2017年8月21日 (月)

妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある


されど愛しきお妻様【9-2】

支えられてきたのは、僕だったのだ。

一方で、お妻様は常に僕がなにを望んでいるのかを
考え、自身の持つ能力の中でやれる限り精いっぱいの
ことをしてくれている。

相手がした方がいいと思うことを考えて、
押し付ける僕。
相手がしてほしいことを考えて精いっぱいやる
(けどちょっとズレてたり中途半端だったりする)
お妻様。

果たしてどちらが優しいのだろう。
そのことに思い至った僕は、深夜の病室で滂沱と
流れる涙を抑えることができなかった

なんて時間がかかったんだろう。ここに至って、
お妻様の大病をもってしても半端にしか
たどり着けていなかった本当の理解に、
ようやく僕はたどり着いたのだと思う。

こうした気づきの経緯や、お妻様がその後
もどのようにして僕を支えてくれたのかの諸々は、
拙著「脳が壊れた」にも、本連載開始の
契機でもあった
『42歳「脳が壊れた」ルポライターのその後〜
私が障害を受容するまで』にも記した。

が、そこに書き漏らした(というか書くことから
逃げた)のは、僕がお妻様を責める気持ちが、
自らの脳梗塞後にも、上記のような気づきののちも、
根強く残っていたことだろう。
改めて大懺悔である。

シビアな現実

ようやくあたしの気持ちがわかったか
ともあれ、ようやく気付きに至って、改めて
立ち位置は確定した。
僕は支えているようで、実は支えられている。
そして、僕は脳梗塞を経て高次脳機能障害を
負うこととなり、いよいよお妻様の支えが
なければ生きていけなくなってしまった。

ならばどうしよう。どんなに気づいたところで、
現実はシビアだ。
なぜならお妻様は大人の発達障害当事者。
僕にとって最大の支援者でありながら、
具体的に家庭の運営とか維持とか収入面での
支援を丸投げで期待することはできない。

お妻様がそれでいいと言っても僕はゴミ屋敷には
住みたくないし、毎日コンビニ弁当食べてたら
お互いに病気が再発しかねないし、
何より僕も再び仕事に復帰して所得を得なければ
ならない。

お妻様が望まなくとも、僕自身がある程度の
生活環境を維持できなければ、またストレスから
別の病気になってしまいかねない。

ではどうすればいいのか?

身体面のマヒは比較的軽度だった僕はほんの
50日ほどで退院することになったが、それに先立っての
一時帰宅の日に家の中のあまりのカオスぶりに
パニックを起こし、1歩も歩けなくなってしまった。

梅雨明けの高い湿度に、床にもテーブルにもへばりつく
猫の毛。茶の間の床は物に埋め尽くされて、
文字通り足の踏み場がない。

そして僕の抱えた高次脳機能障害には「注意障害」
「遂行機能障害」などがあったから、僕はその床に
散らばった物を見つめてパニックを起こすだけで、
どう片せばいいのか考えることもできなくなっていた。

とはいえ、このカオス振りは、もともと片づけられない
お妻様が毎日毎日病院の僕を見舞って支えてくれた
結果でもある。うう、どうすればいいのだろう。
物の多さに混乱して心が窒息しそうだ。

楽にこの状況を抜け出したいのならば、茶の間の
掃き出し窓を開けて床に散らばる物を片っ端から
庭に放り出すのが最善の手段のような気がするが、
そんなことをすればお妻様は激昂するだろうし、
何より傷つくだろうし、掃除よりもはるかに
大変な夫婦の関係修復というタスクを作り出して
しまいかねない。

結局その日の僕は、何分かハアハアしながら
動けなくなり、そこからなんとか気力を振り絞って
立ち上がり、2時間にも及ぶ掃除を開始。

どうにか茶の間を人の(僕の)過ごせる空間にした
僕だったが、その後に血圧を測定したら、
今度は脳梗塞じゃなくてくも膜下出血を起こしそうな
ほどの数字が出てしまった。

けれどこの日の経験は、その後の我が家の「改革」に
大きなヒントを与えてくれたのだった。
脳梗塞後の僕には、高次脳機能障害の中でも注意障害や
遂行機能障害と情緒の抑制困難が残った。
けれども、お妻様は子どものころから注意障害や
遂行機能障害をもっていて、それは大人になっても
改善していない。

高次脳機能障害と言う言葉は主に脳外傷や脳卒中
などを原因として、脳の高次脳機能=記憶や
認知判断機能が失われることを指すが、発達障害とは
生まれつきこの高次脳機能に問題があったり、
ある時点から発達しなかったりといった障害を指す。

つまり、先天なのか中途障害なのかの差はあっても、
基本的に高次脳機能障害と発達障害は
同じものだとしても言い過ぎではない。
ならば、僕は脳梗塞に倒れることで、僕はお妻様と
同じ当事者感覚を得たことになるといっても、
また言い過ぎではない。

「ようやくあたしの気持ちがわかったか」(お妻様)
「わかったけど、ちょっと辛すぎっす」
発達障害妻&高次脳夫。我が家の大改革が
始まった。
・・・

次回に続く



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…








P R :

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隙間産業(ニッチ市場)

妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある


されど愛しきお妻様【9-1】

脳腫瘍で倒れたものの、懸命な治療が功を奏して
快復しつつあったお妻様。
しかし今度は、そんなお妻様を支えるべく、
オーバーワーク 気味だった鈴木さんが脳梗塞で
倒れてしまい……。
脳が壊れて、ようやく妻と僕が求める「優しさの違い」に
気づいた

なるべくしてなった

お妻様が脳腫瘍を患い、5年生存率8%の告知を
受けてから3年半の、2015年5月末。僕は41歳で、
脳梗塞に倒れた。
右側頭葉に、アテローム血栓性脳梗塞発症。
原因は高血圧や動脈硬化などというが、自らを顧みて
この脳梗塞は、「なるべくしてなった」のだと思う。

お妻様の死を考えることは、僕にとってはとても
耐えきれるものではなかった。
当時の僕は、友人にもお妻様本人にも「早く死にたい。
お妻様より先に死にたい」とたびたび言っていた。
そしてその死の影に怯えるあまり、僕はほぼすべての
家事を一人で背負い込んだ。完全に暴走していたのだ。

お妻様と僕は食事の時間が合わないから、
毎日六食を作る。
お妻様のメニューに関しては本人の食欲は無視して、
高たんぱく高ミネラル高カロリーの免疫対策メニュー。
加えて日々の掃除と洗濯と庭の維持と……
お妻様にお願いしていたのは、猫の世話と、
どうにも手が回らない時の食器洗いぐらいだ。

一方で仕事も詰めて詰めて詰めまくった。
稼いでも稼いでも、溜めても溜めても安心は
できなかった。
残念ながら30代前半で脳腫瘍に倒れたお妻様は
医療保険にも生命保険にも加入していなかったし、
一度脳腫瘍をやってしまえばその後に新規で
保険加入は困難だ。

再発したらまず予後は絶望的と言われている
膠芽腫だから、5年生存率8パーセントは、
5年再発率92%とも置き換えられる。

そして、この92%に入ってしまった場合には、
最大限の先端医療と最後には苦しむことのない
緩和ケアをしてあげたかったから、
身を削るようにして働いた。

幸いにも(不幸にも)もともと睡眠時間は極端に
短い方だったから、起きている間中、仕事を
詰め込んだ。

そんな中で、脳梗塞に倒れる少し前から
「もう無理かな」という予感もあった。
特に当時抱えていた週刊漫画連載の原作仕事は
猛烈な負荷だった。

毎週出版社に赴いて次話の簡単な物語の流れを
プレゼンし、担当編集や漫画家の希望を聴取して
その場でシナリオ化。
さらにそのシナリオを2稿3稿とブラッシュアップする。

そんな作業は最も短くても6時間、
最長で16時間ぶっ続けということもあり、
出版社に缶詰で作業して明け方に帰宅し、
座って休むこともなく台所に立ってお妻様の
朝食を作ることが、たびたびあった。

ちなみにこうして出かけている間のお妻様の食事も、
やはり弁当箱に作り置いて家を出るから、本当に
休む間がない。

座ってしまったら立ち上がれなくなりそうで、
座れなかった。
自らの食事は台所で丼物を作って立ったまま
済ませることも少なくなかった。

「このペースで働いているとそろそろ倒れると思う」
そうお妻様に言って、倒れた際に連絡してほしい
担当編集や大事な継続取材対象者をリストアップして
渡していた。

リストを手渡した際のお妻様の反応は覚えていないが、
たぶん僕の内心はこうだったとおもう。

「お妻様に生き延びてほしいから家事も仕事もすべて
俺が背負い込むし、俺がそうするって言ったけど、
君は本当に俺が倒れてしまうまで、そうやって家事も
仕事もしないでいるの?」

そう、よく考えなくても僕の脳梗塞は
「なるべくしてなった」。
「お前のせいで倒れた」3年半かけた「自殺企画」
むしろあの暴走は、3年半の時間をかけた
自殺企図だったし、どれほど僕が僕自身を追い込んでも
「やっぱり何もしてくれない」お妻様に対して仕掛けた
耐久レースだったのだと思う。

しかも僕しか走っていない独り相撲の耐久レースだ。
なんという愚かさなのだろうか。

こうして追い詰めた結果、死ぬならぽっくり死ねると
思っていた僕は、全然ぽっくり死ねずに脳梗塞で倒れた。
そして倒れた翌日には、病院のベッドに付き添って
くれているお妻様に対して、マヒして呂律の回らぬ口調で
相変わらずの叱責の言葉を投げつけた。

「分かってる? お妻様は、俺が本当に倒れちゃうまで
何もしてくれなかった。
死ぬかもって言ってたのに。俺はお妻様に
殺されかけたんだと思う」

ちがう。あほか僕は。
家事も仕事も何もしないでいいから生きてくれと
お妻様に宣言してすべてを背負い込んだのは、
誰でもない僕自身だ。それを棚に上げて、なんという
理不尽なことを言うのか。

けれど、感情の抑制が効かずに(脳梗塞を起こした部分に
感情抑制をつかさどる部位があった) 
ワナワナしながら「お前のせいで倒れた」と呪詛の言葉を
吐く僕に、お妻様はひとことも言い返すことなく、
ただただ毎日病院にやってきて、定められた面会時間内
いっぱいを使って、僕に寄り添ってくれたのだった。

僕がどんなに取り乱していても、制御できない感情に
パニックを起こしていても、お妻様は毎日毎日
欠かすことなく病院に来てくれた。

病床の僕の横に付き添い、まっすぐ歩けずやたら
壁や段差にぶつかる僕の手を引いて病院内を歩き、
僕が倒れる前と同じに、今日の猫と何を話しただとか、
昨日の動物&自然科学系まとめサイトの面白い
記事報告だとか、庭のカマキリが三齢幼虫になった
といったとりとめもない話をしてくれる。

そんなお妻様だったが、僕に付き添いながら、
泣き言は一言も言わなかった。
今後の仕事のこと、生活のこと、家の維持。
そして残ってしまった障害の回復について。

不安に思うことは数えきれないほどにあったとだろうに、
泣き言は一言も漏らさずに、ただ「頑張りすぎたね、
すこし休もうよ」と言ってくれた。
そして、ただただ僕の手を握って、背中をなでてくれた。

