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2017年8月10日 (木)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
   不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


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毎年、最難関の東大・京大など国公立大学に
150名前後の合格者を送り出す進学校でありながら、
スポーツにも熱心な学校です。


2010年、2011年には野球で甲子園にも出場しました。
この高校の校長先生は、山野隆夫さんという方です。
山野さんご自身は、かつて水戸一高の高校球児でした。

大学では野球はやらなかったそうですが、その後
高校教師となり、行きがかり上、野球部の監督に
なったことがあります。

その時のエピソードです。

山野さんは、水戸南高校という通信制の高校に赴任
しました。水戸南高校は、通信制にしては珍しく、
硬式の野球部がありました。

ただ、山野さんが水戸南高校に赴任した当初は、
野球部の監督も他にいましたし、山野さん自身ももう
野球に携わる気持ちはありませんでした。

ところが、その野球部の監督をしていた先生が
転勤になり、学校の中で野球部の監督をできそうな人は、
山野さんだけという状況になりました。

山野さんは、皆から懇願され、監督を引き受けることに
したのです。しかし、監督を引き受けたものの、当時の
水戸南高校の野球部は、ハッキリ言ってかなりの
弱小チームでした。

トスバッティングはおろか、キャッチボールもままならず、
さらに、部員たちのグローブも軟式用だったり、ボールも
ボロボロのものが20個あるだけという有様でした。

高校野球というようなレベルではなかったようです。
ただ、そうした中でも、選手たちはとても必死でした。
朝5時に起きて一日立ち仕事をし、夕方から授業を受けて、
夜の9時から11時まで練習をする。

そして、ヘトヘトになって帰り、また次の朝5時に起きて
仕事に行くのです。
そんな選手たちの姿を見て、ある日、山野さんは
こう思ったそうです。

「何でコイツらはこんな辛い思いをして、毎日野球を
続けるんだろうか?勝ちたいからなのか?
それとも、単純に野球が好きだからなのか?」

前任監督の義理だけで、グランドに立つ自分が、
正直辛かったのです。
そして、山野さんは満を持して選手たちに問いかけて
みました。

「お前ら何で硬式なんだ?今まで野球やったこと
あんのか?
金もかかるから軟式で良いんじゃないのか?」
その問に対する選手たちの答えに、山野さんは
とんでもないショックを受けました

「野球は、夏の大会の前には、出場各校の部員全員の
名前が新聞に載ります。
また、球場に行けば、写真入りの冊子に自分が
載ります。

軟式は分からないけど、硬式は確実に載るんです。
だから、僕たちは野球で頑張っているんです」

山野さんは、最初聞いたときは、何を言っているのか
意味が分かりませんでした。
しかし、その答えは、他の選手に聞いてみても同じ。

そこで、山野さんはもう少し選手に聞いてみました。
「どうして新聞や冊子に名前が載るのが良いんだ?
そんなに名前が載りたいのか?」

選手たちの答えはこうでした。
「父ちゃんか、母ちゃんが、新聞や冊子を見て、
俺の名前を見つけてくれるかもしれないと思って」

そう。実は、この水戸南高校の選手たちの多くは、
近くの孤児施設出身の子どもたちだったのです。

顔も知らない、記憶にも無い親に会えるかも知れない
大きなチャンスが、この夏の県予選だったのです。

そんなことも知らず、自身は野球のレベルのことを
考えたり、義理でグランドに立っていた自分が
情けなくなり、自分を恥じたそうです。

それからというもの、山野さんは母校関係者から
ボールをかき集め、朝練も始めました。

そして、それでもまともなユニフォームも無かったので
寄付をお願いし、背番号は墨で書きました。
当然ながら、夜の練習にもより一層熱が入りました。

その夏、水戸南高校は、県予選に出場しました。
試合は0-38。1回戦で敗れてしまいました。
しかし、山野さんは恥じる気持ちなど一切なく、
選手たちをとても誇らしく思ったそうです。

この体験が、この現・水城高校校長である
山野さんの原点。『野球はすべてを結集させる』という
信念が生まれた瞬間でした。

そしてその後も、山野さんは荒廃し、野球部も
休部状態だったような高校を、野球の力を使って
立て直したり、その信念を貫き通して、ここまで
やってきたのです。

そして2010年夏のこと、自身が校長を務める
水城高校で、初の甲子園出場を果たしました。

この水城高校は、私立校ではありますが、
「単純に良い選手を野球留学させて、強くしましたよ」
というチームではありません。

山野さんの高校野球に対する信念が、選手たちを
強烈に支援し、ノーシードのノーマークから、
甲子園出場へと押し上げていったのです・・・



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大阪の貧乏な寺の子で、三島海雲(みしまかいうん)と
いう人がいました。
この人は、風変わりな人で、坊さんになるのを嫌い、
みなぎる冒険心を抱えて、中国大陸に渡ります。

海雲さん、大陸放浪の道すがら、モンゴル地区の
貴族の天幕(パオ)にしばらく厄介になる経験をしました。
彼らの住まいであるパオというテントの入口には、
牛や羊などの乳を蓄えた大ガメが置いてありました。

毎日、大ガメの中の乳を飲んだ海雲さん、
そのパワーにすっかり感動しました。
その効果を、こう述べています。

「長くつらい旅のために、すっかり弱っていた胃腸の
調子が、目を見張るばかりに整った。その上、
日ごろ苦しんでいた不眠症も全く治った。
身体、頭、すべてがすっきりして、体重も増え、
それはあたかも、不老長寿の霊薬にでも遭遇した
印象さえ受けた」

