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2018年9月

2018年9月30日 (日)

妄想劇場・妄想物語

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
  真実もある。・・・


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普通の女の子」の領域を守りたいと欲しつつ、
巧みに自分の性的「商品価値」を演出するAV女優たち。
男性の眼差しの二面性を意識し、二つの領域を
行き来するLogo1311111を通じて見える日本の
「おじさん社会」・・・。

Logo1311111 という興味深い存在


かつて女子高生として、そして女子大生、OLとして
渋谷の街に慣れ親しんできた彼女等は、
「性の商品化」の現場が自分から「地続き」のところに
存在するという感覚を持っていた。

つまり、学生としての日常や家族、大学や企業に
続く道からも逸脱せずに「性の商品化」の現場に
加担できる仕組みが整っていた。

特に女子高生の商品価値は高く、サラリーマンたちの
おごりで飲み食いしカラオケを楽しむ女子高生もいれば、
マジックミラー越しにいる見ず知らずの男性に
ほほ笑みかけ、下着を脱ぐ姿を見せてその下着を
売りさばくことでお小遣い稼ぎをする女子もいた。

自らの商品的価値を意識して利用しながらも、
完全に「逸脱者」のレッテルを貼られないための
線引きはする。

「誇りと自由意志」を持ったプロになるまで

Logo1311111はとても饒舌な存在である。
本業であるアダルトビデオの中で、あるいは
雑誌を開けば、彼女たちはあらゆる問いかけに対し、
流暢に自らのストーリーを語りだす。

彼女たちの仕事は、カメラの前で○行為をして、
そのコンテンツを試聴する者達の性的興奮を
煽ることである。

しかし、彼女たちの具体的な業務はそれにとどまらず、
雑誌やイベントに露出して宣伝活動をするのは
当然であるが、メーカーに営業に行ったり、
各種の打ち合わせや監督面接などをこなして
初めて、Logo1311111の仕事は完成する。

彼女たちが業務の一環として行う面接や、
彼女たちの「ベテラン化」の経験が、Logo1311111
より強くにしていく様を描いた。

数々の面接や打ち合わせの中で、頻繁に自分の
性格や好み、Logo1311111になった理由を問われ
答える中で、彼女たちはとしての「語り」を
獲得し、「キャラクター」を確立し、誇りと自由意志を
持ったLogo1311111として歩き出す。

世間一般に見える「好きでLogo1311111をやっています」
という意志をもったLogo1311111の成立過程は、
決して誰かしらの意図的な作為にのみよるのではなく、
あるいは彼女たちがそういった存在に最初から
生まれているわけでもなく、業界の仕組みや
業務内容が時に偶発的に作用してできあがって
いるのである。

男たちの「処女信仰」の中で別の価値基準を生み出す
ただし、ひとつ視点を上にずらして見てみると、
当然彼女たちをその姿にまで押し上げる業界の
システムは社会の眼差しを大きく反映していることも
確かである。

例えば、後々人気が上昇する稀な例をのぞいて、
Logo1311111の価値はデビュー作が最も高く、
ゆるやかに下降していくことになる。

それはギャランティに色濃く反映されるのだが、
そこには当然、若さ・新しさ・経験のなさに価値を置く
視聴者たちの処女信仰がある。

どんなに「Logo1311111としての技術」

(例えばカメラのアングルを気にしてフェ○チオを
するとか、レズもので攻める側の役ができるだとか、
言葉攻めが巧みであるとか、監督の意向を
すぐさま読み取って演技に昇華するだとか

そういうこと)が向上しても、それに比例して
ギャランティが高くなることはほとんどない。

むしろ、出演作が増えてデビューから時間がたつと
多くの場合、ギャランティは低下し、コンテンツ内で
求められる行為も過激さを増す。

それは世間であり視聴者である男性がAV女優に
求める価値が、技術の高さや経験ではなく、
初めてLogo1311111に出演する緊張感であったり、
若く初々しいことであったりするためにほかならない。

そして、何の技術も経験もない新人こそが
ヒエラルキーの頂点に位置するように
見えるその事情があってこそ、経験を重ねる
彼女たちは世間・視聴者とは別の価値基準を
彼女たちなりに用意しだす。

メーカーとの専属契約を持ち、高額なギャランティを
手にするいわゆる「単体Logo1311111」から、
契約がなく比較的安価なギャランティで出演する
「企画Logo1311111」になったり、同じ
企画Logo1311111でも新鮮味がなくなり、

ギャランティが低下して一般的な意味での価値が
下がったりするその中で、彼女たちが
「新人Logo1311111としてちやほやされる」
ことよりも、監督やスタッフに重宝されたり、

新人では務まらない役柄を自ら志願して
引き受けるなどしだす「ベテラン化」は
まさに、彼女たちが世間的な視点とは
別に用意する新たな価値である。 ・・・



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「おばあさんの宝物」
名古屋の老舗の豆菓子屋さん
豆福の営業マンMさんの朝礼でのスピーチ

僕が高校の時ですから、今から6年くらい前のこと、
母方の祖母の亡くなる直前のことです。

祖母は横浜の病院に長く入院していました。
その年の初夏のある日、「おばあちゃんが病院を
飛び出してしまった」という電話が名古屋の我が家に
かかってきました。

祖母は闘病生活が続く中、いつも「病院を出たい」
を繰り返していました。
長い病院暮らしは祖母を偏屈な人間にして
しまったのでしょう。
またか、と家族は思いました。
僕が横浜へ行って、祖母を探すことになりました。

横浜の病院に駆けつけて詳しく聞くと、その日の朝方、
いつのまにか祖母はいなくなったとのこと。
心当たりは? 祖母が住んでいた家は取り壊すことになり、
入院前に住んでいたマンション。

もちろん前に住んでいた家も、よく行ったパチンコ屋も
回りましたが、見つかりません。

家族で心配していたところへ、ひょっこりと祖母が
帰ってきました。びっくりした家族が祖母に「どうしたの? 
どこへ行ってたの?」と聞いても、祖母は
「軽く散歩に行ってきたの」というばかり。

その1週間後に祖母は亡くなりました。

それから5年後の昨年の秋、見知らぬ人から
1通の封筒が届きました。
文面は「私は横浜の解体業者の息子です。

横浜の家を解体していた時のこと、土の中から紙製の
菓子箱が出てきました。
何やらとても大切そうなものに見えたので、これだけは
持ち帰りました。
中を開けると、幾通ものハガキや手紙。これはその
差出人へと思い、お送りする次第です」

下手くそな字、誰が書いたハガキだ!
と手に取ると、それは僕が祖母あてに書いた
ハガキだったのでした。

その時になって病院から抜け出した祖母の
行く先がわかりました。
死期を悟った祖母は住み慣れた自分の家に
戻ったのです。

何度も読み返した自分あてのハガキ、
それは自分の宝物。
祖母は宝物を土に埋めに行ったのです。

なぜこんなに時間がかかってこのハガキが僕の
手許に戻ったのか、わかりません。
でも、この解体業者の息子さんの心づかいは
うれしかった。

ハガキや手紙は何度も読み返すことが出来るのだ、
当たり前のことがとても大切に思えました。


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2018年9月29日 (土)

妄想劇場・番外編

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



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認知症の症状もある祖母(86才)を在宅介護
しているライター・奥村シンゴ氏。

突然、行き先を知らせず出かけようとすることが
増えてきた祖母に、付き添ったり、その後の
様子を見たりしているうちに、あることに
気づいたという。

ひたすら歩く祖母の向かった先は・・・

「徘徊」とは、認知症の症状の一つで、
見当識障害や記憶障害などの影響で起こることが
多いと言われてきたが、最近は、認知症の人が
出歩く場合は、「徘徊」と呼ばないという動きも
あると聞くが、伝えやすいように、
祖母の場合は「徘徊」とする。

数日前の午前8時頃の出来事だ。
祖母が「私はここにおっていいんかいな?」
と言い出した。

私は「そりゃそうやん、この家ばあちゃんの家やで」
と返したのだが、祖母は「ちょっとね、行きたいところ
あるの付いてきてくれない?」と言う。

「今日は特に暑いし、もう少し涼しくなってからいこ」
と説得したが、納得しないで出かけると言うので
付いて行った。

この前寄った郵便局とは真逆の方向、山の方に
向かってひたすら歩く祖母。
朝方とはいえ30度は超えていたはずなので、
何度か「ばあちゃん帰ろ、署いし」と声をかけたが、
私の思いとは裏腹にスピードを早める。

祖母は間質性肺炎や変形性膝関節症も患っており、
普段は片杖で20分位歩くのがやっと。
咳こむことも増えてきたが、この時は一切なく
ひたすら歩き続けた。

道順も祖母が「ここを右」、「ここを左」、
「ここを真っ直ぐ」と言うのに従い、だまって
そのまま付き添い、結局40分近く歩いた。
そして、着いた先は駅だった。・・・

祖母の足がピタッと止まり「ここなの、お父さんと
お母さんがいてねえ、ここの家族もいてねえ、
あんたを一度連れて来させたかったのよ。
よかった」と笑顔で話す。

私はとっさに「そうか、ここやったんか。
来れてよかったな、久しぶりに来れてよかったわ」
と話を合わせたが、どうやら第二次世界大戦中に
疎開していた故郷の富山と駅を勘違いしている
ようだった。

目的地に着くなり倒れ込む祖母

その直後、祖母は私に倒れこむようにもたれかかって
きたので、至急タクシーを呼び家まで連れて帰った。
家に戻ると、祖母は私が差し出したポカリスエットと
お茶を紙コップ1杯ずつ飲み、しばらく椅子に座り、
テレビを観ていたが「ちょっと少し横になって
ええかな?」と言い、1時間弱寝た。

そして、起きてくると「あれ?あんた今日
来てたんかいな?」と、同居する私とさっきまで
一緒にいたことさえも忘れてしまった様子。

「昨日ね、もう一人の男の子と一緒に富山に
行ってきたの、いっぱい歩いたけどね楽しかったわ」
と言う。

もう一人の男の子というは、誰のことなのか謎だが、
「ばあちゃん、一緒に行ったのシンゴ(私)やで、
覚えといてや」と冗談交じりに答えると、祖母は
「あら、そうやったかいな?
私も頭がボンくらになっちゃったね」と笑う。

認知症が進行してくると、30分程寝ただけでも直近の
出来事を昨日の事のように言ったり、忘れたり、
昼夜逆転も増えてくるという。
祖母の例も典型的な症状なのかもしれない。

一緒にいてあげるのが一番の対策かも

こういった祖母の「徘徊」は半年程前からはじまり、
現在週2回、1日で多い時に4~5回発現している。
分析すると、必ず朝方かデイサービスなどの
介護施設から帰宅した直後のどちらかで、
私や時々来る母親が家事などで忙しくしている
時間帯だ。

「誰も相手にしてくれない」というところから、
祖母の不安が大きくなって混乱し、自分の居場所を
求めて、どこかへ出かけて行くのではないか。

GPSをつけたり、住所や名前を服や靴につけたり、
介護施設を利用したり、気持ちを落ち着ける薬を
飲ませたりするなど、「徘徊」への対策はいろいろ
あるだろうが、

祖母の場合は、できる限り寄り添って、
一緒にいてあげることで、不安な気持ちが落ち着き、
結果、「徘徊」そのものを減らす一番の対策に

なるのかもしれないが?。・・・


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一夫多妻制への憧れを口にしようものなら
猛批判を浴びかねない。
一方で、人類の歴史を見れば一夫多妻制の時代が
長かったことは厳然たる事実だ。

法やモラルに基づく判断は別として、どちらが人の
“本来”の姿なのか。そんな究極の問題に自分なりの
“答え”を出した男性がいる。

「本妻はバリで2人の子どもと一緒に生活し、
日本の自宅には第2、第3夫人が暮らしています。
本妻は49歳で結婚して15年、第2夫人は40歳で
同じく11、12年経つかな。

第3夫人は35歳で今年5月に来たばかり。
日本の法律上、重婚は認められていないので、
本妻とは入籍し、第2、第3夫人は養子縁組の
形をとっています」

そう話すのは、香川県高松市在住でコンサルティング
会社を経営する藤田隆志氏(64)だ。
これまでに4度の離婚を経験。
本妻との間の2人を含めて6人の子どもがいる。
過去には13人と同時交際していた時期もあるという。

「今の第3夫人と“入籍”したのをきっかけに、
3人の妻以外の女性とは一切の肉体関係を
断つことにしました。

同時に妻たちとのセッ○スも変わりました。
以前は、“公平にしなければ”と思って、ほぼ毎日
全員とセックスしていたんですよ。

1人終わったらシャワー浴びて、すぐに別の1人。
もちろん薬も飲みません。
でも、今はしんどくなったので、僕がエッチしたい時だけ。
妻たちとは基本エッチの拒否権はないという約束を
交わしています」

いくらセッ○ス相手を減らしたといっても、64歳にして
3人の伴侶を持つだけあって並外れた性力の
持ち主である。

「一夫多妻がなんでできるかというと、
スケベだから(笑い)。
僕は女性がイキやすくなるように開発するのが
好きなんです。

こちらがしっかりリードして、女性のスケベさを引き出す。
女性は脳で『イク』ので、意識を変えると何回でも
イッてもらえるようになりますよ」

夫人になる女性とは互いに“お試し期間”を
設けているという。

「まず3か月一緒に暮らしてみます。
本妻と子どものいるバリにも連れて行って、
妻同士がお互いにうまくやっていける感触があれば、
養子縁組する。
同棲しても、入籍までいかなかった女性も
何人かいます」

それでも、3人の妻たちの人間関係は気になるところ。
夫が“別の妻”とセッ○スすることに抵抗感は
ないのだろうか。

藤田氏に寄り添う第3夫人・陽子さんが、
はにかみながら答えた。
「あまりそこは考えないようにしてますね。
“誰かと”というところに注目するより、
彼との信頼関係が大切なので。
母も“あなたに任せる”と言ってくれました」

最後に藤田氏は「世の中から理解されないのは
わかっています」としつつ、こう断言した。

「不倫とか浮気がなくなることはないですよ。
一夫一婦制はどこか人間の本能と矛盾している
ところがあると思う。

自分は世間体を気にしないので、甲斐性の範囲で
やりたいようにさせてもらっています。
いつ僕が亡くなっても、彼女たちと子どもが安心して
老後を過ごせるだけのものは残してあげたい。

そこまで考えるのが一夫多妻をやるうえでの
責任であり、愛ですね」


愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る


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2018年9月28日 (金)

妄想劇場・番外編

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・


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最近の熟年夫婦は“セックスレス”だと聞く。
50歳前後となれば、子育てを終えた一方で、
体の機能が衰え始め、夫婦関係が変化してくる。

でも、「性」は根本的な欲求のはず。
二人きりになるときこそ、性にどう向き合うべきか、
関係を築き直すチャンスだ。

変化が生まれる一つの節目は、50歳前後だろう。
子育てが落ち着き、夫婦の時間が増える。
会社では管理職などとして仕事の責任が増し、
親の介護など新たな問題も抱える。
何よりも体の衰えを感じ始める。

「女性は50歳前後に閉経して性交痛が生じやすく、
セックスレスの一因になる」

日本性科学会セクシュアリティ研究会代表で、
臨床心理士の荒木乳根子さんはこう話す。
荒木さんらは今秋、『セックスレス時代の中高年
「性」白書』を出版した。

性に対する意識を2000年と12年で比較調査した
内容で、中高年の実態が生々しくわかる。

例えば、男性はどの年代も「相手の欲求が自分より
乏しすぎる」と考える人が多く、
女性は「相手の欲求が自分より強すぎる」と
思う人が多い。
男性の半数以上が妻とセックスしたいと
思いながら、できていない。

荒木さんは「10年余りでセックスレス化が大きく
進んだ」と指摘する。
40~50代でみると、男性は2.5倍、女性は1.8倍に。
夫婦の別寝も、00年の2割から6割に増えた。

“レス”は、働く女性が増えるなど社会的環境の
変化が一因と考えられる。
疲れて帰宅すると、明朝のことを考え、
“する”気にならない。求める夫に、
妻がノーを突きつける。
“お勤め”意識が薄らいだのだろう。

もちろん、原因は疲れだけではないはずだ。
荒木さんは、こうも分析する。

「ノーの背景には、女性がセックスをよいものと
感じていなかったことがある。
女性が楽しいなら、出産の年齢を過ぎてから、
“お勤め”終了とならないはず」

『白書』では、“レス”の増加の一方で、
異性にひかれる思いや離婚願望が増えている
ことなど、さまざまな意識の変化を伝えている。

「性交は従来、結婚の中でのみ認められていましたが、
今は規範が崩れました。
ネットで異性と出会う機会も増えています」

(荒木さん)

セックスを求める中高年が抱く切実な悩みは、
体の衰え。男性の場合、勃起障害(ED)だろう。

日本性機能学会前理事長の丸茂健氏
(まるも腎・泌尿器科クリニック院長)は、
20~70代の約1500人を調査したことがある。

EDの自覚は40代まで1割以下で、50代2割、
60代4割、70代6割と跳ね上がる。

「加齢とともに勃起力が低下するのは自然なこと。
40~50代はEDになると、自ら泌尿器科を訪れます。
60代以上だと、妻から“もういいでしょ”と卒業を
促されることがあります。

最近は若い妻と再婚し、“これではまずい”と
慌てて駆け込む人もいます」

「是が非でも治療が必要とは思いませんが、
EDの陰に隠れた病気があることにも注意してほしい。
心筋梗塞、糖尿病、うつなどでEDとなる
ケースがあります」

クリニックには「性交中に妻が痛がる」と夫が
相談に来るケースもある。
中高年女性に多い悩みだろう。

日本性科学会理事長で産婦人科医の
大川玲子さんはこう話す。

「性交痛は50~60代に多い。
閉経に伴い、腟・外陰部が萎縮したり、
性的興奮反応である腟潤滑液が分泌され
なかったりすることが原因です。

また、“濡れる”には、心を開き、セックスを
楽しいと感じることが必要です」

愛情に満ちあふれ、質の高い性生活を送る夫婦は、
70代でも痛みが少ない例があるという。
愛撫なしの乱暴な挿入では、若い女性でも潤わない。

では、痛みがあるときにはどう対応すればよいか。
「例えば、潤滑ゼリーを腟の入り口に塗り、
滑りをよくする。
ゼリーが多めのコンドームなら、滑りがよいうえ、
性感染も防げる。

当学会の調査では、ゼリーを使う人は10年前の
7%から31%に増えた。
さらに積極的な方法には、ホルモン補充療法も
あります」

腟粘膜の萎縮を改善し、全身作用が少ない
エストリオール製剤(腟座薬など)が有効という。
ただ、女性ホルモンに感受性のあるがんには禁忌。
乳がんや子宮体がんを患った人は、婦人科医に
相談が必要だ。

大川さんは「挿入しなくても、腕を組んだり、
ハグしたりすることも、すてきな性的触れ合い。
性行為に対する意識を変えていくことこそ、
大切なのかもしれません」とも語る。

「性のことは気になっても口に出せず、タブー視
されがち。でも、高齢者施設に行くと、入居者の
性に関する相談が出ます。“生きるエネルギー”
となる、永遠のテーマなのです」

性は人間の根源の欲求で、それを満たしつつ
豊かな人生を送りたい。
家庭で社会で、もっとオープンに真剣に、
熟年の性のことが語られてもよいのでは
ないだろうか。
・・・


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5年前の冬、JR金山・コンコースでの出来事です。

夕方4時ごろ、そろそろ帰宅帰りの学生や
サラリーマンが増える時間帯でコンコースには
人が急ぎ足で改札口へと歩いていました。

すると、コンコース中央の端に女性が一人
うずくまり、その横で心配そうに声を掛けている
女性が目に飛び込んできました。

「大丈夫だろうか?」
と思った矢先に、 うずくまっている女性を
介抱していた女性が凛とした声で
「女性の方、手伝っていただけませんか?」
とコンコースに行き交う人々に呼びかけました。

私を含め周辺にいた4~5人の女性が、
その声に込められた緊迫感に吸い寄せられるように、
すぐその女性のもとに駆けつけました。

うずくまっている女性は妊婦でした。
同じ女性として、その状況が緊急を要することは
瞬時に理解できました。

集まった女性たちに、「皆さん、彼女と私を背に、
丸く囲むように立ってください。
そして着ているコートを広げ、通行人の視線から
守ってください」

彼女は冷静に、しかも的確に私たちに指示を
出しました。
時々、妊婦の苦しそうなうめき声に、 介抱している
女性の励ましが力強く響きます。

「生まれてこようとする命は、お母さんが守るのよ!
頑張って!」それから間もなく、通りがかった男性が
駅員に知らせてくれたので、 担架を持って
駆けつけてくれました。

駅員は、「もう、ここからは大丈夫です。
ご協力ありがとうございました」
と言いましたが、妊婦を囲んでいた女性たちは、
誰ともなくコートを脱いだかと思うと、 駅員室まで
運ばれる妊婦をコートで囲み、 通行人の視線から
守りサポートしました。

そして、妊婦を駅員室まで送ると、 手伝っていた
女性たちはそのまま、 何事もなかったかのように
改札口へと一人、また一人と消えていきました。

あざやかなお手伝いでした。
みんなハンサムウーマンたちでした。そして、

最初に「女性の方、手伝っていただけませんか?」
と声を掛けた女性も見事でした。

こんなことは、往来の多い駅では日常的な
ことなのでしょう。
そして、こうした人助けもあたり前なのでしょう。
その当時、新聞に載ることもなく、私もすっかり
忘れていました。

ところが、最近、同じ金山駅のコンコースで
足の悪いお年寄りがフラフラと、今にも倒れそうに
歩いているのを人々が追い越して振り向きも
しない様子を見て愕然としました。

もし、5年前のことが今起こったら、 妊婦は
どうなるだろうか?
ぞっとする思いで、 5年前の「出来事」を

投稿することにしました。・・・


愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る



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2018年9月27日 (木)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー



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むかしむかし、日本一の名工と名高い左甚五郎
(ひだりじんごろう)が、京都の知恩院(ちおんいん)
というお寺の本堂を完成させた時、それを見た
都の人たちが、そのあまりの見事さにこんな
うわさをしました。

「さすがは、左甚五郎。見事な出来だ」
「ああ、ここには、一点の欠点もない」
「しかし、あまりにも完全すぎると、それを知った
神さまが嫉妬(しっと)して、不幸を起こすと言うぞ」

もちろん、この言い伝えを知っていた左甚五郎は、
この仕事がまだ不完全であるかのように
見せかけるために、お堂の屋根の瓦を二枚、
わざとつけなかったのです。

そしてさらに自分が使っている唐傘(からかさ)を、
わざと本堂のわきに置いて帰りました。

さて、本堂が完成してからしばらくして、本堂で
偉いお坊さんの話を聞く会がもよおされました。
その日は、あいにくの大雨でしたが、その雨の中を
やって来た一人の子どもが熱心に話を聞いていました。

「まだ小さいのに、なかなか信心深い子だ」
話をしているお坊さんは、とても感心して子どもを
見ていました。

やがて話は終りましたが、大雨は少しもやむ
気配がありません。
そこでお坊さんは、本堂から出ていこうとする
子どもに声をかけました。

「この雨では、風邪を引いてしまう。この傘を、
持って行きなさい」
そしてそこに立てかけてあった甚五郎の唐傘を、
子どもに差し出しました。

すると子どもは礼儀正しく頭を下げて、こう
言ったのです。
「わたしは、このご本堂が建つ前からここの草むらに
住んでいた、濡髪童子(ぬれかみどうじ)という
白ギツネです。

住み慣れた家を奪われて、うらみに思っていましたが、
今日、お坊さまのお話を聞いて心を入れ替える事に
しました。

うらみは忘れて、これからはこのお寺をお守りします」
それを聞いたお坊さんはびっくりしましたが、
にっこり笑って言いました。

「そうか、ありがとう。それならここに祠(ほこら)を
建てて、そなたの住む所をつくってやろう」
白ギツネの濡髪童子はうなずいて傘を借りると、
降りしきる雨の中を山の方へと帰っていきました。

次の日、お坊さんが朝のおつとめをすませて
本堂から出てくると、本堂のわきの軒下に、昨日貸した
甚五郎の唐傘がちゃんと置いてありました。

お坊さんはにっこり微笑むと、白ギツネとの約束通り、
お寺の境内に小さな祠を建てて、濡髪堂
(ぬれかみどう)と名づけたのです。

左甚五郎の忘れ傘は、長い年月に紙が腐って
骨だけになってしまいましたが、今でも知恩院の
本堂に置いてあるそうです。

おしまい


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、
   そばで 地蔵が食べたがる



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大学2年生の春休み、ふらっとヨーロッパに
一人旅をしました。
ただ、イギリスでもフランスでも何か自分に
湧き上がるものがなく、 南へくだりすぐに
スペインまで入ってしまいました。

そこは本当に太陽のような国で、まわりの人・空気 
何もかもが温かく、人の行為にただ甘えながら
楽しく旅を続けていました。

1ヶ月経過し、もう旅も終わりという頃、
その出来事は起きました。

アルハンブラ宮殿で有名なグラナダという街に
深夜到着のバスで降り立ったとき、 それまでの
好天気と春の陽気はどこへやら、 4月なのに
ひどく冷たい嵐のような暴風雨に見舞われました。

もう旅も終わりとの安堵から、 ほとんどの荷物は
日本へ送ってしまった後で 傘や防寒具も
「旅の歩き方」さえももっておらず、 ひと気もなく、

方向もわからず、 最初に着いたホテルも入り口が
閉まって 誰も出てきてくれる気配もなく、
体は冷えてくるし、暗く冷たい夜の恐怖感や
自分の甘さに泣けてくるし、 かなりパニック状態に
なってました。

時間がどれくらい経過したかも全く覚えていません。
ふと気づくと目の前に、 かなり年老いた
おばあさんが立っており、 心配そうな目で
何かしゃべりかけてきました。

ところが何を話しているかさっぱりわかりません。
情けないことに自分はただ泣いているだけでした。

すると、そのおばあさんが僕の手をとって
歩き出しました。
どこをどう歩いたのかも覚えていません。

連れていかれたのは、ひどく狭い古びた
集落のようなところで 小さな部屋に6人も
家族で暮らしていました。

当時のスペインの失業率は25~30%近かった
と思いますし 相当に貧しいご家族ではなかった
かと思います。

警戒心の強い自分ですが、疲れと、 なんだか
そこに流れている空気に安堵して 泥のように
眠りました。

朝、目を覚ますと家族が皆、 心配そうに
覗きこんでいました。
恥ずかしそうに笑うと、子供たちが恥ずかしそうに
笑い返してきました。
とても皆澄んだ瞳が印象的でした。

すぐにおばあさんが、スープとパンを持って
きてくれて 皆で分け合って食べだしました。
夢中で食べた後で、おばあさんが食べて
ないことに気づきました。

自分が詫びると、くしゃくしゃの顔をもう少し
くしゃっとしながら 何か話しました。
「いいんですよ」と言ってくれている気がしました。

しかし、ひょっとして自分は、 今日食べるものにも
困っている家族から大切な食事を奪ったのではないか。
そう思うと自分はどんどん恥ずかしくなって、
居たたまれなくなっていきました。

そして「もう出発しなければ」と言って 逃げるように
その場を離れようとしました。
靴をはき、振り返って おばあさんの瞳をみた瞬間、
自分でもびっくりするような大声で

「ムーチャス・グラシアス!」
と叫んで家を飛び出していました。

落ち着いたら、また涙がでてきました。
名前も住所も聞いておらず、お礼のしようもありません。
20歳にもなってまともな行動ではないでしょう。

そのときは心の中がいっぱいで、歩きながら、
心の中で何度も何度も感謝を繰り返しました。

考えてみれば、薄汚れた格好をしたヒゲだらけの
謎の東洋人に対して 精一杯のものを与えて
くれたのだと思います。
助けて頂かなかったらどうなっていたのか。

20にもなって情けない話ながら、心の底から
誰かに感謝した初めての経験だったと思います。
・・・


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2018年9月26日 (水)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー




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むかしむかし、下野の国(しもつけのくに→栃木県)の
粕尾(かすお)と言う所に、名の知れた医者としても
有名な和尚(おしょう)さんが住んでいました。

夏の昼さがりの事、和尚さんは弟子の小坊主を連れて
病人の家から帰る途中でした。
「和尚さま、今日もお暑い事で」
「まったくじゃ。しかも蒸し暑くて、汗が乾かん」

二人は汗をふきながら歩いていましたが、突然、
ポツリポツリと雨が降り始めて、みるみるうちに
水おけをひっくり返した様な夕立になってしまいました。

「急げ!」「はい」
大雨と一緒に、いなびかりが走りました。
ゴロゴロゴロー!
「きゃー、かみなり! 和尚さま、助けてー!」

「これっ、大事な薬箱を放り出す奴があるか!」
「すみません。でもわたくしは、かみなりが
大嫌いなもので」 ゴロゴロゴローッ!ドカーン!!