「でも頑張りすぎたのも休めなかったのも、
お妻様のためじゃないか」 
そんな僕の憤りは、淡々と傍らに居続けてくれる
お妻様の前に、徐々に封じ込められていった。
そしてあれはまだ緊急入院から急性期病棟に入って、
1週間ぐらいのことだったろうか。

僕の中で、憤りの感情と感謝の感情が逆転した。
まだ意識は朦朧としていることが多かったし、
夜中にそれまでの人生で経験したことのない
パニックに襲われて、あまりの苦しさに体中を
かきむしっていた中で、僕は一つのことに
気づいて呆然としたのだ。

僕はお妻様から、「その言葉」を聞いたことが
ないのだ。
お妻様が本当に望んでいたこと
ただ「そばにいてほしい」

家を掃除して綺麗に保ってほしい、洗濯をしてほしい、
美味しい食事を作ってほしい、
仕事を頑張って成功させてほしい。
稼いでほしい、貯金をしてほしい。

どれほど過去を掘り起こしても、ただ一言とて
そんな言葉をお妻様に言われた記憶がない。
お妻様がまだ彼女様で、僕の家に押しかけ同棲を
かましてから、実に16年以上のふたりの生活の中で、
お妻様からこんな要求の言葉を言われたことが、
一度たりとないのだ。

そうだった。お妻様が16年間僕に言い続けて
きたことは、一貫して「そばにいてほしい」
「一緒に居る時間がもっとほしい」
「どこそこに行きたいね(一緒に)」といった
願いばかりだったじゃないか。

もちろん変な物欲魔人のお妻様だから、あれが欲しい
これが欲しいと(安い&妙な)物をねだることは
あったけど、少なくとも僕がお妻様の「ために」
やってきたつもりだった家事も仕事も何もかも、
お妻様から「やってほしい」と言われたことは
一度たりともなかったじゃないか。

だとすれば、僕はそれまで何をしてきて、
何を頑張ってきて、倒れたのだろう。
お妻様がなにを望んでいるかなど関係なく、
僕自身が「お妻様は、我が家は、こうしたほうが
いい」と思ったことをやって来て、勝手に
倒れただけではないのか。 ・・・


次回に続く


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった

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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







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2017年8月20日 (日)

妄想劇場・番外編・「人間失格」

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
  結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・



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人間失格

男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない
過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。・・・

どこにいても、おそろしく、かえって大カフエでたくさんの
酔客または女給、ボーイたちにもまれ、
まぎれ込む事が出来たら、自分のこの絶えず
追われているような心も落ちつくのではなかろうか、
と十円持って、銀座のその大カフエに、ひとりではいって、
笑いながら相手の女給に、 「十円しか無いんだからね、
そのつもりで」  と言いました。

「心配要りません」  どこかに関西の訛なまりがありました。
そうして、その一言が、奇妙に自分の、震え
おののいている心をしずめてくれました。
いいえ、お金の心配が要らなくなったからではありません、
そのひとの傍にいる事に心配が要らないような
気がしたのです。  

自分は、お酒を飲みました。そのひとに安心して
いるので、かえってお道化など演じる気持も起らず、
自分の地金じがねの無口で陰惨なところを隠さず見せて、
黙ってお酒を飲みました。

「こんなの、おすきか?」  
女は、さまざまの料理を自分の前に並べました。
自分は首を振りました。
「お酒だけか? うちも飲もう」  秋の、寒い夜でした。

自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、
記憶が薄れ、たしかではありません。
情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです)
言いつけられたとおりに、銀座裏の、或る屋台の
お鮨すしやで、少しもおいしくない鮨を食べながら、
(そのひとの名前は忘れても、その時の鮨の
まずさだけは、どうした事か、はっきり記憶に
残っています。

そうして、青大将の顔に似た顔つきの、丸坊主の
おやじが、首を振り振り、いかにも上手みたいに
ごまかしながら鮨を握っている様も、眼前に見るように
鮮明に思い出され、後年、電車などで、はて見た顔だ、
といろいろ考え、なんだ、あの時の鮨やの親爺に
似ているんだ、と気が附き苦笑した事も再三あった
ほどでした。

あのひとの名前も、また、顔かたちさえ記憶から
遠ざかっている現在なお、あの鮨やの親爺の顔だけは
絵にかけるほど正確に覚えているとは、
よっぽどあの時の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛を
与えたものと思われます。

もともと、自分は、うまい鮨を食わせる店というところに、
ひとに連れられて行って食っても、うまいと思った事は、
いちどもありませんでした。
大き過ぎるのです。親指くらいの大きさにキチッと
握れないものかしら、といつも考えていました)

そのひとを、待っていました。  
本所の大工さんの二階を、そのひとが借りていました。
自分は、その二階で、日頃の自分の陰鬱な心を
少しもかくさず、ひどい歯痛に襲われてでもいるように、
片手で頬をおさえながら、お茶を飲みました。

そうして、自分のそんな姿態が、かえって、
そのひとには、気にいったようでした。
そのひとも、身のまわりに冷たい木枯しが吹いて、
落葉だけが舞い狂い、完全に孤立している感じの
女でした。  

一緒にやすみながらそのひとは、自分より二つ
年上であること、故郷は広島、
あたしには主人があるのよ、広島で床屋さんを
していたの、昨年の春、一緒に東京へ家出して
逃げて来たのだけれども、主人は、東京で、
まともな仕事をせずそのうちに詐欺罪に問われ、
刑務所にいるのよ、

あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、
刑務所へかよっていたのだけれども、
あすから、やめます、などと物語るのでしたが、
自分は、どういうものか、女の身の上噺ばなし
というものには、少しも興味を持てないたちで、
それは女の語り方の下手なせいか、つまり、
話の重点の置き方を間違っているせいなのか、
とにかく、自分には、つねに、馬耳東風なので
ありました。  

侘びしい。  自分には、女の千万言の身の上噺よりも、
その一言の呟つぶやきのほうに、共感をそそられるに
違いないと期待していても、この世の中の女から、
ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事が
ないのを、奇怪とも不思議とも感じております。

けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは
言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、
からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに
持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだも
その気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした
陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く
枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、
離れる事が出来るのでした。  

あの白痴の淫売婦たちのふところの中で、
安心してぐっすり眠る思いとは、また、全く異って、
(だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした)
その詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は、
自分にとって、幸福な (こんな大それた言葉を、
なんの躊躇ちゅうちょも無く、肯定して使用する事は、
自分のこの全手記に於いて、再び無いつもりです)
解放せられた夜でした。  

しかし、ただ一夜でした。朝、眼が覚めて、はね起き、
自分はもとの軽薄な、装えるお道化者になっていました。
弱虫は、幸福をさえおそれるものです。
綿で怪我をするんです。
幸福に傷つけられる事もあるんです。

傷つけられないうちに、早く、このまま、
わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を
張りめぐらすのでした。

「金の切れめが縁の切れめ、ってのはね、あれはね、
解釈が逆なんだ。金が無くなると女にふられるって
意味、じゃあ無いんだ。
男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気銷沈して、
ダメになり、笑う声にも力が無く、そうして、
妙にひがんだりなんかしてね、

ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、
半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、
金沢大辞林という本に依ればね、可哀そうに。
僕にも、その気持わかるがね」  

たしか、そんなふうの馬鹿げた事を言って、
ツネ子を噴き出させたような記憶があります。

長居は無用、おそれありと、顔も洗わずに素早く
引上げたのですが、その時の自分の、
「金の切れめが縁の切れめ」という出鱈目でたらめの
放言が、のちに到って、意外のひっかかりを生じたのです。  

それから、ひとつき、自分は、その夜の恩人とは
逢いませんでした。別れて、日が経つにつれて、
よろこびは薄れ、かりそめの恩を受けた事が
かえってそらおそろしく、自分勝手にひどい束縛を
感じて来て、

あのカフエのお勘定を、あの時、全部ツネ子の
負担にさせてしまったという俗事さえ、次第に
気になりはじめて、ツネ子もやはり、下宿の娘や、
あの女子高等師範と同じく、自分を脅迫するだけの
女のように思われ、

遠く離れていながらも、絶えずツネ子におびえていて、
その上に自分は、一緒に休んだ事のある女に、
また逢うと、その時にいきなり何か烈火の如く
怒られそうな気がしてたまらず、逢うのに
頗すこぶるおっくうがる性質でしたので、

いよいよ、銀座は敬遠の形でしたが、しかし、
そのおっくうがるという性質は、決して自分の狡猾
こうかつさではなく、女性というものは、休んでからの事と、
朝、起きてからの事との間に、一つの、塵ちりほどの、
つながりをも持たせず、

完全の忘却の如く、見事に二つの世界を切断させて
生きているという不思議な現象を、まだよく呑みこんで
いなかったからなのでした。

十一月の末、自分は、堀木と神田の屋台で安酒を飲み、
この悪友は、その屋台を出てからも、さらにどこかで
飲もうと主張し、もう自分たちにはお金が無いのに、
それでも、飲もう、飲もうよ、とねばるのです。

その時、自分は、酔って大胆になっているからでも
ありましたが、「よし、そんなら、夢の国に連れて行く。
おどろくな、酒池肉林という、……」
「カフエか?」

「そう」 「行こう!」  というような事になって二人、
市電に乗り、堀木は、はしゃいで、「おれは、今夜は、
女に飢え渇いているんだ。女給にキスしてもいいか」  
自分は、堀木がそんな酔態を演じる事を、あまり
好んでいないのでした。

堀木も、それを知っているので、自分にそんな念を
押すのでした。
「いいか。キスするぜ。おれの傍に坐った女給に、
きっとキスして見せる。いいか」 「かまわんだろう」

「ありがたい! おれは女に飢え渇いているんだ」
銀座四丁目で降りて、その所謂酒池肉林の大カフエに、
ツネ子をたのみの綱としてほとんど無一文ではいり、
あいているボックスに堀木と向い合って腰をおろした
とたんに、ツネ子ともう一人の女給が走り寄って来て、
そのもう一人の女給が自分の傍に、

そうしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたので、
自分は、ハッとしました。
ツネ子は、いまにキスされる。惜しいという気持では
ありませんでした。自分には、もともと所有慾と
いうものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持は
あっても、その所有権を敢然と主張し、人と争うほどの
気力が無いのでした。

のちに、自分は、自分の内縁の妻が犯されるのを、
黙って見ていた事さえあったほどなのです。自分は、
人間のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。
その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。

ツネ子と自分とは、一夜だけの間柄です。
ツネ子は、自分のものではありません。
惜しい、など思い上った慾は、自分に持てる筈は
ありません。けれども、自分は、ハッとしました。

自分の眼の前で、堀木の猛烈なキスを受ける、
そのツネ子の身の上を、ふびんに思ったからでした。
堀木によごされたツネ子は、自分とわかれなければ
ならなくなるだろう、しかも自分にも、ツネ子を
引き留める程のポジティヴな熱は無い、

ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネ子の不幸に
一瞬ハッとしたものの、すぐに自分は水のように
素直にあきらめ、堀木とツネ子の顔を見較べ、
にやにやと笑いました。
・・・

つづく

Author :太宰治 
生年: 1909-06-19 没年: 1948-06-13
太平洋戦争に向う時期から戦争末期までの
困難な間も、妥協を許さない創作活動を続けた
数少ない作家の一人である。



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…







P R :

Bu

隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月19日 (土)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・


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消えた少年

昭和59年1月10日午前9時30分ごろ。北海道札幌市 
豊平区に住む、城丸 隆氏の家の電話が鳴った。
この日はまだ札幌市内の学校は冬休みで、たまたま
電話の近くにいた次男で小学校4年生の秀徳君(9)が
電話に出た。

