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2018年11月21日 (水)

歴史・への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー



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むかしむかし、九州の筑前の国(ちくぜんのくに
→福岡県)に、加藤重氏(かとうしげうじ)という
人がいました。

重氏(しげうじ)は大した権力者でしたが、ある日、
人の心のみにくさを知って、妻も子も捨てて
仏に仕える身となってしまったのです。

重氏は名前を苅萱道心(かるかやのどうしん)
と改め、高野山に登って修行にはげみました。

いつしか、十三年の月日が流れて行きました。

ある日の事、高野山に一人の男の子が
やって来ました。名前を石童丸(いしどうまる)といい、
道心が筑前に残してきた息子だったのです。

石童丸は父親が高野山にいる事を知り、
一目会いたいと長い旅を続けてきたのでした。
身も心も疲れきった石童丸は、出会った
お坊さんにたずねました。

「もし、この山に、筑前から来たお坊さまは
おられませぬか? 
私の父で、名を加藤重氏と申します」

するとそのお坊さんはとても驚いた様子で、
石重丸をじっと見ると涙をこぼしながら
言いました。

「そなたの父とは、長年の友人じゃった。
それが昨年の夏、悲しい事に急な病で
なくなられてしもうたのじゃ」

 実はこのお坊さんこそ、石童丸が夢にまで
見た父の加藤重氏だったのです。

そうとは知らない石童丸は、自分も父親と
同じように出家しようと決心しました。
そしてそのまま、道心の弟子となりました。

親子そろっての修行生活が始まりましたが、
父親の道心には、わが子を弟子として同じ寺に
住むのはとてもつらいことでした。

親子の情が日に日につのるので、修行に
身が入らないのです。
「こんな事では、仏に仕える事は出来ん。
それにいつかは、石童丸にも本当の事が
分かってしまうであろう」

道心は山を去って、信濃の善光寺(ぜんこうじ)
へと旅立ちました。
そしてそこで念仏三昧に明け暮れた末、
八十三才で大往生をとげたのです。

一方、高野山で修行を続けていた石童丸は、
ある晩、不思議な夢を見ました。
うす紫の雲がたなびく中、仏さまが現れて
言いました。

「苅萱道心(かるかやのどうしん)こそは、
そなたの父です。すぐに信濃におもむき、
父の供養(くよう)をするがよい」
こうしてすべてを知った石童丸は急いで
善光寺を訪れると、父の霊をねんごろに
とむらいました。

そして父の作った地蔵のそばに、自分も一体の
地蔵を残したのです。
いつしかこの二体の地蔵さまは、親子地蔵
と呼ばれるようになりました。

長野市の往生寺(おうじょうじ)には、この親子地蔵
と呼ばれる二体の地蔵さまが今でも
残っているそうです。

おしまい


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、
   そばで 地蔵が食べたがる



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江戸時代の人の平均寿命はどれくらいだったのか?

織田信長は「敦盛」(あつもり)という舞が好きでした。
特に、「人間五十年、化天(げてん)のうちを比ぶれば、
夢幻の如くなり」という一節を好んで
舞ったといわれています。

「人間五十年」とは、人の一生は50年ほどだという意味で、
平家の時代から江戸時代には、平均寿命は50年
と考えられていたようです。

これを根拠に、しばしば「江戸時代の平均寿命は
50才くらいだった」と言われますが、
現代用いられている人口統計の手法で計算すると、
もっと短かったと考えられています。

当時の平均寿命は正確には計れない!?

江戸時代には現代のような戸籍制度がなく、
生まれた子どもの数をきちんと把握する仕組みは
ありませんでした。

どこの家庭に何才の人が何人いるか、というような
ことは大体わかっていたものの、
「7才までは神の子」などとも言われており、
幼児を数えない地域もありましたので、

科学的な人口統計をするための基礎的データは
残されていません。
そのため、平均寿命を正確に算出することは不可能で、
さまざまな資料をもとに推定値が計算されています。

おおよそ30才~40才だった!?

多くの研究者が江戸時代の平均寿命について
推論していますが、試算結果にはばらつきがあります。

30才というものも35才というものもありますし、
中には50才という説もありますが、だいたい
「30才~40才くらい」だったと考えられます。

短命なのは乳幼児の死亡率が高かったから
平均寿命というのは、新生児が何才まで
生きられるかを統計学的に予想したものです。

仮に5人の子どもがいて、3人は0才で亡くなり、
1人は50才、1人は100才で亡くなったとすると平均値
=寿命は30才となります。
長生きする人がいても、乳児の死亡率が高いと
平均は低くなります。

江戸時代には医療技術が十分でなかったこともあり、
生まれて間もない子どもの死亡率がとても高く、
そのため、理論上の「寿命」は短くなるのです。

極端な例ですが、江戸時代の12代将軍徳川家慶には
男女合わせて27人の子どもがいましたが、
20才まで生きられたのは家定1人のみでした。

また、家慶の父親である11代将軍家斉の子は
50人いて、半数が20才までに亡くなっています。

将軍たちの平均は51才!?

江戸時代の将軍は全部で15人ですが、
その享年の平均は51才です。

初代 家康75才、2代 秀忠54才、3代 家光48才、
4代 家綱40 才、5代綱吉64才、6代 家宣51才、
7代 家継8才、8代 吉宗68才、9代 家重51才、
10代 家治50才、11代 家斉69才、12代 家慶61才、
13代 家定35才、14代 家茂21才、
15代 慶喜77才です。

栄養状態は庶民に比べて圧倒的に良かった
はずですので、比較的長生きの人が多いようです。

長生きした人も大勢います

歴史上の偉人たちの中には長寿をまっとうした
人も少なくありません。
葛飾北斎は90才、杉田玄白85才、貝原益軒85才、
滝沢馬琴82才、上田秋成76才、良寛74才、
伊能忠敬74才、徳川光圀73才、近松門左衛門
72才などとなっています。

「寿命」はあくまでも統計的な推定値

わが国の平均寿命が50才を超えたのは1947年
(昭和22年)です。
当時の統計上では、昭和22年生まれの人は
「だいたい50才くらいで亡くなる」と予想されて
いたわけです。

しかし、この年に生まれた267万人のうち
8割以上が60代半ばを過ぎても存命です。
統計にはそんなマジックのような側面が
あることも知っておいた方がよいでしょう。

江戸時代の平均寿命は30代半ばくらいと
推定されますが、皆が早死にしていた訳では
ありません。長生きする人も少なく
ありませんでした。・・・

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