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2018年10月

2018年10月31日 (水)

妄想劇場・一考編

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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今年の夏も甲子園が終わり、高校球児にとっては、
たったの3回しかない高校野球の夏が過ぎ去って
いきました。
勝ち続けて優勝を手にするのは本当に1校、
惜しくも勝ち続けることができなかった球児が大勢います。
地区予選で負けて泣いた球児もいれば、甲子園に
出場して決勝で涙を飲んだ球児もいたことでしょう。



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今から4年前。野球部員の息子は高校3年生でした。
高校球児の最も重要な3年の夏の県予選を前にした、
5月の練習試合でのことです。

その日はバッティングも守備も調子が良く、監督からも
『この調子ならレギュラーでいける。』
と言われ、なかなかレギュラーになれなかった息子は
やっと努力が報われたと思っていました。

しかしその試合の途中、1塁から3塁への走塁の際に
スライディングした後から、太ももに痛みが出始め、
だんだん激痛にかわっていったのです。

日曜日のため、一旦自宅に帰り、アイシングしましたが
痛みは良くなりませんでした。
翌日病院に行くと、案の定、太ももの筋肉が肉離れを
起こしていました。

お医者様の説明では全治3週間
経過によってはそれ以上かかるかもしれないとのことでした。
主人と一緒に怪我の説明を聞いていた息子の顔が
『全治3週間』と聞いた途端、みるみるこわばり、
落ち込んでいきました。無理もありません。

夏の甲子園、県予選のレギュラー発表前という
高校球児にとって1番大事な時期に怪我をして
しまったのです。
『怪我が治るの、県予選に間に合わないかもしれない。』
もう絶望的な思いだったでしょう。

保険適応ではないのですが、自費治療で高圧酸素
治療をすれば早い回復が期待できるため
受けることにしました。

毎日の学校や病院への送り迎えは夜勤明けの
主人と協力しました。
チームメイトが練習している間はリハビリや上半身の
トレーニングのため毎日病院に通いました。
練習できない息子はどんなに焦り、辛かった
だろうと思います。

そして3週間後のMRI検査の結果、お医者様から
やっと練習開始の許可が出ました、しかし
1週間もしないうちに・・・


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「父さん・・母さん・・・。
今まで自分が野球するのを応援してくれたのに・・・。
レギュラーになれなくって、本当にごめんなさい・・・。
自分が野球をするのに、いろいろと支えてくれて
本当に感謝してる。

毎日お弁当作ってくれたり、父さんは怪我した時に
『治るための治療はしっかりお願いします』って
高圧酸素の治療をすぐに受けられるようにしてくれて、
本当いっぱいいっぱい応援してくれてたのに、
レギュラーなれなかった・・・。

本当にごめんなさい。
今日自分から監督にレギュラー候補を断ったんだ。
怪我のブランクで自分でダメだとわかったから。
ベンチにも入れないけど、怪我をした自分よりも
動けるメンバーがベンチに入るべきだと思うし、
自分はチームが頑張るために他にできること
考えていこうと思うんだ。

応援してくれてたのに、・・本当にごめんなさい」

涙をこぼしながら話す息子を前に主人も私も
思わず涙をこぼしていました。
一番辛い事を、きちんと自分で答えを出し、
監督に伝えてたのです。

そして、主人が
「ごめんなさいって、いうのは違うと思うよ。
自分が今まで本当に努力して頑張ったのに
報われなかった。

こんな時は自分が一番辛くて悲しい気持ちだと思う。
やけになってしまう人もたくさんいる。
でも、お前はちゃんと親に話してくれた。

レギュラー取るのも大事だけど、それが
できなかった時に、チームを支えたい気持ち、
今まで支えてくれた人への感謝を伝えられる。
これは本当に素晴らしいことだとだよ。

すごいことができるようになった。
きっといいチームメンバーのおかげなんだろう。
これからの人生のなかで、絶対に今の思いは
自分の支えになるよ。

こちらこそ、ありがとう。これからは自分が言ったように、
チームの中でお前がみんなを支える方法しっかり
考えていきなさい。
それがチームや監督、みんなの力になるよ。」

息子の野球人生、怪我のために本当に残念な結果に
終わってしまったと思っていました。
でも、主人のいう通りこんなしっかりと感謝の気持ちを
伝えてくれるなんて、本当に我が子ながらとても
感動しました。

努力が報われなかった時に本当に辛かった
だろうと思います。
でも怪我をした息子にきっとチームメイトがいろいろと
声をかけてくれ、支えてくれていたのでしょう。

私も息子にどういう言葉をかけてあげれば
良いのかわからず、ひたすら見守るしかありませんでした。
でも、息子はちゃんと自分で答えを見つけていたのです。
こんなにも素晴らしい事を学んでいてくれていたのです。

その後、夏の県予選大会では後輩達の先頭にたって、
道具運びや試合中の声援でひときわ目立つ
息子の姿がありました。

結果は残念ながら県予選の試合は負けてしまいました。
引退後それぞれの進路に進んでも、も野球部の
仲間とは連絡を取り合い交流が続いています。

結果よりも過程が大切な事もある、と親子で
学んだ夏でした。・・・



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エリはお婆ちゃん子だった。
幼い頃から、何かあると一番に、お婆ちゃんに
報告する。
「お婆ちゃん、今日ね、テストで90点取ったよ」
と言えば、「えらいねえ」と褒めてくれた。

エリの両親は二人とも学校の先生をしていた。
8時よりも前に帰ってきたことがない。
だから、お婆ちゃんといつも一緒にいた。

特に、夏休みは家にいると一日中、二人きりだった。
特に今週は、両親とも泊りがけの学校行事で
家を留守にしている。

「行って来ま~す」
「どこ行くの?」
「うん、今日も部活」
「ちゃんと、鏡を見ていきなさいよ」 「
いいよ、どうせ練習したら汗まみれで、
頭もクチャクチャになるんだから」

エリは、中学でバスケットボール部に入っていた。
夏休みの前半は、朝練がある。
「だめよ、どこでいい男に会うかもしれないんだから」
「いやだぁ、そんなのいいよ」
と言いながらも、エリはお婆ちゃんの部屋にある
姿見の前に立つ。

胸のリボンを結び直す。制服のスカート
をポンッポンッと軽くはたいた。
「じゃあ、行って来ま~す」
「はい、行ってらっしゃい」

いつもと変わらぬ朝だった。
部活の帰り道、リョーコに誘われて、駅の近くの
ファンシーショップに寄った。

リョーコはキティちゃんにハマっていて、ケータイの
ストラップから文房具、 パジャマまでキティちゃんだ。
二人で当てもなく店内をぐるぐると回る。

「え!?」
エリはリョーコの顔を見た。こっちを向いて、
舌をペロッと出した。

リョーコは、手に持っていたキティちゃんの
小さなポーチを スポーツバッグの中に
入れたのだった。

(え? 万引き?)
エリは、呆然として立ち尽くしていた。
そのすぐ目の前で、 リョーコはキティちゃんの
ハンカチを 再びバッグに投げ入れた。
そして、エリの耳元でささやいた。

「大丈夫だよ、ここはカメラもないんだから」
監視カメラのことを言っているらしい。リョーコは、
「エリにもあげるよ」
と言った次の瞬間、棚のハンカチを掴んだかと思うと、
エリのカバンにねじ込んだ。

エリは血の気が引くのがわかった。
身体が強張って動かない。
気が付くと、リョーコは店の外へ何食わぬ顔をして
向かって行った。

「リョーコ」と言葉にならない声を発して追いかける。
気づくと、駅前のハンバーガショップの
前まで来ていた。

リョーコが言う。
「大丈夫だって~」 「・・・」
エリはまだ声が出ない。

「あの店はさあ、女の人が一人レジにいるだけでさあ、
奥の方は見えないのよ」
「だって・・・だって、これって万引きじゃないの」
「エリだって、持って来ちゃったんじゃないの?」

手にしたカバンから、ピンクのタオル地の
小さなハンカチが顔を覗かせていた。

「誰も見てないって」
「だって」 「あそこの店はさあ、有名なのよ、
やりやすいって。みんなやってるんだから」
「・・・」
「じゃあ、明日またね」

リョーコはそう言うと駆け出して行った。
エリは、リョーコの言葉を心の中で繰り返していた。
「誰も見てない、誰も見てない」
その証拠に、店の人は追いかけても来なかった。

「誰も見てない、誰も見てない」
家に着くと、ますます恐ろしさが募っていった。
でも、それを打ち消すように、何度も
心の中で呟いた。
「誰も見てない、誰も見てない」

そこへ、お婆ちゃんに呼ばれた。ドキリとした。
「え?」
何を言っているのか聞こえなかった。

「な、何、お婆ちゃん」
「エリ、今日の昼ご飯は、デニーズに行こうかねぇ」
「う、うん」
「じゃあ、早く着替えておいで、玄関で待ってるわよ。
ちゃんと鏡も見ておいでよ」

制服から真っ白なTシャツと膝までのジーンズに
着替える。
心のモヤモヤは大きくなるばかりで、爆発しそうだ。

(どうしよ。お婆ちゃんに相談しようか。
でも、心配かけちゃダメだ)
「誰も見てない、誰も見てない」
と、まるで呪文のように繰り返す。

たしかに、誰も見ていない。 店員にも
気づかれなかったし、他にはお客さんも
いなかった。これからだって、黙っていれば
誰にもわからない。

「誰も見てない、誰も見てない」
ふと、姿見に映った自分の顔を見て驚いた。
真っ青な顔をしていた。
それも少し黒ずんだような。エリはハッとした。

見ていた。
そうだ、見ている人がここにいた。
誰も見ていなかったけれど、 私が見ていた。
私の目が、私の心が見ていた。

「お婆ちゃん・・・」
エリは、蚊の鳴くような声で言った。
「どうしたの?何だか顔色がよくないね」

「お婆ちゃん、デニーズに行く前にお願いがあるの」
勇気を振り絞って、すべてを話した。・・・




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2018年10月30日 (火)

妄想劇場・一考編

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・

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近年、夫が妻を殺したり殺人未遂を犯したりする事件が
目立っている。8月28日、札幌で49歳の夫が23歳の妻を
車の中で殴り続けて殺した。

妻は妊娠8ヶ月だった。29日には福岡県で車内で
口論になって車から降りた妻(45歳)を執拗に轢いた
53歳の夫が殺人未遂で逮捕された。
妻は重傷だという。

さらに30日には沖縄県で52歳の夫が酔って、妻を
アパート3階の自宅から突き落として殺人未遂で
逮捕される。

3日連続であちこちでこういう重大事件が起こって
いるのを見ると、…いらいらしているのか、あるいは
日本の夫婦関係に何かとんでもないことが起こって
いるのかと考えさせられてしまう。

夫から妻へのDVは、殺人件数こそ100件前後で推移
しているが、暴行においては毎年、増加の一途を
たどっている。平成27年には検挙数だけで3500件を
超えた。(内閣府男女共同参画局サイトより)

逃げたほうがいいとわかっていながら逃げられない
つい最近も知人であるミナさん(48歳)が夫からの
DVで苦しんでいることを知った。

結婚して17年、ひとり息子は15歳になる。
50歳の夫は小さな会社を経営しているが、
このところ業績はあまりよくないらしい。
ただ、夫の暴力は今に始まったことではない……。

「最初の暴力は結婚してすぐでした。
彼に頼まれたことを私が忘れたことに腹を立てて
平手打ちが飛んできた。びっくりして泣き出すと、
彼は平謝り。それから子どもが生まれたあたりまでは
まったく暴力はなかったんです」

ところが子どもを育てている渦中では、
いろいろなことがあった。子どもが泣き出すと夫は
イライラしてモノに当たる。ドアをバシンと大きな
音を立てて開け閉めしたり、ときにはコップを
壁にぶつけたこともある。

「夜泣きする子どもを抱いて外に出て、うろうろ
していたこともありました」
子どもにばかり手をかけている妻にいらついたのか、
酔って帰って授乳している妻を無理やり
犯したこともある。
そのときばかりは情けなくて泣いたとミナさんは
つぶやく。

ミナさんも働いていたため、子どもが1歳に
なったころ保育園に預けた。夫の暴力が
またひどくなったのは、子どもが小学校に上がった
ころからだ。

野球が好きな夫は、子どもにグローブを買い与え、
休みの日にはよくキャッチボールをしていた。
帰ってきて一緒にお風呂に入ってくれればいいものを、
自分だけさっさと風呂に入る。

汗だくの子が次に風呂に入るのをミナさんが
手伝おうとすると夫が爆発する。
「ひとりで入れろ。ビール!」

冷たいビールが遅くなると平手打ちが飛んでくる。
子どもが入浴していて目の前にいないから、
ときには髪の毛を引っ張られて床に倒された
こともあった。

その後は暴力が日常的にそれでもまだ、
そのころは一息つくと夫は謝ったものだった。
「オレはおまえを本気で愛してる」というのが
夫の口癖だった。ただ、最近はもはや暴力が
日常的になっている。

何が彼の暴力スイッチを押すのか、ミナさんにも
わからない。
息子もすでに気づいているが、夫は息子の前で
暴力はふるわない。息子が部活でいないときなどに
夫は突然、暴れ始める。

「私も働いているので顔はやめてと言っているのに、
スイッチが入ると彼自身、自分が何をしているのか
わからなくなるみたい」

階段から落ちて肩を脱臼したこともあるし、
前歯は何度折ったことか。彼女自身、これが
暴行だとわかっているし刑事事件にもなると
知っている。それでも彼女は逃げようと
しないのだ。

以前、取材したことのある女性は夫によって家に
軟禁状態だった。逃げる意欲があっても
逃げられなかった。だがミナさんは会社員である。

助けを求めようと思えばいくらでも場はある。
息子とふたりで逃げ出すことはできるはずだ。
あるいは暴行を受け続けて、逃げる意欲を
失っているのだろうか。

「逃げたほうがいいのはわかってる。
でも息子から父親を奪う決意がつかないんです。
あの人を支えられるのは私だけだとも思う。
私ががんばれば、夫はいずれ自分が何を
してきたかきっと気づいてくれるはずなんです」

自分を傷つける夫をそこまでかばう理由が
わからない。共依存になっているのかもしれない。

夫婦のことは夫婦にしかわからないという。
だが、これだけは言える。DVを我慢するのは
子どものためにもよくない。

子どもの心は傷つき、蝕まれていく。
そして暴力は体だけではなく、ミナさんの心の
奥深くまで傷つけるのだ。

暴力があったらすぐに逃げるべきだ。
警察や地域の女性センター、福祉事務所など
相談窓口はたくさんある。
配偶者の暴力を容認して幸せになった
人などいない。・・・



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「チッ!困ったものだな~。また、トイレかよ」

井口豊は、コンビニのオーナー店長だ。 以前は、
機械部品を製造販売する会社で、営業課長を
務めていた。
しかし、豊には学生時代からの夢があった。
独立することだった。どんなに小さな店でもいい。

「一国一城の主になりたい」そう思って、コツコツと
独立資金を貯めてきた。 結婚するときにも、
彼女に自分の夢を語った。反対されるかな、
と少し心配だった。それを口にしたとたん、
婚約を破棄されるんじゃないかと。

でも、それは杞憂だった。
それどころか、「いいわねぇ」と賛成してくれた。
そして、結婚。子供が早くできたこともあり、
なかなか貯金は貯まらなかった。

それでも、いつか、いつか・・・」と夢を育んできた。
それが叶って、三十七歳のとき晴れて大手の
フランチャイズに加盟し、 コンビニを開業する
ことができた。オープンとともに売上は順調だった。

何より大きかったのは立地である。
大学の正門前のつぶれた書店の後に出店したのだ。
何より、豊が苦労したのは、アルバイトの確保である。
いつの世も「最近の若い者は」と口にするが、
これが豊の口癖だった。

なかなか定着しないのだ。せっかく目の前の
大学の学生を雇っても、 すぐに辞めてしまう。
仕方なく、最近では、年配の人を雇っている。

「チッ!困ったものだな~。また、トイレかよ」

3ヶ月ほど前、アルバイトに63歳のオバサンを
採用した。 本当は雇いたくなかった。
オバサンは動きが遅い。 それに時代に対する
感覚が鈍い。

常に、流行の最先端を追い求めるコンビニ商品に
付いて行けないと思っている。 しかし、背に腹は
代えられない。 オープン以来、働いてくれていた
女の子が海外に留学してしまったのだ。

「浅野さ~ん、早く早く!こっちのレジも開けてよ!
お客さん並んでるよ~」 「はいはい、
今行きますよぉ~」

「浅野さん」と呼ばれたオバサンは、 トイレから
出てくると小走りにレジへ向かった。
両手をハンカチで拭きつつ。

豊は顔をしかめた。 わかってはいる。
承知しているつもりだ。 人は歳を取ると、
小便が近くなる。

豊の田舎の両親も、夜中に交互にトイレに行く。
しかしだ。それにしても、浅野千代子の場合は
回数が多過ぎはしないか。

わざわざ数えているわけではないが、1時間に
一回はトイレで行っている気がする。

「は~い、お待たせしましたねぇ。
並んでいるお客様~、こちらのレジに
お回りくださいね!」

たしかに、接客態度はいい。少々下町風で、
その馴れ馴れしさを嫌がるお客さんも
いることは事実だ。
でも、「最近の若い者」のように、あいさつ一つ
できないのと比べたら有難いと思うべきだった。

(さすがに「トイレに行くな」とはオバサンに
向かって言えないしなあ)
豊はグッと言葉を飲み込んでレジを打った。

「はいはい、このプリン美味しかったわぁ~。
私も昨日食べたばかり」
「よかった。迷ったけど楽しみ!」

たしかに、あのフレンドリーな感じは、
おおむねプラスだ。
(プラスマイナス、ゼロってところかな)

豊は、浅野のオバサンが、何度もレジを離れて
トイレに行くことに、 しばらく目をつむって様子を
みることにした。

オバサンを雇った翌月くらいから売り上げが
伸びているのだ。 売上と浅野のオバサンには
何の関係もないが、・・・

「何度トイレに行ったら気が済むんだ!」
と言いそうになるのを思い留めるには十分な
理由だった。
(売上が上がっているんだ、今は我慢しよう・・・
疫病神とは言えないし)

その翌日のことだった。

小さな小さな事件が起きた。万引きが発生したのだ。
近くの中学生が、マンガ雑誌をスポーツバッグの中に
忍ばせて店を出た。

たまたま、駐車場のそうじをしていた豊がガラス越しに
不審な様子を認め、 少年が外へ出たところを
問いただしたのだった。

店の中へと連れ戻す。そこへ浅野千代子がトイレから
出てきた。 豊の心の中で、プチンッと何かが
切れる音がした。

「浅野さん! 前から言ってるだろ! 
お客さんが少ないときでも、 あんたがレジから
売り場を見渡してるようにって!」

浅野のオバサンは、事態を察したようだった。
「あらあら、ボクどうしちゃったの?」
「・・・」少年は下を向いている。

「いいですよ、この子のことは! 
上の事務所に連れて行って、親御さんに連絡するから、
レジをちゃんとお願いしますよ!  

それからいいですか! そうそう何度もトイレに
行かないでよ。少しくらい我慢できるでしょ!」
そう言ってから、豊は少し後悔した。

しかし、「はいはい、わかりました。  
ボク、ちゃんと店長さんに謝りなさいよ」
と笑顔で言うのを見て、ガックリした。

万引き事件が片付いて、ホッとしていたところへ
バイクの集団が 駐車場へ入って来た。6台。
中には、大型のハーレイも。
全員が黒いツナギを着ている。

ちょっと見は暴走族風だ。ガラの悪いお客様は
歓迎したくないが、 見てくれで人を判断する
わけにはいかない。

店に入ってくるなり、リーダーらしき大柄の男が、
他のメンバーに言った。

「ここのトイレはよお~、いつもキレイだから
気に入ってるんだ。  
ちょっと家からは離れてるけど、ついついここへ
来ちゃうんだよな」
「リョウさんはオシッコが近いからね」
と、髪の毛を真っ赤に染めている男が言った。

「バカヤロー」
「へへヘ・・・。オレ、買い物してますから、
ゆっくり行っててください」

そこへ、浅野のオバサンがトイレから出てきた。
「おう、オバチャン、いつもトイレ掃除ご苦労さん!」
「今、キレイにしたばかりだからね、外に
こぼしちゃダメよ!」 「わかってるよ」

豊は、二人の会話を聞いてハッとした。
(まさか・・・。毎時間のようにトイレに行っていたのは
・・・掃除をするため)

そのすぐ後、セールスマンと思われる若い
男性二人が、車を止めて入って来た。
そして、先輩と思しき年上の方が言った。

「このコンビニはさあ、いつもトイレがキレイだから、  
ついつい来ちゃうんだね。覚えとくといいよ」

豊かは、しげしげとオバサンの顔を見た。
その笑顔が、急に福の神に見えた。



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2018年10月29日 (月)

妄想劇場・特別編

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人生は道路のようなものだ。
一番の近道は、 たいてい一番悪い道だ。
・・・ フランシス・ベーコン


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「尊厳死宣言」が8か月で1000件超、急増の背景は

「生命を維持するために、点滴で栄養や水分を
送り続けると、体がだぶだぶの状態になるんです。
お医者さんの中には、『溺れる』と表現する人も
いるそうです。

たしかに父の命はつなぎ止めましたが、
果たして最善の選択だったのか……。
答えは見つかりません」

そう話す50代のAさんは、昨年、父親をがんで
亡くした。病床で何本も管につながれた父の
最期の姿が、今も脳裏から消えないという。

病気や事故で回復の見込みがなくなった場合、
無理に延命治療を施さず、自然な最期を
迎えるのが「尊厳死」だ。

文字通り、人間としての尊厳を保ったまま
旅立たせるという考え方だ。

「尊厳死の基本は“望まない医療を受けない
権利を守る”ことにあります」
日本尊厳死協会関東甲信越支部理事で
杉浦医院院長の杉浦敏之氏は、そう話す。

どんな最期を迎えたいかは、それぞれの
人生観によって異なる。
最後まで病魔と闘い抜く考えの人もいれば、
経管栄養と人工呼吸器をつないで生き続ける
ことに抵抗感を示す人もいる。

2025年には65歳以上の人口が全体の3割に達する
といわれる。超高齢時代に、人生をどう
締めくくるかは現代人にとって大きなテーマだ。

そんな中、日本公証人連合会が、ある調査結果を
発表した。今年1~7月に、公証役場で作成された
『尊厳死宣言公正証書』(以下、尊厳死宣言)の数が、
983件にのぼったという。

尊厳死宣言の文例は?

公正証書とは、法務大臣に任命された公証人が
作成する文書のことだ。金銭貸借を含む
各種契約や、遺言などの内容を公証人が証明する
ことにより、法的な紛争を未然に防ぐことを
目的としている。

そこで作成される尊厳死宣言には一体どんな
役割があるのか。優オフィスグループ代表で、
行政書士の東優氏が解説する。

「尊厳死宣言は、終末期に延命治療を望まない
意思を、公証人の前で宣言する文書です。
法的な拘束力はありませんが、家族や医療機関
などに対して自分の意思を表明できるものです」

これまでも、一般財団法人である日本尊厳死協会が
延命治療を望まないことを表明する「終末期医療に
おける事前指示書(リビング・ウイル)」の
普及活動を続けてきた。

エンディングノートをはじめ、自分の人生の
終わり方を考え、文書として残そうとする風潮も
広がりつつある。

だが、そういった文書は、あくまで“私的”なもの。
“公的”な意味合いのある尊厳死宣言に
まとめることで、よりはっきりと周囲に意思を
伝えることができるという。

東京都にある公証役場がホームページに
公開している
オーソドックスな尊厳死宣言の文例には、

「延命治療を行なわないこと」
「苦痛を和らげる措置は最大限行なうこと」
「医療従事者の免責」
「自身の精神状態の健全性」
といった項目が綴られている。

日本公証人連合会の向井壯氏が解説する。
「確認したところ、古くは1993年に尊厳死宣言が
作成された記録がありました。

尊厳死という言葉の広まりとともに相談件数
および作成数が増えています。
それで今年、初めて統計を取りました。
データ発表の翌月となる今年8月には145件
作成されており、合わせて1000件を超えました。  

家族に迷惑をかけたくない、という考えの人が
多いと思います。実際に身内の方を看取って、
自身の最期をイメージした時に尊厳死という
結論に至ることも多いようです」・・・


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毎年、冬になると思い出す話です。

私たちの地域では、暖房器具用の灯油を、
毎週、タンク車で配達に来てくれます。
玄関先にポリタンクを置いておくと、
灯油を入れておいてくれるのです。

我が家では、毎週の配達日に家人が留守を
しているため、代金を封筒の中に入れて空の
ポリタンクと一緒に置いておくように
していました。

直接、灯油販売のおじさんと会わなくても、
灯油がもらえるようにしてあったのです。
そんなやりとりが数年間も続いていました。
ある年の冬のことです。

偶然に、灯油の値段が上がっていたことを
知りました。
それも、ずいぶん以前かららしいのです。
ざっと見積もっても、累計で数千円が
不足していました。

そこで、代金を入れた封筒の中に、
「金額が変更していたことを知らずすみません。
不足分の代金をお支払いしたいので
教えてください」と一筆書いて入れておきました。

その日の夕方のことです。
家人が帰宅して封筒の中を見ると、 こんな
メモが入っていました。
「ずっとお世話になっていますから、これまでの
分は結構です。」と。

狭い住宅道路で灯油販売のおじさんのタンク車と
自転車ですれ違ったときに、
「どーぞ、どーぞ、すみません」と優しく言って、
車をバックさせてくれたおじさんの顔が
目に浮かびました。

寒い冬に、灯油が心の中まで暖めてくれました。

江戸時代から続くデパートの大丸には、
こんな家訓があるといいます。
「先義而後利者栄」
正義を優先し、利益を後回しにする者は栄える、
という意味です。

また松坂屋には、
「人の利するところにおいて我も利する」
つまり、相手に得をさせてこそ、自分も
利益を得られる、という意味の言葉が
残されています。

そのほか、近江商人の有名な「三方よし」
という商いの考え方があります。
「売り手よし 買い手よし 世間よし」。
売買の二者だけでなく、世間つまり社会貢献まで
すでに考えていたのです。

これらのように、自分の利益だけ考えて商売を
するのではないという考え方、
つまりギブアンドギブの精神こそが、
江戸時代から現代までも企業を存続させた
原動力だったわけです。

灯油のおじんさんのお話は、
エゴが罷り通る世知辛い世の中だからこそ、
心に染みるものですね。

萩本欽一さんの編著「欽言力 」に
「何かをするとき、見返りを求めちゃいけない」

欽ちゃんが小学生のとき、
学校の帰りに八百屋さんの大八車を押して
あげたら、別れ際に、「坊主、ありがとな」
とりんごをくれたそうです。

「いいことをした」と思って母親にそのことを
得意げに話したら、
「欽一、人さまからものをもらったら、
親切にはならないのよ。

そういうときは、きちっとお断りしなさい。
りんごをもらわないで押せば、もっといい子
だったのに」と言われたというのです。

欽ちゃんの家は、家財道具を差し押さえられるくらい
貧乏だったそうです。
それなのに、素晴らしいお母さんですね。

さらに、こんな話も。
欽ちゃんが3人の友だちと映画を見に行ったとき、
お金もないくせに全員の入場料を払ったことが
あるそうです。

みんなが「萩本は貧乏」と知っています。
そのうちの一人が後に 「萩本がバイトしたお金で
映画を見るのは申し訳ないと思ったけど、
ぐっと堪えたんだ。
そうじゃないと、貧乏人扱いすることになるから」 と。

そいつは、いい奴でときどき自分の家に
連れて行って飯まで食べさせてくれたそうです。

「俺さ、お前が貧乏だから食わせてるんじゃないぞ。
うちのお袋は料理が好きだから、友だちにも
食わしてやりたいと思って呼んだの。
だから負担に思うなよ」 と言って。

この二つのエピソードには、共通点があります。
その根底にあるのは、「ギブアンドギブ」の精神です。
与えて与えて、見返りを期待しない心を養うこと。

・・・


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2018年10月28日 (日)

妄想劇場・特別編

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みんな、私の着ているものを見て笑ったわ。
でもそれが私の成功の鍵。
みんなと同じ格好をしなかったからよ。
・・・(ココ・シャネル )


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戦後最大、二兆三千億円の負債を抱えて2010年に
倒産したJAL 。
事業会社としては、倒産後京セラ名誉会長の
稲盛さんが会長として再建に携わり、
JALの会長に就任すると、僅か2年8か月で
再上場へと導きました。

不可能と言われたJALを復活させたその手腕とは?

当時、経営危機に陥ったJALは、その再建計画を
巡って連日喧しく報道がなされ、誰も引き受け手が
ないまま、為すすべもなく日々だけが経過していた。

そんな中、最初は「何を言われても受ける気はない」と、
会長就任依頼を固辞されていた稲盛和夫さん
(当時78歳)が、いよいよ倒産間近となった段階で、
遂に受諾の決心をされた。

ただ、その勇気ある決断に対するマスコミの論調は、

「航空業界について何も知らない人間に何ができる?」
「高齢で経営者としてのピークをとっくに過ぎている」
「二次破綻必至」「再建は絶対不可能」
といったものばかり。

好意的な人でも「晩節を汚すことになるのではないか」
と心配し、反対の声が多数だったと記憶している。
さすがの稲盛さんでも今回だけは難しいのではないか
……と、正直、あの時、一体どれだけの人が再建を
心から信じることができていただろう。・・・

さらにその時、驚いたことは、稲盛さんがJALに
連れて行った京セラの社員が、たった二人だけ
だったことである。

これから大改革をするに当たり、当然、腹心の部下を
こぞって引き連れ、京セラフィロソフィや経営の仕組みを、
JAL社員に伝えていかれるものだとばかり思っていた。

ところが選ばれたのは、たったの二人。
そのうちの一人が、稲盛さんの秘書を長年
務めてこられた大田嘉仁さんである。

『JALの奇跡』致知出版社:大田嘉仁
JAL再建の一部始終が克明に記されています。

・当時のJALの様子、社員の反応
・具体的に何を行ったのか、何から始めたのか
・稲盛さんが社員に訴えかけたこと
・成功の一番のポイントは何だったのか
・その法則は他の業界にも当てはまるのか

そしてそこに綴られた文章は、時に稲盛さん
ご自身が語られるよりも迫力を持つことさえあった。

同社の再建に貢献した稲盛氏の側近中の側近は、
「あること」を社員たちに丁寧に、そして入念に
浸透させていったといいます。

リーダーとマネージャーの違いを説明できますか?

企業経営をする上で最も大事なことは、経営幹部に
立派な人間性をもつすばらしいリーダーを
据えることである。どんな困難に直面しても逃げずに
真正面から取り組む勇気があって、また部下や
仲間を大切にする優しさをもっている。

さらに常に謙虚で努力を怠らない。
そういうリーダーでなければ小さな部門さえ
まとめることはできない。

JALに着任し、会議に出席し、現場を訪問する中で、
JALには本当のリーダーと呼べる人間がいないことを
痛感していた。それではいくら立派な再建計画を
作っても、達成できるはずはない。

外部からのコンサルティングなどは一切なく、
あくまで内部の改革で成し遂げた奇跡の秘密は、
「ハードではなく人の意識を変える」ということ。
武器として持っていたのは「フィロソフィ」
と「アメーバ経営」

人として何が正しいか」という考え方や熱意
=フィロソフィと、アメーバ経営という
経営システムの2つをベースとして再建しました。

アメーバ経営とは、全員参加経営を実現するための
会計システムです。
組織をできるだけ小さく分け、運営を各部門の
リーダーに任せ、その経営数字をオープンに
リアルタイムに把握します。

部門ごとに採算表をまとめることで、どの部署が
黒字だったのか、どういった経費を使ったのかが
すべて把握でき、京セラ成長の原動力になった
システムといわれています。

5名の意識改革準備室を開設、
土曜日を含めて1か月に16回のリーダー教育を断行。
強引ともいえるスケジュールを進め、終了後には
必ず意見交換会(コンパ)を行うという徹底ぶりで、
幹部間の一体意識を高めました。

今JALに必要なのは部下をまとめて同じ目標に
向けて引っ張っていけるリーダーを育てること。

優秀なマネージャーであれば、困難に遭遇すれば
その迂回策を考えるだろう。
うまくいかなかったら、その言い訳を探して、
責任逃れをするだろう。

そんなマネージャーばかりだから倒産したんだ。
再建を成功させるには、どんな困難に
ぶち当たってもあきらめずにやり遂げようとする、

一つの目標に向かって部下を鼓舞して
なんとかまとめていこうと考える、そんなリーダーが
必要なんだ。リーダー教育の必要性をどうにか
理解してもらった。

「お前は何を基準に人を見るのだ」と稲盛さんに
聞かれた際、大田嘉仁さんは 「JALが一番好きで、
まじめで一生懸命で、しかも明るい人が
リーダーに相応しいと思っています」と
答えています。

上の立場の人間の意識が変わらないと、
部下の意識が変わるはずもない。
逆に、幹部の考え方が変われば、自ずと
部下の考え方も変わる。だから、どうしても
リーダー教育を早急に始めなければならない
と思っていた。

追記・・・

その日、僕は羽田空港へと急いでいた。
保安検査場に着いたのは、朝7時30分。
フライトは7時40分。
出発まであと10分しかない。

すると僕の慌てた様子に気付いた
JALの若いCAの方が、
「何分発ですか?