すぐ近くの木に、かみなりが落ちたようです。
「わーっ! 和尚さま!」
「だから、薬箱を放り出すな!」
和尚さんは怖がる小坊主を引きずって、
やっとの事で寺へ帰ってきました。

「和尚さま。早く雨戸を閉めてください」
小坊主が言いますが、和尚さんはいなずまが
光る空をじっと見上げています。
「ほほう。このかみなりさんは、病気に
かかっておるわい」

「へっ? 和尚さまは、かみなりの病気まで
わかるのですか?」「うむ、ゴロゴロという音でな」
さすがは、天下の名医です。

その夜、ねむっている和尚さんの枕元に、
こっそりと忍び寄った者がいます。
それはモジャモジャ頭から二本のツノを生やし、
トラ皮のパンツをはいたかみなりさまでした。

でも、何だか元気がありません。
和尚さんのそばに座って、「・・・ふーっ」と、
ため息をついているのです。
それに気づいた和尚さんは薄目を開けて様子を
見ていましたが、やがて先に声をかけました。

「どうかしたのか? 何か、お困りの様じゃが」
和尚さんが声をかけると、かみなりさまは
和尚さんの前にガバッとひれふしました。
「わ、わしは、かみなりでござる」
「見ればわかる。それで、何か用か?」

かみなりさまは、涙を流しながら言いました。
「この二、三日、具合がおかしいのです。
どうか、わしの病を治してくだされ。お願いします」

「やっぱりのう」
「それでその・・・、天下の名医ともなれば、お代は
お高いでしょうが。こんな物で、いかがでしょうか?」
かみなりさまはそう言って、小判を三枚差し出しました。

しかし和尚さんは、知らん顔です。
「えっ! これでは、たりませぬか」
かみなりさまは、小判を五枚差し出しました。

すると和尚さんはその小判をちらりと見て、
『ふん!』と鼻で笑いました。
「わしの治療代は、うーんと高いのじゃ」
「そうでございましょう。何しろ、天下の名医で
ございますし。それではさらに、小判を追加して」

「いやいや。金の話は後にして、まずはそこへ
横になりなさい」「えっ、診てくださるんですか!」
かみなりさまは、大喜びです。

和尚さんは腕まくりをすると、かみなりさまの体を
力一杯押したり、もんだりして調べます。
「ひゃー! ひぇー!うひょー! 痛い痛い! 
助けてくれ~!」

かみなりさまは、あまりの痛さに大声をあげました。
その大声に驚いて、小坊主は部屋のすみで
震えています。「これ、小坊主!そんなところで、
何をしておる。

今度はお灸(きゅう)をするから、早く道具を
持ってまいれ!」急に声をかけられて、小坊主は
ビックリです。「和尚さま。何で、かみなりなんぞの
病気を診るのですか!かみなりは怖いから、
嫌です!」

「何を言うとる!さあ、お前もお灸の手伝いをしろ!」
「和尚さま。あんな人迷惑なかみなりなぞ、
いっそ死んでいただいた方がよいのでは」

「ばっかも~ん!!
どんな者の病気でも診るのが、医者のつとめじゃ!」
「うぅー、わかりました」

和尚さんは小坊主からお灸を受け取ると、
かみなりさまにお灸をすえました。
「うお~っ、あちちち、助けて~!」
あまりの熱さに、かみなりさまは大暴れです。

ところがお灸が終わったとたん、かみなりさまは
ニッコリ笑いました。「おおっ! 痛みがなくなった。
体が軽くなった。お灸をすえたら、もう治ったぞ!」

さすがは、天下の名医。「ありがとうございました! 
・・・で、お代の方は、さぞお高いんでしょうなぁ」
「治療代か? 治療代は、確かに高いぞ。・・・

じゃが、金はいらん」
「じゃあ、ただなんですか!?」
「いいや、金の代わりに、お前にはしてもらいたい事が
二つある。

一つは、この粕尾(かすお)では、かみなりがよく落ちて、
人が死んだり家が焼けたりして困っておる。
これからは、決してかみなりを落とさない事」
「へい、へい、それは、おやすい事で」

「二つ目は、この辺りを流れる粕尾川の事じゃ。
粕尾川は、大雨が降るたびに水があふれて困っておる。
川が、村の中を流れておるためじゃ。

この川の流れを、村はずれに変えてほしい。
これが、治療代の代わりじゃ。
どうだ? 出来るか?」
「へい。そんな事でしたら、このかみなりに
お任せくだせえ」

どんな無茶を言われるかと心配していた
かみなりさまは、ホッとして言いました。
「それではまず、粕尾の人たちに、
お札を配ってください。

お札を家の門口に、はってもらうのです。
それから粕尾川ですが、流れを変えてほしい場所に、
さいかち(→マメ科の落葉高木)の木を植えてください。
そうすれば、七日のうちにはきっと。

・・・では、ありがとうございます」
かみなりさまはそう言うと、天に登ってしまいました。
和尚さんは、さっそく村人たちをお寺に集めて
お札を配りました。そして山のふもとの目立つ位置に、
さいかちの木を植えました。

さて、その日はとても良い天気でしたが、
にわかに黒雲がわき起こったかと思うと
いなずまが光り、ザーザーと激しい雨が
降り出しました。
まるで、天の井戸(いど)がひっくり返った様な
大夕立です。

村人たちは和尚さんから頂いたお札をはって
雨戸を閉めて、雨が止むのをジッと待っていました。
こうしてちょうど七日目、あれほど激しかった
大雨がピタリと止んだのです。
雨戸を開けると黒雲はなくなり、
太陽が顔を出しています。

不思議な事に、あれだけの大雨にもかかわらず、
かみなりは一つも落ちませんでした。
「あっ、あれを見ろ!」

村人が指さすを方を見ると、昨日まで流れていた
粕尾川がきれいに干上がり、流れを変えて、
さいかちの木のそばをゆうゆうと流れて
いるではありませんか。

これでもう、村に洪水(こうずい)が起こる
心配はなくなりました。
かみなりさまは、和尚さんとの約束を
果たしたのです。

それからというもの、粕尾の里では落雷の
被害は全くなくなったという事です。

おしまい


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、
   そばで 地蔵が食べたがる



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ばあちゃんは、いつでも孫の僕を信じていた。

高校三年生の時の大学受験。
勉強不足で、自分でも分かっていた。
合格するはずもない。

僕が合格発表の日に実家を出発しようとしたとき、
「美味しい料理作って待っとるからね」
ばあちゃんは笑顔で声をかけてくれた。

顔中のシワが可愛く見えた。
僕は胸が苦しくなった。
僕には、ばあちゃんの笑顔を受け取る資格がない。

僕は当然のように自分の不合格を確認しに行き、
当然のように実家に戻った。
実家へ戻る途中、帰りたくなくなった。
ばあちゃんに面と向かって言いにくい。

僕は実家に着くと、ドアをそおっと開けた。
ばあちゃんは七十歳にしては異様に耳がよかった。
ドアの音に気づくと、バタバタと足音を
立ててやってきた。

「どうやった?」「あかんかったわ」と言った。
「え~?あらそうなの」
ばあちゃんは、とたんに表情を曇らせた。

「だから最初からあかんて、言うてたやんか!」
僕は思わず怒りがこみあげ、叫んでしまった。
もはやまともにばあちゃんの顔を見ることが
できなかった。

夕食のとき。ばあちゃんが僕の合格を
楽しみにしていたことは、食卓の上に並べられた
料理ですぐに分かった。
僕の大好きなぬか漬けもあった。
僕のせいで”残念会”になってしまった。

両親は「来年また頑張れや」と励ましてくれた。
しかし、ばあちゃんはひどく落ち込んでいる。
まるでばあちゃんが大学に落ちたかのようだ。

笑顔のときは可愛く見えたシワが、一転して
年齢を際立たせる。この表情が僕にとどめを刺した。
もうこんな思いはたくさんだ、心の中でつぶやいた。

浪人生活が始まった。
決意しただけあって勉強がはかどった。
しかし、はかどったのは夏までだった。
僕の体は重圧に負けたのだ。

顔と体中にアトピーが発症してしまう。
服を着替えるだけで、僕の皮がボロボロ落ちる。
床に広がった皮膚の残骸を見ながら思った。

「どうしてこんな目に」
現実逃避で布団から出るのをやめた。
僕は痛みに耐えられないとき、家族に
酷い言葉を浴びせた。

「こんな体になったのはみんなのせいだ!
なんとかしろ!」
これが唯一のストレス発散方法だった。
何がみんなのせいなのか、
理屈に合わない言い分である。

ばあちゃんにさえひどい言葉を浴びせてしまう日々。
何度も自己嫌悪に陥った。
それでもばあちゃんは、一番愛情を注いでくれた。

あるとき、ばあちゃんは白桃をむいて
僕に食べさせてくれた。
「ほんまに代わってやりたいわ」
ばあちゃんは、僕の傷だらけの体をさすりながら
言った。・・・

ばあちゃんの素手の温もりが僕の体に伝わってくる。
「き、きたないよ」僕は力ない声で言った。
「何言っとるの。あんたはばあちゃんの初孫よ。
大丈夫よ」

このひと言でばあちゃんの深い愛情を悟った。
ばあちゃんにとって、僕は醜く変わり果てようとも
初孫だった。

僕と一緒に喜び、僕と一緒に悲しんだりする。
僕の喜怒哀楽を共有することがばあちゃんの
生きがいだったのだ。

僕は立ち直り、勉強を再開した。
合格発表日。
僕は昨年とは全く違う心境だった。
落ちても悔いはないという”やりきった感覚”で
僕は実家を出発した。
笑顔いっぱいのばあちゃんに見送られながら

そして、僕は”必要な結果”を受け取ってきた。
僕は公衆電話に向かい、実家に電話した。
「もしもしばあちゃん?合格したよ!」

「え!本当に?よかったね~、よう頑張ったもんね。
気を付けて帰って来て。料理作って待っとるからね!」
ばあちゃんの声は喜びにあふれ、弾んでいた。
僕も喜びに打ち震えながら、受話器を置いた。

夕食は一年越しの祝勝会となった。
予想通り、ばあちゃんの喜びが食卓の上に
現れている。豪勢な肉料理などが並んでいる。

僕にとって、一番のご馳走もあった。
僕は一番初めにその”ご馳走”を箸でつまんだ。
「俺にとって最高のご馳走は、ばあちゃんの
ぬか漬けやでな」
僕はぬか漬けをご飯とともに頬張る。

ばあちゃんは、嬉しそうに微笑みながら席を立ち、
冷蔵庫から”白桃”を取り出してきた。
「デザートもあるよ」
僕は白桃が見えた瞬間、涙は見せまいと
心の中で涙した。

僕のソウルフード……。
ばあちゃんの素手の温もりが伝わった
白桃とぬか漬けだ。

ばあちゃんの手の温もりは愛情でいっぱいだ。
僕は実家を離れた今も、ソウルフードと出合うと
こう思う。「家族っていいな!」と。
・・・



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2018年9月25日 (火)

妄想劇場・一考編

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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「下座に生きる」18歳の孤児-(2)

京都・山科に一燈園という修養団体がある。
宗教法人ではなく、人間としての生き方を学ぶ
修養団体で、大正10年(1921)
西田天香さんが家々を回り、便所掃除をし、
うかつに生きていることをお詫びして
生活されたことから始まった集まりである。 

その天香さんに三上和志さんという高弟がいた。  
ある日、三上さんはある病院に招かれて講話に行った。

夜通しの看病

「おい、こっちを向けよ。
今日は一晩看病させてもらうからな」
すると少年は「チェッ、もの好きな奴やな」と
言いながらも、顔を向けた。

「ところで、お前の両親はどうした?」
「そんなもん、知るけ」  
嫌なことを聞くなと拒絶するような雰囲気だ。

「知るけって言ったって、親父やお袋が無くて
赤ん坊が生まれるかい」
少年は激しく咳き込んで、血を吐いた。

「おれはなぁ、うどん屋のおなごに生まれた
父無し子だ。親父はお袋のところに遊びに来ていた
大工だそうだ。お袋が妊娠したって聞いた途端、
来なくなったってよ」

お袋はおれを産み落とすとそのまま死んじまった」
「そうか」
「うどん屋じゃ困ってしまい、
人に預けて育てたんだとよ。
そしておれが七つのときに呼び戻して出前をさせた。

学校には行かせてくれたが、
学校じゃいじめられてばかりいて、ろくなことはなかった。
店の主人からいつも殴られていた。

ちょっと早めに学校に行くと、
朝の仕事を怠けたと言っては殴られ、
ちょっと遅れて帰ると、遊んで来たなと言って殴られた。
食べるものも、客の食べ残ししか与えられなかった。
だから14のときに飛びだしたんだ」

「何をして暮らしてきたんだい」
「神社の賽銭泥棒だ。だがな、近頃はしけてて
あんまりお賽銭は上がっていない。
そいで、新興宗教のお賽銭箱を狙ったんだ。

でも、直にばれてしまい警察に捕まり、
少年院に送られたが、肺病にかかって、
ここに入れられたんだ」

「そうか。いろんなことがあったんだな」

十四歳の時に、家を飛び出して、そして、神社の
賽銭泥棒になった。 卯一は何かを思い出すように、
遠くを見た・・・。 

「昔、おれが神社の床下で寝起きしていたころだ。
朝起きてみると、境内の大きな栴檀の木の下で
泣いている九つぐらいの女の子がいた。
おい、どうしたと近寄っていってもその子は
逃げないんだ。

ぼろぼろの着物を着たおれの姿を見たら、
大抵の子は恐ろしがって逃げるのにな。
『昨晩、おっかさんに叱られて、家を放り出されたの』
朝御飯は食べたのかと聞くと、
昨夜も食べていないという。

『ちぇっ、おれよりしけてやんの』と言いながら、
縁の下に潜り込んで、とっておいたパンを差し出した。
『これでも、食いな !』

するとその子は目をまん丸くして、
『えっ、兄ちゃんくれるの』と言いやがった。
おれのことを兄ちゃんって言ったんだ。
あの馬鹿たれめが。

『やるから早く食いな』って言うと、むさぼるように食った。
それでおれは おれの分も差し出して、
『これもやるから食いな』って言うと、それ食ったら
兄ちゃんの分がなくなるというんだ。

あの馬鹿たれが。いいから食えというとおいしそうに
食った。 『食べ終わったら、早う家に帰れよ』
と言ったが、その子は帰らんという。

帰らなかったら、おれみたいになっちまうぞと言っても、
『おっかさん、大嫌い。もう家には帰らん!』と言う。
脅かしたら帰るだろうと思って、帰らんと殴るぞ
と拳を振り上げると、家の方に逃げた。

追っ掛けると、その子は二つ目の横丁を曲がって、
豆腐屋に駆け込んでいった。

『お前、昨晩はどこに行ってたんだ。心配したぞ』
家の人がそういうのが聞こえてくる。
『ざまあ見ろ。帰りやがった。よかった、よかった』
おれはそう思って神社に帰ってきた。

でもなあ、でもなあ・・・」そこまで話すと、卯一は
涙声になった。「どうした、泣いたりして」
「おれはなあ、またもとの独りぼっちになって
しまったんだ」・・・

卯一はわあわあ泣いた。あの枯れ切った体の
どこから出るかと思うほどに泣きじゃくった。

「そうだったのか。そんなことがあったのか。
ごめんよ。思い出させちまって」
卯一は泣き止むと、意を決したように三上さんを
見据えて言った。

「おっさん。笑っちゃいかんぞ」
「何じゃ。笑いはせんぞ。言っちまいな」
「あのなー、一度でいいから、お父っつぁんと
呼んでいいかい」

三上さんは思わず卯一の顔を見た。
この機会を逃すまいと真剣そのものだ。
「ああ、いいよ。わしでよかったら、返事するぞ」
「じゃあ、言うぞ」「いちいち断わるな」

しかし、卯一はお父っつぁんと言いかけて、
激しく咳き込んだ。
身をよじって苦しんで血痰を吐いた。

三上さんは背中をさすって、介抱しながら、
「咳がひどいから止めておけ。
興奮しちゃあ体によくないよ」と言うのだが、
卯一は何とか言おうとする。

すると続けざまに咳をして、死ぬほどに苦しがる。
「なあ卯一。今日は止めておけ。体に悪いよ」
三上さんは泣いた。それほどまでして、こいつは
お父っつぁんと言いたいのか。・・・

悲しい星の下に生まれたんだなあと思うと、
後から後から涙が頬を伝わった。

苦しい息の下からとぎれとぎれに、とうとう
卯一が言った。「お父っつぁん!」
「おう、ここにいるぞ」
卯一の閉じた瞼から涙がこぼれた。
どれほどこの言葉を言いたかったことか。

卯一はもう一度言った。「お父っつぁん」
「卯一、何だ。お父っつぁんはここにいるぞ」  
もう駄目だった。大声を上げて卯一は泣いた。
十八年間、この言葉を言いたかったのだ。

わあわあ泣く卯一を、毛布の上から撫でて
さすりながら、三上さんも何度も鼻を拭った。

明け方、とろとろと卯一は寝入った。
三上さんは安らかな卯一の寝顔に満足し、
一睡もせず足をさすり続けた。

「おっさん、昨日、病院の人たちに
話をしたというてたなあ」
白み始めた早朝の薄暗がりの中で、
いつの間に目覚めたのか、卯一が言った。

「ああ」
「おれにも何か話してくれ」
「聞くかい」「うん、聞かせてくれ」  
「今朝は高校へ話にいかにゃならんので、
長い話はできんが・・・・。

卯一、お前は何のために、生まれて来たか
知っとるか」
「何じゃ、そんなことか。
男と女がいちゃいちゃしたら、子どもができらあ」  
「そんなんじゃなくて、生まれてきた意味だよ」

「そんなこと、わかるけ。腹がへったら、
飯を食うだけさ」
「飯を食うためだけじゃ、寂しかないか。
それだけじゃないぞ、人生は」 「・・・・・」
「誰かの役に立って、ありがとうと言われたら、
うれしいと思うだろう。あれだよ、あれ。

お前が昨夜から何も食べていないという女の子に、
パンをやったとき、その子はお兄ちゃん、ありがとう
と言っておいしそうに食べたろ。

それを見て、お前もうれしかったろ。誰かの
お役に立てたとき、人はうれしいんだ。
お前、いままで誰かの役に立ったかい」
この質問は酷だった。・・・

何かを考えているようだった
卯一は投げ出すように言った。「おれは駄目だ」
「どうしてだ」
「おれはもうじき死ぬんだよ。命がないんだ。

人の役に立ってって言ったって、いまさら何が
できるんだ」泣顔だ。  
「できる、できる。まだまだできるぞ」
「起き上がることもできないおれに何ができるというんだ」

「なあ、卯一。お前、ここの院長先生やみんなに
良くしてもらって死んでいける。
だから、みんなに感謝して死んでいくんだ。
憎まれ口をきくのではなく、邪魔にならないよう
死んでいくんだ。それがせめてもの恩返しだ」

「おっさん、わかったぞ。
これまでおれは気にいらないことがあると、
『院長の馬鹿野郎、殺せ!』って怒鳴っていた。
これからは止める。言わないことにするよ」

「そうか。できるかい。努力するんだよ」
「そのかわり、おっさんもおれの頼みを聞いてくれ」
「約束しよう。何だ、言ってみな」

「おっさん、いま高等学校に行くと言ったな。
中学校や小学校にも行くのか ?」
「行くよ」
「そうしたら、子どもたちに言ってくれ。
親は子どもに小言を言うだろうが、
反抗するなって。
おれって男が しみじみそう言ってたって」  

「反抗したらいけないのか」
怪訝なことを言うと思って聞き返してみると、
卯一はこう言った。  
「いやな、小言を言ってくれる人があるってのは
うれしいことだよ。

おれみたいに、言ってくれる人が誰も
いないってのは寂しいもんだ。
それに対して文句を言うってのは贅沢だよ」

「なるほど、そういうことか。わかった。
わしは命が続くかぎり、お前が言ったことを
言ってまわろう。お前も上手に死んでいけよ」
「それじゃ、これで帰るぞ」
「もう行くのか?」
「行かなきゃならん。高校で話をすることになっている」

「おっさん!」
「何だ」
「いや、何でもない」
「何でもなかったら呼ぶな」
「返事するのが悪いんだ。呼んだって返事するな」
「そんなわけにはいかんがな」
三上さんが立ち去ろうとすると、また卯一は呼んだ。  

「おっさん!」
「返事せんぞ。
もう行かにゃならんのだ」 そう言って、後ろ手に
ドアを閉めると、部屋の中から、
「おっさーん、おっさーん」と泣きじゃくる
声が聞こえた。

母を呼ぶ子どもの声のように、 「おっさーん、
おっさーん」といつまでもいつまでも聞こえていた。
卯一は、 三上さんが去ってから、その後を追うように、
号泣したのです。寂しかったんでしょうね。

毛布の下の合掌 

三上さんが院長室に帰ると、そこに院長先生がいた。
昨晩は家に帰らず、院長室のソファに寝たようだ。
「あなたがあの部屋で看病していらっしゃると思うと、
帰ることができなかったのです。

夜中に二度ほど様子を覗きに行きましたが、
夜通し足をさすっていらっしゃった。
頭が下がります」「いえいえ」と言っている時に、
院長室のドアが慌ただしくノックされた。

どうぞという院長の声に息せききって入って来たのは、
若い医師だった。「ちょっと報告が・・・・」という声に、
院長は座を立って、事務机の方で若い医師の
報告を聞いた。そして聞くなり、叫んだ。

「三上先生 ! 津田卯一がたった今
息を引き取りました」
「えっ!」  三上さんは茫然とした。
「でも、昨日は十日は持つとおっしゃっていたのに・・」
当直の若い医師が真面目な顔で切り出した。

