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2018年7月12日 (木)

妄想劇場・一考編

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



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熊本県菊池市役所に勤める野中英樹は、
あまりの揺れの大きさに、生まれて初めて「死」が
脳裏をよぎった。
いまでも思い返すだけで身震いしてしまうという。

4月14日の前震でもマグニチュード6.5が観測され、
菊池市役所ではすでに対策本部が立ち上がっていた。
連続で起きた地震に対応するため、菊池市役所の
全職員に緊急連絡があり、当時、広報担当であった
野中も招集された。

16日の本震の発生時刻は午前1時25分。
野中は妻と13歳の娘、そして8歳の息子を
停電した自宅に残し、役所に向かった。

役所に到着すると、電気は止まり、真っ暗な
状態のなか、大勢の避難者が押しかけてくる
非常事態だった。
給水作業を手伝う子どもたちに涙した

広報担当の野中の役割は、災害情報を収集・記録し、
それを発信することだった。
連日、朝早くから避難所や災害現場を回って
写真を撮り、無線やSNSなどを通じて災害状況を
市民と共有した。

対策本部の業務に従事するかたわら、徹夜しながら
地震や復旧情報に関する記事を書き続けた。

当時、避難所においては、被災者のプライバシーを
無視した報道が問題となり、マスコミに対する不信感が
募っていた。
カメラを首から下げていた野中も、新聞記者と
間違えられ、避難者からにらまれたり、憎まれ口を
たたかれたりすることもあった。 

本来なら、直接手足を動かして市民を支援したい
性分だったが、それでは広報担当としての役割は
果たせない。

汗を流す職員やボランティアの姿を目の当たりにし、
自分の存在意義に疑問や葛藤を感じる日々が続き、
次第に肉体的にも精神的にも限界へと
追い込まれていった。

そんなとき、野中は自衛隊が給水活動をしている
現場を取材する。
精神的なショックを受けた子どもたちを和ませるために、
自衛隊員が子どもたちと一緒にサッカーをしていた。

始めは塞ぎこんでいた子どもたちも、しだいに
心を開き、次々とやってくる給水車を見つけると、
給水作業を手伝おうとした。

子どもたちに給水の手順を教えるのは少し手間が
かかるのだが、自衛隊員は嫌な顔ひとつせず伝えた。
子どもたちが手伝うと、水を手にした市民が何度も
お礼を伝えて帰って行く。

お礼を言われる子どもたちもまた嬉しそうで、
人と人が寄り添う暖かみのある世界が突然、
視界に広がった。

その光景が映り込んだ野中の目には光るものがあふれ、
心の奥底から押し寄せるさまざまな感情に
抗うことができず、激しく決壊した。
以降、野中は気持ちを新たにして、伝えるべき事実が
まだまだたくさんあると、気力を振り絞って働き続けた。

自ら制作した動画は15万回以上の再生

震災が少し落ち着いた頃に、復興支援の取り組みの
ひとつとして、野中は自らが撮影から編集まで手がけた、
震災に関するドキュメントムービーをつくった。
自前で制作したことから、費用は動画編集ソフトの
ライセンス料しかかっていない。

8分ほどの動画のなかでは、被災状況を伝える映像は
極力減らし、被災地に寄り添い、後押しができるような
構成を心がけた。

動画には1000人を超える市民や支援者が登場し、
復興に向け、「負けんばい、熊本!」を発する
前向きな表情が映し出されている。

もちろん、菊池市をサポートしてくれた全国の
支援者に感謝の意を示すことも忘れなかった。

震災から半年後の11月には動画は完成していたが、
まだ震災から立ち直れていない市民も多かったため、
野中は公開の時期を冷静に見定めた。

年明け以降、復興に向けたポジティブな空気が
広がるのを実感すると、地震への関心が高まる
阪神・淡路大震災(1995年)が発生した1月17日に
動画を公開することを決めた。

公開には一抹の不安もあったが、
「前向きになれる映像をありがとう」
「忘れないことの大切さを知りました」といった
ポジティブなコメントが寄せられ、野中はほっと
胸をなでおろした。