えっ?!
それはもう間に合わないかもしれません……。
でもすぐ連絡を取ってみます!」とスタッフに
電話をし、なにやら事情を説明してくださっている。

そして、まだなんとか間に合いそうなことが分かると、
「私がゲートまでご案内します」と僕のすこし前に出て、
駆け足で先導してくださったのである。

朝早くから空港内を懸命に走りながら
案内してくださるCAの方に、心から申し訳ない
と思うと同時に、そのひたむきな姿に心を打たれた。

さらにその方は移動中にも連絡を取って、
「まだお並びの方が10名ほどおられるようですので
大丈夫です」と僕を安心させるとともに、
余計な気を遣わせないよう心を砕いてくださった。

そして無事ゲートを通過するまでを見届け、
「お急ぎ立てしてしまい、申し訳ございませんでした。
どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」
と深々とお辞儀をされている姿に、
「さすがJAL……」との思いを
新たにしたことだった。

『JALの奇跡』致知出版社:大田嘉仁
JALの再建劇は、日本のみならず、
世界の産業史にも残るほどの稀有な
出来事である。

『論語』を著したのは、孔子本人ではなく、
孔子の門人たちだったように、その人物の
真の偉大さは、最も身近にいた人によって、
よりリアルに伝えられるものなのかもしれない。
・・・


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平野恵子さんは、三人の子どもに恵まれた
お寺の坊守であった。
彼女が三十九歳の冬、お寺で新年を迎える準備を
していたとき、下腹部の激痛におそわれ、
多量に下血した。

彼女はただならぬ重い病気であることをさとった。
あふれでる涙のなか彼女はこう思った。・・・

「この目の前の現実は、夢でもなく、幻でもない。
間違いのない現実なのだから、決して逃げる
訳にはゆかない。

きちんと見据えて対処してゆかなければ・・・」
彼女は癌の告知を受けた後、三人の子どもたちへ、
母親としてあげられることは一体何だろうと考えた。
彼女は、死を前にした自分の願いを、こう記している。

「お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、
あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深さを思う時、
申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。
でも、事実は、どうしようもないのです。

こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげれること、
それは、死の瞬間まで、「お母さん」でいることです。

元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、
できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、
素直に動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、
ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる
精一杯のことなのです。

そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への
最後の贈り物になるはずです。
人生には、無駄なことは、何ひとつありません。
お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ
無駄なこと、損なこととはならないはずです。

大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと
同じくらいのいや、それ以上に大きな喜びと幸福が、
隠されているものなのです。

子どもたちよ、どうかそのことを忘れないでください。
たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、
いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。

深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界が
あることを忘れないでください。
そして、悲しみ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま
支えていてくださる大地のあることに気付いて下さい。

それがお母さんの心からの願いなのですから。
お母さんの子どもに生まれてくれて、ありがとう。
本当に本当に、ありがとう。」

さらに、彼女は、死の前で、子どもたちに次のような
手紙を送っている。

「お母さんは“無量寿”の世界より生まれ、“無量寿”の
世界へと帰ってゆくものであります。
何故なら“無量寿”の世界とは、すべての生きとし
生けるもの達の“いのちの故郷”そして、お母さんに
とっても唯一の帰るべき故郷だからです。

お母さんはいつも思います。
与えられた“平野恵子”という生を尽くし終えた時、
お母さんは嬉々として、“いのちの故郷”へ
帰ってゆくだろうと。

そして、空気となって空へ舞い、風となってあなた達と
共に野を駆け巡るのだろうと。
緑の草木となってあなた達を慰め、美しい花となって
あなた達を喜ばせます。

また、水となって川を走り、大洋の波となってあなた達と
戯れるのです。
時には魚となり、時には鳥となり、時には雨となり、
時には、雪となるでしょう。

“無量寿=いのち”とは、すなわち限りない願いの
世界なのです。そして、すべての生きものは、その深い“
いのちのねがい”に支えられてのみ生きてゆけるのです。

だからお母さんも、今まで以上にあなた達の近くに
寄り添っているといえるのです。 悲しい時、辛い時、
嬉しい時、いつでも耳を澄ましてください。
お母さんの声が聞こえるはずです。

『生きていてください、生きていてください』という
お母さんの願いの声が、励ましが、あなた達の
心の底に届くはずです。」

彼女の子どもへの愛情は、この世限りのものでなく、
死をも超えてつながる真の愛情であると信じて疑わない。
その浄土は、生きとし生けるものの故郷であり、
無量寿の世界であると彼女は受けとめている。・・・



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2018年10月27日 (土)

妄想劇場・チャンネル掲示板

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美しさは女性の「武器」であり、
装いは「知恵」であり、
謙虚さは「エレガント」である。
・・・(ココ・シャネル)


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「場面緘黙(かんもく)」という言葉をご存知だろうか。
学校や会社など、特定の状況では話すことが
できなくなる不安障害の一つで、およそ500人に1人の
割合でいるとされている。

"話さない"のではなく"話せない"という人たちが抱える、
知られざる苦悩

周囲の目が怖く、トイレにも行けなかった  
場面緘黙の当事者の一人、富山県に住む加藤諄也さん
(24歳)の自宅を尋ねた。

取材スタッフが加藤さんに「こんにちは、はじめまして」
「この部屋に入って大丈夫ですか」
「ここに座らせてもらってもいいですか」などと
声をかけても返事はなく、小さく頷くだけ。

人と話すことに対する緊張感から、話したくても
話せなくなってしまうのだ。
普段は筆談でコミュニケーションをとっており、

「喉がひきしまって、力も入らない感じです」
と教えてくれたが、見知らぬ人の前で文字を
書くこともプレッシャーとなり、自分の思いを
伝えるのに時間がかかってしまう。

幼少期は外出先や学校でも話せていたという
加藤さんだが、小学校4年生の頃から徐々に
話ができなくなっていった。

明確なきっかけは今も分からないままだという。
母親の由加里さんは、ある日、帰宅した息子の
様子を見て、初めて苦しみに気づいたという

「ずっと硬い表情で通学路を歩いてきて、
玄関を開けて一歩中に入るとすごくリラックスして
顔も柔和になってというのを鮮明に覚えている」。

また、加藤さんには緊張のあまり体が硬直して
動けなくなってしまう「緘動」という症状も出ていた。
「学校に行ったら帰りまで座りっぱなしで、
トイレも行かず、給食も食べず、という状況だった」
と由加里さん。

周囲の目が怖く、トイレにも行けなかったという
加藤さんの苦しみを、周囲はなかなか理解しては
くれなかったという。

その頃のことをノートに「しゃべらないことや
動かないことについて甘えているだけと言われたり、
むかつくと言われたことがありました」
と書いて教えてくれた。

そんな加藤さんは、技術の進歩により自分の
気持ちを簡単に言葉にすることもできるようになった。
タブレットの音声アプリを用いて、「少しずつ緘黙を
克服し、経験値を高めながら社会スキルを
身に着けて自立できるようにしていきたい」
と、これからの目標について語った。

「しゃべるまで絶交」

筆談や音声アプリを使わず、できるだけ自分の声で
思いを伝えたいという当事者が石原えりなさん
(仮名:25歳)だ。

石原さんもまた、小学校入学までは活発で、
誰とでも話す女の子だった。しかし入学から
半年が過ぎた頃から少しずつ笑顔が消え、
家の外では話をしなくなったという。

友達からは「しゃべるまで絶交」
「"あ"って言ってみて」などと言われ、
「答えられなくてすごく悔しい思いをした」という。

「なんで話せないか自分でも分からなくて、
どうしたらいいか分からなかった」。
そんな経験から、さらに話せなくなり、
約9年間にわたり、自分から友達や先生に
話しかけることができない状況が続いた。

そして16歳の時、場面緘黙と診断された。
それでも母親は家の中での石原さんの様子から
「見られることが怖い」という娘の障害について
実感が湧かず、「ちょっと恥ずかしがり屋で大人しい
だけかなって」と思ってしまったのだという。

実際、家族と過ごす普段の様子を固定カメラで
撮影させてもらうと、そこには家族と笑いながら
・・・

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大学時代には一般企業への就職を考えるも断念し、
21歳から3年間、「チャレンジ雇用枠」で事務として
働いた。

今は家族以外の人と1日に一言でも会話をしようと、
就労支援を利用している。
少しずつ症状が改善されるよう、自ら苦しい道を選び、
自立を目指している。

生活環境の変化や「スモールステップ」によって
克服できたケースも  
場面緘黙を抱える人たちの支援を行う長野大学

社会福祉学部の高木潤野准教授は、
場面緘黙について「不安を感じやすいとか、
緊張しやすいことが原因と考えられている。

家族と離れて集団の中で生活が始まる幼稚園や
保育園に入る時に症状が顕在化してくることが多い。
同居している家族としか話せない方もいれば、
親戚や限られた友達とか、近所のおじちゃん
・おばちゃんとなら話せるという人もいる。

また中には海外に行ったり、転校したりなど、
環境が変わることで普通に話すことができる
ようになる人もいる。

刺激を与えることがかえってマイナスに働いて
しまう人もいるので、どんな風にきっかけや
環境を作っていくか、それぞれに合わせて
丁寧に対応を考えていく必要がある」と話す。

「言葉を話せないだけで、考えていることとか
伝えたいことはいっぱい持っている。
言葉だけではなくて筆談でもいいしSNSでもいいので、
ちゃんとコミュニケーションをとろうという姿勢を
もって関わることが大事だ。

ただ、多くの人は"本当は話したい"と
思っているので、"話さなくてもいいよ"という
方向だけでなく、やはり話せるように持って
いくことも重要だ」。

主な治療法は、少しずつ不安に身を置き、
小さな成功体験を積み重ねる「スモールステップ」
だという。「少しずつ段階を踏んで、話せる場面を
広げていくというやり方だ。

この方法で、普通に話せる状態になる人も
大勢いる」と高木氏。石原さんも高校受験の際、
苦手な面接に向けて家族やクラスメートの協力のもと、

1.教室でリラックス、2.声を出す、3.友達に電話、
4.隣の教室にいる友達に電話、5.友達がくる、
6.直接話す、という手順のスモールステップを
採ったという。

同じ悩みを抱えた人たちの存在を知ってほしいと、
石原さんは強い緊張を抱えながらも、
時間がかかっても、できることをやりたいと思った
自立して、誰とでも話せるようになりたい。 ・・・


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証券大手の大和証券で、「社長賞」を18回も受賞し、
「伝説の営業」と称された藤井政子さん。
その圧倒的な営業力はいかにして培われたのでしょうか。

様々な仕事や人生の山坂を乗り越えてこられた
藤井さんですが、一流の営業員になるために
大事なことは何だと思われますか。

そうですね。当たり前のことかもしれませんが、
まず一つ目は、人として誠実であること。

二つ目は、何事も前向きに捉えるプラス思考が
できることです。

それから三つ目は、ノウハウや技術的な部分に
なりますが、気づく力が強い・時間管理がうまい
・事前準備を怠らないということです。

中でも、気づく力は営業員にとってとても大事です。

例えばお客様と面談した時に、その会社の、
応接室に飾ってある絵や骨董品、使っている
マグカップなどから、その方の性格や好み、
会社の雰囲気に気づいてそれに対応していきます。

ですから、ただぼーっと商売の話だけしている人より
成長していきますし、結果も出していきます。
気づく力。それはどんな仕事にも通じる
大事なことですね。

私の場合は、事前準備を大事にしていまして、
営業に行く前にはお客様のことを必ず徹底的に
調べますし、講義や研修をする時にも、たとえ話の
内容がいつもと同じでも、「どうすれば臨場感が
出るだろう」「新鮮に聞こえるだろう」と、必ず
鏡の前で練習しています。

あと、最後はやっぱり、ひたむきな努力ですね。

特に若い人は人生経験も、知識も、何一つ
お客様に敵いません。
唯一勝てるのはひたむきな努力だけです。

そのひたむきな努力は誰かが見てくれていて、
必ず報われると信じています。
一つひとつの仕事に丹誠を込めて向き合って、
常に自分を磨き高めようと努力すれば必ず
相手の方に通じるんです。


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2018年10月26日 (金)

妄想劇場・チャンネル掲示板

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若くて美しいことは、 自然のいたずら。
年をとっても美しいことは芸術です。
・・・(エレノア・ルーズベルト )



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周囲に惑わされず、信じる道を歩み続ける
老賢人が、日本には過去にも現在にも
たくさんいる。

稼いだカネを寄付し続けて21億円
北海道地震の被災地に9億円の寄付をして、
10月上旬に大きなニュースとなったのが、
小竹正剛さん(86歳)だ。
このときだけでなく、彼はこれまで故郷である
北海道に寄付を続けており、合計は21億円
にものぼる。

マスコミの前にはほとんど姿を現さず、
「札幌市在住の実業家」とだけ報じられている
小竹さんはどんな人物なのか―。

札幌市の郊外にある一軒家が小竹さんの住まい。
資産家らしからぬ、慎ましい平屋建ての家屋だ。
「小竹さんは夫婦二人暮らしで、生活ぶりは
質素そのものですよ。

奥様をよく見かけますが、手ぬぐいのような布を
頭に巻いて、自宅の裏手にある花畑で
作業しています。
小竹さんが派手に飲み歩いていたというような
話も聞いたことがありません。

普段から近所にある安売りで評判のスーパーで、
小竹さん夫婦は買い物しています。
二人ともとても温厚な方で、近所で悪く言う人は
いないと思いますよ」(近隣住民)

小竹さんは札幌生まれ。父親は石川県出身で
戦前に北海道に移り住み、銭湯を5軒ほど
経営して、実業家として成功した。
小竹さんの親族が明かす。

「当時は裕福だったのですが、戦争で銭湯を失い、
戦後は農業を始めました。
正剛さんは三男で、定時制高校に通っていました。
それは昼間に家業の農業を手伝うためです。

すでに両親が高齢で、人手が必要でした。
兄たちは大学を出て獣医などの職業に就きましたが、
正剛さんは中学卒業後から、すぐ働いていましたね」

大学への進学を諦めた小竹さんは、農業に
精を出した。その甲斐もあって小竹家は
土地を買い増し、いつしか一帯でも有数の
地主になっていた。

小竹さん自身も、家業以外に石油やLPガスの
販売業を始めた。会社名は「小竹燃料店」だ。
名前の通りの個人商店で、ほとんど夫婦二人で
切り盛りしていたという。

次に小竹さんは所有していた土地にビルを建て、
不動産業にも乗り出した。
「一時は結構な土地を所有しており、
マンションや貸倉庫も経営していた。

自宅にしても、以前はもっと広くて立派な
2階建てでした。しかし、老後を考えて平屋に
建て替えたんです」(住民)

未来ある子供たちのために何かしたい

おカネは使ってこそ生きる
小竹さんは徐々に自身の「終活」を考えたのだろう。
土地を手放していき、それにより現金を
増やしていった。そして、社会貢献を始めた。

'01年には土地と建物を地元の生活協同組合に
提供して、デイサービス施設の設立に尽力した。
同施設のスタッフが語る。

「小竹さんはご自身の商売を支えてくれた
地域との絆を大切にされています。
そして、お母様への思いがあります。
同居していたお母様は高齢で介護が必要でした。
そのため、小竹さんは施設の設立を
決意したんです」

さらに'08年には奨学金制度充実のために8億円、'
16年には図書館の充実のために3億円を
札幌市に寄付した。

「なぜ奨学金なのかと、奥さんに
聞いたことがあります。
小竹さんご夫婦には子供がいません。
それもあってか、『未来ある子供たちのために
何かしたい』という思いを語っていました。

小竹さんが大学に行けなかったことも理由の
一つだと思います」(小竹さんの知人)

ほかにも札幌市の防犯カメラ設置に1億円。
そして今回、北海道地震の被災者への
義援金として6市町村に合計9億円を
寄付したのである。

「復旧事業ではなく被災者個人に義援金を
送ってほしいとのことでした
。小竹さんの寄付金額は、個人としては
断トツですね」(札幌市役所の担当者)

ここまで故郷に寄付を続ける思いは
どこからきているのか。体調が優れない
小竹さんに代わって、夫人はこう答える。

「一生懸命働いて得たおカネを、
困っている方や未来ある方のお役に立てたい、
ただそれだけのことです。

私たちはもうそれほど長く生きられないでしょうし、
おカネは二人で食べていける分があればいい。
60代の終わり頃から夫婦でそう考えるように
なりました。

主人も私も札幌出身で、二人三脚で商売を
やってきました。燃料店を始めた当時は
忙しかったですよ。いまは貸しビル業も
行っていません。

忙しい生活が落ち着いたとき、これから
何をしようかと考えました。それが寄付でした。
もちろん、故郷への思いもあります。
『おカネは使ってこそ生きる、貯め込んでも
それは紙切れと同じ』。主人はよくそう
言っています」

強い信念。どれだけ資産があっても、
なかなかできることではない。・・・


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突然お腹の調子が悪くなり、トイレに駆け込むも、
個室はすべて埋まってしまっている…。
我慢の限界が近い、隣の女子トイレは空いている、
使ってしまおうか…。と、迷うことってありますよね?

この緊急時に女子トイレに使用した場合、
何かの罪に問われることはあるのでしょうか?

異性のトイレに駆け込んだ場合罪に問われる?

もし異性のトイレに入った場合、理由によっては
“建造物侵入罪”に問われてしまうかもしれません。
建造物侵入とは、管理権者の意思に反して
建造物に立ち入ることです。

刑法第130条に定められており、条文には
①正当な理由なく②建造物に侵入した場合に
成立すると規定されています。
法定刑は3年以下の懲役または10万円以下の
罰金です。

女子トイレが独立した「建造物」といえるような場合、
男性が当該建造物に立ち入ることは管理者の
意思に反することは明らかです。

そのため、このような場合には女子トイレに入った
男性に建造物侵入罪が成立する可能性があります。

正当な理由とは?

条文にある“正当な理由”とは、例えば犯罪者の
追跡や、不審物の確認で警察官が立ち入る
ことなどが挙げられます。

また、男子トイレで用を足すことができず、
女子トイレで用を足す以外に取り得る方法が
ないような場合も「正当な理由」に該当する
余地はあるでしょう。

緊急避難が認められる可能性がある

上記のような「正当な理由」に該当するから
罪とならないという考え方とは別に、女子トイレで
排泄しなければ排泄物を漏らしてしまうという
状況であれば、

女子トイレへの侵入行為が刑法第37条に
規定されている“緊急避難”として
認められるでしょう。

“緊急避難”とは、他人の生命・身体・自由
または財産に対する危機を避けるため、
やむを得ずにした行為は、それにより生じた害が、
他人に小さな害を与えたとしても違法とならない
とする考え方です。

排泄物を漏らしてしまえば衣服等の財産が
毀損されます。
当該財産への危機を避けるため、やむなく
女子トイレに侵入する行為は、財産上の損害と
管理権侵害による損害を比較して前者(後者)
といえる場合は、緊急避難が成立します。

逮捕されるケース

上記のように、男子トイレが利用できず、
かつ我慢もできないためやむなく女子トイレに
侵入する行為は、住居侵入罪が成立しないか、
成立しても違法性がないという場合が多いと
思われます。

そのため、事情を説明すれば警察のやっかい
となることはほぼないでしょう。

しかし、このような切羽詰まった状況でないのに
女子トイレに頻繁に出入りしていたり、女子トイレに
出入りする際に盗撮用カメラを所持していた
というようなケースでは、警察から厳しい追及を受ける
可能性がありますし、場合によっては建造物侵入罪で
立件される可能性も。

なお、当然ですが盗撮行為は迷惑防止条例違反等の
他の犯罪行為に該当します。

緊急事態の場合どうすればいい?

トイレが間に合わないなどどうしてもやむを得ない
場合は、男子トイレの個室がすべて埋まってしまって
いることをノックなどでしっかりと確認し、女子トイレに
いる人に断って利用するのも方法の1つといえます。

本当にやむを得ない理由であれば、女子トイレに
侵入したからといって何かしら大きな不利益を受ける
ということはないでしょう。・・・


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2018年10月25日 (木)

妄想劇場・the(iライフ)

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未熟な愛は言う、
「愛してるよ、君が必要だから」と。
成熟した愛は言う、
「君が必要だよ、愛してるから」と。
・・・
エーリヒ・フロム

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セッ○スレス・・・ 12年間で倍増の勢い

仕事で疲れている-。めんどくさい-。
セッ○スレスの中高年夫婦は12年間で倍増し、
約7割に上るという。

11月19日に開かれた「性と健康を考える
女性専門家の会シンポジウム2016」で発表した。

「たった12年間でこれほどセッ○スレスが
急増していることに大変驚いた。
夫婦間の性の位置付けや関係性の希薄化、
性交の有無に女性の意思が強く反映される
ようになったことなどが考えられる」

50歳代男性の86%がセッ○スレス
産婦人科医やセッ○ス・セラピストとして活動する
同研究会のメンバーは、臨床の場で中年期から
高齢期にかけて、性に関するさまざまな問題が
生じていることを経験してきた。

そこで、1999年に有配偶者の中高年を対象とした
調査を開始、今回が2回目になる。

調査方法は、2011年1月~12年12月、
関東圏に在住する40~79歳の男女を対象に、
研究メンバーが多方面に調査票と返信用封筒を
配布した。

回収数1,242部、有効回答1,162人
(有配偶者・男性404人、女性459人、
単身者・男性92人、女性207人)。

日本性科学会はセックスレスの定義を
「特殊な事情がないにもかかわらず、カップルの
合意した性交、およびセクシュアル・コンタクトが
1カ月以上ない場合」としている。

調査結果によると、「年に数回」「1年間全くない」
と回答したセッ○スレスの夫婦は、
2000年調査では40%、2012年調査では73%で、
1.8倍に増えている。

前回調査では年齢が高くなるにつれ、セッ○スレスの
割合が増えていたが、今回の調査では
男性の50歳代が86%で前回調査32%の3倍に迫る
勢いで増えており、60歳代、70歳代よりも多かった。

Sex1

セックスレスになった平均年齢は、男性52.9歳、
女性50.6歳で、日本人女性の閉経年齢と
ほぼ一致する。

一方、配偶者との性交を望み、実際に月1回以上の
性交がある人は、2000年調査では男性78%、
女性79%、2012年調査では男性44%、
女性68%で、希望通りにセッ○スできる男性が
大幅に減少している。

配偶者以外と...男女ともに倍増

セッ○スレスの理由は自由記述の回答で多岐に
わたるが、男女ともに「時間に追われ、面倒くさい」
という回答が目立つ一方、「更年期障害をきっかけに
週1が突然ゼロになった」という男性からの訴えもあった。

これについて荒木氏は「女性は閉経後、性交痛などの
性障害が強まる。
10年前の妻たちは妻の務めとして夫の求めに
応じたけれど、昨今ははっきり”ノー”という妻たちが
増えているということかもしれない。

就労女性が増え、経済力を得て相対的に家庭内での
力が強くなったことや、仕事で疲れていることも
影響しているのではないか」と述べた。

コンドームメーカーのDUREX社が2005年に行った
世界26カ国のセックスの頻度を比較した調査では、
日本は年間平均45回で、26か国中最下位。
今回の調査では中高年が対象とはいえ、
さらに性交回数が少ないことが明らかになった。

「生殖期を終えた中高年はセッ○スレスでよしと
考えるのか、個対個の生身での触れ合いである
性交は愛情確認や安らぎに欠かせないものだと
考えるのかは、1人1人の選択になる」との
考えを示した。

また、夫婦間のセッ○スレスが進む一方で、
「配偶者以外の異性と性的関係があっても家庭に
迷惑がかからなければかまわない」との回答が、

男性では40~50歳代の約4割、
女性では約2割に上り、ともに前回調査の
2倍以上に増加。
実際に配偶者以外の異性と親密な付き合いの
ある人の割合も、男女ともに倍増した



A51


Bgg1

私は16才で結婚しました。夫の健くんは18才

若い二人に、ちゃんとした生活が出来るかどうか
不安でしたが、二人で支え合って生活してきました。
そして、私が17才、健くんが19才のとき、赤ちゃんを
授かりました。

毎日毎日貯金して、毎日毎日一つのお弁当を二人で
食べ合って、慎ましく生活しました。

2005年8月29日
息子の陸が生まれました。
3人で楽しい生活を送っていました。

健くんとあたしの仕事が休みになると、必ず3人で
出掛けました。
出来るだけ陸には欲しい物を買ってあげました。
毎日毎日笑って過ごしたあの日々、もう戻って
こないかな。

2006年10月
健くんの身体中に、あざがいっぱい出来てました。
私は心配になって、健くんを病院に連れて
行きました。

健くんは白血病でした。でも、健くんは
「必ず治す。支えてくれ。」と言い、治療に励みました。
健くんは、見事に白血病を克服しました。
これでもう終わり。
全てが、また幸せな生活に戻ると信じていました。

2008年2月
健くんは、最近胸が苦しいと言いはじめました。
おかしいと思い、担当医の先生に診てもらったところ
再発肺ガンでした。もう手遅れでした。

健くん、いっぱいいっぱい我慢したんだろうね。
余命半年 残された時間、3人で楽しく過ごしたい。
健くんの願いでした。

健くんは、左の肺がつぶれている状態でした。
なので呼吸が難しく、苦しい毎日でした。

2008年6月
もう、健くんの鼻からチューブが取れる日なんて
ありませんでした。
チューブを取ると、苦しいと言って咳こんでしまいます。
どんどん話すことも辛くなってしまいました。

2008年8月28日
健くんが死んだ。陸の3才の誕生日の前日。
最期、健くんはあたしと陸にこんな言葉を
残しました。

辛いことがあったら、上を向いて空を見てごらん。
僕が二人を見守ってるから。
まみ・・・結婚してくれてありがとうな。
俺ほんとに幸せだったよ。

まみ大好きだよ。ありがとう。
陸・・・パパとはお別れだ。
これからはママのこと陸が代わりに守って
やるんだぞ。

パパの為にもママを守るんだぞ。
陸、生まれてきてくれてありがとう。大好きだよ。
こんな俺でよかったら、また出会ったときに
結婚してくれ。まみ、陸ごめんな。
と言い、健くんは永遠の眠りにつきました。

あたしは、涙が出てきませんでした。
あたし、健くんに出会えてよかったよ
健くんと付き合えてよかったよ
健くんと結婚できてよかったよ
健くんとの子供、陸に会えてよかったよ
ほんとによかったよ

健くんだいすき、ありがとう・・・



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2018年10月24日 (水)

妄想劇場・人生~(the life)

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恋はまことに影法師、いくら追っても逃げていく。
こちらが逃げれば追ってきて、
こちらが追えば逃げていく。
  ・・・(シェイクスピア)


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Lfg1111


介護離職、介護離婚、あげくは介護殺人まで
起こる現在、介護する人たちの心身の負担は
想像するにあまりある。
小室哲哉さんの不倫疑惑から引退という一件も、
「介護不倫」「介護離職」と報道したところが
あるようだ。

介護不倫については実際に話を聞いたことがある。
夫の両親を介護しているのに、夫からねぎらいの
言葉ひとつもらえず外で恋に走ったケースもあれば、
夫の介護に疲れて他の男性に癒やしてもらう
ケースもある。

不倫の善悪はともかく、「どうにもやり場のない
気持ち」をわかってくれる人に気持ちが向いて
いくのはやむを得ないとも感じてしまう。

夫の両親を介護するために離職

ミサキさん(42歳)の夫の父親が脳梗塞で
倒れたのは5年前。退院はしたものの自力では
歩けず、夫の母が必死に介護をしていた。

当時、ミサキさんは8歳と5歳の子を抱え、
仕事もしていたので手伝うこともむずかしかった。

「そのうち疲れたんでしょう、義母も
倒れてしまって。
そこでついに夫が私に仕事を辞めて介護を
手伝ってくれないかと言い出したんです。

夫は一人っ子だし、私も放ってはおけない
と思ったのでやむなく仕事を辞めました。
がんばって続けてきたからもったいない
と思ったけど…。

介護は先が見えないから休職というわけにも
いかなかった」
そこからミサキさんの生活は一変する。
朝5時に起きて、朝食作りと夕食の下ごしらえ。
洗濯をすませたところで夫を会社へ、

上の子を学校に送り出す。
掃除など家事を終わらせて下の子を保育園へ
連れて行って、1時間ほどかかる夫の実家へ。
家事や両親の食事の世話などをして夕方には
自宅へ。これが毎日続くのである。

誰も認めてくれない、報酬もない

「仕事と違うのは誰も認めてくれない、
報酬もないということですよね。両親も体が弱って
心も弱っている。暗いんです、笑顔もない。
どんなにこちらががんばっても明るさが戻ってこない。

義父は認知症も入ってきて、何度も同じことを言う。
そのうち徘徊するようになってきて・・・」

たっぷり3年間がんばったところで、ミサキさんは
何もかもイヤになり、気持ちがどんどん
落ち込んでいった。

「夫は週末、たまに様子を見に行く程度で、
それまでと変わらない生活をしている。
私の大変さをわかろうともしない。

私がぐったりしていると『今日はピザでもとるか』
と言ってはくれたけど、そもそも自分の両親を私に
介護させていることについてきちんと感謝して
もらったこともない」

ある日、夫の実家に行こうとして電車を乗り過ごした。
寝ていたわけではなく、ぼんやりしていて降りるべき
駅で降りなかったのだ。

「このままどこかへ行ってしまいたいと思いましたね。
でもそうもいかない。重い体を起こして次の駅で
降りたら、『ミサキちゃん』と声をかけられて。
びっくりしました。
中学時代の同級生の男の子だったんです」

彼は取引先から会社に戻るところだった。
ちょっとだけお茶でもと誘われ、遅くなりついでだ
と彼女も応じた。

彼という支えがあるからやっていける

「義両親と子どもの世話に明け暮れていたから、
大人の男性とまともに話すのは久しぶりでした。
夫とも事務的な話が多くなっていたし。彼と話して、
あ、私は社会とつながっていると実感できたのが
うれしかった」

そこから彼との関係が始まった。
無理やり時間を作って彼と会い、話をした。
それがいつしか恋へとつながっていく。

「いけないとわかっていたけど、彼が私の唯一の
社会との接点であり、私が生きている女であると
わからせてくれる存在だったんです。

ゆっくり会えるのは月に1回くらいだったけど、
その他にも彼は30分でも時間をあれば話を
聞くよと会ってくれた。それがありがたかったですね」

1年前、義父が再度、脳梗塞を起こして亡くなった。
それを機に、ミサキさん一家は義母を引き取った。
義母も現在、認知症があり、介護はまだまだ続く。

「それでも彼という支えがあるから、私はこの5年間を
過ごすことができたのだと思います。
もし彼がいなかったら、私はうつ病になるか
自殺していたか……。
一時期はそれほど追いつめられていましたから」

ミサキさんは自分の指先を見つめながら語った。
少し荒れた指先が彼女の日常を物語っているようだ。

再婚同士の夫の介護に疲れ果てて

同じように夫の介護に疲れ果てたリョウコさん(56歳)。
一回り年上の夫と結婚したのは10年前。
お互いに再婚だった。そして結婚して3年後から
介護が始まった。

「長年一緒にいる夫婦だから介護はできるんですよね。
私の場合は結婚生活より介護生活のほうが長い。
正直言って、しまった、結婚なんてするんじゃなかった
と思いました。夫には申し訳ないけど」

夫にはひとり娘がいるが、遠方で暮らしているため
めったに来られない。リョウコさんには子どもはいない。

「夫側は親戚もほとんどいないんです。
結婚するときは親戚がいなくてめんどうがないわ
と思っていたけど、こうなってみると協力者もいない
ということなんですよね」

右半身が不自由になった夫を心身ともに支えて
いくのは大変だった。どうにもつらくて、離婚した
元夫に電話したことがある。

「元夫とはときどき連絡をとる関係ではありました。
彼も再婚していますが、他に頼れる人がいなかった。
意外にも彼が親身になってくれて……。

とにかく会おうと。支援してくれる機関を教えてくれたり、
私のことも励ましてくれたりしました。
そうしているうちに元夫と寝てしまった。
元夫も再婚相手とうまくいっていなかったみたい。

離婚してよりを戻そうかという話にもなったけど、
介護が必要な夫を見捨てるわけにもいかない。
つらかったです」

わかってくれるのは元夫だった

結局、元夫とは今も定期的に会っている。
ホテルへ行ってもセッ○スしないこともある。
彼女自身、更年期もあって体調が定まらない。
ただ、元夫に抱きしめられるだけで心が
落ち着くのだという。

「いつまで続くかわからないんですよね、介護って。
先が見えない。ずっと長いトンネルの中にいて
光がまったく見えてこない。
私がなんとか生きているのは、元夫がいてくれる
からだと思います」

介護不倫というと言葉のイメージはよくないが、
彼女たちはどうにもならない立場で必死に救いを
求めているのだ。重い話であるが、誰にとっても
他人事ではない。・・・


A11111


Hyi1


私は母子家庭でした。近所にいる祖父宅へ
小さい時から預けられていました。

そこには若い頃に祖父が作った愛人の
おばさんもいました。何十年も一緒にいるので
本当の夫婦のようでした。

私とは血が繋がってはいませんが本当の
孫のように接してくれていました。
趣味のパチンコやに、買い物に、犬の散歩に
行ったりと過ごしていた時間が長く、
楽しかったのを今でも思い出します。

時は経ち、みんな年をとって老夫婦も本当に
高齢者になってきたため、家を建てみんなで
生活することになりました。

生活して二年後に祖父は脳梗塞になり
右半身麻痺、認知症になってしまいました。

また、愛人のおばさんも持病の糖尿病が
悪化してきました。体調の悪い二人の世話を
私はしながら生活していました。

私の母親はそれを見て、老夫婦に強くあたり
散らしていました。昔の怨みみたいなことも含んで
言っていたので、家の雰囲気は最悪でした。

さらに、年が経ちいよいよ自宅では介護困難な
状況になってきました。祖父の認知症状は
止まることなく落ちつかない、おばさんも高度な
認知症状がでてきました。

老夫婦を一緒に介護施設に入所せざる状況に
なってきました。
母親とはもうどうにもならないくらい関係が
悪化していたため、私が施設まで送り届ける
ことになりました。

車内では皆無言で、時々祖父が意味不明な
会話をはじめるくらいでした。
施設に着いたとき、私は顔の原型がなくなるほど
泣いてしまいました。

ずっと我慢していたせいもあり、止まらなくなって
二人に何度も謝りました。
しかし、二人は謝り、泣いている私を見て、
今までありがとうと笑顔で話してくれました。

認知症状が進んでいる二人は本当に理解
してるのかわからなかったですが、悲しい
気持ちでいっぱいでした。

一年後に祖父は他界し、おばさん独りきりに
なってしまいました。
認知症状がかなり進んで私の顔を忘れている
状況でした。私を施設職員だと思い込んで、
必ず話しかけてきます。

私にはあなたと同じくらいの孫がいるんだ。
優しくて力持ちで看護師をしているんだ。
あの子は私の自慢の孫なんだよ。
と、私の顔を忘れていても私のことは覚えている
おばさんに涙が溢れました。
私はそうですかと相槌をする事しか
できませんでした。

二年後、おばさんは他界しました。
最後まで私のことは覚えてくれていました。
小さい時に、私のたった一人の孫なんだよ
と自慢してくれた大好きなおばさん。

血が繋がってはいませんが本当に大好きでした。
ありがとう。私は今、二人の娘に恵まれ
幸せです。
おばさんと過ごした暖かく、柔らかな時間を
今は家族で過ごしいます。
また、墓参りの時に会いましょう。
・・・


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2018年10月23日 (火)

韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)

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アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kensin1


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
良いかな・・・


Kansin


春秋末期の楚は、愚者たちによって
統治されていた。
能者は他国へ流れ、賢者はそねまれ死を
強要される。
しかし変革に立ち上がった者たちにも行動に
統一性は見られないのであった。

ある者は祖国を改革しようとし、ある者はあえて
祖国を滅ぼす、と主張する。
彼らはそれぞれに信念があり、正しかった。
誰が間違っていたというのか。 ・・・


韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)
:罪人を将とす


「ちょっと待って、お兄さま」
紅花が話に割って入った。突然のことで、
礼儀を失する行為であったが、それを咎める者は、
この中にはいない。

「どこかで似た話を聞いたような……」
「まったくだ。費無忌は伍子胥ばかりでなく、
同じ方法で伯嚭を呉に追いやっている。
その実行役が、嚢瓦だというわけだ。

いまや伍子胥と伯嚭は呉の将軍として
楚を窮地に追い込もうとしており、楚の国民は
それを察して恐々とおののいている。

情報に通じている者は、すべての責が費無忌に
あることをすでに察しているのだ」
かつて費無忌によって楚に連れてこられた
嬴喜にとって、無関係な話ではない。
彼女は、心配そうに包胥の顔を覗き込んだ。

「それで、どうしようというのです?」
包胥は宣言するように言った。
「費無忌と嚢瓦には、罰を受けてもらいます。

嚢瓦は宰相として費無忌を誅殺する。
そして嚢瓦には、戦場で苦労してもらいましょう。
あるいは死が彼を待っているかもしれませんが、
そこで生き残るかどうかは、彼の才幹次第です」

「そのような者に国の命運を賭けても
よいものでしょうか」
嬴喜の問いに包胥は首を振って答えた。

「国の命運など、たいしたものではございません。
大事なものは人の命であり、尊厳ですぞ。
言い換えれば、それらとひきかえに国の命運を
差し出してもいっこうに構わないと私は考えます。
なぜなら、人が無ければ国は成り立たないからです」

「それをまた言い換えれば、人の命さえあれば、
国は存続するということですか」
「おっしゃる通り」
包胥はこのとき微笑し、嬴喜もそれに応じた。

片腕の費無忌は刑場に連行され、首を
刎ねられようとしていた。
「申し開きは許さぬ」嚢瓦はそう言って費無忌の
口を塞ぐよう周囲の者に命じた。

費無忌の口から郤宛殺害の実行役が
自分であることを、漏れることが無いように…
…すでに知っている者も多いが、改めて広める
必要はまったくない。
ただ、自分の立場を悪くするだけであった。

「構わぬ。やれ」
口を塞がれてもがく費無忌の首に、剣が当てられた。
それが振るわれた瞬間も、彼がなにを言ったか、
定かではなかった。

嚢瓦は費無忌の存在とともに、過去を抹殺した
つもりでいた。そして嚢瓦は令尹の任にありながら、
将軍職を授かることになる。

一見これは名誉なことであった。
彼はこのことを佞臣費無忌を誅したことに対する
褒美だと受け止めたのである。

図に乗った嚢瓦は、軍を引き連れて周辺国の
唐や蔡に駐屯すると、安全を保障するといって
賄まいないを要求した。
しかしそれらの情報は、呉の間諜によって
すべて筒抜けとなっていたのである。

かくて嚢瓦は呉を攻めたが、伍子胥によって
その進軍を阻止されるに至る。
呉・楚両軍は豫章よしょうで遭遇し、会戦となった。
その結果、楚軍はおおいに敗れ、撤兵を
余儀なくされた。

呉は間諜から得られた情報をもとに、楚軍を
待ち受けていたのである。
これによって、楚は東の領地である居巣きょそうを
失うこととなった。

・・・つづく



愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る・・



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愛知県の山田貞二さんのいい話
山田さんが一宮市立大和中学校で校長を
務めていた時の出来事だそうです。
祝日の日、静岡県でバレー部の部員とともに
練習試合に臨みました。

