2017年12月16日 (土)

妄想劇場・歌物語

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船村徹〜すぐれた歌詞の背後には必ず物語が
潜んでいる


1961年の夏、近代生活の必需品という触れ込みで、
旭化成から「サランラップ」が売り出された。
厚さ10ミクロンのラップは空気や水をほとんど
通さないため、冷蔵庫が普及し始めた家庭の
必需品となった。

アメリカで誕生したラップの急速な普及で、
日本の台所はますますアメリカ化し、呼び名も
キッチンに変わっていく。

前の年に発売されたインスタントコーヒーに続いて、
粉末インスタントクリーム「クリープ」が森永製菓から
発売になった。
日本人の生活がアメリカ化の決定打となったのは10月、
それまで米軍用に限られて輸入物しかなかった
コカコーラが、商品として巷に出回るようになったことだ。

貿易自由化のおかげで原液の輸入が認められたことから、
国内製造が始まって普通の日本人がコカ・コーラを
飲めるようになった。

その年は音楽シーンでもアメリカ化が進み、
ロカビリーブームの延長で流行していたアメリカン
・ポップスが、ティーンエージャーたちを夢中にさせていた。

渡辺マリの「東京ドドンパ娘」が春に大ヒットした。
坂本九の「上を向いて歩こう」が秋にブレイクした。
大人向けでは夏にクレイジー・キャッツの「スーダラ節」が
出て一世を風靡したし、西田佐知子の「コーヒー・ルンバ」や
越路吹雪の「ラストダンスは私に」もヒットした。

アメリカナイズされた楽曲が大流行し、誰も彼もが
横文字に惹かれていく時代だった。
そんな流れに抗うかのように作られたのが浪曲の
第一人者、村田英雄が歌った「王将」である。
作詞は大ベテランの西條八十、作曲は新進気鋭の
船村徹だった。

パリへの留学経験があった西條八十は当時69歳、
早稲田大学の教授としてフランス文学を教えていた
詩人だ。その一方では「東京行進曲」「サーカスの唄」
「越後獅子の唄」「芸者ワルツ」など、数多くの
流行歌を書いた稀代のヒットメーカーでもあった。

しかしコロムビアから「王将」の話を持ち込まれた時、
「えっ?今どきこういうレコードを誰が買うんですかね」」と
驚いたそうだ。

作曲を頼まれた船村徹は持ち前の反骨精神から、
気持ちが高ぶったと語っている。
私のほうはへそまがりというか、私独自の理屈で
動いているから、「王将」の企画にはすぐ賛同した。

たとえば、ここに百円落ちていると、それを十人が
拾えば一人十円にしかならないのである。
それが音楽業界の流れだった。
ひとつヒット生まれると、そこに皆が群がっていく。

だから、皆が東に向かったら、一人ぐらいは
西を向くやつがいたほうがいい。
その代わり、百円拾えば全額自分一人のものになる。
そういう理屈であった。

ただし、船村徹はただのへそまがりではなかった。
東京音楽学校の作曲科にいた頃から、日本人で
ある限りはベートーベン、シューベルト、モーツァルト、
バッハといった大作曲家たちが残し作品を超えるのは
無理だと思っていた。

そして、自分たちにとってオリジナルとは何なのかを
考えてきたのだ。
頑固な勝負師を描く「王将」の世界ならば、民謡や
浪花節、都々逸で育ってきた自分にも書けると、
船村徹は自信があった。

やがて西條八十が書いた歌詞が届いた。
王将 作詞:西條八十 作曲:船村徹


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船村徹が「吹けば飛ぶよな演歌の節に/
賭けた命を笑わば笑え」と口にしてみたら、
自然にメロディーが出てきた。

歌った村田自身もまた、
「吹けば飛ぶよな演歌の道に/
賭けた命を笑わば笑え」という気持ちだった。
勝負師の物語を背景にした歌が、その枠を超えて
多くの日本人を励ます唄になった。

それは最初の一行に、聴き手が自分を重ね合わせ
られるという、絶妙の「つかみ」があったからだ。
「王将」は戦後初のミリオンセラーとなった。
この歌を書いた後、船村徹はしばらく日本を離れて、
ヨーロッパに暮らしている。

そしてパリに滞在しているとき、渡仏してきた西條八十と
一緒になる機会があった。
「あの歌のヒットは船村くんのおかげだよ、ありがとう」と
言われた船村徹は、歌のヒットそのものよりも嬉しいと
感じたという。

西條八十はそのとき、「愚痴も言わずに 女房の小春
つくる笑顔が いじらしい」という箇所を、数年前に
亡くなってしまった夫人を想い浮かべて書いたと述べた。

「私の女房の鎮魂歌なんですよ」 すぐれた歌詞の
背後には必ず、作者の生きてきた生活から生まれた
物語が潜んでいる。 ・・・







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やっぱり私の一番根源的な思いは
「負けてたまるか」ですね。
これは母の教えでもあるんです。

私の母は娘盛りの16歳の時に銭湯で細菌に
感染し、一夜にして目が見えなくなってしまいました。

その後、縁あって父と結婚し、私を産んだのが
昭和5年。ご存じでしょうけれど、その前年の
昭和4年に世界大恐慌がありました

いま100年に1度の大不況といわれていますが、
こんなもんじゃない。
あの時は餓死者が出るほどの困窮の
極みだったのです、

父は小さいながらも事業を営んでいましたが、
父にもしものことがあれば、目の見えない自分と
小さな息子が路頭に迷ってしまう。

あの頃は社会保障なんてない時代でしたから、
物乞いになるか、死ぬかどちらかしかないわけです。

そこで一念発起した母は、女性が仕事を持つことが
考えられない時代に骨瓶(こつがめ)を焼く会社を
設立したんです。

鹿児島の女性でしたし、強い女性だったことは
確かです。また、なんとしても生きていかなければという
気概がそうさせたのでしょう。

その母が私に繰り返し教えたことがありました。
「負けてたまるかと静かに自分に言いなさい」

簡単に言えば克己心ですよね。
人間はどんなに強そうに見える人にも弱い部分がある、
その弱さとはナヨナヨしているということよりも、
怠惰であったり、妥協でしたり、みんな己に対する
甘さを持っているわけです。

