ポーランドでレジスタンス活動に従事していたが、
氏が3歳の時にゲシュタポ(ナチス・ドイツ秘密警察)に
捕まって強制収容所に送られ、還らぬ人となった。

その後、氏はおばあさんに育てられたが、よくこう聞かされた。
お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔術)を
やりなさい。ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリングよ。

ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアのむこうにね、
ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。
その小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、
やっつけたんだもの。

ジジュツのせいかどうかはしらないけど、ヤポンスカは
サムライの国でね、サムライ魂を持っているんだ。
小さなヤポンスカがロシアを負かしたことは、
私たちポーランド人の希望になったんだ。

わたしたちもヤポンスカのように、ロシアや、ドイツや、
オーストリアを負かして追い払い、自由をとり返して、
独立できると信ずることができた。

そしてそのとおり、第一次大戦のあとで、ポーランドは
独立できたんだよ。 おばあさんは幼いフィリペック氏に、
ヤポンスカがポーランド人捕虜を親切に扱ったことや、
大勢のポーランド孤児をシベリアから救出したことを
語って聞かせたという。

これが機縁となって、氏は日本語を学び、両国の
友好のために働こうと決意したのである。
「日本のヘイタイサンは、やさしかった。」
ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して
武装蜂起を繰り返した。そのたびに失敗しては、
捕らえられた者はシベリアに「流刑囚」として流されて、
強制労働をさせられた。

1863年から翌年にかけての「一月蜂起」では
8万人もの流刑囚がシベリア送りとなった。
その後を追って、恋人や家族がシベリアに行った。
そのためにシベリアには何十万人ものポーランド人が
いたのである。そしてそこで多くの子供たちが生まれた。

1818年、ロシア革命が勃発すると、シベリアの
ポーランド人たちは祖国独立の一助になろうと
チューマ司令官のもとに2,000名の部隊を結成し、
シベリアで反革命政権を樹立したロシア提督・
コルチャークを助けて赤軍と戦った。

しかし、その試みは失敗し、ポーランド人部隊は
ウラジオストックに追い込まれた。
この時に立ち往生していたポーランド人部隊を救出し、
大連、長崎を経て祖国へ帰還するのを助けたのが、
日本であった。

日本はソビエト革命政権の成立を阻止しようとして、
米英仏などと共にシベリアに出兵していたのである。
赤軍は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、
殺そうとした。

ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、
その混乱の最中に多くの子供が親を失った。孤児の一人で
後に日本に助けられたバツワフ・ダニレビッチ氏は
当時の状況をこう語っている。

街には、飢えた子どもがあふれていましたね。
その子たちは、日本のヘイタイサンを見ると、
「ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!」と、
せがむのです。

日本のヘイタイサンは、やさしかった。わたしも、
キャラメルをもらったことがあります。
孤児の中には空腹をまぎらそうと、雪を食べている
子どももいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした。

ポーランド人孤児を救った日本兵の働きとは

「日本に救援を頼んでは」 ポーランド人孤児たちを救おうと
立ち上がったのが、鉄道技師の夫と共にウラジオストックに
住んでいたアンナ・ビエルケビッチさんだった。

ボランティア組織「ポーランド孤児救済委員会」を組織し、
自ら会長となった。 ビエルケビッチさんは、子供たちを
救うにはどうしたら良いか、と委員会で相談をした。

一人の委員が、日本に救援を頼んでは、と提案したが、
年配の女性委員が、昔、宣教師を磔(はりつけ)に
したような国が、他の国の子供たちを助けてくれるだろうか、
と質問した。

そこに副会長の若い医師ヤクブケビッチ副会長が
手をあげて発言を求めた。
僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいった
ポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人は
いませんよ。この春、ウラジオストックまで逃げてきた
チューマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、
日本軍じゃありませんか。

こうしてアンナ・ビルケビッチさんは日本に渡り、
陸軍や外務省にポーランド孤児救済を依頼する。
依頼は外務省から日本赤十字に伝えられ、
17日後には孤児救済が決定され、