たくさんの学校と試合をし、多くの方に応援に
来ていただき、感謝の一日でした。
また、感謝といえば、この日はもう一つ、
とても心温まるできごとがありました。

練習試合が終わり、帰りの電車に乗ろうと、
顧問の先生も生徒も鷲津駅で切符を買おうと
していました。

自動券売機では販売していないほどの遠い
距離であったため、 全員窓口で切符を
購入しなければなりませんでした。

先生がまとめて立て替えて全員のチケットを
購入するのが手間もはぶけて効率的です。
実際に、学級や学年単位など大勢の場合は、
まとめて購入します

しかし、部活動の遠征などの際には、
一人ひとりが自覚を持って行動し、
社会性やマナー等も身につけさせたいという
考えから、 一人ひとりが切符を買うように
指導しています。

ところが、窓口に並んだ列の2人前のお客さんが
手続きに時間がかかっているうちに、
電車の到着時間がだんだんと迫ってきてしまいました。

ただでさえ、県を超えての遠征で、帰宅時刻の
ことを考えると 電車を1本遅らせるわけには
いきません。 内心、非常に焦りが募ってきました。

(やはり、まとめて購入すべきだったかなと)

その時です。すぐ前に並んでいた若い男性の方が、
「お急ぎですよね? 先に切符を買ってください」 と、
順番を譲ってくださったのです。

バレー部はその時全部で11人。
順番を譲るということは、その男性が切符を
買えるのは 12番目になってしまうということです。

「いいんですか?」 と、顧問が尋ねると、
「困ったときはお互い様です。」 と言い、
スッと後ろへ移動されました。

たぶん、生徒全員がおのおのに切符を購入する
という意味合いも 理解してのことだと思われました。

その男性のおかげで、全員が無事切符を買い
ホームへ向かうことができました。
バレー部全員で、その男性に向かって、
「ありがとうございました!」 と、精一杯の感謝の
気持ちを込めてお辞儀をし、あいさつをしました。

その男性は少し照れくさそうにはにかみながら、
ペコッと会釈を返してくださいました。

電車がそろそろ鷲津駅に到着する頃、
後ろを見ると、 その男性も切符を買い終わり、
ホームに向かう姿が見えました。

同じ電車に乗るということは、その男性は
家路を急いでいたのかもしれません。
そんな中、もしかしたら、再び会うことは
ないかもしれない私たちに、

「困ったときはお互い様です」
と言って、順番を譲ってくださったその男性の
温かさにとても心打たれました。
「人情」に触れることができた帰り道となりました。


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2018年10月22日 (月)

韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)

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アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい

Kensin1


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
良いかな・・・



Kansin


春秋末期の楚は、愚者たちによって
統治されていた。
能者は他国へ流れ、賢者はそねまれ死を
強要される。
しかし変革に立ち上がった者たちにも行動に
統一性は見られないのであった。

ある者は祖国を改革しようとし、ある者はあえて
祖国を滅ぼす、と主張する。
彼らはそれぞれに信念があり、正しかった。
誰が間違っていたというのか。 ・・・


韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)
:罪人を将とす


「では、早速ではございますが…
このたびここにいる奮揚と呉軍撃退のための作戦を
練りましたので、御認可を得たいと思います。
よろしいでしょうか」

「どんな作戦ですか。私には詳しくはわかりませんが、
いたずらに対立を深めるようなものでしたら、
拒否したいと思います。

ですが、もしそれがここに住む人々の生活を
守るためだとしたら、認めたいと思います」
すでに嬴喜は包胥の唱える「道」に感化されて
いるようであった。
奮揚は、そのことをわきまえながら説明を始めた。

「呉軍は我が楚の国境付近に断続的に出没し、
我々はその度に軍を出動させなければならない
事態となっております。

いつどこに現れるかもしれない呉軍に備えるには
国境線に沿って兵を並べるしかありませんが、
それではこの郢の守りが薄くなってしまいます。
もし国境の防衛線を突破されると、そこから一気に
突入される恐れがあるのです」

「はい」奮揚の説明に、嬴喜はあまりはっきりとした
反応を示さなかった。
彼女は、基本的に軍事を考えることを好まなかった
ようである。「この状況をいち早く打開し、なおかつ
最悪の想定を回避するために、我々の側から
呉に攻撃を加えたいと思います。

そこで呉軍にある程度の痛手を与えることができれば、
我々は政治的にも主導権を得ることができます。
無益な政争や戦争に民衆を巻き込むことも
無くなりましょう」

「成功すれば、の話ですね。失敗したら、どうなるのです」
軍事に詳しくない者が、話だけを聞くと当然抱くであろう
疑問である。それだけに、この嬴喜の質問は実に
核心を突いている。奮揚は束の間、返答に窮した。

「…失敗すれば、我が国は領土を失い、そこを
拠点とされて国都を攻撃されましょう。
これまで国境近辺に限定されていた戦いが、
中央にまで及ぶ可能性は、事実としてあります」

「それで、成功の可能性はどのくらいあるのです?」
嬴喜には奮揚を問いつめる意識は無いようだったが、
質問には遠慮がない。奮揚はまたも返答に
窮してしまった。

「成功の確率は、五分五分というところです」
奮揚に代わり、包胥が返答した。
やはり奮揚は、嬴喜の扱いを包胥に任せることにした。

「五分五分の確率で、わざわざ呉の領地に
攻め込む必要があるのかしら。でもあなた様が
そう言うのでしたら、確たる理由があるのでしょう。

それで誰がその軍を指揮するのです? 
まさか、あなた様がそれを行なうというのでは
ないでしょう?」

「ご安心ください。今回私と奮揚は、ここ郢の
防衛に回ります。呉への侵攻は…そうですな、
公子嚢瓦のうがどのにでもお願いしようかと
思っています」

「嚢瓦…令尹れいいんの、ですね。なぜあの方に…」
包胥は嬴喜のその質問に答え始めた。
その返答は長く、内容も驚くべきものであった。

「嚢瓦は字を子常しじょうといい、かつて令尹であった
公子貞の孫にあたる人物です。
その先祖の威光で現在も令尹の座について
いるわけですが、前歴は輝かしいものとは
言えません。

かつて彼は費無忌の意を受けて、大夫郤宛
(げきえん)を殺害しました。
郤宛は正直者で、そのため人心を得ていた
人物でしたので、彼の死は当時の国民に
大きな衝撃を与えました。

また、このとき彼の甥にあたる伯嚭(はくひ)が逃れて
呉に亡命するという事件も発生したのです。
その伯嚭が、一説によると呉軍の将としてこの楚を
攻撃しているとのこと……」

・・・つづく


愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る・・


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「ちぇっ」
斉藤隆弘は、中央高速道の左側車線で ハンドルを
握りながら舌打ちをした。

助手席に座っている同僚の田村麻子が訊く。
「どうしたの?斉藤クン」
「どうもこうもないよ。後ろの黒いワゴンがさぁ、
パッシングしてあおってくるんだ」
「へえ~」と答えながら、麻子は後ろをチラッと
振り返った。

隆弘は7年前、東京に本社のある大手建設会社に就職。
この春、岐阜県に建設予定の福祉施設プロジェクトの
下準備を任され、 名古屋支店に転勤になった。

「さっきから、バックミラーを見るたび、チカチカ
するんだよね。 道はガラガラなのに・・・」

隆弘と麻子は、朝一番で福祉施設建設予定地まで
車を飛ばした。
現地の写真を撮り、地元の役所や法務局を回った。
残暑が厳しく、全身汗だくだ。

「斉藤クン、何か後ろの車に悪いことでも
したんじゃないの?先にあおったとか」
「そんなことないよ。いつもオレは安全運転だぜ」
「そうよね。向こうが酒気帯び運転なのかも」

そう言いながら、麻子は再び後ろを振り返った。
「あら、鳥取ナンバー!ずいぶん遠いところから・・・」
「え!?鳥取だって?」

それは、隆弘が高校まで生まれ育ったところだった。
今も両親が住んでいる。
学生時代は、休みのたびに帰郷していた。

しかし、大学のある東京でそのまま就職すると、
友達などの人間関係はますます東京中心になる。

お盆休みや正月には仲間に旅行に誘われた。
いつしか、年に一度帰ればいい程度になっていた。
特に母親がうるさかった。

夜遅くに会社の単身者アパートに帰宅すると、
留守電が入っている。
「今度は、いつ帰ってくるの?」
「お盆にはお爺ちゃんのお墓参りをしなさいよ」

そして、
「まだ結婚しないの?」と。
しかし、 3年前に、地元の会社員に嫁いだ妹に
子供ができると、 電話の数も減った。

孫がよほど可愛いらしく、 隆弘への意識が
薄らいだような気がした。
ホッとするような、少し寂しいような・・・。

「あっ!」麻子が声を上げた。
後ろにぴったりとくっ付いていたワゴンが、
急に隆弘の車を追い越しにかかったのだ。

「よかった。抜いてくれて」と安心したのも束の間。
今度は、隆弘の車の前に出てきた。
それも、ちょっとブレーキを利かせて、ぴったりと
車間距離を詰める。
慌てて隆弘はブレーキに足をかけた。

「え!?斉藤クン。前の車の窓、
何か書いてあるわよ」
麻子に言われて、前に回ったワゴンの
リアウィンドゥを見る。

(何だよ、あれ?)
子供が手に大きな紙切れを持っている。
それをこちらに向けて何か叫んでいるのが見えた。
もちろん、何も聞こえやしないが。

「あっ、わかった。『ライト』って書いてある!」
「え?あっ、しまった」
隆弘は、慌てて右手でライトを消した。

麻子が言う。「ダメじゃないの。
いつから付けっぱなしになってたのよ」
「う、うん。高速に乗る前のトンネルからかなぁ」

「さっきのパッシングは、これを教えてくれて
いたんじゃないの」
「うん」 「恥ずかしい・・・
酒気帯びだなんて」 「何言ってんだよ。
それはお前が言ったんだろ」

ライトが消えると、男の子がこちらに手を
振るのが見えた。
小学3年生くらいだろうか。 どうやら、
スケッチブックにクレヨンか何かで書いて
くれたらしい。

おそらくは、お父さんに言われてやって
くれたのだろう。
「あのさあ、麻子」 「何よ?」
「後ろの座席にさあ、さっき役所でもらった
観光ポスターがあるだろ」

それは、町役場の観光課へ挨拶に行った際に、
名古屋支店のビルの玄関にでも貼って欲しい
と渡されたものだった。

「マジックでさあ、裏に書いてくれないか」
「何て?」
「うん。『ありがとう』って」
ニヤッと笑い、麻子は、「オーケー」と言った。

「オレがもう一度、ワゴンを追い抜きにかかる。
追い越し車線でぴったりと横に付けるから、
その瞬間に左の窓に貼り付けるようにして
見せてやってくれよ」

麻子は手際よくポスターの裏面に『ありがとう』
と書いた。
見やすいようにと、太く、太く。
隆弘がアクセルを踏み込んだ。

すぐに返事があった。
黒いワゴンの後部座席の男の子は、 また何か
文字を書いて再びスケッチブックを窓に押し付けた。
麻子が言う。

「『バイバイ』だってさ」
麻子が、助手席で男の子に手を振った。
「きっと夏休みで、家族で旅行に来たのね」

間もなくジャンクションが近いことを知らせる
表示板が見えた。
黒いワゴンは、右・京都、大阪方面へと
ウインカーを出す。

隆弘は、左・名古屋インター方面へと再び車線を
変更した。
このまま、鳥取ナンバーの後ろに付いて、
右へとハンドルを切りたい気持ちを抑えて。
プァーン!

一瞬、短い短いクラクションが聞こえた。
それに応えて、隆弘も一度だけ、クラクションを
鳴らした。

2台の車が反対の方向へとバンドルを切った。
隆弘は思った。
(今度の正月はふるさとへ帰ろう)・・・


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2018年10月21日 (日)

妄想劇場・歌物語

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貴方はもう忘れたかしら
赤い手ぬぐいマフラーにして
二人で行った横丁の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた

洗い髪が芯まで冷えて 小さな石けんカタカタ鳴った
貴方は私の身体を抱いて 冷たいねって言ったのよ

1970年代初頭の日本では、安保闘争・学生運動の
熱が少しずつ冷めてゆく中、一部の若者たちの間で
得も言われぬ敗北感と挫折感が漂い
始めていたという。

そんな時代に、この「神田川」は生まれた。
南こうせつ、伊勢正三、山田パンダからなる
フォークグループかぐや姫が1973年に
発表したもので、45年経った今でも
;昭和の代表曲;として愛され続けている
名曲の一つである。

当初はアルバムの一曲として収録されていた
歌だったがラジオで大反響を呼び、急遽、
シングルカットされて160万枚を売り上げる
大ヒットを記録した。

楽曲のクレジットには作曲:南こうせつ、
作詞:喜多條忠(きたじょうまこと)と記されている。
歌詞を書いた喜多條と言えば、1960年代の
終り頃に浅川マキと出会ったことをきっかけに、
劇団・天井桟敷を旗揚げしたばかりの
寺山修司などとも親交のあった作詞家で、
第一期、がくや姫のシングルのB面曲
「マキシーのために」で作詞を担当した
人物でもある。

1970年のデビュー以来、ヒット曲にめぐまれなかった
南は、かぐや姫の3rdアルバムを製作するにあたって
文化放送で放送作家をしていた喜多條に
作詞の依頼をした。

あるインタビューで、喜多條は当時のことを
こう語っている。 「
締め切りは今日なんですけどねって平気な顔して
言うんです。」 急な依頼に何も浮かばなかったという。

その日の帰宅途中に彼は神田川沿いを
歩きながら;ふと数年前のことを思い出す。

彼女とアパートで同棲していた学生時代。
大学の近くにあった三畳一間の小さなアパート。
窓の下には神田川が流れていた。

60年代、キャンパスには学園紛争の熱が
渦巻いていた。
「あの暮らしは一体何だったのか喜多條は、
依頼された歌詞にその思い出を書こうと決意した。

大学時代には頻繁にデモ運動にも参加していた。
ある日、疲れ果ててから帰るとカレーライスを
作っている彼女の後ろ姿を見る。

コトコトと包丁で刻む、ささやかな幸せの音。
貧しくとも、かけがえのない時間。
このまま彼女と結婚して、社会人として安穏に
人生を生きてゆく。

「俺はそれでいいのか?彼女の優しさ、そして
平凡な暮らしの中に埋もれていく自分
そういうのが怖かった。」

書き終えた歌詞の最後に「ただ貴方の
やさしさが怖かった」と書き加えた。

彼女の目線(言葉)で綴られていた歌詞は、
その一行だけ喜多條の思いとすり替わる。
当時学生下宿が多かった早稲田界隈が
舞台となったこの歌。

喜多條はある寄稿文に、歌詞に登場する下宿や
風呂屋の場所を具体的に綴っている。
「下宿は明治通りの戸塚警察署の向かい側を
神田川沿いに入って、戸田平橋と源水橋の間、
高田馬場2丁目11番地あたりです。

銭湯は西早稲田3丁目、現在の甘泉園近くの
路地から少し入った場所にあった安兵衛湯。
現在はもう廃業してるらしいです。」

歌詞を書き上げた喜多條は、すぐに南に電話をして
音読しながら伝えたという。
南もまた、その日のことを鮮明に憶えていた。

「小さな石けんカタカタ鳴ったと書き止めながら、
最初はなんて変な歌詞なんだろうと思いました(笑)」
若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方の
やさしさが怖かった

受話器から聞こえてくる言葉(歌詞)をメモしながら
南の頭にはすでにメロディーが浮かんでいたという。

参考文献『歌がつむぐ日本の地図』

貴方はもう捨てたのかしら 二十四色のクレパス買って
貴方が書いた私の似顔絵 巧く書いてねって
言ったのにいつもちっとも似てないの

窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿
貴方は私の指先見つめ 悲しいかいって聞いたのよ
若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方の
やさしさが怖かった "・・・

 





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その生い立ちが感性を研いだ 吉永みち子の
深いふところ

人間に朝日派と夕陽派があるとしたら、自分は
夕陽派だ、と吉永みち子は言う。
夕陽をぼんやり眺めているのが好きなのである。
朝日はまぶしくて、ぼんやりなんか眺めて
いられないとか。・・・

テレビでコメントしたり、卓抜なエッセイを書いている
吉永は『気がつけば騎手の女房』(集英社文庫)で
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

彼女は野間惟道が社長をしていた『日刊ゲンダイ」で
競馬記者をしていたことがあるが、あるとき、
夜遅くまでみんな必死になって原稿を書いている中で、
ひとり、ぷかっと煙草をふかしている男がいた。

まだ20代で元気のよかった吉永は「ちょっと
あんた邪魔よ。何にもなかったら帰ってよ、
目障りだから」と声をかけた。

吉永は顔を知らなかったのだが、それが社長の
野間だった。
しかし、そう言われて野間は怒りもせず
「それもそうだな」と腰を上げた。

すぐにデスクがとんできて、吉永は、その男が
社長であることを知る。
「しまった、これでクビだな」と思っていたら、
逆に、それ以後かわいがられて、家に
呼ばれたりした。

小生意気な女の子が競馬に目ざめ騎手の女房に

『気がつけば騎手の女房』は東京外国語大学在学中に、
突然、競馬に目ざめ、競馬記者になった吉永が、なんと、
伝説的騎手の吉永正人の女房になってしまうまでの、
ドラマを地で行くドキュメントだが、

女性の就職物語であり、恋愛物語であり、結婚物語
でもあるこのドラマは、「学生ホールで初めて
ダービーを見る」に始まり、「下宿屋の娘、
通訳に憧れる」という回想に移る。

父親が60歳の時に生まれた吉永は、9歳でその父を
亡くし、母親と2人で下宿屋をやっていた。

この小学生は「今思うと吹き出してしまうほど
小生意気」で、下宿人がいろいろ無理を言うと、
とびだしていって「ちょっとあんた、女子供だと思って
なめんじゃないよ。

上等じゃないの。そんなに自分の都合ばかり
並べるなら、明日から外食にしてもらおうじゃない。
お母ちゃん、1人分減らしな」と、ベランメエ口調で
まくしたてた。

ついには、妻を亡くした3人の子持ちの騎手と結婚

この娘は(旧姓は鈴木)成長して、次々と母親の
期待を裏切り、ついには、妻を亡くした3人の
子持ちの騎手(吉永正人)と結婚したのである。

「娘をたぶらかしたあの男を、私は鉈で頭を
叩き割ってやりたいほど憎い」こう言って
怒る母親を、吉永正人は1人で訪ね、
黙ってその前に、競馬で馬を追うときに使う
鞭を差しだした。

そんな一幕もあっ・・・て2人は結婚したのだが、
その吉永みち子と私は1993年秋に
『男の魅力女の引力』という対話集を出した。
共に40代のころである。

その時、彼女は多くの人に驚かれたらしい。
「どういうお知り合いなんですか?」と訝しげに
尋ねられたとか。

実は講談社の編集者に紹介されたのだが、
吉永は『佐高信の男たちのうた』の解説で、
その折りの心象風景をこう書いている。

「カタギさんから見ればウラの世界とされていた
頃の競馬に縋って生きてきたような人間は、
きっとバッサリと切って捨てられるに違いないと
身構えつつ、開き直って出かけていったのだった。

しかし、会った瞬間に脅えも緊張もすっかり忘れた。
うっかり忘れたのではなく、そんな構えを
必要としない人だと察することができたから
忘れられたのである。

初めての人と出会った時、どんなやさしさで
接してくれようとも、私は人の目の中に一瞬宿る
憐みや優越感や嫌悪感に、きわめて敏感に
反応してしまうのである。

けっして世間並みとはいえない家庭に生まれ、
若い頃に博打場のようだった競馬場に出入り
したために、ずいぶんと白い目で見られた経験の
後遺症かもしれない。

その時、佐高さんに対して私のセンサーは
微動だにしなかった。
構えが取れると自然になり、自然になると本音が
さらけだせ、それでいて妙にウマがあった。

辛口、硬派、生真面目、大胆不敵と世に
言われているが、辛いばかりの人ではない。
厳しいばかりの人でもない。

清流だと窒息死してしまいかねない雑魚の私が、
楽に呼吸できるほどの濁りも持ち合わせて
いるらしい。そんな気がしたのが第一印象だった」

吉永の人間判別法のシャープさとディープさ

「切る時も誉める時も激しい」佐高の本の中で、
これは「少しばかり趣を異にした作品」だとして、
吉永はこう続ける。

「血刀を握りしめ仁王立ちして権力に異議を
唱える時の攻撃性は影をひそめ、自らの琴線に
共鳴してくる男たちのうたに、じっと耳を傾けている
かのような穏やかな風情がある。

ここに登場する男たちは、みんなしたたかに強く、
潔く、成功もし、有形無形のものを世の中に
残している。

しかし、それと同じくらいに、弱さを持ち、
板挟みに悩み、失敗も重ね、失ったものの痛みを
抱えている。
ひとひねりも、ふたひねりも屈折している」

吉永の語った「屏風の思想」というのも忘れられない。
屏風は真っすぐにしたら立たない。
曲がってようやく立つ。これもまた1つの立ち方
だと思うと彼女は言ったのである。

漫画家の石坂啓、人材育成コンサルタントの
辛淑玉、そして市民派政治家の辻元清美と会食を
することになって、吉永に同席を頼んだ。

男1人では、とても若手猛女に太刀打ちできない
と思ったからである。
正解だった。ほぼ初対面だった3人から、
直きに彼女は“姐さん”と一目置かれていた。
ちなみに彼女の歌う「緋牡丹お竜」は絶品である。

私は決して吉永の過褒が当てはまる男ではないが、
どうしても彼女の書いた解説の結びを引きたい。

「私は、佐高さんの痛みの限界が心配になる。
安全圏に身を置いて吠えているのではなく、
敵陣深く入り込んで切りまくっているのである。

当然ながら自らも切られる。
佐高さんは、切られれば人一倍痛みを感じる
人である。
けっして切られる痛みを感じないまま、
人を切りまくっているわけではないのである。

切られた相手はひとつの傷に耐えればいいが、
切りまくる佐高さんは満身創痍である。
友人のひとりとして、それは辛い眺めなのだが、
手加減をしたらとはさらに言えない」

そして、「自らの闘いを闘ってほしい。
やはり、私もそう願うしかないのだろう」
と、この檄文は結ばれている。 ・・・


運がいい人も、運が悪い人もいない。
運がいいと思う人と、運が悪いと思う人が
いるだけだ。・・・(中谷彰宏)


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2018年10月20日 (土)

妄想劇場・歌物語

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美空ひばりの生誕の日、5月29日に合わせて
「さくらの唄」の未発売音源が初めてCD化された。

1976年7月1日に発売された「さくらの唄」は、
作詩家のなかにし礼が実兄の莫大な借金を
背負い込んで、返済に追われて疲れ果てて書いた
歌詞に、作曲家の三木たかしが曲をつけた
楽曲である。

♪何もかも僕は なくしたの  
生きてることが つらくてならぬ  
もしも僕が死んだら 友達に  
ひきょうなやつと わらわれるだろう  
わらわれるだろう

三木たかしは自らこれを歌って、1970年に
シングル盤として発表したがまったくヒットせず、
ほとんど誰にも知られることなく埋もれてしまった。

忘れられていた歌の存在を知ったのが、
TBSドラマのプロデューサー・演出家だった
久世光彦。

すっかり楽曲に惚れこんだ久世は「さくらの唄」を
歌えるのは美空ひばりしかいないと直感し、
同じタイトルのドラマを作ることで主題歌を
歌ってもらう企画を立てた。

美空ひばりの絶唱「さくらの唄」が誕生するまで

脚本を依頼されたのは山田太一。
その年の2月からNHKで脚本家の名前を冠した
脚本家シリーズが始まったが、その先発に
選ばれた山田太一の『男たちの旅路』
(主演・鶴田浩二)は好評を博していた。

ドラマ『さくらの唄』は東京の下町、蔵前に住む
一家が舞台で、主人は指圧院を開業する伝六
(若山富三郎)。
妻の泉(加藤治子)が心臓をわずらっている
という設定で、そこから不幸の影がさしてくる。

長女の麗子(悠木千帆)、次女の加代(桃井かおり)、
長男の進(高野浩幸)と3人の子どもがいる。
あまり器量がよくない麗子は30を過ぎているのに
独身で、自分を嫌っている教師・中西基二
(美輪明宏)に惚れている。

貯金局で働いている次女の加代は、器量は
まともだが頭が少し足りない。
高校2年生の進はなかなか優秀なひとり息子。
ドラマはひとり暮らしをしていた麗子が、中西の
子どもを身ごもって実家に戻るところから始まる。

はかばかしく進まない2人の娘たちの恋愛を
中心に、庶民のありふれた日常が重なる生活の
なかで、些細な出来事から起きる人間関係が
2クール、6ヶ月間にわたって描かれた。

誰にも身につまされるような、ささいな幸福と
不幸のくり返し。 空気を読むなどということなどなく、
あけすけになんでも言いたいことを言い合い、
ときには取っ組みあう人たち。

ドラマのなかの登場人物は、そうしたことで
たびたび泣いた。 どうしようもないと言って泣き、
どうしようもないと思っていたことがうまくいった
と言って泣いた。

美空ひばりの「さくらの唄」はそんな下町
人情ドラマにピッタリだったが、どういうわけか
全くヒットしなかった。

ドラマ自体もまた、久世による大ヒット作
「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」のようには、
視聴率が思うように上がらなかった。

レコードの売上も視聴率も冴えない数字だったのは
歌の出自ともつながり、泣くことから逃れられない
運命だったのかもしれない。

未発売音源が2016年になって発見されたのは、
担当プロデューサーが2月初旬にマスターテープなどを
確認していて、別ヴァージョンの存在に気づいたからだ。

これまでのマスターテープではギターのアルペジオと
歌だけで始まり、2コーラスに入ってからリズム・ギターや
ストリングスが入ってサウンドが広がり、
次第に音が厚くなって最後にはオーケストラの
演奏に至るアレンジになっていた。

しかし今回のマスターテープ発見によって、
はじめからオーケストラによるヴァージョンと、
ギター伴奏のみによるヴァージョンが存在して
いたことがわかったのだ。

したがって1976年に出たシングル盤は、それら
2ヴァージョンを編集して作られたものだった。
今回のシングル発売について、生みの親だった
なかにし礼はこう語っている。

この曲は借金を返しても返しても大変で、
疲れ果てたときに書いた遺言のような歌。
死を恐れつつも死に憧れた唄。

とても暗い歌だけに、この曲がシングルとして
発売されることは素直に嬉しい。
ひばりのレコーディングに立ち会ったとき、
ひばりは本当にうまかった。

三木は泣いて歌っていたが、ひばりはにっこり
笑いながら歌う。 慈愛の笑みで。
そのほうがよく伝わった。

シンプルにギターの伴奏だけで歌うヴァージョンが
発見されたことによって、「さくらの唄」がもう一度
伝わっていく可能性も出てきた。

最初のリリースから40年の歳月を経た「さくらの唄」が、
新たに発見されてにっこり笑える日は来るのだろうか。
・・・美空ひばり『さくらの唄』 日本コロムビア






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城山三郎に教わった阿川佐和子の「聞く力」

家でも職場でも怒鳴られっぱなし
『聞く力』が大ベストセラーになってからも、
阿川佐和子はけっこうしゃべっていると思うが、
いまから30年余り前、まったくと言っていいほど
しゃべらない阿川が隣にいた。

秋元秀雄がキャスターの「情報デスクToday」
という番組でである。
私はゲストとして時々呼ばれたのだが、
アシスタント役の阿川は、秋元のそばで緊張して
固まっていた。

『俳句界』の2007年10月号の私との対談で、
阿川はそのころのことをこう振り返っている。

「当時、私は30歳でしたが、世の中のことを
なんにもわかってなかったですから、ひたすら
怖かったですね。

家に帰れば父に怒鳴られ、職場では秋元さんに
怒鳴られ、悲惨な生活を送っていました」
読売新聞経済部の記者から転じた秋元に、
この番組で私が、「家では粗大ゴミ扱いされる会長や
相談役が、会社では威張れるので、いつまでも
やめない」と言ったら、

「家では粗大ゴミ、会社では生ゴミということだね。
生ゴミは会社を腐らせるんだよ」とスパッと
返されたのが忘れられない。

『小説経団連』(講談社文庫)等の経済小説も
書いている秋元を、私は骨のあるジャーナリスト
だと思ったが、当時の阿川は「ひたすら
怖かった」らしい。

会議でも番組でも、機嫌が悪くなると、秋元は机に
ボールペンを突いて、コツコツと音を立てた。
その音だけで阿川は縮みあがったという。
阿川やスタッフの取材不足に秋元はイライラ
していたのである。

番組が始まって1年後にアナウンサーの小島一慶が
加わるようになり、阿川は小島にこう言われた。

「秋元さんを避けちゃダメ。番組が終わったら、
用事がなくても秋元さんの隣に座りなさい。
お酌するとか、お茶に気を配るとかして、
とにかくそばにいなさい」

その忠告に従って、秋元の隣に座ると、秋元は
時には明け方近くまで、経済の話とか、
中東の話とかをしてくれた。それでも、
6年続いた番組では怒鳴られっ放しだった。

取材に行って来ると、「何を取材してきたんだ」
と聞かれる。
それで「えっとぉ、丸の内のサラリーマンに
聞いてみたら、こんなこと言ってました」と報告すると、

「お前は自分の言ってることがわかっているのか! 
自分がそしゃくして何がおもしろいのかが
わかってないと人には伝わらない。
ガキの使いじゃないんだ! 
バカヤロー!」と秋元のカミナリが落ちた。

ただ、毛皮市の取材に行って毛皮を着てクルンと
まわるといったことを阿川にさせると、秋元は
「ああいうことさせるな! あれは取材じゃない。
女の子だから可愛く見せれば許されるという
手法がそもそも間違っている!」とスタッフを叱った。

そんな阿川に『俳句界』の対談で、「あのタイプの
男の怖さって、お父さんで慣れていたのでは?」
と水を向けると、阿川は、「私も、鍛えられていると
自負していたんですけどねえ。

案外、もろかったみたい。殴られるんじゃないか、
怒鳴られるんじゃないかという恐怖を家の外まで
抱えていたくないという気持ちが強かったんですね」
と述懐した。

父・弘之とテレビで共演

この番組に阿川弘之がゲスト出演したことがある。
娘としては精一杯気を遣って、ピンマイクを
付けてやったり、アシスタントディレクターに
指示を出したりしていた。

それに対して、「慣れた手つきになりやがって」とか、
「図にのりやがって」とか、封建的なオヤジは
ぶつぶつ言う。

父親とは紹介せずに進行していて、オヤジが
最近の若者はだらしがないとコメントしたので、
娘は「いちいちうるさいんですよ」と突っ込んだ。
すると、オヤジが「今日はお前は黙ってろっ!」
と怒鳴ったのである。

終了後、視聴者から手紙が届いた。
「今日の番組で一点気になることがあります
。阿川弘之さんと司会者の方とは何か
関係があるんですか」・・・

「だいたい物書きなんて変わった人しかいない」
この話を受けて、私が「家でも外でも怒鳴るタイプの
男性に囲まれてんだ」と同情すると、彼女は
「つらい人生送ってるんです。ワタシ……」
とうなだれて見せ、

「阿川さんの周りに変わった人が集まるというのは、
自分自身が呼んでるのでは?」と冷やかすと、
「ちょっと、佐高さん、どういう意味ですか(笑)」
と怒って見せた後で、だいたい物書きなんて
変わった人しかいないと続けた。

「普通の生活が送れないから物書きになるんだよね」
と私がフォローすると、彼女は「そうそう。
北杜夫さん、遠藤周作さん、吉行淳之介さん、
柴田錬三郎さんなんて方々が家にはいつも
出入りしていましたからね」と答え、こんな
遣り取りになった。

「吉行淳之介なんか素敵だったでしょう?」
「父の友だちじゃなかったらよかったのにね(笑)。
子ども心に色気を感じましたもん」

「かなり歳が違うでしょう」
「男の色気は歳じゃないですよ」
「でも、濃い料理は食べすぎという感じでしょう」
「濃すぎて感覚が麻痺しているかも」

「あっさりしたものでは我慢できなくなってくるのでは」
「私に何を言わせたいの?(笑)」

私の独断だが、檀一雄の娘のふみと、
阿川弘之の娘の佐和子が独身でいる理由は
ここらあたりにあるのだろう。

ところで、『聞く力』というベストセラーは城山三郎への
インタビューから生まれた。

城山はとてつもない聞き上手なのである。

城山訳のキングスレイ・ウォード著
『ビジネスマンの父より息子への30の手紙』について
聞きに行って、阿川が城山に、「おもしろかったです」
と言ったら、

「どこが?」と尋ねられ、
「章ごとに書いてある父からの教えが……」と
答えたら、「いい読者だね。それから?」と先を促される。
城山の「聞く力」に完全に魅了されて、阿川は
『聞く力』を書いた。・・・


運がいい人も、運が悪い人もいない。
運がいいと思う人と、運が悪いと思う人が
いるだけだ。・・・(中谷彰宏)


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2018年10月19日 (金)

妄想劇場・妄想物語

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日本中に「暴走老人」が溢れかえるかもしれない、
ヤバすぎる現実

2020年、東京オリンピックが開幕する。
56年ぶりに日本にやってきたスポーツの祭典を
一目見ようと、会場は熱狂し歓喜に酔った群衆で
ごったがえし、安全を守る警察官やボランティアなどは
てんてこまいの状態だ。

ただでさえ警備に忙しいなか、一方で高齢者の迷子や
無銭飲食、万引き、暴行などが多発し、通報が
鳴りやまない事態が起こる。

警察は保護・逮捕はするが、どうやら身寄りが、
なさそうな彼らは終始暴言を繰り返し、唾を吐き、
暴れてまともに取り合えない。それどころか、
自分が起こした事件は記憶からすっぽり抜け落ちて
いるようだ。・・・

2年後の日本には、行き場を失った「暴走する高齢者」
たちがいたるところに溢れかえる、そんな怖ろしい未来が
この国を待ち受けているかもしれない。

止まない「業界内マウンティング」

先日、厚生労働省は「介護給付費等実態調査」で
訪問介護の事業所数が2000年以降、初めて減少に
転じたと発表。デイサービスの事業所数は2年連続の
大幅な減少となった。

特に、設立5年以内、従業員数5人未満の小規模
事業所の倒産が主だという。
さらに同月4日、学研ホールディングスが日本政策
投資銀行と共同で介護大手である
メディカル・ケア・サービスの全株式取得を発表する。

18年前に介護保険がはじまって以降、零細企業でも
簡単に開設ができる訪問介護、デイサービスなどの
在宅介護事業所は、高齢者人口とともに右肩上がりで
増え続けた。

しかし現在では、介護事業者の倒産が過去最高で
推移しており、介護人材と介護報酬が小規模事業所から
大規模法人にどんどん流れている渦中にある。

さらに、特別養護老人ホームに入居できない
高齢者を対象に、2011年に国交省が鳴り物入りで
着手した「サービス付高齢者住宅」(サ高住)の増加も
凄まじく、

その結果、入居率が低下し事業収益が悪化。
「終の棲家」として選んだ施設が倒産し、
居場所を失う高齢者が増え社会問題となった。

ちなみに、2018年8月末時点でサ高住は23万4322戸と
飽和状態だ。当初は総量規制をかけない限り、
いつまでも増え続けると危惧されていたが、
訪問介護とデイサービスの減少がはじまり、
その潮流は完全に変わったようだ。

国民の5人に1人が75歳以上になる「2025年問題」を
目前に控えたいま、財政を逼迫させる社会保障費の
削減は国の命題だ。

2018年度の介護報酬の改定率は、全体では
2012年以来のプラスに転じたが、訪問介護の
生活支援など基本報酬が引き下げとなるサービスもあり、
マイナス0.5%相当の給付適正化を行うとしている。

要するに、国は介護報酬の削減のために、
合理化のしやすい大手に介護保険事業者を集約させ、
小規模事業所を淘汰する方向に舵を切ったと言える。

介護保険は国の事業であり、完全な自由市場ではない。
報酬や加算など、制度改定によって目指すべき形に
市場を誘導するというやり方だ。

現在、小規模事業所が続々と廃業・倒産しているのは、
度重なる介護報酬のマイナス改定、それに「史上最も
介護人材が不足している」と嘆かれる極度の
人手不足が主な原因である。

しかし、小規模事業所潰しに拍車がかかっている
理由は、それだけではない。
2025年までに介護人材は38~100万人足りない
と言われ、現政府は介護のイメージアップに
予算をつけて人材獲得にかなり力を入れている。

