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2017年8月 3日 (木)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


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冬のポーランドの古都クラクフ。
ホテルの窓から、うっすらと雪化粧した街並みを
見おろすように歴代ポーランド王の居城だった
ヴァヴェル城がそびえている。
ポーランドは日本からはなじみの薄い国で、一般の人は
せいぜいショパンやキューリー夫人くらいしか
知らないだろう。

しかし両国の間には善意と友好の歴史が100年もの間、
人知れず地下水脈のように流れている。

知られざる1920年の感動秘話」では、
20世紀初頭にシベリアで困窮していたポーランド人孤児
765名を帝国陸軍と日本赤十字社が救出し、
母国ポーランドに送り届けた事。

その返礼として、75年後に阪神大震災の孤児たちが
ポーランドに招かれて歓待を受けた佳話を紹介した。
しかし、両国の交流はそれ以外にも脈々と続けられている。

「日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おう」
ポーランドは18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアに
分割され、独立を失った。
その後、粘り強く独立運動が続けられたが、彼らに
勇気を与えたのが日露戦争だった。

後にポーランド独立の英雄として敬愛される
ヨゼフ・ピウスツキは1904(明治37)年7月、
日露戦争の最中に日本を訪れ、明治政府に対して
日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おうと呼びかた。

ポーランドがシベリア鉄道の破壊やロシア軍に徴発されている
ポーランド兵の脱走・投降工作をする代わりに、
日本は独立運動への支援を行う、という具体的な提案だった。

この時にもう一人の独立運動の指導者で穏健派の
ドモスキも来日して、ピウスツキの提案は非現実的だと
日本政府に進言した。

結局、日本政府はピウスツキの提案のうち、最後の
ポーランド人捕虜に対する好意的な取り扱いだけを
採用することにして、松山にポーランド人捕虜のための
収容所を作り、特別に厚遇した。

捕虜の正確な数は判っていないが、一説には数千人の
規模に達したという。
日本海海戦で日本がバルチック艦隊を破った時には、
ポーランド人捕虜全員が万歳を叫んだ。
「日本人に出会ったら恩返しをして欲しい」

後にポーランド大使となる兵藤長雄氏は外務省入省の後、
1961年に英国の陸軍学校に留学してロシア語を学んだが、
その時の先生がグラドコフスキという元ポーランド
陸軍将校であった。

グラドコフスキ先生はどういうわけか、兵藤氏を何度も
自宅に呼んでご馳走したり、特別に勉強を助けてくれた。
なぜこんなに自分にだけ親切にしてくれるのだろうと
不思議に思って聞いてみると、先生は父親の話を始めた。

父親はロシアに徴集されて日露戦争に従軍したが、
捕虜となって数ヶ月を日本で過ごしたのだった。
そこで周囲の見知らぬ日本人から親切にもてなされ、
深い感銘を受けた。

父親は日本人の温かい心と数々の善意が終生忘れられずに、
息子にその時の話を詳しく聞かせては
「お前も日本人に出会ったらできるだけ親切にして
恩返しをして欲しい」と口癖のように話していたという。

「父親が受けた日本人からの親切を、今、貴君を通じて
お返しできることは本当に嬉しい」と先生は兵藤氏に
語った由である。

ポーランドの人々が感動した日本人の「サムライ魂」

「ヤポンスカはサムライ魂を持っているんだ」
阪神大震災の孤児たちをポーランドに呼ぼうと働きかけた
中心人物は、外交官スタニスワフ・フィリペック氏である。

フィリペック氏はポーランド科学アカデミーの物理学教授
だったが、ワルシャワ大学で日本語を学び、東京工業大学に
留学した経験もあった。

フィリペック氏のお父さんは、第2次大戦中、ドイツ占領下の
ポーランドでレジスタンス活動に従事していたが、
氏が3歳の時にゲシュタポ(ナチス・ドイツ秘密警察)に
捕まって強制収容所に送られ、還らぬ人となった。

その後、氏はおばあさんに育てられたが、よくこう聞かされた。
お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔術)を
やりなさい。ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリングよ。

ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアのむこうにね、
ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。
その小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、
やっつけたんだもの。

ジジュツのせいかどうかはしらないけど、ヤポンスカは
サムライの国でね、サムライ魂を持っているんだ。
小さなヤポンスカがロシアを負かしたことは、
私たちポーランド人の希望になったんだ。