だから常に自分白身を叱咤激励し、己に打ち克つ
ことが人生では大切なことだと、そういう実感が
障害とともに生きた母にはあったのでしょう。

この「負けてたまるか」は、監督になって世界一を
目指す私にとって一番大切な言葉であり
教えとなりました。・・・



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2017年12月15日 (金)

妄想劇場・チャンネルニュース

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信じれば真実疑えば妄想・・・

『お菓子放浪記』『やくざ先生』など数々の
人気作品を残した 作家の西村滋さん
(にしむら・しげる)
大正14年愛知県生まれ。6歳で母と、9歳で
父と死別し、孤児となり、以後放浪生活をする。

昭和35年処女作『笑わない青春』を発表。
『雨にも負けて風にも負けて』で第2回
日本ノンフィクション賞を、『母恋い放浪記』で
第7回路傍の石文学賞を受賞。

『お菓子放浪記』は全国青少年読書感想文
コンクールの 課題図書となり、映画化される。
その他の著書に『戦火をくぐった唄』(講談社)
などがある

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ぼくは幼少期に両親を結核で亡くしているんですが、
まず母が6歳の時に亡くなりました。
物心ついた時から、なぜかぼくを邪険にして邪険にして、
嫌なお母さんだったんですよ。
散々いじめ抜かれて、憎まざるを得ないような
母親でした。

これは後で知ったことですが、母は僕に菌を
うつしちゃいけない、傍へ寄せつけちゃいけない、
という思いでいたようです。

本当は入院しなきゃいけない身なんですが、
そうなれば面会にも来させられないだろう。
そこで母は、どうせ自分は死ぬのだから、
せめてこの家のどこかに置いてほしいと父に頼み込み、 
離れを建ててもらったそうです。

僕はそこに母がいることを知っているものですから、
喜んで会いに行く。
するとありったけの罵声を浴びせられ、
物を投げつけられる。

本当に悲しい思いをして、だんだんと母を
憎むようになりました。
母としては非常に辛い思いをしたんだと思いますよ。

それと、家には家政婦がいましてね。
僕が幼稚園から帰ってくると、なぜか裏庭に
連れて行かれて歌を歌わされるんです。
「きょうはどんな歌を習ってきたの?」と聞かれ、
いくつか歌っていると「もっと大きな声で歌いなさい」
なんてうるさく言うから嫌になったんですがね。

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これも母が僕の歌を聞きながら、成長していく様子を
毎日楽しみにしていたのだと後になって知りました。
僕はそんなことを知る由もありませんから、
母と死に別れた時もちっとも悲しくないわけね。
でも母はわざとそうしていた。

病気をうつさないためだけじゃない。
幼い子が母親に死なれて泣くのは、優しく愛された
記憶があるからだ。
憎らしい母なら死んでも悲しまないだろう。
また、父も若かったため、新しい母親が来るはずだと
考えたんでしょうね。

継母に愛されるためには、実の母親のことなど
憎ませておいたほうがいい、と。
それを聞かされた時は非常にびっくりしましたね。

私がそれを知ったのは、孤児院を転々としながら
非行を繰り返し、愛知の少年院に入っていた
十三歳の時でした。

ある時、家政婦だったおばさんが、僕がグレた
という噂を聞いて駆けつけてくれたんです。

母からは二十歳になるまではと口止めされていた
そうですが、そのおばさんも胃がんを患い、
生きているうちに本当のことを伝えておきたいと、
この話をしてくれたんです。

僕はこの十三歳の時にようやく立ち直った、と言って
いいかな。あぁ、・・・
俺は母に愛されていた子なんだ、
そういう形で愛されていたんだということが分かって、
とめどなく涙が溢れてきました。・・・





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私はトップアスリートの母親として、またコーチとして
杉山愛と深く関わってきましたが、常々、そこに
介在する「人を育てる」ことについて、その本質とは
何かを考えていました。

そこで、日本を代表する若手アスリート
(錦織圭選手、石川遼選手、宮里藍選手)のご両親に
直接話を伺い、私自身の経験を加味してまとめたのが、
2010年に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科で
書き上げた修士論文「日本の若手トップアスリートに
おける両親の教育方針に関する一考察」です。

研究をとおして子供の育て方に関して様々な共通点が
浮かび上がってきましたが、ここでは二つのポイントを
ご紹介します。

一つは親の子供に対する無二の愛、見返りを求めない
愛情です。
もちろん世の多くの親御さんたちは愛情を持って
子供たちに接しているわけですが、トップアスリートの
親たちが間違えなかったのは、その無二の愛情を
正しい方向に扱えた点にあります。

子供は体だけでなく頭も心もすごいスピードで
成長していきます。
ところがその成長に親がついていけないために、
自分の考えを押しつけてしまう現象が多く
見られました。
これは何もスポーツの世界だけでなく、
受験の世界でも同じような傾向があるようです。

大切なことは、無二の愛情を持って子供を応援する、
子供のよいところを引き出そうと努力することですが、
そのためには親もまた子供に置いていかれないように
勉強する必要があります。

特に子供がジュニアでトップクラスの選手に
なってしまうと、親は自分が何をすればよいのか
分からなくなってしまうケースがよくあります。

子供の世界がどんどん広がっていく一方で、
それに見合うだけの情報量だとか会話力が
親にないと、そこから親子間に亀裂が生じ、
それがもとで親に子供の才能が潰されてしまうのです。

子供への無二の愛情は、親にとってエネルギーの
発生源になります。
その素晴らしいエネルギーを正しい方向に
注ぐためには、親自身も学ぶ姿勢をしっかりと
持つことが必要なのです。

もう一つのポイントは親と子供の距離感の取り方です。
どんなに競技レベルが向上しても相手はまだ子供です。
ですからいまは抱きしめる時、ここは突き放す時
だということをきちんと理解して接してあげることが
必要なのです。

ところが往々にして突き放してはいけない時に
突き放したり、突き放すべき時にくっつきすぎることが
見受けられますが、
それでは選手としての成長を阻害しかねません。

そういった子供との距離感の取り方もまた
親の学びにかかっていると言ってよいでしょう。





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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、人生、絵模様、万華鏡…