この電話も後で考えれば不信な電話だった。
電話に出た秀徳君は、家族の誰とも電話を代わらず
相手の話を聞いている。
たまたま自分宛てにかかってきた電話だったのだろうか。
しかも秀徳君は時おり「はい・・はい・・。」と
返事をしている。友達と話しているという感じではなく、
まるで年上の誰かに文句でも言われているような対応だ。

「誰からの電話?」母親が近寄ってそっと尋ねてみるが
秀徳君は返事をしない。
間もなく電話は終わり、受話器を置いた秀徳君は、
「ちょっと出かけて来る。」と言い出した。

「どこへ行くの?」と母親が尋ねる。
「ワタナベのお母さんが、僕のものを知らないうちに
借りたらしいんだ。それを返したいと言ってる。
函館に行くと言ってる。車で来るからそれを
取りに行くんだ。」

その場には父も兄もいたが、誰も言っている意味が
よく分からなかった。
秀徳君はすぐに出かける用意をして玄関で
長靴を履(は)き始めた。

「寒いからジャンバーを着て行きなさい。」母親が言うと、
ジャンバーを着た秀徳君はすぐに家から出発した。
悪い予感を感じたのか、母親は長男(小6)に
「秀徳の後をつけて。」と頼んだ。

すぐに兄も家を出た。前日降った雪の積もる道を
秀徳君が歩いていく。その後を兄が追う。
しばらく歩いて秀徳君は「ニ楽荘」というアパートの
あたりで左に曲がった。

しかし姿が確認出来たのはここまでで、兄は近眼で
慌てて家を出たためにメガネをかけないまま
出て来てしまったのだ。左へ曲がったところまでは
見えたが、その後秀徳君がニ楽荘に入っていったか
どうかまではよく見えなかった。

ニ楽荘に近寄って辺りを見まわしたが、秀徳君はいない。
ニ楽荘の隣には「ワタナベ」という家が立っている。
これが秀徳君の言っていた家だろうか。
しばらくそこで待っていたが秀徳君が出て来ないので、
兄はいったん家に戻って母親に報告し、母親と
一緒に再びここへ戻って来た。

しばらく待ってみたが秀徳君は現れる様子はない。
母親は思い切ってワタナベ家のインターホンを押して
尋ねてみることにした。
ワタナベ家にはその時、高校三年生の娘が一人で
留守番をしていたが、秀徳君のことを尋ねても
「誰も来ていませんけど・・。」と言う。

ことの経緯を伝えても、電話などはかけていないという
返事だった。この家にいないとなれば手がかりはない。
母親と兄は手分けしてその辺りを探し回ったが、
秀徳君を見つけることは出来なかった。

父親に相談し、12時30分ごろ、交番に捜索を頼んだ。
連絡を受けた警官はすぐに辺りの聞き込みを行った。
目撃者は案外すぐに見つかった。

ニ楽荘の2階に住む工藤加寿子(くどうかずこ)という
女性が秀徳君に会ったと証言したのだ。
工藤加寿子は2歳の娘と2人暮らしで、以前は
ススキノでホステスをしていが、勤めを辞めたばかりで、
この日も家にいたのだ。

しかしこの工藤加寿子こそ、後に秀徳君の誘拐容疑で
逮捕されることとなる女性である。

この時加寿子は、警官に対して「今日の午前中、
外の空気を吸いにアパートの前の道路に出て、
5分くらいで部屋の前まで戻ったんですけど、その時に
小学生くらいの男の子が近づいて来て
『ワタナベさんの家を知りませんか。まっすぐ行って
階段を昇る家だと聞いたんですけど。』と尋ねるので
『隣の家がワタナベさんだけど、その家でないの?』
と言うと『どうも。』と言って立ち去りました。
その後私は部屋に戻ってドアを閉めました。」
と答えている。

ワタナベ家は一軒屋ではあるが、玄関が二階にある
造りになっている。
階段を昇る家という言葉には確かに該当する。
警官はワタナベ家にも事情聴取を行ったが、
留守番の女子高生は先ほどと同じ答えを困ったように
繰り返すだけだった。

更に任意でワタナベ家の家の中も捜索したが、
秀徳君は見つからなかった。

この後警察は公開捜査に切り替えて捜索を行ったが、
何も手がかりは得られなかった。また、誘拐ならば
犯人側からの何らかの連絡がありそうなものだが、
それもない。

事件は秀徳君の失踪(しっそう)という形でいったん
終了し、これ以降の展開は何もなかった。
ただ、最後に接触した人物が工藤加寿子ということもあり、
加寿子に対して容疑者として警察は疑いを
持ってはいたものの証拠は何もなく、捜査は
行き詰まることとなった。


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▼もう一つの疑惑

工藤加寿子は昭和30年に北海道 新冠(にいかっぷ)町 
節婦(せっぷ)に生まれ、中学までここで過ごした後、
集団就職で東京の紡績会社に就職した。

しかしすぐにそこを辞め、19歳の時から熱海の
スナックで働くようになった。これ以降、夜の世界で
横浜や神戸の店を転々とするようになる。

昭和57年に上野のショーパブのオーナーと結婚し、
娘が生まれたのだが翌年離婚し、子供を連れて
北海道へ帰って来ていた。

秀徳君が失踪して2年後である昭和61年、加寿子は
樺戸(かばとぐん)郡 新十津川町の農家の男性と
見合い結婚した。加寿子にとっては二回目の
結婚である。

相手は初婚で35歳の和歌 寿美雄さんという男性だ。
寿美雄さんの方が加寿子を随分と気に入り、
結婚を決めた。
ただこの結婚は、寿美雄さんの親戚や身内からは
反対の声が上がっていた。

寿美雄さんは農家で生きてきた男、加寿子は
東京にもいて、夜の店で生きてきた女で、
これまでの環境が違い過ぎてうまくいくはずがないと
誰もが思ったのだ。

「農作業はやらんでいい。ただ家にいてくれれば
いいから。」農作業は手伝わないという約束で、
寿美雄さんの住んでいた二階建ての一軒屋で
2人で暮らすこととなった。

だが周囲の思った通り、2人はやはりうまくは
いかなかった。約束とはいえ、忙しい時期でも
加寿子は全く農作業を手伝わずに、しょっちゅう
パチンコに出かけ、昼まで寝ていて食事の用意も
ほとんどしない。

時々娘を連れて札幌に遊びに行き、一週間くらい
帰らない時もあった。
金を渡さないと怒鳴りだし、保険金の名義も自分
(加寿子)を受け取り人に書き換えさせた。
また、寿美雄さんは将来家を建てるつもりで
2千万円ほど貯金していたのだが、それも
気づかない間に加寿子に全て使われていた。

寝室も別々で一階を加寿子、二階を寿美雄さんが
使っており、冷蔵庫や洗濯機も別々だった。
家庭内別居とほとんど変わらないような生活である。
寿美雄さんからすれば、家事や作業もほとんど
しない上に金だけ吸い上げられているようなものである。

結婚してから寿美雄さんの顔から生気がなくなり、
顔色がだんだんと悪くなっていった。
こういった生活を寿美雄さんは、仲の良かった
義理の兄にたびたび相談していたが、

ある日2人で酒を飲んでいる時、寿美雄さんは
「俺、殺されるかも知れない。」と真剣な顔で
兄に訴えた。
保険金の名義のことや、加寿子の金使いの荒さ、
結婚してから体調がだんだんと悪くなっていたことなど、
保険金殺人の可能性を薄々感じ始めていたのだ。

元々加寿子に良い印象を持っていなかった兄は
この時から寿美雄さんに離婚を勧めている。また、
親戚たちからも「無理やりにでも離婚させなければ。」
という意見が出始めていた。

そして昭和62年12月30日深夜、事件は起こった。
寿美雄さんの家が火事になったのだ。
午前3時ごろ寿美雄さんが寝ている部屋から
出火した炎は、またたく間に燃え広がり、
家全体に広がった。

義理の兄の家にも近所の人から電話で連絡が入った。
兄の家は寿美雄さんの家が見える場所に建っている。
急いでカーテンを開けてみると、寿美雄さんの家が
炎に包まれているのがはっきりと見えた。

「やられた!」思わず兄は叫んだ。
あの女の仕業に間違いない。兄は直感した。
火災がおさまったのは2時間後の午前5時ごろである。
焼跡から寿美雄さんの焼死体が発見された。

加寿子と娘は逃げていて無事だった。
しかし後の調査で加寿子の不信な行動が次々と
発覚することになる。

深夜の火災であるにも関わらず、寝まき姿などで
慌てて逃げたような様子がない。
加寿子と娘は逃げる準備が整っており、
髪もセットして靴下も履(は)いている上に
ブーツを履き、きちんと外出用の服を着ていた。

二階で出火したことを気づいた時点で、一階で
寝ていたはずの加寿子は自宅から119番出来た
はずであるが、それもせずに近くの家に助けを
求めに行っている。
それもすぐ隣の家ではなく、300メートル先にある
二番目の隣の家を訪れている。

緊急事態ならば家のドアを激しく叩いて助けを
求めそうなものであるが、娘と手をつないで玄関の
チャイムを鳴らして相手が出てくるのを待っていた。

焼け残った納屋(なや)には、火災の間に家から
持ち出した衣装箱が積み上げられていたが、
中身は加寿子と娘の物ばかりで、寿美雄さんの物は
何も入っていなかった。

寿美雄さんには1億9千万円の保険金が
かけられており、受け取り人は加寿子になっている。
親戚一同も当然保険金殺人を疑う。

警察も事件の方面から調査を開始したが、
消防が出火原因を特定出来なかったこともあって
加寿子の放火が立証されることはなかった。

しかし保険会社は保険金の支払いを拒否し、
加寿子も後に保険金請求を取り下げている。
そしてこの後加寿子は新十津川町を去って行った。

四十九日の法要の時には出席した親戚たちから
激しく問い詰められたが加寿子は疑惑を全面否定し、
あくまでも悲劇の妻の立場を貫いた。


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▼火災の跡から発見された人骨

寿美雄さんの家が焼け落ちてから半年後、
あの時の火災で焼け残った納屋の中を、
寿美雄さんの義理の兄が片付けていた。

棚の上を片付けようと、そこに置かれてある
ビニール袋を手にとってみた時、その中に
妙なものが入っていることに気づいた。

それは何かの骨だった。骨は焼かれた形跡があり、
細かく砕かれている。
加寿子を放火殺人の犯人と疑っていた兄は、
『あの女、まさか別の殺人でもしているのでは?』
との考えが頭をよぎり、念のため警察に通報した。

すぐに警察が来て骨の鑑定をすることとなった。
骨は人骨であり、血液型や歯の大きさから、
行方不明になっていた城丸 秀徳君のものでは
ないかと推定された。

「ワタナベさんの家に行って来る。」といったまま
行方不明となり、加寿子が最後の目撃証言をした、
あの秀徳君である。

この時点で秀徳君の事件から4年が過ぎていた。
義理の兄も、この時になって初めて加寿子が
誘拐犯として警察からマークされている
人物だと知った。

あの時から行き詰まっていた「秀徳君失踪事件」が
再び動き出した。
秀徳君が失踪した当時から、加寿子には多額の
借金があったことも判明している。

城丸秀徳君の父親は会社社長で、家も町内では
目立つ豪邸である。そのため加寿子がここへ
目をつけ身代金目的で秀徳君の誘拐を企て、
電話で誘い出して拉致(らち)するところまでは
成功したものの、思ったよりも警察の捜査が早く、
身代金を断念して秀徳君を殺した、と
警察は推定した。