さらにその2週間後には帝国陸軍の助力で、
56名の孤児第一陣がウラジオストクから、敦賀経由で
東京に到着した。

同時に救済委員会は、一人でも多くのポーランド人孤児を
救おうと、あちこちの避難所を探し回った。
ビルケビッチさんは語る。
こわれた列車や、兵舎にまぎれこんでいる子どももいました。
ポーランド人が住んでいると聞けば、足を棒のようにして、
その家庭をたずねました。

父親を亡くした家庭では、「せめて子どもだけでも、
助け出してください。」と母親たちが、泣いてわたしたちに
たのむのでした。 しかし、こうして「シベリアで子どもたちを
集められたのは、日本軍がいる町だけだった。

日本軍の助けなしには、なにもできなかった」と、
ビルケビッチさんは回想する。
6,000人のユダヤ人を救った外交官の秘密任務
1939年9月、ドイツのポーランド侵攻により、
第2次世界大戦が始まった。

ソ連軍もポーランドに侵入し、国土はふたたびドイツと
ソ連に分割占領されてしまった。
この時のワルシャワ防衛総司令官は、かつて
ウラジオストックで日本に救われたチューマ将軍であった。

そしてその指揮下でレジスタンス(抵抗)運動の
中核となったのが、シベリア孤児だったイエジ青年だった。

シベリア孤児たちを中核とするイエジキ部隊は、
孤児院を秘密のアジトとして様々な抵抗活動を展開するが、
ナチスの捜索の手から孤児院を何度も救ったのが、
日本大使館であったことは、「多くのポーランド人が
日本に救われた。

大戦中の日本とポーランドとの関係では、もう一人、
意外な人物が登場する。
ナチスに追われた6,000人ものユダヤ人に日本への
ビザを発給して救ったリトアニア領事代理の
杉原千畝である。

1939年11月、大戦勃発の直後に日本人居住者の
いないバルト海沿岸のリトアニアの首都カウナスに
日本領事館が設けられたのは、いかにも不自然であるが、
その領事代理・杉原の任務はポーランド軍との
協力関係を築くことだった。

日本は防共協定を結んだばかりのドイツがソ連と
不可侵条約を結んだことに強い不信感を抱き、
独ソ双方の情報収集を強化する必要を感じた。
そこで目をつけたのが、大戦前からドイツの隅々に
諜報網を張り巡らせていたポーランド軍であった。

杉原はポーランド軍参謀本部の情報将校たちや、
リトアニアにおけるポーランド諜報組織「ヴィエジュバ(柳)」、
さらにはロンドンでの亡命政府傘下の軍事組織
「武装闘争同盟」と接触して、情報を収集した。

一方、ポーランドの諜報員たちは、日本や満州国の
パスポートを得て自由に行動し、さらにドイツやバルト
・北欧諸国の日本公館に通訳などの名目で雇って
もらうことで、安全を確保できた。

さらにポーランドの諜報機関や抵抗組織は、
リトアニア経由でベルリン、モスクワ、東京を往復していた
日本の外交クーリエを利用して、ポーランド国内や
ロンドン亡命政府との連絡をとることができたのである。

建前上は敵対関係にある日本とポーランドが、
陰ながらここまでの広範かつ密接な協力が築けたのは、
日露戦争前夜からの長い信頼関係があったからであろう。

日本文化に魅了されたポーランド人たち

文化交流の面では、フェリスク・ヤシェンスキの名を
欠かすことはできない。ヤシェンスキはポーランド
貴族の生まれで、20代には19世紀末のパリで
芸術の勉強に打ち込んだ。

当時のパリでは日本の美術、特に浮世絵に対する
関心が高く、ジャポニズムという流れが若い画家たちに
強い影響を与えていた。
ヤシェンスキも強く浮世絵に魅せられ、生涯をかけて
6,500点にも上る日本美術の一大コレクションを
築き上げた。

ヤシェンスキは単なる異国趣味で日本美術を
集めたのではなかった。当時、帝政ロシアやプロイセンなどに
分割統治されていたポーランド民族の独立を夢見て、
独自の民族文化に生気を吹き込むという使命に
全力を捧げていた。

そこから2,000年に渡って独立を守り通し、独自の
文化を発展させた日本に魅せられていったのである。
日本の芸術を深く探求すればするほど、私の情熱は
ますます激しく燃え上がる。