わたしたちもヤポンスカのように、ロシアや、ドイツや、
オーストリアを負かして追い払い、自由をとり返して、
独立できると信ずることができた。

そしてそのとおり、第一次大戦のあとで、ポーランドは
独立できたんだよ。 おばあさんは幼いフィリペック氏に、
ヤポンスカがポーランド人捕虜を親切に扱ったことや、
大勢のポーランド孤児をシベリアから救出したことを
語って聞かせたという。

これが機縁となって、氏は日本語を学び、両国の
友好のために働こうと決意したのである。
「日本のヘイタイサンは、やさしかった。」
ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して
武装蜂起を繰り返した。そのたびに失敗しては、
捕らえられた者はシベリアに「流刑囚」として流されて、
強制労働をさせられた。

1863年から翌年にかけての「一月蜂起」では
8万人もの流刑囚がシベリア送りとなった。
その後を追って、恋人や家族がシベリアに行った。
そのためにシベリアには何十万人ものポーランド人が
いたのである。そしてそこで多くの子供たちが生まれた。

1818年、ロシア革命が勃発すると、シベリアの
ポーランド人たちは祖国独立の一助になろうと
チューマ司令官のもとに2,000名の部隊を結成し、
シベリアで反革命政権を樹立したロシア提督・
コルチャークを助けて赤軍と戦った。

しかし、その試みは失敗し、ポーランド人部隊は
ウラジオストックに追い込まれた。
この時に立ち往生していたポーランド人部隊を救出し、
大連、長崎を経て祖国へ帰還するのを助けたのが、
日本であった。

日本はソビエト革命政権の成立を阻止しようとして、
米英仏などと共にシベリアに出兵していたのである。
赤軍は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、
殺そうとした。

ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、
その混乱の最中に多くの子供が親を失った。孤児の一人で
後に日本に助けられたバツワフ・ダニレビッチ氏は
当時の状況をこう語っている。

街には、飢えた子どもがあふれていましたね。
その子たちは、日本のヘイタイサンを見ると、
「ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!」と、
せがむのです。

日本のヘイタイサンは、やさしかった。わたしも、
キャラメルをもらったことがあります。
孤児の中には空腹をまぎらそうと、雪を食べている
子どももいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした。

ポーランド人孤児を救った日本兵の働きとは

「日本に救援を頼んでは」 ポーランド人孤児たちを救おうと
立ち上がったのが、鉄道技師の夫と共にウラジオストックに
住んでいたアンナ・ビエルケビッチさんだった。

ボランティア組織「ポーランド孤児救済委員会」を組織し、
自ら会長となった。 ビエルケビッチさんは、子供たちを
救うにはどうしたら良いか、と委員会で相談をした。

一人の委員が、日本に救援を頼んでは、と提案したが、
年配の女性委員が、昔、宣教師を磔(はりつけ)に
したような国が、他の国の子供たちを助けてくれるだろうか、
と質問した。

そこに副会長の若い医師ヤクブケビッチ副会長が
手をあげて発言を求めた。
僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいった
ポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人は
いませんよ。この春、ウラジオストックまで逃げてきた
チューマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、
日本軍じゃありませんか。

こうしてアンナ・ビルケビッチさんは日本に渡り、
陸軍や外務省にポーランド孤児救済を依頼する。
依頼は外務省から日本赤十字に伝えられ、
17日後には孤児救済が決定され、

さらにその2週間後には帝国陸軍の助力で、
56名の孤児第一陣がウラジオストクから、敦賀経由で
東京に到着した。

同時に救済委員会は、一人でも多くのポーランド人孤児を
救おうと、あちこちの避難所を探し回った。
ビルケビッチさんは語る。
こわれた列車や、兵舎にまぎれこんでいる子どももいました。
ポーランド人が住んでいると聞けば、足を棒のようにして、
その家庭をたずねました。

父親を亡くした家庭では、「せめて子どもだけでも、
助け出してください。」と母親たちが、泣いてわたしたちに
たのむのでした。 しかし、こうして「シベリアで子どもたちを
集められたのは、日本軍がいる町だけだった。

日本軍の助けなしには、なにもできなかった」と、
ビルケビッチさんは回想する。
6,000人のユダヤ人を救った外交官の秘密任務
1939年9月、ドイツのポーランド侵攻により、
第2次世界大戦が始まった。

ソ連軍もポーランドに侵入し、国土はふたたびドイツと
ソ連に分割占領されてしまった。
この時のワルシャワ防衛総司令官は、かつて
ウラジオストックで日本に救われたチューマ将軍であった。