捜査の結果、秀徳君が行方不明になったのは
1月10日の午前中だが、その同じ日の夕方、
加寿子がニ楽荘から大きなダンボール箱を
運び出して親族の家まで運んだことが
明らかとなった。

その後、その大きなダンボール箱は加寿子の
引越しに合わせて持ち運ばれ、最終的に
新十津川町の嫁ぎ先の農家で燃やされた。

この時加寿子が燃やしていたのを覚えていた
人もおり、周囲に異様な臭(にお)いが
立ち込めていたと証言した。

警察は加寿子を任意聴取したが、「何も知りません。」
の一点張りで、完全に黙秘(もくひ)を貫いた。
聴取は三日間続いたが、世間話には応じるものの
事件については一切しゃべらなかった。

しかも当時のDNA鑑定ではこの骨を秀徳君の
ものだと完全に特定することは出来ず、
それ以外の証拠も何もなく、結局検察は起訴を
断念することになり、加寿子は釈放された。

▼逮捕・無罪裁判

再び秀徳君の誘拐事件が伸展を見せたのはそれから
10年も後のことである。進歩したDNA鑑定の結果、
この人骨が秀徳君のものだと断定され、
事件発生から14年もの時を経て、平成10年11月、
ついに警察は加寿子を逮捕した。
時効成立の二ヶ月前だった。

しかし逮捕されてからも加寿子は以前と全く同じ態度で、
肝心なことは一切しゃべらない。
公判中でもそれは続き、特に第19回公判では
「お答えすることは何もありません。」という言葉を
262回も繰り返している。
容疑を否認した上で完全黙秘を貫き通した。

平成13年5月30日、午前10時、札幌地裁5号法廷で
加寿子の判決が言い渡された。
非常に犯人である確率が高いものの証拠がなく、
沈黙し続けたまま始まった裁判は世間の注目を集め、
TV局も取材に来ていた。しかしそこで出された判決は、
意外なことに無罪判決であった。

ただ判決は無罪であったものの、佐藤学裁判長も
加寿子が潔白であると認めたわけではない。

「被告人が何らかの行為により城丸秀徳君を
死亡させ、その後遺体を保管したり遺骨を
隠していたこと、取り調べの最中、事件との関わりを
ほのめかすような発言をしていたことなど、
被告人が秀徳君を死亡させた疑いは強い。」と、
検察側の主張をほぼ認めている。

以前、加寿子は事情聴取された時に、
「私がしゃべれば事件は全て解決する。」
「私を逮捕すればあと5人逮捕することになる。」と
意味深な発言もしており、犯罪行為を行ったことは
ほぼ間違いない。

しかし決定的な証拠がなかったことと、
「殺意を持って秀徳君を死亡させたと認定するには、
なお合理的な疑いが残る。」という理由で
無罪判決が下されたのである。

殺人罪とは「殺意を持って」人を殺したかどうかが
重要なポイントとなる。殺すつもりで殺したと
認められた場合だけ殺人罪が適用される。

それ以下は傷害致死罪となる。仮に傷害致死罪が
適用されたとしても、事件から年月が経ち過ぎており、
傷害致死罪の時効は加寿子逮捕の7年十ヶ月も前に
成立してしまっているので、今さら罪にすることは
出来ない。

加寿子に刑罰を科すならば、まだ時効となって
いなかった殺人罪の方でなければならなかったのだが、
その殺人罪が「殺意があったとは認められない。」
という理由で成立しなかったのである。

限りない灰色でありながら工藤加寿子は無罪を
勝ち取り、この結果は社会的に大きな波紋を
呼ぶこととなった。
要するに、どう考えても犯人に間違いないのだが、
証拠も自供もない灰色の段階では無罪に
なってしまうのだ。

検察側はこの一審の判決を不当であるとして
すぐに控訴したが、平成14年3月、高裁は検察側の
控訴を棄却し、これによって工藤加寿子の無罪は
確定した。また、放火殺人の件も時効が成立した。

そして平成14年5月、加寿子は札幌地裁に対し、
1160万円の刑事補償を請求した。
刑事補償とは、刑事裁判で身柄を拘束された上で
無罪となった場合に支給される補償金のことで、
加寿子は拘束されていた928日に対し、
一日当たりの上限12500円を請求したのである。
また、この他にも裁判費用も請求した。

その半年後の11月、札幌地裁は加寿子に対して
刑事補償928万円と弁護士費用250万円の支払いを
認める決定をした。
補償金は一日当たり一万円の計算となる。

「誘拐殺人と放火殺人の真の犯人が工藤加寿子
であったならば」という前提ではあるが、
一つは無罪、一つは時効、そして釈放され、
補償金と弁護士費用1178万円を支給された
ということは、この事件は犯罪者側の完全勝利に
終わった事件と言える。
・・・


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった 


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、  人生、絵模様、万華鏡…





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Bu

隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月18日 (金)

妄想劇場・チャンネルニュース・掲示板

V0151111114


幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
   不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない

加藤一二三九段が引退を決めた後に
マスコミの取材を拒否した理由に羽生夫人が
涙した…!


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「ひふみん」の愛称で知られる加藤一二三 九段が、
2017年6月20日に行われた
竜王戦6組昇級者決定戦をもって引退しました。

加藤九段が棋士になったのは14歳の時です。
当時、史上初の中学生棋士ということで注目を集め、
その後63年間棋士として活躍し続けました。

最後の対局後、報道陣からは加藤九段に
コメントを求める声が寄せられました。
しかし彼は報道陣に対して15分ほど長考し、
「感想戦(対局を振り返ること)はしません」
と言い、その場を後にしたのです。

いつもなら快くインタビューに答える加藤九段が、
この日だけコメントを控えたのには理由がありました。
多くの人が感動したその理由は、・・・

引退の報告

加藤一二三 九段が最後の対局後、
報道陣に対してコメントをしなかった理由について、
その翌日に加藤九段はこのように答えました。
「一番最初は、家族に報告したかったから」・・・


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現役最年長の棋士、加藤一二三(ひふみ)九段(77)が
6月20日午前10時から、「第30期竜王戦」
ランキング戦6組で高野智史四段との対局に臨んだ。
この対局に勝てば、自身の持つ史上最高齢勝利記録
(77歳0カ月)を更新するが、敗れれば即引退となる。

加藤九段は1月19日、棋士の序列を決める
「名人戦」の順位戦C級2組からの降級が確定。
定年規定により今期限りでの引退が決まっているが、
予定される公式戦の全対局が終わるまでは
現役扱いとなる。

加藤九段に残された公式戦は、「竜王戦」
ランキング戦6組の対局のみ。
一つ格上の「5組」に昇格する棋士を決める
トーナメントの対局に敗れたため、63年間の
現役生活に終止符を打つた。 ・・・

Author : NAVERまとめ公式ブログ
https://matome.naver.jp/

          

A9361111111

母は私を育てるため、毎日毎日遅くまで残業していて、
朝しか顔を合わせない日もたくさんありました。

休みの日は、疲れて遅くまで寝ていて、
どこかへ連れて行ってもらった記憶も殆どありません。

父兄同伴の遠足や運動会も、友達みんなが
お母さんと嬉しそうに、手をつないでいるのを見て、
やりきれない気持になりました。

私は手のかからない子供だったと思います。

自分の感情を抑えて、「会社休んで参観日に来て」
なんて、無茶を言ったことなんかもありませんでした。

一人遊びも上手でした。

すべてに遠慮して、幼い頃からおとなに敬語を
使う子供でした。
小学校3年の時でした。
遠足に行った後、作文を書くように言われました。

「五感」をテーマに書くように言われました。

先生は、視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚について
説明してくれました。
私はその中で触覚というものをテーマに選びました。

遠足でこんなことがあったのです。
山道を歩き、学校までの道でのこと。
皆2列になって、手をつないで歩くわけですが、
私は列の一番後ろを歩いていました。

生徒の数が奇数だったため、
私は一人で歩いていました。
一人でいるのが上手だから、
こんな時の巡りあわせも、やっぱり一人。

そんなことをぼんやり思いながら、
ぽつねんと歩いてました。
その時、ふいに私の肩をたたく人がありました

先生が来て、私の肩をたたき、
微笑んでくれました。
そして、私と手をつないで歩いてくれたのです。

いつも先生が手をつなぐのは、もっと手の
かかる子ばかりで、私はいつも心の中で、
羨ましいと思ってました。

なんだかすごくドキドキ嬉しくて、歩いてるうちに、
目の前がうっすらぼやけてきました。
前がよく見えないまま学校に着きました。

作文には、遠足の帰り道での、
先生の手の温かさについて、書きました。

私の作文を読みながら、先生が、
「手くらい、いつでもつないであげるのに」
と震える声で言って、
私の手をもう一度つないでくれました。

友達たちは、私の作文に何が書いてあったか
気になるみたいで、私に聞いてきました。

でも、私は照れくさくて、走ってトイレに
逃げ込みました。
鏡を見たら、涙がこぼれそうになっていました。

ブルっと顔を洗い、パンパンと頬っぺを打って、
にっこり笑顔を作りながら、教室に戻りました。
・・・


            

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スティーブ・ジョブズは自分が作った会社から
一度はクビになります。
さらに再度復帰して、ITにおけるアップルの
地位を絶対的なものにしました。

1997年、ジョブズが復帰した直後のアップルは
経営に行き詰まり、銀行口座には、2週間分の
運転資金しか残っていませんでした。

いろんな危機を何度もくぐり抜けてきたジョブズですが、
お金のやりくりは不得手の方でした。
絶体絶命の危機の時です。

しかし、この状況で救いの手を差し伸べた
人物がいます。それがアップルと長らく
ライバル関係にあった、マイクロソフトの
ビル・ゲイツだったのです。

当時、両社は著作権において10年以上も裁判を
続けており、決していい関係とはいえませんでした。
ゲイツは、1億5千万ドル(約180億円)の出資と
マック用のオフィスソフトを開発することを
約束しました。

優れたビジネスマンでもあるビル・ゲイツは、
ここでなぜライバルの窮地に手を差し伸べる
ようなことをしたのでしょう?