「不思議なことがあったのです。
あいつはみんなの嫌われ者で、
何か気にいらないことがあると、
『殺せ ! 殺せ ! 』とわめきたてていました。

なのに、一晩で まるで変わっていました」  
「というと」と三上さんは聞き返した。
「今朝、私が診察に入って行くと、
いつになくニコッと笑うのです。

おっ、今朝は機嫌がよさそうだなと言い、
消毒液を入れ換えて、
いざ診察にかかろうとすると、妙に静かです。
卯一 ! 津田 ! と呼んでみましたが、
反応はありません。

死んでいたのです。
私が入って来たときと同じように、うっすらと 
微笑さえ浮かべていました。私はあわれに思って、
『お前ほどかわいそうな境遇に育った者は
いないよ』と言いつつ、
はだけていた毛布を直そうとしたのです。

ところが・・・・」 若い医師は信じられないものを
見たかのように、深く息を吸い込んだ。
三上さんもつられて大きく息を吸い込んだ。

「毛布の下で合掌していたんです !
あいつが、ですよ・・信じられない・・
・・合掌していたんです」  
涙声に変わっている。院長もうつむいている。
三上さんもくしゃくしゃな顔になった。

「・・・・卯一、でかしたぞ。よくやった。
合掌して死んでいったなんて・・・・
お前、すごいなあ・・・・すごいぞ」  
あたかもそこにいる卯一に語りかけているようだ。

「な、わしも約束は忘れんぞ。命のあるかぎり、
講演先でお前のことを語り、死ぬ前日まで
親御さんは大事にしろよと言ってたと言うぞ」
そこまで言うと、三上さんは泣き崩れた。

肩を震わせて泣く三上さんのかたわらで、
院長も若い医師も泣いた。
「卯一よお、聞いているかあ・・・・・。なあ、
お前の親のことを恨むなよ・・・。

少なくとも母さんは自分の命と引き換えに
お前を生んでくれたんだ。それを思うたら、
母さんには感謝しても感謝しきれんがな・・・・」

三上さんはしゃくり上げながら、
虚空に向かって話している。  
「それになあ、
お前に辛く当たった大人たちのことも
許してやってくれ・・・・。

わしもお詫びするさかいなあ・・・・。
みんな弱いんだ。同情こそすれ、
責めたらあかんぞお・・・」  
三上さんの涙声に、院長の泣き声が大きくなった。

誰も人を責めることはできないのだ。  
責めるどころか、お詫びしなければいけないのだ。
いさかい合い、いがみ合う そんな世の中を
作ってしまっていることに対し、こちらから先に
詫びなければいけないのだ。

そうするとき、和み合い、睦み合う世の中が
生まれてくるのだ。
病院を出て、次の講演先の高校に向かう
三上さんの肩に秋の陽が踊っていた。

あれだけ反抗的だった少年が死に際
三上さんと出会って、誰かの役に立つ為に
生まれてきたことを知り、
病院のみなさんに感謝して死ぬことで
彼は約束を果たしたのだった。

下座に生きる それはもっとも尊い
人としての行き方。・・・

終り



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アインシュタインが日本を訪問した時、
仏教について知りたいということで、
ある高名な僧侶と対談したことがありました。

その対談の中で、アインシュタインが
「仏さまとはどんなお方ですか」と尋ねたそうです。

そこで僧侶は、姥捨て山にまつわる伝説を
例にあげて、説明しました。 
姥捨て山の話は、小説「楢山節考」として
ご存じの方は多いでしょう。

食糧事情の貧しかったその昔、日本の
ある地域では一定の年齢に達した老人は、
口減らしのために山に捨てられるという
風習がありました。
そんな悲しい風習の残っていた頃の話です。

信濃の国の姥捨て山の麓に住むある若い
農夫が.老いた母親を捨てに行くことになったのです。
たとえ親思いの息子であっても、村の掟に
背くわけにはいきません。
背けば家族は村に居られなくなります。

若い農夫は村の掟に従って、母親を背負い篭
(かご)に乗せ、姥捨て山へと向かっていったのです。
ところが、その道すがら、背中に負われた母親が、
しきりに木の枝を折っては、道々に捨てていくのです。

これに気づいた若者は、「ひょっとして、母親は
山奥に捨てられる恐怖心に耐えかねて、
この落とした枝をたどって、また家に帰ってくる
つもりではないのか」と疑ったのです。

「気丈な母親でも、やはり最後は自分のことしか
考えないのか」と、少し蔑むような目で見ていました。

どのくらい歩いたでしょうか、
とうとう捨て場所と思しきところにやってきました。
息子は母親を背中から降ろし、別れを告げて
帰ろうとしました。

その時、母親は息子の袖を捕まえて言うのです
「いよいよこれがお前との一生の別れじゃ。
身体に気をつけるんだよ。

ずい分山奥まで入ったから、お前が家に
帰るのに、道に迷って困るだろうと思って、
私が来る道すがら、小枝を落として目印をして
おいたから、それを頼りに、無事家に帰るんだよ。

そして立派に跡をついでおくれ」
そう言って、母親は息子に手を合わせるのです。

その母親の姿を見て若者は泣き崩れました。
こちらは母親を捨てているのに、母はこちらを
こんなに憂いている。

こんな母をどうして捨てられようか、息子は
思わず、草むらに両手をついて、
「どうかこの背負い篭(かご)にお乗り下さい。
これから我が家に御伴して、一代の限り
お仕えいたします」と言って、再び母を背負って
山を降りたということです。・・・

日本には古くから次のような古歌が残っています。
「奥山に枝折る莱は誰がためぞ親を捨てんと
いそぐ子のため」

ここまで話をされた僧侶は、アインシュタインに、
「この母親の姿こそ、仏さまの姿であります」
と説いたのです。

年老いた母親は、このまま捨ておかれたら、
その夜のうちに凍え死ぬか狼のえさになるでしょう。
そうでなくても数日中には餓死するでしょう。

そんな状況にありながらも、母親は自分のことは
一切顧みないで、ひたすら我が子が無事家に
帰れるかどうかだけを心配しているのです。

母は、今まさに自分を捨てようとしている我が子を
見捨てることが出来ないのです。
自分を殺そうとしている者をどこまでも生かそうと
するのです。

これが仏さまの心だと言うのです。

涙を湛えてこの話を聞いていたアインシュタインは、
帰国するに臨んで、「日本人がこのような温かく
深い宗教を持っていることは、この上もない
幸せなことです。

日本に来てこんな素晴らしい教えに出会えたことは、
私にとって何ものにも勝るものでした」
と語ったそうです。
・・・


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2018年9月24日 (月)

妄想劇場・一考編

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



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Geza1111

「下座に生きる」18歳の孤児-(1)

京都・山科に一燈園という修養団体がある。
宗教法人ではなく、人間としての生き方を学ぶ
修養団体で、大正10年(1921)
西田天香さんが家々を回り、便所掃除をし、
うかつに生きていることをお詫びして
生活されたことから始まった集まりである。

天香さんの生き方は、当時京都大学、その他の
学生だった倉田百三、安倍能成、佐古純一郎、
山田無文、和辻哲郎などに影響を与え、
昭和の精神史を形作ったといえる。

その天香さんに三上和志さんという高弟がいた。  
ある日、三上さんはある病院に招かれて講話に行った。
ホールには患者さんや看護婦さん、検査技師、
医療事務員などが詰めかけて話を聞いた。

ベッドを離れられない患者はスピーカーを通して聞いた。
涙を誘う話となった。  
1時間ほど話して院長室に戻ると、
院長がいたく感動して、お願いがあるという。
何ですかと聞くと、院長は切りだした。

「実は私の病院に少年院から預かっている
18歳になる結核患者がいます。
容態は悪く、あと10日も持つかという状態です。
この少年に三上先生の話を聞かせてやりたいのです。

ただ問題なのは、両親も身寄りもなく、
非常にひねくれていて、三上先生の話を
素直に聞いてくれるかどうかはわかりません。

重体で病室からは1歩も出られないので、
こちらから出向くしかないのですが、
今日のような話をたとえ20分でも30分でも
聞かせてやりたいのです。

少しでも素直な気持ちになってくれれば・・・・」  
そう聞いて、三上さんは躊躇した。
「ちょっと話をしたぐらいで素直になるでしょうか。
そうは思えませんが」

「確かにそういう懸念はありますが、
仮に素直にならないでも、もともとです」  
そう言われると、断わることもできない。
話をしてみることになった。

では仕度をと言って、院長は大きなマスクと
白い上着を渡した。
「付けなければいけませんか?」
三上さんは躊躇した。  

ひねくれてしまっている少年の心を動かそうと
するものが、白い上着を着てマスク越しに
恐る恐る話をしても通じまい。  

「もしも伝染したらいけませんから。
開放性の伝染病ですから・・・・」 そう言われて、
三上さんは意を決した。

「伝染すると決まっているわけではありませんから、
付けないことにします。
その少年の気持ちを思うと・・・このままの方が
よいと思いますので・・・・」

院長に案内されて行ったところは病院の
一番奥にある隔離病棟で、五つある個室のうち
彼の部屋だけ使われていた。

院長に続いて中に入ると、六畳ほどの広さの部屋に
白木のベッドが一つ、
コンクリート剥き出しの寒々とした床の上に
新聞紙を敷いて、尿器、便器が置いてあり、
入り口には消毒液を満たした洗面器が置かれている。

げっそり痩せて頬骨が尖り、
不精髭を生やした少年の顔は黄色く淀んでおり、
目のまわりが黒ずんでいる。
黄疸を併発しているのだろうか。

「気分はどうかね」院長が話しかけたが、
少年は顔をそむけたまま返事しない。
「少しは食べているかい?」それでも少年は答えない。
うるさそうにしている。

「眠れるかね?」  
顔をそむけたまま答えようとしない少年の
向こう側に回って、三上さんが顔をのぞいて見ると、
憎憎しげな様子だ。

少年が答えないのをみて、院長は構わず言った。
「こちらにいらっしゃるのは三上先生というて
立派な方だ。私らは向こうでお話を伺って非常に
感動した。

お前にも聞かせてやりたいと思い、一人のために
というのはすまないと思ったけれども
無理にお願いして、来てもらった。
体がきついかもしれないが、
辛抱して聞きなさい。わかったか」

「・・・・・」少年は黙ったままだ。
「三上先生、どうぞ」と言われ、
三上さんは少年の仲間の言葉で話かけた。

「おいどうでぇ!」ところが、
うんともすんとも言わない。三上さんは怒鳴った。
「折角見舞いに来たんじゃねえか。
何とか言えよ!」

ところが、その声が終わるか終わらないかのうちに、
「うるせえ!」という言葉が返ってきた。
こんなに痩せた体のどこから出るかと思われるような
大きな声だった。

院長が小声で「こりゃ、駄目ですな」と言い、
「退散するしかないようです」と付け加えた。  
「そうですね」と三上さんも諦め、
部屋を出がけに「おい!帰るぜ」と怒鳴った。

そして引き手に手を掛け、もう一度振り返って見た。
すると、意外だった。少年が燃えるような目で、
こちらをじっと見つめていたのだ。

その目にどうしょうもない孤独の影が見えた。
人恋しいのに、その恋しい人が来れば、
本心とは裏腹に顔をそむけてしまう。  
それでいて、その人が去れば、後を追いかけたくなる。

素直な気持ちを表現できないのだ。
三上さんが向き直ると、少年は慌てて顔をそむけた。
三上さんはベッドのところまで引き返した。
顔を隠そうとする少年の顔を、伸び上がって
後ろから覗いてみると、涙が頬を伝っていた。
寂しい姿だった。

それを見た途端、三上さんは心を決めた。
今晩はここに泊まって、一晩なりとも看病しようと。
急いで廊下に出て、その旨を院長に言うと、
院長は語気強く言った。

「それはいけません。
開放性の結核ですからうつります」
「でも、わが子ならそうするでしょう。
お願いします」
「とは言っても・・・・しかし・・・」  

迷う院長に三上さんは再度言った。
「うつるかどうか、わかりません。
明日はどうなろうとも、今日一日は
真でありたいと私は思います。

今日一日真であれば、明日死んでも満足です」
そう言いおわると、三上さんは病室に戻った。
院長は追って来なかった。

短い坊主頭に、禅僧が作業するときに着る
作務衣に似た木綿の筒袖を着た三上さんは、
お世辞にも美男子ではない。
じゃがいものようにごつごつした丸顔に、
少年はすっかり心を許したようだった。  

「せっかく来たんだ。足でもさすろうか」と
三上さんが立ち上がると、
少年はいらんことをするなと気色ばんだ。

その病室には椅子がなかったので、
三上さんはコンクリートの床にじかに座っていたのだ。  
「まあ、そういうな。好きなようにさせてもらうぞ」

足元に回り、毛布をめくると、
腐敗したような甘酸っぱい臭いがムッと鼻をついた。
枯れ木のような細い足で、骨の形が見えるようだ。
関節はふくれあがり、肌はさめ肌のようにかさかさで、
窪んだところには黒く垢が溜まっている。

さすがの三上さんもたじろいだ。
この足をさするのかと思うと躊躇した。
そんな気持ちを乗り越えてさすっていると、
少年が語りかけて来た。

「おっさんの手は柔らかいなあ」
「何言っとるんじゃ。
男の手が柔らかいはずがあるかい」  
「うんにゃ、柔らかいぞ。お袋の手のようだ」

恐らく、人の肌に触れたことも
触れられたこともないのだろう。
生まれて初めて人に触られて、
少年の心は溶けた。
うれしい。こんなうれしいことはない。
人を身近に感じてたまらないのだ。

人間不信の壁

「おっさん、あのなー」
「なんじゃ、卯一」少年は卯一と言った。
「笑っちゃいかんぞ」「笑うもんか。
早く言え、もったいぶるな」

「やっぱ、やめとこ。おっさん、笑うからなあ」
「まあ、言いたくなければ言うな。

ところで、卯一、夕食はどうした?」
「もうすぐ賄いのおばさんが持って来てくれるよ」
「だったら、わしが取りに行ってくるよ。
手が空いているからな」

「おっさん、ついでに やかんもらって来てくれ。
よく飲み込めないものだから、
お茶を飲まんと吐いてしまうんだ」

「よっしゃ」と炊事場に行くと、
小さなお盆が渡された。
鍋に入った粥、しなびた梅干し二個、
小さく刻んだ沢庵が少々。・・・

余りにも少ない食事に驚いて、
「えっ、これだけですか。お汁はないんですか?」
と聞くと、前はスープも出していたが、
少しでも脂気があると吐いてしまうので、
いまは出していないという。

「そうですか・・・」
納得できないままに食事を運ぶと、
それでも卯一は待っていた。  
「おっさん、一人では食べられん。
そこについている匙でお粥をすくって、
口に入れてくれ。
でもたくさんだとむせてしまうから、
ちょっとずつだよ」

三上さんは言われた通り、口に粥を運んでやった。
それでも三回、四回、匙で食べたら、
もういらんと言った。
「吐きそうだ。はやくお茶をくれ!」  

「何だ、これっぽっちか。
もっと食べんと元気にならんぞ」
「もうええわい。どっちみちおれは死ぬんだ。
どうでもええ」

「しょうがないなあ。でも、ここに置いておくから、
後で食べたくなったら、そう言え」と
三上さんはお盆を床に置いた。
ごほごほむせていた卯一は、咳が止むと聞いた。

「おっさん、夕食はどうするんだ」
「自分の体も動かさんもんが、人の心配するな」
「でも、お腹がすくだろう」
「すいても、ないもんは食べられんだろう」と
三上さんがつっぱねるように言うと、
卯一が大きな声をあげた。

「おっさん、おれの残りがあったろうが !」
馬鹿言え ! それはそうだが、伝染病者の
残り物を食べたら、それこそ病気がうつって
しまうぞと喉まで出かかった、が、かろうじて、
それは言えなかった。・・・

「箸もないのに食えるか」と言って逃れると、
「おれの匙があるぞ」と畳み込むように言った。

じっと見詰めている。
どう行動するか、見極めようとしているかのようだ。
お前さんの親切心がどこまでのものか
見せてくれと言っているようだ。

三上さんは困ってしまった。
結核患者の匙で残り物を食べたら、
これは本当に伝染する。
粥はすでに生ぬるくなっており、
菌が繁殖するには結構な暖かさだ。

「お前、本当にいらんのか」
「もう食べられん、早く食べろ !」
そこまで言われたら、覚悟を決めた。
「よし、じゃあ、もらうぞ」合掌して食べた。

味はまるでわからなかった。
かまずに飲み込んだ。
それでも匙も三杯目となると、
落ち着いて来て、味もわかるようになり、
最後はお茶を注いで飲み干した。

「おーっ。食べたな」卯一はうなった。・・・
「おれのやったものを食べた奴はなかった。
おっさんが二人目だ」
これには三上さんが驚いた。・・・

18歳の孤児-(2)へ つづく


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女の子は進行性の病気で入院していました。
頭や体のあちこちに器具が取り付けられていました。
大きな手術が必要で、うまくいかなければ、
命を落とすことも・・・。

お母さんは、そんな彼女を見ると悲しくて
仕方ありません。
「どうしてうちの娘がこんな姿に……」
毎日、涙に明け暮れ、悲嘆に胸を痛めていました。

このままではお母さんまで、病気で倒れそうな
様子でした。
女の子は、大好きなお母さんを元気づけたくて、
お見舞いにくるお母さんをいつも笑顔で
迎えていました。

ベッドで横になり、痛みが体を苛むときも、
薬で頭がぼんやり状態にあるときも、
女の子は、お母さんの顔を見ると、とびきりの
笑顔で迎えました。

女の子は絵本を読むのが大好きで、
自分でもよくお話しを作っていました。
そして、お母さんのために、
「強い子」というお話をつくりました。

そのお話がなぜ、その女の子の頭の中から
創作されたのか、お母さんは、すごく不思議な
気持ちになりました。

どうしても、そのお話しが作り話には思えず、
そして、少しずつ少しずつ、
心の中に勇気が湧いてくるのを感じました。

女の子の作ったお話「強い子」

それは彼女が生まれる前のお話です。
ある日、神様に呼ばれて行くと、
たくさんの生まれる前の魂たちが並んで、
一人ずつプレゼントをもらっています。

「あの町に生まれたい」
「お金持ちの家に生まれたい」
神様はどんなことでも叶えてくれるのです。

女の子の順番がやってきました。
何が欲しいか決まってませんでした。
ふと見ると、神様の後ろに、
「重い病気」と書かれたプレゼントがあります。

「これは誰がもらえるの?」
「一番、強い子だよ。
このプレゼントをもらった子は、
生まれてからすごく苦しいんだ。
だから一番強い子にしかあげられないんだよ」

女の子は思いました。
他の子が、このプレゼントをもらったら、
その子に会ったとき、つらいだろうな・・・

そして神様に言いました。
「このプレゼント、私にください。
私が一番強い子よ」

「他の子にはあげないで。
他の子が苦しむのは嫌だから。
私が一番強い子だから、
私にちょうだい」

神様が答えて言いました。
「君が来るのを待っていたんだ。
君が一番強い子なんだね」

ねぇママ。
そうやって、神様にお願いして、
私は生まれてきたんだよ。

お母さんは涙を流しながらも、
笑顔で女の子を抱きしめていました。
そして、お母さんは思いました。

強くなろう。
もう二度とこの子の前でメソメソするのは
やめよう、と。・・・


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2018年9月23日 (日)

妄想劇場・特別編

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人生は道路のようなものだ。
一番の近道は、 たいてい一番悪い道だ。
・・・ フランシス・ベーコン


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日本国内の自殺者は2013年で約2万7300人に達する。
1日当たり平均75人の老若男女が、何らかの理由で
自らの命を絶っている。

近年は減少傾向を示しているものの、自殺者数は
各国と比べても高水準だ。
“自殺大国”ニッポンの背景にあるものは何か・・・。

自殺に関するニュースは、国内外を問わずいつも
衝撃的である。

最近では「STAP細胞」論文の共著者だった
理化学研究所の笹井芳樹CDB副センター長が自殺し、
国内外に波紋を広げた。

海上自衛隊では護衛艦勤務の男性隊員は上司の
いじめを受けて自殺した。
さらに東京都内の小学6年生の女子2人が
マンションから一緒に飛び降り自殺した
という痛ましいニュースもあった。
しかし、これらは自殺件数全体の氷山の
一角にすぎない。

「健康問題」苦に自殺が多い高齢男性者

内閣府がまとめた2014年版「自殺対策白書」や
警察庁の自殺統計などによると、2013年の
自殺者総数は2万7283人だった。

単純計算すると、20分に1人自殺していることになる。
この数は同年の交通事故死者数(4373人)の
6・2倍に達する。

性別では男性が1万8787人で全体の68・9%を占める。
年齢階層別には、
60歳代が4716人で全体の17・3%と最も多く、
次いで40歳代(4589人、16・8%)、
50歳代(4484人、16・4%)、
70歳代(3785人、13・9%)の順である。

自殺の原因・動機が明らかなものの中では、
原因・動機が「健康問題(病気)」とされるものが
1万3680人と図抜けている。

ついで「経済・生活問題(貧困)」(4636人)、
「家庭問題」(3930人)、
「勤務問題」(2323人)の順。
このほか「男女問題」「学校問題」「その他」が続く。

この順位は毎年同じという。
これらのデータから、中高年以上の男性が
健康問題を苦に自殺するケースが多いことが
うかがえる。

若年層の死因1位は「自殺」

2013年の自殺者総数は4年連続で減少している。
特に経済・生活問題を動機とする自殺者が
減っており、「経済状況の好転や各自治体による
自殺防止の活動が効果を見せたため」
(警察庁)としている。

その一方で、15~39歳の各年代では、死因トップが
「自殺」である状況は極めて深刻な問題だ。
特に15~34歳の若い世代で死因の1位が自殺
というのは、先進7ヵ国(G7)では日本だけという。

自殺者数の推移を過去35年間で見ると、
1978~1997年の約20年間はほぼ
2万~2万5000人の間で浮動していた。

1998年には3万2863人に急増し、統計のある
1897年以降で初めて3万人を突破、
2003年には過去最高の3万4427人に達した。

しかし、その後は徐々に減少傾向を示している。
2012年には15年ぶりに3万人の大台を割り込み
2万7858人まで減少し、2013年は前年をさらに
575人下回った。

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自殺者が1万人超える国は11ヵ国 近年の
自殺者の減少傾向は喜ばしいことだが、
世界的に見ると日本の自殺者数は依然、
高水準である。

世界保健機関(WHO)が作成した自殺防止に
関する報告書によれば、2012年の世界の
自殺者数(推計値)は合計で80万人以上という。

このうち、自殺者数が1万人を超える国は11ヵ国。
自殺者が最も多いのはインドで25万8000人。
2番目は中国の12万730人、3番目が米国の
4万3300人。
以下、④ロシア3万2000人、⑤日本2万9400、
⑥韓国1万7900人、⑦パキスタン1万3300人―の
順である。

人口10万人当たりの自殺者数(自殺率)で
比較すると、南米のガイアナが44人で最も多く、
次いで北朝鮮が38・5人、韓国が28・9人と
3番目に多い。

実数で最多のインドは21・1人、
日本は18・5人となる。
インドの人口が日本の約10倍であることを
考慮すると、日本の自殺率がきわめて
高いことがうかがえる。

深刻な高齢者と若年層の自殺

一方、経済協力開発機構(OECD)が発表した
自殺率統計では、加盟国内で自殺率1位は韓国で、
2位がハンガリー、日本が3位となっている。

日本と韓国に共通しているのは、15~34歳の
若年層で
死因トップが「自殺」であることと、中高年男性の
自殺率が高いことなどだ。

特に、次代を担う若年層の自殺率は欧米諸国では
低下傾向にあるのに、日韓両国で上昇している点は
憂慮すべき状態である。

国内での自殺の原因・要因については、
専門家らによるさまざまな分析が行われている。
働き盛りの世代では、景気悪化による事業不振や
失業、過労など労働条件の悪化、職場の
人間関係などと自殺者増加に相関関係があると
指摘されている。

中高年では健康問題や生活苦、介護疲れ、孤独などの
要因が複雑に絡むこともある。
さらに、子どもの自殺では「学校でのいじめ」などが
背景にあるケースが多い。

「自殺対策」のさらなる取り組み必要

震災で家族や財産を失ったことなどが原因で
自殺に追い込まれる事例もある。
東日本大震災に関連する自殺については、
発生した2011年が55人、2012年が24人、
2013年が38人だった。

いずれの年も男性の自殺者が多く、震災の
後遺症がなお続いている。

政府は2007年6月、前年に施行された
「自殺対策基本法」に基づき、自殺対策の指針として
「自殺総合対策大綱」を決定した。

この中で、青少年(30歳未満)、中高年(30~64歳)、
高齢者(65歳以上)の3世代に分けて、各世代の
自殺の特徴と取り組むべき自殺対策の
方向を示している。

それからすでに7年経過しているが、自殺者をさらに
減らすための取り組みが国や社会を挙げて
求められる。



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会社へ出掛けるとき、右手にカバン、 左手には
ゴミ袋を持って階下へ降りる。
ときおりエレベーターの中で、 同じようにゴミ袋を
手にしたお父さんたちと一緒になることがある。