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2017年12月14日 (木)

妄想劇場・特別編

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリ


過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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(11歳の時)腎臓の摘出手術を終えてしばらくすると、
高松に国立結核療養所ができましてね。
結核の子の就学援助を行う教室で
僕も勉強するようになりました。

じっとしていない腕白小僧でしたから看護師さんも
手を焼いていましたが、そこで北岡昌子という先生に
出会うことができました。
この先生との出会いが僕の運命を変えるんです。

北岡先生はもともと学校の先生です。
しかし僕のように肺結核を患ってその療養のために
高松診療所に通院しておられました。
その合間に保健学級の先生をしていたんです。
二十代後半だったでしょうね。色白で寡黙な先生でした。

先生は僕たちのような病気の子でも特別視することが
まったくありませんでしたね。
「君は病気だから無理することはない」と言う代わりに
「このくらいできるはずだ」と。
分からない問題があってふて腐れているような時は
「でもここまでできたんだから偉いじゃない。ここはね…」
と根気強く教えてくださるんですよ。

北岡先生は歌人でもありましたから、言葉や感情表現を
とても大切にして、思いついたことや話し足りないことを
手紙にして、よく病室に持ってきてくださいました。
いまも大切に持っています。

碇君と話していると時間の経つのが早いのに驚きます。
碇君は子どもとは思えないほど、ことばに対して
鋭いセンスを持っていると私は思います。

今日、貴方は日と陽は同じ物を指しても陽の方は
あたたかさを感じるとおっしゃいましたね。
本当にその通りです。
それを感じ得るのが詩人の心なのです。

あたたかさと云う言葉も「温か」と云うのと「暖か」
と云うのでは感じが違いますね。
よく味わってみなさい
貴方は病気ばかりして学校も行っていないし
辛い生を送っているけれども、言葉に対する感受性は
とても素晴らしいものがありますね

痛いのを我慢したとか約束を守ったとか、そういう
ことではなく、それ以外の僕のあるかどうか分からない
才能について正面から褒めてくださったんです。

赤の他人の僕をどこまでも励まし、信じ、褒め続けて
くれた人。それが僕にとっての北岡先生でした。

ある時、僕は小学一年の時の通知票を先生に
見せたんですよ。知能指数66とあるのを見て
急に真面目な顔になって
「これは違う。これは間違っている」と怒るように
言われたのをいまも覚えています。
自分で勉強は駄目だと思っていましたが、
その一言に随分勇気づけられました。

こんなこともありました。先生からもらった手紙に、
バスの中で読んだ歌誌の中にあったという言葉が
書かれてあったんです。

「掘りおこして捨てなければならぬ芥水を
汲み上げ汲み上げしているうちには、
少量でも清水が湧くかも知れない」そして
「静かな時を利用して、よく考えてごらんなさいね」
と言葉が添えてありました。

僕はよくよく考えて思ったんです。自分は頭も
よくないし回転もよくないし、何をやっても駄目かも
しれないけれども、気持ちを逸らさずに進んでいけば、
いつかはものになる、そういう意味だと。

この北岡先生のおかげで療養所の児童病棟を
出る頃には卒業証書をいただくことができました。
先生はその後も折に触れてお手紙をくださり、
励ましてくださいました。
いまの僕があるのは、まさに先生のおかげなんです。



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白河の関を優勝旗は越えない。
そんな定説に支配されていた高校野球の指導者として、
私が北海道の駒澤大学附属苫小牧高等学校に
赴任したのは平成七年、二十四歳の時でした。

佐賀県出身の私が、縁もゆかりもない
北海道の高校に赴いたのは、
母校・駒澤大学野球部の恩師・太田誠監督の
勧めによるものでした。

当時の駒大苫小牧の野球部は地区大会の
一、二回戦で敗退する弱小チーム。
私はこのチームを甲子園に連れて行き、
いずれ日本一にという目標を掲げて臨みました。

しかし、私の赴任前に監督不在の時期が続いていた
こともあり、部員たちは当初不信感を募らせ、
なかなか心を開いてくれませんでした。
若さゆえにがむしゃらにチームを引っ張ろうとする
私のやり方も空回りをし、一時は練習をボイコット
される事態にも至りました。

各地に赴き、有望な中学生を勧誘して回っても、
弱いチームに選手はやれない、と全く相手に
してもらえません。

「畜生!」「ふざけんな!」
帰りの車の中では、悔しさのあまり
そんな叫び声が何度も何度も口から迸り出ました。
いつか必ず、駒大苫小牧で、この香田のもとで
野球をやりたい、とたくさんの子供たちから言われる
野球部にしてみせる。そう心に誓い、私は部員たちに
自分のすべての情熱、愛情を注ぎ込んだのでした。

そんな私たちに大きな壁となって立ちはだかったのが、
北海道の冬でした。
授業が終わり、「さあ練習だ!」と外へ繰り出すと、
既に辺りは薄暗く、寒く、グラウンドは雪で覆われており、
部員の士気は否応なく下がるのです。

この地域的なハンディにより、北海道のチームは
本州のチームには勝てないという思い込みが
浸透していました。

しかし、甲子園出場、そして日本一という目標を
実現するためには、なんとしてもこの冬を克服
しなければなりません。

強いチームをつくるためには、
ピッチングやバッティングなどの個々の技術
ばかりでなく、様々なせめぎ合いの中で、
守備時には相手にホームを踏ませないための、
攻撃時には一つでも多くのホームを踏むための
様々な連携力を磨いていかなければなりません。

冬場に野球から遠ざかっていては、大会本番までに
とても間に合わないのです。
そこで私は、ブルドーザーを調達してきて
グラウンドの雪を取り除き、冬場はまともに
練習できないという常識に挑戦したのです。

当初、吹雪いている日に「外で練習をやるぞ!」と
言うと部員たちも怖じ気づいていましたが、
続けるうちにそれが当たり前になり、内心これは
寒いだろうなと思う日でも「きょうはどうだ?」と聞くと、
「大丈夫です!」と元気な声が返ってくるように
なりました。

人間、本気になればなんでもできるものです。
厳しい冬と懸命に闘ってきただけに、雪解けを
迎える喜びは格別でした。
気候に恵まれた地域の野球部には絶対に負けない。
それが私たちの合言葉でした。

