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2018年6月12日 (火)

妄想劇場・歌物語

11


人生に失敗がないと、人生を失敗する。
(斎藤茂太)
努力する者は希望を語り、怠け者は不満を語る。


Hanabira11

東京都練馬区にある少年鑑別所で代々歌い
継がれてきた作者不詳の歌「ネリカン・ブルース」が、
ロカビリーブームの渦中で作られた東宝映画
『檻の中の野郎たち』の主題歌に決まったのは
1959年の春だ。

歌ったのは新人ロカビリー歌手の守屋浩、
メロディーを採譜してアレンジしたのは音楽監督を
担当した中村八大だった。

7月下旬に公開される映画にさきがけて、
レコード会社のコロムビアは映画と同じ
「檻の中の野郎たち」のタイトルで発売することにした。

だが鑑別所で歌い継がれてきたままの内容では
社会的にもまずいだろうという判断で、
映画の脚本を書いた関沢新一によって歌詞は
穏便なものになった。

これに目をつけたビクターが同じ「ネリカン・ブルース」を
もとにして、まだ無名だった坂本九で
「野郎たちのブルース」の企画を立てた。

東芝レコードもロカビリー・スターの山下敬二郎に、
そのものズバリで「ネリカン・ブルース」を歌わせて
レコード化した。 こうして3社による競作として
発売されることになった

「ネリカン・ブルース」が、1959年6月30日の
毎日新聞の社会面で大きく取り上げられた。
青少年不良化防止キャンペーンを連載していた
毎日新聞は、口から口へと歌い継がれる
「練鑑ブルース」のことを、少し前に「日陰の歌」として
紹介したばかりだった。

その批判的な記事が発端となって、「ネリカン・ブルース」は
社会問題になってしまう。
毎日新聞は「レコード会社に警告する」という社説を
7月1日に掲載した。

この機会にいいたいのは流行歌を作る人たちの、
ものの考え方の浅さについてである。
ヤクザを否定すればヤクザを取り扱っても問題はない、
というのがヤクザの歌をはやらせる口実になっているが、
実際には、ヤクザを否定することで、感傷的気分を
そそっているため、かえってヤクザを好ましいものに
感じさせている。

ぐれた女性の感傷を主題にして、やはり同様な気分を、
世間に与えている傾向もあるし、愚劣低級な歌の数々で、
一般の娯楽に暗い影をつくりすぎていることを、
反省してみてはどうだろう。

我々は「練鑑ブルース」の発売をとりやめるように
すすめると当時に、商売のために、流行歌を邪道へ
それさせているレコード会社に警告する。

(毎日新聞1959年7月1日) 報道をきっかけにして
法務省までがこの問題に口を挟んできたために、
どこのレコード会社も発売中止の判断を下さざるを
得なくなった。

そこであおりをくらったのが、後にレコード大賞に
選ばれた「黒い花びら」である。
「黒い花びら」は無名の新人だった水原弘の
デビュー曲で、山下敬二郎の「ネリカン・ブルース」の
B面として発売される予定になっていた。

東宝映画『青春を賭けろ』の音楽監督として
これを作った中村八大は、それまでの日本にはない
新しい歌ができたと自信を持っていた。

だが東芝レコード大賞の担当ディレクターや、
その同僚たちはみんな「変な歌だなあ」と口を
そろえたという。
日本で最初の3連符のロッカバラードだった
画期的な歌は、曲想もだがサウンドが新しすぎて、
レコード業界のプロたちにさえ当時は理解できなかった。

しかもA面の発売中止騒ぎに巻き込まれて、オクラ入り
しかかったのである。
だがそのことに納得がいかなかった中村八大は、
東芝レコードの制作と宣伝の責任者だった
石坂範一郎に会いに行って直訴した。

その結果ひと月後、「黒い花びら」をA面にした
水原弘のデビュー・シングルが発売された。
社内の宣伝や営業の担当者たちはその決定について
半信半疑だったというが、発売されると