敵に塩を送るには、あまりにも桁外れの塩の量です。

金持ちケンカせずという言葉もありますね
ビル・ゲイツは、その時のことをこう言っています。

「うちの社内にはマックの好きな開発グループが
いましたし、 我々はマックが好きでしたから」と、
これは表向きの談話でした。

マイクロソフトの暗黙のルールとして、こういう
不文律があります。
「味方と仲良く、敵とは更に仲良くしろ」

実は、この言葉はマフィアの掟として、
口伝えされている言葉だそうです。

※ ビル・ゲイツやマイクロソフト社は、
マフィアとの関連はありません。

経営戦略的な視点からは、こんなことも
言えます。
「出資する」とは、その会社の株主になると
いうことです。
大きな株主になれば、その会社を所有する
ことになります。

その時点でボロボロのアップルであっても、
その潜在価値を知るビル・ゲイツにとっては、
お安い買い物として株主になった、・・・
ということも言えるでしょう。
・・・

Author :ゆるゆる倶楽部
http://yuru2club.com/wp/


「助けて!」人間の病院に助けを求めにきた
妊娠中の野良猫!
お腹の子を守るために必死の行動だった・・・





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Bu

隙間産業(ニッチ市場)


2017年8月17日 (木)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


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■.メキシコ人とアメリカ人の反目

テキサスからカリフォルニアにかけて、アメリカと
メキシコとの国境沿いに、マキラドーラと呼ばれる
保税地域が点在している。
アメリカ側から部品を無税で持ち込んで、メキシコの
安い労働力で組み立てし、またアメリカ国内に
出荷するという形で、多くの企業が集まっている。

テキサス州のエルパソもその一つで、メキシコ側の
ファーレス市とリオ・グランデという川一つ挟んで、
隣接している。
エルパソから、ファーレスに入ると、道路は穴だらけ、
住居は小さく貧しく、高層建築も全然ない、
というように貧富の差は歴然としている。

ここにある日系企業で聞いた話では。
メキシコ人とアメリカ人との対立の深刻さに、
日本人はみなびっくりするという。

アメリカ人はメキシコ人を馬鹿にし、メキシコ人は、
もともとメキシコのものだったテキサス、ニューメキシコ
からカリフォルニアに至る広大な領土をアメリカに
戦争や詐欺まがいの手段で取られたことをうらんでいる。

(エル・パソ、ロサンゼルス、サンフランシスコ等、
皆スペイン語の地名である。) 
したがってアメリカ人がメキシコ人を使うと、なかなか
うまく行かないという。

ところが、間に日本人が入るとスムーズに行くそうだ。
アメリカ人から見れば、日本人は雇い主なので当然
一目置くし、メキシコ人から見ると、日本人は差別を
しないので安心だという。

さらに同じ非白人が、アメリカ人を使っているのは、
メキシコ人としてもうれしいという感情もあるようだ。

■.
自らの文化を失ったメキシコ人

メキシコ人はアメリカに土地を奪われ、今は経済的に
従属しているが、さらにかわいそうなのは、固有の
文化・文明そのものをスペイン人に破壊されて
しまったという点である。

彼らの話すスペイン語は、その文化・文明を滅ぼした
侵略者の言葉である。
彼らの固有の神話、文学、宗教もすべて失われ、
文化的には二流のスペイン人となってしまっている。

1521年まで、メキシコにはアステカ文明が栄えて
いたのだが、スペイン人コルテスの侵略に屈した後は、
鉱山開発で過酷な労働を強いられ、
天然痘などの流行もあって人口が激減した。

さらにキリスト教宣教師が固有の宗教を破壊し、
経済的にも教会が国の資産と土地の3分の1を
占有した。人種の混合政策がとられ、スペイン人の
血の濃さに従って、複雑な階層に分化した。
こうした過程で、アステカ文明は根絶やしに
されたのである。

■.
日本も同じ運命をたどる危機があった

実はこれは日本人にとっても他人事ではない。
戦国時代にスペインやポルトガルからキリスト教の
宣教師がやってきたときに、日本が信長や秀吉のような
すぐれた人物に恵まれず、また民族的なエネルギーも
不足していたら、メキシコ人と同じ運命をたどった
可能性があった。

現実にアジアでもフィリピンがそうなっている。
イエズス会の宣教師たちは、日本を占領するつもりで
来たのだが、その少し前に伝わった鉄砲が日本全土で
10万丁も普及しているのに驚き、本国に
「日本占領をあきらめるべし」という手紙を書いた。

そのかわりに狙ったのが、西国の大名を改宗させ、
それを手下に使って、九州の神社仏閣を破壊し、
さらに明の侵略に使おうとしてのである。

秀吉は、明がスペイン人に征服されては、元寇と
同じ事が起こると考え、外国人バテレン追放令を出し、
さらに先手をとろうと明征伐に向かったのである。

(歴史の教科書では、こうしたスペイン人の侵略を
伏せているので、キリシタン弾圧も、明征伐も、
秀吉の狂気の沙汰としか描けない)

もし日本がメキシコと同じ運命をたどっていたら

もし日本がアステカやフィリピンのように脆弱で、
キリスト教宣教師の野望が実現していたら、
どうなっていたであろう。

今日のメキシコと同様、日本語は忘れさられ、
現在の我々は、ホセだとか、カルロスなどという
スペイン風の名前になっていたことであろう。

白人との混血の度合いで、様々な階級差別が
作られたに違いない。
全国の神社仏閣は破壊され、カトリックの教会が
あちこちに建っているであろう。

日本語や日本文学は、もの好きな考古学者が
研究するだけの存在になっていたであろう。
また植民地として徹底的に収奪されていれば、
江戸時代の文化的物質的蓄積もありえず、
明治維新のエネルギーもありえなかったに違いない。

おそらく没落したスペインのかわりに、台頭してきた
アメリカか、ロシアの植民地となっていたであろう。

■.
誇りと使命感と、思いやりを

今日の日本が数千年の固有の文化・文明を
保ちつつ、かつ経済・ 技術大国として世界に
伍しているのは、まさに我々の先祖の並外れた
能力と志の結果であると言える。

国際派日本人としては、祖先への誇りと感謝、
それを受け継ぎ発展させていこうとする子孫に
対する使命感、

そしてメキシコ人のような虐げられた民族への
思いやりをもって、国際社会に臨んで欲しい。・・・

おしまい


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お春ばあさんは六十才で、お花は七才です。
お花の両親は、お花が三才の時に死んで
しまったので、お春ばあさんはよその家の
畑仕事や針仕事を手伝って暮らしていました。

お花はお春ばあさんが仕事をしている間、
近所の男の子たち相手に遊び回っています。
「お花、今度こそはおらの勝ちだぞ。えいっ!」
「よわいくせに、何を言ってる。やあっ!」
男の子が相手でも、勝つのはいつもお花でした。

夕暮れになってお春ばあさんの仕事が終わると、
お花はお春ばあさんと一緒に家へ帰りました。

「ばあちゃん、今日は、吾助とごん太をやっつけたよ」
じまんげに言うお花に、お春ばあさんはあきれ顔で
言いました。

「お花。棒切れ遊びは、男の子の遊びじゃ。
おなごのするもんじゃあねえよ」
「だって、女の子と一緒に遊ぶなんてつまらんもん。
体は女でも、心は男じゃ」
「やれやれ、死んだ母親にそっくりじゃ」

やがて秋になり、畑のかり入れが終わってしまうと、
お春ばあさんの仕事が少なくなりました。
毎年の事ですが、これから春までは家で針仕事を
する時間が多くなります。

そんなある日、お花がお春ばあさんに言いました。
「わたし、もう遊ぶのをやめる。これからは
ばあちゃんの手伝いをする」

それを聞いて、お春ばあさんはおどろきました。
「どうしたんじゃ? あんなに棒きれ遊びが
好きだったのに。子どもは子どもらしく遊んで
おればええんじゃ」

「だって、ばあちゃんは、いつも夜遅くまで働いて
いるじゃないか。わたしも手伝えば、
夜遅くまで働かなくてもいいだろう」

「何を言っている。お前に手伝ってもらったって、
かえってじゃまになるだけだ。・・・
まったく、急になまいきな事を言いよって!」
そういうお春ばあさんのほおに、ポロリと
うれしなみだがこぼれました。

ところがその冬、お花は流行病(はやりやまい)の
『百日ぜき』にかかってしまったのです。
「ゴホン、ゴホン、ゴホン」
朝も夜も、お花のせきはとまりません。

お春ばあさんは必死で看病をしますが、
小さな村では医者も薬もありません。
「お春、がんばるんだよ。春になれば、
必ず良くなるから」
「うん、ゴホン、ゴホン!」

そしてあんなに元気だったお花は、あっけなく
死んでしまったのです。
お花が死んでしまってから、お春ばあさんは
たましいが抜かれたように何日も何日も
仏だんの前から動こうとしません。

ある日、近所の人が心配してやって来ました。
「お春ばあさん、もちを持ってきたから食べて。
少しは食べんと、体に悪いよ。

お春ばあさんにはつらい事だが、お花はきっと、
あの世でおっとうやおっかあと親子水入らずで
暮らしているよ」

お春ばあさんは、やっと顔をあげて言いました。
「ああ、わたしも、その事だけをいのっていたんだ。
でも、お花はまだおさない。ちっちゃなお花が、
まよわずにおっとうとおっかあのところに
行けるだろうか?

あの世のどこかでまい子になって、一人さみしく
泣いてはせんじゃろうか?
いっその事わたしも死んで、お花を探しに行きてえ」

「何言っているの!死ぬなんて、そんな事を考えたら
だめだよ。
大丈夫、お花はしっかり者だから」
「ああ、そうじゃな。・・・そうじゃと、いいが」

夜になって近所の人が帰ると、お春ばあさんは
また仏だんの前にすわり込みました。
「お花、大丈夫だろうか?どこかで、
ばあちゃんをさがしているんじゃないだろうか?
一人さみしく、泣いていないといいが。

お花は、かわいい子じゃった。
笑い顔なんて、まるでおじぞうさまにそっくりじゃった。
・・・おじぞうさま。 そうじゃ!!」
お春ばあさんは、その夜から、おじぞうさまを
ほり始めました。

おじぞうさまは子どもの守り神で、死んだ子どもを
天国にみちびいてくれると言われています。
そこでお春ばあさんはおじぞうさまをつくって、
早くお花を天国へ送ってやろうと思ったのです。

しかしおじぞうさまを作ることは、年老いた
お春ばあさんには大変な事です。
お春ばあさんは毎日毎日おじぞうさまをほり続けて、
春が来る頃にようやく出来上がりました。

それはお花にそっくりの、小さな小さな
おじぞうさまです。
「これできっと、お春はおっとうとおっかあに
会えるにちがいない」

お春ばあさんはその小さなおじぞうさまを、
村を見渡せる丘の上に置く事にしました。

やがてこのおじぞうさまは『お花じぞう』とよばれ、
村人たちは子どもが百日ぜきにかかると、
お花が大好きだった「いり米」をお供えしました。
するとその子どもは、必ずすぐに良くなったそうです。
・・・・
おしまい


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで
  地蔵が食べたがる


一人の女性に恋した野良犬。
一途に待ち続けた結果、驚くべき展開が・・・





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Bu

隙間産業(ニッチ市場

2017年8月16日 (水)

妄想劇場・韓信外伝 (馬邑失陥)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
 明日という日はミステリー


メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
 良いかな・・・


アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい



Kansin


韓信外伝 (馬邑失陥)


「韓王さまにはご機嫌うるわしゅう……」  
使者はそんな型通りの口上を言葉にし、だらだらと
時節の挨拶を繰り替えしてなかなか本題に入ろうとしない。
韓王信はしかし、それを遮ったりはしなかった。

使者が本当に言いたいことを聞くのが怖かったからである。  
あるいは使者が用件を率直に言わないのも、言うのが
怖いという事情があるかもしれないと感じられた。
そうでなければ自分の反応をうかがっているのだろう。

だとすれば、このたびの話はやはり、よほど深刻な
ものだと思われる。そう思うと余計話を聞くのは
ためらわれた。

「使者どの。君は吾のことを先ほどから韓王と呼ぶが、
今の吾はもはや王ではない。強いて言うなら、
もと韓王の信だ。知っての通り匈奴の将軍という
肩書きもあるが……」  