これほど非凡であり、洗練されており、大胆かつ精緻で、
しかも感動的で魅力の溢れる芸術がほかにあるだろうか。

友好の象徴、日本美術・技術センター ヤシェンスキの死後、
そのコレクションは一時クラコフ国立博物館に
所蔵されていたが、ナチス占領下にたまたまその一部が
公開され、それに衝撃を受けたのがクラコフ美術大学生
アンジェイ・ワイダだった。

ワイダ氏はその後、ポーランド映画界の巨匠となり、
87年に京都財団から受賞した京都賞の賞金全額を
寄付して、ヤシェンスキ・コレクションのための独自の
美術館建設を提唱した。

ワイダ氏の呼びかけにポーランドと日本の多くの人々が
協力して94年に完成したのが日本美術・技術センターである。

ヤシェンスキは「北斎漫画」からとった「マンガ」を
ミドルネームにしていた機縁で、このセンターは
「マンガ」館と愛称されている。

日本とポーランドの友好の象徴であるこのセンターから、
ポーランド民族の独立と統合の象徴たるヴァヴァル城を
見上げつつ、自由ポーランドの繁栄を祈った。

・・・

終わり



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「祈りの手」という有名な絵があるのをご存じでしょうか。
アルブレヒト・デューラー(1471年から1528年)という
ルネッサンス時代の優れたドイツの画家が描いた
作品です。その作品にまるわる話です。

いまから500年ほど前、ドイツのニュールンベルグの
町にデューラーとハンスという若者がいました。
2人とも貧しい子たくさんの貧しい家に生まれ、
小さな時から画家になりたいという夢を持っていました。 

2人は版画を彫る親方の元で見習いとして働いて
いましたが、毎日忙しいだけで絵の勉強ができません。
思いきってそこをやめて絵の勉強に専念したいと
思いましたが、絵の具やキャンバスを買うお金も
ままならないほど貧しく、働かずに勉強できるほど
余裕はありませんでした。

      ある時、ハンスがデューラーに1つのことを提案しました。
      「このままでは2人とも画家になる夢を捨てなくてはいけない。
でも、僕にいい考えがある。
2人が一緒に勉強はできないので、1人ずつ交代で
勉強しよう。1人が働いてもう1人のためにお金を
稼いで助けるんだ。
 
そして1人の勉強が終わったら今度は、別の1人が
勉強できるから、もう1人は働いてそれを助けるのだ。」
どちらが先に勉強するのか、2人は譲り合いました。

      「デューラー、君が先に勉強してほしい。君の方が僕より
      絵がうまいから、きっと早く勉強が済むと思う。」
ハンスの言葉に感謝してデューラーはイタリアの
ベネチアへ絵の勉強に行きました。

ハンスはお金がたくさん稼げる鉄工所に
勤めることになりました。
デューラーは「1日でも早く勉強を終えてハンスと
代わりたい」とハンスのことを思い寝る時間も惜しんで
絵の勉強をしました。
      
一方残ったハンスはデューラーのために早朝から深夜まで
重いハンマーを振り上げ、
今にも倒れそうになるまで働きお金を送りました。

1年、2年と年月は過ぎていきましたがデューラーの
勉強は終わりません。勉強すればするほど深く
勉強したくなるからです。

ハンスは「自分がよいと思うまでしっかり勉強するように」
との手紙を書き、デューラーにお金を送り続けました。

数年後ようやくデューラーはベネチアでも高い評判を
受けるようになったので、故郷に戻ることにしました。
「よし今度はハンスの番だ」と急いでデューラーは
ニュールンベルクの町へ帰りました。
      
      2人は再会を手を取り合って喜びました。
ところがデューラーはハンスの手を握りしめたまま
呆然としました。そして、泣きました。

なんとハンスの両手は長い間の力仕事でごつごつになり、
絵筆がもてない手に変わってしまっていたのでした。
「僕のためにこんな手になってしまって」と言って
デューラーはただ頭を垂れるばかりでした。