例えば、「介護は夢のある素晴らしい仕事」という
自治体や公的機関のPR戦略、「意識高い系」の
学生団体や関係者を利用したイベント、地域の
小中学校での介護関係者による講演会など。
純粋な職員を檀上にあげて夢とやりがいを
絶叫させるという、おぞましい祭典を開催している
一部の急進的な団体もいる。

低賃金で、最大限のモチベーションで働かせようとする
「やりがい搾取」は、介護業界では「普通のこと」として
浸透している。

介護職には素直で保守的な人が多く政策に
誘導されやすい。なかば洗脳に近いやり方で
「介護は人間として崇高な役割を担っている」

「夢とやりがい、そして希望がある」などと言われれば、
自意識が過剰に高くなり「自分たちは素晴らしい
人間なのに報われないのは、社会が間違っている
からだ」といった思い込みが育ってしまう。

実際に、介護職はその専門性が認められない
職業のひとつだ。低賃金、重労働、人材不足の
三重苦で苦しむ介護業界も、美辞麗句だけで
すべてを塞ぎきることができない。

そんな状況下で、政府が介護保険事業者を
大規模事業所に集約させるとなれば、
彼らは小規模事業所がこれまで地域の中で
担ってきた役割を考えもせずに、もろ手を挙げて
国の政策に賛成する。

「彼らがいるから、介護の社会的評価が低いままだ」
と間違った方向に思考が働きがちなのだ。

ときに“内ゲバ”と揶揄されるが、順調に
まわっていない産業やコミュニティーでは、
同業者同士での争いが絶えない。

現場を中心に大いに荒れ、不遇にストレスや不満が
溜まる介護関係者によるイジメやマウンティングの
対象は、業界内の弱者である小規模事業所と、
その職員に向かっていく。

そもそも最も賃金が安く、不遇な産業と言われる
介護業界のヒエラルキーで、最下層に位置しているのは
訪問介護、デイサービス、サ高住などを運営する
小さな法人の小規模事業所と、その職員たちである。

介護現場を取材してまわれば、大手の意識高い系
職員を中心に「うちは質のよい介護をしているけど、
あそこは劣悪だ」とか、「小規模の出身者は介護職と
してのレベルが低いから、うちでは採用しない」
という声を嫌というほど聞く。

勤務先が小規模事業所というだけで「質が悪い」
と切り捨てられる介護職が気の毒で、
「あなたの事業所のなにが質がよく、小規模のなにが
悪いのか」と問い返しても、まず明確な応えは
返ってこない。

縮小する介護業界の状況を潜在的に知っているから、
所属法人の大きさや資格、実務経験などで少しでも
優位に立って、不安を消したいのだろう。

ハローワークももう10年間以上も、「介護は誰でも
できる仕事」として失業者をどんどんと送り込んでいる。
そんな現実を知りたくない、認めたくない介護関係者は、
自分より立場の低い小規模事業所をターゲットにして
マウンティングする。

マジョリティに乗っかってマイノリティを攻撃・差別する
イジメとまったく同じ構図だ。

介護関係者のマウンティングは止まることなく、
現在は悲しいことにそれが行政にまで広がっている。

今年に入ってから自治体による小規模事業所への、
荒さがしとしか思えない細かく執拗な実地指導、監査、
運営を断念することを目的かと疑う、行き過ぎた
返還請求の話をよく耳にする。

2017年4月に予防介護、生活支援の訪問介護、
デイサービス、小規模デイサービスは、都道府県から
自治体による総合事業に移管された。

自治体はなるべく少ない予算を介護に使いたくない
としか思えないほど、小規模事業所に対する指導に
拍車をかけている。
その結果、遂に介護事業所の初めての減少という
データにまで現れることになった。

合理化の果ては「地獄絵図」

ここからは、国や自治体や介護関係者が望むように、
小規模介護事業所がこのまま減少を続け消滅する
ことになったら、なにが起こるかを考えていこう。

国の最大の目標である介護保険事業の大規模集約は、
合理性があり、社会保障費削減、介護保険制度の
縮小には大きく寄与することは間違いない。

しかし一方で、小規模事業所やそこで働く職員たちの
地域への貢献は、本当はとてつもなく大きい。
国や地域への貢献度でいえば、もはや大手に
所属する介護関係者の比ではない。

特に長時間の預かりや泊りサービスを提供している
小規模事業所には、その地域で利用を拒否された
「問題を抱える高齢者」が集まっているのだ。

多くの介護関係者は「うちの介護は質がいいが、
あそこは悪い」と自画自賛するが、現実として
レスパイト型(※高齢者家族など、介護する側の
負担を減らすサービス)の小規模事業所は
問題を抱える高齢者の最終的なセーフティネット
となっている。

介護の質云々という以前に、利用している高齢者の
人格や、配偶者のマナー、家族関係に問題のある
ケースが圧倒的に多いのだ。

数年前、東京近郊の貧困率が高い地域で、低価格で
家族のレスパイトを売りにした小規模デイサービスの
運営にかかわったことがあった。

開設当初からケアマネジャーを通じて集まる高齢者の
7~8割は「困難事例」と呼ばれるケースで、
本人や家族に大きな問題があった。
基本的に全員が深刻な認知症を抱え、生活環境や
家族の質、本人の人格は壮絶だった。

いくつか実際にあった例を挙げると、数年間も
南京錠をかけた離れの蔵に閉じ込められていた
高齢者、女性や子どもまで誰でもかまわず殴る
家父長制の権化のような男性、

暴れたり脅したりすることが好きな元暴力団員、
壮絶な物盗られ妄想をもつカルト宗教の出家信者、
親の介護に難癖をつけて事業所を恐喝する
準暴力団にかかわるチンピラ、

局部を女性職員に見せることがやめられない男性、
身寄りが1人もいない70歳超えの現役娼婦など、
正直メチャクチャだった。

例えば、南京錠で閉じ込められて解放された
高齢者に「あなたたちのおかげで助かった」と
感謝でもされれば、夢ややりがいはあるのかもしれない。
しかし、困難事例の高齢者たちはそんなに
単純ではない。

家族に捨てられ閉じ込められた壮絶な生活環境からか、
性格は捻じ曲がっていて、優しく寄り添おうとする
職員に唾を吐き、奴隷のように扱おうとする。
一切の常識、人情は通じないので、もう手におえない。

事業所内での高齢者同士のトラブルは毎日で、
介護に質がいいも悪いもないのだ。
素晴らしい精神性と技術を持ち合わせた認知症介護の
プロフェッショナルが手掛けても、減らせるトラブルは
せいぜい3割程度だろう。

どんな人間だろうと、預かった高齢者たちに
五体満足で明日を迎えさせる、それだけで精一杯だった。

さらに、たまに訪問するケアマネや自治体の職員は、
「困難事例」の苦労を労うどころか横柄な態度を
とるばかりだった。最終的に職員たちは1年ともたずに
次々と精神を病んでいった。

地域の誰も手におえない困難事例の解決は、
民間の零細事業者が業務委託される範疇を超えていた。
一般的に想像される、子どもや配偶者に囲まれた
温かい老後を送っているような高齢者は皆無であり、
逆に「一日でも早く死んでほしい」という家族の言葉は
何度聞いたかわからない。・・・

ある事業所は在宅介護だったので、家庭と事業所で
介護を分担するが、自宅に帰宅した高齢者が急に
亡くなることが何度かあった。

家族は事故と報告するが、真偽を疑ってしまうほど
破たんした人格、家庭環境で暮らす高齢者
ばかりだった。

他の事業所も似たような状況で、小規模事業所は
地域の姥捨て山となり、職員たちは目の前の
高齢者が明日も生存できるように、自分の生活や
健康を犠牲にしてまで、地域のため、高齢者のために
踏ん張っていた、というのが実際のところなのだ。

では、どうして小規模事業所は、地域の
姥捨て山となるのか。

要介護高齢者のケアプランを組むのはケアマネジャーだ。
ケアマネジャーは、良質な高齢者は自社サービスに誘導し、
手のかかる困難な高齢者を他の事業所にまわす。

代表的な高齢者のセーフティネットである
特養老人ホームはどこも満床か、介護人材の不足で
高齢者の受け入れができず、常に待機状態だ。

困難事例のような「問題のある高齢者」と家族は
貧困の場合が大半で、比較的安価なサービス付
高齢者住宅に入れるお金もない。

やりがいや夢を語る民間事業所は、そういった
困難事例は割に合わないので断るのが基本線だ。
行き場のない高齢者の受け皿となるのは結局、
小規模事業所である。望まなくても必然的に
集まってしまう。

よって、高齢者と平穏で温かい日常を過ごしている
介護関係者は、困難事例を背負って地獄のような
日々を過ごしている小規模事業所の存在ありきで、
自称するところの “質のいい介護”ができているわけだ。

健康を害する職場環境で日々を送る介護職を
相手にマウンティングするなど、大変なお門違いなのだ。
そんな多大な地域貢献をしてきたセーフティネットを
潰してしまえば、問題のある高齢者たちが地域に
解き放たれる。

介護報酬が下がり続ける中で、どの事業所も
合理的な介護を求められている。
合理的に利益をあげたいまともな事業所は、
トラブルしか持ち込まない問題ある高齢者を
受け入れない。

家族も介護は一切しないし、する気もない。
小規模事業所の存在を失うことで、行き場がなくなった
質の悪い高齢者たちは、深刻な問題をひたすら
起こすであろう。・・・

マウンティングする介護関係者や自治体は、
地域の姥捨て山を担ってくれた小規模事業所の
大切さ、ありがたさに、絶望的な事態が現実に
なってから初めて気づくのだろうか。・・・

法人の大規模集約が重要なのは理解できるが、
それならば小規模事業所が担ってきた高齢者たちの
受け皿を一刻も早くつくる必要がある。・・・


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所用があり、車で出掛けて帰宅する途中、タイヤが
バーストしてしまったんだが1キロも走れば自宅に
着くという変な安心感から、無知な私はそのまま
車をのろのろと自宅に向かって走らせていた。

あまり人通りの多くない細い路地に入ったら、
白いシャツに紺のスラックスをはいた
営業マンっぽい30代後半くらいの男性が
私の車を見た途端、慌てた様子で「車を止めて!」
というジェスチャーをしたので、言われた通り停車した。

男性 「ちょっとあなた、タイヤがパンクしてるよ!」
私 「はい、判ってます。家がもう近くなので、
このまま帰っちゃおうかと思って…^^; 」

男性 「いやいや、このまま走ったらホイールまで
潰れてダメになっちゃうから、責めてスペアタイヤに
替えないと危ないよ。」

私 「えっ、そうなんですか。でも、タイヤ交換の仕方
知らないし、めんどくさいからこのまま走っちゃいます。」
男性 「だから、ダメだって。危ないって!じゃあ、
おじさんがタイヤ替えてあげるから。」

その時は確か午後2時くらいで、滅茶苦茶あっつい日
だったのにも関わらず、炎天下の中
何度も断った私に、遠慮しないでとその男性は
全身汗だくになりながらスペアタイヤに交換してくれた。

終わった時には、もう本当に水をかぶったように
汗びっしょりになっていたので、
申し訳なくて申し訳なくて、何度もお礼を言った。
名前と連絡先を教えてくれと言ってもなかなか教えて
くれなかったんだけど、しぶとく粘ったらようやく
名刺を渡してくれた。後でお礼を…と言ったら、

「いや、いいんだ。僕もどこかで人のお世話に
なることがあると思うから。
困った時はお互い様って言うでしょ?

あなたの今のその気持ちを、今度はいつか
どこかで困っている人に伝えて助けてあげて。
そういう連鎖っていいでしょ^^ 」
って、照れ臭そうに笑って去って行った。

その後、貰った名刺に書かれていた会社の
住所(本人宛)にビール券を送った。
見も知らない人に、こんなに親切にしてもらった
ことは初めてだったので、本当に嬉しかったな。
・・・


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2018年10月18日 (木)

妄想劇場・妄想物語

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
  真実もある。・・・


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昨日まで元気に笑い、仕事に出かけて普通に
生活していたパートナーが今日、突然亡くなる・・・
ドラマや小説の設定にはありそうな出来事だが、
実際に経験した人はどんな衝撃を受けるのか。

「夫の突然死」に遭遇した小谷みどりさんは、
第一生命経済研究所で自身が人の死にまつわる
死生学の研究調査を仕事にする立場だった。

「私が殺した?」

朝、ふと目が覚めたら外が明るくなっていました。
時計をみると6時過ぎ。夫(当時42歳)は7時には
家を出て、成田空港からシンガポールへ
向かう予定です。しかし家のなかは静まり返っており、
起きている気配がありません。

私は慌てて飛び起き、夫の寝室に向かって、
「早く起きて~。遅れる!!」と叫びながら部屋に
入りました。しかし、夫はすやすや眠ったまま。
「早く!」ともう一度叫びながら、起きない夫に
近づいていきました。なんだか様子が違います。

そのとき、夫の腕がふとんからだらりと
出ているのに気づきました。
腕の内側に内出血のような痣が見えました。
「あっ死斑だ!」「死んでいる!」と、
とっさに思いました。

これまで知識はあっても実際には見たことが
ないのに、なぜかそれが「死斑」だとすぐに
分かったのです。

死んでいることは分かったものの、なぜ死んで
いるのか。頭が混乱しました。
前の晩、私はとても疲れており、夫が帰宅して
しばらくしてから、別の部屋で先に寝てしまいました。

夫が何時に寝たのかは分かりませんが、
少なくとも夫が帰宅した時の様子は普段と
変わりませんでした。

静かに横になっている夫を見て、咄嗟に
「私が殺した?」と考えました。
「いや、ありえない。私は先に寝たから」
「じゃあ、私が作った昼のお弁当が原因?」

「お腹を壊すことはあっても、死ぬはずないな」
などと、自問自答を繰り返しました。
今思えば、目からの情報で状況は把握して
いたものの、脳がちゃんと理解していなかったに
違いありません。

夫の知り合いの連絡先を知らない

どのくらいベッドのそばに立っていたかは
わかりませんが、「とにかく警察に知らせなきゃ」と、
我に返りました。しかしとりあえず消防署に
電話しました。やってきた救急隊員は、夫を見るなり
警察に連絡し、刑事二人が我が家にやって
きたところで帰っていきました。

刑事がくれた名刺には、「刑事組織犯罪対策課」
とあります。「やっぱり私がヤッたのか?」と、
身に覚えがないとはいえ、とてもドキドキしたのを
今でも覚えています。

事情聴取が終わると、「今から検視をするので、
検視が終わるまでにソウギヤさんに連絡し、
棺を用意してもらってください。
あてがなければ、ソウギヤさんを紹介します。

奥さんは、お昼前までに警察署へきてください」
と言い残し、刑事は夫の遺体を警察署へ連れて
行ってしまいました。

見送りながら、耳で聞いた「ソウギヤさん」が
「葬儀屋さん」だとやっと理解しました。
混乱する一方で、「なぜなのか分からないのですが、
タツヤ(夫の名)が死んでいます」と夫の母や
兄姉には連絡していました。

一番大変だったのは、親族以外に、夫の死を
誰に知らせるかということです。
その日はゴールデンウィーク初日。
当然、会社は休み。

夫の上司の姓だけは知っていましたが、
ロックのかかっていなかった夫の携帯を見ると、
同じ姓の登録が二件あります。

どちらが上司の連絡先なのかはわかりません。
50%の確率とはいえ、休みの朝早くに電話を
するには、話の内容が内容だけに、相手を
間違えたら大変なことになります。

夫の友人を見つけ出すことも大変でした。
夫婦なのに、夫の交友関係をほとんど
知らなかったことに、愕然としました。
金曜日は元気に出社していたのに

夫の抜け殻に涙が

やがて、内臓をすべて取り出すために頭やのどを
切られた跡が生々しい夫の遺体が、「急性心停止 
死因不明」と記載された死亡診断書とともに、
やっと私のもとに戻ってきました。

まるで「抜け殻」のようになった夫が本当に
かわいそうで、初めて涙が出ました。
 
抜け殻の遺体が戻って来て、お葬式はどうするか
という段階になりました。
私は長年、葬送の研究をしているとはいえ、
お葬式の喪主なんてやったこともないうえに、
その心積もりもないのだから、とにかく気がついたら、
すべてが終わり、夫は骨になっていたというのが
正直なところです。

仕事でこれまで縁のあった葬儀社、火葬場の職員、
僧侶などの知り合いが助けてくれたから
乗り切れました。

葬儀を終えても、私にはなぜ夫が亡くなったのかが
分からず、もやもやが残っていました。

夫の同僚たちからも「金曜日まで変わった様子がなく、
いつも通り元気だったのに、なぜ亡くなったのか?」と、
お通夜の席で何度も聞かれました。

柩のなかの夫の喉には、着せたカッターシャツからも
解剖の傷が少し見えていたので、「喉を刺して
自殺したに違いない。でも、なぜ?」と思った人も
多かったかもしれません。

人に自分が死んだ理由をたずねられても、
夫自身が気づいていないかもしれないと思いました。

たまたま死の数週間前に行われた社内検診の
結果を見ても、どこも悪いところはありませんでした。
風邪で会社を休むことも数年に一度あるかどうか
というぐらい、もともと健康でした。

なぜ亡くなったのかを解明しなければならない
という使命感が、私の中でむくむくと
湧きあがってきました。

夫が死んだとはまだ思えない

「そうだ、過労死かもしれない」
実は夫の姉が、「お通夜のおときの席で気になる
発言を耳にした」と教えてくれました。
夫の同僚が、「過労死かもしれない」と仲間同士で
話していたというのです。

夫が亡くなった2011年4月29日は、あの東日本
大震災からほぼ1カ月半後。
夫の勤務先は外資系で、風評などの影響を受けて
外国人上司はこぞって本国へ帰ってしまっていました。

余震が続く中、従業員の安全確認、節電対応なども
夫の責任になりました。
会社の節電キャンペーンで、自宅にパソコンを
持ち帰って仕事をする時間も増えていたのです。

亡くなる1週間ほど前の休日の朝、「忙しくて
死にそう」と夫が言ったので、私は「そんなことで、
死ぬはずがないよ」と一笑したことを思い出しました。

「そうだ! 夫は過労死かもしれない」

骨になった夫を見て、確信しました。
知り合いの新聞記者にメールをしたところ、
過労死110番全国ネットワークなるものがあると
教えてくれました。いてもたってもいられず、
お葬式の翌日には電話をかけ、弁護士に
会いに行きました。死後4日目のことです。

事情を話すと、手付金を払ったら過労死申請の
手続きをしてあげると言われました。
死んだ原因を知りたい一心で送金を済ませました。

しかし、さまざまなことを周りの人に言われました
。「あいつの妻は会社を訴えるらしい」という
夫の同僚たちのうわさ話も耳に入ってきましたし、
私の同僚のなかには、「過労死申請なんかして、
ご主人は喜ぶと思う?」と忠告した人さえいたのです。

もっと辛かったのは、夫と親しかった会社の先輩が
悪気もなく、「あいつ、あの程度の労働時間で、
過労死かなあ。僕なんてもっと労働時間が長い」と、
私にメールをしてきたことです。

まわりから幾度となく心無い言葉を浴びせられるたび、
夫の心臓がなぜ止まったのか、夫のために絶対に
明らかにしてあげたいと、私は心に誓いました。

だから約1年後、労働基準監督署から労災認定の
通知をもらったときには、本当にほっとしました。
そして、「私は死の研究をしているプロ。
あなたを無駄死にさせないからね」と、心の中で
夫に報告できました。

「死んだ」とは思えない

7年以上経過した今でも、夫はどこか遠い国に
出張していると錯覚をすることがあります。
結婚生活の半分近くは、夫はシンガポールに
単身赴任していたし、帰国後もアジアへの出張は
頻繁だったし、遠いアフリカのジンバブエにも
数週間単位で、何度か出張していました。

私にとって夫が自宅にいないのは不思議では
なかったので、余計にそう思うのかもしれません。
病気で弱って亡くなったり、無残な姿でなくなったり
したわけではないので、「死んだ」とは思えないのです。

実は、私は夫の死後、一種の罪悪感がありました。
それは、「私より先に死んでね。
しかもまだ人生やり直しがきくうちに。
私がよぼよぼになって一人になっても、もう新しい
人生を考えようという気力がないから」と、
冗談めかして何度か夫に話したことがあったからです。

しかし夫が亡くなり、この会話をふと思い出した時、
結果的にそれが現実になったことに気づき、
はっとしました。

そのせいで亡くなったわけではありませんが、
悪いことを言ったなあと、とても反省しました。
と同時に、夫を亡くして初めて気づいたこと、
体験したことをわたしのこれからの人生や研究に
活かすことで、「あなたの死を無駄にはしない」
と改めて夫に誓いました。・・・


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我が家の仏壇には、他より一回り小さな
位牌があった。両親に聞いた話では、
生まれる前に流産してしまった俺の兄の
ものだという。

両親はその子に名前(A)を付け、ことあるごとに
「Aちゃんの分も○○(俺)は頑張らないと」
などとその兄のことを持ち出してきて、
それがウザかった。

そして高校生のころ、典型的なDQNになった俺は、
あまり学校にも行かず遊び歩いていた。
ある日、母親の財布から金を盗んでいるところを
見つかった。

母親は泣きながら「あんたこんなことしてAちゃんに
顔向けできんの!!」と怒鳴ったが、俺も鬱憤が
たまっていて「うるせー!だったらてめえAじゃなくて
俺を流産すればよかっただろうが!」
と怒鳴り返してしまった。

そして売り言葉に買い言葉だったのか、母親が
「そうだね!Aじゃなくてアンタが死んどったら
よかった!」と叫んだときだった。

「そんなことゆったら、めーー!!」
という叫び声が頭の中に響いた。
舌っ足らずでカン高いその声は、幼児のものに
聞こえた。

母親にも聞こえたようで、2人で「え?え?」
と周囲を見渡すと、拝む時以外はいつも閉めている
仏壇の扉がいつの間にか開いていた。

それを見た瞬間、母親号泣。
おかしくなったのかと思うくらい、腹から声上げて
泣いてた。喧嘩してたのも忘れて慌ててなだめると、

「許してくれた…」
「許してくれてたんだ」って何回もつぶやいてる。
そして母親はぽつりぽつりと話し始めた。

Aは流産したんじゃなかった。
俺と一緒に生きて産まれてきた。
Aと俺はいわゆる『結合双生児』だった。
でもAの方は俺に比べて未発達で、体もずっと
小さかった。

俺の胸の部分に、手のひらくらいの大きさの
Aがくっついてるような状態だったらしい。
手術で切り離せばAは確実に死ぬ。
でも両親は俺のために分離手術に同意した。

未発達とはいえAは顔立ちもはっきりしていて、
手術前、「ごめんね」と謝る母親の顔をじっと
見ていたそうだ。

それから、母親はずっと
「Aは自分を切り捨てた私たちを恨んでいるのでは」
という思いがぬぐえなかったのだという。
だから俺にも必要以上にAのことを話して聞かせて
いたのだろう。

Aの犠牲の上にある命なのだということを
忘れないために。
あの時聞こえた声がAのものである確証は何もない。
俺と同い年なら、子供の声っていうのもおかしいし。
でも、あの声は俺たちを恨んだり憎んだりしてる
声じゃなかった。

家族が喧嘩してるのが悲しくて、幼いながらも必死で
止めようとしてる、そんな感じだった。
もしあの声がAなら、Aはきっと家族を許してくれていて、
ずっと見守ってくれているのだろう。
だから母親も俺も、あの声がAだと信じたかった。

俺は声が聞こえた日からまじめに学校に通い始めた。
兄貴に一喝(?)されて、もう馬鹿やってる場合じゃ
ねーなって気持ちになったから。

そんで勉強もかなり頑張って、現役で大学に合格できた。
合格発表の日、朝からゲロ吐きそうなくらい緊張して、
掲示板見た瞬間にあまりの嬉しさに
「うがああああ」って変な声上げちゃったんだけど、

その時、俺の奇声にかぶせて、あのカン高い声が
「やったあー!」って聞こえてきたんだよね。
俺、本気で泣いた。
またいつか、声を聞かせてくれると信じてる。・・・


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2018年10月17日 (水)

妄想劇場・番外編

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・


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夫婦生活(夜の)について「満足できない!」、
「誘っても断られてしまう」などの悩みを持っている
人も少なくないでしょう。
しかし、このような話を友人や親には相談
しにくいですよね。

悩みをそのままにして夫婦生活に満足できなかったり、
セックスレスになってしまったりすると、
離婚や不倫に発展する可能性があります。

よくある夫婦生活に関する5つの悩みや、
それに対する解決策をご紹介します。

悩み1:誘っても断られる

勇気をもって誘ってみましたが、「したくない」
と断られてしまいました。
私のお腹が出ていることを指摘していたので、
それが嫌なのかもしれませんが、その指摘も
私は傷つきました。

勇気を出して誘ったのに断られてしまったら
ショックですよね。それが何度か続いてしまったら、
誘う気にもなれなくなってしまうでしょう。

また、「自分が悪いの?」、「愛情がなくなって
しまったの?」と不安に思う原因になるでしょう。
これらは離婚調停で、よく話題になるのです。

解決策①|夫婦間で原因をよく話し合う

誘いを断る原因をよく夫婦で話し合いましょう。
誘っても相手に断られると、ご自身に原因が
あるように感じてしまいますが、相手側に原因
(疲労でそれどころではない・明日が早いため
寝たい)があることもあります。

原因が明確になれば、たとえば疲労のない日を
約束してみるとか、環境をかえてみるとか、
改善の余地があります。

話し合わずに自己完結してしまうと、『自分が悪い』
とご自身を責める原因のひとつになってしまいます。
そのせいで、夫婦として生活することが苦痛に
なったり精神を病んでしまったりするかもしれません。

解決策②|軽い触れ合いから始める

言葉でセックスするか、しないかの2択を迫ることは
おすすめしません。
なぜなら、明日のことやした後の疲労感も
考えてしまうので、性欲や体力があまりない人は
引いてしまうかもしれないからです。

セックスを感じさせないマッサージなどの軽い
触れ合いから行うことをおすすめします。
ただし、夫婦であっても無理強いをしてはいけません。

相手の拒否を聞かず無理矢理セックスに
およんでしまうと、性的DVに該当し、離婚に
発展する原因になるかもしれません。

悩み2:子供や親がいて気になってしまう

夫婦生活は大切ですが、子供がいる場合
気になってしまい、できない場合があります。
また、親と同居している場合万が一見られたら
と思うと気になってする気になれない人も
多いのではないでしょうか。

子供が中学になって夜更かししているので、
夫婦生活が出来ません。

セックス中に「大丈夫ー?」と声をかけられました。
知らないフリをしてくれたと思うのですが、
声をかけてきたのは初めてで、今まで以上に
顔を合わせづらいです。

また、ラブホテルに行くという選択肢もありますが、
「気まずい…」「経済的に頻繁にいけない」などの
問題があると思います。

もちろん、夫婦水いらずで旅行に出かけてみる、
というのも1つの解決手段です。

解決策①|鍵をつけておく

寝室に鍵をつけるのは有効な手段です。
また、子供が小さいうちから『寝室に入っては
いけない、寝室に入る前は必ずノックする』
などのルールを決めておくのもよいでしょう。

ただし、今更鍵をつけたり、子供に言い聞かせたり
することが難しい夫婦もいるでしょう。
そのような場合、寝室のドアの前にパーテンションを
置いたりのれんなどを付けたりするのもひとつの
方法です。

解決策②|有給を取り平日に休みをつくる

夫婦で有給を取り、家族が外出したときを
狙いましょう。親と同居している場合は、
いつ出かけるのか予定を把握しておくことが
大切です。

悩み3:回数が少なく満足できない

性欲や体力には個人差がありますので、
人によって満足する回数は違ってきます。
夫婦で性欲に差がない場合は問題ありませんが、
一方が強くもう一方が弱い場合満たされず
不満に感じてしまうかも。

夫婦になったのに、結婚前と変わらない回数に
不満を感じてしまう人もいるでしょう。
また、こちらが誘わなければまったくしない
という場合は寂しく感じますよね。

解決策①|回数が少なく寂しいことを言ってみる

相手に、回数が少なく寂しいなどの不満を正直に
伝えましょう。その際に、1ヶ月または1週間で
どのくらいの回数をしたいのか、夫婦で理想を
話し合うことをおすすめします。

相手は、夫婦生活が少ないことで寂しいさや、
不満を与えているとは思っていない場合もあります。

解決策②|回数ではなくかける時間を重視する

相手が何回もできないという場合は、1回にかける
時間を重視するようにしましょう。
1回の時間が長くなることで愛情や、大切に
されていることを感じることができます。

悩み4:夫婦生活の時間が短く愛情を感じられない

夫婦生活が短く雑だと、まったく愛情を感じる
ことができず、かえって寂しさを感じてしまったり、
セッ○スが嫌いになってしまったりする
かもしれません。

夫が一方的に私に口ですることを強要し、
その後すぐ挿入。そして終了です。
私にはキスも、触ることもなく私はまるで夫の
オナ○ーの道具の様に扱われている感じです。

愛情のないものになってきて盛り上がることも
なくなり「早く逝って」と言われる程にまで
淡白なものとなってしまってます…

解決策①|夫婦生活の内容について話し合う

夫婦生活の内容について、一度腰を据えて
話し合うことをおすすめします。
理想やしたいことが違う場合お互いに満足できず、
最悪不倫に走ってしまうかもしれません。

そうなると、家族に対して与える打撃は大きく、
また、話し合いもせずに離婚に発展してしまう
こともありえます。

解決策②|日常的にハグやキスをする

日常的にハグやキスをして愛情を育て、お互いを
気遣うことを当たり前にしておくことが必要です。

夫婦生活は日常生活の延長上にあります。
普段から相手を気遣えていないと、行為の最中でも
自分本位で相手を気遣えないのではないでしょうか。

普段からハグやキスなどのスキンシップや
コミュニケーションが必要です。

悩み5:不倫している

不倫が原因で、夫婦生活の回数が少なかったり、
セックスレスになっていたりするのかもしれません。

生活を始めてから徐々にレス気味になり、
ある時から求められなくなってきたため色々
調べた結果…。
月に2〜3回風俗へ行き、処理していたことが判明

もし、相手が風俗に通っていたり不倫をしていたり
する場合はやめさせ、しかるべき対応が必要です。

解決策①|証拠を確保する

まず、言い逃れできないような証拠を確保しましょう。
相手の持ち物を探ったり、ケータイの中身を
確認したりして証拠を探すこともできます。

しかし、確実に確保するためには浮気調査を
依頼することをおすすめします。

証拠は、離婚するための物だけではありません。
探偵によっては、証拠をどうするかについて
相談に乗ってくれます。

解決策②離婚するか夫婦関係を修復するか考える

証拠が確保できたら、今後のことを考えます。
例えば、浮気相手にだけ慰謝料請求するのであれば、
離婚はせず、夫(妻)には慰謝料請求を控えることに
なるでしょう。

しかし、不倫相手と夫(妻)の双方に請求するので
あれば、当然ですが、離婚することになります。

離婚する場合

離婚する場合は、不倫の程度にもよりますが、
慰謝料請求できる可能性が高いでしょう。
証拠を持って一度弁護士に相談することを
おすすめします。

婚姻期間の長さや精神的な苦痛の程度によって
高額になるケースもあります。
また、財産分与においても、高額の請求が
とおるかもしれません。

夫婦関係を修復する場合

不倫をしたからといって、夫婦関係が修復
できないとは限りません。
証拠を持った上で、お互いに今後修復のために
どうしていくかを話し合いましょう。

また、離婚しないことを決めたのであれば、
不倫相手に慰謝料請求して、夫(妻)にもう
会わないことを、誓約書などにまとめることを
おすすめします。

なお、そのような場合は、弁護士に仲介してもらい
法に従って行うことで、トラブルを回避できるでしょう。

2人では話が進まない場合、夫婦でカウンセリングを
受けるのもひとつの方法です。
仮に離婚する場合を考慮して、最悪どうなるのか、
あらかじめ弁護士などに相談しておくのもよいでしょう。

知らないフリをする場合

不倫を見て見ぬふりをするのもひとつの方法です。
しかし、知らないフリをしているとさらに大胆に
行動することもあります。
結果的に、自分が我慢しないといけない時間が
増えてしまうかもしれません。

また、放置すると仲が深まり、不倫相手に対し
本気になってしまうかもしれません。
早めの話し合いをおすすめします。

まとめ
夫婦生活に関する悩みは、1人で頑張っても
解消できるわけではありません。
話しにくいと感じてしまうかもしれませんが、
早めに話し合うことで、より満足できる夫婦生活を
送れるでしょう。

また、セッ○スレスは離婚原因にもなる深刻な
問題で、早期の解決が求められます。


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ヤバイ。プロポーズヤバイ。
まじでヤバイよ、マジヤバイ。
何より言い出す前から過呼吸気味の俺ヤバイ。

彼女「大丈夫?」とか心配してくれてる。
スマンこんな時まで・・・。まず緊張。
もう緊張なんてもんじゃない。超緊張。
心臓64ビートぐらいで高鳴ってる。
ホント死ぬかも。

緊張とかっても「彼女に初告白したとき」
とか、もう、そういうレベル超えた。
アレより緊張するコトなんて俺の人生に
無いとたかくくってた。甘かった。

何しろ「結婚してくれ。」って言う。
同棲5年以上経ってようやく。
意を決して。言った。

ガチガチに緊張して。彼女の正面に座って。
目を見据えて。出来るだけ思いこめて。
『俺と結婚してくれ。』

これ以上セリフ長いと噛む恐れがあった。
それは避けたかった。だからシンプルに、
でも思いはありったけ込めて言った。

彼女ビックリしてた。目がまん丸だった。
でもすぐにブスくれた顔になった。
で、彼女の返事は「やだ。」
以上。

それっきり。おまけにそっぽ向いてTV
見始める始末。
ちょっと待て。断られる理由は山のように
思い当たるが、ひらがな2文字で
済ませるヤツがあるか。

話のわからんヤツだ。けどそっからヤバイ。
彼女泣いてる。

「私、赤ちゃん産めない。」
このセリフ聞いて何が出来るか?・・・
テレビドラマの主役なら格好いいこと言える
かもしれない。でも俺には無理だった。

「は」と「へ」の中間みたいな「へぁ?」って
声しか出てこない。たぶん、スゲェアホ面だった。
未だ固まってる俺に彼女が語る。

昔、子宮の病気したこと。
手術で命は無事だったけど子供産めなくなったこと。
辛かったその後のこと。
毎日泣いて過ごしたこと。
俺に出会ったこと。

俺に事実を知られるのが怖かったこと。
隠し続けるのが辛かったこと。

彼女のお腹に手術跡があるのは知ってた。
胃潰瘍の手術だって、言葉を馬鹿正直に信じてた。
「おまえにストレスなんてあんのかよ?」
なんて軽口言っちゃってた。

ヤバイ俺超最低だ。俺がプロポーズで
モンモンしてた以上に、彼女は長い間、
心に悲しみを隠してた。俺は、5年どころか、
5分だって耐えられない。

でも、彼女はそんなこと、全然表に出さなかった。
笑ったり怒ったり寝てたり、普通に暮らしてる
ように見えた。凄い。

実はこの時点で、まだ、俺は固まっていた。
というか正座して聞いていた。
喋っているのは彼女ばっかり。
俺はなんの言葉も、かけていない。最低。

そんな俺を、今度は彼女が泣きはらした目で、
見据える。
「こんな私でも結婚したい?」
物凄い怖い、目、だった。
とっても悲しい、目、だった。
俺は、何も言えなかった。

まったく不甲斐ない声帯だ。こんな時まで、
言葉が出ない。だから力一杯、激しく、
プロポーズの言葉以上に思いを込めて、
首を振った。縦に、上下に、 思いっきり、
ブンブン振った。

端から見るとバカみたいだが、不甲斐なくて
情けなくて、意気地なしな俺には、
こんな返事しかできなかった。

そんな俺に、抱きついて泣いている
彼女はスゴイ。
そんな彼女に「一緒に頑張ろう。」とか
芸の無いことしかいえない俺。

がんばろう。
今日から、重荷は二人で分けあえるから、
がんばろう。
おまえを泣かせるのは今日で最後にする
と誓うから。・・・


愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る


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2018年10月16日 (火)