結局彼は使者の言上とあまり関係のなさそうなことから
話を切り出した。しかしこれが話題を展開させる
結果となる。

使者は韓王信の言葉にうまく反応した。
「お話がありましたので言わせていただきます。
実は私どもの狙いは、あなた様に韓王として復権して
いただくことにあります。

つまり韓王さまにはさらに中原に進出していただき、
私どもはそれに連動して挙兵したいと思っております」
「挙兵だと? 鉅鹿の太守はつまり……逆臣なのか? 
吾と行動をともにしようというのか」  
韓王信は目をぱちくりさせながら、使者に問いただした。

彼としては嬉しい事態でもあり、同時に罠の危険を感じる
事態でもある。
「お聞きください。我が主の陳豨は皇帝の信任厚く、
それがために行為に多少の不可解さがあったとしても
皇帝は疑いません。
現在食客を集め、私的勢力の拡充に努めておりますが、
なんの問題も起きておりませぬ。

皇帝は陳豨がそうした行動をとる以上、鉅鹿の鎮撫に
必要なことだと信じて疑わないのです」
「ほう……。それはわかったが、吾の聞きたいことは
少し違う。

吾は、その陳豨とやらが鉅鹿の太守などという重責を
担いながら、なぜ叛逆したいと思ったのか聞きたいのだ」
「話せば長いことになります」
「構わぬ。ぜひ聞きたい」  

使者は咳払いをした後、ゆっくりと話し始めた。
「ご存知のことと思いますが、かつて楚王であった現在の
淮陰侯は陳で捕らえられました。

敵将の鍾離眛を隠匿した罪を問われてのことと
聞いておりますが、その実は将来起こりうる淮陰侯を
核とした叛乱を未然に防ぐ目的です」

「ふむ。淮陰侯は軍事に秀でた男だから、彼自身の
意思はともかく能力は削いでおきたいという皇帝の
腹から出た逮捕劇だろう。

皇帝は淮陰侯の功績のおかげでこそ皇帝になり
得たというのに……ひどいことをなさるものだと
当時吾も思ったものだ」

「我が主の陳豨は逮捕された淮陰侯が雒陽に
護送される際、その守将として先導をなさいました。
そこで二人は親交を深めることとなったのです」

「つまり……?」
「我が主陳豨の叛逆は、淮陰侯が使嗾したものです。
淮陰侯は我が主の人柄を見込み、皇帝に推挙しました。
そして時間をかけて戦略を練り……
我が主が鉅鹿の太守に任命されるにあたってその
計略を実行に移したのです」

「吾にもその計略に乗ってほしい、というのだな。
確かに天下無双と言われた淮陰侯の軍事能力があれば
漢王朝を転覆させることも可能だろう。して、
吾に何をしてほしいのか?」  

韓王信は、この時点で話に乗り気になった。
使者には彼の目が輝いたように見えた。そして、
周囲の側近たちには彼が理想の死に場所を
見つけたように思えたのである。

「現在淮陰侯は手持ちの兵力を持っておらず、
このため大規模な叛乱を自ら起こすわけには参りません。
そこでその役目は我が主の陳豨が担うことになったのですが、
せっかく起こした叛乱がやすやすと鎮圧されてはまずい。
そこで韓王さまには陳豨が劣勢に追い込まれた際に
機を見て兵を挙げていただきたい」

「ふむ」 「そういった争いが二度三度繰り返されて
いくうちに、皇帝はその性格上、我慢しきれなくなります。
先日の匈奴に包囲された経験も忘れ、自ら鎮圧しようと
するに違いありません」

「親征するというのだな。そこを討て、と? 
しかしそれでは話がおかしい。
吾や陳豨が軍を統率して戦うより淮陰侯自ら兵を
率いた方が確実だ。

彼を首都から脱出させ、我らの軍に迎えた方が
よいのではないか?」
「もっともなご意見ですが、それでは駄目なのです」
「ほう。なぜだ?」 「皇帝は淮陰侯を恐れ、
敵対する軍にその存在が確認されれば絶対に
戦いません。十中八九、逃げ出します」

「なるほど。そう言われれば確かにそうだ」
「よって淮陰侯は我が主と韓王さまには時間を稼いで
くれればよい、とおっしゃっております。

つまり皇帝を前線に引きずり出しさえして
もらえればよいと。必ずしも討つ必要はない、とも」
「では……」
「皇帝が首都を留守にした隙に、淮陰侯は独自に
兵を集めて宮殿を襲い、皇后と太子を
捕らえるおつもりです。

その上で皇帝と決戦するのです」
「そうか……皇后と太子を人質に取られたのでは、
皇帝も戦うしかないな」  
韓王信は口に出してはそのような感想を漏らしたが、
内心では驚愕を禁じ得なかった。

あの若くて律儀そうな淮陰侯がそこまでの決意を
しているとは……。  
しかし、同時に快心の笑みを漏らさざるを得ない。  

さすがだ。完璧な作戦だ!・・・

(つづく)


愚人は過去を、賢人は現在を、
狂人は未来を語る




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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…



元禄花見踊り






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Bu

隙間産業(ニッチ市場) 

2017年8月15日 (火)

妄想劇場・都市伝説

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ユダヤの法則の中に『78対22の法則』があります。

78対22という宇宙の法則があり、この世はこの
黄金比でバランスを保っている。と言うのです。

不要に思える22%にも重要な役割があり、この
黄金比を維持しようとする不思議な力がある。
「完璧主義者」がこの黄金比を崩そうとすると、
やがて精神が崩壊する。

切りよく「7対3の法則」や「8対2の法則」ともいわれ、
ビジネスなどにも応用されている。
科学的に「78対22」という黄金比が証明されていたり、
この黄金比が統計の中から見つかっているものも多い。


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地球上の海と陸の割合は78対22。
人の体の水分とそれ以外の割合は78対22。
空気の酸素以外と酸素の割合は78対22。

肺呼吸と皮膚呼吸の割合は78対22。
善玉菌と悪玉菌の割合は78対22。
かかととつま先の体重負荷の割合は78対22。

働きアリの1つの集団のうち、まじめに食料を
集めているのは78%しかおらず、
22%の働きアリはサボっている。

サボっている22%を集団から隔離すると、
まじめに食料を集めていた働きアリの22%が
新たにサボるアリになる。

逆に、まじめに食料を集めいていたアリの数を
減らすと、サボっていたアリの中から、まじめに
働くアリが現れる。
常に78%がまじめに働き、22%がサボる
状態になる。

22%の存在が不要に思えるものも多いが、
この22%が存在することは必要で、アリの例でいうと
サボっている22%は、まじめな78%に何かあった
時のために力を残しているのである。

人の社会においても同じことで、集団が大きくなれば
集団にそぐわない人が現れる。
また「成功者」といわれる人の多くが、他の人より
多く失敗している。
多くの失敗が大きな成功につながっている。

人が気づいていないだけで、まだまだ多くのこの
黄金比は存在し、世界のバランスを保っている。
この黄金比が崩れ始めると黄金比へ戻ろうとする。

黄金比が元に戻らなければ世界は崩壊
することになる。
22%のサボりアリを取り除いても、新たな22%の
サボりアリが現れる。これを続けていけば
その集団は存在できなくなる。

この黄金比を無理に壊そうとするのが
「完璧主義者」である。
100%を目指すことが間違っているわけではないが、
100%になることはありえない。

不要だと感じる22%を取り除こうとすれば、
元に戻そうとする力が働くからだ。
それでも無理やりこの黄金比を壊そうとすれば、
「黄金比を壊そうとする存在」を壊す力が働く。

100%にならないことへのいら立ちやストレスから、
周りからキチガイ扱いされたり疎遠になる。
やがては精神が崩壊する。

多くの芸術家や発明家の晩年が、変人
扱いされていたり、気が狂ってしまっているのは
このためである。

「78対22」という宇宙の法則の不思議な力により、
完璧主義者が「完璧」を成すことはできない。
完璧を成す前に自分自身が壊されてしまう。・・・

78対22 タロットと同じ構成である。

Author :都市伝説
https://tdtaizen.com/



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■ 荒涼たるクラス風景■
平成10(1998)年4月1日、広島県福山市立
加茂中学校教諭、佐藤泰典氏が参議院予算委員会で
学級崩壊の実態について 衝撃的な証言を行った。
たとえば、

始業のチャイムが鳴って教員が教室に行った時、
生徒はほとんど席についておりません。
その生徒たちを教室に入れて席につかせるのに
五分から十分ぐらいかかります。

やっとの思いで授業を始めても、教室の窓から
抜け出したり、もっとひどい時は、廊下を自転車で
二人乗りして、「イエーイ」と声をあげながら手を振って
他の先生や生徒をからかったりという状態です。  
教室に残った生徒も後ろの方でボール遊びをしたり、
机の上に足を上げてマンガを読んでいます。

それでは先生はというと、生徒たちに背中を向け
黒板に向かって黙々と字を書いているという状態です。
何名かの生徒が黒板の近くに行って字を写しています。

しかし、こうした真面目な生徒たちも言い掛かりを
つけられて校舎の裏や屋上に呼び出されて殴られたり、
お金をとられたり、いじめられたりします。

バラバラに遊び回る生徒達、
「生徒に背中を向け」黒板に字を書き続ける先生、
お互いの心のつながりを失った荒涼たる
クラス風景である。
なぜこんなことになったのか。

■ 学力低下と非行増大■  

佐藤教諭が証言をした広島県の公教育は、
学力面、素行面ともに、まさに惨状としか
言いようがない。  
大学入試センターは、毎年、国公立大学入試センターの
試験データを公表しているが、広島県の学力低下は
著しい。
平成2年に47都道府県中21位だったのが、
平成8年には45位まで急降下した。  

また平成9年の全国調査によると、同県の少年
(14歳以上、20歳未満)人口千人あたり、
犯罪少年は23.9人で全国1位の高率である。

これらのデータから見ると、佐藤教諭の証言した
クラス崩壊は、一部の学校の特殊な状況ではなく、
程度の差こそあれ、学力低下、非行増大など、
県全体で教育の荒廃が進んでいると言ってよいだろう。

■ 平等教育の結果は■  

問題は、このような教育の荒廃がなぜ起きたかである。
学力低下の原因の一つとして言われているのは、
偏向教師による行きすぎた平等教育である。  
ある中学校で、高校受験を控えた3年生を対象に
「進路」を題材にした授業が行われた。

教師が作成した学習計画には、「差別と選別の
受験体制にクラスとして具体的にどう戦っていくか、
明らかにする」という授業目標を設定し、
「差別」と戦う生き方として、

「1、底辺校に進学すること。
2、塾の受験競争と戦うこと」等々が例示されていた。
受験を控えた生徒を、反受験体制の闘士とすべく
洗脳しているのでは、学力は落ちるのは当然である。  

こうした教師は、受験体制に象徴される成績評価を
「平等」に反する事と考えているようだ。
運動会では順位をつけるような徒競走やリレーは行わない、
クラスでは勉強の出来る生徒が手を挙げても指名しない。  
さらに生徒の学習意欲や行動を評価する指導要領も、
記入を拒否する。

福山市の公立中学校27校のうち、20校で
各教科所見欄が未記入となっていた。
この背後には未記入を指示した「教員向けマニュアル」が
あって、「各教科の関心・意欲・態度は教職員の
指導性の問題。

子供にのみ責任を負わせ『C』(努力を要する)と
評価する差別に加担することはできません...
空欄とする」と書かれている。  

これでは真面目な生徒は、成績をあげようという
意欲を失い、不真面目な生徒も、安穏として
怠けていられるわけである。

過度の平等主義が、やる気を失わせるというのは、
すでに共産圏でさんざん見られた失敗である。
たとえば、中国の国営企業の大半が赤字で、
国家財政全体を危機に陥れているが、
その縮図が日本の学校の中で起きてるのである。