この乳に出会った海雲さん、日本に帰ってからの
運命が変わります。
また、日本人にとっても、大変象徴的な飲料として、
これが普及することになります。
もう勘のいい方は、うすうすお分かりでしょう。

その飲み物は、今日このように商品化されています
関東大震災で、人々を救ってくれた飲み物

日本に帰ってきた海雲さん、何で再起を期そうかと
考えましたが、直ぐに、蒙古民族の乳飲料の
素晴らしさを思い出し、それを参考に、新しい乳製品の
開発に着手することにしました。

何年も試行錯誤を続け研究、改良を重ねた結果、
ついに海雲さんは、国民的飲料となる乳酸菌飲料を
生みだすことに成功したのです。

それが「カルピス」です。
カルピスは、蒙古民族の不思議な乳飲料をヒントに
つくられたのでした。

1923年、関東大震災の時です。
東京の大半は見るも無残な状態。
水道が止まって飲み水もままなりません。
いたるところに避難民が溢れかえりました。

飲料水の不足を放っておくと、地震、火事の
不幸に続いて、もっと恐ろしい疫病が蔓延しかねない、
そんな状況にありました。
幸い、カルピス本社の山手方面では水道の損傷が
少なく、水が出ました。

そこで海雲さんは、自分で出来ることは何かを考え、
水を配ることにしたのです。
それもせっかく水を配るのであれば、氷とカルピスを
入れて美味しく配って上げようと思いつきました。

金庫のあり金、2,000円(現在の価値で2,500万円ほど)を
全部使い、トラック4台を調達し、翌日には東京中に
配って回りました。

この行動の早さは、たちまち大きな反響を呼ぶことに
なりました。このことがきっかけとなり、「カルピス」が
広く世間に知られることになりました。

それをもって、「お安い広告料だった」などなどの
やっかみも出てきました。
しかし、多くの人は知っています。
大混乱の時に、素早く行動できる反射神経は、
計算ずくで出来るものではない。

真に人が困窮にあえいでいる時、即刻身を捨てて
行動する。そこに利己ではなく、利他があることを
直感的に感じ取ります。
そんな人、そんな企業を、大衆はよく見ているのです。

震災20年経ってから、某省の高官が海雲さんに
こう言ったそうです。
「私はカルピスのことなら、喜んでどんなことでも
協力いたしましょう。
それは震災の時に、上野でもらった一杯の
カルピスのうまさが 生涯、忘れられないからです」

カルピスといえば「初恋の味」のキャッチフレーズが
あまりにも有名です。でも、キャッチフレーズだけで、
国民に愛飲されるようになったわけではない、
そんなことがお分かりいただけるかと思います。
・・・



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当時、私は2歳半の一人娘の世話をしながら、外回りの
営業をしていました。
妻が闘病中でやむを得ず、 上司の許可を得て、
営業車に娘を乗せながらの業務でした。
しかし、妻の入院が長期に渡ることになり、
期間の途中から娘を保育園に預けることにしました。

準備するもののうち、カバンはどうやら探したものの、
保育園から借りる絵本入れの袋とか、連絡帳袋とかは、
保育園の先生の話によれば、一般のお店でも
売ってるとのことでした。

翌日、園児服を求めに行ったお店で、 世間話的に
こんな時期に入園することになった事情など話しました。
そして、絵本入れの袋や連絡帳袋の在庫の有無を
聞いてみたところ、 やはり、季節的に置いて
ないとのことでした。

「端切れなどで作られたらどうですか」 と店員さんが
言いました。 やむなく、その売り場の近くにあった端切れを
物色していたところ、 その店員さんがこう言ってくれました。

「じゃあ、私が作ってあげましょうか。    
私にも子どもがいますから気にしないでください。  
すぐにとはいきませんが、今度の土曜日に店に来て、
私を呼んでください。作っておきますから」

まったく見ず知らずの、 それも初めて行った店の方が
そう言ってくれるなんて驚きでした。
その店は量販店であり、そう言ってくれた方は普通の
従業員の方だったので、 なおさら、半信半疑でした。

言われるままに、土曜日に伺うと、 かわいい柄の絵本袋と
連絡帳入れの入った包みをくださいました。 名
前用のテープまでつけてありました。 私は恐縮し、
適当な言葉も見つからず、 持参した菓子箱を出すのを
ためらったほどです。

菓子箱以上にお金と手間がかかっていることがわかり、
それをさらりと、まったくの他人にしてくれたことに対して、
その菓子箱があまりに貧弱に思えたからです。

後日、保育園の園長先生にその話をすると、
思わぬ返事、予想外のお話がかえってきました。

そこまで気を配ってくれる店員さんがいるお店、
そしてこの街

保育園の園長先生の話によると、 私の知り合い
という人から電話があったとのこと。 そ
の電話の内容は、これこれこういう袋だというが、
どのようなもので、 寸法や色はどんな感じか、
というお問い合わせだったとのこと。

「ああ、あの時の貴方のお知り合いという方が、
その親切な店員さんだったのね」 と園長先生も
驚いてらっしゃいました。
また、その方の子どもさんは、保育園や幼稚園に通う
小さなお子さんではなく、高校生だとのことでした。

てっきり、私の娘と同年輩の小さなお子さんが
いらっしゃってて、 同じような袋物を作ることが
あるんだろうな、と私は思ってました。

ところがそうではなく、わざわざ、私の娘のために
そこまでしてくれたのです。 改めて、この店員さんの
ご好意に感謝し、 こんな素敵な人が私の街にも
いた幸せを痛感したものでした。

4歳になった娘は、今もその袋を持って、
ニコニコと通園しています。 ・・・


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、     
  世は歌につれ、人生、絵模様、万華鏡…






P R :

Bu

隙間産業(ニッチ市場)

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