毎月、第四土曜日は廃品回収の日と決まっている。
マンションの自治会と、リサイクル業者が
契約をしていて、新聞紙や段ボール、衣類、空缶、
空き瓶などをトラックで取りに来てくれる。

各世帯では、午前9時までに1階脇の駐車スペースに
持っていかなくてはならない。
もちろん、それも太郎の仕事になっていた。

せっかくの休日なのに、朝寝坊ができない。
「たまには、代わってくれてもいいのに。
夕べは接待で遅かったんだから・・・」

台車に新聞紙の束と、段ボールを乗せてコトコトと
エレベーターまで運ぶ。 途中の6階でドアが開いた。

「あっ、おはようございます」
乗ってきたのは、息子の真幸の友達だった。
同じ中学2年でクラスは違うが、 塾が同じなので
ときどき家にも遊びに来ることがある。

「おはよう、英之クン。感心だね」
両手には、ビニールひもで結わえた新聞紙を
下げていた。

「重いだろう、この台車に乗せなさい」
「いえ、大丈夫です。
いいトレーニングになりますから」
「何か部活に入っているんだっけ」

「はい、剣道をやってます」
「え!剣道!! おじさんも君と同じ中学んときに
やってたんだ」
「そうなんですか」
「だからキミはいつも礼儀正しいんだね」

いつも靴をきちんと揃えて家に上がるのを
見ていた。
また、帰るときには、ドアのところで一礼を
してから出ていく。

(ああ、それでか)と合点がいった。
(うちの真幸にも何か武道を習わせておく
べきだったな)・・・

1階では、すでに回収業者の車が
到着していた。
「9時ちょうどに出発しますから急いで下さい」
とトラックの運転手が言った。
時計を見ると、 あと10分ほどだった。

その運転手に向かって、少し腰のかがんだ
お婆さんが 何かを言っている。
声が小さいので聞こえない。

運転手は、「お婆ちゃん、ごめんよ。
こちとらも仕事でね。次の回収場所へ行く
約束があるんだよ」

「どうしたんですか」と太郎が聞くと、
運転手が説明した。
お婆さんは、一人暮らしをしている。
この何か月か腰を痛めていたせいで、
廃品回収に出せなかったのだという。

買い物にも不自由する生活。
そのせいで、半年分以上の新聞やら何やらが
溜まってしまった。

今日こそはと、まだ痛む腰に手を当てながら
持って来たが、 まだ大量の廃品が家の中に
あるらしい。

「よし!私が急いで運んでくるから、ちょっとだけ
待っててください」
「わかりました。ちょっとだけなら待ちましょう、
急いでくださいよ」

「よし、お婆ちゃん行きましょう」
そう言うと、お婆ちゃんは何度も太郎に
頭を下げた。
「いいから、いいから急いで」

「僕も手伝います」と、英之が手を挙げた。
「よし!行くぜ!」
二人は、17階のお婆ちゃんの部屋から、
台車一杯の新聞紙や空き瓶を運び出した。

駆け足で三往復。
運転手さんには少々迷惑をかけてしまったが、
無事任務は終了した。

翌朝の日曜日。太郎は念願の朝寝坊をして、
近くのコンビニへスポーツ新聞を買いに
出掛けようとした時のことだった。

「下」のボタンを押してもエレベーターが
やって来ない。
部屋に戻って管理人室に電話をする。

「おい、エレベーターが故障だってよ」
「え~嫌だわ。これからスーパーに買い物に
行こうと思っていたのに・・・」
妻の朝子が眉をひそめて言った。

「いつ直るって?」
「すぐに直しますってさ」
「そう、仕方がないわ。階段で降りるしか
ないのね」

行きはよいよい、帰りは・・・。
朝子は、荷物を持って12階まで上ることを
考えると頭がクラッとした。

「さあ、行きましょう」
「え!?」 「私に荷物を持って、上れと言うの?」
太郎は溜息をついて妻に従った。

夕方になっても、エレベーターは復旧しなかった。
自治会からも管理会社へ文句を言って
くれているらしい。

太郎は、ふと思った。
昨日の17階のお婆さんのことだ。
ただでさえ買い物に出掛けるのもしんどいと
言っていた。

エレベーターが止まったら、お婆さんは陸の
孤島にいるのと同じだ。
だんだと心配が募ってきた。

太郎は部屋を飛び出し、17階まで駆け上がった。
息をハアハア言いながら階段を上り切りると、
お婆さんの号室の前から声が聞こえてきた。

聞きなれた声・・・。
見ると、そこには息子の真幸が立っていた。
「いつでも買って来ますからね、
遠慮なく言ってね、お婆ちゃん」

そう言い、スーパーのレジ袋をお婆さんに
手渡していた。
そこには、ちょっと涙ぐんだお婆さんの笑顔と、
照れくさそうにはしていたが、なんだか
眩しく輝いて見える息子の顔があった。

・・・


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2018年9月22日 (土)

妄想劇場・特別編

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みんな、私の着ているものを見て笑ったわ。
でもそれが私の成功の鍵。
みんなと同じ格好をしなかったからよ。
・・・(ココ・シャネル )


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Nhg111111

突然、経験したこともない大きな揺れを感じた時、
どうしますか? 

頭を隠す、台の下にもぐる、外に逃げる…。
今この瞬間は何も起こっていない平時なので、
時間をかけてゆっくり考える余裕がありますが、
災害は突然起こるものであり、起こった場合に
ほとんどの人がパニックになります。

それは人だけではなく、猫ちゃんたちも同じことです。
猫ちゃんたちの場合は特に、私たち人間のような
防災訓練や準備を行っているわけでもなく、
テレビやラジオから情報を得ることもできませんので、
そのパニックたるや大変なものです。

私も、熊本地震を経験してから初めてそのことを
知りました。
熊本地震発災時、「ドスン!」という大きな音と
振動とともに経験したこともないほどの大きな
揺れを経験しました。

幸い、私が院長を務める竜之介動物病院は
耐震性に優れた構造だったため、私の診察室は
何もなかったかのようにいつも通りの診察が
できましたが、薬品庫や処置室は悲惨な状態で
足の踏み場もないほどでした。

私は飼い主さんを落ち着かせようと、いつも通りの
診察と会話を心がけましたが、その数分後から、
外来に患者さんや避難者の方々が一気に押し寄せ、
あっという間に待合室がいっぱいになりました。

割れたガラスを踏んでけがをした猫ちゃん、
家具やタンスの下敷きになってしまったワンちゃん、
パニックで飛び出し、交通事故で血だらけで
運ばれてきたゴールデンレトリバーなど、

待合室は白い床が血液で真っ赤に染まっていました。
私は戦争経験者ではありませんが、野戦病院は
こんな感じだったのではないかと想像してしまう
ほどの光景が目の前に広がっていました。

その中で、猫ちゃんの場合にいくつか特徴的な
症状がありました。

一つ目は、「後ろ足からの出血が止まらないので、
何か踏んだんじゃないでしょうか?」
というものです。

診察をしてみると後ろ足の爪が全部剥がれて、
そこから大量に出血しているというものでした。

原因を推測するに、突然の揺れに驚いた
猫ちゃんたちが、パニックのあまり走り出し、
部屋中を床だけでなく、壁、天井まで駆け上がりながら、
気づいたら爪が剥げて、出血している状態であると
考えられました。

ケガをしてからすぐ来院した猫ちゃんたちは
比較的軽傷で済んだのですが、けがから
数日経った場合には、後肢から感染を起こして、
膿(うみ)がたまった状態でパンパンに腫れている
という症状の子も多かったです。

次に多かったのは、パニックで部屋の外に逃げ出す、
または、マンションから飛び降りるといったものです。

私たちは通称「フライングキャット」と呼んでいますが、
マンションなどの高層階から飛び降りた場合には、
骨盤骨折や内臓破裂などの重傷で運ばれてきます。

震災の場合には、大きな揺れで扉やサッシなどが外れ、
容易に外に出られてしまうことが大きな
原因だと考えます。

特に猫ちゃんの場合は、部屋の中で放し飼いに
されてることが多く、首輪やマイクロチップ、
迷子札などをつけていないコがほとんどだったので、
逃げ出してしまった後もなかなか見つからないという
相談が後を絶ちませんでした。

日頃おとなしい猫ちゃんでも、災害時は
程度は違えどほとんどがパニックになります。

「うちの子は大丈夫!」と思っていても、パニック状態の
猫は野生の本能がむき出しになり、
「いつものうちのコ」ではなくなってしまいます。

不用意に近寄ったり、手を出したりすると攻撃されて
飼い主でさえけがをすることもありますので、
よく観察して注意深く対応する必要があります。

パニック時に考えられる猫ちゃんの行動としては
次のようなものがあります。
それぞれに対処法を記載しますので
参考にしてみてください。

「ひたすら鳴く」

抱っこができるようなら抱いて落ち着かせます。
キャリーバッグに入れて、上からバスタオルをかけて
暗くすると落ち着くこともあります。

「おびえる」

落ち着かせるために、バスタオルや洗濯ネット、
クッションカバーなどで身をくるんだり、キャリーバッグに
入れたりすると安心できます。

「人から離れない」

不安な気持ちを取り除くために、甘えさせてあげましょう。
スリング(抱っこひも)に猫を入れて肩から提げると、
体が密着するので猫も安心します。

「隠れる」

落ち着くまではしばらく出てきません。
無理に引っ張り出そうとすると恐怖心がさらに高まり、
噛んだり引っかいたりするので、猫ちゃんが
自分で出てくるのを待ちましょう。

「暴れる」

興奮状態の猫ちゃんは周りが見えていません。
落ち着かせようと思って不用意に近づくと思わぬ
けがにつながることもあるので、興奮が収まるまでは
離れた場所から静かに様子を窺ってみてください。

「威嚇する」

声をかけたり触ったるするとかえって猫を刺激して
不安感をあおってしまいます。
威嚇している場合には目を合わせずに、
離れた場所からそっと見守りましょう。

「外へ飛び出す」

猫が逃げても、そんなに遠くまでは移動しません。
慌てて追いかけたくなってもまずは自分自身の
安全確保が第一です。

もしも猫ちゃんとはぐれてしまったら、まずは慌てずに
冷静に行方を探しながらさまざまな手段で
情報を集めます。

猫ちゃんのテリトリーは自宅から100m~300m
といわれており、基本的に長距離の移動はしません。

特に室内飼育の猫ちゃんはそんなに遠くには
いかないので、猫の名前を呼びながら、家の周辺の
車の下、植え込みや茂みの中、縁の下、屋根の上等、
猫ちゃんが好みそうな場所を上下左右立体的に
丁寧に探してみてください。

外に逃げたと思っていても、実は家の中に隠れていた
というケースも多くありましたので、家の周辺を
徹底的に探すことが重要です。

Nbj

はぐれた場所、猫ちゃんの特徴、年齢、名前、
毛色や種類などを伝え、似た猫が保護されていないか
問い合わせてみると何か手がかりが見つかる
かもしれません。

いざというときに備えるポイントとしては、日頃から
自分の猫ちゃんの写真を正面だけでなくあらゆる
角度から撮っておくことです。

猫は犬と比べて特徴が少なく、顔だけの写真では
見つけにくいものです。
全身の色、柄、尻尾の形等、飼い主以外の人でも
わかるように写真を撮っておくと格段に見つかり
やすいですし、やはり個体識別にはマイクロチップ
装着が一番です。

また、もし見つけたとしても、急いで駆け寄ったり、
大きな声を出したりはしないよう注意しましょう。
驚いて逃げ出してしまう可能性があるからです。

少し離れた場所からしゃがんで優しく声をかけ、
ごはんやおやつ、またたびなどで気を引き、
確実に捕獲します。

安全に連れて帰れるようにキャリーバッグや
洗濯ネットも忘れずに持ち歩くこともポイントです。

私は、熊本地震を経験してから、日頃の備えが
非常時の状況を大きく左右することを身をもって
経験しました。
そこで、備えておきたいペットの防災
「か・き・く・け・こ」を紹介します。

備蓄品などの「物」だけでなく、飼い主の心構えや
マナーも大切な備えの一つです。
いざというとき、飼い主がパニックになってしまうと
猫も不安になります。
飼い主の気持ちが猫に連鎖してしまうのです。

しかし、この連鎖はプラスにも働きます。
落ち着いて行動していれば、猫も安心できます。
日頃から非常時のシミュレーションをして、
精神的にも備えておきましょう。

「か」飼い主のマナー・責任

大切な愛猫を守るために動物が苦手な人に対しても、
思いやりを持ち、飼い主としてのマナーを身に
付けるよう心がけてみてください。

「き」キャリーバッグ

キャリーバッグでの避難が原則です。
室内では猫の身を守るシェルターにもなるので、
日頃から慣らしておく必要があります。

「く」薬・ごはん

いつも食べているフードや飲んでいる薬は非常用
持ち出し袋などに準備しておき、期日管理を行いながら、
常に新しいものに入れ替えるよう工夫してみてください。

「け」健康管理

災害時は病気や感染症にかかりやすくなるので、
ワクチン接種やノミダニ予防、定期的な健康診断を
受けておくことが大切です。
普段の様子を把握することで、ちょっとした異常も
察知することができます。

「こ」行動・しつけ

トイレのしつけ、キャリーバッグに入る練習など、
いろいろなものに慣らしておくことは猫のストレス
軽減にもつながります。

最後に、災害時、大切な猫ちゃんを守れるのは
あなたしかいません。
そして、災害時にあなたを支えてくれるのも一番
そばにいる猫ちゃんなのです。

大切な存在がそばにいれば、どんな困難でも
乗り越えられます。
大切な猫ちゃんのために備えることで、きっと
今よりももっといい関係が築けるはずです。



B27



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会社が業績不振になり、
リストラを実施せねばならぬ状態になりました。
こんな時の会社の環境は、疑心暗鬼になり、
雰囲気はますます暗くなってきます。

私は誰かが辞めさせられるなら、
自分が辞めれば一人は救われると思い、
自分から申し出て退社しました。

その後、し尿汲み取り(役場の現業職)
に従事することになったのです。
妻と長女は事情を理解し、早くに納得したのですが、
長男が反発して一週間も飯を食わないような
状態でした。

長女は高校生で、長男は中学生でした。
反抗期の長男には無理もないことです。
でも、長男には時間をかけて言い聞かせました。

『職業に貴賎はない。
誰かがやらねばならない仕事が世の中には
あるんだ。

お前は、もし、友達の父親が汲み取りをしていたら、
そいつと付き合わなくなったり、その父を
軽蔑したりするのか』諄々と言い聞かせ、
ようやく長男も納得したようです。

ある日のことでした。

地元の本屋さんで汲み取り作業をしていたら、
女子高生数人が遠くから来るのが見え、
その中に長女がいるではありませんか
私の背中に冷や汗が流れました。

作業による汗ではなく、脇の下からも生汗が
出てきました。
友達の手前、こんな父親の姿を見られる
娘の心境はどうだろう。

年頃の女の子です。
友達の見る目は、彼女らにとって大きい意味を
持つ年代でもあります。
娘が恥ずかしく思いやしないかと、私は、
とっさに物陰に隠れようとしたのです。

その時でした。
『お父さん、頑張って~』少し離れた所から、
私に向けて、娘が声をかけてきたのです。

この時の私は、驚きのあまり
複雑な笑いを返していたかと思います。
その後、深い自省の念がこみあげてきました。

私は、日頃言ってきたことと、
自分のとった行動の違いに情けなさを
感じたのです。

職業に貴賤は無いという長男への説得は、
表面上だけの薄い言葉だったのか。

娘の方が人間としてどれほど立派か、
それを思い知らされた場面でした。

今でもこの時のことを思うと、
娘への感謝とともに、自責の涙がこぼれ
落ちます。・・・


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2018年9月21日 (金)

妄想劇場・チャンネル掲示板

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美しさは女性の「武器」であり、
装いは「知恵」であり、
謙虚さは「エレガント」である。
・・・(ココ・シャネル)


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兵庫県三田(さんだ)市の住宅で、精神疾患を
抱える長男(42)が20年以上にわたり一畳ほどの
おりの中に閉じ込められていた。

長男の腰はくの字に曲がり目はほぼ失明の状態。
同居する父親(73)から相談を受けた三田市が
長男を福祉施設に入所させ、兵庫県警は
監禁容疑で父親を逮捕した。

一家はどのような悩みを抱え、地域や行政と
どう関わっていたのか。
孤立した家庭への支援のあり方も問われている。

広さ1畳、食事は2日に1回

「息子が暴れる。(約25年前の)16歳のころから
閉じ込めていた」
今年1月18日、父親から福祉関係者への
相談をきっかけに長男と面会した三田市職員に、
父親は長男を閉じ込めていた理由を明かした。

おりは一軒家の庭のプレハブ倉庫の内部に
設けられた。
高さ約1メートルで広さは一畳ほど。
市職員を前に、長男はおりの中で「体育座り」を
したまま、下半身をさらけ出していた。

父親は市職員に「精神疾患で暴れて近所から
何度も苦情があり、迷惑になると考えた」と
経緯を説明。

おりの中にはファンヒーターや扇風機が
置かれていたが、排便は床のマットの上に
垂れ流し状態だった。

父親の仕事はタクシー運転手で、日々の業務は
深夜まで続いた。
長男は主に父親が留守の間はおりの中で過ごし、
父親が帰宅後の午後10時ごろから約12時間は
外に出ることを許された。

父親は「2日に1回のペースでご飯を食べさせ、
風呂にも入れていた」と供述する。

それでも、劣悪な環境によって長男の腰はくの字に
曲がり、目はほとんど見えなくなっていた。
障害者手帳を持っていたが、最近は病院で治療を
受けたり、福祉サービスを頼った形跡はなかった。

転居前の大阪でも「座敷牢」

長男は父親と母親、きょうだいとの5人暮らし
だったが、母親は市職員との面会当時、すでに
末期がんだった。

面会4日後の1月22日には、虐待を受けた
疑いがあるとして、市が父親の了承のもと、
長男を県の福祉施設に入所させた。

母親は1月末に亡くなった。
父親は4月7日に長男を監禁した疑いで県警に
逮捕された。

6月19日には神戸地裁で初公判が開かれ、
父親は長男が福祉施設に保護されるまでの
生活実態を赤裸々に語った。

弁護士「長男の障害に気づいたのはいつごろか」
父親「2歳くらいの時」
弁護士「長男とどのようなコミュニケーションを
とっていたのか」
父親「言葉が話せないのでコミュニケーションは
一度もない。(長男に)喜怒哀楽はあるが、
普通の人と違い、何か理由があって笑ったり
泣いたりはしない」

一家は平成3年に大阪市内から三田市に転居。
長男の閉じ込めは大阪時代に始まっていた。

弁護士「(大阪で)どのような生活をさせていたのか」
父親「当初は一人部屋で生活させていた。
暴れて妻の腕を噛んだりひっかいたりしたため、
大工に頼んで『座敷牢』のようなものを作り、
自分が留守の間はその中に入れていた」

20年以上前に市職員も「おり見たはず」 

今回の事件は、今年1月に市職員がおりの中の
長男と面会したのを機に発覚したとされる。
ところが法廷での父親の証言によると、父親は
三田に転居した約2年後に長男の障害について
市に相談しており、当時自宅を訪問した市職員も、
おりの中の長男の様子を確認していたはずだという。

弁護士「三田ではなぜプレハブを建てたのか」

父親「部屋で跳ねるし、あまりにもうるさかった。
近所から苦情も相次いだ。
プレハブの中のおりに入れれば、少しは収まる
かと思った。材料を買って私が作った」

弁護士「(長男を)病院に連れて行ったことは」
父親「転居後2~3回行っただけ。妻もパートで
働いており、車で病院へ行くことが負担だった」

弁護士「(1月以前に)市職員が自宅を訪問
したことは」
父親「(転居から約2年後の)平成5年ごろに
職員2人が長男との面会で自宅を訪れた」

弁護士「市は記録上、おりの中の長男は確認して
いないと言っているが」
父親「自分の記憶ではおりの中の長男を見ている」
弁護士「その後の職員らの対応は」
父親「文書などが送付されてくると思っていたが、
何もなかった」

一家の異変…周囲も認識

父親は1月に市職員と面会した際、長男の
世話に加え、末期がんで闘病中の妻の介護で
憔(しょう)悴(すい)しきっていた。

そうした状態になるまで、福祉施設への入所を
行政に相談しなかった理由について、
父親はこう続ける。

弁護士「福祉施設の世話になろうとは考え
なかったのか」
父親「希望しても順番待ちで入れないと思った」
弁護士「行政機関に相談しなかったのはなぜ」
父親「親が元気な間は面倒を見たいと思った。
ところが妻の命が長くないと知り、(死去直前に)
相談した」

弁護士「父親としての責任はどう考えているのか」
父親「もっと早く行政に相談して施設に入れる努力を
すべきだった。反省している」
後悔の念を口にする父親だが、一家の異変には
周囲も気づいていた。

近所に住む無職の60代女性は取材に対し、
「障害のある人が住んでいるという噂は
聞いたことがある」。

一家の向かいに住む80代女性は「たまに
『わー』という叫び声が聞こえた」と話し、
「周囲が無関心だったために(父親は)誰にも
相談できなかったのかもしれない」と気遣った。

市によると、平成5年ごろの自宅訪問とは別に、
5年ほど前にも親族が社会福祉協議会に
長男について相談した。
ところが、生命の危険はないとして保護は
見送られていた。

一家に対する市の対応をめぐっては、1月の
長男保護から県警への通報まで約1カ月を
要するなど不手際も明らかになっている。

市は一連の対応が適切だったかどうかを
検証するため、社会福祉士や弁護士らで構成する
第三者委員会を設置して関係者への聞き取りなどを
進めている。

社会全体の課題に

立命館大産業社会学部の山本耕平教授は、
今回の事件の背景には障害者への差別が
あると指摘する。

山本教授によると、戦前の日本には家族が
障害者を自宅の一室に閉じ込めて外部との
関係を絶つ「座敷牢(私宅監置)」と呼ばれる
文化があった。

昭和25年制定の精神衛生法で禁止されたが、
その後も障害者への「差別」や「隔離」は社会に
根強く残った。
そのため、障害者を家族に持つ家庭が積極的に
外部に支援を求めることは容易ではないという。

山本教授は「障害者への支援は家族の問題でなく、
社会全体の課題として取り組むべきだ」と
指摘した上で、今回の事件については「家族が
誰にも相談できないまま、孤立したことで起きた
悲惨な事件。

『自分たちで何とかしなければ』という思いから
行き過ぎてしまったのではないか」と説明する。

公判は、父親が起訴内容を全面的に認めたため、
検察側が懲役1年6月を求刑し即日結審。
地裁は6月27日、弁護側の要求通り、執行
猶予付きの判決を言い渡した。

周囲や福祉制度は一家を救えなかったのか。
一家が自ら困難から抜け出すことはできなかったのか。
法廷で長男との今後の関わりについて問われた
父親は、言葉少なにこう答えた。

「福祉施設の世話になるとしても、それで
終わりではない。私たちは親子だから。
できるだけのことをして見守っていきたい」
・・・・



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新宿駅から西新宿の方へ歩いていく途中、
そこを通る人であれば誰もが知っている
光景があります。

それはホームレスの集団。

日中はパッと姿を消すのですが、
夜になるとまたぞろぞろと寝床の確保に
現れる彼たち。

他にも、新宿特有の光景と言えば、
歌舞伎町が近いことから、
ホストやキャバ嬢と言われる若者が
溢れかえっていることでしょうか。

西新宿は、都内でも有数のオフィスビルが
立ち並び、ビジネスマンがとても多い場所
でもあります。

その反面、少し歩くだけで景色は
一変することも特徴だと言えます。

ビジネス街という表の顔を持つと同時に、
とてもダークな部分も垣間見える不思議で
変に活気のある街なのです。

そんなあらゆるものが混在同居する街

私は勤めている会社が西新宿ではあるものの、
新宿駅近くの方にあるので、いつも新宿駅から
歩いて出勤していました。

その帰り道、新宿の街ならではのような
出来事に遭遇したのです。

その日は体調がすぐれず、
朝から目まいがしていたので、会社を早退することに。

いつもの帰社時間よりも数時間早かったので、
その時間帯の新宿の街並みを見るのも
新鮮な気がして、トコトコ歩いていました。

新宿駅付近にある病院へ寄ってから帰ろうと思い、
駅の反対方向を目指して歩いていた時です。

私の歩く少し前方に、明らかにホストらしき
若い男性が5名ほど並んで歩いてました。

その後を歩いていた私は、彼たちからほんのり
香ってくるお酒と香水のにおいで、気分が
さらに悪くなっていくような気が・・・

恐らく、店で飲んでいて、今から帰るのでしょう。
もう既に陽は真上にある時間帯。

若いってすごいなぁ。
この程度のことを心で思いながら
彼たちの後を追うように歩いていました。

追い越そうにも、歩道いっぱいに、
男性5名が並んで歩いていれば抜けません。
急いでいるわけではなかったので、別に、
気にはなりませんでしたが。

そしてどんどん新宿の駅へ近づいた時、
彼たちの目の前にホームレスが数名、
反対方向から歩いてきたのです。

するとどうでしょう。

先ほどまで道いっぱいに広がっていたホストが、
ささっと縦一列になって、道をあけたではないですか。

へー、道を譲るなんて、いいとこあるじゃん!
こう感心した私。
ですが、真意は全く真逆だったようです。

うわっ!クッセー!
マジで気持ち悪い!
吐きそう!
近寄んな、ホームレス!!