      自分の成功が友達の犠牲の上に成り立っていた。
      彼の夢を奪い、僕の夢が叶った。
      その罪悪感に襲われる日々を過ごしていたデューラーは、

「何か僕に出来ることはないだろうか」
「少しでも彼に償いをしたい」という気持ちになり、
もう一度、ハンスの家を訪ねました。

      ドアを小さくノックしましたが、応答はありません。
でも、確かに人がいる気配がします。
      小さな声も部屋の中から聞こえきます。

デューラーは恐る恐るドアを開け、部屋に入りました。
するとハンスが静かに祈りを捧げている姿が
目に入りました。

ハンスは歪んでしまった手を合わせ、一心に
祈っていたのです。
      「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。
      自分を責めています。
神さま、どうかデューラーがこれ以上苦しむことが
ありませんように。

そして、私が果たせなかった夢も、彼が叶えて
くれますように。
あなたのお守りと祝福が、いつもデューラーと共に
ありますように」
デューラーはその言葉を聞いて心打たれました。

デューラーの成功を妬み恨んでいるに違いないと
思っていたハンスが、妬み恨むところか、
自分のことより、デューラーのことを一生懸命
祈ってくれていたのです。

      ハンスの祈りを静かに聞いていたデューラーは、
祈りが終わった後、彼に懇願しました。

      「お願いだ。君の手を描かせてくれ。
      君のこの手で僕は生かされたんだ。
      君のこの手の祈りで僕は生かされているんだ!」
      
      こうして、1508年、友情と感謝の心がこもった
「祈りの手」が生まれました。・・・





こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった 

歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、  人生、絵模様、万華鏡…





P R :

Bu

隙間産業(ニッチ市場)


2017年8月 2日 (水)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

V0151111114


幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
   不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない

Blog

      

      私には、一人息子がいます。
      自閉症を患い、幼い頃から人と
コミュニケーションを取ることが困難です。

      重度ではないものの、自閉症から時折無意識に
      体が動き出したりする事で、
周囲から見れば少し違って見えるでしょう…。

      言葉では発達障害と簡単に言い表せますが、
それが及ぼす外部的な影響は極めて大きいのが現実。
実際に息子は、自閉症が原因で小学校低学年から
ずっとイジメを受けていたのです。

他の子と少し違うという事を理由に、何かと
イジメの標的にされ、嫌がらせや悪口を
度々受けてきました。

      最初は気付かなかったのですが、
      ある日持ち帰ってきた上履きを見て
イジメの事実を知ることになったのです…

そこには、白い上履きに油性ペンで
こう書かれていました。
      アタマオカシイ
キモチワルイ

      息子の上履きに書かれた文字
      何も言わず置いてあった上履きを洗おうとした時、
      この落書きを見て私は落胆。
心をズタズタに切り刻まれた様な気分になりました…

しかし、この事を誰かに相談することも出来ません。

私の夫は脳梗塞で他界。まだ39歳でした…
息子の自閉症の症状が悪化したのも、やはり
大好きなパパであり”唯一の友達”の様な
存在だった夫の死が原因だと思います。

夫は、息子とよく遊び、そして自閉症だからといって
      特別扱いは全くしませんでした。
      厳しくあり、優しくもある。
何よりも思いやりや人助けを一番に考える様な
消防隊員でした。

息子がいつも描く絵には、必ず夫の消防の
姿が描かれ、自分も将来はパパの様に
逞しくなりたいと夢見ていたのです。

どう頑張っても、やはり私は夫の代わりに
なる事はできません。
父親になる事は出来ないのです…
そして悩み、どう息子と接していいのかも
分からずの日々が続いていた最中に見つけた
息子のイジメの実態。

      胸が張り裂けそうな思いでしたが、
      私ができることは息子に辛い思いをさせたくない。
それだけだと思い、息子に学校を休む様に
言ったのです。

嫌なこと、されてるでしょ?もう学校休みなさい。
行かなくていいのよ。
      すると、普段はあまり感情を
露わにしない息子が私に強い口調で
訴えてきたのです。

やだ。 休まない。 行く!