そしてその指揮下でレジスタンス(抵抗)運動の
中核となったのが、シベリア孤児だったイエジ青年だった。

シベリア孤児たちを中核とするイエジキ部隊は、
孤児院を秘密のアジトとして様々な抵抗活動を展開するが、
ナチスの捜索の手から孤児院を何度も救ったのが、
日本大使館であったことは、「多くのポーランド人が
日本に救われた。

大戦中の日本とポーランドとの関係では、もう一人、
意外な人物が登場する。
ナチスに追われた6,000人ものユダヤ人に日本への
ビザを発給して救ったリトアニア領事代理の
杉原千畝である。

1939年11月、大戦勃発の直後に日本人居住者の
いないバルト海沿岸のリトアニアの首都カウナスに
日本領事館が設けられたのは、いかにも不自然であるが、
その領事代理・杉原の任務はポーランド軍との
協力関係を築くことだった。

日本は防共協定を結んだばかりのドイツがソ連と
不可侵条約を結んだことに強い不信感を抱き、
独ソ双方の情報収集を強化する必要を感じた。
そこで目をつけたのが、大戦前からドイツの隅々に
諜報網を張り巡らせていたポーランド軍であった。

杉原はポーランド軍参謀本部の情報将校たちや、
リトアニアにおけるポーランド諜報組織「ヴィエジュバ(柳)」、
さらにはロンドンでの亡命政府傘下の軍事組織
「武装闘争同盟」と接触して、情報を収集した。

一方、ポーランドの諜報員たちは、日本や満州国の
パスポートを得て自由に行動し、さらにドイツやバルト
・北欧諸国の日本公館に通訳などの名目で雇って
もらうことで、安全を確保できた。

さらにポーランドの諜報機関や抵抗組織は、
リトアニア経由でベルリン、モスクワ、東京を往復していた
日本の外交クーリエを利用して、ポーランド国内や
ロンドン亡命政府との連絡をとることができたのである。

建前上は敵対関係にある日本とポーランドが、
陰ながらここまでの広範かつ密接な協力が築けたのは、
日露戦争前夜からの長い信頼関係があったからであろう。

日本文化に魅了されたポーランド人たち

文化交流の面では、フェリスク・ヤシェンスキの名を
欠かすことはできない。ヤシェンスキはポーランド
貴族の生まれで、20代には19世紀末のパリで
芸術の勉強に打ち込んだ。

当時のパリでは日本の美術、特に浮世絵に対する
関心が高く、ジャポニズムという流れが若い画家たちに
強い影響を与えていた。
ヤシェンスキも強く浮世絵に魅せられ、生涯をかけて
6,500点にも上る日本美術の一大コレクションを
築き上げた。

ヤシェンスキは単なる異国趣味で日本美術を
集めたのではなかった。当時、帝政ロシアやプロイセンなどに
分割統治されていたポーランド民族の独立を夢見て、
独自の民族文化に生気を吹き込むという使命に
全力を捧げていた。

そこから2,000年に渡って独立を守り通し、独自の
文化を発展させた日本に魅せられていったのである。
日本の芸術を深く探求すればするほど、私の情熱は
ますます激しく燃え上がる。

これほど非凡であり、洗練されており、大胆かつ精緻で、
しかも感動的で魅力の溢れる芸術がほかにあるだろうか。

友好の象徴、日本美術・技術センター ヤシェンスキの死後、
そのコレクションは一時クラコフ国立博物館に
所蔵されていたが、ナチス占領下にたまたまその一部が
公開され、それに衝撃を受けたのがクラコフ美術大学生
アンジェイ・ワイダだった。

ワイダ氏はその後、ポーランド映画界の巨匠となり、
87年に京都財団から受賞した京都賞の賞金全額を
寄付して、ヤシェンスキ・コレクションのための独自の
美術館建設を提唱した。

ワイダ氏の呼びかけにポーランドと日本の多くの人々が
協力して94年に完成したのが日本美術・技術センターである。

ヤシェンスキは「北斎漫画」からとった「マンガ」を
ミドルネームにしていた機縁で、このセンターは
「マンガ」館と愛称されている。

日本とポーランドの友好の象徴であるこのセンターから、
ポーランド民族の独立と統合の象徴たるヴァヴァル城を
見上げつつ、自由ポーランドの繁栄を祈った。

・・・

終わり



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「祈りの手」という有名な絵があるのをご存じでしょうか。
アルブレヒト・デューラー(1471年から1528年)という
ルネッサンス時代の優れたドイツの画家が描いた
作品です。その作品にまるわる話です。