なんとすれ違いざまに、
このホームレスのおじさんに向かって、
嫌味と罵声を浴びせたのです。

そんな言い方しなくてもいいのに・・・
ひどいことを言うなぁ。・・・と、
次の瞬間でした。

恐らく、私のすぐ後ろを歩いていた男性が、
彼らホストの元へと急ぎ足で駆け寄ります
ホストの元に駆け寄ったその男性は、
坊主頭にTシャツ姿。

小麦色に焼けた腕からは、
とても目立つ入れ墨が見えていました。
何より、プロレスラーのように体格のいい、
ちょっと怖そうな方でした。

そして何をするのかと思いきや、
この入れ墨の男性はおもむろに、
背後から一人のホストの首をつかんで、
怒鳴り声を上げたのです。

おい、ガキども。
今何て言った?
すれ違いざまに、あのおっちゃんに酷いことを
言わなかったか?
お前らの親と同じ年配じゃないか。
おっちゃんに謝れ!

それにな、ホームレスのおっちゃんからしたら、
お前らの女々しい香水のにおいや、
吐き気のする酒の臭いのが、よほどクセーんだよ!

こう怒鳴りつけ、ホストたちを縮みあがらせたのです。

最初はケンカ腰で振り向き、
入れ墨男性に虚勢を張っていたホストたちですが、
体格などを見て、絶対にかなわないと観念したのか、
すみませんと謝っていました。

もちろん、この入れ墨男性は、
自分に謝ってほしかったのではなかったようで、
こう続けます。

バカかお前たち。
俺に謝ってどうするか。
おっちゃんに謝れと言ってるんだ。

ホストたちは、各々頭を下げ、
謝罪を述べながら、すごすごと退散しました。

平気で人をバカにしたり、見下したり、
罵る行為は決して許されることではありません。

その人には、その人の事情があるわけで、
見た目の外観だけで、人を決めつけては
いけないと思います。

人を見た目だけで判断してはいけない、
という意味では、
ホームレスのおじさんに対してもそうですが、
入れ墨の男性に対してもそうだったんだと、
実感した出来事でした。・・・


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2018年9月20日 (木)

妄想劇場・チャンネル掲示板

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若くて美しいことは、 自然のいたずら。
年をとっても美しいことは芸術です。
・・・(エレノア・ルーズベルト )


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住宅に旅行者を有料で泊める「民泊」が全国で
解禁された。
6月15日施行の住宅宿泊事業法(民泊新法)に
基づく規制緩和だが、増え続ける訪日外国人の
受け皿として期待が高まる一方、近隣トラブルや
治安悪化への懸念は絶えない。

「おもてなし大国」ニッポンで民泊がイマイチ
盛り上がらないのはなぜか。

「民泊」という言葉をここ4、5年ほど前から耳に
するようになった。
その前は「ルームシェア」と言われていたが、
15年ほど前には、まだその言葉さえなかった。

しかし、20世紀末ごろから、密航者の多い
中国人や不法滞在者の多い韓国人により
「ヤミ民泊」が行われていたのである。

新宿や池袋での交番取り扱い経験や、
警視庁本部通訳センター職員としての通訳捜査
経験からいうと、当時、来日中国人の半数は
20万元、当時のレートで日本円にして250万円
ほどの密航費用を親が知人から集め、
立て替えていた。

そうして、福建省から大型貨物船のバラストタンクや
漁船の船底に隠れて集団密航してきた。
家族の期待を背負って、来日していたのである。

残りの4割は、正規手続きで来日した末に、
査証の期限が切れてオーバーステイした
上海人だった。
中国といっても広大だから、地域によって
違うかもしれないが、合法に入国・滞在し続けて
いられた中国人は、体感として1割程度に
すぎなかったのである。

特に福建人は莫大(ばくだい)な借金を背負って
来日するため、強制送還されてもお気楽な上海の
不法滞在者より切羽詰まった生活をしていた。

そのような環境の中、彼らは人脈を頼りにすみかを
探し、職を探すのだが、その人脈は中国の実家に
近い仲間ほどつながりが強い。

借金を含む頼まれごとを「面倒」と敬遠しがちな
日本人とは違って、頼りにされたら他人から借金を
してでも実力を見せつけるチャンスと捉えるからである。

逆に異国の地で知り合いに頼りにされながらむげに
断れば、密航費用を肩代わりしている実家の両親が
「村八分」になりかねないので、これを断ることが
できないのである。

そんな不法滞在者や密航者などがまず困るのが、
どこに行っても身分確認を迫られるアパート探しと
職探しだ。

犯罪者や参考人を含む中国人約1400人の話では、
それでも、友人や知人を3人ぐらい介すれば、
目的の手助けが得られるという。

特にアパートの場合は、1人で住むより2、3人で
住み、家賃を分担したほうが1人当たりの負担も軽い。
大家も月々の支払いを延滞させる日本人苦学生を
相手にするより、確実な収入につながるため、
契約外である複数の出入りも見て見ぬ
ふりをしてしまう。

だが、彼らは集合住宅の決まりを守らない。
3人契約のはずが、16人ほどが生活している
アパートがあった。

北京語を話す警察官を珍しく味方と勘違いしたのか、
中まで見せてもらうことができたが、その部屋には、
ベニヤ合板をうまく利用した5列3段の
「簡易カプセルホテル」ができていたのである。

15人が一度に休むことができるだけでなく、
2人は畳で横になれるようになっていた。
しかも、昼と夜に働く人を上手に交代させて
いたようで、実際の利用者はその倍近くいたようだ。

こうして、部屋の名義人はすでにマンションを購入し、
身分確認を必要としない日雇い労働者中心の
利用客から1泊2000円を徴収して、
「ヤミ民泊ビジネス」を進めていたのである。

たまらないのは同じマンションに住む普通の
日本人世帯だ。
頻繁に発生する同居人どうしの口論やケンカ、
それに時間帯に関係なく仕事で出入りする騒音、
生ゴミを捨てずにため込むことで発生する
異臭や恐怖感から、転居を余儀なくされる。

こうして日本人が出ていった部屋に、知人から
頼られた中国人が大家にまた「ヤミ民泊」を持ちかけ、
大勢を住まわせながら、在日中国人社会の中に
メンツを立ててきた。

こうした中国人密航者の「定着システム」は、
20年ほど前から新宿や池袋で確認していた。
「民泊」という言葉が生まれる前から、多数の中国人が
都心の集合住宅に入居や購入しながら、
すでに「経営ノウハウ」を蓄積していたのである。

政府は今、こうした外国人を含め、誰が泊まるか
分からない宿泊場所を民泊として合法化し、
観光客を誘致・収容して、経済活性化を目指している。

特に、オリンピックを2年後に控えた東京都心で
アパートやマンションを民泊化した場合、当然ながら
人の出入りから近所に不安を与えたり、迷惑を
かけることになる。

一方で、逆に経営側に回れば、危険性も高いが
利益も膨らむ可能性も生まれる。
とりわけ、都市部では警察による施設把握が
難しい上に、施設の多くでは宿泊者の明確な身分を
確認できないし、またすることもない。

不法滞在の増加に伴い、警察に協力すると
「客」が減る可能性さえあるからだ。

現在、民泊仲介大手の米(エアビーアンドビー)では、
インターネット上で個人住宅や空室を持つ
貸主と宿泊先を求める旅行者との間のマッチングを
行うため、利用者はネットで登録が必要となる。

だが、安い宿では身分確認のための登録を
必要としていないところが多い。
中にはマッサージ店など違法な風俗営業を伴う
個室のベッドを時間限定で民泊化しているものもあり、
当然ながらオプションで風俗サービスが付いたりもする
民泊型売春宿もあるようだ。

そもそも宿泊客と経営者の接点がない宿もある。
あまりにも性善説をアテにしたシステムだが、
このようなお気楽さは、かえって犯罪に好都合
だといえる。

3月には1階を民泊として貸し出していた
東京・世田谷区の民家で、外国人男性の遺体が
発見された。

世田谷といえば、今でも高級住宅地のイメージが
あるが、このような地域に民泊経営者が増えれば、
隣近所の顔が見える地域の安心感や、
安定した収入を確保している層の住民が
構成する地域のステータスを損ない、
住宅価値も確実に下がるだろう。

実際に、今では中国人が戸建て住宅を購入して
部屋ごとに貸し出す、1棟丸ごと民泊ビジネスを
展開している。

近所の住人は中国人家族が越してきたのかと
勘違いするが、「家族構成」がいつも違っている上に
話が通じず、地域活動にも参加しないなど
接点をつくるどころか、問題発生の際の解決の
めどもつかないありさまになるのだ。

さて、来日外国人の中でも多数を占める中国人の
不法来日で、メーンの手段となっているのは、
今や密航ではなく「なりすまし」だ。

通常、中国では「公安局」と呼ばれる警察署で戸籍が
管理され、旅券が発行されているため、
必要な書類を警察署に提出し旅券の発行を受けて
来日する。

「なりすまし」は他人の身分証明書類を、渡航に必要な
書類とセットで売買するブローカーから買い取って、
利用するのである。

言うまでもなく、旅券自体は本物であり、使用する
本人の写真もプリントされているが、記載されている
個人情報が全くのニセモノというわけである。

彼らは「真正の偽造旅券」で来日するが、
密航同様ブローカーに支払った大きな借金を
抱えていることに変わりはない。

しかし、本物の旅券で本人の顔写真が入っているため、
合法滞在中に職務質問を受けても、警察官に
逮捕されることはない。

結局、不法滞在の末に職質を受け、旅券の
記載内容を忘れた本人の供述により、
入国該当者がいないことから判明するのである。

日本では、国際空港全てには顔認証システムが
いまだ導入されていない上に、過去に逮捕歴や
把握のあるテロリスト以外は各国のデータバンクと
連携されていない。

だから、最初の来日では顔認証システムさえ
機能せず、「なりすまし入国」は初来日で
テロデビューを狙う外国人過激派や工作員の
渡航としてほぼ完璧な手段になる。

そうした人間が好む「隠れ家」こそ、なりすましの
身分さえ確認しない安い民泊なのである。
2013年の米ボストンマラソンで起きたテロ事件など、
世界各地で実行されたテロリストの多くは民泊に
身を潜めつつ、他の支援を得ながら準備を進め、
犯行を実行し多数の殺害を成功させているのである。

こうした事実を、軍拡を突き進む中国では、
一党独裁国家の国家主席の任期を撤廃し、
事実上の「完全独裁制」を確立した。

もし、中国共産党が「有事」と判断すれば、
日本を含む在外中国人にまで、彼らの実家を
「人質」としながら法的拘束力が及ぶ「国防動員法」が
発動される。

その指示や命令が日本の法に触れようとも、
治外法権を確保する中国公館に逃げ込めば、
中国の国内法で保護されることになる。

先進7カ国(G7)で、スパイを取り締まる法律の
ない国は日本だけだ。
日本で破壊工作を準備・実行するなら、
他の工作員の協力を他国よりも得やすく、
摘発される危険性も低い。

その上、外見では日本人と見分けがつきにくい。
そのアジトが民泊としてあなたの隣の部屋に
構築される可能性も排除できないのだ。

実際、私が中国人強盗団の潜むアパートのアジトに
踏み込んだとき、隣には小さい子供を育てる普通の
家族が住んでいた。

家宅捜索を行いながら子供の笑い声が聞こえる
アンバランスさがとても印象的だったのを
覚えている。
・・・




A911



A14011111

Yさんとしておきます。
Yさんは、見かけも悪くないし、頭もいい。それに話も
上手です。
それなのに、仲間や後輩セールスにどんどん
追い抜かれていきます。

半年も注文がとれなかったら、悩みも頂点に
達してきました。
「俺にはいったい何が不足してるんだろう」
つい、奥さんにもこぼしてしまいました。

奥さんは、こう言いました。

「何かが足りないんじゃなくて、何かが多すぎるんじゃ
ないの?」そう言われて、Yさんはハッとしました。

これまでのYさんは、なまじ話も上手なだけに、
自分が話すことが多く、押しつけがましいところが
あったようです。
契約をとらんがために、押して押して・・・
そして結局お断り。
そんなパターンが多かったのです。

それからのYさんは、少し態度を改め、できるだけ
自分が主体で話すのではなく、相手に話させるように
心がけました。それから、少しずつお客様の反応も
よくなってきたそうです。

しかし、それでもなかなか契約に結び付きません。
ある日のこと。
もう少しで契約に結び付きそうなお客様のもとに、
Yさんは最後のツメの訪問に向かいました。

その客先で、Yさんは大きなショックを受けることに
なります。
最後のツメの甘さというのでしょうか。
前回の訪問の後、ライバル会社のセールスマンが訪れ、
ちゃっかり契約の横取りをされてしまったのです。

Yさんは愕然としました。
お客様を恨むわけにはいきません。
営業をやってると、よくあることです。
悪いのは自分の油断、自分の甘さでしかありません。

Yさんは、下を向いて肩を落としながら歩いていました。
下向きの視線の先で、Yさんはある重要なことに
気づいたのです

そういえば、俺の靴っていつもキレイだよなぁ。
泥だらけの道を歩くことだってあるし、雨にぬれて
ビショビショになることだってある。
でも、毎朝、ピカピカに磨いてある俺の靴。

そう、奥様が毎朝お出かけ前のYさんの靴を磨いて
いたのです。
それを見ていた娘さんも、忙しい朝はお母さんの
代わりに磨いていたそうです。

Yさんは「目の前に」ありがとうと言う相手がいるのに
気づかなかったのです。
自分はそんなことも気づかないくらいに、心の余裕が
なかったんだ。

いささか、ショックを受けました。

契約の横取りよりも、大きなショックを受けたのです。
「自分に足りないモノを探すより、多いものを減らす」
「目の前にある感謝を忘れない」
このふたつを教訓として得たYさんのその後は・・・。

そうご想像の通り、もともとがセールスの素養が
あるYさんです。
メキメキと頭角を現し、お客様からの信頼厚い、
トップセールスに成長していきました。
・・・


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2018年9月19日 (水)

妄想劇場・the ライフ

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未熟な愛は言う、
「愛してるよ、君が必要だから」と。
成熟した愛は言う、
「君が必要だよ、愛してるから」と。
・・・
エーリヒ・フロム



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Suiheisen11

政府主導の「和食」プロモーションの一方で、
「家庭の和食」は敬遠され、食の外注化が進む。
その中で料理研究家は増え続け、レシピ本の出版が
盛んだ。これは何を意味するのか。 ・・・

「料理研究家」という職業が成立した背景

日本で料理研究家という職業が成立するように
なったのは、組織に雇われて働く給与所得者層が
誕生した近代である。

彼らは家族を養える給料をもらえたので、その妻たちは
家庭経営や家事に専念する主婦になった。
私生活を充実させるために日々働く主婦層の拡大が、
料理研究家という専門家を求め発展させていく。

最初の女性向け料理教室が誕生したのは1882年で、
「家庭」を冠した料理書が最初に刊行されたのは
1903年である。

わざわざ「女性向け」、「家庭」という条件を記すのは、
それまで料理を学ぼうとするのは男性だったからである。

1899年に高等教育機関の女学校が国に認定されると、
料理書を理解したり、料理教室で学べるだけの教養を
女学校で身につけた女性が増加する。

彼女たちが主婦になり、日々献立を工夫して出す
「家庭料理」というジャンルが生まれたのである。

1910年代には生活情報を紹介する主婦向けの雑誌が
創刊され、1927年にはラジオ放送が始まり、
料理情報を伝える番組ができる。
料理研究家の需要が生まれたのである。

人気料理研究家を輩出したNHK「きょうの料理」

料理研究家が広く知られる職業になるのは、1953年に
テレビの本放送が始まってからである。
料理番組は視聴率が高く、その中からカリスマ的な
人気を誇る者が現れる。

NHKの長寿料理番組「きょうの料理」では、1957年の
番組開始時から出演した人気料理研究家に、
母親的なイメージで親しまれた江上トミ(1899~1980)、
外交官の元妻でセレブリティのイメージが強い
飯田深雪(1903~2007)、軍隊出身で和食を中心に
教える土井勝(1921~1995)などがいた。

高度経済成長期、全盛期の江上が「おいしいものを
食べさせてやろう。
珍しいもので驚かせてやろう、という主婦の努力は、
そのまま家庭円満につながり、子孫への味の伝承にも
なります」と興味深い発言をしている

そして、主婦が家庭を支えることは、社会の安定にも
つながると主張するのである。
発言の背景には、彼女の生い立ちと時代が関係している。

サラリーマンと結婚、家庭を守るのが夢の時代

江上は、熊本県の裕福な地主の家に生まれた。
母は使用人の先頭に立って料理する人で、
女性が一番美しいのは台所で元気に立ち働くときだ、
と娘に教えこむ。

陸軍の技術官と結婚した江上は、夫に伴って1927年に
渡仏し、ル・コルドン・ブルーでフランス料理を学んでいる。
料理学校を開いたのは帰国後、パリ時代の知人に
請われたことがきっかけである。

戦後は、敗戦の責任を感じた夫がリタイヤを宣言
したため、料理学校の運営に力を注ぐ。
福岡県にあった拠点を東京に移し、メディアにも
ひんぱんに登場する。
生徒数は最盛期、6500人を数えた。

江上が活躍した高度経済成長期、サラリーマン層が
急拡大し、彼らと結婚して核家族を築くことは、
女性にとって実現可能な夢になっていた。

核家族で男性が外で働いて家計を担い、女性が
家事・育児に専念して家庭を守るという性別
役割分業は、当時の日本では女性の地位向上を
意味した。

家庭で責任ある立場を任された彼女たちに、
家庭を営んで社会を支える気概があっても
おかしくなかった。

それまでの女性は、長時間の家事労働の他に、
農業や商業といった家業を手伝う末端の
労働者にすぎず、夫の両親と同居する場合は、
奴隷のように扱われてきたからである。

豊かになった台所で新ジャンルの料理に励む
主婦たち
女性の立場が改善するきっかけは、1946年に
男女同権を謳う日本国憲法が制定されたことである。

新憲法の下で教育を受けた世代が大人になるのが
高度成長期。
サラリーマン家庭を築いた夫たちの多くは、
農村部から出てきた次男・三男であり、
両親も同居していない。

新しい世代の夫婦は、対等な人間同士として
役割分担したのである。

台所の環境も、急速な経済成長で大きく変わっていた。
全国に水道が通り、水汲みの必要がなくなる。
ガスが普及したため、薪を使った火の管理が
必要なくなる。

土間の台所も板の間になり、管理しやすくなる。
発電所が次々と出来て電力供給力が向上し、
家電製品が急速に普及する。

電気冷蔵庫は、買い物の頻度を減らし、
新鮮な食材をいつでも使えるようにする。
炊飯器は、自動で失敗なくご飯を炊けるようにする。
洗濯機、テレビも普及する。

流通も大きく変わり、手に入る食材は豊かになった。
新鮮な魚介類、野菜などがいつでも新しい業態として
生まれたスーパーの棚に並んでいる。

国は国民の栄養状態を改善するためタンパク質の
摂取を奨励し、畜産・酪農の拡大を進めた。
日本人が、牛乳や肉、卵を日常的に摂るように
なるのは、高度成長期以降である。

近代化が進んで豊かになった台所にふさわしいのは、
料理研究家たちが提案する、日本人の好みに
合うようアレンジした西洋料理や中国料理だった。

手の込んだ料理も少なくなかったが、
台所の女主人となった主婦たちは、張り切って
新しい料理を覚えたのである。

彼女たちは、料理を教わらずに育った世代でもある。
食料が不足し、料理を覚えるどころでなかった
戦中戦後の都会で育った女性がいる。
10代で都会に出たため、親から学べなかった
女性もいた。料理研究家は、切実に求められて
いたのである。

パート勤務で家事もこなす妻たち

しかし、まもなく社会に出て働く女性が増え始める。
1970年代になると、世界的な潮流を受けて日本でも
フェミニズム運動が盛んになり、1986年には
男女雇用機会均等法が施行される。

その間、オイルショックを経て男性の給料が下がり、
既婚女性が働く必然性は高まっていた。
とはいえ、多くの既婚女性は待遇も給料も低い
パート勤務だった。

社会的地位の低さも影響したのか、女性の
家事の負担は高度成長期以降、ほとんど減って
いなかった。
仕事を持っていても、妻が買い物をして料理と
後片付けをする役割は変わらない。

夫は家事を女性の役割と考えていたし、長時間労働が
常態化する職場に拘束される彼らに、家事の分担は
現実的でもなかった。
料理を外注できる環境は整い始めていたが、当時は
総菜を買うことに罪悪感を覚える女性が多かった。

多忙な女性たちの救世主、小林カツ代

そんな時代に一世を風靡したのが、プロセスを大胆に
省略した料理法を教える小林カツ代(1937~2014)だった。
大阪の商家で育った小林は、料理好きな母、
食べることが好きで料理もする父のもとで育った。

舌は肥えていたが、料理を全くしてこなかったため、
結婚した最初の日に大失敗してしまう。
そこから奮起して実家の母や町の魚屋、八百屋などに
料理を教わり研究していくのである。
自己流で料理を覚えたことが、彼女の強みである。

小林が料理研究家になったきっかけは、テレビの
バラエティ番組への投書である。
料理コーナーを設けたら面白くなる、という彼女の提案に、
テレビ局側は「それならあなたがやりませんか」と答えた。
名店で取材した料理をスタジオで再現する仕事だった。

経験を重ね、売れっ子になる時期と子育ての繁忙期が
重なった小林は、多忙の中で考え出した簡単な料理を
次々と発表し、ますます高い支持を得ていくのである。

幸せな主婦のライフスタイルの象徴、栗原はるみ

やがて豊かな時代に生まれた世代が大人になる。
彼女たちは、毎食二品、三品を日替わりで作り、
手の込んだ料理もする母親のもとで育った。

しかも、彼女たちの成長期は外食産業が発展していく
時代と重なる。
プロの味も知って舌を肥やしているのである。

レベルアップを続ける日替わり献立を、自分も食べたい
女性たちが支持した料理研究家が、素材や調味料を
変えるなどして、新しいアレンジを次々と繰り出す
栗原はるみ(1947~)である。

また、幸せな主婦としてのライフスタイルを前面に出す
栗原を見て、料理研究家に憧れる女性が増加した。

21世紀になり、総菜や外食はますます充実し、需要が
高まっている。
理想の食卓の水準はますます上がって自らの技術が
追いつかなくなり、料理しない女性が増加している。

仕事を持つ女性が専業主婦より多数派になり、
男性と対等に働く正社員も増えたことが外注料理の
需要を拡大させている。

社会的地位が上がった分だけ女性は多忙になり、
料理する余裕がなくなっているのである。
彼女たちは、長時間労働の企業社会に巻き込まれている。

しかし、料理研究家は増え、書店にはバラエティあふれる
レシピ本が山と積まれている。
それは、料理の外注化が進む社会でも、自分で作りたい
と望む人々が少なくないことを表す、一筋の希望である。
・・・・


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子供が授からず婦人科を受診したら、
卵巣の腫れが見つかり、不妊治療も兼ねて
腫れを除去する手術をしました。

手術は予想外に大きなものになりました。
卵巣の腫れだけでなく、卵管が幼い頃の手術の
影響により、他の臓器と癒着して機能しておらず、
切除することになったのです。

そして術後、医師から「自然妊娠は完全に不可能です」
と聞かされ、もう私は”どん底”に突き落とされた
気がしました。

10年もの間、子に恵まれない私たち夫婦に
皮肉を言うでもなく、急かすでもなく、
いつも自然体で接してくれた義父母には、
ただ申し訳なさでいっぱいの気持ちになりました。

そして、子の誕生を義父母以上に望んでいた夫は、
これまでひと言も、それを私にもらすことすら
なかったのです。

”どん底”の中、夫にも義父母にも、身の縮む
思いの私の心境でした。
しかし、そんな私を救ってくれたのも、夫や義父母の
言葉だったのです

「あなたが無事でよかった」

夫と義父母のほぼ異口同音の言葉でした。
さらに医師からは、「体外受精という手段があります」
と説明されて、自分たちに必要な道筋が
より明確になったと感じました。

実は、現在の先行き不安な世の中で、
「本当に子供がほしいか、子供を幸せにできるか」
と内心、ずっと迷いがあったのは正直なところです。

そんな迷いを、夫と義父母の言葉が、
すっきり取り払ってくれたように思いました。
この温かい人たちに小さな命との出会いを
果たして差し上げたい。

「子供がうちに来てほしい。この人たちに会わせたい」
そんな意志を強く固めることができたのです。

これから不妊治療が実を結ぶとは限りませんが、
”どん底”の中で勇気をくれた「私の家族」には、
感謝の思いがつきません。・・・



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2018年9月18日 (火)

妄想劇場・the ライフ

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恋はまことに影法師、いくら追っても逃げていく。
こちらが逃げれば追ってきて、
こちらが追えば逃げていく。
  ・・・(シェイクスピア)


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「貧困」「格差」を体現する存在として言及される
シングルマザー。