そうした常識破りの努力を重ねてきた結果、
七年目の平成十三年に念願の甲子園出場を果たし、
十六年に初優勝。

その後、現在プロ野球で活躍中の田中将大を擁して、
十七年には五十七年ぶり六校目の二連覇。
その翌年、史上二校目となる三連覇こそ逃したものの
決勝まで進出し、引き分け再試合という熱戦の末、
準優勝を成し遂げました。

思い出に残る試合はたくさんありますが、中でも
忘れられないのが十五年、二度目の甲子園出場を
果たして最初に臨んだ試合でした。

八対〇とリードを広げ、甲子園での初勝利を確信
していたところが雨でノーゲームとなり、
翌日の再試合に五対二で敗れてしまったのです。

悔しさを噛み締めて帰郷するや、全国から
山のように激励のお便りが届き、甲子園という舞台の
注目の高さを実感しました。
おかげで日本一への思いは一層強固になり、
翌年、遂にそれを実現することができたのです。

北海道という未知の場所での得がたい体験を通じて、
野球は個人の能力以上に組織力が重要であることを
実感しています。

それは動かす側と動く側がどれだけ分かり
合えるかということ。
選手と監督だけでなく、スタッフや選手の父母、
そして部を取り巻く地域をも巻き込み、
一つの方向に向かっていくことだと思います。

その責任の重さを痛感していた私は、
「姿即心、心即姿」を座右の銘とされていた
恩師・太田監督に倣い、
常に己の表情や立ち居振る舞いに気を配り、
皆がついていきたくなるような
エネルギッシュな指導者であり続ける努力を
続けました。

四千校以上が参加する高校野球の頂点に
立てるのはたった一校。
リーダーの信念に寸分たりとも迷いがあれば、
勝利はこぼれ落ちてしまうと思います。

私はチームが弱小の頃から、北海道で初の
優勝旗を手にするのは駒大苫小牧であり、
その時の監督は自分だと強くイメージし、
周囲にも言い続けてきました。

そしてそれを実現できたのは、私が常識の枠に
収まらない非常識な監督であったからかも
しれません。
いまは社会人野球という新しいフィールドに
立っていますが、北海道での自分を超えるべく、
ここでも日々直面する常識の壁に
挑戦し続けています。

・・・

おわり・・・



こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、 こうして、こうなった
・・・




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2017年12月13日 (水)

妄想劇場・一考編

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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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子孫が暮らす村に残された、『誡子書』
諸葛亮の孫の諸葛京の末裔と称する一族が
多く住む、諸葛八卦村。
ここに残された『誡子書』の中に、諸葛亮が
残した生身のメッセージがあります。

それ君子の行ひは、静以て身を修め、倹以て
徳を養ふ。
澹泊にあらざれば、以て志を明らかにすることなく、
寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし。
それ学は須く静なるべく、才は須く学ぶべし。
学ぶにあらざれば、以て才を広むるなく、
志あるにあらざれば以て学を成すなし。
滔慢なれば則ち精を励ますこと能はず、
険躁なれば則ち性を治むること能はず。
年は時と与に馳せ、意は日と与に去り、
遂に枯落を成し、多く世に接せず。
窮盧を悲しみ守るも、将た復た何ぞ及ばん。!!

すぐれた人間になるべき行動とは、じっくりと構えて
自分を養い、なにごとにも控えめに振る舞い、
人のお手本となるべき行動を身につけることに
あります。

無欲でなければ、大きな夢を抱き続けることは
出来ません。また、じっくり構えていなければ、
大きな仕事を成し遂げることも出来ないでしょう。

そして、じっくり構えていただけで、自分を磨くための
努力を怠っていれば、能力を高めることもできませんし、
大きな夢を失えば、自分を磨くための努力を
続けることはできないでしょう。

人を見下す気持ちが自分の中にもしあったなら、
自分を奮い立たせることは出来ません。
心に落ち着きがなければ、性格も浮ついたものに
なります。

時間が立つのは本当に早く、あっという間に
年を取っていきます。
それとともに、気力も体力も衰えて、世の中との
関わりも少なくなってくるでしょう。
そうなってから、慌てたところで、どうにも
ならないのです。

生身の諸葛亮のメッセージ       

天才軍師として扱われる創作の世界とは違い、
世に出るまでも時間がかかり、世に出てからも、
多くの苦労を強いられた諸葛亮。

軍師としてよりも内政家として評価されることが
多いですが、劉備亡き後の極めて複雑な
状況であった蜀政権を見事にまとめきり、
5度の魏への侵攻を行っても国力を減らさなかった
点など、堅実で優れた手腕を今に残しています。

彼が2世紀の人物であったことを考えると、
『誡子書』に書かれているようなことは、人が
実現しようとしてもなかなかできない永遠の
テーマであり、諸葛亮のように堅実に苦労した
人間こそ、このようなメッセージを子孫たちに
残したのだろうと考えられるでしょう。

また、戦乱の時代にありながら、人を蹴落とす
ようなことを考えず、『人を見下すことなかれ』などの
言葉を子孫に残そうしている点、彼の人間性が
垣間見れます。

圧倒的不利な状況で戦った悲劇の軍師としても
有名ですが、それでも多くの人間が彼の人徳に
惹かれていました。
たとえ世の中がどれだけ悲劇でも、堅実に、
まじめに、静かに生きることがどれだけ大切かを
彼は示してくれています。



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阪神・淡路大震災の時も、神戸市民は実に
立派でした。
略奪もないし、整然と行列をつくって
配給物資を受け取っていた。
八方から手が伸びて奪い合う場面はなかったんです。

しかし、東北の避難民の方は、それ以上に
立派でしたね。
もともと忍耐強い土地柄だし、とにかく市民の
レベルが高い。
日本人のガバナビリティーは
世界に冠たるものがあると改めて確信しました。

僕が今度の震災で感じたことを一言で言ったら、
日本国民のガバナビリティー(被統治能力)の
高さでした。

それで一つ思い出したのは、阪神・淡路大震災の時、
日銀の神戸支店長に遠藤勝裕という傑物がいたんです。

ジェット機が落ちたかと思うくらいの轟音と激震に
遭遇した直後、自分がこの大災害に際して
何をすべきかを考え、
「そうだ。俺の役割は町に紙幣を出すことだ」と
気づくんですね。