動画は大きな反響を呼び、市民はもとより
県外の公的団体や民間企業からも研修やイベントでの
上映依頼が殺到した。
マスメディアにも紹介され、動画は15万回以上
再生されている。

「税金泥棒」はラクではない

野中には「ひそかな野望」と称するものがある。
それは公務員の本当の魅力が理解されたうえで、
なりたい職業の上位にランクされるというものだ。

いまでも公務員は人気職業の筆頭にあがるが、
その理由として「ラク」や「安定」というものが多くを
占めることを、野中は好ましく思っていない。

公務員の仕事について、野中の印象的な言葉がある。
「『税金泥棒』なんて言われることもありますが、
思っているよりラクではない『泥棒』ですよ(笑)。

ただ、公務員は人の幸せのために働くことができ、
結果的にそれが自分の幸せにもつながるとても
恵まれた仕事です」

野中の高い志がその言葉に凝縮されていた。




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岩崎宏美、美川憲一、五木ひろし、森進一、
北島三郎、志村けん……。
ものまねタレント・コロッケさんのレパートリーは
300を超えるといわれています。

いまや、ものまねの世界で押しも押されもされぬ
存在のコロッケさんですが、そのコロッケさんが
長い間、周囲に話さなかった事実があります。

それは右耳が聞こえないことでした。

コロッケさんが中耳炎になったのは小学校2年生の時。
しかし、そのことを家族には話さなかったそうです。
家がとても貧しく、女手一つで2人の子供たちを
育てる母親のことを思うと、どうしても言い出せ
なかったのだとか。

それでも、耳の痛みはその後も時々起こり、
中学2年の時、突然耳鳴りがして右耳に激痛が走り、
倒れ込んでしまうのです。

そのまま入院となり、治療の甲斐なく右耳の
聴力は失われてしまいます。

母は「大丈夫ね?」と声を掛けてくれましたが、
その表情はとても辛そうでした。
母は痛みを打ち明けられずにいた僕の気持ちを
分かってくれていたでしょう、

そうさせてしまった自分を責めていたに違いありません。
僕はと言えば、落ち込んだのは本当に一瞬でした。
「左耳が聞こえるからいいや」とすぐに気持ちを
切り替えていました。

両耳が聞こえることを期待するのではなく、
片耳になってどうすべきかを考えていました。

自分から先回りして相手の右側に座る、
それもふざけたりしながら相手に気づかれないように
自然な形で振る舞う、という技術をいつの間にか
身につけていったんです。

この時の呼吸は、その後、お笑いの世界に
入ってからも大変役に立ちました。

「この言葉だけは覚えておきなさい」

そんなコロッケさんの原点とも言える言葉があります。
「この言葉だけは覚えておきなさい。
これを覚えておけば大丈夫だから」と母親が
教えてくれた「あおいくま」の教えです。

「あせるな」
「おこるな」
「いばるな」
「くさるな」
「まけるな」


この5つの言葉は、その後の人生の様々な
局面でコロッケさんに大きな力を与えます。
中学生になった頃から芸能界に強い憧れを
抱くようになり、19歳で熊本から上京。

その後、六本木のショーパブでものまねを
披露しながら芸能界入りの機会をうかがいましたが、
なかなチャンスに恵まれません。

小さなアパートに住んで質屋通いを続ける
コロッケさんを励まし続けたのが「あおいくま」の
教えだったそうです。

コロッケさんの名を不動のものにしたのは
1982年の「ものまね王座決定戦」での優勝。
この時、母親から言われた「これからたい
(おまえはまだまだこれからなんだよ)」という
言葉はコロッケさんに1つの気づきを与えます。

それまでの僕は「あおいくま」の言葉を他の誰かを
対象として考えていました。
○○さんに対して怒るな、○○さんに負けるな、
○○さんに威張るな……。

しかし、それはすべて他人ではなく、自分自身に
向けての戒めの言葉であることに、ようやく
気づくことができたんです。

「相手が一番、自分は二番」というコロッケさんの
人生観はこのような中から生まれたのです。

・・・ ・・・



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