必死で生活を維持する彼女たちの姿は、
現代日本社会で女性たちをめぐる状況の
縮図でもある。 ・・・

「がんばっている」「貧困」「かわいそう」のはざま

日本でも多くのシングルマザーは、大変な状況の
中でもなんとか子どもを育てているし、社会的な
手当もゼロではないのでそれなりの
支援も受けている。

楽しみもあるし、生き生き暮らすシングルマザーも
たくさんいる。
他方では、貧困率54.6%に表象されているが、
生活が苦しく希望がなく、なんとか生きている
状態の人もいる。・・・

生活が破綻しさまざまな危機的状況に
陥っている家庭もある。

しかしネット上で流布されているシングルマザーに
かかわる言説は「しんどい」「貧困」か、あるいは
「がんばっている」「生き生き」に分裂して
いるのである。どちらが本当なのだろうか。

逆境だからこそ「がんばっているシングルマザー」
もいる。
また、自分を表現するときにしんどいと言ったら
気力が崩れてしまうような気持ちもあるのである。

一方で夫の抑圧から解放されて、貧乏でも
生き生き暮らしているということも本当なのである。

シングルマザーは、「しんどい」「貧困」
「がんばっている」で表現される、きわどい
生活をしているといえる。
その生活は「学歴」「親族支援」「継続就労か否か」に
よって大きく異なる状況がある。

シングルマザーの大半が働くが、就労収入は
低空飛行5年ごとに行われている「母子世帯等調査」
(厚生労働省)によると、日本のシングルマザー
(母子以外の同居者がいる場合も含め、
20歳以下の子どもがいる母子世帯)の数は
123万8000世帯(父子世帯は22万3000世帯)であり、
年々増加している。
1973年当時と比較すると約2倍となっている。

シングルマザーの平均年齢は40歳で、
ひとり親になった経緯は、離婚によるものが
80.8%で、続いて非婚の出産7.8%、
死別7.5%と続く。

シングルマザーの年収は223万円である
(児童扶養手当や年金生活保護費などの
社会保障給付や養育費・仕送りなどを含めた額)。
就労率は80.6%と高いが平均就労年収は
181万円と低い。

この状況は、女性の賃金そのものが安いことが
関係している。

2010年の「民間給与実態統計調査」によれば
年収200万円以下で働く女性の割合は
約43%である。
しかも、年々非正規で働く男女が増え、
働く女性のうち7割近くが非正規労働者である。

実は、シングルマザーが貧困であるというより、
女性全体が日本では貧困なのである。

日本は男女の賃金格差が大きい国である
といわれているが、特に子育て中の男女の
賃金格差を見ると、日本の女性は男性よりも
6割も低い数字だ。

このため、日本では特に「母親であることは
高くつく」といわれている(OECD 統計)。

根強い「男性稼ぎ主システム」のしわ寄せ

こうした女性の賃金が低く、特に子育てしている
女性の賃金か低いのは、「男性稼ぎ主」システムが
日本に根強いからである。

日本では、高度経済成長期に、長時間労働をする
夫と無業あるいは補助的な仕事をして家事、
育児、介護をすべて引き受ける妻、そして子ども
という家族を標準モデルとする男性稼ぎ主システム
をつくりあげた。

年金の第三号被保険者、税制の配偶者控除、
賃金の配偶者手当などがこのシステムを支える
大きな要素である。

現在も日本の女性は、結婚と出産期に6割が退職し
専業主婦となるため、女性の年齢別労働力率は
M字型カーブを描き続けている。

こうした働き方と社会保障における男女の生き方を
規制してきた男性稼ぎ主システムにより、もっとも
しわ寄せを食っているのがシングルマザーである。

子育て中の女性には補助的な仕事しか与えない
労働市場で、子どもを育てるために賃金を得て
いかねばならない。

結婚出産で仕事を辞めず継続就労してきた女性は
離婚しても経済的ダメージは比較的少ない。

シングルマザーの「階層」問題

働くシングルマザーのうち、約4割が正社員等で、
5割以上は非正規で働いている。
この割合は年々非正規が多くなっている。

パート、アルバイトで働くシングルマザーの平均年収は
125万円である。
正社員で働くシングルマザーの平均年収270万円に
比較して、各段に少ない。

もうひとつ注目すべきなのは、シングルマザーの
いわば階層の問題である。

シングルマザーのうち中学校卒業の学歴の人は
比較的多く、13.3%である
(シングルファーザーは15.4%)。
ふたり親世帯の母親の学歴では中卒は
5%であるという。

中学校卒業が最終学歴のシングルマザーの
平均年収は129万円である。
日本では中卒では、取得できる資格が限られており、
職種も限定され、非就労の人や働いても非正規の
人が多くその結果収入も低い。

実際にシングルマザーの生活

ギャンブルにはまった夫と離婚、子どもの不登校も
乗り越える
Aさんは現在大学生と高校生の子どもがいる
シングルマザーである。
高校卒業後就職したイベント会社では正社員だったが、
夫(公務員)の転勤により仕事を辞めた。

第1子の里帰り出産時に夫がギャンブルに手を出し、
子どもを連れて帰ったときには消費者金融からの
借金が数百万円に上った。親族の支援を得て返済、

債務整理してギャンブルは二度としないという
約束をした夫は、第2子出産時にまたもや
ギャンブルに手をだし、今度はいわゆる闇金から
借りていた。

闇金の取り立ては厳しい。冬にガスが止められた家で、
子どもとAさんは震えながら取り立てに来る男たちに
居留守を使ったという。

しかしAさんは力があった。図書館で情報を得て、
離婚するしかないと思い、両親の家に戻り、
調停を経て離婚。

最初は派遣社員でしか雇ってもらえず、子どもが
病気で入院すれば、付き添いが必要で
仕事の継続は困難だった。

子どもが小学校に入ったころに、中小企業の
正社員になり仕事は一応安定した。
上の子は無事公立高校に受かるが、その後
さまざまな原因で不登校になっていた。
そして親に怒られて家出してしまう。

しかし、彼をフォローする大人もいて、無事に家に戻り、
その後は学習支援の場もあって通信高校を卒業、
大学に進学した。

借金による離婚は多い。
その後、離婚後仕事が安定するまでの困難期と
ともに、その後の子どもが思春期の困難期がある。

Aさんの場合は夫の借金という危機に対応する
力があり、またその後の生活の中でさまざまな
人間関係をつくっていたので、子どもの思春期の
危機にも対応することができた。

生活は楽ではない。
子どもの大学進学費用は、教育ローンと
日本学生支援機構の奨学金を借りている。
後者は子どもに返済の義務が重い。

夫の暴力で離婚後も生活の苦労が続く

ドメスティックバイオレンス(DV)による離婚も多い。
司法統計によると婚姻関係事件の申立動機別の
割合では、「性格が合わない」とともに「暴力を振るう」
「精神的に虐待する」「生活費を渡さない」などの
理由が多い。

Bさんは、4人の子どもを連れて離婚した。
元夫は農家の長男で結婚と同時に両親と同居した。
「嫁」の立場のBさんは、風呂を薪で炊き
入浴できるのは最後で、体が浸かる湯も
なかったという。

4人の子どもが生まれたが「嫁」いじめに耐えきれず、
夫の両親と別居した。
その頃から夫が転職、仕事がうまくいかなくなり、
借金とともに暴力・暴言が始まった。

夫の暴力で警察を呼んで別居。
離婚後にレストランのウェイトレスをして得る
収入は5万~6万円だった。
上の男の子による妹、弟への暴力もあり、
充分に働けない状態が続いている。

DV被害を受けたあと離婚したとしてもその影響は
続いている。
Bさんの子どもの場合もそうだが、被害後のケアを
受けられるチャンスは少ない。

児童扶養手当の充実阻む家族観・社会意識

日本のシングルマザーのさらなる困難は、
社会保障が少ない、ということである。
シングルマザーが働いて得られる収入はそれほど
多くなくても、税・社会保障によって貧困率が
改善する国は多い。
しかし、日本の場合には、それほど期待
できないのだ。

主に離婚したひとり親家庭に支給される
児童扶養手当や、一定所得以下の子どものいる
家庭に支給される児童手当が生活を支えるが、
一方では国民健康保険料や年金保険料などは、
低収入の家庭にも重くのしかかっている。

就学援助はあるものの、高等教育は
自己負担率が高い。
こうした結果、貧困率は改善されない
状況なのである。

政策の担当者も児童扶養手当の拡充により、
シングルマザーの貧困が改善することは
よくわかっている。にもかかわらずそれが
実現できないのは、日本社会そのものにある
家族観と「離婚は自己責任である」という
社会意識があるからだと感じている。・・・



A11111



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兄はお話もできません。
自分で歩くこともできません。
時々「あー」って大きな声を出します。

僕が小学校の時のことです。
僕は、この兄のことは、友達にも誰にも内緒にして
いました。

ある日の朝、母から頼まれました。
「今日は母さん、どうしてもはずせない用事があるから、 
養護学校の帰りのバス停に、3時にお兄ちゃんを
迎えに行って」

裕福な家庭ではなく、母も仕事をしていて、何かと
忙しいのはよく知っていました。
だから、仕方なくではありますが、兄をバス停まで
迎えに行くことにしました。

学校からの帰りに、兄を迎えに行きました。
しかし、この時間帯はちょうど下校時刻と重なり、
みんなと顔をあわせる可能性が高いのです。

車イスを押しながら、兄を誰かに見られたくない、
見られたらどうしようと、胸の高まりを感じていました。
普通の帰り道は舗装道路で、車イスもスムーズに
通っていけます。

僕は、ここで人目につかない裏通りを選んだのです。
この裏通りはデコボコの砂利道が続きます。
だけど、ここを通れば遠回りだけど、人目には
つきにくかったのです。

自分の恥ずかしさのために、わざわざ遠回りをして、
不自由な兄にとっては辛い、車イスでのガタガタ
通行をさせたのです。

そのようにして、時間をかけて我が家に帰宅しました。
少し遅れて、息せき切った母が帰って来ました。
車イスが汚れて埃まみれになっているのに、
母はすぐに気づきました

兄は、いつもと変わらず、ニコニコと笑顔で母を
見上げていました。
母は、汚れて埃だらけの車イスと、俯いている
僕の姿とを見比べて、すべて解ったようでした。

母が僕に言いました。
「ごめんね、あなたも辛かったんだね。
これからは母さんが迎えに行くからね」

僕は、この時の目に涙をいっぱいにためた
母の表情が忘れられません。
僕は、何ということをしてしまったんだろう。

ニコニコ笑って屈託のない兄に、本当に
申し訳ないことをした、それに僕を信じて
任せてくれた母に、何て悲しい思いをさせて
しまったんだ。

心から自分を恥じて、それからは率先して兄の
迎えに出るようになりました。
もちろん、舗装道路を使いました。

この兄を恥ずかしがる自分こそ、
本当は恥ずかしいのだと気づいたからです。

兄ちゃん、「ごめん!」兄ちゃんが悪いところを
全部、引き受けてここに生まれてくれたんだ。
兄ちゃんがいるから、僕は何不自由なく
生きていけるんだ。

そのことがやっと判ったのです。
兄は、相変わらずしゃべれないし、トイレも
ひとりで行けないけど、僕の顔を見ると、
輝くような笑顔を返してくれます。

世界で、一番自慢できる兄がここにいます。


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2018年9月17日 (月)

韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)

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アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい



Kensin1


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
良いかな・・・



Kansin

春秋末期の楚は、愚者たちによって
統治されていた。
能者は他国へ流れ、賢者はそねまれ死を
強要される。
しかし変革に立ち上がった者たちにも行動に
統一性は見られないのであった。

ある者は祖国を改革しようとし、ある者はあえて
祖国を滅ぼす、と主張する。
彼らはそれぞれに信念があり、正しかった。
誰が間違っていたというのか。 ・・・



韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)
:算すくなきは勝たず

まったく、ひとつの事実は人によって捉え方が
さまざまであると言わざるを得ない。
つまり僚の一族は、闔閭にとってことごとく
滅ぼさねば気がすまぬ存在なのであった。

しかしこれは、闔閭に同情的な見方をすれば、
自分のせいで救われぬ死を迎えた
専諸に対するせめてもの贖罪行為である、
とも言えるかもしれない。

しかしたとえそうであったとしても、結果は
自己満足の域を超えていなかった。
蓋余や属庸にどんな残酷な刑を与えてみても、
冥界の専諸が喜ぶことはなく、
ましてや甦ることなどあり得なかったからである。

だが、そのことを知っていても、もはや
立ち止まることはできない闔閭であった。

楚には私の意図せぬ形で警戒心を持たせる
ことになってしまったが、対応策がないことはない。
素早く迅速に鐘吾を滅ぼし、その上で
撤退するのだ。

勝ち逃げを決め込む」
孫武の言に、伍子胥は同意を示した。
こちらは三万の兵力しかない。
相手に態勢を整えられたら、太刀打ち
できないことになることは目に見えていた。

「急ぎ、襲おう。
呉王はまたも残酷な刑を行なうだろうが、
撤退に成功すれば問題が深刻になることはない。
改めて戦略を練り直すことができる」

「うむ。そうだ。
とにかく私は、勝つための戦いしかしない主義だ。
ひとつでも負ける要素があれば、撤退する。

このままでは、我々は鐘吾を滅ぼしたあと、
負けるのだ」
そう言うと、孫武は兵に号令を発し、鐘吾へ
進軍を開始した。

二日かけて舒から鐘吾に到達すると、その日の
午後には、公子属庸を虜にした。
そして例によって闔閭はこれを許さず、
斬首に処した。

「貴公らふたりの将軍としての能力を、余は
高く評価することにした。
このうえは、この勢いを持って楚都の郢に
侵攻したいと思うが、どうか?」

闔閭は気が大きくなっているのだろう。
彼我の戦力差もわきまえずにそのような
話をした。

孫武は必死になってこれを止める。
「我が軍兵は、二度の城攻めを経験し、
その前後にはるかな道を行軍しております。
疲れた兵は使い物になりませぬ。

いまはひとまず兵を帰還させ、休養させる
ことが先決です」
伍子胥も口酸っぱく説得した。

「我々が寡兵でも戦って勝利を得たのは、
相手が勝てる相手だったからに過ぎません。
徹底的に楚を滅ぼすには、いま少し算段が
必要です。

ここにいる孫武も言っております。
『算多きは勝ち、算すくなきは勝たず
(多算勝,少算不勝)』と」

彼らふたりの説得に応じる形で、闔閭は
ようやく撤退を許可した。・・・

無駄なことだと知りつつ、包胥と奮揚は軍を
引き連れ、鐘吾までやってきた。
しかしすでにそこには呉の旗がはためき、
城門の前に掲げられた属庸の首が遠目に見えた。

彼らは、戦わずにして敗れたのである。
これを返せば、呉は彼らと戦わずにして、
彼らに勝利したのであった。
まさに孫武の示した言葉の通りだったと言えよう。

・・・つづく



愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る・・



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高齢者向けのパソコン教室で、話題になった
ところがあります。

普通はパソコンの教室の先生といえば、20代、
30代が主力。
しかし、そのパソコン教室は先生に、なんと、
70代以上のおじいちゃん、おばあちゃんを起用!

おじいちゃんが先生。
高齢者向けのパソコン教室なので、生徒も
おじいちゃんです。

先生が若者だと、
「やっぱ、わしにはムリじゃ~~~~。
無念じゃあぁぁぁぁ」とあきらめていたのに、
おじいちゃん先生を見たおじいちゃん生徒たちは、
その魂に火がついた。

おじいちゃんVSおじいちゃん。

あのじいさんにできて、わしにできないわけがない。
やってやれないことはないんじゃぁと魂に火がついた。
すると・・・

すると、そのパソコン教室からパソコンを
ジャンジャンあやつれるスーパーおじいちゃん、
おばあちゃんが続々誕生したのです。

やれると思ったら、やれちゃう。
出来ると思ったら、できちゃうのです。

また運動オンチの若い男性のこんな話があります。
「学生のとき、毎日3キロ走ってたんです。
3キロと言っても結構しんどくて。

でも、ある日を境に突然、10キロ走れるように
なりました。
片思いしてた子が毎日10キロ走ってたことが
わかったからです。

ならば、僕も走れるだろうと思ったら、
翌日から普通に10キロ走れるようになりました」

限界は自分で勝手に作っているのかもしれません。
限界は自分の頭の中にだけある。
ならば、その枠をとっぱらえばいい。・・・
そういう人もいるんでしょうねぇ


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2018年9月16日 (日)

韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)

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アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい



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メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
良いかな・・・



Kansin


春秋末期の楚は、愚者たちによって
統治されていた。
能者は他国へ流れ、賢者はそねまれ死を
強要される。
しかし変革に立ち上がった者たちにも行動に
統一性は見られないのであった。

ある者は祖国を改革しようとし、ある者はあえて
祖国を滅ぼす、と主張する。
彼らはそれぞれに信念があり、正しかった。
誰が間違っていたというのか。 ・・・



韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)
:算すくなきは勝たず


舒はすでに陥落していたのである。
「早い! なんという早さよ」
報告を受けた包胥は舌を巻いた。
「蓋余はどうした」

使者に向かい、包胥と奮揚は異口同音に尋ねる。
使者は、思い出すのも恐ろしいというような
表情を浮かべ、それに答えた。

「このたびの侵略には、呉王闔閭が自ら
出征しております。
しかしながら、その編成は三万程度の兵に
過ぎません。
しかし舒はそれよりも守備隊の人数が少なく、
激しい城攻めに遭いました。
蓋余さまはそこで降伏を申し出ましたが、
呉王はそれを許しませんでした。
蓋余さまは……火刑となったのです」

紅花はそれを聞き、思わず顔を覆った。
奮揚は、声も出せない。
「生きたまま焼かれたというのか……
闔閭という男は、よほど僚の一族をうらんでいるな。

急ぎ、王さまと太后さまにご報告をしなければ
ならない。
出征の許可を取り付けるのだ」
包胥は立ち上がってそう言ったが、奮揚はそれに
よい反応を示さなかった。

「しかし……もう間に合わないかもしれない。
蓋余が残虐な方法で殺されたとなると、
次の呉軍の目標は鐘吾だ。

僚のもうひとりの弟、属庸が狙われる」
紅花も同じ反応を示した。
「舒と鐘吾はほど近い位置にあると聞いています。
郢から鐘吾に向かうよりも近くて、私たちが
これから向かったとしても間に合う距離では
ありません」

しかし包胥はこのとき強情を張った。
「そんなことはわかっている。だが、我々は
行かねばならぬ。
見捨ててはならぬのだ。

それに紅花……私たちがこれから向かうと
お前は言ったが、私はお前を戦地に連れて行こう
などとは考えていない!

お前の役目は、私に替わって太后さまを守ることだ!
めずらしく怒声を放った包胥の態度に、
紅花も奮揚も驚いた。

「お兄さま……すみません」
紅花は引き下がらざるを得なかった。それは、
彼女が兄の唱える「道」を真の意味で理解して
いなかったことを痛感したからであった。

「こんなことになるのだったら、王を連れて
くるのではなかった。
楚にいらぬ警戒を与えてしまったではないか」
伍子胥を相手に、孫武は嘆いた。

「まったく呉王は、この私の言うことを理解して
いらっしゃらない。
『その無備なるを攻め、その不意に出いず
(攻其無備、出其不意)』と私は主張して
いるではないか。

戦いにおいては、敵に油断させねばならぬのだ」
伍子胥は付き合いが長くなってきたせいか、
最近ではこの孫武という男の言うことが、いちいち
正しく思える。

しかし、彼はあえて反証を示してみせた。
「以前に君が呉王に対してしたことを思えば、
今回の件も同じようなことだとは言えまいか。

敵将を火刑に処した、ということは、相手に
恐怖心を抱かせることに効果的だ。
君は寵姫ふたりを殺したことで、女たちに恐怖心を
植え付け、その結果彼女たちを意のままに操る
ことができた。そうであろう」

伍子胥にとってはあらかじめわかっていたこと
であったが、孫武はそれを明確に否定した。
「蓋余という男が、楚の国民に死ぬほど愛されていて、
その死が誰にとっても悲しいというものであれば、
効果は確かにあるだろう。

だが、実際はそうではない。蓋余はもともと
呉の人間であったし、楚の国民の多くは、
彼のことを知らぬ。

彼らはただ、自国の将が火刑に処されたことを知り、
憤慨するだけだ。
反発を生み、警戒される。防御を固めるだろう。
とても『無備を攻める』ことにはならない」

「……その通りだな」
しかし闔閭は、また同じことをやるだろう。
それは伍子胥にも、孫武にも止められないことであった。
「胸がすく思いだ」闔閭がそう言うのには、理由が
ないわけではない。

彼は忠実なる臣下、専諸を失っていた。
客観的に見れば、その原因は闔閭自身にある。
しかし闔閭本人にとっては、もともと正統な継承権の
ある自分を差し置いて王位に就いた僚にすべての
原因が帰されるのであった。

・・・つづく


愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る・・


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在宅でのいのちの看取り、在宅ホスピスケアを
二十年続けているN先生の手記の一部を
ご紹介します。

事業で成功を収めたある六十五歳の男性は、
がんを二年前に発症され、治療を続けてきました。

しかし、積極的治療がもうできないと宣告されました。
それからは、お金に糸目をつけず代替医療を
何でも試しました。

残念ながら、どれも効果がなく、とうとう体力も
落ちて車いす生活になってしまいました。
私の往診が始まりました。

豪華な家から眺める絶景も、奥さんの心の
こもった料理も、子どもたちの優しい声掛けも、
ナースの助けも、この男性の救いにはならず、
無反応になり、人生を呪う言葉さえ吐くように
なりました。

夏でした。
この土地では時に四十度近くの猛暑になります。
私や看護師は吹き出る汗をぬぐいながら
往診しました。

クーラーのきいた病室に入ると、その男性は突然
「先生、僕はもう死にそうだよ」
と真顔で、大声で私に言いました。

それは何か私への試験のようでした。
その男性は本当にもう余命短く、死にそうなのです。
そこに居た家族も看護師も、全員凍りつきました。

私はすぐに答えました
「そうですか?私たちもですよ。
この暑さで死にそうです」

その男性は「確かにそうだ」と言うと、
ワハハと大声で笑いました。
久しぶりの笑いでした。

その日から、心のうちを少しずつ
話してくれるようになったのです。

自分がどんなに一生懸命働いて成功したのか、
どんなに家族や従業員を愛しているのか、
どんなにもっと生きて働きたいのか——。

「少し前まで、世の中は灰色だった。
でも昨日の夕焼けが美しかった。
以前見た富士山も星空もきれいだった。
僕は死んでしまうのに、世の中はこんなに
美しいんだ。

心が少し戻ってきて、色々とこれまでのことを
振り返ることもできましたよ。
僕の人生合格点だったかなぁ」
そして、好きな音楽を聴くようになりました。

ある日、妻に危篤になったら耳元で、
「さだまさし」をずっとかけてくれと頼んだそうです。

実際に危篤になった時、
妻は約束通り歌声を聴かせ続けました。
唇に笑みが浮かび、口ずさんだように思えた
最期のひと時でした。

≪中略≫

私は在宅で看取りの仕事をやり遂げると、
万感の思いで死亡診断書を書きます。

それは今世での宿題をやり遂げた方への
卒業証書なのだと自分では思えるからです。

誇らしい思いとともに、困難に立ち向かい合う姿から、
私たちに多くのことを教えて下さったことに
感謝の思いでいっぱいになるのです。
 


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2018年9月15日 (土)

妄想劇場・歌物語

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代表作

【作詞】タッキー&翼「仮面」「One Day, One Dream」
島谷ひとみ「YUME日和」「赤い砂漠の伝説」
V6「IN THE WIND」

【作詞・作曲】
V6/ 20th Century「Wishes-I’ll be there-」
SUGAR「風と花束」
ZONE「JET」など多数。
・・・





作詞論

僕にとって作詞は、限られた時間の中で難解な
ジグソーパズルを解いていく作業です。
日々の中に潜む真実のピースを、自分の形に
切り取って、さらにアーティストの輪郭に修正し、
メロディーという台紙にうまく収まるまでそれを繰り返す。
(この程度の表現力じゃ作詞家失格です。)
その上、完成したパズルは絵としても上等で
なきゃいけません。
難しいですね。でも解けたときは気持ちいいはずだ
と思ってやってます。


作詞家になったきっかけは?