日銀の支店は設備の損傷はあったが、幸いにも
大金庫が無事だった。
遠藤さんはそれを開けちゃうんですよ。
 
緊急時に普通は閉める大切な金庫を、逆に
開けてしまう。
そしてそこにあった札束を全部取り出し、紙幣の
流通を止めなかったんです。
 
本人は「兵庫県一日分の金額が入っていた」と
言っています。だから何十億円でしょう。

そして次は被災地の民間銀行が壊れていないかを
点検するんです。
そうしたら日銀のほかに一つだけ壊れていない
銀行があった。
 
すると三日後には、そこと日銀神戸支店内に、被災して
休業中だった各銀行の支店の臨時窓口を開設
するわけです。
さらに兵庫県警本部に連絡を入れて警備を要請した。

普通なら各支店に配置しなくてはいけない
百~二百人の警察官が二か所で済むわけだから、
本部長も随分助かったと話していました。

もっと凄いのは、震災当日のうちに金融特例措置
という五か条の布告を独自の判断で出したんですよ。

例えば通帳や判子がなくても身分証、免許証を
提示したらお金が借りられる、半焼けの紙幣は
普通の紙幣と交換する、といったもので、もちろん
こんなことを日銀本店や大蔵省本省がすぐに
承認するわけがありません。

ところが、大蔵省の神戸財務事務所長というのが
また傑物でね。これを決裁するんです。
そしてこのルールでどんどんお金を出す。

こんな話もありました。
 
遠藤さんが震災後、市内を視察すると、コインを
持たない被災者が自動販売機を蹴っている様子を
目にするんです。

「そうか、物があってお金がないと暴動が起こるな」と。
そこで銀行協会に申し入れて、百円玉九枚と
十円玉十枚を入れた千円の袋を四千袋つくり、
避難所に行って「銀行協会からの義援金で
ございます」と渡して歩くんです。

その方は本当はクビだったんです。
なにせ日銀のあらゆる掟を破ったわけだからね。
僕は遠藤さんとは一面識もなかったんですが、
解任だと聞いた時はカッときて日銀の役員に
電話で談判しました。

「遠藤さんを辞めさせると聞いたけれども、本当か」
「いや、いま内部でそれが問題になっているところです」。
聞いてみると、災害に遭った地域を救済するために
過去に何度かこのような超法規行為をやっていた
“札付き”の支店長だったらしい。

日銀内部は「とんでもない日銀マンだ」
「これこそ日銀の鑑」という二つの意見に分かれていて、
僕はその日銀役員に「彼のような功労者を
クビにするなんてとんでもない。本店に栄転させなさい」
と強く言いました。

それが聞き入れられたのか、
遠藤さんはクビにならずに調査役になりました。



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2017年12月12日 (火)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・




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(1) ソ連の工作員が終戦を遅らせた・・・

昭和16(1941)年、ソ連の工作員がアメリカの
ルーズベルト政権と日本の近衛文麿内閣に潜り込んで、
日米を戦争に引きずりこんだことは、何度か
取り上げらた。

しかし、同じくソ連の工作員たちが、日米の講和を
妨害した事はあまり知られていない。
その結果、終戦が何ヶ月も遅れ、硫黄島や沖縄での
激戦で日米双方での多数の軍民が犠牲になった事、

さらに空襲や原爆投下、そしてソ連侵攻による
満洲・北朝鮮での民間人暴行、将兵のシベリアへの拉致、
北方領土侵略など、戦争末期の被害がもたらされた。

このあたりは、アメリカでの近年の歴史研究成果に
基づいて明らかにされている。
その一部を紹介します。・・・。


(2)「ずっと黙っていた。口を開けば的外れなことを言った」

終戦の6か月前、昭和20(1945)年2月4日から11日に
かけて、クリミア半島南端、黒海に臨むヤルタで行われた
米英ソの首脳会談、ヤルタ会談に遡(さかのぼ)る。

当時、ルーズベルト大統領は心臓疾患による極度の
高血圧で、ほとんど執務不可能の状態となっていた。
ヤルタへの長旅と時差は、さらなる負担となっただろう。

ヤルタ会談では英国外務次官アレクサンダー・カドガンは、
ルーズヴェルトは「会議を主宰するよう呼ばれても掌握も
先導もできず、ずっと黙っていた。
口を開けば的外れなことを言った」と述べている。

ルーズベルトはこの会談の2か月後、高血圧性脳出血で
死去している。スターリンはこういう状態のルーズベルトを
相手に、交渉したのである。


(3)「背中に鏡を置いたままポーカーの試合をする」

さらにルーズベルトが連れて行った国務長官ステティニアスは
外交に関しては全く素人で、しかも国務長官に就任して
わずか二か月しか経っていなかった。

元駐日大使で国務次官ジョゼフ・グルーや、モスクワでの
代理大使を務めたジョージ・ケナンなどは連れて行かなかった。
グルーは早期の対日講和を主張しており、ケナンは後に
ソ連封じ込め政策を立案する人物で、ソ連にとっては
好ましい人物ではなかった。

そのかわりにルーズベルトが指名したのは、無名の一官僚
アルジャー・ヒスだった。ヒスは戦後、ソ連のために
スパイ行為を働いたとして、告発された人物である。

スパイ行為については有罪にはならなかったが、
ソ連のスパイとの関係があったのに嘘の証言をしたとして、
偽証罪で禁固5年の有罪となっている。

ステティニアスはヒスに頼りきりで、発言はほとんどヒスが
主導した。しかもヒスはアメリカ側のすべての
最高機密ファイルを見られる立場にいた。

ソ連のスパイであった疑いの濃厚なヒスが、病人の
ルーズベルトと素人のステティニアスをリードしていた。
ルーズヴェルトは「背中に鏡を置いたままポーカーの
試合をする」状況に置かれたようなものだと、
戦後、ヤルタ会談の実態を知って怒った共和党の
ウィリアム・ノーランド上院議員は述べている。