      何をそれほどムキになっているのか、
      もしかすると休むとさらにひどいイジメを
受けるからなのか不安になった私は、
息子が学校へ行くのを後ろからこっそり
つけてみる事にしたのです。

そして、そこで目にした光景に泣き崩れて
しまったのです。
歩いて5分程度にある公園から、毎日集団登校を
している息子。こっそり付いて行くと、
息子は公園の集合場所とは真逆の方へ
歩いていくのです。

      どこへ向かうのかと思いつけて行くと、
そこは公園の清掃用具が入れられた公園隅の箱。
なんと、そこから掃除用具を取り出して持ちながら
集合場所へ向かったのです。

      何をするのかサッパリの私は、
集団登校の後を追います。

      すると、息子は集団登校列の最後尾に位置付け、
公園から持ってきた掃除用具で道中に落ちている
ゴミを拾い始めたのです…。

      その時、私は一つのことを思い出しました。
      亡き父と毎週やっていたゴミ拾い。
夫が休みの時、いつもボランティアで
      息子とやっていた清掃活動のことを思い出し、
全ての辻褄が合いました。

恐らく息子は、夫が亡くなってから毎日やって
いたのかもしれません。
それがもしかすると、息子なりに大好きな父親を
失ったことを理解し、そして父親の思いを途切らせない
様にとバトンを受け継いでいる思いなのかもしれません。

      小さい頃からずっとやっていたゴミ拾いや清掃。
私が言った、もう学校休みなさい。
この言葉に強く反発したのは、父親から受け継いだ
大事なバトンを途切らせないためだったようです。

      恐らく、大好きな夫とずっとキレイにしていた
思い出の道や公園を自分の手で守りたかったのだと
思います。この事実を知って、私は泣き崩れました。

      その場から動けなくなるほど泣き崩れました。
その後、私が学校へ話をし、イジメの事実が
判明してからは息子へのイジメは無くなりました。

そして私はやはり父親の代わりにはなれません。
      しかし、今は休日になると
      息子の大好きな夫とのその思いを受け継ぎ、
私も息子と二人三脚で町内の清掃作業をしています



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      わが家は6歳と4歳の男の子ふたり。
弟は自閉症で、週に数回通所施設を利用している。

兄弟で社宅の公園で遊んでいたら、小学生くらいの子が、
「お前の弟、○○園に行ってんだろ。
      あそこはできない子が 行く幼稚園だってママが
言ってた。チョー恥ずかしいの!」とからかった。

      私は一瞬頭の中が真っ白になった。
      だけど上の子は涼しい顔で言い返した

「はずかしいっていうのはね、小さい子をいじめたり、
ごはんをそまつにしたり、うそをついたりすることなの。
○○園でがんばるのは、はずかしくないの」
そう返したのだ。

      ゴメン、母は泣きそうになった。
お兄ちゃん、ずっと仲良しの兄弟でいてね。

悪口を言った小学生の母親みたいな親が
いることがとても残念です。
健常者よりも遥かに優れた才能をもった
障がい者はたくさんいます。

障がいだって一つの個性です。
一人ひとりがその個性を尊重できる温かい社会に
なりますように!・・・


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都内で会社員をしているAさんが先日、取引先の
付き合いで都営地下大江戸線沿線の駅に隣接している
回らない寿司屋で食事を取ったときのこと。

お昼時ということもありほぼ満席の状態で、3組
座ることのできる長テーブルに通されたAさんたちは
老夫婦と若いカップルの2組と相席する形で
席につきました。

先に座っていた2組はすでに注文を済ませた
あとだったようで、私たちが席について間もなく
お寿司が運ばれてきました。

運ばれてくるときに見えた輝く寿司ネタをみて、
「おいしそうだなあ」と心待ちにしながら待っていると
Aさんたちの注文したお寿司も席まで運ばれてきました。

「ありがとう」と届けてくれた大将に伝え、さあ
食べようとしたそのとき!!!
相席している老夫婦の女性があることを大将に
話しかけたのです。

すると大将が激怒!!!
      その後、起こったこととは?