サポートミュージシャンとして約4年間ミスチルと
一緒にいるうちに、俺でも桜井和寿になれるかも…
と勘違いして、曲作りを始めましたが、
とんでもなかったですね。やめときゃよかった。


プロ、初作品について

V6/20th Century「Wishes 〜I’ll be there〜」
初めて、自分以外の誰かが歌うことを意識して
書いた楽曲だと思う。

何よりも、こんなぽっと出の作家の曲を採用した
avexのディレクターの勇気が素晴らしい。


作品を提供したいアーティスト

賛否両論巻き起こりそうな問題作といわれるものを、
平気で歌ってくれる人。


あまり売れなかったが、私の好きな歌

ko-sakuさんというボーカリストが歌っている
「3号線」。
この詞は僕が唯一、自身の感傷を排さずに
書いたものです。
売れない前に、まだCD化されてませんが…。


なぜ「詩を書くことを選んだか」

演奏家から作曲・編曲家になる人は多いけど、
作詞家になるのは難しいだろうという
チャレンジ精神から。

詩を書くのが本当に好きな訳じゃない
みたいです。


プロの作詞家になりたい人へのアドバイス

これは自戒の意味を込めて…
グッとくる詞を書きたいのなら、魔術を生む言葉を
探すのではなく、人の心が人生や風景にかけた
魔術を見抜き、描写するべきだと思う。

そういう目を根気よく育てるためにも、音楽によって
自己が救われた、
音楽のために大事なものを犠牲にした、
といった何か強烈な体験が必要になるんじゃ
ないでしょうか。

「赤い砂漠の伝説」歌詞を見る

「♪シラシドシ シラシドシ」デモテープの仮歌を
作曲者の広瀬香美さんがドレミで歌って
らっしゃいました。

その印象が強すぎて「♪今夜もし 千の星」なんて
「シ」で韻を踏んだ次第です…
歌詞としては唐突な時代、背景、物語でも、
きっと島谷ひとみさんならこの「お伽話」を
具現化できるはず、と確信めいて書いた
感触を覚えています。

2003年の元日でしたが、作り終えたときに、
いわゆる職業作詞家としてやっていく手応えを
掴んだ大事な一曲です。


私の好きなあのフレーズ

デラムタングショデ・アズィザム・ジャエタンハリ (
ペルシャ語でデラム・タング・ショデ;あなたが恋しい。
アズィザム;英語でMy Dearの意。

ジャエタン・ハリ;あなたがいなくて淋しい。)
:「離れて十年 忘れはしない」


プロフィール

山口県下関市出身。
大学の軽音楽部でサックスと出会い、
ジョン・コルトレーンに憧れ1年で中退、
博多でバンド活動を始める。
解散後単身上京、プレイヤーとして数多くの
アーティストのツアー、レコーディングに
参加した。

そして94年からMr.Childrenのツアーに
参加したことが転機となり、ソングライターへの
道を辿ることになる。

30才を過ぎて生まれて初めて歌を作り、
その後現在に至るまで作詞家と作曲家と
プロデューサーのはざまで苦悩している。

産業医科大学医学部中退。1965年
2月17日生まれ、AB型



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何年か前の、5月の連休中のこと、あるご夫婦が、
ライトバンのレンタカーを借りて、佐賀から大分県の
佐伯(さいき)市を目指して出かけた。

佐伯市からは夜11時に四国行きのフェリーが
出ていたからだ。
有料道路も整備されていなかった時代なので、
充分な時間の余裕をもって出かけたつもりだったが、
迷いに迷ってしまい、大分の湯布院に着いたときは、
夜の9時だった。

ご主人はこれでは間に合わないとあせって、
大分南警察署に飛び込み、佐伯までの
近道を聞いた。

警察官は、「我々、大分の慣れた人間でも、
佐伯までは距離があり、山道で複雑なので、
道に迷ったり、事故にあうかもしれない。

今晩はあきらめて、ゆっくりここへ泊まり、
明日出かけたらどうですか?」
とアドバイスした。

しかし、ご主人は、「それは、できません。
実は、私たちの19歳になる娘が、高知県で
ウインドサーフィンをやっている最中に溺
(おぼ)れて亡くなった、という知らせを
今日受けたのです。

生きた娘に会いにいくのなら、明日でも
いいのですが、死んでしまった娘ですから
急いで駆けつけてやりたいのです」
と正直に事情を話した。

それを聞いた、警察官はそういうことなら、
「全力をあげて、何とか努力だけはしましょう」
と言った。

そして、すぐにフェリーの会社に電話をし、
事情を説明して、出港を待って欲しいと頼んだが、
「公共の乗り物でもあるし、キャンセル待ちが
何台もあり、難しい。
とにかく10時半までには来て下さい」、
と断られたという。

そのやり取りをしている間、もう一人の警察官が
署長に了解を取り、車庫のシャッターをあけ、
しまってあったパトカーを出してきた。

そして、赤色灯をつけ、レンタカーの前に
ぴったりつけ、
「今から、この車をパトカーで先導します。
このレンタカーの運転もベテランの警察官が
運転しますので、ご夫婦は後ろの席にかわって
ください」と言った。

そして、ものすごいスピードで大分市内まで
降りてきて、「我々はここから先は送れませんが、
とにかくこの10号線をまっすぐに南に下ってください。
そうしたら佐伯に必ず出られます。
どうか、頑張って運転してください」
と言って、敬礼をして戻って行った。

佐伯に着くと、警察官の再三再四の要請に、
船会社も動いてくれ、一台分のキャンセル待ちの
スペースを空けて待っていてくれた。

そして、フェリーになんとか乗ることができ、
娘さんの遺体を収容して帰ってくることが
できたという。

娘さんを亡くされたご夫婦は、その後何日間かは、
あまりの悲しみで呆然(ぼうぜん)とし、
何もできなかった。

しばらくして、気持も落ち着き、「あの時、
もし船に間に合わなかったら、どんな気持で
一日待っただろうか」、と思うと、いてもたっても
いられなくなり、大分南警察署にお礼の
手紙を出した。

そして、その手紙で、皆の知るところとなった。

そのときの若い警察官は表彰され、こう言ったという。
「我々だけじゃないと思いますが、人と人との
出会いは損か得かじゃありません。
損か得かだったら、こういうことは一歩も前へ
進みませんから」
・・・


運がいい人も、運が悪い人もいない。
運がいいと思う人と、運が悪いと思う人が
いるだけだ。・・・(中谷彰宏)


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2018年9月14日 (金)

妄想劇場・歌物語

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NHK『みんなのうた』の中でこんな歌が歌われました。
秋元康作詞・片桐周太郎作曲で、AKB48が
歌っています。
しんみりしたいい歌です。

その歌詞を下敷きにすると、こんなストーリーです。
ある田舎町の駅の近くに、二つの店が
並んでいました。

今だと、小さな専門店さんがうまく商売を
やっていくには、ちょっと難しい環境だから、
少し前の時代でしょうか。

履物屋さんと傘屋さんでした。
おのおのの店には、おばあちゃんが居て、
この二人はとても仲良しでした。

お二人ともご主人に先立たれ、子供たちも
自立していたのでしょう。
おばあちゃんたちに残されたのは、おのおのの
お店だけ。

それでも、お互い一人暮らしの寂しさは、
お隣どうし、行ったり来たりのお付き合いで、
ずいぶん慰められている様子でした。
お年寄りにとって、話し相手がそばにいるのは、
とても心強いことです。

そんなおだやかな日々でしたが、
ある日、履物屋のおばあちゃんが亡くなって
しまいます。
微笑みながらの旅立ちだったそうです。

傘屋さんのおばあちゃんも、やがて、
後を追うように亡くなりました。

それぞれの家族が、残された家の中の
遺品整理などをやっていました。
両方のお店の奥を見て、家族は驚きました

履物屋さんの押し入れからは、傘がいっぱい
出てきたのです。
傘屋さんの押し入れからは、履物がいっぱい
出てきました。

いったいどういうことでしょう。

履物屋さんからは傘がいっぱい、
傘屋さんからは履物がいっぱい。

おばあちゃんたちは、お互いの店まで行ったり
来たりしながら、自分たちがお互いにお客さんに
なっていたのです。

忙しい現代人からしたら、なんてムダなことを。
お金のムダ、時間のムダじゃない。
これだから年寄りは……。
…そんな声も聞こえてきそうです。

でも、この歌の歌詞の最後はこうです。

「履物の数だけ、傘の数だけ、
しあわせがそこにありました。
しあわせがそこにありました」

こんな歌です。






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彼は小さなタクシー会社の運転手さんです。
気が短かく、接客態度もあまりよくありません。

それなのに、病院に通うお年寄りからは、圧倒的な
人気があるのです。

お年寄りを乗せて病院の玄関前に着くと、
気短かな彼は、お年寄りが降りるのを待っていられません。
彼がお年寄りから絶大な人気を得ているワケは
何なのでしょうか?

彼は、お年寄りが降りたあと、車から離れるのを
見届けることができません。

だから、車から降りようとするお年寄りに、
「俺の背中につかまれ」と、やおらおんぶして、
そのまますたこら待合室まで運んでしまうのです。

「年寄りが降りるのを待っていたら、商売に
ならないからやっているだけだ」
彼はそっけなくそう言います。

要は商売の効率を上げるためにやっていることで、
親切ではないというわけです。
でも、お年寄りや障害者の方の目には、これが
「親切」と映ります。

車に乗るとき、彼をリクエストするお年寄りが
すごく多いそうです。
本当は優しくて、親切なんでしょうね。

でなければ、お年寄りが、わざわざぶっきらぼうな
運転手さんを指名するはずはありません。

お年寄りは特に、気を使わせることに自分の
心を痛めます。
ことさらに「商売の効率化」を主張する運転手さん、

…たぶん自分の思いやりで、
お年寄りによけいな気を使わせたくないのでしょう。


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私が嫁さんと結婚してから2、3年が経った頃の話
だったと思います。
(私は、世間でいうマスオさんです)

嫁さんの祖母アサエお婆ちゃんと夕食が終わった後、
その場に二人きりになった時のことでした。
(ちなみに、その当時は、まだアサエお婆ちゃんの
認知症は出ていませんでした)

アサエお婆ちゃんが、私に向かって、真面目な顔で、
自分の葬式の事を話し始めたのです。

「私が死んだらね、普通は真っ白の着物とかを
着せると思うばってん、私には、タンスの中に
入っとる右下に花の模様が刺繍されている着物を
着せてね」と言うんです。

普段はとても地味なお婆ちゃんが、なぜだろうと思い、
「なんで?」と聞いてみると、

思わぬ言葉が返ってきたのです

「私はね、主人が戦争に行って、1年ちょっとしか
寄り添うとらんと。
だから、死んでもう一度主人とあの世で結ばれたいから、
花嫁の時に着た衣装ば着せてくれんね」と・・・。

私は言葉も出ず、酒を飲んでいたせいもあり、
涙がポロポロ・・・。

その後、その衣装は一度も探していません。
もし見つかると、なんとなく嫌な予感がしたりして、
見つけることができないんです。

そんなお婆ちゃんは、今でも毎日、何度となく仏様に
手を合わせています。・・・


運がいい人も、運が悪い人もいない。
運がいいと思う人と、運が悪いと思う人が
いるだけだ。・・・(中谷彰宏)


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2018年9月13日 (木)

妄想劇場・妄想物語

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TVドラマ『白虎隊』の主題歌です。





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じいちゃんとばあちゃんは2人で暮らしてた。
ばあちゃんは認知症が進んでた。
じいちゃんが介護してた。

いろいろ大変だったみたいだけど、
会話はできているようで、
じいちゃんは、人が思うほど大変じゃないよって
言ってた。

ばあちゃんの家に行くと、いろんな事が紙に
書かれていた。

「冷蔵庫は閉めましょう」「電気は消しましょう」
「トイレはこちら→」「ふく、くつしたはここ↓」
とか、いろんな字がじいちゃんの手で半紙に
筆書きされていた。

書いてあれば、おばあちゃんは理解できるし、
言いつけもちゃんと守ってくれるんだって。

じいちゃんはいつも一緒にいてあげたけど、
どうしても区役所とか病院に薬をもらいにとか
出かけることがあった。

そんな時も「外には出ないこと」と玄関に書いて
おけば、おとなしく待っていてくれたそうだ。
それでもやはり心配だから、
じいちゃんは出先から大急ぎで帰宅していた。

ある日、じいちゃんが何かの用件で出かけた。
もちろん玄関には「外には出ないこと」と書いて
おいた。
それなのに、じいちゃんが戻ってきた時には、
ばあちゃんは救急車で運ばれた後だった。

ばあちゃんは家のすぐ前で、交通事故に
遭ってしまったのだ。

じいちゃんが駆けつけると、待っていたかのように、
ばあちゃんは、じいちゃんの手を強く握り、
その後あっけなく亡くなってしまった。・・・

じいちゃんはとても悔やんだ。
家族全員が悔しかった。
今まで書いてあることは必ず守ってたのに、
なぜ家を出たんだろう。

家族同然の付き合いをしていた隣のおばちゃんが
話をしてくれた
事故の直前、急に雨が降ってきて、
隣りのおばちゃんは、布団を取り込みに
庭に出たそうだ。

そして、ばあちゃんが傘を持って慌てて道路に
出るのを目撃した。
おばちゃんは、急ぎばあちゃんの後を追いかけたが
間に合わなかった。

見通しの悪い交差点の赤信号を渡り、
車も、降り始めた雨で視野を妨げられた模様。・・・

日ごろから、じいちゃんは鍵をかけての閉じ込め
状態を避けていた。
ばあちゃんが可哀想だという気持だけでなく、
もしも万が一の火事を考えてのことだった。

思えば、じいちゃんが勤めていた頃、
ばあちゃんは雨が降ると、必ず駅までじいちゃんを
迎えに行ってたそうだ。
ちょっとでも雨が降ると必ず迎えに行って
たんだって。

雨を見て、じいちゃんが家に居なくて、
ただそれだけで、ばあちゃんは落ち着きが
なくなったのだろう。

昔の行動が反射的によみがえり、
傘を持っていこうとしたのに違いない。
それだけ、じいちゃんが好きだったんだ。

じいちゃんもばあちゃんが好きだった。
じいちゃんもしばらくして、追うように病気で
天国へ行った。

今はもう二人ともここにいない。
だけど、じいちゃん、ばあちゃん達は
幸せだったんだと思う。
いつもお互いを労わりあっているふたりだった。

・・・



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じいちゃんは、定年退職後バラの手入れに
第二の人生を見いだした。
朝から晩まで、庭中に置いてある100株以上の
バラの鉢の世話に明け暮れている。

時々品評会などにも出品し、好成績を
おさめているらしい。

消毒などで近所の人たちにご迷惑をかける
こともあるので、じいちゃんはバラが咲いたら
惜しげもなくあちこちに切り花として配る。

通りすがりの人がほめただけでも、
じいちゃんは花束にしてバラをプレゼントする。
近所の公民館、幼稚園、グループホームなどへも
寄贈している。

病院のロビーにも欠かさず届けているので、
受付の人や先生ともなじみになっている。

じいちゃんは風邪をひいてしんどくなって近所の
病院にいくと、特別に待ち時間なしにしてもらえたと、
嬉しそうに話していた。

じいちゃんのバラは大好評で、地域をあげて
じいちゃんを応援してくれる。
窃盗の多い地域だけど、じいちゃんの鉢だけは
誰も取って行くことはなかった。

今までは・・・。

じいちゃんはバラの盆栽にはじめて挑戦した。
何年目かの春、あまりにみごとに咲いたので、
地域の公民館の作品展に出品し、
○○公民館祭芸術賞を受賞して、鼻高々だった。

まるでサクラのように古風に咲くバラの花は
本当に美しくて、じいちゃんは地域の人にも
もっと見てもらおうと、玄関先に出しておいた。

月夜の晩には暗闇に凛として、それはそれは
美しい花だった。
ある朝じいちゃんが玄関に出ると、鉢はなかった。
はじめて盗まれて、じいちゃんは呆然としていた。

鉢は近所の主婦が持っていたのが分かった。

その主婦の近所の人数人が、
「この花は○○さんちのじいちゃんが
咲かせたものだ」
「なぜじいちゃんとつきあいのない貴女の
家にあるの?」と口々に尋ねたらしい。

主婦は泣きながら、つい魔が差して盗んだことを
白状し、近所の世話好きママに連れられて
わが家まで謝りにきた。

じいちゃんは、
「その鉢はこの人にあげたものだ」と言い張り、
鉢を受け取らなかった。

付き添いのご近所ママが帰ったあと、
じいちゃんは、その主婦と長い時間話をしていた。

主婦はお金がないわけではなく、仕事と浮気に
夢中で家庭を顧みない夫と、育児疲れとで
ぼろぼろになっていたそうだ。

そんな時に、つい美しいバラに目を奪われてしまったと、
泣きながら告白したらしい。

じいちゃんは主婦に改めてバラの鉢をプレゼントし、
じいちゃんの庭で一緒にバラの手入れをしようと
提案した。

主婦はその後気持をあらためて、じいちゃんに
師事しバラの育成を学んだ。
その結果、主婦の家はご近所で有名な第二の
バラ屋敷となった。

花の咲き乱れる主婦の屋敷には園芸好きの
人たちが出入りするようになり、
孤独で引きこもりがちだったかつての主婦は
すっかり明るくなった。

浮気ざんまいだったご主人も主婦のところに
無事帰ってきた。・・・


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2018年9月12日 (水)

妄想劇場・妄想物語

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
  真実もある。・・・


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日本で最も知られた義賊といえば、五右衛門風呂で
有名な石川五右衛門ではないでしょうか。

歌舞伎や浄瑠璃などの伝統文芸からテレビドラマ
・ゲームに至るまで、五右衛門はさまざまな作品に
取り上げられています。

庶民に愛された伝説の大泥棒

江戸時代に創作作品として盛んに取り上げられたことで
知名度を上げた石川五右衛門。
彼がいつ・どこで生まれたのか、その生涯について
はっきりしたことは分かっていません。

しかし、文禄3年(1594)8月24日に処刑されたことを
示す記録が複数残っており、実在の人物であることは
間違いないようです。

石川五右衛門は安土桃山時代に活躍した盗賊の首領で、
貧しい人から金品を盗むのではなく、富める者や
権力者から盗みを働く義賊として一般的に
知られています。

庶民からの人気も高かった五右衛門は、その人気と
カリスマ性で多くの部下を抱え、京都・大阪を中心に
暴れ回っていたようです。

豊臣秀吉に捕らえられ釜茹でに!

多くの伝説を残した五右衛門ですが、最後は
豊臣秀吉の配下に捕らえられて三条河原で
処刑されてしまいます。
処刑方法は釜茹でという残酷なものでした。

五右衛門の最期の記録。

林羅山の『豊臣秀吉譜』によると、五右衛門は
文禄の頃に強盗や追いはぎなどを働いたので、
秀吉の配下の前田玄以(まえだげんい)によって
捕らえられ、母親や20人の仲間と釜煎りにされた
と記録されています。

秀吉が残酷だったのか、五右衛門が権力者から
相当憎まれることをしたのか、母親まで一緒に
処刑されてしまった理由は今でもわかっていません。

『日本王国記』に描かれた五右衛門

当時の日本に貿易商として滞在していた
スペイン人のベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの
記した『日本王国記』には、京都を荒らし
まわっていた盗賊の頭目15人が捕えられ、
三条河原で生きたまま煮られたと
記録されています。

この記録にはイエズス会の宣教師による注釈も
入っており、そこには石川五右衛門とその家族が
油で煮られて処刑された」と記されています。

さまざまな伝説でその名を残す

謎に包まれた五右衛門の生涯については、
伝説が残っています。いずれも彼の盗みの技術や
義賊としての姿を伝えるもので、その一部が
歌舞伎の演目になるなどして庶民から人気を
得るようになりました。

忍者だったという説

五右衛門は伊賀流忍術の祖とされる百地丹波
(ももちたんば)の弟子だったという伝説があります。
伊賀流忍術といえば、いうまでもなく甲賀流忍術と並ぶ
有名な忍術で、百地丹波は、信長と戦いを
繰り広げた高名な忍者でした。

伝説によれば、百地は孤児だった五右衛門を
引き取って忍者として育て上げましたが、
成長した五右衛門は百地の愛妾と妻を殺害し、
大金を盗んで逃げてしまったのだそうです。

それにしても、忍者の最高峰ともいえる百地を
だまして逃げおおせるとは、忍者として
生きていたとしても、すごい一生を送った
かもしれません。・・・


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五右衛門が活躍した時代に天下人として君臨
していたのが豊臣秀吉でした。
現在では大阪でも親しまれている秀吉ですが、
当時の豊臣政権はあまり人気がなかったようです。

秀吉の居城に盗みに入り捕まる

石川五右衛門は太閤、豊臣秀吉の居城、
京都・伏見城の潜入に難なく成功する。

狙うお宝は秀吉の寝所に置かれている「千鳥」
と呼ばれる円筒形の青磁の香炉だ。

また、当時の関白、豊臣秀次の家臣、
木村常陸介に秀吉暗殺を依頼されたとの
説もある。

実の子の「秀頼」をかわいがる秀吉を養子の
「秀次」は妬んでいたわけです。
「絵本太閤記」に五右衛門という人物が
常陸介とつるんでいたという記録があります。


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五右衛門がこの香炉に手を掛けようとした瞬間、
香炉が鳴いたというのだ。・・・

これで目をさました秀吉。すぐさま五右衛門は
周囲の警護に取り押さえられてしまう。

釜茹での際に子どもを…

その衝撃的な処刑方法からか、多くの伝承が
残されている五右衛門の釜茹で。
五右衛門は一人で釜茹でにされたのではなく、
子どもや母親と一緒に処刑されたと
伝えられています。

一説には子どもを守るために自分が力つきるまで
両手で頭上に抱えていたとあり、その姿を残した
絵も残されました。

他にも、苦しませないためにひと思いに沈めて
殺してしまった、
五右衛門自身が苦しさのあまり子どもを
下敷きにしてしまった、などの逸話が残っています。

五右衛門の処刑は公開されていたため、当時の
庶民にとっても衝撃的な情景であったことは
想像に難くありません。・・・

創作作品によって後世に

安土桃山時代に活躍し、最後は時の権力者である
秀吉に釜茹でにされて処刑された石川五右衛門。

彼が実在したということまでは複数の記録から
判明していますが、まだまだ不明なことも多く、
その真の姿は謎に包まれています。

謎に満ちた生涯は、江戸時代の作家たちの
創作作品の題材として取り上げられました。

歌舞伎や浄瑠璃などで五右衛門は権力者の
秀吉と対立し命を狙う義賊として描かれ、
その痛快さから庶民に絶大な人気を得ました。
・・・


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「あの、バージンロードのことなんですが、
エスコート役は直前でも変更可能なのでしょうか」

事前のお打合せでは、お父さまの足がご不自由なため、
新婦の7つ年上のお兄さまが、お父さまの代わりに
歩かれることになっていました。

「大丈夫ですが、お兄さまのご都合が悪くなって
しまったのでしょうか」
いったいどうしたのだろうと、おうかがいすると、
「娘には内緒なのですが、実は主人が歩く練習を
しているんです」

「娘の結婚式が決まってからというもの、
時間ができると『リハビリに連れて行ってくれ』と
言うようになって、それも子どもたちには内緒で」

「バージンロードを歩くために、ですか」
私は胸がいっぱいになりました。
「わかりました。ぜひ、お父さまにお願いしたいです」

支度を終えた新婦がバージンロードの前で
待機していると、車椅子のお父さまとお母さま、
そしてお兄さまが来られました。

「お兄ちゃん、よろしくね」

新婦が声をかけると、ウエディングドレス姿の
妹を見つめながら、お兄さまは黙って
首を横に振りました。

「えっ、どういうこと?」

答えの代わりに、お兄さまが少しかがんで
お父さまに肩を貸されました。
お母さまは既に涙ぐみながら、お父さまに杖を
手渡されます。

「え・・・、お父さん?」

「行くぞ」
「・・・・はい」
新婦は瞳をうるませて、お父さまの腕に
手をかけました。

お父さまがエスコートするのではなく、
新婦がお父さまを助けるかのように支え、
歩みを合わせているのが、こちらからも
わかります。

お父さまは堂々と前を向かれ、歩みを
進めていきました。
新郎の背中をぽん、と叩き「頼んだぞ」と
お父さまの声が聞こえたような気がしました。

披露宴の半ば、
突然司会者がこう切り出したのです。

「本来、ここで祝電を披露させていただくのですが、
ここに一通のお手紙をお預かりしておりますので、
ご披露させていただきます。

差出人は新婦のお父さまです。
それでは、代読いたしますS(新婦の名)へ。

私は静岡の田舎で男兄弟ばかりの中で
育ったものだから、女の子をどう育てていいのか
わからず、母親に任せっきりにしていました。

運動会や学芸会もほとんど行けず、仕事ばかり
してきた父親でした。
すまないと思っています。

ただ、父親の務めであると思いながら、
どんな仕事も一生懸命やってきました。
それだけは自信を持っています。

とはいっても、あなたにとってみれば、厳しくて、
門限にもうるさくて、うざったい父親だったでしょう。
でも、君がうちの娘に生まれてきてくれたこと、
本当にうれしかったです。

今まで言ったことなかったけど、本当にありがとう。
今日、あなたが花嫁となって、O家の人間から
U家の人になっていくこの日に、どうしても何かしたくて
恥をしのんで、お母さんとリハビリをがんばりました。

これで今まで何もできなかったことは許して
もらえるとうれしいです。
Hくん。どうぞ、Sをよろしくお願いします。

あふれ出る涙をぬぐう新婦。
その横では、新郎がお父さまに向かって
頭を下げています。
会場のあちこちで、鼻をすする音が聞こえてきました。

読み終えたお父さまからの手紙をしまった司会者が、
もう一通、封筒を取り出しました。

「実は、新婦からもお手紙を預かっております。
続けてご披露させていただきます」

その手紙にはこんなフレーズがありました。
「・・・いつも怒ってばかりで、門限も厳しくて、
お父さんの存在が嫌になったこともたくさん
ありました。
でも、今は、厳しく育ててくれたことにとても
感謝しています」

先ほどまで堂々とされていたお父さまも、
目を真っ赤にしていらっしゃいます。
会場は感動に包まれ、温かくやさしい拍手が
しばらく鳴りやみませんでした。・・・


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2018年9月11日 (火)