(4)ヤルタ密約

その「鏡を背にしたポーカー」の結果、ヤルタ密約が
結ばれた。その原案はソ連側が作成した。ドイツ降伏から
2,3か月後にソ連が対日参戦することと引き換えに、
多くの領土と権益を与えるという内容だった。

日本の領土に関する部分だけを列挙すると:
・千島列島のソ連への引き渡し南千島
現在、北方領土と呼ばれる北方四島は1855年の
日露和親通好条約で日本領土と確認された。
明治8(1875)年の樺太・千島交換条約で、日露混住の
樺太をロシア領とし、千島列島全体が日本領となった。
・樺太の南部のソ連返還(樺太南部は、日露戦争の結果、
日本に割譲された

当時、アメリカの国務省はソ連との交渉を念頭に、
千島列島に関して次のようなレポートをまとめていた。

南部の諸島に対するソヴィエトの権利を正当化する
要因は、ほとんどないように思われる。
ソヴィエト連邦へのこのような譲渡は、将来の日本が
永久の解決としては受入れ難い事態を造り出すことになろう。
それは、歴史的にも民族的にも日本のものである島々と、
漁業的価値のある海域を、日本から奪うことになる。
南部の諸島は、もし要塞化されるならば、日本に対して
絶えず脅威となるであろう。

現在の日本が抱える北方領土問題を正確に
予言している。
このレポートはルーズベルトに宛てて提出されたが、
ヤルタ会談のための準備資料には含まれていなかった。
資料を統括をしていたヒスが外したと推測されている。

そしてルーズベルトはスターリンとの交渉で
「サハリンの南半分と千島列島が戦後、ソビエトに
行くことについては何らの困難もないと思う」と
発言したと記録されている。

ヤルタ密約では、このほかに満鉄と旅順・大連の
運営権をソ連に与える事がとり決められた。
ヤルタ密約はルーズベルトとスターリンによって署名され、
イギリスのチャーチルは同席せず、後に形式的に
署名した。文書は一切公表されず、存在そのものが
隠蔽された。

アメリカでは外国との条約締結は上院の3分の2以上の
賛成による承認が必要である。
ヤルタ密約はルーズベルトの越権行為であり、戦後、
アメリカ政府から条約としての効力を持つものではないと
否定されている。

5)日本の降伏を遅らせよ

ヤルタ会談で満足な結果を挙げたスターリンにとっての
最大のリスクは、ソ連参戦前に日本が降伏して
しまうことであった。

そうなれば何も得られない。ヤルタ会談の時点では、
ソ連はドイツとの激戦を続けており、アジアで日本との
戦いに入るためには、もう数ヶ月必要だった。

なんとか日本の降伏を引き延ばしたいスターリンの
援軍となったのが、ルーズベルトの無条件降伏要求だった。
条件付き講和の道を閉ざされれば、敗色濃厚となっても
日本は簡単には降伏できない。

ルーズベルトはこの無条件降伏要求を、1943年1月の
連合国首脳とのカサブランカ会談で打ち上げた。

自国の国務省に相談することもなく、チャーチルの反対を
押し切って、ルーズベルトはあたかも連合国首脳の
総意であるかのように発表したのである。

ルーズベルトがヤルタ会談に向けて出発する2日前、
マッカーサーからの急報がルーズベルトに届いた。
日本側が講和案を5つのルートで打診してきており、
アメリカはこの提案を受け入れるべきだと
進言するものだった。

日本は天皇の安全以外何も求めておらず、これは
最終的に日本が受諾した降伏条件と同じものであった。
しかしルーズベルトは「マッカーサーは最も素晴らしい
将軍だが、ダメな政治家だ」とこの進言を却下した。

陸軍のマッカーサーだけでなく、ウィリアム・リーヒ、
チェスター・ニッミツの2人の海軍元帥も、1945年2月の
ヤルタ会談の時点では戦争の勝負はついており、
ソ連軍の参戦は不必要、かつ望ましくないと考えていた。

これらの陸海軍トップの意見は無視され、逆に
「アメリカ陸軍はソ連の対日参戦を必要としている」という
全く逆の意見が、あたかも軍の総意であるかのように
吹聴された。

ジョージ・マーシャル参謀総長の仕業で、この人物は
後に国共内戦においてアメリカの蒋介石側への
支援を遅らせ、シナ大陸を共産党の手に
渡した人物である。

(6)終戦遅延工作による被害者65万人超

ヤルタ会談以降の日米戦争による被害を挙げてみれば、
スターリンの終戦遅延工作の影響の大きさを
窺うことができる。主なものだけでも以下のようになる。
数字は戦死・行方不明者数である。

2月19日~硫黄島の戦い 日本軍1万8千、米軍7千
3月10日~東京大空襲 各地の空襲により、20~30万
3月26日~沖縄戦、日本軍民約19万、米軍2万
8月6日~ 広島への原爆攻撃 9~12万
8月9日~ 長崎への原爆攻撃 7万
8月9日~満洲、南樺太、千島列島へのソ連軍侵攻 
       日本軍2~8万、民間人犠牲者多数
8月9日~シベリア抑留 6万以上

少なめの推定数字だけで合計しても、約65万人
規模となる。米軍も2万7千人の被害を蒙っている。
スターリンの謀略工作によって、これだけの人命が
失われたのである。

人的被害だけではなく、東アジアにソ連と共産主義勢力が
入り込んだことによって、シナ大陸や北朝鮮、北ベトナムが
共産陣営に取り込まれてしまった。

その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、現在の北朝鮮問題、
尖閣問題、南シナ海問題など、現代世界で東アジアが
最も危険な地域の一つになってしまったのは、
ヤルタ密約に源を発するのである。

(7)手玉にとられた日本

日本にとって、まことに迂闊(うかつ)だったのは、
このソ連に和平仲介の依頼をしていることだ。
事の次第はこうである。・・・

5月2日のベルリン陥落後、鈴木貫太郎内閣は
連合国に対して和平を求めることを決め、仲介役として
ソ連が選ばれた。

交渉役としなった広田元首相は6月3、4日、箱根にて
マリク駐日大使と極秘会談を持った。
広田はこの会談は友好裡に行われ、ソ連側の受け方も
良好で、交渉の前途は有望と東郷外相に報告した。