■ 人権教育の果てに■  

もう一つの青少年犯罪の方はどうか。平成10
(1998)年の7月に広島県立沼南高校の一年生が、
非行少年グループに暴行や恐喝を受け自殺するという
事件が起きている。

事件後の高校側の調査では、生徒の7割が
「集金」「カンパ」と称する恐喝を受け、2割の生徒は
暴行を受けていた事が分かった。
こういう状態に教師達はどう対応していたのか。  

一年生の自殺のあと、学校側が実態調査や関係生徒の
処分に乗り出した所、日教組所属の教師の一人が
「加害者とされた生徒の人権をどう考えるのか」と
校長に詰め寄ったという。

ある小学校で起きたいじめ事件について、保護者
懇談会の席上で、教師が「なぜいじめている子供に
注意しなかったのか」との質問が相次いだ。
答弁にたった教頭は「先生は警察官ではありません。
ルールを押しつけることは教育ではありません。
子供同士が注意し合うのを待っているのです。」と
答えたという。

すべてのルールの押しつけは、人権尊重、自主性尊重に
反すると考えているようだ。
「生徒人権手帳-生徒手帳はもういらない」
(三一書房)という本は「子どもの権利条約の順守」を
掲げる全国の中高生の間でバイブル的存在になっている。

この本には「生徒の人権」として、次のような項目が並ぶ。
「遅刻をしても授業を受ける権利」
「飲酒・喫煙を理由に処分を受けない権利」
「セックスするかしないかを自分で決める権利」
「子供を産むか産まないかを決めるのは女性自身の権利」

…伝統的な道徳や規範の否定が、犯罪を激増させ、
社会の基盤を崩壊させるのも、共産主義国で
良く見られる現象である。

中国で1996年の一年間で死刑にされたと確認されたのは、
4,367人、実体はその数倍と推定されている。
確認された数値だけでも、他のすべての国の
合計の3倍である。
中国と同様の無法社会が、日本の教育現場に
発生していると言えよう。

■ 官僚的腐敗■  

平等教育による成績の低下、人権教育のよる犯罪の
激増、と、広島県の公立校の荒廃は、まさに
共産主義国家で起こった経済・社会崩壊のミニチュア版と
言える。共産圏では、これに共産党や政府の官僚の
腐敗が加わるが、この点はどうだろうか?  

国が定めた一年間の標準授業時間は1050時間だが、
文部省の調査では、福山市の中学校27校を平均すると、
3年生は857時間しかない。しかも、この中には
教師不在の「自習時間」がかなり含まれている
可能性が高い、と指摘されている。
これはまさに組織的怠業である。

また広島県内では、公立高校で授業中に有料の
進路指導試験「中国ブロックテスト」を実施しているが、
問題の作成や、採点に県内11校の現職教員が携わり、
平成10年度は5百万円が支払われた。  

許可を受けないアルバイトは、地方公務員法の
『兼職禁止』の規定に抵触する。
それだけではない。教師の立場を利用して、
生徒に強制的に有料のテストを受けさせ、
自分はその収益の一部をとるというのは、
まさに権力を悪用した搾取である。  

組織的怠業といい、立場を悪用した搾取といい、
やはり共産圏の党幹部、政府官僚の腐敗と同じ事が
起こっているのである。

■ 閉ざされたクラスルーム■  

以上のように、広島の公教育で起こっている事は、
まさに共産主義国で起こった経済・社会・政府組織の
崩壊の縮図である。

そしてその原因は、いったん公立校に入ってしまえば、
生徒には先生を選ぶ権利もなく、また保護者も、
内申書を握られては、表だった抗議はできない、
という教師側の独占的な権力があるからである。

いわば共産党が国家権力を独占して、国家を
私物化するのと、同じメカニズムが働いている。  
6月16日に、広島市内で開かれた新社会党県本部の
決起集会では、矢田部理・新社会党中央本部委員長は
「政治、行政は教育の中身に口をはさんではいけない。
平和、人権を教えるのは教師の義務であり、権利だ」と
述べた。

税金で運営されている公立校を私物化する権利が
教師にあるという主張は理解しがたい。
さらに無気力と恐喝・いじめの中に放置されている
子供達の平和と人権は眼中にないのか。

このように教師の独占権力で閉ざされたクラスルームでは、
北朝鮮と同様、外の情報がなかなか入らないので、
一般社会の常識はまったく通用しなくなる。

たとえば、国旗国歌に関して、平成4(1992)年2月に、
当時の菅川健二・県教育長名で、入学・卒業式の
国旗(日の丸)掲揚、国歌(君が代)斉唱にブレーキを
かけるような文書が同県高等学校教職員組合に
提示された。  

その文書は「菅川確認書」「二・二八文書」と呼ばれ、
君が代が国民の十分なコンセンサスを得られて
いないこと、
日の丸が天皇制の補強や侵略、植民地支配に
援用されたことなどが教育内容として補完されなければ、
君が代斉唱や日の丸掲揚はできない、という
趣旨である。  

福山市のある会社役員は、商社マンとして海外で
十年以上暮らした経験から、「海外では国旗掲揚は
当然という感覚。国旗・国歌に“アレルギー反応”を
示す教員たちは、感覚がずれているとしか
思えない」と話している。

グローバル化の流れから最も取り残されているのは、
こうした閉ざされたクラスルームなのである。

・・・



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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
世は歌につれ、
人生、絵模様、万華鏡…




なんや知らんけど








2017年8月14日 (月)

妄想劇場・一考編・ニュースの深層

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・

 

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詩人・茨木のり子さんの詩に、
「苦しみの日々 哀しみの日々」という作品があります。

 苦しみの日々
 哀しみの日々
 それはひとを少しは深くするだろう
 わずか五ミリぐらいではあろうけれど

 さなかには心臓も凍結
 息をするのさえ難しいほどだが なんとか
 通り抜けたとき 初めて気付く
 あれは自らを養うに足る時間であったと

 少しずつ 少しずつ深くなってゆけば
 やがては解るようになるだろう
 人の痛みも 柘榴のような傷口も
 わかったとてどうなるものでもないけれど
(わからないよりはいいだろう)

 苦しみに負けて
 哀しみにひしがれて
 とげとげのサボテンと化してしまうのは
 ごめんである

 受けとめるしかない
 折々のちいさな刺や 病でさえも
 はしゃぎや 浮かれのなかには
 自己省察の要素は皆無なのだから

茨木のり子さんは大正十五年、大阪府に生まれました。
上京後、学生として戦中戦後の動乱期を生き抜き、
昭和二十一年に帝国劇場で見たシェークスピアの
『真夏の夜の夢』に影響を受け劇作家としての
道を歩み出します。
その後、多くの詩や脚本、童話、エッセイなどを発表し、
平成十八年に八十歳で亡くなります。

茨木さんの作品はどちらかと言えば反戦色が強く、
過激なものが目立ちますが、
「苦しみの日々 哀しみの日々」はそれとは趣の異なる、
内省的で穏やかな詩の一つです。
おそらく作者自身、いろいろな人生体験を経ていて、
それを克服していく過程でこの詩は生まれたのでしょう。

私たちは人生の中で
時として大きな試練や困難に直面することがあります。
「苦しみなんて嫌だ」
「この苦しみさえなければ幸せに生きられるのに……」
と思ってしまいがちですが、
苦しみをしっかりと受け止め、味わうことがなければ、
自己省察、すなわち自分の内面を見つめることの
ないままかけがえのない人生の時間が過ぎ去ってしまう。
この詩はそのことを私たちに教えてくれているのです。

人間に苦しみが与えられるのはなぜなのか。
それは自己を省察し、
深く自分を見つめるためである、という
茨木さんの考えは
まさに人生の試練に直面した時の
大切な心の姿勢だと思います。

テレビを見ていて感動的だった話しです。

それは三・一一(東日本大震災)で
愛するご両親を失った小学生の女の子の話です。
その子は小学校に入学したばかりの頃、
運動会のかけっこで転んで一番ビリになったことが
ありました。悔しくて泣きながら応援席にいた
お母さんのところに行ったところ、お母さんは
しっかり抱きしめながら「よく頑張ったわね」と
励ましてくれたといいます。

その子はいま上級生となり、
陸上競技でクラスの代表選手に選ばれるまでに
成長しました。
ライバルとの競争心をむき出しにするのではなく、
一年生の頃抱きかかえてくれたお母さんの
愛情や両親の笑顔を思い浮かべながら
自分でできることを精いっぱいやってきたと
話していました。

彼女の素晴らしいところは、
お父さん、お母さんを失った哀しみに
打ちひしがれそうになっても、そこで止まることなく、
その苦しみを子供ながらに受け止めて、
家族の愛情や思い出を心の支えにしながら
力強く前進していることです。

泣きついてきた子供を温かく受け止めるのは、
どこにでもある母子の情景です。
しかし、その何気ないひとこまが
彼女にはいまかけがえのない思い出、
宝となっています。

たとえ姿は見えなくても、
お父さん、お母さんがいつも見守ってくれていると
素直に信じる姿が健気でもあり、
また力強くもあり、
心打たれずにはいられませんでした。

両親と一緒に過ごした期間は決して長くは
なかったかもしれませんが、注がれた
深い愛情は
これからの人生においても
彼女を支え続けるに違いありません。

            

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58歳のとき、身体のだるさが抜けず、違和感が
いつまでも続いた。ある日の昼下がり、突然私の
視界が勢いよくぐるぐると回った。
驚いたが、少し安静にしていると、めまいは
おさまった。

帰宅して、いつも通り、夫婦で晩御飯を食べていると、
妻が、「あなた!口から食べ物がこぼれ
落ちているわよ!」と指をさした。
口元に触れてみると、左側の感覚がなかった。

麻痺していたのだ。
瞬間的に「脳梗塞」という言葉がよぎった。

予感を確信させるような身体の症状と、
それを否定したい気持ちとが葛藤しながらも、
急いで総合病院に向かった。

脳外科の医師は、検査結果を見ながら、
無表情な顔で言った。
「脳梗塞です。すぐに入院してください」
私の不安は、現実になってしまったのだ。
ショックで目の前が真っ暗になる。

事実を受け入れられないまま、茫然とする
私の横で、看護師は病室への移動準備を
たんたんと進めている。
生まれて初めて乗る車いすだった。

内心「まだ歩けるぞ」と思い拒否したかったが、
そんな気力もなくしていた。
ベッドに横たわるにも、看護師が手を貸した。
「一人でできるのに」と無性に腹が立つ。

ベッドは簡単に降りられないように調整してあった。
私は、特別な患者なのだと思い知った。

早速、点滴が始められる。
看護師が頻繁に訪れ、そのたびに、
私は氏名と生年月日を言わされた。

「バカにするのもいい加減にしてくれ」
と心の中で思った。
私の怒りは、トイレに行くときでさえも、いちいち
看護師を呼び出し、車いすに乗せられることに
も向けられた。

おそらく、これらの怒りに、看護師も気づいていたと思う。
とにかく、私は、今までの出来事を消し去りたかった。
こんな状況がしばらく続いたある日、ようやく
入浴が許された。