妄想劇場・番外編

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・


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「浮気は男の甲斐性」。その風潮は去り、
SNSでアクティブに不倫に走る女性たち。
女性政治家やタレントがホテルでの「打ち合わせ」を
目撃されたのは記憶に新しい。
世間でいう寝取られ夫たちは何を思うのか。
一抹の哀愁のリポートです。

3人の寝取られ夫たち ①・成田健二さん(52)

マンションの管理人と…
成田健二さん(52)は、商社勤務。学生時代に
ラグビーで鍛えたガッシリとした体格で、
海外出張も多く、1週間以上家を空けることも
少なくない。

留守中に、マンションの管理人に妻を寝取られた
という疑いが浮上したのは、小学5年生の息子の
思いがけない一言だった。

「僕が塾の忘れ物を取りに家に戻ったら、
管理人のおじさんが部屋で服を脱いでいたよ」
マンションの管理人が居住者の部屋で服を
脱ぐなんておかしい。「まさか妻が不倫……」。
胸騒ぎが止まらなかった。

成田さんは深く息を吸って妻の幸子さん(46)を
問い詰めた。すると「管理人の佐藤さんは、
高校の先輩なの。勤めていた会社をリストラされて、
管理人になったそうよ。

管理人室にはシャワーがないんですって。
掃除やゴミ捨てで汗かいたままだなんて
可哀想だからシャワーを貸してあげただけよ」と、
平然と答えた。

「そうか……」
だがいくら知人とはいえ、管理人が居住者の
部屋に入るのは変だ。

それからは葛藤の日々だった。
妻が朝からめかしこんでいると、「ひょっとしたら、
オレの留守中にあの管理人がうちにいたりして」
と疑う。

出張先でも、「管理人が妻と抱き合っているかも」
と妄想が膨らんでいく。
たまらなくなって妻に電話をかけるが、
何度コールしてもつながらない。

「今ごろ妻は……」と、また妄想にとらわれてしまう。
しかも折り返しの電話をかけてこない妻に腹が立つ。
これまで妻を信じてきたから、出張先から一度も
電話をかけたことがなかった。

だがそれは間違いだったかもしれないと、
今度は自分を責めてしまう。
帰宅して妻の顔を見るたびに「オレを裏切って
いるのか」と苦しくなる。
成田さんは疑惑と妄想のはざまでさいなまれた。

「もう限界だ。はっきりさせたほうがいい」

とうとう東京・秋葉原で小型カメラを購入。
寝室のエアコンの中に仕掛けて出張に
出かけたのだ。

帰宅して書斎で恐る恐る再生すると、
妻と管理人がまるでけだもののように
抱き合っている映像が映っていた。

「アダルトDVDのようだ……」
あぜんとした成田さんが居間にいる妻に向かって
「オレの留守中にっ」と問い詰める。

すると妻は開き直って「盗撮なんてキモい。
変態だわ。変態と暮らすなんてこりごり。
子どもも任せられない」と、子どもを連れて出ていった。

茫然(ぼうぜん)自失した成田さんが妻の実家に
電話をすると、妻の両親は娘と孫が一緒に
帰ってきたことを喜んでいる。
妻は裕福な家の一人娘だった。

そして1週間後。妻から離婚届が送りつけられてきた。
うなだれる成田さん。

「背伸びしてローンでせっかく買ったマンションで、
その管理人が妻の高校の先輩で、まさか不倫だなんて。
住んでいるだけで気分が悪いです。

ですが、子どもとは別れたくない。だから離婚もしたくない。
息子の中学受験も近いし、余計な不安や心配を
与えたくないです」今は、管理人とは目を合わせない
生活を送っている。

3人の寝取られ夫たち ②・税理士の福田聡さん(45)。

筋肉がキモいと…
「お互いの趣味や、やりたいことを尊重し合ってきました。
でも妻を自由にさせてきたことが裏目に
出てしまったようです」

とため息をつくのは、逆三角形の造形的な肉体に
スーツがピタッとハマり、人形のように無表情の
福田さんは、合コンで知り合った元キャビンアテンダント
(CA)の夏代さん(37)と10年前に結婚し、
小学2年生の息子がいる。

夏代さんは、息子が小学校に入学すると、
彫金やフラワー教室、テニスと趣味を広げていった。
一方、福田さんもボディービルにハマるようになる。

「健康のためにジムに通い出したら、
ボディービルダーの友人ができて、
ハマってしまいました。

週末に開催される地方の大会に年20回くらい
出場しているので、その間、家を不在に
するようになったのです」

土日に留守がちになったが、気のせいか妻が
だんだんときれいになっているように感じた。
その矢先のことだった。

「クライアントである工務店の工事現場近くの
ラブホテルに、妻が男と入っていくところを
クライアントが目撃したのです」

派手なブランドの服を好む妻は、あまりにも
目立っていた。「クライアントに目撃されるなんて、
恥ずかしくて」

プライドをずたずたにされた福田さんは、
妻がそのブランドの服を着こなして外出するたびに、
「男とラブホか」と、発狂しそうになった。
しかもボディービルを始めてから、妻とは
セックスレス。

「ムキムキすぎてキモい。前のほうがよかったわ』
と妻は最近抱かせてくれません。
他の男と肉体関係を持っているからでしょうか……」

同窓会やCAの交流会という理由で外出する妻に、
さらに疑いの目を向けてしまう。
一つ屋根の下で一緒に暮らすのがつらい、
と福田さん。

「子どもがいるので離婚には踏み切りたくない。
妻に不倫をやめさせるために探偵に調査を
依頼しようか、迷っています」・・・

3人の寝取られ夫たち ③・税理士の福田聡さん(45)。

オレの子を間男と一緒に…
鹿児島で居酒屋を経営する山室雄二さん(48)は、
12歳年下の妻と別居してから4年になる。

原因は妻の不倫だ。相手は妻が勤める会社の上司。
高校受験を控えた息子を連れて、妻が塾の近くに
アパートを借りたころから異変が起こった。

妻の疑惑に感づいたのは、店が暇だった夜、
妻と息子が暮らすアパートを訪ねていった時のこと。
息子が言った。妻の帰宅が遅く、いつも
酒のにおいがする、と。

「息子が『酔ったお母さんが知らないおじちゃんに
何度も送ってもらっている』という。
ますますあやしいと思いました」

そこで山室さんは翌日妻の退社時間を見計らって
会社の近くで待ち伏せていると、妻はアパートとは
方角がまったく違う住宅地に行き、一軒の家に
入っていった。

山室さんがインターホンを押すと、妻の上司が
出てきて、修羅場へ。・・・

その夜、妻を連れて家に戻った山室さんは、
妻から離婚を告げられる。
子どもの親権を巡って朝まで言い争った。

不倫相手も既婚者だった。男から呼び出されると
それに応じる妻。「母親より女を選んだのか」
と絶句する山室さん。男の妻は実家に帰っていた。・・・

相手の男に別れを求めたが、山室さんの妻とは
あくまでも遊び、と開き直る。

妻にも別れるように説得するうちに、妻との
性行為に及び、妻は妊娠してしまった。
別居のまま妻は長女を出産する。

「妻はその後も乳飲み子を連れて、男の家に
通い続けている。自分の子が、妻の浮気相手と
一緒にいるなんて、やるせない……」

悩みが尽きない山室さんだが、子どもたちのために
妻との復縁を望んでいる。・・・

※文中の体験談に登場する人物はいずれも仮名です。



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脱毛の動機といえば、ファッションのため、オシャレのため、
と思いがちですが・・・そんなこととはまったく別の理由で
エステに通う女性がいるのをご存知ですか。

エステティックTBCによると、今、中高年女性の間で、
ある目的でVIO脱毛(アンダーヘアの脱毛のこと)を
決意する人が密かに増えてきているそうです。

理由は『介護』にあった

45歳元看護師の女性は「職場で介護にあたることが多く、
年を重ねて介護をされるときに備えるために始めた」
とサロンへアンダーヘアの脱毛に通っていらっしゃいます。

他の方でも「母の介護を5年間しました。
下の世話をするときに毛があるとスッキリさせて
あげられなくて。
衛生面を考えても毛はない方がいいです」と脱毛の
動機を語られています。

介護脱毛…

自身が将来誰かに介護されることを想定しアンダーヘア
(VIO部分)の脱毛をしておくこと
一体、どんな人が、またどれくらいの人がアンダーヘアの
脱毛を希望されているのでしょうか。

50代でVIO脱毛を始めた女性(以下Oさん)に
お話を伺いました。

趣味で週1回スイミングスクールに通っているので、
VIO脱毛をしている同世代の女性は多かったのですが…
きっかけになったのは親の介護ですね。

近居の母が腕を骨折をして、生活のサポートを
することになって。
子ども達が小さい頃は母によく助けてもらったので、
「ようやく親孝行ができる」と思ったのですが…

元々マメな人だったのですが、怪我をきっかけに
認知症が進行してトイレを億劫がるようになったんです。
ほとんど一日中布団の上で過ごすようになって、
しばらくすると日常的に排泄介助が必要な
状態になりました。

「おむつ替えなんて子ども達で散々やってきたから大丈夫!」
と思っていましたが、想像以上に大変ですね。
大人は赤ちゃんと違って毛が生えているので、大きい方だと
こびりついてなかなかとれないですし…

やっぱり、おむつ替えや入浴の介助をするとすごく
申し訳なさそうにするんですね。
毛で拭き取り辛いのもあるのですが、本人も恥ずかしがって
しっかり拭かせてくれなかったりして、衛生的な状態を
保つのは簡単なことではなかったです。

お母様の介護をきっかけに、Oさんご自身も介護に
備えようと思ったということですね?。

もう50代ですし、抵抗がなかったわけではないのですが…
母がああいう状態になるまでは、介護ってあまり私にとって
現実的なものではなかったんですね。 祖父母や父は介護が
必要な状態になることなく亡くなったので。

今回、「私もいつか介護が必要になるかもしれない」
という事実をようやく理解したというか。
備えておけばいざという時に後悔しないだろうと思って、
母が施設に入居して少し落ち着いたタイミングで
VIO脱毛を始めました。 ・・・

50代というと脱毛のタイムリミットでもあるんですね。
レーザー脱毛や光脱毛は白髪に効果がないので、
「そうと決めたら早く始めなきゃ!」と思いました。

エステティックTBCでは、2016年の40代・50代脱毛
来店者のうち、11.5%がアンダーヘアの脱毛を
利用しており、2017年は様々な雑誌や新聞、
インターネットで介護脱毛が取り上げられさらに
話題になり16%になりました。

中高年女性のアンダーヘア脱毛はひっそりと増えています。
高齢者問題、介護問題が一層深刻化する中で、今後も
増加するのではないかと私たちは予想します。

いくつになっても女性は美しくありたいもの。
それは、終活という人生の締めくくりについても
言えることのようです。・・・


愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る


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2018年10月15日 (月)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー




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ある日の事、犬飼いがお気に入りの犬を連れて
池のそばを通ると、犬が急に吠え出したのです。
「こら、いったいどうした? ・・・あっ!」

見ると、美しい娘が池で水浴びをしているでは
ありませんか。
「こんな美しい娘、今まで見たことがない。
あれはきっと、うわさに聞いた天女(てんにょ)だな。

天女なら、きっとどこかに羽衣(はごろも)を
脱いでいるはず」犬飼いは、犬に命じました。



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「早く、あの天女の羽衣を探し出せ」

さて、しばらくして天女が池からあがってきましたが、
どうした事か大切な羽衣がどこにも見当たりません。
犬飼いが、羽衣を隠してしまったからです。
羽衣がなければ、天女は天へ戻れません。
「どうしよう・・・」

天女が困っていると、犬飼いが現れて言いました
「お困りの様だが、どうしました?」

「はい、実は・・・」
天女が事情を話すと、犬飼いが言いました。
「それなら羽衣が見つかるまで、わしの家に
いればいい」
こうなれば、仕方ありません。

行くところのない天女は、犬飼いの家に行きました
そして、犬飼いのお嫁さんになったのです。
二人が仲良く暮らして、数年がたちました。

ところがある日、嫁になった天女が隠してあった
羽衣を見つけてしまったのです。
「ひどい! あんまりだわ!」
天女はすぐに羽衣を身につけると、空高く
舞い上がって行きました。

それに気づいた犬飼いは、「待っておくれ! 
行かないでおくれ!」と、声を張り上げましたが、
天女はそのまま空の向こうへ消えてしまいました。

お嫁さんの天女がいなくなってから、犬飼いは
毎日毎日、天女の事を考えていました。
「どうすれば、妻を連れ戻せるだろうか? 
どうすれば・・・」

そこで犬飼いは、占い師のおばあさんのところへ
相談に行きました。
すると占い師は、こう言いました
「連れ戻す事は出来ないよ。だが、お前の方から
訪ねて行けばいい」

「訪ねて行けと言っても、どうやって天に行けば
良いのだ?」
「それは簡単さ。天女の所へ行くには、一晩で
百足のわらじを作れば良い。
その百足のわらじを土に埋めて、その上にヘチマの
種をまいてごらん」

それを聞いた犬飼いは、さっそく家に帰るとわらじを
作り始めました。
(妻よ、待っていろよ。必ず迎えに行くからな)
百足のわらじを作る事は、とても大変な事です。
犬飼いは休む事なく、わらじを作り続けました。
でも夜が明けた時には、九十九足しか出来上がって
いませんでした。

「九十九足しかないが、百足とは、あまり変わるまい」
そして占い師の言葉通りに、わらじを土に埋めて
ヘチマの種をまくとどうでしょう。 

ヘチマのつるがドンドンドンドン伸びて、今にも天に
届きそうになりました。
「よし、お前も付いて来い」 犬飼いは犬と一緒に、
ヘチマのつるを登って行きました。

「もう少しだ。もう少しで妻に会えるぞ」けれど、
もう少しで天に届くところで、ヘチマのつるは伸びるのを
止めてしまったのです。

「何という事だ。わらじが一足、たりないばかりに!」
犬飼いがくやしがっていると、後から付いて来た犬が
犬飼いの頭をピョンと飛び越えて、天へ
飛び上がったのです。

そして犬は、犬飼いにお尻を向けると、
「それ、だんなさま」と、長い尻尾をたらしてくれました。
「ありがたい」犬飼いは犬の尻尾をつかむと、何とか
天にたどり着きました。

その後、犬飼いは彦星に、お嫁さんの天女は織姫に
なったという事です

・・おしまい




鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、
   そばで 地蔵が食べたがる



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息子が小学6年生へ進級した時のお話です。

新学期早々に北九州への修学旅行をひかえており、
息子もそれはそれは楽しみにしておりました。
ところが修学旅行出発まで後三日という時に
高熱を出してしまったのです。

「なんとか出発までに・・」
という思いで妻が病院へ連れて行ったのですが、
診察の結果はインフルエンザ…。

この事を私は仕事場で妻からのメールにより
知らされました。
すぐさま私は妻に電話を入れて 違う病院でも
検査してもうよう告げ、 祈るような気持ちで
報告をまちましたが、 やはり結果は同じでした。

「なんでなん? なんでうちの息子なん?
なんで今なん?」
私は張り裂けそうな気持ちを押さえ、 今、点滴を
しているという息子宛に妻の携帯へ

「まぁくん大丈夫?よくなったら、 絶対に父さんが
どこかに連れて行ってあげるからね!」
とメールを送りました。

しばらくして送られてきた息子からのメールには、
「うん!」という言葉の後に笑顔とピースの絵文字が
入っていたのです。
私はこらえきれずに泣いてしまいました。

あんなに楽しみにしていた修学旅行。
さぞかし辛いだろうに、 私に対して精一杯明るく
振る舞ってくれたのです。

妻が担任の先生に、 インフルエンザにより
修学旅行欠席の連絡を入れた時、 先生も随分
残念に思っていただいた事と、

同じクラスの子が二人、 三日前からインフルエンザで
学校を休んでいて、 その子達も旅行を欠席する
との話を聞いたそうです。
私はなんだか息子はその子達にインフルエンザを
うつされたような気がして複雑な心境でした。

半月ほどたった頃。

息子の希望もあり一泊でのキャンプを計画する
事になったのですが、 私の中では修学旅行に
行けなかった分、 友達との思い出をつくってあげたくて、

息子に
「仲のいい友達も誘ってあげていいよ」
と伝えると、
「うん。わかった!」

喜んでくれて結局、友達を二人誘う事となり、
準備も整いキャンプも近づいたある夜、
何気なく息子に
「一緒に来る友達とは一番仲がいいの?」
と聞くと、

「う~ん、一番って事はないけど仲いいよ」
とだけ答えました。
私もそれならいいか。 楽しい思い出になって
くれさすればと思っていたのですが、 その後、
私は妻から事実を聞かされました。

息子が誘った友達は修学旅行を インフルエンザで
欠席した二人だったのです。
一番仲のいい友達ではなく、 自分と同じ病気で
旅行に行けなかった友達でした。

旅行に行けなかった寂しさがわかるから
声をかけたそうです。

私は心のどこかでその友達を恨んでいました。
その子達が楽しみにしていた旅行を 息子から
取り上げてしまったのだと。

妻からその話しを聞いた時、 自分の心の狭さを
恥じると同時に 息子の優しさに心を打たれました。

自分の汚れた心とは反対に息子は恨む事もなく、
純粋に友達を想っていたのです。
それを私に説明する事もせず、 笑顔で
答えてくれた息子。
大切な事を息子に教えられました。

・・・


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2018年10月14日 (日)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー



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むかしむかし、京の都に有名な踊りの師匠
(ししょう→せんせい)がいて、大勢の弟子(でし)を
かかえていました。
その弟子の中に、けいこ熱心な雪江(ゆきえ)
という娘がいて、一本の舞扇(まいおうぎ→
日本舞踊に使う扇で、普通の扇より大きく、
流儀の紋などをえがいたもの)をとても大切に
していました。

その舞扇は雪江が父にせがんで名高い絵師
(えし→絵描き)に描いてもらった物で、
今を盛りと咲いている桜の花が描かれた、
それは見事な扇でした。

さて、ある日の事。どうした事か、雪江はこの扇を
けいこ場に忘れて帰ったのです。
それに気づいた師匠は、「大切な扇を忘れるとは
珍しい。まあ、明日来た時に渡してやろう」と、
自分の机の上に置いておきました。

ところが次の日、雪江は珍しくけいこには来ません
でした。そして次の日も、また次の日も、雪江は
けいこに来ないのです。

「雪江に、何かあったのだろうか?」
師匠はふと、雪江の扇を広げて見ました。
そこには扇面(せんめん→扇を開いた面)
いっぱいに、明るく花が咲いています。

そこへちょうど、友だちの占い師(うらないし)が
尋ねてきました。
「やあ、いらっしゃい。ほら、これをご覧なされ。
弟子の忘れ物だが、優雅(ゆうが)な物じゃろう」

師匠が広げたままの扇を占い師に渡すと、
「ほほう、これは美しい。・・・?」と、占い師は
しばらくして、ポツリと言いました。
「お気の毒ですが、この花は今日中に散りますな」

「えっ?」
やがて占い師が帰った後、師匠は再びその扇を
ながめました。
(今日中に散るとは、いったいどの様な意味だ?)

占い師の言葉が気になった師匠は、それからも
じっと扇をながめていました。
すると妻がやって来て、「あの、お食事でございます」
と、声をかけました。
「ああ、もうそんな時間か」

妻の声に我に返った師匠は、開いたままの扇を
持って立ちあがりました。
するとハラハラと、開いた扇から白い花びらが
散りました。

散った花びらは風もないのにチョウが舞うように、
空高く消えてしまいました。
「何とも、不思議な事よ」
そして花びらが散った扇を見た師匠は、さらに
びっくりです。

「おお、これは!」
何とそこにあるのはただの白い舞扇で、あれほど
見事に描かれた桜の花がすっかり消えていたのです。
「これは、もしや雪江の身に!」

師匠はカゴを用意すると、雪江の家に急がせました。
そしてカゴが玄関につくと、ちょうど母親が現れて
言いました。

「先生。娘は、娘はほんの先ほど、息をひきとった
ところでございます。
どうぞこちらへ」
案内された奥の間には、息をひきとった雪江が
静かにねむっていました。

そしてその周りには、どこから入ってきたのか
あの桜の花びらがしきつめるように落ちていた
という事です。・・・

おしまい

鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、
   そばで 地蔵が食べたがる



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中学の生活面の変化は、 夏休みのような長期
休暇明けによく見られる。
服装面だけでなく、 行動面にも変化が見られるように
なってくる。

A君が煙草を吸ったり、器物を破損したりした。
その晩、私とA君の父親と、 教室で話をした時のことも
印象的だった。

父親は息子に向かって、

「世の中で一番怖いのは何だかしっているか?
ピストルでも刃物でもない。
それを使う人間なんだ。
人間の心が一番怖い。
お前は自分の心が分かるのか…。

壊したものはお金を払えば元に戻るだろう。
でも、そうしたお前の心は、元に戻せるのか?
しっかりと自分の心を見つめろよ」
と、涙ながらに息子に語った父親の姿に、
私ももらい泣きしてしまった。

又、暴力的な生徒であったB君は、 何度も
暴力的行為をくり返していた。

ある日、クラスメートを傷つけてしまった。 電
話で事情を話すと、B君の父親が学校に飛んできた。

B君は落ち着いていたが、言葉はなかった。
私が、父親に再度事情を話すと、父親は、

「先生、これから相手の家に こいつと一緒に
行ってきます。
そして相手の方に土下座して謝ってきます。   
許してもらえるかどうかは分りませけど、
こいつに見せたいのです。
息子がしたことで親父がどんな目に遭うかを…」と。

その言葉を聞いたB君はやっと顔をあげた。
そのB君の目は父親をじっと見ていた。

その夜、遅くに相手の母親から電話があった。
「先生、B君のお父さまに感激しました。
玄関で手をついて謝ってくれたのです。

息子を許してくださいって・・・。
すばらしいお父さんですね。
B君もしっかりと謝っていきました。
私にも、息子にもね」…と言っていた。

子供にとって、親の姿勢が一番頼りになるもの
なのだと、 改めて実感した。・・・


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2018年10月13日 (土)

妄想劇場・一考編

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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少子化が深刻な社会問題となる日本で、
子どもの「育ち」が脅かされている。
特に、児童虐待の増加は著しい。

2014年度に全国の児童相談所が対応した
児童虐待件数は約8万9000件。
統計を取り始めた1990年度と比較すると、
80倍という増加ぶりだ。

テレビや新聞でも悲惨なニュースが後を絶たないが、
水面下ではなかなか報じられない問題が起きている。
それは学校や家庭、地域から「消えた」子どもたちの
問題である。

子どもたちはどこに「消えた」のか

消えた子ども、公的には居所不明児童
(きょしょふめいじどう)と呼ばれるが、
要は住んでいた地域や家庭、通っていた学校から
姿を消し、その後の所在が確認できない
子どものことを言う。

居所不明児童が調査、集計されてきたのは、
文部科学省が毎年実施する「学校基本調査」だ。
同調査では、住民票を残したまま1年以上所在が
確認できない日本国籍の児童(小学生)と生徒
(中学生)を「1年以上居所不明者」としている。

調査開始は1961年、すでに半世紀以上が経過した。
この間に報告された不明者累計数は約2万4000人に
達している。

では、行方や生活実態が不明となった子どもたちは
どこで何をしているのか。
肝心な部分は、まったくといっていいほど解明
されていないのだ。

11歳で「ホームレス」となった少年

私は8年前から居所不明児童の問題を追い続けてきた。
その過程で浮かび上がったのは、「消えた子ども」を
取り巻く問題の根深さである。

彼らは不就学、つまり学校に通っていないから教育を
受けられない。
これだけでも大きな問題だが、さらに医療や福祉、
各種の行政サービスに結びつかない恐れがある。

国民健康保険、児童手当、就学援助、生活保護などの
行政支援は、ドメスティック・バイオレンス(DV)
被害者等の一部の例外を除き、住民登録に基づいて
提供される。

最近で言えばマイナンバーの通知も同様だ。
ところが居所不明になった子どもは住民登録上の
住所地にはいないから、どれほど支援を必要と
していてもその実態が把握されない。

具体的なケースとして、現在19歳の少年は、2008年、
11歳で居所不明児童となった。
当時、母親とその内縁の夫、それに少年の3人で
暮らしていたが家はない。

内縁男性が日雇いの収入を得た日は一家で
ラブホテルに宿泊し、収入のない日は公園で
野宿したり、公共施設の軒下で過ごしていた。
つまり少年は、わずか11歳でホームレスと
なっていたのだ。

少年は食べるものにも事欠き、民家に
配達された牛乳を盗んだり、
スーパーの前に停められた自転車のカゴから
食料を抜き取ったりしていた。

ボサボサの髪に汚れきった服、体のあちこちには
母親や内縁男性から受けた虐待の傷があった。

ところが彼は、先の学校基本調査で居所不明児童
としてカウントされていなかった。
学校に通えないどころか、貧困と虐待がつづく
ホームレス生活にもかかわらず、調査の
「対象外」だったのである。

住民票は「消除」、各地を転々とする生活
いったいなぜカウントされていなかったのか。
それは学校基本調査が「住民票を残したまま
所在が不明になっている子ども」を対象に
しているからだ。

逆に言うと、住民票がなくなってしまったら調査の
対象にはならない。
そして住民票は、登録されている自治体で
「居住実態がない」と判断された場合、
「消除」という形で抹消するよう法律で
規定されているのだ。

少年は、ホームレス状態で各地を転々としていた。
もともと生活していた場所では、「居住実態がない」
と判断されても無理はない。

こうして住民登録が消除されると、同時に居所不明者
としても「消える」という事態になる。
実際には過酷な生活の中で、多くの危機に見舞われて
いるのだが、公的には一切認知されないまま放置される。

やがて少年の一家は、2年半のホームレス生活を経て
関東西部のY市にたどり着く。
この間、母親は第二子を「飛び込み出産」し、
乳児を抱えた状態だった。

ようやくY市で生活保護を受給することになり、
簡易宿泊所の3畳ほどの部屋をあてがわれる。

当時、少年は14歳、児童相談所の職員と面談し、
フリースクールへ通えることになった。
安定した生活に手が届きそうになったのも束の間、
母親が「鳥かごみたいな生活はイヤだ」と言い出す。

結局、簡易宿泊所から失踪し、一家はまたも
ホームレス生活に舞い戻ってしまった。

Y市や児童相談所は、当然ながら子どもたちの
不適切な養育環境、貧困や虐待状況を知っていた。
にもかかわらず、失踪後の行方を突き止められないまま
再びホームレス生活に陥らせてしまう。

一見するといかにも「行政の怠慢」と映るが、
これは現行の行政システムの限界を表している
とも言える。

情報共有はいまだにFAX頼み

この少年のケースに限らず、行方がわからなくなった
子どもを捜すために、全国の児童相談所は
「CA情報システム」を使う。

CAとは “Child Abuse” 、つまり居所不明や
児童虐待に関する情報を児童相談所同士で
共有するシステムだ。
ところがCA情報は、いまだにFAX送信という旧式の
方法が取られている。

深刻な虐待、極端な生活困窮といった緊急性が
高い事案であっても、FAXで情報のやりとりを
するというお寒い状況なのである。

各児童相談所が送受信する情報はデータベース化
されておらず、それどころか届いたFAX用紙の管理も
十分にはできていない。

そもそも児童相談所では、人的にも制度的にも
警察のような捜索はむずかしい。
本来なら警察の協力を得るべきところだが、
現場の職員を取材すると「警察との連携が
むずかしい」という声が上がる。

居所不明となった子どもの捜索を依頼するには、
「個人情報保護」や「事件性の有無」を慎重に判断
せざるを得ない。
仮に捜索を依頼しても、警察側から拒まれることも
あるという。

実際、警察の出動まで時間を要したケースは
少なくない。2014年に神奈川県厚木市で
発覚した事件では、アパートの1室に1人残された
男児が白骨化遺体となって発見された。

男児は入学予定の小学校に一度も姿を現さない
居所不明児童だったが、学校や教育委員会、
児童相談所は所在を確認できないままだった。

この事件では、担当の児童相談所による
「ケースの見落とし」という失態もあり、
警察への捜索依頼まで実に8年もかかっている。

何の支援も届かぬまま「消された」子どもたち

さらに、相変わらずの縦割り行政で、行政内部の
情報共有や連携も進んでいない。
2012年に愛知県で起きた児童虐待事件では、
両親が4歳の女児を衰弱死させ、7歳の男児は
就学させないまま軟禁状態に置いていた。

男児が入学するはずだった小学校では
「居所不明児童」として不就学扱いにしたが、
実際には同じ市内で生活し、父親は役所の
子育て支援課窓口で子ども2人分の児童手当を
受け取っていたのだ。

この場合、学校や教育委員会が男児の
不就学について危機意識を持ち、市内の
行政各部署と情報共有をしていれば、すぐにも
問題は発覚しただろう。

それは幼い子どもたちの命と生活を救うことに
つながったはずで、こうした事件を取材するたび、
忸怩たる思いに駆られる。

最後に、数字の「トリック」について指摘したい。
「学校基本調査」で報告された居所不明者の
累計数が約2万4000人と前述したが、先の
ホームレス少年がカウントされていなかったように、
現実にはこの数字が実態を表しているとは
到底言えない。
むしろ、数字に上がっていない、なんら実態把握
されていない子どもたちが相当数いるだろう。

住民登録が消除され、教育や医療、福祉に
つながれず、貧困や虐待といったリスクを
負う子どもたち。彼らはどこかで元気に暮らして
いるのか、それとも人知れず葬られてしまったのか、
残念ながらわからない。

現行の調査方法や行政システムでは追跡できず、
その実態は闇に包まれたままなのだ。

「消えた子ども」は、決して自らの意思で消えた
のではない。大人の事情に翻弄され、
社会のはざまに突き落とされ、何の支援も
届かないまま「消された」のである。

救いを求める子どもたちを見つけ出すために、
今こそ現実的な対策が必要だ。
そして、一人でも多くの人が、「消えた子ども」の
問題に着目してほしいと思う。・・・・



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Nji11111

私の知り合いに、日本人のおばあさんがいる。
一人娘がいてロシア人に嫁いだが、不治の
病にかかり異国の地で亡くなってしまった。

娘はモスクワに埋葬され、おばあさんは定期的に
ロシアを訪れるようになった。
彼女とは知人を介して知り合ったが、モスクワの
私の家にも何度も遊びに来たことがあり、
ウチの猫とも大の仲良しだ。

おばあさんは、いまどき滅多にみかけないような
大変な猫好きである。
しかしある時、彼女は、私にこんなことを
言ったことがあった。

「私は猫が本当に好きだけれど、これから先
猫を飼うのをやめようと思うの。
老い先長くないのだから、私が死んだら、一体、
誰が私の飼っている猫の面倒をみてくれるというの? 

子猫だったら貰ってくれる人が見つかるかも
しれないけれど、大人の猫じゃ路頭に迷うしか
ないでしょう」

しかし事態は予期せぬ方向へと向かった。

彼女の発言は、すぐにくつがえされることになったのだ。
おばあさんがモスクワでの常宿としていたマンションに、
大型犬が、そしてしばらくすると三色の毛色の猫が
暮らすようになったからである。

猫なしの生活など考えられないおばあさんが
喜んだのは言うまでもない。

犬と猫は特に喧嘩することもなく、一つ屋根の下で
仲良くやっていたようだった。
しかし、ある時、犬のおふざけが過ぎたのだろう、
猫の背中に犬の歯形がくっきりとついていた。

おばあさんは、それをそのまま見過ごすことは
できなかった。
心優しい大和撫子には、どうやらそれは
耐えられないことだったのだ。

そこで、彼女はその猫を連れて日本に帰ろうと思った。

おばあさんはまずマンションの家主と話をつけた。
そして獣医に証明書をもらい、動物検疫のための
煩雑な手続きを突破した。
そうした大変な苦労の末、ロシアの猫を日本に
連れていったのであった。

その後、日本を訪問した際に、私はおばあさんの
家を訪ねた。
あの時の子猫はすっかり大きくなり、「スシ」
という名前の一人前の猫になっていた。

おばあさんと猫は大の仲良しで、お互いにすっかり
心が通い合っているようだった。
スシは故郷のロシアを恋しがったりするわけでもなく、
日本の猫たちの中にすっかり溶け込んでいた。

日本のテレビを見るのが大好きなようで
ニュース番組も真剣に見ていたが、スシが
一番好きだったのは動物番組だった。

スシという家族を得たおばあさんは、今度は
モスクワの友人たちを日本に呼ぼうと
思うようになった。

なぜなら大切なスシを家に置いて、長い間ロシアへ
旅するなんてとても考えられなかったからだ。

そこで、おばあさんは、ロシアの友人が日本に
来られるように、ビザの申請をしようと思った。
そのためには招聘(しょうへい)状の発行が必要で、
膨大な量の書類が必要だった。

自分自身の職歴、出身地証明書、自宅の
不動産からの毎月の収入額など、細かいことを
いちいち記載しなければならなかった。
かなり面倒だったが、やってやれないことは
なかった。

しかし、ロシアの友人とどうやって知り合ったのかを
証明する書類には閉口した。
自分が招聘したい人と一緒に写っている写真と、
やりとりした手紙の原本を出せというのである。

招聘状申請の手引きには、ご丁寧に
「提出された手紙の原本は役所のアーカイブに
保存され、返却されることはないため、必要であれば、
コピーをとるように」といったことまで指示されていた。
そんなこんなで、おばあさんはやる気を一気に
失ってしまった。

その辺の事情によく通じている友人たちが、
おばあさんに「日露間では、平和条約がまだ
締結されていないから、こんなとんでも
ないことになるのだ」と慰めてくれた。

けれども、おばあさんの憤りはおさまることはなく、
結局、誰も日本へは招待しないままになってしまった。
平和条約なぞなくても、おばあさんとロシアの
友人たちの間には、とっくの昔に「友好条約」が
がっちりと結ばれていたのにである。

ここで政治に口出しするつもりはない。

ただ、一言だけ、言いたい。ひょっとすると
人間でいるよりも猫でいる方がずっと便利かも
しれないと。

少なくとも、猫であれば、現在も解決の糸口が
見つかっていない国と国の間の複雑な問題に
影響されなくても済むのである。

今のところ、誰も猫には国境を超えるための
「ビザ」など要求しない。
猫が越境するのに必要なのは、動物検疫の
証明書と、飼い主のやる気だけだ。

それにしても、猫というは、本当にすばしっこく、
上手く世の中を渡っているものだ。
私は、日本生まれ日本育ちの猫で、ここロシアに
やってきて、とても居心地良く暮らしている
一匹の猫を知っている。

あの珍野苦沙弥先生の飼い猫だ。
夏目漱石の『吾輩は猫である』のロシア語訳は、
はるか昔、冷戦時代にはすでに出版されていた。

世界を二分していたあの冷戦時代でさえ、
「吾輩」は難なく国境を超えることができたのだ。
だからこそ、多くのロシアの人々が苦沙弥先生の
キャラクターに魅了されていったのである。

そう、文化には国境など存在しない。
もし私たちが、自分のことを多少なりとも
「文化的な人間だ」と自負するのであれば、
この点はいつも肝に銘じなければならないだろう。

歴史や風習などさまざまな点で、ロシア人と
日本人では異なる点がたくさんあるのかもしれない。
しかし、両民族に共通する点も数多くある。

何より、ロシア人も日本人と同様に詩歌を
こよなく愛する民族だ。
詩とは、詩の神に祝福された民衆の
魂の声なのである。

天空のはるか彼方、星々がきらめく天上世界で、
果たして日本とロシアの詩神たちは仲良くやって
いけるのだろうか? 

神々が「西行とプーシキンのどちらが優れているか」
といった下らないことで争わないことを願うばかりだ。
いや私のそんな杞憂など関係なく、きっと同じ
一つの雲の上で、今頃は肝胆相照らし、
詩の朗読を楽しんでいるに違いない。・・・


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2018年10月12日 (金)

妄想劇場・一考編

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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ただ、生まれた国が違うだけ。
それなのに、どうして与えられた運命はこんなにも
違ってしまうのだろう?