ところが、その後、いつまで経ってもマリクからの
音沙汰がない。
昭和天皇からも「なるべく速かに戦争を終結するように
取り運べ」とのお言葉があった。
6月29日にマリクから日本側の意向について
再確認があり、広田が説明したところ、
「本国政府に取り次ぎ、回答があり次第、
会談を進める」という返答だった。

その後、いくら督促してもマリクは病気と称して
出てこない。やむなく、日本政府は近衛文麿侯爵
・元首相を特使としてモスクワに派遣することを
打診したが、ソ連側はモトロフ外相が多忙との理由で、
回答は遅延するだろうとの事だった。

この時点では7月17日からのポツダム会談が
迫っていたのである。

結局、ソ連はヤルタ会談で対日参戦を約束し、
日本からの和平仲介の依頼をあしらって対日作戦準備の
時間を稼ぎ、終戦の6日前に日ソ中立条約を破って、
対日侵攻を始めたのである。
まさにスターリンは見事に日本を手玉にとったのである。

(8)「日本は誰と戦っているのか」

江崎氏は次のように結論づける。
国際政治の世界では、騙された方が悪いのです。
そして先の大戦で日本はインテリジェンスの戦いで
「敗北」したのです。

過去に欺された事への恨みつらみを語っても、
仕方が無い。 それよりも大事なことは二度と
欺されないことである。
そのためには、前回、どのように欺されたのかを
よく調べて、日本に何が欠けていたかを分析することだろう。  

わが国の弱点は、あまりにも相手の分析が
足りないことである。
ソ連に和平の仲介を依頼するなどは、その典型である。

またアメリカの国情をよく分析すれば、ルーズベルトや
ソ連の工作員たちのように、無条件降伏をテコに
日本の降伏を遅らせようという一派ばかりではなく、
グルーや陸海軍の上層部のように、妥当な条件で
日本との早期講和を図ろうとする一派もいたことが、
分かったはずだ。  

たとえば、日本を対米開戦に追いこんだのは、
最後通牒ともいうべきハル・ノートであった。
そしてこのハル・ノートは米国内でも秘密にされていた。
日本軍の真珠湾攻撃後、米国共和党リーダーの
ハミルトン・フィッシュは対日開戦に賛成する
演説をしたのだが、戦後、ハル・ノートを知って、
こう語っている。

私は、ルーズベルトが日本に対し、恥ずべき
戦争最後通牒を送り、日本の指導者に開戦を
強要した ということを知っており、この演説を
恥ずかしく思う。 ・・・

したがって日本政府がハル・ノートを世界に
公開していれば、 間違いなくルーズベルトは
共和党や国民の批判にあって、 日本を追い詰める
姿勢を続けられなかったであろう。

敵の分析が弱いということは、現代日本についても
言える。
慰安婦問題で世界に反日世論を巻き起こそうと
してるのは、 一体どこの国が、どのような狙いで
やってる事なのか。
沖縄の米軍基地反対は誰の差し金か。

朝鮮危機の最中、 一部野党が「もりかけ」問題で
国会を空転させ、 内閣の足を引っ張っているのは、
何のためにやっているのか。

我々は本当の敵を見極めなければならない。
『日本は誰と戦ったのか』とは、今我々は
誰と戦っているのか」と。・・・


      


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名人と呼ばれる人に共通するものはありますか。
ひと言でいえば、負けず嫌いということでしょうか。

升田名人というのは面白い人で、
対局で私が勝つと
その後の感想戦(対局を振り返っての研究)が
3時間に及ぶんです。
そのくらい自分の将棋を徹底して見つめられた。
だけど、自分が勝った時は10分で終わり(笑)。

棋士は皆負けん気が強いのですが、
特に升田名人のそれは有名でした。
ある時など午前2時に対局が終わって、
感想戦を終えて将棋会館を出たのは
朝7時だったこともあります。
大山名人もまた「意地」が口癖でしたし、
感想戦は真剣そのものでしたね。

ただ、私が思うのには、
それは単なる負けず嫌いというだけではなく、

――真理の探究ですか。
真理の探究というものが必ず一緒にある。
つまり、自分はなぜ負けたのかということを
客観的に知りたいという好奇心ですね。

プロの将棋の世界には10の222乗という
天文学的な指し手があります。
その中からお互いが最強の手を考えるんです。
最善手を閃くことも多い。
私の場合、85%は直感で分かると考えています。
ただ、そこからプロの嗜みとして
直感で捉えた手の確かさ、読みを
何度も重ねて精査していく。

偶然に支配されない必然の一手を探求して、
見つけた一手に魂を込めて指す。
この過程は真理の探究そのものでしょう。
だからこそ、プロ棋士はその一生を懸けるだけの
価値を見出して指し続けるのです。

いまでも思い出すのは、
昭和43年に難敵・大山名人と十段戦を戦った時、
私は1つの手を7時間かけて考え抜いて勝ちました。
7時間かけて見つかる素晴らしい手があったのかと、
勝負の深さを実感しました。
勝負の奥深さが分かるほど、
そこにある大きな感動を体験できるんです。

将棋の醍醐味もそこにあると。だからこそ、
生涯を懸けて棋士としてやっていけるわけです。
私たちは引退して死ぬまで棋士なんですね。
10年、20年、私のように50年、60年と
続ければ続けるほど、極めようとして
なお極めきることのできない将棋の奥深さに、
現役最年長となったいまも感動を覚えます。

いまは転職が当たり前のような時代だけど、
少年の時から棋士として歩んできた私にとって、
この道はまさに天職だと思っているんです。

【加藤一二三 プロフィール】
昭和15年福岡県生まれ。29年14歳で4段となり
史上最年少記録。
18歳でA級8段。大山康晴、中原誠、米長邦雄ら
将棋界の実力第一人者を相手にそれぞれ
100局以上対局。43年大山十段から初の10段位を奪取。
57年に名人となった他、王位、棋王、王将
などのタイトルも獲得した。
著書に『負けて強くなる』など多数。





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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、人生、絵模様、万華鏡…







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2017年12月11日 (月)