いまから500年ほど前、ドイツのニュールンベルグの
町にデューラーとハンスという若者がいました。
2人とも貧しい子たくさんの貧しい家に生まれ、
小さな時から画家になりたいという夢を持っていました。 

2人は版画を彫る親方の元で見習いとして働いて
いましたが、毎日忙しいだけで絵の勉強ができません。
思いきってそこをやめて絵の勉強に専念したいと
思いましたが、絵の具やキャンバスを買うお金も
ままならないほど貧しく、働かずに勉強できるほど
余裕はありませんでした。

      ある時、ハンスがデューラーに1つのことを提案しました。
      「このままでは2人とも画家になる夢を捨てなくてはいけない。
でも、僕にいい考えがある。
2人が一緒に勉強はできないので、1人ずつ交代で
勉強しよう。1人が働いてもう1人のためにお金を
稼いで助けるんだ。
 
そして1人の勉強が終わったら今度は、別の1人が
勉強できるから、もう1人は働いてそれを助けるのだ。」
どちらが先に勉強するのか、2人は譲り合いました。

      「デューラー、君が先に勉強してほしい。君の方が僕より
      絵がうまいから、きっと早く勉強が済むと思う。」
ハンスの言葉に感謝してデューラーはイタリアの
ベネチアへ絵の勉強に行きました。

ハンスはお金がたくさん稼げる鉄工所に
勤めることになりました。
デューラーは「1日でも早く勉強を終えてハンスと
代わりたい」とハンスのことを思い寝る時間も惜しんで
絵の勉強をしました。
      
一方残ったハンスはデューラーのために早朝から深夜まで
重いハンマーを振り上げ、
今にも倒れそうになるまで働きお金を送りました。

1年、2年と年月は過ぎていきましたがデューラーの
勉強は終わりません。勉強すればするほど深く
勉強したくなるからです。

ハンスは「自分がよいと思うまでしっかり勉強するように」
との手紙を書き、デューラーにお金を送り続けました。

数年後ようやくデューラーはベネチアでも高い評判を
受けるようになったので、故郷に戻ることにしました。
「よし今度はハンスの番だ」と急いでデューラーは
ニュールンベルクの町へ帰りました。
      
      2人は再会を手を取り合って喜びました。
ところがデューラーはハンスの手を握りしめたまま
呆然としました。そして、泣きました。

なんとハンスの両手は長い間の力仕事でごつごつになり、
絵筆がもてない手に変わってしまっていたのでした。
「僕のためにこんな手になってしまって」と言って
デューラーはただ頭を垂れるばかりでした。

      自分の成功が友達の犠牲の上に成り立っていた。
      彼の夢を奪い、僕の夢が叶った。
      その罪悪感に襲われる日々を過ごしていたデューラーは、

「何か僕に出来ることはないだろうか」
「少しでも彼に償いをしたい」という気持ちになり、
もう一度、ハンスの家を訪ねました。

      ドアを小さくノックしましたが、応答はありません。
でも、確かに人がいる気配がします。
      小さな声も部屋の中から聞こえきます。

デューラーは恐る恐るドアを開け、部屋に入りました。
するとハンスが静かに祈りを捧げている姿が
目に入りました。

ハンスは歪んでしまった手を合わせ、一心に
祈っていたのです。
      「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。
      自分を責めています。
神さま、どうかデューラーがこれ以上苦しむことが
ありませんように。

そして、私が果たせなかった夢も、彼が叶えて
くれますように。
あなたのお守りと祝福が、いつもデューラーと共に
ありますように」
デューラーはその言葉を聞いて心打たれました。

デューラーの成功を妬み恨んでいるに違いないと
思っていたハンスが、妬み恨むところか、
自分のことより、デューラーのことを一生懸命
祈ってくれていたのです。

      ハンスの祈りを静かに聞いていたデューラーは、
祈りが終わった後、彼に懇願しました。

      「お願いだ。君の手を描かせてくれ。
      君のこの手で僕は生かされたんだ。
      君のこの手の祈りで僕は生かされているんだ!」
      
      こうして、1508年、友情と感謝の心がこもった
「祈りの手」が生まれました。・・・





こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった 

歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、  人生、絵模様、万華鏡…





P R :

Bu

隙間産業(ニッチ市場)


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