そんな疑問を持ち行動を起こしたのが、
認定NPO法人かものはしプロジェクトの代表、
村田早耶香さん。

2001年、村田さんが大学2年生のとき、国際問題の
授業で配られた新聞記事で、ある少女の悲しい
実話に出会いました。

それは、未成年の少女がだまされて売春宿に
売られる話でした。
少女の名前はミーチャ。東南アジアの貧しい農村で
暮らしていました。
母親は病気で亡くなっており、父親は仕事が
ありませんでした。

彼女にはたくさんの弟、妹がいましたが学校には
行けず、皆お腹をすかせている状況だったそうです。

「私が働きにでれば、家族が助かる」
親孝行な彼女は、働きに出ました。
しかし、その先で彼女はだまされ、売春宿に
売られてしまったのです。

彼女が12歳のときでした。
毎日殴られながら、強制的に働かせられる日々…。
自尊心を傷つけられた挙句、彼女は「エイズ」を
発症してしまいます。

「私には本当は夢があって…
学校へ行って、勉強というものをして
みたかったなあ‥‥
もし勉強をすることができたら、私みたいな
子どもを売る人を捕まえる警察官になれるから…」

彼女はこう話したあと、20歳という若さで
亡くなりました。・・・

ミーチャが売られた金額

今から20年近く前の2001年、ごく一般的な
大学生だった村田さん。
ファッションに興味があり、サークル活動を
楽しむ毎日。

年間およそ100万円を親が出してくれて、
自分は大学へ行っている一方、 生まれた国が
違うだけで、親孝行な彼女は勉強をすることを
夢見ながら亡くなっているという、そんな現実を
知ったのです。

「当時の私と1歳しか違わない人がこんな風に
売られてしまう。
これほど親孝行な子がこんな風に深く傷つけられて
亡くなってしまったのです。」
当時、彼女が売られた金額は日本円で、
たった1万円だったそうです。

「私がそのとき着ていたワンピースは、
ちょうど1万円で買ったばかりのものだったんです。
このワンピース1枚と彼女の命が同じ値段だった
ということ。
そんな、本当に不条理な現状があることを
知りました。」

「こんなひどいことは、絶対になくさなくては
いけない…」
「子どもが未来を奪われて苦しんでいる社会を、
なんとか変えたい」
絶対にこの問題を解決する。
その強い想いを持って、村田さんはその後、
2002年にかものはしプロジェクトを
立ち上げたのです。

年間180万人もの子どもたちが、世界中の
どこかでだまされて売られている現実・・・

実はこの10分間にも、30~40人の子どもが
だまされて売られているのです。
現在特にひどい状況なのが、日本人にも
馴染み深いインド。

人身売買規模は世界最大と言われており、
子どもが売られてしまう値段は1人たった2万円
といわれています。

特に東部の西ベンガル州の周辺に貧しい
村があり、西部の大都市ムンバイまで
約1600Kmのルートを通じて、たくさんの子どもが、
売り飛ばされています。

さらに、インドで人身売買をした業者が逮捕され、
有罪になるのは、たった数パーセントのみなのです。

その主な理由は3点。

・被害者が裁判で自らの体験を語り、証言をする
 精神的なハードル
・被害者だと分かってしまうことに伴う差別
・貧しい家庭は、裁判費用が出せない

この結果、悪徳な人身売買業者が平気な
顔をしてのさばり、今この瞬間も子どもたちを
売春宿へと売り飛ばし続けています。・・・

インドにはいま300万人近い人身売買被害者がいる。
その3人に1人は18歳未満だ。
売春婦にされる被害者も少なくない。

児童買春を取り締まる法律があるため、売人は刑罰を
受けるはず。しかし警察は貧しい少女を相手に
まともに動いてくれない。

証言のみが証拠である裁判で、少女たちは
精神的外傷のため証言する勇気を持てないのが
実情だ。 ・・・



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Suiheisen12

山越一郎は、 この不景気で、青色吐息。
資金繰りに詰まり、一度は「死んでしまおう」
と覚悟をしたこともある。

それでも思いとどまったのは、
「もう明日のことを憂うのはやめよう」
「今日のことだけ考えよう」
と思ったからだった。

そういえば・・・。 「あの頃」は輝いていたし、
無茶もした。久し振りにそんな学生時代のことを
考えていたら、電車を乗り越してしまった。

「いけね!」
慌てて車両から飛び降りた。 そこは、学生時代に
よく通ったバーのある駅だった。

一瞬、反対方向の電車に乗り換えるため、階段を
上りかけて止めた。
そのまま外へ出て、一駅歩くことにした。
改札から人がドッと吐き出される。

そんな雑踏の中に、どこか見覚えのある後姿を
見かけた。 考える間もなく、声を出していた。

「シュン!」
呼ばれた男が振り返った。やっぱり。 それは、
一郎が大学時代を共にした大谷俊太郎だった。
頭には、ところどころ白いものが混じっている。

「おおっ、いっちゃん」
俊太郎は、人の波の中で笑顔を向けた。
急に立ち止まったので、次々と人がぶつかってきたが、
体育会系の大柄な身体は揺れることもなかった。

一郎は近づくなり、俊太郎の頬を殴りつけた。
やさしく、やさしく。
俊太郎も、拳を作って、 一郎の鳩尾にパンチを
食らわせた。 こちらも、柔らかく。

「元気か?」と訊かれ、一郎は、
「おおっ」と応えた。なにしろ、会社は火の車だ。
心の底から「元気だぜ!」とは返事できなかった。

「急ぐか?」と俊太郎に訊かれ、「いいや」と答える。
今度は、一郎が「ちょっと行くか?」と右手を
口元近くで傾ける仕草をした。

「そう言えば、この近くだったな」
「うん、まだやってるらしいぜ」
金も無いくせに、当時は週に3回は通っていたバー
「ジェットプレーン」へ 二人は足を向けた。

店の前に来ると、ちょうどマスターがゴミを出しに
外へ出てきたところだった。
マスターも彼らと同じように歳を重ねていた。
もう、とうに六十を越えているはずだ。

「おや、懐かしい。二人とも生きてござったか」

あいかわらずに皮肉屋だ。
「懐かしいね」という言葉もなく、 開店前だが、
クイッと顔を横に振って、店の中へと招いてくれた。

一郎は、俊太郎の名前を呼んではみたものの、
少し複雑な思いがした。
自分は今、とても誇れるような生活にない。
今日のことだけ考えて、ギリギリで生きている。

話をすれば、自ずと「今、どうしてる?」
と訊かれることになる。
大手の広告代理店を飛び出して独立したのは
バブル華やかりし頃のことだ。

「あの頃」なら、きっと「オレの行き着けの店へ」
と高級クラブでおごっていたに違いない。

マスターが、一番安い銘柄のボトルを差し出した。
「おお、コレコレ」
一郎は、氷の入った二人のグラスに、琥珀の液体を
注ぎ込んだ。

(そういえば・・・)
いつのことか。俊太郎のうわさ話を耳にしたことを
思い出した。 離婚して、同時に仕事も
失ったというのだ。

俊太郎は、大学を卒業して3年目に結婚した。
一郎も披露宴に招かれた。
奥さんは、食品卸をしている中小企業の社長の
娘だった。跡継ぎとしての入り婿だった。
みんなで、「逆玉だ」とさんざん冷やかしたものだ。

一郎が、どこからともなく聞いたのは、何か義父の
逆鱗に触れることがあり、 家を追い出された
という話だった。耳にしたのは、10年くらい
前のことだった。

そこまで思い出して、ハッとした。
平日の昼間にもかかわらず、 タートルネックの
セーターにブルゾンを羽織っている。
下は、ベージュのジーンズだ。
それに、薄汚れたスニーカー。

(今、何をしてるんだろう)

一郎は、聞きたい気持ちを抑えてグラスに
ウイスキーを注ぎ足してやった。
俊太郎が壁のポスターを見て言った。
それは、ずいぶんと黄ばんでいた。

「オレさ、この映画さ、リツコと一緒に見に
行ったことがあるんだぜ」 「ええ、リツコだって!?」

安西律子。それは、同じクラスのマドンナだった。
なんとか口説きたいと思っていた。
もちろん、二人だけではない。
みんながそう思っていた。

しかし、男に興味がないのか、とうとうリツコは
大学時代、誰とも付き合うことなく卒業した。

「おいおい、オマエ抜け駆けしたのかよ!」
「おおっ、そうだ」
「コノヤロー」
「もっとも、ただ映画観て、お茶飲んだだけだけどな」
「当たり前だ」 「いい娘だったよなあ」
「うん、可愛かったなあ」

やがて酔いが回ってきた。二人とも口にするのは、
同じことばかりだった。
「リツコ~」 「好きだよ~」 「リッちゃん、
好きだったよお~」
そんな中でも、一郎はどこか覚めていた。

(シュンは何をしてるんだろう)
しかし、彼が困っていても、今の一郎には何も力に
なってやれることはできなかった。

「オレ、そろそろ行くわ」と俊太郎が言い、
立ち上がった。
「おお、オレも」 「また来るよ」
と、あてのない挨拶をして店を出た。
さっきの駅前まで行って、

「じゃあ」と言い、手を軽く振って別れた。
その時、「ひょっとすると」と思った。
俊太郎も同じ気持ちだったんじゃないかと。

「今、何してるんだ?」

その一言を口にしたくても、じっと我慢して、
ただただ飲み続けていたのではないかと。
一郎は、凍てつく風の中で、ふわっと心に
温かいものを感じた。

「ひょっとしてアイツ、オレのウワサも、誰かから
聞いたのかもしれないな」
一人、駅のホームに立って電車を待ちながら、
アイツの今の住所も電話番号さえも聞くのを
忘れたことに気づいた。

・・・the end


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2018年10月11日 (木)

妄想劇場・特別編

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人生は道路のようなものだ。
一番の近道は、 たいてい一番悪い道だ。
・・・ フランシス・ベーコン


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夫婦は、肉親とは違ってまったくの他人から
家族になっていくわけで、いちばん大事なこと
かもしれませんね」
こう語るのは『夫婦という他人』の著者、
下重暁子さん(82)。

「反響はいろいろありますが、肩の荷が下りた
という人が多いです。
夫婦という肩の荷をしょっている人、夫婦という名前で
縛られている人がいかに多いかということでしょうね。

それは女性だけでなく男性にも多いです。
(夫婦は)同等でいいと思うけど男性には、
自分が面倒みている、あるいは責任者、
主(あるじ)だと思い込んでいる人が多いみたいで、

そういうことを思わなくてもいいと感じて、
肩の荷が下りたんじゃないでしょうか」 ・・・

人生100年時代と言われ男女とも平均寿命は延び、
夫婦でいる時間が必然的に長くなる。

「子どもを介して三角形で生きてきたのに、子どもが
巣立った後に夫婦だけで向き合うのはしんどい
ことだと思いますよ。

そのためには自分たちの生き方を探さないといけない。
夫婦の生き方探しの結果、離婚してもかまわない。
もし一緒にいるのなら、いろんな暮らし方を探したほうが
いいと思う。

そのひとつの例として、私たち夫婦は水くさく暮らして
いますよということを1冊にまとめました。

最初からお互い、水くさくて相手に期待していない
関係でした。周囲からは、期待しないなら結婚しなくても
いいでしょうと言われますが、期待しないから一緒に
いられるのであって、期待したらしんどくてしょうが
ないですよ」

結婚の決め手は生活 ケンカは時間のロス

「結婚する気がなかった」という下重さんは
36歳のときに、テレビ報道マンで3歳年下の
“つれあい”と称するご主人と結婚した。

「大恋愛が終わってくたびれ果てていました。
相手は芸術家で、生活感のない人でした。
私自身、生活感のあることが好きじゃないし、
家の手伝いもしたことがない。

一緒に誰かと住んで、その人のために料理を
するなんて考えたことがなかったし、嫌いでした。

そんな私に生活は生きていく土台だと無言で
示してくれたのがつれあいでした。
料理好きで、包丁さばきは見事で味もおいしい。
そういう姿を見て私にいちばん欠けている生活の
大事さを悟りましたが、(心の)隙間に入り込んだ
のかもしれない(笑)」

夫婦の生活は、今は夜型の下重さんに対して、
つれあいは朝型と対照的。

「夫婦ゲンカはあまりしませんね。お互いに仕事が
忙しいこともあるけど、(ケンカは)めんどくさくて
時間のロスとしか思わない。
気分がよくないと物は書けないので、仕事のほうが
大事です。

私は母親に愛情をかけられすぎたので、
非常にわがまま。
自分がいちばん大事な人間。まるで思いやりがない
というか、人のことより自分のことしか考えてこなかった。

でも、それはある時期から大人とはいえない。
一緒にいる人のことを考える思いやり。
そういうものが大事だと思えるようになり、
心が通じる人がそばにいることのよさを45年の
結婚生活でわかるようになりましたね」

形式的なことが嫌いで結婚式は挙げず、結婚指輪も
しない下重さんに、インターネットやSNSを使って
出会いを求める20代、30代の若者はどう映るのだろうか。

「いろんな出会いの仕方があるみたいだけど、
そうまでして結婚したいのかな……。

戦後、日本は貧しかった。だけど精神的には自由な
時代に育って、何を考えても何をしてもよかった。

今は窮屈な社会になっていて、人目やチェックする
ものがあったりしてめんどくさいことが多い。
本人が気にしなければいいけど、SNSで知られてしまう
世の中になって、嫌な時代になりつつある。
結婚もそのひとつだと思います」

子育てのための夫婦と化していくことに危惧(きぐ)も。

「子どもがいるから成り立っていて、会話も子どもの
ことしかないのは寂しい。
子どもがいることでケンカをしない、別れない理由に
なっているのも現実だと思います。

でも、それがいい家庭かどうかは別です。
子どもは敏感ですから夫婦関係はわかると思いますよ」

可能性は試すべし シニア婚のすすめ

離婚や死別などの理由でシングルになった50代以上が
パートナーを求めるシニア婚については大賛成という。

「いいと思いますよ! なぜ(結婚相手が生涯)ひとりの男、
ひとりの女でなくちゃいけないのか。

(若気の)勢いだったり、間違いだったりする結婚では
つまらないでしょ。年を取ってからでも可能性は試した
ほうがいいですよ。縛られている必要なんてないと思うわ。

ただし、お金や財産の問題だけはっきりさせて子どもには
一切残さない、子どもは親の財産をあてにさせないことです」

下重さんが人生でこだわってきたことは、経済的自立と
精神的自立だ。
「自分らしい生き方をするための2つの条件です。

自由に生きるためには経済的な自立が必要で、
つれあいとは独立採算制です。
自分が決めたことには責任と覚悟という精神的な
自立が大切です。その2つだけは身につけようとずっと
思っていて、守ってきました」

十人十色。

夫婦もさまざまだとわかっていても“夫婦
=(イコール)他人”。
至極真っ当な指摘にドキリとさせられる人もいる。
「他人ではなく、(結婚相手を)特別な人だと思いたい人は
いるでしょう。でも、冷静に考えれば最初から他人。

他人だけど不思議な縁で一緒になった。
その不思議な縁というのは面白いと思う。

夫婦だけでなく、家族だって他人のようなもの。
血縁関係はあっても、自分のものではない。
でも現実には、そう思えないでいる人もいる。

私は最初から他人だと思っていますから、仮に
裏切られてもしょうがないとしか思わない。
もちろん、人間だから悲しい気持ちにはなるけど
傷は浅いかも」・・・

夫婦関係を記した妻の著書につれあいの反応は?

「読んでいないと思うわ。私の仕事に興味がないの。
勝手に仕事させておけば喜んでいるくらいしか
思ってないでしょ。期待してないの。
私も期待していないけど。・・・

愛情の愛はなくなっても情は持ち続けられる。
人と人との間に情がなければ、人間関係は
成り立たない。夫婦だろうと家族だろうと友人だろうと、
お互いに情があれば通じ合うことができますよ。

ただ信頼がなくなったら、情もなにもない。
人間として信頼できないことはいちばん悲劇。
私は、つれあいとは信頼がなくなったら
一緒にはいません」

筆致も同様、潔い語り口でした。・・・



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ホームから転落・・・ 「俺が助ける」

『財貨を失うのはいくらかを失うことだ、
名誉を失うのは多くを失うことだ、
勇気を失うのは、すべてを失うことだ。』
そんな言葉がある。

社会が、人が委縮し、無力感さえ漂う時代。
だからこそ、勇気を奮い起こしたい。
命を賭(と)して立ち向かう、 新たに事を起こす、
静かに信念を貫く・・・。

ひるまず、たゆまず歩き続ける、
そんな七つの勇気の物語。

助けられてきた人生 22歳の決断

激しかった雷雨は小雨に変わっていた。
家庭教師のアルバイトからの帰り、大学生の
伊賀崎俊(22)は、 千葉県と都心を結ぶ私鉄・
北総線新鎌ヶ谷駅のホームにいた。

5分前に着くはずの電車はまだ来ない。
雷雨によるダイヤの乱れは続いていた。
終わったばかりのサッカー合宿の内容を
携帯メールでやり取りしていると、
男性のふらつく影が視界をよぎった。

酔っていた。
崩れるように1メートル下の線路に落ちた。
ホームには二、三十人いたが動かなかった。

いつ電車のライトが迫ってくるか知れない。 が、
意を決して飛び降りた。
男性はレールの間に倒れ動かない。
上体を抱き起こす。
「重い」と感じた時、乗客の一人が降りてきた。

渾身(こんしん)の力でホームに押し上げた。
男性は腕を骨折していた。

翌日、同県印西市の自宅で俊の話に
母の真理子(50)は、「何てことしたの。
非常ベルもあるじゃない」としかった。

2001年1月に起きたJR新大久保駅の事故が
脳裏をかすめた。
ホームから落ちた人を救おうと二人が飛び降り、
輪禍の犠牲になった。

俊は生まれつき耳が聞こえない。
聴覚障害では最も重い2級だ。
珍しく言い返した。
「人が倒れているのに、ほったらかしにするのか」

俊は京都府八幡市で生まれた。三人兄弟の二男。
生後六か月の1981年冬、「感音性難聴」
と診断された。

〈音のない世界〉の宣告。

絶望の中で真理子は息子を抱いて施設に通った。
当時の補聴器は服の下につけても人目についた。
ふびんに思い、外出する時はたまらず外した。

ある日、街で同じ障害を持つ女児を見かけた。
補聴器がワンピースの上にあった。
衣服のすれる音が入らないようにするためだった。

「一体、私は何をしてるんだろう」
自分を恥じた。
「強くなろう。この子を育てていくんだ」

「お前の言葉は分からない」
千葉に転居し、小学校に上がった俊に
「宇宙人」というあだ名が付いた。

会話に入りたくて唇の動きから言葉を追いかけても、
そのスピードについて行けない。
家に入る前に何度悔し涙をぬぐっただろうか。

それでも、教科書をなぞって進み具合を
教えてくれる友人がいた。
しかし、予備校では孤独だった。
受験生に自分の相手をする余裕などない。
社会に出ればもっと厳しい現実がある。
不安が募った。

大学に入った年、それを察していた母に
災害救援ボランティアの講習を勧められた。
俊は思った。

いろんな人に助けられて生きてきた。が、
いつまでも頼っていていいのか。
せめて自分の身は自分で守りたい。
そして一人で生き抜く力を身につけたい。

講習の合宿に参加した。
人を助けたことはなかった。
言葉が伝わるか、トラブルになったら・・・
という思いが先に立ち、
困っている人を見かけても動けなかった。

ここを乗り越えれば自分の足で立っていける。
障害者にもできるはずだ。
止血法や蘇生(そせい)法を習得し
「セーフティリーダー」に認定された。

短い期間ではあったが自信を得た。
何があっても対応できる、明日(あした)へと
踏み出せる気がした。

新鎌ヶ谷駅で転落を目撃した夜、その時が来た。
周囲を見回した。誰も動かない。

「俺(おれ)が行く」決断した。

救助の鉄則を反芻(はんすう)した。
自分の安全を確保して行動に移る。
線路脇に退避所があるのを確かめた。

小学一年からサッカーを続け、体力には
自信があった。
1,2分あれば。「助けるんだ。大丈夫だ」。
自分の声をはっきりと聞いた。

救助から10分後に電車は来た。
名前も告げずに立ち去った。
「俺って、人の命を救えたよな」。
確かな手応えをつかんだ。

半月後、真理子は突然、男性の妻から
電話を受けた。
「主人に万一のことがあれば、
私たち家族は路頭に迷うところでした。
何とお礼を申し上げていいか」

男性の妻は事故の翌日、誰が助けてくれたのか
駅に尋ねた。
ポスターを張って俊を探し出した駅から、
数日後に連絡があった。

面倒を避け、厄災を恐れて人とかかわろうと
しない時代。
駅員が救助したとばかり思っていた妻は、驚いた。

「事故を知らせる人はいても、
まさか、そんな人がいるなんて」
ただ、ただ頭が下がった。夫が治れば伺いたい。
その前にどうしてもと、電話をかけたのだった。

幾度も幾度も繰り返される感謝の言葉。
真理子は息子をしかったことを悔いた。
人の役に立ってほしいと願ってきた息子が、
一人の、一家の命を救った。

誇りに思った。・・・

「もし、もしも俊の耳が聞こえたら、 この電話を
聞かせてやりたい」
真理子は切実にそう思った。・・・(敬称略)

・・・


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2018年10月10日 (水)

妄想劇場・特別編

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みんな、私の着ているものを見て笑ったわ。
でもそれが私の成功の鍵。
みんなと同じ格好をしなかったからよ。
・・・(ココ・シャネル )


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「花」と言えば「桜」と言うように、 平安時代の昔から
桜は日本人に最も愛されてきた特別な花である。

そんな桜に魅せられ、人生の全てを賭けて、
桜を植えつづけた男がいた。
彼の名前は佐藤良二。
彼は名古屋から金沢まで、 全長260キロを走る
“名金線”と呼ばれる国鉄バスの車掌であった。

「太平洋と日本海を桜で結ぼう」 彼が夢見たのは、
自分の乗るバスが走る道路沿いに桜を植え、
名古屋から金沢まで続く桜並木を作ることであった。
それは、5万本の桜を植えるという、途方もない
夢でもあった。

家族や周囲の人に非難されながらも、給料をつぎこみ、
暇さえあれば桜を植え続けた良二。
しかし、志半ばにして病のため倒れる。
彼が桜を植え始めた昭和41年から亡くなるまでの
12年間に 植えた桜の木は2000本にもなる。

彼はなぜ、桜を植え続けたのか?
そして彼が、桜に見た夢とは何だったんだろうか?

佐藤良二は昭和4年、長良川の上流、奥美濃の
小さな町、 岐阜県白鳥町に3人兄弟の末っ子として
生まれる。

昭和7年、良二が3歳のとき、母のたきが風邪を
こじらせ 33歳の若さでこの世を去る。
以後、父の仁助が男手一つで3人の子供を育てた。

わずかな田畑を耕しながら、母親がわりに 炊事、
洗濯、針仕事までこなす父は、 3人の子供たちに
いつもこう言って聞かせた。

「人様の喜ぶことをせないかんのや。ぼろを着て
社会に尽くせ。」
この言葉は、父を尊敬していた良二の胸に深く
刻み込まれていったのである。

昭和20年、17歳の良二は国鉄に就職し、
昭和28年正式にバスの車掌となる。
しかし、そんな良二が本当に憧れていたものは
映画俳優であった。

そこで、良二は鼻の整形手術をして俳優試験を
受けるが 書類選考で落とされてしまう。
夢と自尊心を砕かれた良二は、自殺を考えるほど
人生に何の希望も持つことが出来ず、車掌の仕事も
投げやりなものになっていった。

自分は何のために生きているのか・・・
尊敬する作家・武者小路実篤を訪ね、 教えを請うたり
自らの生きる意味を検索していた、
昭和36年、尊敬していた父が亡くなる。

「人様のためになることをせないかん」

いつもそう言っていた父。
良二はこの時、 はじめて父の言葉の意味を理解し、
そのように生きることを誓うのである。
そんな時、良二はその後の人生を大きく変えることとなる、
ある光景を目にする。

昭和35年岐阜県を流れる庄川に東洋一の
ロックフィルダム「御母衣ダム」が完成。

そこにあった360の集落がダムの底に沈む
運命にあった。
その中に樹齢400年をこえる大きな2本の
桜の木があった。

しかし、何とかこの2本の木を救うことが出来ないか
という人々の思いによって2本の木の移植工事が
行われた。
困難を極めた桜の移植は見事成功し、
桜が満開の花を咲かせた3年後の春・・・・

ダムの底に村が沈んで、ばらばらになった村人たちが
桜の木の下に集まり花見をし、再会をよころびあった。
その最中、一人の老婆が立ち上がり桜の幹を
なではじめ、 木にすがりつきながら声を上げて
泣きはじめたのだった。

この光景が、良二の心を大きく揺り動かした。
「桜はええなあ。強くて優しくて、人の心を呼ぶんや」
そして、昭和41年春、 良二はバスの出発点でもある
名古屋の営業所の前に 1本の桜の苗木を
植えるのである。

それ以来、良二は暇さえあれば桜の世話をし、
家族や周囲の非難の中、良二は1人黙々と桜を
植え続けた。
しばらくすると協力してくれる人も出始め、
良二が持っていた人様のためやるんだという
気負いも消えていった。

「かわいらしい桜の苗木を取り囲む人の喜ぶ顔を
見るのが嬉しい…」
車掌としての良二も以前とは別人のように、
客に接するようになりみんなに愛される
名物車掌となっていた。

しかし、桜を植えはじめて5年目の昭和46年秋、
体の不調を訴えた良二は 「血管免疫芽球性
リンパ節症」と呼ばれるガンの1種の難病だと
診断される。

それでも、周囲の心配をよそに、 病気で弱った体で
とりつかれたように桜を植え続けた。
「時間がない。ふるさとを俺は桜の花で飾るのだ。
そして、俺は枯れ木のように死んでもいい…」

昭和51年、良二は47年の生涯を閉じた。
しかし、良二が思い描いていた桜街道の夢は
同僚や家族に受け継がれた。

そして、現在、教科書や映画で紹介された良二と
桜のことを知った多くの人によって、良二の夢は
続いている・・・。

自分の生きる意味を真撃に問いかけ、夢に向かって
懸命に生きた佐藤良二。
その生涯は私たちに多くのことを語りかけて
くれることと思う。・・・



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前日の夜、飼い犬のシロが死んだ。
私が生まれる前から我が家にいた大きな真っ白の
雌犬だった。
優しい性格で、私にとっては姉のような存在だった。

学校に行く道すがら、ずっと涙がこぼれていた。
二年生の教室に着いて椅子に座っても
心の中はシロのことで一杯だった。

先生が入ってきた。
笑い声が大きい、とびきり明るくて、
どこか私の母に面影が似ているS先生だ。

先生は私の顔を見るなり、「どうしたの?」と
聞いた。
私はしかめ面に涙をいっぱい浮かべていた。

答えようとしたけれど「シロが…、シロが死んで…」
と言うのが精一杯だった。
先生は、「そうかぁ、今日は悲しい日やな。
思う存分、泣いてもええで」

涙が次から次へとこぼれた。
そこが教室でも止まらなかった。
先生は、普通に授業を進めた。
友達も先生も、それきり何も言わなかった。

私は何ものにも邪魔されずに、
枯れるまで涙を流すことが出来た。

私たちが通う山間の小学校は、人数が少なく、
二クラスしかなかった。
私は、一年生から六年生まで、
変わらずS先生が担任だった。

母に似ている先生が私は大好きで
何かと甘えたり、ひっついたりしていた。
うちは母子家庭だったので、
母は働きに出ていて不在気味だった。

そのせいもあって、
先生は「お母さん」のような存在でもあった。

実際、私は先生のことを何度も、
「お母さん」と言い間違えたが、
先生は「お母さんちゃうでぇ」
と笑いながら頭を撫でてくれた。

夏休みや冬休みになると、
先生に会えないのが寂しくて、
学校に行ったり、先生の家に遊びに行ったりした。

先生は、私が一人で突然訪れても
迷惑な素振りも見せず、
いつも優しく受け入れてくれた。

皆の先生なのだけど、私にとって
特別な人だった。

6年生になって
冬を越した頃、先生は病気になった。
丸くて艶々した顔が、見る間に細くなっていった。
私たちは心配で、何度も
「先生、早く元気になってやぁ」と言った。

2月に、先生はとうとう学校を休むことになった。
担任は臨時で、教頭先生が兼ねた。

卒業式の前日、
先生から家に電話がかかってきた。

「卒業おめでとう!
6年間、よく頑張ったなぁ、
先生、卒業式に行けんでゴメンなぁ」

私はその声を聞いて、すぐに涙があふれた。
涙声で、「先生、卒業式にはこれへんの?」と聞いた。

先生は、「一足先に電話で卒業式やね。
声だけやけど、顔が目に浮かぶで。
また泣いてるんか?

小さい時から変わらへん泣き虫やなぁ。
でもそれは、アナタの良いところやな。
優しい証拠の涙やな」

卒業式でS先生の電話のことを、
クラスメートに話したら、
一人一人、みんなの家に電話があったらしい。

先生は、私たち皆を心から可愛がってくれた。
卒業まで担任が出来なくて残念だっただろう。

それから私たちは山を降りて
マンモス校の中学生になり、
部活や新しい友人との毎日に埋没していった。

高校に入り、大学生になり、
その頃、初めて先生が亡くなったと聞いた。

卒業式のすぐ後だったという。
なぜ知らせてくれなかったのか…
今からでも先生のお墓にお参りしたい、
そう思って、私は先生のご実家に
電話をかけた。

先生のお母さんが出られて、
先生の生前のご意志で、子供たちには
その死が知らされなかったのだと聞いた。

「優しくて大好きな子供たち、
その門出を力いっぱい元気に祝ってあげたい。

先生の死を悲しまないで。
先生はいつも皆のことを見守っています」
お母さんは、それだけ告げて電話を切られた。

先生…
私は涙をこらえることも出来るようになったよ。
悲しくても、
それを乗り越える力も身につけたよ。
2年生だったあの時、
先生が思いっきり泣かせてくれたから…。

今の私は、悲しくてたまらなくても、
先生の笑顔を思って、笑うこともできる。
でもやっぱり、涙が少し頬を伝った。

『優しい証拠の涙やね』
先生、ありがとう。先生、大好き…。


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2018年10月 9日 (火)

妄想劇場・チャンネル掲示板

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美しさは女性の「武器」であり、
装いは「知恵」であり、
謙虚さは「エレガント」である。
・・・(ココ・シャネル)


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賭け事がどうしても止められず、そのために借金を
重ねるなど、自らの生活を破滅にまで追い込んで
しまうギャンブル依存症。

医師もかかるギャンブル依存症は病気である

A医師という優秀な内科医がいました。
医学知識が豊富にあり、患者さんのケアの質もよく、
病院の職員からも慕われていました。

しかし、その医師にはギャンブル依存がありました。
ギャンブル依存症は、現代医学で認定されている
立派な疾患です。

たとえ医師であっても、病気に負けることがあります。
仕事中に病院を抜け出して、パチンコやスロットなどの
お店によく出かけていたのです。

ある日、重要な病院業務がある時間帯に、A医師が
ギャンブル店に出かけていたのが上司に見つかり、
最終的には責任を取ることになって病院を辞めました。

その後、配偶者とも離婚し、家族は離れていきました。
ギャンブル依存症は精神を荒廃させる病気で
あるだけでなく、その人の社会経済的状況も
破壊していきます。

A医師はその後、パチンコ中に倒れて死亡しました。
遺体解剖の結果、急性大動脈解離でした。
パチンコ店内での長期にわたる受動喫煙の影響で、
動脈硬化が進行していました。

動脈硬化でボロボロになった大動脈を解離させた
直接の原因も、ギャンブルだったと思います。
パチンコやギャンブルで当たりを出したり大きな
ハズレを出したりすると、交感神経が緊張し
アドレナリンの濃度が上がります。

アドレナリンは血圧を上昇させ、動脈硬化で
ボロボロになった大動脈を解離させるのです。

ギャンブル依存症の疫学

先進国の統計によると、100人に1人はギャンブル
依存症を持っています。そして、100人に3人は
ギャンブル依存症の予備軍です。

ギャンブル依存症の危険因子には、遺伝的なものと
環境要因があります。遺伝的要因には、脳内での
神経伝達物質に対する反応性の違いなどがあります。

環境要因には、社会的孤立、失業、経済的困難
などがあります。多額の借金を抱えている人は、
ギャンブル依存症のリスクは高くなり、

それによってさらに借金が増えていく悪循環を
きたしている人もよく見られます。
パチンコやスロットは、長期間にわたってやれば
やるほど負ける確率が高くなり、全財産を使い
果たすケースもあるのです。

また、環境要因にはギャンブル産業の広告も
含まれます。新聞や雑誌、ネット上などの広告に
惹かれて、お店に足を運ぶ患者さんが多くいるのです。

ギャンブル依存症の治療を専門に行っている医師や
研究者たちは、ギャンブル産業の広告は禁止
すべきと考えています。

子どもたちへの影響も考えると、スポーツ関連の
スポンサーとなることも禁止すべきと考えています。

ギャンブル依存症の治療

心療内科や精神科、総合診療科ではギャンブル
依存症の治療を行っているところもあります。
まず、認知行動療法は有効です。

これは、主として臨床心理士が行うものですので、
心理カウンセリングを提供している医療機関で
受けることができます 。

同じ悩みを抱える患者さんたちと共に、
認知行動療法を集団で提供しているところもあります。

ギャンブル依存症には薬物療法も有効です。
よく使われる薬にはナルトレクソンがあります。
これは、アルコール依存症に対して使われる
お薬ですが、ギャンブル依存症にも効果があります。

副作用が比較的少ない薬なので、重度のギャンブル
依存症の患者さんに適応となります。

重度のギャンブル依存症の患者さんに対しては、
ギャンブル刺激のコントロールが必要です。
具体的には、ギャンブル産業が出す広告を
掲載しているメディアを見ないようにアドバイスします。

さらには本人の同意の上で、また家族の協力も得て、
「現金」に対するアクセスも制限してもらうケースも
あります。このような治療行うことによって、
4人中3人はギャンブル依存から脱出することが
可能になります。

ギャンブル依存症の人が周りにいたら、ぜひ
医療機関を受診するように勧めて下さい。


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露天風呂に身を沈めながら、徳利の首をつまんで
酒を一杯。
呑兵衛なら一度は憧れるシチュエーションですが、
実はこれが危険な行為だということをご存知でしょうか。

露天風呂でお銚子を傾けて一献、の危険

各地の温泉宿で、露天風呂にお銚子を載せた桶を
浮かべて日本酒が飲める、というサービスを
行っているところがある。

これは、酒飲みとしてはまさしくあこがれの
ひとつであって、雪のちらつく冬などはまったく
最高の風情だ。
これまでこうしたサービスによる入浴事故の報告は
聞いたことがないが、正直、推奨できないのが
事実である。

そもそも飲酒しての入浴は相当にリスクが高い。
というか、入浴法を間違えると、お風呂に入ること
そのものにも、かなりのリスクがある。

年間の交通事故死者は5000人以下になってきているが、
入浴とそれにまつわる事故死者は、年間約2万人
もいるとされる。

こうした入浴事故の多くは、「高齢者」で「冬」に、
「熱い風呂」で起きている。 直接の死亡原因は
「脳卒中」「脳梗塞」「心筋梗塞」である。

入浴によって汗をかくことで血液粘度が増すと、
血管が詰まったり、破れたりすることにつながる。
だから、入浴前後の水分補給が重要なのである。

高齢者に事故が多いのは、加齢によって血管が
詰まりやすく、破れやすくなっているからであろう。

加えて冬は気温が低く、血管が収縮しているうえ、
熱い湯に急に入ると、血圧が急上昇して、事故に
つながりやすいわけだ。

こうした血圧の急上昇のほか、風呂を上がるときに
いきなり立つと血圧は急降下する。

血圧の急激な変化は、立ちくらみなどにも
つながって、転倒事故にも結びつくことになる。
風呂上がりは、全身が水圧から開放されることで、
血流が全身に回るようになって、その代わりに
脳の血流が減る。

するとこれは脳貧血につながって、やはり転倒事故を
引き起こすことも少なくない。
平時でもこれだけのリスクがあるわけだから、
飲酒をしたらいっそうリスクが増えるのは
言うまでもない。

宿の夕食時にたっぷりと酒を飲んでしまったら、
その後の入浴は避けることも重要だ。
ちなみに「高齢者入浴アドバイザー協会」では、
「深酒したときは入浴禁止、晩酌程度であれば、
1~2時間後に入浴すること」としている。

アルコールは血管拡張作用があり、入浴すると
さらに血管が拡張して、急激な血圧降下、脳貧血、
不整脈を起こしやすい、との理由が書かれている。

入浴前後の水分補給は必須である。 ・・・


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2018年10月 8日 (月)

妄想劇場・チャンネル掲示板

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若くて美しいことは、 自然のいたずら。
年をとっても美しいことは芸術です。
・・・(エレノア・ルーズベルト )