妄想劇場・番外編

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



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障害者の性は、タブー視はおろか性欲までも
否定されてきた。
だが、実情はそうした偏見とはかけ離れている。
声なき声を聞いた。・・・

難病の「脊髄性(せきずいせい)筋萎縮症」を患う
男性(39)が、性の悩みに直面したのは高校生のとき。

24時間寝たきりで、動かせるのは顔の表情と
左手の親指だけ。

自分でマス○ーベーションはできず夢精するしか
なかった。
母親は何も言わず、汚れたシーツを替えて
くれたという。

男性は振り返る。 「恥ずかしかったけど、
どうしようもできないので」 次第に性欲は
強くなったが、介助者にマス○ーベーションを
頼めるはずもない。

20歳のころ、知り合いの障害者に教えてもらい
デリ○ルを呼んだ。感激したのを覚えている。

初めてのセッ○スは20代半ば。
知人の障害者に教えてもらった風俗店に行った。
以来、風俗店には3、4回。本当はもっと通いたいが、
お金の問題や移動の困難さなどがある。

今は2カ月に1度ほどデリ○ルを呼ぶ。
60分で1万5千円。デリヘル嬢がいる時は、
介助者には席を外してもらうのだと笑う。

お金で「性」を買うことに対してあまり深く考えた
ことはないというが、「僕には、ほかに方法がない」

内閣府の「障害者白書」(2017年度版)によれば、
身体・知的・精神障害者の数は約859万人。
複数の障害を併せ持つ人もいるので単純な
合計にはならないが、国民の約6.7%が何らかの
障害を有していることになる。

しかし、障害者の性は「古くて新しいテーマ」だ。
オランダのように「セッ○スボランティア」という
仕組みがあり障害者の性サービスを自治体が
補助している国もある。

だが日本では、障害者の性についてのガイドラインも
システムもなく、もっとも私的な問題として
タブー視されてきた。

人間らしく生きていくために必要な最低限度の
性の健康と権利の確保という「性の自律」は、
日本の障害者には保障されていない。・・・

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「そもそも福祉への従事者を養成する学校の
教育課程において、性のニーズやその支援について
学生が学ぶ機会は、ほぼ皆無。

しかも、支援の一環として行動すれば困難が
予想される問題だけに『寝た子を起こすな』
という考え方は、社会には依然として根強くあります」

タブーの中に閉ざされた障害者の性は、
健常者からは偏見の目を向けられてきた。
かつて福祉や介護の現場では、障害者の性欲を
否定する人すらいた。

一方で障害者も、障害があるがゆえに、
強く自己否定する傾向があったといわれる。

脳性麻痺で車いす生活を送るまゆみさん
(35、仮名)は、普通学校に通っていた
中学・高校生の時、恋愛に対し
「こんな私なんか」と思っていたという。

両手足が不自由なまゆみさんは、何かするには
サポートが必要だ。
そんな自分を好きになってくれる人なんて
いない、と。・・・

見た目の印象から奇異な目で見られ、人を好きに
なるという当たり前の気持ちを抱くことすら
否定されたこともある。

中学生の時、健常者の同級生に恋愛話をすると、
「バリキモいんやけど。ガイジのくせに」
と笑いながら言われた。

ガイジとは「障害児」を意味するネットスラングで、
蔑みの言葉だ。
その時、何も言い返せず悔しい思いをした
というまゆみさんはこう話す。

「私だって恋心は芽生えてくるし、人を好きに
なるという気持ちを抑えることはできません。
障害があっても好きな人とセッ○スしたい」

一昨年、まゆみさんは自分を受け入れてくれる
かもしれないと思う男性と出会った。
だが、セッ○スの体位が制限されるまゆみさんに、
男性は言い放った。・・・

「しょせん、脳性麻痺やな」
自分ではどうしようもできない部分、なおせない
部分を言われ、苦しんだ。
まゆみさんは、絞りだすように吐露する。

「障害者の性的な感覚は健常者の感覚と
何ら変わりありません。
障害者は、自身のどこかに困難を抱えてしまった
だけに過ぎない人です」・・・

脳性麻痺で言語と運動機能に障害を抱える
主婦の大畑楽歩(らぶ)さん(40)は妊娠中、
年配の人たちから「身体に障害を抱えていても、
ちゃんと赤ちゃんは育つのね」などと
言われた言葉が忘れられない。・・・

「毎月の生理の処理が大変なら子宮を
取っちゃえば」と言われたこともあった。
障害者に対する社会の認識の低さに驚くとともに、
無意識に人々の心に潜む「優生思想」を
感じたという。

「それらの発言は無邪気なまでに悪気はなく、
余計に暗澹たる思いが募りました」
・・・(大畑さん)


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脳科学コメンテーターの黒川伊保子さんによると、
夫婦には「ある法則」があるという。

「結婚7年目、14年目、21年目、そして28年目に
夫婦の危機がやってくるのです。
すべて7の倍数の年ですが、これはヒトの脳に
7年という生体周期があるからです」

人の脳は、7個までの情報は覚えやすく、
7個の属性で表現された情報には完全性を感じる
傾向がある。

脳には何かを理解するときに、とっさに使われる
「記憶の仮の収納場所」のようなものが七つあるためだ。

「たとえて言うならば、脳には『世界観』をあらわす
テーブルがあり、そのテーブルには座席が
七つあるのです。

座席が埋まれば、ヒトは全部そろった感じがして
安心します。
ラッキーセブンに七福神。幸福は東洋・西洋を問わず、
七つの座席をいっぱいにしてやってくるようですね(笑)。

七つの座席を埋めるのが時間幅を持つ情報ならば、
これが埋まったとき、脳は『時間の完結性』を感じます。
つまり『一巡した』という感覚を覚えるのです」

脳は地球の公転(1年)と自転(1日)をカウント
しているので生体周期には7年周期と7日周期がある。

「7年周期については、骨髄液が満7年で
入れ替わることがわかっています」

人間の骨髄液は毎日少しずつ入れ替わっているのだが、
まるまる入れ替わるのには7年かかる。
満7年で骨髄液が入れ替わるのに連動して、
生体の免疫システムも入れ替わっていく。

生体は外界から何かしらの刺激を受けると、
免疫システムが反応して自らを防御する。
しかし同じような刺激が繰り返されていくと、
脳はだんだんに慣れてくる。

「たとえば田舎から都会に越してきた人が、
最初は街の雑踏がうるさくて眠れないのに、
やがて慣れてきて気にならなくなる……
といったようなことと同じで、あまりに定常的な
刺激が繰り返されると、

『これは刺激ではなく、環境の一部として受け入れて
いかなくてはならない事象である』と免疫システムが
受け入れていくようになるのです。
このようにカラダが完全に事象を納得するのにも、
7年かかるというわけです」

結婚生活が始まると、夫婦は互いの体臭の中で
暮らすことになる。
初めは互いの匂いが“外界の刺激”に感じられるから、
ドキドキもするし、ムラッと発情もする。

ところが結婚7年目となると夫婦の免疫システムは、
互いの匂いを刺激ではなく、環境の一部として
納得をする。
ゆえにドキドキもしなければ、ムラムラも
しなくなってしまう。

「脳の感性も7年ですっかり慣れてしまう……
というか、すっかり飽きて気が変わってしまうんです。
だから新婚気分は続かず、夫婦には倦怠期というものが
訪れるのです」

そして7年×4=28年の大きな周期でヒトは正反対の
感性へと向かう
(元の感性に戻るには、なんと56年もかかる!)。

「ゆえに結婚28年目は、夫婦の最大の危機なのです。
結婚28年目は夫も妻も結婚した当時の気分の
真逆にいます。

しかも脳の感性の振れ幅は、プラスが大きければ、
マイナスも大きいので、かつて激しく愛し合った夫婦ほど、
28年目に激しい拒否反応が出てしまうのです。
これは女性のほうが顕著に表れます」

なんてせつない話なんでしょう。

「そうですよねえ。脳の真逆の感性からくる
『嫌悪感』で離婚等に突っ走っていくのは、
ちょっともったいない気がします。

脳科学の観点から言えば、結婚30年を
超えるころになると、見るのも嫌だった夫に対して、
徐々に愛しさが戻ってくるのです。

そして結婚35年目にもなると、今までにはない
『夫婦としての一体感』も経験できるはずです」

結婚28年目の最大の危機を乗り越えられた
カップルの場合、今度は少しずつ親和性が増していく。
そして28年目の7年後である「結婚35年目」には、
「やっぱり自分の伴侶はこの人だった」と
納得する人が多いらしい。

「脳科学上は、夫婦は35年連れ添ってみないと、
本当の相性はわからないのです」

日々の夫へのムカつきを、妻はどう抑えれば
よいのだろう。

「そもそも男性と女性では、持っている感性自体が
違います。
だから同じように行動しなくて当たり前、
話が噛み合わなくて当たり前ということを
頭に置いておくとといいと思います」

男性の場合、眼球は半径3メートル以遠の動くものに
瞬時に照準を合わせるために「遠くをちらちら見る」
という動き方をする。

しかし女性の場合、眼球は半径3メートル以内を
なめるように見て、針の先ほどの変化も見逃さない。

このように男性と女性は「視覚の守備範囲」を
真っ二つに分けて持っているのだ。
だから女性から見た男性は「落ち着きがなく、
目の前のものを見逃す、見るべきものを
見ていない人」に思えるし、

男性からすれば「飛んできたものをキャッチする
能力が低く、車線変更のタイミングが悪い、
見るべきものをちゃんと見ていない人」に思えてしまう。

「どちらも自分の守備範囲外の能力では
認知できません。
だから相手の“できないこと”ばかりが目について
しまいます。

でも考えてみてください。ベストパートナーというものは、
何も同じときに同じことをする関係でなくてもいいはずです。

『違うこと』をして、互いに補完し合う関係でもいいはず。
『自分にできることができない人は、
自分にできないことができる人』。そう考えれば、
腹も立ちにくくなります」

ときに意見が対立したり、相手がわかってくれない
ことがあっても、それを突き詰めることに意味はない。

「互いに世界観が違うのですから、わかり合えない
部分は当然あります。
『なるほど、相手にはこう見えるのか』と、
このすれ違いはゲーム感覚で楽しむことが大切。

そして別々の趣味を持ったりして、別々の人生時間を
持つことで気分を紛らわせることも、夫婦を
長くやっていく上では必要なことではないでしょうか」

※ Author:週刊朝日・赤根千鶴子


愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る


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2018年9月10日 (月)

妄想劇場・番外編

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・


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『性なる江戸の秘め談義』

江戸や明治期の文献、日記などさまざまな資料に
記された生々しい性愛の記録
当時の人たちが自らの性生活について赤裸々に
記している。

不倫、BL、人妻のホストクラブ通い・・・。
これ、実はお江戸の話。
われらがご先祖さまたちも、現代と同じように性を楽しみ、
翻弄されていた。

歴史学者の氏家幹人さんに聞く「江戸のエロス」とは?

たとえば中国には、そういった前近代の記録はほとんど
ありません。
戦で焼失したこともあるのですが、そもそも性的なことを
書いたり話したりするのを中国人は嫌がります。

それに比べると、日本人は記録好きで、さらに性について
書き記すことにもあまり抵抗がないのかもしれないですね。

中でも青年武士・岩松満次郎俊純の日記は、
実に興味深い記録でした。
新田家と足利家の流れを組む名門の継嗣(けいし)で、
幕末には「新田官軍」として新政府軍に従い、
明治期には男爵の称号も与えられた人物です。

日記が書かれた嘉永6(1853)年は、浦賀にペリーが
来航し、その後まもなく将軍・徳川家慶が死去した
激動の年。

そんな中、家督を継ぐ前だったとはいえ、俊純は
何月何日に誰と何回やって、何回絶頂に達したか、
あるいは何回イカセタかなど、ただただセッ○スの
記録だけを記し続けているのです。

明治の文献として取り上げた俳人・荻原井泉水が
10代に記した日記は、まさに「青春手淫日記」。
「手淫(しゅいん)」つまりマス○ーベーションがもたらす
快楽と罪悪感との間で揺れ、脳に悪影響があるから
と「手淫禁止」を誓ったり、かと思えば我慢できずに
すぐにその禁を破って落ち込んだり。
そんな若さゆえのイライラと悶々が延々と
書かれています。

性愛やエロスというと春画や春本がありますが、
あれはまあポル○にすぎない。
リアルな性生活がどうだったのかは、個人の
日記はもちろん、幕府や藩に残っている公文書などを
細かく見ていくと、わずかながらその中に記録が
残っていることがある。

ところが、もっともきちんと管理されていただろうはずの
記録がない。大奥の記録です。

残っていないのです!!
当時大奥では、将軍が閨(ねや)に入る際には
「御伽坊主(おとぎぼうず)」という将軍お付きの
雑用係が次の間に控え、いつ誰とやったのか、
その際に射精したかどうかまでチェックしていた。

お世継ぎ問題に関わってくるから必ず記録した
はずなのに、それがない。
時代劇などの大奥は女同士の嫉妬やら政治介入
ばかりが描かれますが、そもそも大奥の存在意義は
「生殖」「出産」「乳幼児の子育て」の場であること。
この肝心の部分の記録が残っていない。
とても不思議なことです。

ただ、もし記録があったとしても、それが情交の
記録かどうかの判別は難しいかもしれない。
というのも、性愛に関する記録の多くは符号や隠語で
記されているから。

たとえば前述の岩松満次郎俊純の日記には
「三本市幡」「四本弐幡」という表記があります。

「三本」「四本」は二人の女を指しているようで、
「市」は「一」、「幡」は「番」の意。

つまり、「三本市幡」は「三本(の女)と1回」、
「四本弐幡」は「四本(の女)と2回と、セッ○スの
相手と回数を表している。

ある武士が書いた梅の絵も、梅の花1つ=
○行為1回という意味だった。
大奥の記録が残っていたとしても、おそらくそうした
符号や符丁が使われていたでしょう。

「なぜ公文書に謎の符合が?」と研究者が
疑問を持たなければ、解明されないかも
しれませんね。

江戸、明治期は「男色」も盛んだったとか?

男色自体は古くからありましたが、江戸初期には
武士同士の男色である「衆道(しゅどう)」が広まりました。
戦国時代は、戦の経験がない少年に色々なことを
教える「兄貴分」が必要で、この義兄弟関係に
性的な関係が伴った。

少年の親も経験のある優れた兄貴分が息子に
ついてくれることを望み、家族公認、家族ぐるみの
関係だった。

つまり、戦が頻繁に起きた時代に家を守る
セーフティーネットでもあったのです。
であるがゆえに、天下泰平の世になるとともに、
武士同士の「衆道」は下火になっていきました。

しかし、薩摩や肥後、土佐といった九州や四国の
西南地域では、江戸時代を通じて男色文化が
根強く続きました。

「若者宿」という同年代の青少年たちが共同生活を
送る習俗があり、場合によってはその入会式として
性的なイニシエーションが行われたためです。

世界的にも見られる「儀礼的同性愛」に近かった
のではないか、と。
彼らはともに武芸に励んで切磋琢磨し、ある種
スパルタ教育の中でハイテンションな生活を送ることで、
確実に強くなっていった。

江戸で歌舞伎を見て浄瑠璃をうなっているような
チャラチャラした旗本の息子に比べたら、
そりゃ確実に戦闘力を身につけるよね(笑)。

これらの西南諸藩が明治維新の際に力を
発揮したのには、男色を含めたそうした
背景があるのです。

今何かと世間を騒がせている「不倫」も、
江戸時代はよくある話だった、と。・・・

不倫、すなわち「不義密通」は死罪にもなる
重い罪でしたが、江戸時代も半ばを過ぎると
人妻との不倫は日常化し、罪の意識も薄れて
いったようです。

というのも、罪を確定するには奉行所に届け出が
必要で、奉行所は両者の関係者を集めて証言を
取ったり前例を調べたりしなければならない。

ほかにもたくさん事件を抱えていた奉行所は
それどころではないと、多くは示談にさせた。

妻を寝取られた武士が名誉回復のために
妻とその情夫(間男)を殺害する
「妻敵討」も藩によっては根強く残っていましたが、
幕府は奨励していない。
「やめろよ、そんな恥の上塗りは」というわけ。

これが商家だとまた事情が変わってくる。
大店の娘は、奉公人の中から有能な婿を取り
跡取りを作るケースがほとんど。

そもそも結婚に恋だの愛だのは介在してない。
だから、妻は金にものを言わせて役者や男娼を
買って楽しむ。
ホストクラブの走りですね(笑)。

夫は夫で、店の経営さえきちんとやっていれば、
あとは好きな女性を妾に囲えばいい。
奔放とも言えるし、割り切っていたとも言えますね。

江戸の性愛から学べることは?

男性同士の「男色」と、女性を相手にする「女色」は、
江戸時代はどちらも同じ「色」の道で、同性愛を
アブノーマルとするような、その後の時代の差別的な
捉え方はあまりなかった。・・・



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妻か、不倫相手である恋人か。?

女優・小泉今日子(52)が事務所独立と「不倫」を
宣言。・・・
その相手である俳優・豊原功補(52)が記者会見で
口にしたのは、2人の女性の間で揺れ動く
気持ちだった。

小泉との関係がきっかけで妻子と別居。
だが「離婚協議」はしていないという。
多くの夫婦が抱える「夫婦としてやっていけるのか」
という悩みの本質・・・

真実は本人たちにしかわかりませんが、
報道されている断片的な情報から、お相手の
豊原功補さん夫妻にとっての問題を、夫婦として
やっていける可能性があるのか考えてみたいと
思います。

法的に婚姻関係にあることと、夫婦として
成り立っているか
(または、その気持ちがあるか)は基本的には
別のことです。

注意すべきことは、相互に愛情という気持ちが
あるから婚姻関係に移行する(結婚する)ことは
可能ですが、逆に婚姻届を出せば愛情が芽生える、
ということはないのです。
これは法律婚も事実婚も同じです。

至極当たり前に聞こえますか? 
でも、世の中では「結婚しているのだから……」
という理由をよく聞きます。

「結婚しているのだから、他の異性と交際しては
いけない」というのは確かにその通りです。
結婚という契約はそういう内容を含みます。

しかし、「結婚しているのだから、他の異性を
好きになってはいけない」というのは無理があります。
気持ちはさまざまな要因で動くもので、
結婚しているから、という法的状態によって動きを
固定することはできないものです。

豊原功補さん夫妻は別居中ですが法的状態は
「婚姻状態」で、報道されている記者会見での
やり取りによれば、それは夫婦の関係が
うまくいかないから別居になったというより、

小泉さんとの関係が前提でそうなったとされています。
ということは、豊原さんは、妻と一緒にやっていくよりも、
小泉さんとの人生を選んだ、ということが推測できます。

つまり、豊原さんと小泉さんは、同居はしていない
ものの「事実婚状態」だということです。

どちらかを選ぶ? 選ばない?

多くの人が混乱するのは、法律的には現実的に
成り立っていないほうの関係(婚姻関係)が
支持されるにも関わらず、

現実は、法的には弱いけど現実に成り立っている方の
関係(事実婚関係)に動いていく力が働くからです。

「秩序」VS「自分の気持ち」という問題には決まった
答えなどなく、一人一人が生きながら個別に判断して
いくべき永遠のテーマのように思えます。

豊原さんも「いろんな思いの中で暮らしている。
それぞれに、この状況に対して向き合って、
日々生きている」と会見で言っています。

こういう板挟みのとき、人の気持ちや態度は
大きく分ければ、
・どちらとも「うまく」やっていきたい(または
 「波風を立てたくない」)
・どちらかを選ぶの2つです。

気持ちと態度は必ずしも一致しないので、
そこからさまざまなドラマや修羅場が生まれます。

男性・Aさんは、はっきりおっしゃいました。
「自分は、(不倫相手と妻の)どちらともうまく
やっていきたい」

私は正直な人なんだな、と思いましたが、
当たり前のことですが、それで話が
おさまるはずはありません。

妻が激高して「そんな都合のいいこと許される
と思っているの」、「日本は一夫一妻制なのよ」、
「人間としておかしい」、「私の何が悪かったの」
などさまざまなことを言いましたが、

Aさんは「何と言われても、それが自分の本当の
気持ちだから」と一貫していました。

そういうAさんのような例は極めてまれで、
本音では「どちらともそれなりにうまくやっていきたい」
「波風を立てたくない」と思っていても、その通りに
言うと炎上してしまいますから、そうはおっしゃらない
ケースが大多数です。

妻には彼女の存在を隠し続けて、彼女には
「妻とはうまくいっていない、離婚する」
というのも結局、どちらともうまくやっていきたい
ということです。

発覚したら、妻には「彼女とは別れる」と言い、
彼女には「もうちょっと待ってて」などというのも
同じです。

「浮気相手と別れれば、私のもとに戻ってくる」のか?

「妻を選ぶ」けど、彼女もできる限り傷つけたく
ないからきれいに別れたい、というのも、
妻を選んでいるように見えて、「どちらともうまくやって
いきたい」というスタンスです。

妻・彼女それぞれの側からしたら、「どちらともうまく
やっていきたい」という話が成り立つはずもなく、
両方に対して都合のよい態度をとるのは、結局のところ、
修羅場になった時の傷の深さと引き換えに
修羅場に至るまでの時間を引き延ばしているだけに
過ぎません。

そういう意味で、批判されるリスクがあるにも関わらず
自分の気持ちをはっきりさせた豊原さんのスタンスは
正直なものだと思います。

もちろん、不倫自体がいいといっているわけでも、
それがうまいやり方だとも、豊原さんの妻子が
傷つかないと言っているわけでもありません。

こうした時、不倫された妻の立場に立つと
「小泉さんと別れれば、自分のところに戻ってきて
くれるのでは……」と考えそうですが、
それは本質的にはあまりうまくいきません。

なぜなら、そもそもうまく回っている夫婦には
求心力が働いていますが、豊原さん夫妻には
それがないと思われるからです。

求心力は「絆」といってもいいのですが、絆という
言葉のイメージよりももっとダイナミックで、
日々積み重ねていく、相手と近づいた体験です。

一緒に幸せな思いをした経験、辛い時に
支えてくれたこと、
相手の意外な一面を発見して好感をもった
ことなどの経験が求心力です。
それは大げさなことだけではありません。

例えば、靖男さん(仮名)は、妻が入院したことで、
今まで毎朝朝食を作ってくれるのが、とても幸せ
だったということに気づきました。

香織さん(仮名)は、夫とスーパーに行って
賞味期限が長い奥のものを買うように言うと、
夫は「みんなが賞味期限に目くじらを立てるから
食品廃棄が多くなってしまう。

だから、自分は順番通りに買う」と言われ、
自分とは行動が違うから、何も考えていない人だと
思っていたけどしっかりした考えがあるんだと、
ちょっと尊敬の念を感じたそうです。
そんな日々の細かな経験が2人を近づけます。

不倫が起きる背景

求心力がそれなりの強さで働いているときには、
不倫の問題は起こりにくいのです。
理由や事情は分かりませんし、誰が悪いということも
ありませんが、豊原さんと小泉さんが交際することに
なった背景には豊原夫妻の求心力が弱まったことが
あるはずです。

そのことを横において2人を別れさせても、それで
豊原夫妻の求心力が高まるとは考えられず、
結局第2、第3の小泉さんが出現すればまた同じことに
なってしまいます。

不倫がよく繰り返されるのには、そういう背景もあります。
繰り返さないようにするためには、夫婦の求心力を
強めることが不可欠なのです。

結局のところ、豊原さんに妻とやっていく気持ちがない、
ということであれば、現実的には2人がやっていくのは
困難です。

一緒にやっていく気持ちがあるかないかは、
はっきりは分かりません。
それは、仮に「自分は妻とやっていく気持ちはない」
と明言されている場合であっても、さらには、
本人が本当にそう思っている場合でもです。
そこが人間という存在の一筋縄でいかないところです。

人は、相手に対して怒りがあることと、
嫌いだということを混同しやすいのです。

つまり、妻に対して怒りがあるというのが現実なのに、
妻のことが嫌いになった(または愛情が薄れた)と
感じてしまうことが多いのです。

そして、それを前提に「一緒にやっていく気持ちはない」
と発展してしまっている可能性があるのです。
愛情や一緒にやっていく気持ちは、カップルを
成り立たせるもっとも基本的な要素なので、
これがないのであればいかんともしがたいところが
ありますが、そうではなくて「怒りがある」ということなら
適切に対応すれば解決可能なことです。

では、怒りに対処できれば常に大丈夫かというと
そんなことはなく、本人を含めてだれにもわからない
分水嶺があるように思います。

その分水嶺を越える前に、怒りに適切に対応して
もらえれば、またやっていこうという気持ちに戻る
(求心力が復活する)ことが多いのですが、
分水嶺を越えてしまうともう後戻りはできなくなります。

「正しいことを取りますか、気持ちを取りますか?」

梢恵さん(仮名)は、「自分は浮気をしてしまって、
悪いとわかっている。
どうにか夫をこれ以上傷つけないようにしたい。
ただどうしたらいいかわからない」と沈痛な表情で
おっしゃっていました。

しかし、結局話していくと、夫とよりを戻すことが
「正しいことだ」と考えている一方で、気持ちとしては
「彼(浮気相手)とやっていきたい」ということでした。

豊原さんたちのケースが分水嶺を越えているのか
どうかは、誰にもわかりません。
しかし、公表するということは、強く自分の背中を
押しますから、きっとその方向に進むのでしょう。


愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る


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