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2017年9月 3日 (日)

妄想劇場・歌物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


この歌は、昭和46年(1971年)に発売された
「港の彼岸花」というシングルのB面だった。
この歌詞を読むと、この「赤い橋」は
三途の川を渡る橋のような気がする・・・。

この歌は「理由」「背景」が分からないだけに、
怖い・・・

つまり「分からない」ことが 怖い原因・・・。
歌の背景を教えてくれると、少しは
怖くなくなるのだが・・・・


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まるでタイムトンネルにつながっているような・・・・
調べてみると、青森の恐山には三途の川を渡る
「赤い橋」があるという。
「恐山の赤い橋」とは、聞くだけでも恐ろしい・・・


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(3)
不思議な橋が この町にある
渡った人は 帰らない
みんな何処かへ行った
橋を渡ってから
いつかきっと 私も渡るのさ
いろんな人が この橋を渡る
渡った人は 帰らない


この詩のモデルが興味深い。
こんな歌詞を書く人は誰だろう?
「この町」とは何処だろう・・・? 
この橋の向こうは何処だろう ?

作詞の北山修さんは、「ザ・フォーク・クルセダーズ」
元メンバーだという。
今は九州大学大学院人間環境学研究院
教授という要職にある精神科医。

北山修さんがセルフカバーしたCDも出ており、
また「雨のしのび逢い」というテレビドラマの
挿入歌としても使われたという。・・・






浅川マキ

生誕:1942年1月27日
出身地 日本・石川県石川郡美川町
2010年1月17日、ライブ公演で愛知県名古屋市に
滞在中、宿泊先ホテルで倒れていたところを発見され、
搬送された病院で死亡が確認された。
死因は急性心不全とされた・・・
死没 2010年1月17日(満67歳没)

「渇いたブルースをうたわせたら右に出る者は
いない」と言われ]、ジャズ、ブルースやフォークソングを
独自の解釈で歌唱した。

作品に対する姿勢
浅川マキは音楽そのものに限らず音質、ジャケットデザイン、
ライナーノート、ポスターの配置などにも一貫した
美意識を持ち、終生その姿勢を崩すことはなかった。
・・・


Author :TAP the POP
http://www.tapthepop.net/       




コブクロ!感動のエピソード
黒田俊介と小渕健太郎の2人から成るフォークデュオ。
2001年3月22日にデビュー。老若男女から愛される
二人のハーモニー。

小渕は某会社の凄腕セールスマンだった
高校を卒業し福岡市博多区の某会社に就職。
その後大阪支店に転勤。ハイスピードで主任になる。

小渕は関西全営業マンの中で、トップの成績を取る。
何か息抜きはないかと週1回、土曜の夜だけ、
堺の商店街で路上ライブを行う。




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毎週土曜日に単独で路上ライブをしていた小渕と、
ストリートミュージシャンをしていた黒田が、
堺市の堺東銀座通り商店街で出会い意気投合。

小渕が黒田に楽曲を提供することになったが、
黒田のギター演奏が未熟だったこともあり、
小渕がギターを弾きコーラスをつけるサポートをした。
このスタイルに相性のよさを感じた黒田は小渕に
「一緒に組もう」とユニット結成を持ちかける。

ネーミングのアイデアはお笑いコンビのFUJIWARA
ユニット名は2人の名字、
小渕(コブチ)と黒田(クロダ)でコブクロ。

お笑いコンビのFUJIWARAから来ていることを
明かしている


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コブクロ結成のきっかけになった曲「桜」
路上で初披露したときに客にあまりに感動されてしまい
「オリジナル曲か?」と聞かれたが、反応の大きさに
オリジナルだと言うのが恥ずかしくなって「ミスチルの
インディーズ時代の曲です。」と答えてしまった。

発売後にフジテレビ系ドラマ『Ns'あおい』
(2006年1月 - 3月)の主題歌となり、
翌2007年春までのロングヒットとなる。

コブクロ所属事務所の社長「坂田 美之助」とは
忘年会帰りに路上ライブをやっているコブクロに
声をかけたのがきっかけ。
翌年、彼らの才能に惚れ込んで事務所を作る。
社長もファンの一人だった。



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裏の名曲「遠くへ・・・」とは
小渕は18歳のときに母親を亡くし、その母親の死を
テーマにした曲。

2007年に「蕾」で日本レコード大賞を受賞した際
「この賞をまずどなたに伝えたいですか?」という質問に
「今日は、母親の事を歌ったと言ったのですが、
なんか(母が)一緒に歌っていた気持ちがすごく
強かったので、きっと一緒にこの賞を受け取って
くれてるんじゃないかなと思います」と答える。

「僕が 18で この世を去ったのは「あとは自分で
生きなさい」とまるで 役目を 終えたかのように、
なんにも言わず逝きましたね」という歌詞が
入っている。



蕾 (つぼみ)







あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 

桃の花 … 

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昭和10年(1935年)に、作詞・サトウハチロー、
作曲・河村光陽により作られました。

光陽は、しとやかで優しいメロディをつけ、
光陽の長女・順子が最初に歌い、
ポリドールレコードから発表されました。
歌は瞬く間に広まり、ひな祭りの童謡の定番となりました。

サトウハチロー、河村光陽の二人にとって、
共に出世作となりました。  
作曲家の河村光陽は、日本の音階を底流とした
作曲法で多くの名曲を誕生させ、「河村童謡」の
名で知られています。

作詞家のサトウハチローは、最初の夫人と離婚して
間もない頃、実母と別れて暮らす3人の子どもたちへの
心づくしから、大変立派なひな人形を子どもたちに
贈りました。

娘たちは嬉しくて、一日中おひな様のそばで
過ごしました。
サトウハチローが「うれしいひなまつり」を作詞
したのは、このひな人形を買った前後のようです。   

また、サトウハチローには、4歳年上の大好きな姉が
いました。嫁ぎ先も決まっていましたが、胸を患って
お嫁に行かずに18歳で亡くなりました。
色の白いお姉さんだったそうです。

サトウハチローは、幼児期は不活発でした。
腰の大ヤケドのせいで満足に歩けず、家の中で
遊ぶことが多かったようです。

成長してからは、中学時代から酒を飲み、野球に
熱中し、さらには不良になったことも有りましたが、
姉からはピアノの手ほどきを受け、詩的なものの
見方などの面でも大きな影響を受けました。  

こんな背景を知っているサトウハチローの次男
・佐藤四郎氏は、子供の頃この歌を聞いて、
「随分悲しい曲なのに、何でうれしいんだろう」と
不思議に感じました。

やがて、「ひとつのレクイエムなんだなあ」と思うように
なりました。その姉のことに触れない父を、四郎氏は
「ものすごく涙腺の弱い人だから、この曲が悲しくて
やりきれなかったのかも知れない」と思っていました。


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私には、この歌に因んで、こんな思い出が有ります。
…以前に、私の姪が小学校4年生の時、病気で
亡くなった悲しい出来事がありました。

その姪を偲ぶ法事の時、私の夫が「うれしいひなまつり」を
歌った時、会席の方が思いもかけず涙を流したのです。
辛い闘病の経過に思いを馳せたり、可愛かった姪を
偲びましたが、当時は、作詞者の悲しい思い出の
一面があるこの曲の生い立ちのことは知りませんでした。




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P R :

Bu

隙間産業(ニッチ市場)


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