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「もともと金持ちだと思ってたんだよ。確か自分が
不動産業の社長とか言ってたな。
週に5、6日、飲みに行ってたから。全部、あいつに
おごってもらってたよ。

普段はジャージとかスウェットとかだけど、
見栄っ張りだからスーツでキャバクラに出かけることは
多かったね。

“きょう、仕事だったんだ”って言ってさ、20万円くらいの
オーダーのスーツ作りに行ったりね。
自分を大きく見せようとするんだよね。
ブランド物のバッグ持って時計とかして、金持ち
アピールはやばかったね」

知人男性が、そうつまびらかにする容疑者像。

千葉県警松戸署は'18年9月11日、JAとうかつ中央
・松戸南支店(千葉県松戸市)から同年6月15日に
現金700万円を盗んだとして、元同支店出納担当係長の
松永かおり容疑者(53)を逮捕した。

同日県警は、松永容疑者が着服した金だと知りながら
700万円を受け取ったとして、松永容疑者の次男で無職、
西弘樹容疑者(22)を組織的な犯罪の処罰及び
犯罪収益の規制等に関する法律違反
(犯罪収益等収受罪)で逮捕した。

毎回どこからか現れる700万円

冒頭の容疑者像は、西容疑者のそれだ。
知人男性は、西容疑者が金を手に入れる際、
その現場近くで待っていたことがあったと
詳細を明かす。

「あいつ、金がなくなるとだいたい600万~700万円くらい、
毎回どこからか持ってきてたのよ。
紙袋にガバッと入れて持ってくるんだよね。
どういう経緯でそんな大金を手に入れているのか
不思議でしょうがなかった。

お母さんが働いていたJAの支店あるじゃないですか。
その近くに作業服を売るチェーン店があるんですけどね、
そこの駐車場に車を止めるんですよ。
それでいつも、車から弘樹だけ降りて“お金を下ろして
待っている銀行員の田中さんから受け取るだけ”って
言っていましたね。

車から降りて5分~10分で戻ってくると、大金の入った
紙袋を持っていた。本人は19歳のときから
不動産会社を経営しているとか言ってたけど、
全く働かず遊んでいるし、どう考えたって無職の
プー太郎。本当にナゾでしたね」

1年間で1億円近くを盗んでいた 西容疑者はJAの
支店裏口で、母親から現金を受け取っていた。
「1年間かけて9633万円盗んだということですね。
今回の逮捕事案となった700万円は最も明らか
な証拠があった入り口にすぎない。

残りの約9000万円はこれから再逮捕なり、
追送致なりしていくことになると思います」
と捜査関係者。

共犯関係については

「息子のことを溺愛しているような母親ですね。
だから息子から言われることはしかたない……
みたいなところがあったようです。
金を無心されて、息子のためだと思って盗って
しまったって感じですね」とみている。

息子が母親に暴力をふるったり、母親に金を
盗ってこいと脅していた形跡はなく、見えてくるのは
息子を溺愛する母親が犯罪に手を染めた
という愚かな関係。 その結果「勤続35年でした」
(JAとうかつ中央担当者)と長く務めた職場を
6月29日付で懲戒解雇になり、すべてを失った。

にもかかわらず息子への甘さは以前のままで、
事件発覚後の9月6日、母親は、・・・
家を出て暮らし始めていた息子のもとを訪ね、
《弘樹へ 大丈夫ですか? 掃除をしに来たんだけど
留守なので帰ります。連絡して下さい。まってます。
お母さんより》  というメモを残している。  

容疑者一家は父親と逮捕された母親、
長男と逮捕された次男の4人家族。
両親が共働きでした、という近隣の女性住民は、
「親子でケンカしているのは聞いたことがないです。
むしろ家族仲よくテレビを見て、談笑している声は
聞いたことがあるので、家族仲がいいんだな
と感じていました」  と証言する。

ウソだらけの人生  

西容疑者は本来であれば
今年3月に大学を卒業する予定だったが、
単位未取得で退学。 もともと、周囲には大学生だと
身分を明かすことはなかったという。

周辺との人間関係もウソで塗り固めた、実に
薄っぺらい関係性で、 「本当にあいつ、飲みに
行くのが好き。でも1人でいるのが嫌いなやつだから、
基本1人で飲みに行かないし。

3万円あげるから飲みに付き合ってよとか
言ってくるんですよ」  と前出の知人男性。
母親から700万円を受け取った翌週6月22日に
ひとり暮らしの自宅でJAの帯封がついた
100万円の札束でピラミッドタワーを作っていたという。

「母親が盗んだ金は、ほぼ飲み代で消えているんじゃ
ないかな。俺が見た中で、1日最高額は100万円超え。
キャバクラの“推し”の女の子の誕生日に店を貸し切って
ドンペリあけて、女の子7~8人つけて大盤振る舞いって
感じでした」(前出・知人男性)

ウソつきすぎて本人もよくわからない

あぶく銭は、女遊びやギャンブルで簡単に溶ける。
西容疑者のその場しのぎのバカ騒ぎも、ただ金を
溶かすだけだった。

母親の悪事がバレ、勤務先を懲戒解雇になったことで、
西容疑者のあぶく銭の蛇口は止まった。
その後の切羽詰まった西容疑者の様子を、
前出の知人男性が振り返る。

「母親が捕まる前、弘樹はこう話していた。
父親も不動産をやっていて、そのお金関係は全部
母親がやっている。その仕事が回らなくなって、
お金がなくなって、弘樹の資産も母親に使われたって。

それも1億8000万円。後輩には8000万円とか
言っていたから、もうウソつきすぎて本人も
よくわからなくなってる。

父親の仕事もウソ。

最初、弘樹は母親に金をもらうとき『事業をやるから
開発費が欲しい』ってお金をもらっていたんだけど、
それもウソ。税理士になるとか言ってたけど、
全然勉強とかしてないしウソ。

突然、株の話とかし始めて、ノートにびっしり
書いてるんだけど、それもウソなんだよね。
結局、見せかけだけの“やってますアピール”を
したいのか、妄想癖なのかわからないけどね」

ただ、着服がバレて母親が懲戒解雇されてからは、
就労意欲をチラッとだけ見せたという。

「とび職人をやったんだけど、1日で辞めた。
面接行って、作業着とか水筒とか買って、
明日から行くんだって言って、現場に行ったら
熱中症になりかけて倒れて、もう行かなくなっちゃった」(同)

母親が着服した現金の使い道を前出・捜査関係者は、
「すべて次男に渡したと話しています」
と明かす。

一方で、「次男はまだ何もしゃべっていないですね。
否認というよりは黙秘に近い状況。ふてぶてしいやつです」
と、あきれ果てる。

大学には入ったが、遊びほうけて単位を取らず、
結局は中退。あげくの果てに遊ぶ金を母親にねだって、
親子もろとも真っ逆さまの転落人生。

1年間、3つの金庫のうち1つをまったくチェックせずに、
松永容疑者にまかせっきりにしていた
JAも脇が甘すぎた・・・・・・。


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2年ほど前、僕は失職した。

原因は鬱病。戦力外通告を受けての自主退職。
事実上のクビだった。
鬱病が治るまでは実家に世話になる事になったが、
通院費くらいは自分でなんとかしようと、
貯金から払っていた。

だけど、2年間もの通院の果てに、ついに手持ちの金も
底をつきかけてしまった。
そこで、もう読まなくなった本やCD等の雑貨を
中古屋に売り、通院費をなんとかまかなおうと考えた。

手放す品は全部で19点。
古い物ばかりなので、せいぜい2000円程度に
なりゃいいかな、と思ってた。

そんな品々をリュックに詰め込み、原付であちこちの
店をまわった。古すぎて買い取れない、という品も
幾つかあり、結局合計で1680円に終わった。
でも、清々しい気分だった。

それは、最後の店でリュックから品を全部
取り出している時、リュックの底に小さく
折りたたまれたお金が入っていることに気付いた。

ちょうど2000円。

僕はお金はすぐに財布にしまうから、
こんなところにお金を入れた覚えは無い。
色々考えているうちに、ふと昔の出来事を
思い出した
僕が鬱病で失職した2年ほど前の時期、
心配した祖母が家まで来てくれたことがあった。

「今後困ることになるだろうから」と、少ない年金から
2000円、僕に渡そうとしてきた。

その時はまだ失職直後で、こんなに通院が
長引くとは思っていなかったから、
「貯金がまだあるからいいよ、受け取れない」
とかたくなに拒んだ。

いつもなら小さく折りたたんだお金を、
無理矢理にでも僕の手に握らせる祖母は、
その日は珍しく引き下がった。

その時このリュックは、チャックを開けっ放しに
して壁に掛けてあったんだ。
2年越しの時を越えたお小遣いを、本当に
困ってる時に貰うことになった。

あまりに時間が経ち過ぎて、直接お礼を
言うことなんて照れくさくて出来ないけど、
本当に、祖母を大事にしようと思った。

そして心から感謝したい、おばあちゃんありがとう。
・・・

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2018年10月 7日 (日)

妄想劇場:thi ライフ

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未熟な愛は言う、
「愛してるよ、君が必要だから」と。
成熟した愛は言う、
「君が必要だよ、愛してるから」と。
・・・
エーリヒ・フロム



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西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに
立ち向かい、
人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する
帯津良一(おびつ・りょういち)氏。
死ぬまでボケない「健脳」養生法を説く。・・・

「認知症と睡眠時間の関係」。

(1)脳に老人斑を作らないためには寝ること
(2)昼寝が認知症予防にプラスに働く
(3) 眠れない人は睡眠薬を飲んでもいい

認知症と睡眠は関係が深いようです。

アルツハイマー型認知症の引き金になると見られて
いるのが脳内でのアミロイドβ(タンパク質の一種)の
沈着です。

この沈着が起きると脳に老人斑(アミロイド斑)が
生まれます。
動物実験で対象の動物を断眠(眠らないように)すると、
脳のアミロイドβの沈着が3倍に増えるというのです。

まだ、はっきりはしていないのですが、日中の活動で
脳内に生まれたアミロイドβは、睡眠によって
脳から排出される仕組みになっているようなのです。

ですから、よく寝ることが脳に老人斑を作らない
対策です。
ところが、年をとると眠ることが難しくなります。
患者さんからも様々な訴えを聞きます。
「寝つきが悪い」「夜半に目が覚めて眠れない」
「夜間頻尿で何度も起きる」

睡眠を促進するのは松果体ホルモンである
メラトニンです。このメラトニンの分泌が年齢の
増加とともに減少するのです。

アルツハイマー型認知症では、さらにメラトニンが
減少してしまうので、睡眠が短くなってしまい、
それでアミロイドβを排出できないという
悪循環が生まれます。

睡眠は年齢によって、かなり変化します。

欧米の約3500人を対象にした調査では、
平均睡眠時間は5~10歳では8時間以上ですが、
30~65歳は6時間台、70歳をすぎると5時間台でした。

ですから、年をとったら8時間睡眠を目指す
というのは、もとより無理があるのです。
睡眠量が減って、アミロイドβが沈着するのは、
ある程度、目をつぶらなければならないの
かもしれません。

でも、ひとつ朗報があります。

昼寝が認知症予防にプラスに働くというのです。
つまり、夜に眠れない分を昼寝でカバーすれば
いいのです。

ただし、寝すぎはよくありません。
60分未満の昼寝はアルツハイマー型認知症の
発症リスクを下げ、60分以上はリスクを
高めるというデータがあります。

ちなみに私自身は、長い間、午後9時半就寝で
午前3時起床の5時間半睡眠でした。
3時半すぎには病院に出かけて、仕事を始めます。

午前中の外来診療中に睡魔に襲われると、
机の上に両足をのせて、仮眠をとることにしていました。
5分寝るだけでも、頭がすっきりします。

ところが昨年、病院の近くに転居して睡眠のパターンが
変わりました。
睡眠時間が1時間のびたのです。
そうなると午前1時半ぐらいに小用のために
目が覚めます。
前の方がよく眠れていたかもしれません。

やはり、それぞれに自分に合った睡眠のパターンを
見つけるのが大事です。
眠れない人は睡眠薬を飲んでもいいのです。

対談した読売新聞グループ本社主筆の渡邉恒雄さんは
70年にわたって毎日、睡眠薬を飲み続けている
とおっしゃっていました。

睡眠薬でしっかり寝ているせいか、渡邉さんには、
認知症が入る隙がまるでなさそうでした。・・・



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タクシーの中でお客さんとどんな話しをするか、?

平均で10分前後の短い時間で完結する話題と言えば
やはり天気の話しになります。
今日の福岡は台風の余波で朝から断続的に
激しい雨が降っていました。

午後も遅く、駅の近くの整骨院からそのおばあちゃんを
お乗せした時も・・・・。
「どちらまで行きましょう?」
「近くて悪いけど五条(太宰府市)の○○薬局まで
お願いできるやろか」
「了解しました」

普通に走れば10分ほどの距離です。
「よく振りますねー」
「やっぱり台風の影響やろうか」
「四国や近畿は大変みたいですよ」
「福岡は被害が少なくてな有難かよ」

※福岡は去年から台風の直撃が無い。
「オオカミ少年の話しみたいに、来る来るって言われて
来ないとだんだん警戒しなくなりますよね」
「そういう時が本当は一番危なかとよ」
と、ここまでは最近の定番の流れです。

車は若干の渋滞の中を増水した川に沿って
走っていました。
「昔な、私がまだ小学校の三年生やった頃、
台風でこの川が氾濫した事があったとよ」

「はあ…」
「家の台所、その当時は土間やった所に水が
入って来てな、母親が学校に行って人を呼んで
来なさいって言うとよ」

(長くなりそうな予感)
「その母親は継母で厳しい人やったけん、私は
逆らえんで雨風の中に飛び出したと」

「ほほう‥‥」
「ちょうど今ぐらいの時間やったけど空はもっと暗くてね、
どこが川なんか分からんくらい辺り一面水浸しやった。
途方に暮れたけど、家に戻ると叱られるって
わかっとったからな、

もう無我夢中で土手をよじ登って、何度も
吹き飛ばされそうになりながら学校に向かって
走ったとよ。校舎の裏の崖を今度は半ば流されながら
下って、やっと学校にり着いた時には辺りは
もう真っ暗やった…」

車は五条の通りをノロノロと進んでいます。・・・

台風で学校に残っていた先生達は職員室に
駆け込んで来た彼女を見て驚いた様子でしたが、
彼女が事情を話すと数人の男性教師が合羽を着て
外に走り出して行きました。

「よくここまで来たね」
「お母さんが寄こしたの?」
「そう…大変だったわね」
残った先生達が彼女を労ってくれました。

皆彼女の家の事情は知っていたようで、
(可哀想にこんな小さな子を台風の中外に出すなんて)
と言う気持ちだったのでしょう。

中でも一人の女性教師が、
「T子ちゃん こんなに濡れて 頑張ったね!
辛かったね でもお母さんを悪く思わないでね」
と抱きかかえるようにして彼女の身体を拭いてくれました。
「有り難くてね涙が止まらんかったよ」

・・・あと1つ角を曲がれば薬局が見えてきます。
(そろそろ切り上げ時かな)
僕は、「先生の恩って有難いですね」とかなんとか、
無難な合いの手を入れて話しを終わらせようとしました。

しかし、次の彼女の一言で言葉が出なくなりました。

「後で判ったんやけどな、その時の女の先生って
いうのが私の本当のお母さんやったんよ」

車は薬局の駐車場で停止しました。・・・

「ごめんな運転手さん、年寄りの話しに付き合わせて」
「いえ…」
「いくらかな」
「920円です」
千円札を出して
「お釣りはいらんからな、コーヒー代にもならんやろうけど」
「ありがとうございます」

足を庇いながらうつむき加減に降りていった
おばあちゃんの顔は見なかったけど、
泣いているのは声でわかりました。
顔を見れなかったのは、私も泣いていたからです。


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2018年10月 6日 (土)

妄想劇場:thi ライフ

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恋はまことに影法師、いくら追っても逃げていく。
こちらが逃げれば追ってきて、
こちらが追えば逃げていく。
  ・・・(シェイクスピア)


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「私たち、結婚しました!」・・・

続けて届いた2通の結婚報告はがき。
お葬式に参列することのほうが増えていたというのに、
まさか同年代である50代の友人から結婚話を
聞かされるとは。・・・

もしかして、と調べたところ、ここ20数年で50歳前後の
結婚増加が判明。総数から見れば少ないものの、
“50歳からの結婚”が増えていることは間違いないようだ。
2度の乳がんを乗り越えて48歳で結婚し、人生の新たな
扉を開いた小田美代子さん(仮名・54歳・会社員)
の場合・・・。

最初の乳がんが見つかったのは37歳のとき。
右の乳房に違和感を覚え検査したが、結果は「異常なし」。
ほっとしたのも束の間、そのわずか1カ月後、
会社の健康診断で異常が見つかった。

「1カ月前の検査では問題がなかったと伝えたんですが、
それでも専門病院での検査を強く勧められました。
でも、このときは、まだそれほど不安は感じてなくて、
数日後、軽い気持ちで受診しました」

結果は乳がんの疑い。すぐに細胞検査を受けたが、
判定がグレーゾーン(判定不能)だったため、
さらに詳しい検査に。ところが2回目も、3回目も、
さらに4回目もグレーだった。

「こうした例はあまりないようで、担当医が乳がんの
権威である先生に紹介状を書いてくれて、
がん専門病院でさらに詳しい検査をすることになりました」

この間、約3カ月の時間を要した。

「度重なる検査と結果待ちに生きた心地がしませんでしたね。
その間も不安を取り除くためにさまざまな医学書を
読みましたが、かえって不安は増すばかり。

心身ともに疲れきっていましたが、そんなときでも
『結婚していればよかった』とは思わなかった。
それよりも、つき合いの長い信頼できる女性の友人たちが
頼りでしたし、相談にのってもらいました」
検査結果が出る日は、さすがに前日から眠れなかった。

検査結果はやはり…

「結果は乳がんでした。覚悟はしていたつもりでしたが、
改めて“がん”という病名をつきつけられ、
本当に落胆しました。
その一方で不思議と冷静に先生の説明を聞いている
自分がいましたね」

そうは言っても「なぜ自分が?」という気持ちは消えず、
日が経つにつれ、落ち込んでいくばかりだった。

「即入院・手術を勧められましたが、すぐ決断
できませんでした。というのも、最初の検査で
『がんの疑いがある』と言われた日から、親には言わず、
すべてひとりで受診を続けてきましたから。

でも、さすがに今回は黙っているわけにはいきません。
『親にどう伝えるか』それだけを考え、帰路に着きました。
でも、家に着いても玄関のノブがつかめなくて、
情けない気持ちでいっぱいで、涙が止まらなくて……。

どう伝えたのか、記憶がありません。
でも、両親のものすごくがっかりした切なそうな顔、
その後、『一緒に頑張ろう』と言ってくれたことだけは、
はっきりと覚えています」

その後も気持ちの整理がつくまで入院を
グズグズと引き延ばしていた小田さん。
病院からも何度も催促があり、半年ぐらい経った頃に
ようやく腹をくくった。

「入院してから、再度検査したところ担当医が
『そんなに悪さするがんじゃないかもしれない』と。
その言葉だけが頼りでしたね」

先生の言葉通り、比較的おとなしいがんだった。
手術は無事成功し、経過も順調。2週間の入院を経て
退院し、3カ月後、仕事へ復帰を果した。

左乳房に異常が、そしてリンパへの転移… 

手術から5年。再発もなく、完治のお墨つきをもらい、
安心していた8年目、46歳のとき定期健診で今度は
左胸にがんが見つかる。
死への恐怖で押しつぶされそうでした・・・

「前よりもショックが大きかったですね。
『仕事や家族はどうなるのか』
『どれだけ親不孝な娘なのか』、
そして肉体的な女性としてのあきらめ、生命がしぼんで
いくような死への恐怖が怒涛のように押し寄せてきて、
しばらくは何も考えられませんでした」

さらに追い打ちをかけるように転移が…

そして、リンパへの転移が判明。抗がん剤による
治療が決定した。
「転移がわかったときは今までの人生で最大に
落ち込みました。

『どうして、どうして、なんで私ばっかりこんな目に
合うんだろう』と胸が押しつぶされそうで、
涙が止まりませんでした。
半ば自暴自棄になり、すべてにやる気をなくし、
誰にも会いたくなかったです」

そんななかでも、励まし続けてれくれた両親や友人、
職場の上司、同僚の気持ちに応えようと、徐々に
前向きな気持ちになり、「治ったら、今まで
考えなかったこと、向き合わなかったことにも真剣に
向き合ってみよう」と思った。

そのひとつが結婚だった。

「20代、30代は仕事もプライベートも充実して、
毎日が楽しく、結婚しなくても一生生きていけると
思っていました。それが、2度目の乳がんを
告げられたことで、
『このまま命を終わらせてはいけないんじゃないか』
と思い始め、今まで考えもしなかった結婚についても
考えてみようと思うようになりました。

当時、つき合っている彼はいなかったんですけどね(笑)」

いつもさりげなく励まし、支えてくれた同僚が今の夫
「抗がん剤治療が終盤にさしかかった頃、ある同僚が
よく食事に誘ってくれるようになったんです。
いつもさりげなく体調を気遣ってくれ、私の愚痴も
黙って聞いてくれた同僚。

それが今の夫です。でも、そのときは、まさか自分が
この人と結婚するなんて思ってもみませんでした。
『親切な人だなぁ』と思ったぐらいで、恋愛感情も
ありませんでしたから」

小田さんと彼は別の部署でそれぞれが課長という
役職に就いており、ミーティングなど仕事のやり取り
だけという間柄だった。

「もちろん、顔も名前も知っていましたが、
ふたりで食事に行ったことはありませんでした。
ですから、最初、誘われたときには、びっくりしました。

そして、何回かふたりで食事に行き、いろんなことを
話すうちに、『なんてやさしく、思いやりの深い人なんだろう』
と思うようになり、『また一緒にごはんを食べたいな』
という気持ちに自然となっていきました」

でも、そのときも恋愛対象として、ましてや
結婚相手として考えてもいなかったという。
しかし彼の方は違った。小田さんとの結婚を
しっかり考えていたのだ。

プロポーズされるが、迷い…

「7カ月の抗がん剤治療を乗り越え、定期検査でも
『異常なし』と言われた日に、また食事に誘われ、
プロポーズされました。

突然のことでびっくりしたのと、うれしいのと
2つ気持ちが交差し、自分の中でじっくり考える
時間が必要でしたね」

それから数日は、今までの彼の言動を思い返す日々。
どん底にいるときも励まし、見守ってくれていた
彼のやさしさがありありと蘇ってきたが、
結婚となると、躊躇してしまう。

「大病を2度もし、両胸は人工乳房、髪はウィッグを
つけている自分。そして年齢的に子どもも無理。
しかも彼は私よりも6歳年下。
『本当にこんな自分でいいのだろうか?』

『彼には、もっとふさわしい人がいるのではないだろうか?』
とグルグルと同じことを考えました」

信頼している女性の先輩に相談すると、
「あなたの病気のことや年齢のこと、いろんなことを
承知している上で結婚しようと言ってくれているんだから、
人柄は絶対に間違いない。とてもいいお話じゃない』
と背中を押してくれた。

そして、再度、今までの彼の言動を思い返した。
自分の病歴や長所、短所を含めた性格、
これからの可能性などを話しても、彼の態度は
一切変わらなかった。
そのことが結婚への決定打になり、彼の誠実さに
応えたいと思った。

「結婚の意思を伝えると彼は、とてもうれしそうでした。
『闘病中は彼のこんな笑顔に支えられてきたんだな』
としみじみ思い、穏やかで温かい気持ちになりました。

2度目の乳がんがわかったときに、これを克服したら
結婚も考えてみようと思いましたが、まさか自分が
本当にするなんて思わなかったですね。

人生はよくも悪くも自分の思うようにならない。
だから、大変ですし、そして楽しい。
この縁を大切したいと思いました」

こうして48歳で人生の新たな一歩を踏み出したのだ。
・・・



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曲がってしまってから、国男は「あっ」と思った。

この街に引っ越して来て15年になる。
ちょっと無理をしてローンで購入したマンションから
最寄の駅までは徒歩で7分ほど。

毎朝、その駅までは同じ道のりを歩いていた。
家を出ると左に曲がり、商店街を真っ直ぐに突き抜ける。
公園の角を右に曲がってしばらく行くと駅に出る。
別に、それが近道という理由からではない。

ただの習慣だ。
一番最初に、この街に来た時と同じ道筋を
歩いているだけだった。 それが今日はどうしたことか。
商店街の途中で、八百屋さんの角を右に
曲がってしまったのだ。

かといって、それが遠回りになるわけではない。
200メートルも歩けば線路に突き当たる。
そこを再び左に曲がり、線路伝いに行けば駅に出る。
しかしそれは、15年間で初めてのことだった。

国男が「その角」で曲がってしまったのには
理由があった。 それは今朝、自宅のトイレで見た
日めくりカレンダーだ。

「心のスイッチを入れる今日の言葉」
というタイトルで、毎日違う言葉が書かれてある。
妻の美佐子が友達からもらって来たものだ。

最初は、「トイレでお説教かよ」と思っていたが、
なかなか心にジーンとくるものがあり、
毎朝見るのが楽しみになっていた。

「背筋をピンとする。  
すると、心の背筋もピンとなる。」
ちょっと仕事で疲れているときには、この言葉に
励まされた。

「心のベクトルを明るい方へ向けよう。  
ほっておくと、心は暗い方へと傾くものだから。」

これなんか、「ホントにそうだなぁ」と頷いてしまった。
もともとが生真面目な性格。
そのため、物事を楽天的に考えることができない。
ついついマイナス思考になってしまうのだ。

目にするだけで朝からなんだか元気になれる気がして、
「今日の言葉は何だろう」と妻よりも先にめくるのが
楽しみになってしまった。
そして、今日の言葉というのが…。

「 駅までの道のり。  いつも同じ角で曲がっていたら、  
いつもと違う角を曲がってみない?  
何気ない習慣を変えると、何かが起きる」

かばんを手にして家を出た時にはもう忘れていたが、
ふと足が動いてしまった。
そして気が付くと、 初めて通る路地を歩いていた
というわけだ。

妙なもので、国男は左右の家並みをキョロキョロ
しながら歩いた。 まるで旅をしているような新鮮な
心地がした。 家の近所だというのに、知らない風景だ。

「え? こんなところに喫茶店があるゾ」
「この家は違う名前の表札が二つ掛かっている。  
娘夫婦と二世帯が暮らしているのかな」
などと、心の中で呟きながら歩いた。

国男は、ふと足を止めた。

(おや?)鼻をくすぐる、良い香りがした。
「沈丁花だ!」幼い頃に住んでいた、
故郷の庭にも咲いていた。 この花が咲くと、
暦の上だけではなく、本当に春が来たなぁ、
と思ったものだった。

辺りを見回すと、匂いの元はすぐに見つかった。
生垣からいくつもの紫色の小さな花弁を散りばめた
沈丁花が顔を覗かせていた。
国男は歩み寄り鼻を近づけた。
鼻腔に、ふわっと甘い香りが広がった。

「いかん」

腕時計をチラッと見て、駅へと駆け出した。
その日は、厄日といってもいいほどのトラブル
続きだった。大口得意先からのクレームに、
ライバル他社の食い込みが発覚し、
見積もりの書き直し。部下の伝票ミスで、
経理からの呼び出しも食らった。

その上、上司である斉藤部長からは、
目標数値が甘いとお叱りを受けた。散々である。

午後4時。
山積みになった机に戻り、「どっこいしょ」と声を出して
椅子に座った。 疲れた。心底疲れていた。
それでも一つひとつのトラブルを尻拭いして、
ほっと一息ついた国男だった。

「お疲れさまでした」

目の前にコーヒーが置かれた。 顔を上げると、
事務職のベテランの大谷晴海だった。
「今日は一度も怒鳴りませんでしたね、課長」

「え!?」
「えっ、て。ご自分で気付かれなかったんですか。  
こんなにトラブルだらけの日も珍しいのに、
課長の怒鳴り声が一度も聞こえませんでしたよ」

「そうだったかい」
晴海はにっこり笑って席に戻った。
国男は、コーヒーをすすりながら首を傾げた。

「オレって、いつもそんなに怒鳴っているのかな」
しかし、今日は一度も怒鳴らなかったという。
こんな忙しい日に。 何がいつもと違うことが
あったかな・・・。

そうだ、思い当たることと言えば。 今朝の路地で
かいだ沈丁花のせいか。
なぜ、沈丁花を見つけたんだっけなぁ。
そうそう、あの路地に入り込んだのは、
いつもと違った角で曲がったからだ。15年ぶりに。

コーヒーの香りの中で、国男はぼんやりと考えた。
「明日は、どの角で曲がろうかな」
明日もまた、何かに良いことに出会う気がした。
・・・


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2018年10月 5日 (金)

韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)

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アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kensin1

メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
良いかな・・・



Kansin

春秋末期の楚は、愚者たちによって
統治されていた。
能者は他国へ流れ、賢者はそねまれ死を
強要される。
しかし変革に立ち上がった者たちにも行動に
統一性は見られないのであった。

ある者は祖国を改革しようとし、ある者はあえて
祖国を滅ぼす、と主張する。
彼らはそれぞれに信念があり、正しかった。
誰が間違っていたというのか。 ・・・



韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)
:罪人を将とす



先に知る者は鬼神に取るべからず。
事によるべからず、度どに験けみすべからず。
必ず人に取りて敵の情を知る者なり。
(先知者不可取於鬼神、不可象於事、
不可驗於度、必取於人、知敵之情者也。)

…あらかじめ知ることは、鬼神や占いで
できるものではなく、過去の出来事によって
類推できるものでもない。

また、自然界の出来事によって
ためしはかられるものでもない。
必ず人に頼ってこそ、敵の状況が知れるのである。

孫武は戦いにおける原則として、それまで
通例であった卜占ぼくせんを否定し、間諜を
放つことを提言した。

運気が満ちるなどという曖昧な理由付けを拒否し、
人の力による確かな情報を信じたのである。

六はこれに先立つ戦いにより、荒廃していた。
奮揚が燃える水によって呉を撃退したあと、
未だ復興半ばだったのである。

「決まった。六を占拠したのち、そこを拠点として
灊せんを攻め落とす」楚の地理を熟知した伍子胥は、
やはり間諜から得た情報をもとに、そのように
決定を下した。

彼らはこれを即座に攻め落として占拠したのち、
再びためらいもなく撤兵したのである。

またも包胥は戦場に駆けつけることができなかった。
「どこか……軍を特定の地域に張り付いた方がいい。
郢で大規模に軍隊を編制し、国境付近の各地に
振り分けるのだ。

呉軍の狙いは、我々を奔命に疲れさせる
ことにあるような気がしてならない」
奮揚は、そう提言する。

しかし、彼には一抹の不安があった。
あるいは軍を分散させることこそ、呉の真の
狙いなのではないか。
しかしたとえそうであっても、いまは代案が
見つからない。

楚は対処しているばかりで、常に仕掛けるのは
呉の側であった。徐々に国土が狭まりつつある
楚としては、能動的な行動をとらざるを得ない。

逆に呉の領地に侵攻するか。それが
いいかもしれない。しかし……
包胥どのがそれをよしとするだろうか。
奮揚は包胥ならば必ず反対するだろう、
と思いつつも、自らの思いを言葉にした。

「攻撃は最大の防御ともいう。
思い切って呉領に攻め入ることができれば、
ちょこざいな呉の行動を止めることが可能だ。
もし君がそのことに戸惑うのなら、私から
王さまや太后さまに献策しよう。構わないか」

この奮揚の言葉に、意外にも包胥は応じた。
しかしそれは条件付きである。

「ああ、奮揚どのの言う通りにするしかない。
我々は、呉に比べてあまりにも無策だ。
過去に手に入れた勢力にあぐらをかき、
それを平和に維持する努力を怠ってきた

酬いが、いまになって現れてきているのだ。
このままでは楚の国民たちが、国の無策のために
次々と死ぬ羽目になる。

人々のためにも、それを止めなければ……。
しかし、そのためには逆襲があることも
覚悟しておかねばならない。
我々は郢の防備に回ろう」

包胥は、呉に攻め入るのは自分たちの役目
ではない、と言うのである。では、誰にその役目を
負わすのか、ということは当然な疑問であった。

「では誰にその役目が与えられるのか」
その奮揚の問いに、包胥は迷わず答えた。
「先の王さまの一族の者に、その役を担ってもらう。

彼らは、与えられた利益に対して、相応の
責任を果たしていない」
「その辺りは、包胥どのに任そう」このときの
奮揚には、包胥の真意が読み取れなかった。

しかし反対する理由があるわけでもない。
素直にその言に従った。

「太后さま、お元気そうでなによりです」  
包胥と奮揚は連れ立って参内し、太后である
嬴喜を訪れた。

「そんな呼び方はよしてください。どうか喜と呼んで。
……私は自分の名が嫌いですけど、あなた様に
呼ばれるのであれば愛着がわきます」
嬴喜は静かにそう答えた。

まだ、彼女は自分のおかれた立場に
安住していない。
包胥はそれを察し、同情する表情を浮かべたが、
口に出した言葉は型通りのものであった。

「そんな……めっそうもございません。太后さま」
包胥は礼儀正しく、しかも意固地になった
かのように述べた。

嬴喜の傍らに控えた紅花には、その様子が
可笑しく感じた。
お兄さまの魅力は、こういうところかしら。

堅物なようでいて、純朴な少年のようでもあり、
それでいて大人なのである。
誰もが甘えることのできる頼れる存在でありながら、
どこか頼りない一部分がある……
その人間くささが大きな魅力であることは、
妹の紅花も感じるところであった。

「紅花の宮殿での態度に、落ち度はございませんか」
「いいえ。大変よくしてくれています。
いまでは、この私の一番の話し相手ですよ。
あなた様の話を彼女の口から聞くことが、
いまの私の最大の楽しみなのです」

「それは……お恥ずかしい限りです。
紅花、太后さまに妙な話をしてはいないだろうな」
包胥に問われた紅花は微笑とともに肩をすくめ、
茶目っ気に溢れた様子で嬴喜と顔を見合わせた。

嬴喜の楽しそうな態度から、ふたりの間の
わだかまりない関係が見てとれる。
包胥は安心して話を進めた。

・・・つづく



愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る・・



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ささぐり南蔵院二十三世住職・林覚乗さんの
講演より抜粋。 ・・・

私は、日本航空のサービス担当の講師をしています。
ある時、ベテランの機長さんに
「今日は若いパイロットの人たちに話をしに
行くんですが、伝えたいことはありますか?」
と聞きました。

機長さんは、「我々がどんなに訓練を積んでも、
汗と油にまみれて整備をしてくれる整備士の人たちを
尊敬し、信頼することができなければ安心して
空を飛ぶことはできないんです。

整備士の人たち対する感謝の気持ちは絶対に
忘れないように伝えて下さい」とおっしゃいました。

次に、15年間、客室乗務員をされてきた方に、
「心に残る出会いはありますか?」とお聞きしました。
その方は、涙を浮かべられながらこういう
お話をして下さいました。・・・

4年ほど前の成田発バンクーバー(カナダ)行きの
機内での話です。

ある中年の男性が、寂しそうな、不安そうな、
複雑な顔をして窓の外を見つめていた。

「カナダに大きな仕事があって不安なのだろうか」
「単身赴任で家族と離れ離れになって寂しいの
だろうか」 と思い、食事のサービスの時に
「○○さん、どうぞ」と、 名前を呼んでサービスを
しようと思い、乗客名簿を広げました。

するとその席は「ミスター&ミセス」になって
いたそうです。
「あれ? 奥様がいらっしゃるんだ」と思ったけれども、
奥様の姿は見えない。

「上昇中でまだシートベルト着用のサインが
出ているのに、   奥様はトイレに行かれたのかな?」
と思い、 自分のシートベルトを解いてその座席の
ところに行き、

「奥様はどこに行かれたんですか?」
と聞こうとした瞬間、言葉が出なくなってしまいました。

空いた座席には黒いリボンをした遺影が飾ってあり、
その遺影にシートベルトがしてあったんです。
でも、座席のところまで来てしまったので、
本当は聞いてはいけないんですけど、