女性は大将に「この鉄火巻き、本当においしいですね。
家庭でもこんな風に作りたいときはどうやったら
いいですか?コツはありますか?
なかなか素人には難しいですかね…」と
話しかけたのです。

すると、大将は女性に向かって「笑わせるね!
そりゃ無理だわ、当たり前。」とぶっきらぼうに
言い放ったのです。

さらに、「そんなもんこちとら延々と修行重ねて
やってきてるんだ!
      やすやすとコツなんぞ教えられたら苦労ないもんだ。」
      と嫌味に小笑いして答えます。

この女性は本当においしかったからこそ、ちょっとした
コツがあれば聞きたいと思っただけだと思うのですが、

      大将のまさかの返しに何も言えずたじたじ。
      「本当においしい」と言っているお客に向かって
そこまで言わなくてもいいですよね。・・・

      女性と大将のやりとりは、
      Aさんだけでなく お店にいる他の客も見ており、
各々胸くそ悪い思いをしつつ黙ってお寿司を
食べていましたが、・・・
      大将はまだ言い足りなかったのかさらに
女性に嫌味ったらしくぐちぐちと話し続けます。

      ここまで言われると思っていなかった女性は
      大将の驚きの態度に食べかけの鉄火巻きに
手を付けることもできず
「すみません」と恐縮するばかり。

さすがに言い過ぎている大将の態度を
      不快に感じ一言言ってやろうと決意した瞬間!!!
      先に横の相席していた若いカップルが口を開いたのです!

店内に響く声で言い放った言葉とは?

      「あーまずい。なんだここ。」
「くそまじーわ。回転寿司の方がよっぽどうまいな。
帰ろうぜー。」

さらには「心の狭いおっさんだなあ。
ちょっとしたコツくらい教えるのにムキになってるくらいなら
たいしたうでじゃないんだろ・・・笑」

大将に向かって逆に嫌味を言いながら店を
後にした若いカップル。
Aさんたちも食事を終えてすぐ店を出ましたが、

      若いカップルが店を出てからの大将は
言い過ぎたと思ったのか終始無言で仕事を
続けていました。

いかがでしたか?これまで努力を重ね、
      修行を積み重ねてきた大将の気持ちもわかりますし、
黙々と仕事に打ち込む職人さんは
口下手な方が多いのもわかるような気がしますが…

      飲食・接客を生業としているのであれば
      話し方や伝え方ひとつで感じ方が
      変わることを心得ておくべきですよね。

今回の大将の対応をみていたお客さんは
今後二度とお店に足を運ぶことはないでしょう。

人に何かを伝えるというのは簡単なようでとても
難しいことです。
「人の振り見て我が振り直せ」という言葉がありますが、
この寿司屋の大将の話を教訓にしたいものですね。



歌は心の走馬灯、歌は世につれ、     
  世は歌につれ、人生、絵模様、万華鏡…





P R :

Bu

隙間産業(ニッチ市場)




2017年8月 1日 (火)

妄想劇場・歴史への訪問

V01511111171

昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


Higetop11

江戸時代の鎖国政策などにより、わが国は世界的な
産業革命に大きく後れを取りました。
しかし、明治の富国強兵によって瞬く間に世界に追いつき、
経済力でも西欧諸国に肩を並べ、軍事力の面でも
清やロシアに勝利するほどの力をつけました。

それは日本人の勤勉で実直な努力のたまものでも
ありますが、江戸時代においても、絶対的な学力が
きわめて高く、識字率は世界でもっとも高かったことも
大きな要因です。

江戸時代においては多くの子どもが学校に通い、
「読み書きそろばん」と言われる基本的な学力を
身につけていました。
貧しい町人の子ですら文字が読め、中国や朝鮮はもちろん、
イギリスやロシアなどに比べても識字率では
大きく上回っていたのです。

幕末の頃の識字率はなんと7割~9割

識字率について厳密な調査があるわけでなく、
実際にどの程度であったのかは推測するしかありません。
どの国、どの時代においても、初等教育で最初に
教えるのは「文字」です。

文章の読み書きができなければ、書物を使って
学習することができません。それゆえ、
就学率が識字率の一定の判断材料となります。
江戸時代後期のわが国においては、江戸の就学率は
70%~86%程度だったとされていますので、
少なくとも識字率はそれ以上だったと考えられます。

イギリスの大工業都市では20%~25%にすぎなかった

同じ時代のイギリスでは、大都市でも就学率は25%
以下であり、識字率は極めて低かったとされます。
産業革命によって世界の工場と呼ばれるようになり
最盛期をむかえた時代においてすら、下層階級の
子どもの多くは文字を読むことができず、
識字率は1割程度だったと言われています。

フランスではほとんど学校に通っていなかった!