一人で入浴できるものと思っていたが、
看護師のKさんが付き添った。
入浴の手助けをしながらKさんが言ったひと言。
その言葉に私は、はっとした。

そして、その言葉が、その後の私の闘病生活の
支えになろうとは、そのとき、思いもしなかった
ほんの小さなひと言だった。

Kさんは、「一人で当たり前にできることほど、
むずかしいことはないですよね」と言ったのだ。

私ははっとした。
この言葉がとても新鮮に感じられたのだ。
毎日、トイレや入浴など日常的にしていることに、
今まで意識を向けたことがなかった。

入浴を終えてベッドに戻ってからも、
Kさんの言葉が脳裏から離れなかった。

冷静に考えてみると、当たり前にしていることの
全てが、他の人の手助けがあって、
はじめてできることだ。

たとえば、食べるという行為も、
農家など作り手の存在が前提にあって、
自分で箸を持ち、口へ運ぶ。消化し、
身体がつくられる。
人は一人きりでは生きられない。私が当たり前に
していたことは、奇跡に近いことだったのだ。

こう考えたら、今まで悲観的だった気持ちから
解き放されて、漠然とだが、心が軽く、
広くなったような気がした。

Kさんの言葉のおかげで、私は大事な身体の
ことではなく、プライドが傷つくのが嫌で怒って
いたことに気がつき、反省した。

こんな私に対して、今後も当たり前に話しが
できるようにと、医師や看護師たちは親身に
なってくれる。周りの思いを素直に受け入れないで、
感謝もしなかった自分を責めた。

次第に私は、自然と感謝の心で接することが
できるようになっていった。
同時に、当たり前にできるありがたさに
気づかせてくれ、反省までさせてくれた。

Kさんの患者思いで豊かな人間性に感謝した。
退院後も、その一年後に定年退職してからも、
私はKさんの言葉と一緒に歩んでいる。


愛情

自閉症の子どもは、普通の子供に比べて、幼い頃は
親のこともわからないのではないかということを、
時々聞きます。

僕も、親のことを認識したのは、普通の子供より、
遅かったのではないでしょうか。
そのために、親子関係がなかなか構築できないと
考える方もいるかもしれませんが、僕は そうは思いません。

親という意味がわからなくても、それまで自分にどれだけ
愛情を注いでくれたかは、体に沁みこんでいるものだと
感じるからです。

僕にとっては、母は便利な人だったのかもしれませんが、
心が育つにつれて、どれだけ僕のために尽くして
くれているのか わかるようになりました。

愛情を注いでもらっているから、心は育つのです。
心が育ってから愛情を注ぐ、または、何もわからないから、
愛情を受け取ってもらえないというのは、
少し違うような気がします。・・・

Author:東田直樹
 会話のできない重度の自閉症。
 絵本、詩集など21冊の本を執筆
 http://higashida999.blog77.fc2.com/


歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…






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隙間産業(ニッチ市場)

2017年8月13日 (日)

妄想劇場・特別編(愛しきお妻様)

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ



過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・



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※ 高次脳=脳神経細胞が壊死することで起きる
精神神経的な障害で、
見てわかる身体のマヒなどとは違い人の内面の
精神活動や認知行動に起きる障害。
行動や感情がコントロールできなくなったり、
記憶障害や注意障害、遂行機能障害、
失語などがある

憧れの田舎暮らしを始めた矢先に、激しい頭痛を訴えた
お妻様。慌てて病院へ行くと「脳腫瘍」と診断され、
そのまま意識を失ってしまい……。

直径65mmの巨大脳腫瘍を緊急摘出!お妻様
「5年生存率 8%」に。。。

されど愛しきお妻様【8-2】

手術は成功するのか
「ヒャッハーしてましたよね」・・・

緊急入院から4日後、何時間にも及ぶ手術の結果、
お妻様の脳腫瘍の摘出は成功。
担当医から「ほぼ100%切除できた」
「少なくとも命は取り留めたと言える」との
言葉を聞いて、僕はICUの床に腰を抜かして、
目から涙、鼻から鼻水、口からよだれと、
顔面から流れ得るあらゆる液体を垂れ流して
立ち上がれなくなった。

とはいえ、一命を取り留めたからには最大の心配は、
直径60㎜以上もの巨大な腫瘍を切除して、
そのパーソナリティが失われてしまわないかだ。
手術翌日、病室に行くとお妻様はすでに目を
覚ましていて、スッキリした顔をしていた。
「ああ、死ぬかと思った」 返す言葉がない。

「なんかいろいろ覚えてないんだけど、そういえば
夢見たよ。映画の実験室みたいな感じに、ガラス越しに
ICUを観察できる部屋があって、あたしベッドで
寝てるじゃん。

そうしたらガラスの向こう側で手術した先生たちが、
三角のパーティ帽かぶって、みんなでなんか
クラッカー鳴らしてヒャッハーってフィーバーしてんだよね。
それで、朝に先生に『ヒャッハーしてましたよね』って
聞いたら、ヒャッハーしてませんって言われた」

聞いたんかい! 間違いなくお妻様だった。
あの得難い性格は、失われていなかった。
「あたしの腫瘍とったところって、丸めた読売新聞
入ってるのかな?」 手術翌日の夜にかけて顔面に
手術による内出血の鬱血が出てきて腫れあがり、
試合後のボクサーのようになってしまったけれども、
とにかくお妻様としては悩まされていた頭痛が
なくなったことで相当スッキリなようだ。

後遺症さえなければ、多くの脳腫瘍は「腫瘍を
取ってしまえば健常」と言われているらしい
。けれど……。 膠芽腫 、
脳腫瘍の中でも最も悪性が高いもの。5年後の
生存率8%。
一命を取り留め、そのパーソナリティを失わずに済んだ。
そんな喜びから急転直下、2011年末、主治医より
告知された腫瘍の組織検査の結果は、考え得る
最悪のものだった。

膠芽腫 は、腫瘍細胞が浸潤(染みわたる)ように
正常な脳細胞の間に広がり、しかも外縁部はMRIにも
造影されないため、手術で全腫瘍細胞を摘出することが
困難で、再発率も高い。

ネットで当事者や家族の発信する情報を見ても、
1年そこらで再発して亡くなりましたといったものばかり。
「完治はない」と断言する無慈悲な医師の言葉も
散見された。

治療方針は、まず標準療法として、従来型の薬品より
分子が細かく 膠芽腫に効果が見込めるとして承認されて
数年の「テモダール」なる抗がん剤と、手術で摘出した
腫瘍の外縁部に集中して放射線を照射する療法の併用。
加えて抗がん剤の奏効率を上げる目的の治験として、
インターフェロン点滴の併用。

まずはこれを入院加療として集中して1ヵ月行い、
その後は毎月5日間、自宅での抗がん剤服用を
続けるというもの。
だが、この突き付けられた現実に、僕とお妻様の
立ち位置は、あまりに異なっていたように思う。

後追い自殺も考えた (たった一度の涙)

僕はといえば、失うことばかりを考えていた。
もし再発したらどうやって生きていくか、
生きることを あきらめて後追い自殺をすることを
含めて考えた。

せっかく念願の自然に囲まれた田舎暮らしを始めたのに、
日々移り行く季節の花々を見ては、来年この花を
夫婦で見ることはできないかもしれないと思い、
2ヵ月に一度のMRIが無事に「再発兆候なし」の結果で
検査終了すると、次のMRI検査までの2ヵ月が夫婦で
過ごせる最後の時間だとしても悔いのない夫婦生活を
送ろうと、毎回誓った。

一方のお妻様はというと、生きることだけを考えていた。
不安や恐怖しかない宣告を受けても、お妻様が
涙を流したのはたったの一度きりだ。

手術が無事に終わり、病名告知を受けた後、
抗がん剤治療が始まると生モノが食べられなくなる
ということで、僕らは茨城県の那珂湊に寿司を
食いに行った。
その帰り、車の窓から美しい冬の夕日を見て、
お妻様は涙を流した。

予定されている放射線治療は、切除した腫瘍の
外縁部を最大限広範囲で照射することが求められ、
左右の視神経が交差する視床下部をギリギリ
攻めることになる。

放射線の担当医からは、この際の弊害として
「最悪のケースは全盲」と告知されていた。
お妻様は生きることだけを考えていたが、夕日を、
空を、小鳥を見られなくなるかもしれない可能性に、
一度だけ涙を流した。

そのあとのお妻様は、「死ぬときは死ぬし、
死なない人間はいない」と宣言し、生きている今を
最大限楽しむモードに見事にシフトチェンジ。

いや、もともとそれこそがお妻様の主義そのもの
なのだが、一層楽しむモードを加速させたのであった。
そんな男前のお妻様を前に、僕もまた、間違った
方向に加速した。

まずお妻様には毎月の抗がん剤治療に集中して
もらうべく、「家事は一切しないでいい」宣言。

従来のものに比べれば圧倒的に副作用が少ないと
言われている抗がん剤テモダールだったが、
やはりどうしても正常な細胞にもダメージを与えてしまうため、
免疫の強さの指標である「WBC(好中球)」が落ちてしまう。

この数値が一定の基準を満たしていないと抗がん剤
治療が継続できないため、とにかくストレスになることは
一切してほしくなかった。

同時にやはり免疫を強くするために、三度の食事は
「免疫を強くする食事〇品」みたいなレシピ本を参考に
僕が管理し、食事と起床就寝時間を管理するために、
携帯電話のタイマー機能に「僕の起床、お妻様起床、
朝食、昼食、夕食、就寝」と、複数の設定を
入れるありさま。

今度は僕の「脳が壊れた」1日でも長生きしてほしくて
今思えば、お妻様にとって最もストレスがない生活とは、
「好きな時間に起きて好きな時間に寝る」なのだが、
とにかく毎回の血液検査の数値に一喜一憂してしまう僕は、
健康情報を見ればどこにでも書いてある

「午前中の日の光を浴びる」=太陽信仰みたいなものを、
お妻様に押し付けた。
お妻様に1日でも長生きしてほしいという思いがさせた
こととはいえ、完全に僕は喪失の恐怖にとらわれ、
暴走していたのだと思う。

お妻様はと言えば、見事なまでに、変わらなかった。
面倒くさい僕との生活の中でご立派に育てあげた
圧倒的スルー力で、小うるさい管理魔の僕をのらり
くらりと巧みに交わし、愛想のかけらもない地域の猫に
滅茶滅茶しつこく話しかけるという謎ロジックで
篭絡しては、我が家に招きまくる日々。

お約束の酷いネーミングセンスは脳みそに直径65ミリの
大穴が空いているくせに健在で、「くさいちゃん、
汚いちゃん、ひゃんちゃん、眉毛、にゃん王、ビビり玉、
うなしー、エレノアさん、大白、中白、小白、汚れちゃん、
錆ぃさん、おばやん、ラテ男ちゃん、しっぽさん、
ロングしっぽさん、しっぽぼーん」と、えーと、
あと誰がいましたっけお妻様?

「パンティちゃんな。最近あの子来ないなあ」
とまあ、思い出すだけでうんざりする命名をなさっている。
僕が手汗びっちょりかくほどに緊張して聞く毎回の
MRI検査後の問診時にもお妻様はシレッとしたもので、
主治医からも「お妻様は、その突き抜けた性格だから
いいんだと思います」(うまく闘病できています)と
太鼓判。

結局毎月1回の抗がん剤治療を2年間クリアし、
2017年初春をもって、5年存命率8%の中にも
滑り込んだのであった。
が、残念ながら、そこまで僕の身体がもたなかった。

2015年5月末、僕は脳梗塞を発症し、緊急入院する
ことになってしまったのだった。

次回に続く



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった


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 世は歌につれ、
  人生、絵模様、万華鏡…






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