「これは奥様ですか?    如何されたんですか?」
と思わず聞いてしまいました。  

するとその男性は、「25周年の銀婚式のお祝いに、  
家内と2人でカナダ旅行に行く予定でした。
ところが脳内出血で1カ月前に亡くなってしまったんです。

旅行をやめるつもりだったのですが、子どもたちから
『お母さんが待ち望んでいた旅行なんだから、
自分たちが一番好きだったお母さんの写真を
大きくして連れていってあげて』
と言われたんです」とお話されました。

その客室乗務員は、 機内電話で「何かいい
アドバイスはないですか?」と機長に聞きました。
機長は、「そこに今、奥様が生きて座っていらっしゃる
と思ってサービスをしてあげて下さい」
と言いました。

その男性に聞くと、「女房は赤ワインが好きだった」
と言われるので、 そのことを報告すると、
「私からのお祝いで、一番いい赤ワインを1本
出してあげて下さい」と機長が言われました。

赤ワインを注いだグラスを遺影の前に置き、
もう一つをご主人にお渡しました。、
「これは機長からのお祝いのワインです。
どうぞ乾杯してお飲み下さい」
と言いました。

料理も、ちゃんとレンジで温めて持っていきました。
奥様の遺影に向かって、「これはこういう料理です。
これはこういう料理です」と説明しながら出しました。

最後に乗務員みんなで20本ぐらいの花束を作り、
「これは、私たち乗務員すべてからの銀婚式の
お祝いです」と言って渡しました。

ご主人は、カナダに着くまでずっと泣いておられました。
飛行機から降りていかれる時に、 乗務員に向かって、
「素晴らしい銀婚式の旅立ちになりました。
本当にありがとう」とおっしゃったそうです。

「その姿を、私は今でも忘れることができません」
と、彼女は話して下さいました。

ささぐり南蔵院二十三世住職・林覚乗さん

「あなたたちは素晴らしい供養をしましたね」
亡くなった方が生きてそこにいるという気持ちで
供養をするというのは、よっぽど心が豊かじゃないと
できないし、 後で褒めてもらえるだろうとか、
これで出世しようという損得が入ったらできません。

「あなたたちはそういう損得で考えなかったから
できたんですね」と言いました。

さて、私がお話を始めてから1時間が経ちました。

この1時間、皆さんは座っている椅子に
支えられました。
私たちはそういういろんなものに支えられている、
ということに気が付くことが大切です。

いろんなものに「ありがとう」が言える自分になって
下されば、 素晴らしい人生を送っていくことができます。

温かい気持ちを家に持って帰って、 それを家族の
方々に伝えていただければ、 今日の出会いが
素晴らしいものになることでしょう。・・・


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2018年10月 4日 (木)

韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)

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アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい



Kensin1

メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
良いかな・・・



Kansin

春秋末期の楚は、愚者たちによって
統治されていた。
能者は他国へ流れ、賢者はそねまれ死を
強要される。
しかし変革に立ち上がった者たちにも行動に
統一性は見られないのであった。

ある者は祖国を改革しようとし、ある者はあえて
祖国を滅ぼす、と主張する。
彼らはそれぞれに信念があり、正しかった。
誰が間違っていたというのか。 ・・・



韓信外伝 -春秋の光と影(呉の興隆)
:罪人を将とす


包胥は、目の前の光景を惨状と捉えた。
しかしその光景は、闔閭や伍子胥にとっては
勝利の証である。

敵将の首を掲げ、それを衆目に晒すということは、
一方には口惜しく、もう一方には清々しい
行為なのである。

しかし、殺された本人に思いを寄せる者はあまりない。
このとき包胥は、鐘吾の城門に晒された属庸の首級を
奪おうとして、あえて攻撃を仕掛けた。

呉軍の主力はすでに撤退し、城内には守備隊が
残されているだけである。
しかし包胥は、城を取り返そうとはせず、城門付近の
敵兵を蹴散らすのみに留めた。
属庸の首を奪還することだけを目標としたのである。

そしてそれに成功すると、鉾を収めて撤退した。
「危険を犯して、わざわざ首を確保したのはなぜだ」
奮揚の問いに、包胥は真剣な表情で答えた。

「こういうことこそ、私が追い求めている『道』なのだ。
もちろん、この鐘吾には属庸以外に命を落とした
者がいるだろう。できることならそのすべてを保護し、
安全なところに葬ってやりたいが……
いま私にできることはこれだけだ。

生前の誇りや人格は無視され、切り落された
首が晒されるなんて……あまりにひどい。
奮揚どのは、そう思わないか」

「しかし、戦争とはそういうものだよ」
「だからこそ、否定したいのだ。
無論、私も自分の力はわかっている。
しょせんは蟷螂とうろうの斧を振りかざして
いるに過ぎない……

だが、私はそれを振りかざし続ける男で
ありたいのだ」
奮揚は納得した。いかにも包胥らしいことである、と。

「奮揚どのに聞きたい。呉軍はこのまま楚の内部に
侵攻するつもりだろうか」
包胥は聞いたが、その答えは明らかである。
呉軍の主力は、すでに撤退していた。

「次にどこに現れるかを聞きたいのだろう。
それは私にも、わからぬ。しかし明らかなことは、
我々を翻弄することが、彼らの狙いであること。
次に現れる場所を特定させず、我々の兵力を
分散させることだ」

「だがそうとわかっていても、我々には国境付近の
警戒を解くことができない。
それらを見放して郢の防衛に集中すれば、
国を守ること自体はできよう。
しかしそれは人道上、許されぬことだ。
我々が守るべきは、あくまで人であり、国という
仕組みなどではない」

包胥は相手の意を知りながら、あえてそれに
正面から付き合うというのである。
奮揚はそれに理解を示したが、将来への
不安を感じたことも事実であった。

「包胥どのの言うことはわかるが……
長い目で見れば、国を守れなければ人々の
暮らしも守れない。あえて言わせてもらうが、
君の愛する嬴喜さまも守ることはできないぞ。
彼女は……言うまでもないことだが、
国の中心にいるのだ」

「わかっている。そのときのことも考えてある。
人を救うものは人であるが、国を救うものも人だ。
人の縁こそが、国を救う。……

相手の意志が我々を奔命に疲れさすことに
あったとしても、最後には撤兵させる手段が、
私には残っているのだ」

包胥はそう言い、自信に満ちた表情を見せた。
絶対に成功する確信がありそうな表情のように
奮揚には見えたが、それがどのような
手段なのかを、彼は知らない。

年が明けて間もなく、孫武は闔閭を説き伏せて再び
楚に侵攻した。伍子胥ははやる気持ちを
抑えながらも、孫武の戦略に付き合っている。

「楚国の内部、奥深くに侵入する日はいつになるのか。
間違いなくその日は来るのだろうな?」

「いずれは来るさ。しかし、私がそう考える理由を、
君に知らせるわけにはいかない。……
これをもちうるに事を以てし、告ぐるに言を以て
することなかれ(犯之以事、勿告以言)、と言うだろう? 

将たる者の仕事は、任務だけを知らせることだ。
あまり仔細を語り過ぎると、人は得られる
利益ばかりでなく、その危険をも知ることになる。
人はそれによって尻込みし、その結果、
命令が徹底しなくなるのだ」

「それは時と場合によるだろう。ましてそれは主に
兵士に対して、将がとるべき態度だ。
私には教えてくれてもいいだろう」

伍子胥は恨めしそうな顔をして、そのように言った。
これは、すでに軍事の主導権が孫武の
手にあることを認めたことを示している。

「まあそう言うな」孫武はそう言って、
取りあおうとしない。しかし、伍子胥もそれ以上
言おうとはしなかった。

彼らが目指す次の目標は、六りくであった。
なぜそう定めたかは、間諜の活躍による。
孫武は楚の国内の各所に間諜を送り込み、
民衆に紛れさせた。その報告により、もっとも
防備態勢の手薄なところから攻撃することに
したのである。

彼れを知りて己を知れば、百戦してあやうからず、
彼れを知らずして己を知れば一勝一敗する。
彼れを知らず己を知らざれば、戦う毎に
必ずあやうし。

(知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、
一勝一負。不知彼、不知己、每戰必敗。)

敵を知り、自分をわきまえて戦えば百戦しても
危ういことはないが、自分をわきまえていても、
敵を知らなければ勝敗は半々である。
敵も自分も知らなければ、戦うたびに
必ず敗れる。

これは、孫子十三編の「謀攻」にある一文である。
孫武は、自軍と同様、あるいはそれ以上に
敵を知ることを重要視した。そしてその方法も
特徴的である。

・・・つづく


愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る・・


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学生時代、私は自転車で旅行するのがとても
好きでした。
大学二年生の夏。地元岐阜を出発し、鹿児島の
志布志へフェリーで渡り、 一日かけて、佐多岬まで
自転車を走らせました。

そこから、私のちょっとした冒険がはじまりました。
目指すは、北海道宗谷岬!
7月の、まだ薄暗い朝、
独り静かに、佐多岬をスタートしました。

まず九州を熊本経由で縦断し、下関に渡り、
そのまま日本海側を北上。
新潟の糸魚川から内陸へ入り、長野へ。
長野では、志賀高原を半日かけて登り、
群馬側へ降り、仙台を目指します。

仙台に着くと、三陸海岸に沿ってさらに北上し、
遂に本州最北端の大間崎に到着。
この間、約3週間。
ほとんどが、橋の下や海岸での野宿だったので、
TVも新聞も読んでいません。

「天候が怪しいな…」 と思いつつ、
私はフェリーに乗り、函館を目指します。
まさか、台風が来ていることも知りませんでした。

時間はもう暗くなった夜でしたが、
北海道は、その時が初上陸だったので、
とてもワクワクしていました。

しかし、到着した時、愕然とします。
外は暴風雨。。。
聞けば、台風が近づいているという。
「やばいな、宿(寝るスペース)を探すか…」

暴風雨の中、雨合羽を着て、
自転車を走らせます。
風は思った以上に強く、 なかなか前に
進みません。

北海道のバス亭は小屋になっていると
聞いていたので “寝心地のよさ”そうな
バス亭を探しました。

しかし、夜間のため、
なかなかみつけることができず、
2、3時間走り続けました。
そして、ようやく見つけたバス亭で、
一泊することにしました。

自転車をバス亭の中に入れ、 寝袋を
サイドバックから取り出し、 ベンチに
横になります。
外はスゴイ風と雨の音です。
なかなか寝付けません。

そんなとき、突然バス亭のドアが開きました!

「おい、にいちゃん!」
私は飛び起きました。
野宿生活が長いので、 今までにも、いろいろな
ことがありました。

寝ていた公園を追い出されたり、
子どもにロケット花火をテントに投げ込まれたり、
港では暴走族に絡まれそうになったり…。

私は、突然の声に、つい「すみません…」
と 言いかけた瞬間、
「うちに来いや! きょうは台風が来ているから」

まったく見ず知らずのお兄ちゃんですが、
私は不思議になんのためらいもなく、
その場に自転車を置き、 身一つでお兄ちゃんの
車に乗りました。

車の中で、 バス亭の中に自転車ごと
入れていたのに、 どうしてわかったのか、
聞いてみました。

「道路ですれ違ったのを見たのよ」
…。
ということは、Uターンして、 わざわざ探しに
来てくれたということです。

しばらくして、部屋に着き、 久々のお風呂に
入りました。
お兄ちゃんは独り暮らしのようです。
ご飯も腹いっぱい食べさせてくれました。

その晩は、すぐに寝たと思います。
翌朝、力がでるようにと、 ヒレカツを出して
くれました。

そのとき、少しだけ会話をしたと思います。
お姉さんが当時、岐阜に住んでいる
ということだけ、 覚えています。

そして、
「早くバス亭に戻らないと、 自転車が心配やな」
と言って、私を再び車に乗せて、 昨晩“出会った
”バス亭に行きました。

その途中、なんとお礼を言えばいいか、
ずっと考えておりました。

日本縦断をして、いろいろなことがありましたが、
さすがにここまでしてくれたのは、はじめてです。
到着する直前、 勇気を振り絞って、

「本当にありがとうございました。。。
ぜひお礼がしたいので、
お名前と住所を教えてもらえませんか…」
と言うと、お兄ちゃんはこう言いました。

この時の“約束”が私はまだ果たせないでいます。
「いいよ。 もし君が、同じようにがんばっている
奴を見かけたら、 同じことしてやりな」

そう言って、私を車から降ろし、 同じ道を
引き返して行きました。

私はこの旅行で随分成長した、とオヤジが
言います。
刺々しく、血の気の多い人間でしたが、
少しは人の親切が理解できる人間になったと。

十数年たった今も、 恩返しの輪が私で
止まったままです。・
・・


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2018年10月 3日 (水)

妄想劇場・歌物語

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ちあきなおみ 雨に濡れた慕情 吉田旺との出会い


コロンビアレコード専属歌手『ちあきなおみ』を
デビューさせるべく、瀬川三恵子を預かっていた
作曲家鈴木淳は、ポップス系の歌をメロディ先行で
曲を書き始めていました。

「♪ミシタシラシラドー、♪ミシラシラドラミー♪」・・・
ピアノに向かって弾いてみると、「よし!」となり、
一気に書き上げました。

さて、歌詞をつけなければなりません。
どの作詞家にお願いしようか考えあぐねていた折り、
恩人でもある知人からある一人の新人作詞家の
紹介を受けます。

この作詞家こそ、後にちあきなおみとは切っても
切れない関係になる、吉田旺でございました。
曲作りに際し、鈴木淳と吉田旺による幾度かの
キャッチボールの末に、ちあきなおみのデビュー曲
『雨に濡れた慕情』は完成しました。

瀬川三恵子から「演歌のコブシ」を取るレッスンを
重ねたやり方は、まず鈴木がワンフレーズを歌い、
彼女がその歌い方をなぞるように真似して歌う。

イメージ通りに歌えないときはそれを繰り返して
何度も修正すると言う方法でありました。
やがて自然と鈴木淳の頭の中には、
『ちあきなおみ』の声が刻まれておりまいた。

『雨に濡れた慕情』が完成した時には、
鈴木淳の中で、『ちあきなおみ』がイメージ通りに
この歌を歌っていたのでした。

レッスン同様に、鈴木がまず歌い、
ちあきなおみがなぞって歌う。
ワンコーラス通したあと、二人で顔を合わせて
微笑むことができました。

実はちあきなおみのデビュー曲はもう
1曲候補がありました。
『かなしい唇』という、コブシのない演歌風の曲でした。
当時のレコードは、A面とB面があり、どちらを
A面にするかなかなか結論が出なかったため、
両A面にしようかと言う方針もあったのです。

しかし、この『雨に濡れた慕情』の出来栄えに、
こちらがメイン曲に決まったのです。

この瞬間、同席し盛り上がっていた関係者ですが、
実はその時はすでに所属プロダクションも決っており
周囲の期待の大きさがわかりました。

因みに、この事務所にいた事務の女性は、
コロンビアレコードの坂田部長の姪で、
後の吉田旺夫人となった人でした。

この時代ならではの話ですが、無事、歌手
『ちあきなおみ』が出発したのでした。
・・・


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友人A(彼女)と歩いていたときに、
Aが財布を拾った。
中身は5千円ほどだったけど、カードなども
入っていた。

財布を拾った場所の近くに交番などが
無かったので、私はAに、「近くの店とかに
預ければいいじゃん」と言ったのだが、
Aは「交番に届けた方が良いと言った。

Aの言い分が正しいと私も分かってはいたので、
しぶしぶそれにつきあった。
交番に行きがてら、友人は小さい頃の
話をしてきた。

Aの家は、割と貧乏だった。そして、
親戚づきあいもあまりなく、お年玉をも
らったことがなかった。

毎年、冬休みがあけて周りの友人が
「いくらお年玉をもらった」という話で
もりあがっているのを、彼女は寂しい思いで
聞いていたらしい。

しかし、小学校5年になって、Aは初めて
お年玉をもらった。
「Aちゃんももう高学年だもんね」母親はそう言って、
お年玉をくれた。中身は千円。

周りの友達に比べて額は少なかったが、
実はAがあこがれていたのはお年玉をいれる
ポチ袋。年末に文房具屋さんなどに行くと
かわいいものがけっこう売ってて、スヌーピーや
キティちゃんなどのキャラクターのポチ袋が
欲しかったらしい。

母親が入れてくれたのは、Aがその当時
大好きだったケロケロケロッピのポチ袋だった。
Aはうれしくて、財布代わりの小さい巾着に、
千円とポチ袋を入れてランドセルにひっかけた。

お金を使うことなく、ずっとお守り代わりのように
それを持ち歩いていたそうだ。
しかし、ある日その巾着をなくしてしまった。

巾着自体、小学校の友達が北海道土産に
くれたもの。巾着、千円、ポチ袋と、Aの当時の
宝物三点セットをいっぺんになくしてしまい、
そりゃあもうパニクったそう。

とにかく、自分が歩いた道をくまなく探し歩いた。
しかし、みつからない。気がつくと、遅い時間に
なっていた。そういうとき、タイミング悪く雨とか
降ってくる。

巾着は布製で、もし見つかったとしても、
三点セットはぐちゃぐちゃになってしまって
いるだろう。Aは泣きながら家に向かった。

家に帰る道すがら、交番の前を通った。
傘も差さずに遅い時間、とぼとぼ歩いている
小学生に、交番のお巡りさんが気づいて
声をかけてきた。

「どうしたの?」
腰をかがめて聞いてくるお巡りさんに、Aは
感極まって号泣した。
お巡りさんは交番に彼女を入れて座らせ、
タオルを貸してくれ、お茶をごちそうになった。

泣きやんだAにもう一度理由を聞いてくる
お巡りさん。彼女は切れ切れに、宝物である
きんちゃくをなくしてしまったことを告げた。
お巡りさんはそれを聞くと、どんな巾着かと
聞いてきた。

どうしてそこまで聞いてくるのかと思いつつ、
彼女は「キタキツネの巾着」と答えた。
そしたら、お巡りさんは満面の笑みをAにむけた。

そして彼は、「ジャッジャジャーン」と口で
ファンファーレを言いながら、机の上の箱から
Aの巾着を出してくれたそうだ。

Aが驚いていると、近所のおばあさんが散歩中、
道に落ちていた巾着を拾って届けてくれたらしい。
おばあさん曰く、「小さい子供にとっては、これが
宝物かもしれないから」

まさにその通りだった。Aは目の前にある巾着が
信じられなくて、また号泣してしまったらしい。

「それ以来、落とし物は交番に届けることにしてる」
Aはそう言った。次の日、母親と一緒に拾ってくれた
おばあさんにお礼を言いに行ったそうだ。

おばあさんはお礼を言いに来たAをしきりに
褒めてくれて、孫にお年玉にあげる際に
買って余ったからと、キティちゃんのポチ袋を
Aにくれた。

交番に着いて拾った財布をお巡りさんに
渡した後に入ったスタバで、Aはその時の
ケロッピとキティちゃんのポチ袋を、財布から
大事そうに出して見せてくれた。

彼女はにこにこしながら、「今の彼氏、
そのばあちゃんの孫」と言った。
なんか、繋がってるんだね。人って。
・・・


運がいい人も、運が悪い人もいない。
運がいいと思う人と、運が悪いと思う人が
いるだけだ。・・・(中谷彰宏)


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2018年10月 2日 (火)

妄想劇場・歌物語

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「木下龍太郎」ー代表作
      
「忘れな草をあなたに」倍賞千恵子/菅原洋一
「夜汽車」北島三郎 「峠」北島三郎
「汽笛」五木ひろし 「淡雪の橋」鏡五郎
「あんたの花道」天童よしみ 
「鳥取砂丘」水森かおり「釧路湿原」水森かおり
「五能線」水森かおり

      
      
      
      
      
作詞論

「歌は三分間のドラマである」と言う名文句のように、
歌謡詩は短篇小説だと思っている。
従って歌詞にはドラマがあるように心掛けている。
また、その歌を聴いたり歌ったりする時に絵が
出て来るように心掛けている。


作詞家になったきっかけは?

出身地、栃木県の片田舎の小学校の先輩が
船村徹先生である。
先生に肖って、私も作詞家になろうと志した。


プロ、初作品について

石井千恵唄「東京はうそっ八」


作品を提供したいアーティスト

それぞれが個性があるのでプロ歌手全部。


あまり売れなかったが、私の好きなこの歌

長山洋子唄「遠野物語」


なぜ「詩を書くことを選んだか」

物を書くことが好きだから。長篇は不得手なので
詩を選んだ。


プロの作詞家になりたい人へのアドバイス

人真似ではないオリジナリティのあるものを
常に心掛けること。


「鳥取砂丘」・ 歌詞を見る・・・

「東尋坊」がヒットし、次も日本海側の場所を
舞台にして書いて欲しいとプロデューサーから
依頼を受けた。

20年以上も昔に初めて鳥取を訪ねた時、
昼食を取ったレストランのオーナーが、初めてならば
案内してあげましょうと わざわざ車で名所を
観せて下さった。
それを想い出し、迷わず鳥取砂丘を取り上げた。


私の好きなあのフレーズ

愛されぐせが いつしか付いて 愛することを 
忘れてた


プロフィール

本名:斎藤一夫
生年月日:昭和13年1月7日生
出身地:栃木県塩谷郡船生村(現:塩谷町)
詩歴
北耕一唄「東京キャラバン」のヒットにより、
キングレコード専属。

昭和43年3月より、14年間所属の後、フリー転向。

賞:
「釧路湿原」で、平成16年度「第37回日本作詩大賞」
大賞受賞、「第46回日本レコード大賞」金賞受賞。
「鳥取砂丘」で、平成15年度「第36回日本作詩大賞」
優秀作品賞受賞、「第45回日本レコード大賞」
金賞受賞。

その他
社団法人 日本作詩家協会 常務理事
カラオケ1ばん(テレビ埼玉)レギュラー審査員





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この日、営業のM部長は伝票の〆に追われていた。
部下であるYさん(女性)が自ら手伝ってくれたのだが、
ようやく片付いた時には時計の針も夜の11時を過ぎて
いたため、 部長はYさんを駐車場まで送って行き、
礼を言いその足で帰宅の途についた。

夜8時頃までは、交通量が多くなかなか前に進まない
道なのだが、 さすがにこの時間にもなると車も少ない。
スムーズに環状線の高架を過ぎようとした時、
部長の目に何か白い物が写った。

よく見ると4~5才くらいの女の子が歩いているではないか!
「えっ・・なんで? なんでこんな時間に子供が1人で
歩いてんの?!」
そう思っている間にも車は進み、 女の子の姿が
小さくなっていく。

「これは絶対おかしい!」
しばらく進んでしまった車をUターンさせ、 女の子を
探すがもう姿がない。
それでも30分ほどあちこち走ってみたのだが、 結局
その子を見つけ出すことはできなかった。

「この近くの子ならいいのだが」と思いながらも、
とっさに車を止め、声をかけてあげられなかった
自分を責めた。
家に帰っても、その子の事が頭から離れない。

翌日、営業朝礼の際、
「実は昨夜こんな事があった。皆だったらどうする?」
と、質問を投げかけたところ、 昨日仕事を手伝ってくれた
Yさんが手を上げ、

「その子、私が保護しました…」

部長は思わず、「え~~!!」
Yさんの話によると、部長が女の子を見かけた地点より
かなり離れた所で見つけたらしい。

随分歩いていたようだ。
Yさんも「これはおかしい!」と思い、 車を女の子の前に
止めようとした。
すると女の子は反対側に逃げて行く。

(もし車にでもひかれたら)という思いが頭をよぎり、
急いで車を止め、ハイヒールのまま走ってその子を追う。
ようやく保護し、車に乗せた…。
5才と言うその子をYさんは深く追求もせず、

「家まで送ってあげる。道はわかる?」と聞くと、
「わかる」と答えた。
女の子の言うまま車を走らせ、 ようやく一建の家の
前に着いた。

すると、今までしっかり受け答えも出来ていた
その子が急に、
「もうここでいい!もうここでいい!」
とあわてたような、おびえたようなそぶりをみせた。

親に叱られると思っているんだなと察したが、
Yさんも親の顔を見るまでは安心できず、 夜中の
1時という時間に戸惑いはあったが、 思いきって
チャイムを鳴らした。

出てきたのは確かにその子の母親だった。
が…。 わが子を見て、その母親はたいそう驚いていた。
異常なほどに…。

Yさんがこれまでの経緯を説明している途中から、
母親の目からは涙が止まらなかったという。
実はこの子の両親は離婚してしまい、 この子は今、
父親のもとで暮らしているとのこと。

なんとこの5才の女の子は、 母親に会いたい一心で
深夜の道を1人で お母さんのもとへと向っていたのだ。

でも、なぜこんな夜中に?

それは父親に「お母さんに会いたい」とも言えず、
父親やその家族が寝静まるのを待って会いに
向ったのである。

皆さん、この話を聞いてどう思われますか?

私も胸を締めつけられる思いです。
本当の親子でありながら、 何でこんな小さな子が、
これほど辛い思いをしなければならないのでしょうか。

それと、後日部長が言っておりましたが、
父親の住所は〇〇という所で、 その子はそこから
ずっと深夜の道を何キロも歩いて行ったわけです。

いくら深夜とはいえ、何十台、いや何百台もの車が
その子の横を通り過ぎたはず。
いえ、それはただ通り過ぎて行っただけなのです。

その中であの子を保護しようとした部長、
保護することのできたYさん。
何十、何百と通り過ぎていった人の中で、行動に出た二人、
その二人ともが我が社の人間であったことを、
同じ社員として誇りに思います。

ですがこれは、心ある人間であれば誰しも
そうするはずの事なのに、 それをしなかった人達、
この人達はあの場面に遭遇しても 何も感じ
なかったのでしょうか?

あんな小さな子供が、夜中に1人で歩いているのを
見ても 無関心でいられるとすれば、 それは人間として
とても悲しい事だと思います。
・・・



運がいい人も、運が悪い人もいない。
運がいいと思う人と、運が悪いと思う人が
いるだけだ。・・・(中谷彰宏)




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2018年10月 1日 (月)

妄想劇場・妄想物語

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もう昔の出来事です。大学生だったAさんは、
自転車で交差点を渡っているときに交通事故に
遭いました。

事故の状況は、こうでした。

バイクを運転していた職人さんが交差点の手前で
右折しようとした時、突然三輪車に乗った小さな
女の子が飛び出しました。

あわてて急ブレーキをかけ、バランスを崩しながら、
道路の端を走っていたIAさんの自転車と
ぶつかりました。

さらにAさんの後ろを走っていた八十代のお年寄りの
自転車と、主婦の自転車、それに女子高生の
自転車に、次々と衝突しました。

つまりこの事故のために5人の人が傷を負って
倒れたのでした。
一瞬にして現場は騒然となりました。

そして顔中血まみれで、片足を引きずるようにして
立ち上がったバイクの職人さんが、血相を変えて
わめき始めました。

「おい、さっきあそこから急に出てきた女の子、
どこへ行ったか知らんか?誰か知りませんか?
親はどこの人か、誰か知りませんか?」

痛そうに足を引きずりながら、必死になって周りに
聞き回っていました。
女子高生が立ち上がったので、見ると、チェックの
スカートの裾が破れて、血がにじんでいました。

主婦もズボンについた砂を払いながら立ち
上がりましたが、
片方の肘を擦りむいて、血を流していました。
「なによ、あなた!人にぶつかっといて。
ひと言、お詫びくらいしたらどうなの?」

彼女は職人さんを睨みました。
その後ろから女子高生もきつい眼で職人さんを
睨んでいました。

すると、職人さんはカッとしたように、
ヘルメットを地面へ叩きつけながら怒鳴りました。
「なんだよ?全部おれのせいだっていうのか?
じゃあ、警察呼んで調べてもらえよ!そうだろう?」

彼はAさんに同意を求めるように言いました。
Iさんは、それよりも、倒れてまだ動かない
お年寄りのことが気になっていたので、
職人さんにはまともな返事をせず、お年寄りの
肩を揺すりました。

すると、おじいさんはむくっと起き上がって、
ぼんやりした眼でゆっくりと周囲を見ていました。
その頬には赤い傷がついていて、鼻血も出たのか、
顔中血だらけで、Tシャツまで真っ赤に
濡れていました。

Aさんも周囲の人もびっくりして、しばらくは
言葉も出ず、おじいさんがまた倒れはしないかと、
息を呑んでいました

おじいさんは、みんなの顔を次々に見て、
ゆっくり口を開き、のんびりした声で言いました。

「みんな痛かったけど、死なんでよかったのう?」
しばらく、誰もがおじいさんの顔を見つめて何も
言いませんでした。・・・

しかし、すぐに全員の顔に笑顔が浮かびました。
どの顔も、まるで暗闇から抜け出した人のように、
ホッとした喜びの表情を見せていました。

女子高生も、主婦も、職人さんも……。

そして誰もがお互いに相手の傷や体調を尋ねあって、
事故の処理はあっという間に円満に終わって
しまったのでした。

おじいさんのひと言がみんなの心をこんなにも
変えてしまったのは、なぜだろう?
Aさんはずっと考え、今でも忘れていないといいます。

どんなに困ったときでも、痛いときでも、
他人の痛みや苦しみを忘れずに、思いやりのある
言葉をかけることができれば、お互いに憎み合ったり
することはないということを。

それから今でも、Aさんはいろいろな苦しみや
痛みを
経験しますが、そのたびにおじいさんの救いの言葉を
思い出し、トラブルや絶望から自分を救うことが
出来た、と語っています。
・・・ ・・・



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8月27日、漫画『ちびまる子ちゃん』の作者、
さくらももこさんが乳がんで8月15日に
亡くなったことが明らかになり、日本中に
大きな衝撃を与えた。

乳がんを見落とさないためにも、定期的に検査を
受けておきたい。
では実際、患者となる私たちは病院でどんな
検査を受け、治療方針はどのように決まるのか。

がんの精密検査といえば、病変部の細胞や組織を
直接採取して顕微鏡で観察する「病理検査」を
指すことが多い。

病理検査で下される病理診断が「がんの最終診断」
となる。特に乳がんは、治療方針も含め、
病理診断によって決まるといっても過言ではない。

乳がんの病理検査は、自己検診で「しこり」を
発見したとき、あるいは乳がん検診で異常を
指摘されたときに行われる。

乳がん検診は、マンモグラフィー検査や超音波検査が
主流であるが、ここでの異常所見の程度によって、
病理検査を行うか否かが決定される。

マンモグラフィー検査の場合は、異常の有無や
程度によって5段階評価する。
カテゴリー分類と呼ばれているが、カテゴリー
3以上は、要精密検査、すなわち病理検査が
推奨される。

カテゴリー5の場合は、がんの可能性が高くなる。
超音波検査の場合もがんに特徴的な所見が
いくつかあり、それに該当している所見が
あった場合は、やはり病理検査が行われる。

「細胞診検査」と「組織診検査」

病理検査には、2つの検査がある。
細胞診検査は、注射器を挿入した際の陰圧を
利用して細胞を吸引し、それをそのまま
ガラススライドに塗布し、標本を作製する
方法である。

一方、組織診検査は、病変の一部を切り取り、
塊として採取し、標本を作製する。
この組織診検査は、別名「針生検(はりせいけん)」
とも呼ばれる。
細長く小さな病変の塊を採取して検査を行う。

細胞診検査と組織診検査にはそれぞれ
長所・短所があるが、基本的にがんの最終診断の
ためには組織診検査が行われる。

また、どちらの検査も病変部に針を刺して細胞や
組織を採取して顕微鏡で観察する検査になるが、
超音波検査では病変を確認しながらその場で
すぐに行うことが可能である。

乳がん治療を大きく変えた治療薬

組織診検査の場合、一度に採取された組織で
複数枚のガラススライド標本を作製できる。
細胞は基本的に無色であるため染色を施し
顕微鏡で観察できるようにするが、形態を観察
するための通常の染色以外に、後述する
免疫染色標本を作製し、詳しくがんの
性質について検査することができる。

乳がんの治療は、肺がんと並び、がんの中で
最も進んでいるといえるのではないだろうか。
欧米の乳がん患者が非常に多いこともあり、
乳がんの研究は日進月歩である。

乳がんに限らずがん診療にかかわる医師は、
つねに学び続ける姿勢がなければ、あっという間に
ついていけなくなるほどである。
特に薬物療法においては、新薬が次々に
開発されている。

分子標的治療薬という抗がん剤がある。
特定のがん細胞だけが持っている分子(物質)を
標的にした治療薬である。

通常、抗がん剤治療は、細胞が分裂するときに
作用する薬で、がん細胞だけでなく正常の細胞も
ダメージを受ける。

がん細胞のほうが分裂するスピードが速いために、
よりがん細胞のほうに抗がん剤が効く
というわけである。

分子標的治療薬はがん細胞のみに
作用するために副作用が少ないという利点がある。
特に「トラスツズマブ(商品名:ハーセプチン)」は、
乳がん治療を大きく変えてきた分子標的
治療薬である。

最近はがんの性質をより詳しく調べる

今まで予後不良であった悪性度の高い乳がんで、
HER2タンパクという細胞増殖にかかわる物質を
持っているタイプの乳がんは、このトラスツズマブが
劇的に効き、がんを克服する患者が増えてきた。

このトラスツズマブをはじめとして現在では
さまざまな種類の新しい抗がん剤が
開発されている。

病理医は、乳がんがこのHER2タンパクを
持っているかどうかなど、さまざまな乳がんの
性質を調べ、病理診断を行っている。
病理医は、そこまで詳細な検査を行ったうえでの
病理診断を求められている。

近年は、乳がんに限らず肺がんをはじめとした
さまざまながんで次々と分子標的治療薬や
免疫療法薬が誕生し、その薬剤の効果を
予測するための病理検査が増加している。

病理医にとって、乳がんをはじめとしたがんの
病理診断は、難易度も高く、また労力もかかるように
なっている。

今までのがんの病理診断は、顕微鏡でがん細胞の
形態を観察し、こういう形態のがんですよ、
おそらく悪性度はこのくらいですよ、という
「組織型」や「分化度」の程度を判定すれば
よかった。

しかし、最近は形態的な特徴による診断に加え、
がんの性質をより詳しく調べることが求められる。

通常は、細胞を観察するための基本染色である
ヘマトキシリン・エオジン染色(H-E染色)という
染色標本のみで診断をするが、乳がんの場合は、
この染色標本に加え、都合4つの免疫染色を行う。

免疫染色というのは、がん細胞が持っている分子を
「抗原」としたときに、それに「抗体」を反応させ、
免疫複合体というものを形成し、それに染色を施した
ものである。

さらに簡単に言ってしまうと、免疫染色では、特定の
物質をがん細胞が持っているか否か、色が
ついているかどうかで判定できるというものである。

乳がんでは、エストロゲン受容体、プロゲステロン
受容体(いずれも女性ホルモンの受容体である)、
先ほどのHER2タンパク、そして、細胞の増殖スピードを
確認するためのKi-67という抗体を用いた
4つの免疫染色を行う。

乳がんの病理診断では、この4つの免疫染色の
結果も併せて報告書に記載する必要がある。
専門家の努力の結集が不可欠

上記の4つの免疫染色を施行することによって、
乳がんは大きく4つのタイプに分けられる。

① 女性ホルモンの受容体のみをもっているがん
 (ルミナールタイプ)、
② HER2タンパクが過剰発現しているがん
 (HER2タイプ)、
③ 両方の特徴を持っているがん
 (ルミナール-HER2タイプ)、
④ 女性ホルモンの受容体もHER2タンパクも
 有していないがん (トリプルネガティブタイプ)
 である。

Ki-67の値(どのくらい増殖スピードがあるのか)も
参考にしながら診断する。

これら4つのタイプは、大規模な研究によって、
予後が異なることがわかっている。
ルミナールタイプは一般的に予後がよく、
トリプルネガティブタイプは最も予後が悪い。

HER2タイプも基本的に増殖スピードが速い
悪性度の高いがんであったが、トラスツズマブの
登場によって予後が劇的に改善された。

また、予後だけでなくこれら4つのがんは
治療法も異なる。
女性ホルモンの受容体を持つがんは、
ホルモン療法を行うことができる。

前述のようにHER2タイプのがんは
トラスツズマブによる治療が有効であることが
期待される。

このように乳がんの病理診断は、がんの
確定診断の時点で、すでに治療法の選択まで
ある程度決めるものであるといえる。

ここ数年、がんの遺伝子異常についての研究が
急速に進んでいる。
数十種類の遺伝子異常を調べて治療方針を決める
方法も確立されつつある。

少しでも乳がんで亡くなる患者さんが減っていくよう、
自己検診の啓蒙活動から診断方法や新薬の
開発まで、さまざまな専門家の日々の努力の
結集が不可欠である。


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