わが国が江戸時代だった頃、1794年にフランスでは
初等教育の無料化が実施されました。
しかし、それでも10代の就学率はわずか1.4%と
極めて低く、識字率も高まりませんでした。 もちろん、
富裕層の子弟は学校に通わず、家庭教師によって
教えられていたという事情もあります。

しかし、そうした教育を受けられるのはごく一部に過ぎず、
国全体の識字率はわが国とは比べ物にならないほどに
低かったのです。

武士で文字の読み書きができない者はいなかった

江戸時代の政治・行政の担い手であった武士階級は、
現代でいえば公務員にあたります。
職務において「書類」は欠かせません。 戦国時代から
江戸時代初期までは「武力」が重要視されましたが、
太平の世が長く続くと次第に「学力」重視に
変わっていきます。

必要な能力が学問によって得られるようになり、
武士にとって学校に通うことは剣術を磨くこと以上に
重要になっていったのです。
当然のことながら、江戸時代の武士たちの識字率は
100%でした。

ニコライ堂のニコライも驚いた!

江戸時代の末期にわが国を訪れたロシア正教の
宣教師ニコライは、8年間の滞在後ロシアに戻り
手記を記しています。

その中で、国民全体に教育がいきとどいていることや、
孔子(論語)のような高度なものを、知識階級は
暗唱できるほどに、また身分の低い者ですら
かなり詳しく知っていることに驚いています。

江戸時代のわが国においては、世界で類を
見ないほどに教育がいきとどき、
識字率においては、ダントツに世界一だったと
考えられます。

それが、文明開化の時代に花開き、今日のような
世界トップクラスの経済力の国家へと結びつい
ているのです。
・・・・
おしまい


B05011

あるところに、
お釈迦様が多くの人たちから尊敬される姿を見て、
ひがんでいる男がいました。
「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。
いまいましい」 男はそう言いながら、
お釈迦様をギャフンと言わせるための作戦を
練っていました。

ある日、その男はお釈迦様が毎日、
同じ道のりを散歩に出かけていることを知りました。
そこで、男は散歩のルートで待ち伏せをして、
群衆の中で口汚くお釈迦様をののしって
やることにしました。

「釈迦の野郎、きっと俺に悪口を言われたら、
汚い言葉で言い返してくるだろう。
その様子を人が見たら、あいつの人気なんて、
アッという間に崩れるに違いない」

そして、その日が来ました。

男はお釈迦様の前に立ちはだかって、
ひどい言葉を投げかけます。
お釈迦様は、ただ黙って、その男の言葉を
聞いておられました。

弟子たちは悔しい気持で、
「あんなひどいことを言わせておいていいのですか?」
とお釈迦様にたずねました。

それでも、お釈迦様は、ひと言も言い返すことなく、
黙って、その男の悪態を聞いていました。

男は一方的に、
お釈迦様の悪口を言い続けて疲れたのか、
しばらく後、その場にへたりこんでしまいました。

どんな悪口を言っても、お釈迦様がひと言も
言い返さないので、男はなんだか虚しくなって
しまったのです。

その様子を見て、お釈迦様は、静かにその男に
たずねました
「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が
受け取らなかった時、その贈り物は、
一体誰のものだろうか」

こう聞かれた男は、
突っぱねるように言いました。
「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら、
贈ろうとした者のものだろう。分かりきったことを聞くな」

男はそう答えてからすぐに、
「あっ!」 と気づきました。
お釈迦様は静かにこう続けられました。

「そうだよ。
今、あなたは私のことをひどくののしった。
でも、私はそのののしりを、少しも受け取らなかった。
だから、あなたが言ったことは、すべて、あなたが
受け取ることになるんだよ」

言葉の「は」は、ときに刃(やいば)の「は」になりますが、
人を傷つけそうな時には、「返り討ち」を想起しましょう。
傷つけられそうな時には、「受け取り拒否」でいきましょう(^^

・・・
おしまい



鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる


「安楽死させて欲しい」と動物病院に
      連れてこられた子猫。命の恩人と出会い
救われた命!・・・





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Bu

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