「黒い花びら」はすぐに若者たちの支持を集めて
人気に火がついた。水原弘のハスキーな声の魅力と
安定した歌唱力、それら支えるジャズメンたちの
迫力ある演奏によって、「黒い花びら」は
大ヒットしたばかりか、その年に制定された
第1回レコード大賞でも堂々のグランプリに
選ばれたのだ。

Omizu

レコード会社が専属作家として抱える作曲家や
作詞家の先生ではなく、ジャズの世界や放送作家の
中から若くて瑞々しい感性を持った新しい才能が登場し、
将来性を認められたといえる。

フリーの若い作家たちが新鮮な歌を作って
大ヒットさせたという事実は、音楽業界の構造を
根本から変えていくイノベーションの第一歩となった。

作詞家として脚光を浴びた永六輔は、その時のことを
振り返ってこう語っている。
八大さんは学生の頃「ビッグフォー」というジャズバンドの
天才ピアニストとして、当時すでに大スターだったんです。

声をかけられただけで幸せというくらいでした。
その後、民間放送が始まった当初、ぼくがジャズ番組の
構成をしていて、八大さんからたまたま作詞をしないかと
誘われました。

どう書いたらいいかわからないぼくに、
「ぜったい書けるから」「とにかくやってみろ」と言って、
歌の付録が付いていた雑誌「平凡」を参考にって
渡してくれたんです。

それで書いたのが『黒い花びら』。
これが第1回のレコード大賞を受賞して、次々と
作詞の注文が来るようになった。

ぼくはおしゃべりをするように日常会話で詞を
書いてたんですけど、八大さんは、詞のムダな部分を
一切削ぎ落とし、見事な歌に仕上げてしまう。

歴史の先生にでもなろうかと思っていたぼくに、
作詞という一つの才能を見い出だしてくれた。
こうして「六・八コンビ」が書く新鮮な歌が、
日本の歌謡曲が進むべき道標になっていきました。







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1 空にゃ今日もアドバルーン
  さぞかし会社で今頃は
  おいそがしいと思うたに
  あゝ それなのに それなのに
  ねえ おこるのは おこるのは
  あたりまえでしょう

二・二六事件が起こった昭和11年(1936)に
テイチクから発売されました。
翌昭和12年公開の日活映画
『うちの女房にゃ髭がある』の挿入歌。
作詞の星野貞志はサトウハチローの別名。

発売後すぐに売れ始めましたが、映画のヒットで
火がつき、足かけ2年足らずで50万枚という
爆発的なヒットとなりました。

「ああそれなのに、それなのに」
「あッたりまえでしょう」は、当時の流行語となり、
子どもたちまでもが口にしたといいます。

しかし、同年7月7日の盧溝橋(ろこうきょう)
事件により日中戦争が勃発すると、
『あゝそれなのに』は戦時体制下に不謹慎だとして、
同じ年にヒットした渡辺はま子の『忘れちゃいやよ』
などともに販売禁止になりました。

不謹慎とした理由がよくわかりませんが、
出征兵士たちの新妻や恋人を思う気持ちが
刺激されて、闘争心がそがれることを恐れた
ものでしょう。
2曲とも戦後再発売され、かなり長く多くの人びとに
愛唱されました。

『あゝそれなのに』を歌った美ち奴は北海道出身で、
本名は久保染子。
14歳のとき、浅草で芸者置屋を営んでいた
親戚を頼って上京し、芸者になりました。

松竹映画『東京音頭』に端役で出たのが
きっかけとなって、レコード会社からスカウトされ、
やがて人気歌手となります。

『あゝそれなのに』は発禁になったものの、
その後歌った戦時歌謡『軍国の母』が大ヒットし、
人気歌手の座を維持します。

その人気は戦後も続きますが、テイチク歌手
・真木不二夫との内縁関係を解消する前後から、
自律神経失調症に苦しむようになります。

心身面でも生活面でも不遇の日々が続きましたが、
女剣劇役者・中野弘子の温かい友情に支えられて、
78歳まで生きました。

中野弘子は、美ち奴の四十九日を執り行ったのち、
あとを追うかのように亡くなったといいます。

Author :二木紘三



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