妄想劇場・現代事件簿

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スポットライトを浴びたかつてのマラソン女王が、
コンビニエンストアで菓子パンなどを万引し、
窃盗罪で有罪判決を受けた。

陸上の世界選手権(世界陸上)の女子マラソン
元代表で現在は無職の原裕美子被告(35)=
栃木県足利市=は11月8日、法廷に立ち、
トップ選手だった時期を含め、苦しんできた
17年間の思いを吐き出した。

何がトップランナーを転落させたのか-。

原被告は8日午後、足利市の宇都宮地裁足利支部の
法廷に立っていた。
黒い細身のパンツスーツ姿。足利市内の
コンビニエンスストアで今年7月、化粧品や
菓子パンなどを盗んだとして窃盗罪に問われ、
この日が初公判だった。

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防犯カメラの映像などから特定され、8月に逮捕された。
「事件当時、たまたまボディーミルクが替え時で、
お金を使うことが惜しいという気持ちがあった」

「入れようと思ったときに防犯カメラが視界にあったが、
捕まって早く楽になりたかった。そして
ボディーミルクをカバンの中に入れた」
盗んだときの様子を振り返ったその声はか細く、
尋問には涙ぐむ場面もあったが、はっきりと答えた。

検察側が読み上げた供述調書では「食べ吐きをすると
気持ちが落ち着く。でも吐く物にお金を使うのが惜しい。
捕まってもかまわないという気持ちでボディーミルクや
飲料水、食べ物を盗んだ。
1つくらいは払わないと店に申し訳ないと思い、
パンだけ払った」。

トップ選手時代から  万引はこれが最初ではなかった。
検察側の冒頭陳述によると、2度の罰金刑が確定。
今回は6回目の摘発だった。

きっかけは、トップ選手だったときに発症した
摂食障害だった。
窃盗は過食性の摂食障害にみられる典型的な
特徴だという。

平成12年、宇都宮文星女子高を卒業し、実業団の
トップチーム、京セラへ。
5年後の17年、初マラソンだった名古屋国際
女子マラソンで初優勝した。

彗星のごとく登場したシンデレラガール。
同年の世界陸上ヘルシンキ大会への内定を獲得し、
同大会ではメダルには届かなかったものの
日本女子トップの6位入賞。
19年の大阪国際女子マラソンでも優勝。
同年の世界陸上大阪大会に出場した。

だが、チームに入ってすぐに、過食と嘔吐(おうと)を
繰り返す摂食障害に苦しみ始めた。
体重制限などより厳しい環境で競技に
取り組むようになり、輝かしい成績を残している陰で
症状に苦しんでいた。

「食べては吐いてストレスを解消していた」

京セラを去り、22年には名伯楽、小出義雄代表
率いるユニバーサルエンターテインメント
(佐倉アスリート倶楽部)に移籍。
同年の北海道マラソンで復活優勝を遂げたが、
その後もけがに苦しんだ。

25年、ユニバーサルエンターテインメントを退社し、
生まれ故郷・足利市に戻った。
私生活では昨年10月末、地元の男性と結婚式を
挙げたが、入籍しないまま破局。

原被告は「昨年結婚式を挙げたが、結婚詐欺に遭い、
400万円の資金が無駄になった。つらい思い、
悩みから解消されたかった」と述べた。

弁護士は閉廷後、「自分が結婚資金を
負担したけれど結ばれなかった。
主観的に結婚詐欺と思ったのだろう」と説明している。

父親は「最近は症状が出ていないと思っていた。
警察が家に来たときはまたかと思った。
3年半はそういうのは、なかったが」と振り返った。
治療を試みたが、27年2月以降は通院して
いなかったという。

万引「利欲的でない」

初公判の法廷は、父親に対する証人尋問や
被告人質問が行われ、即日結審。

検察側は「動機が身勝手で再犯の可能性も高い」
として懲役1年を求刑した。
一方、弁護側は「実業団時代に極度の食事制限や
体重制限から摂食障害となり、万引をするようになった。
被害者との示談も成立している」と主張、
執行猶予付きの判決を求めた。

原被告は「しっかりと治療を続け、今後このような
ことがないよう、事件のことを忘れることなく
日々を過ごしたい」と更生を誓った。
保釈後、入院治療を受けており、退院後も
通院を続けるという。

休廷を挟み、言い渡された判決は懲役1年、
執行猶予3年(求刑懲役1年)。

中村海山(かいざん)裁判官は判決理由で
「自ら積極的に入院治療を行い、反省の弁を述べ、
父親が通院に同行することを誓っていることなどから
今回に限り、社会内で更生することを期待する」と
述べた。

「窃盗の常習性は顕著」と指摘した一方、
摂食障害や精神的に不安定だった経緯も考慮、
「利欲的とは言えない」とした。

判決を言い渡された原被告は裁判官席に向かい
深々と頭を下げた。・・・



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ハガキ道の坂田道信さんは29歳の時に森信三先生に
出会い、ハガキを書くことを奨められ、
ハガキの書き方を森先生の直弟子である
徳永康起先生に教わり、今日まで約50年、
ハガキを書き続けてこられた人です。

ハガキを書くというのは平凡なことです。
しかし、そのハガキを命を込めて書き続けて、
ハガキを書くことを道にまで高め、
「ハガキ道」というものを確立、提唱してきたところに
坂田さんの非凡さがあります。

坂田さんがいかにしてハガキを道にしていったかは
著書『ハガキ道に生きる』に顕著です。
坂田さんは頭のてっぺんから出るような声で
話される人ですが、
坂田さんが話し始めた瞬間、何人もの人が
その声を聞き、涙があふれてきたと言っていました。

ハガキの道に一命を懸けてきた坂田さんの
魂の波動が、若い人たちの魂を共鳴共振
させたのかもしれません。

私は坂田さんの話を聞きながら、一つの言葉を
思い出していました。
「磨すれども うすろがず」
『論語』の中にある言葉です。

かたいものはどんなに摩擦しても薄くはならない、
という意味です。
つまり、志・精神さえ堅固なら、どんな環境に
あっても、くじけたり、だめになったりしないものだ、
ということです。

坂田さんにもいろいろなことがあったでしょうが、
この言葉の如く、ハガキを書き続け、
その第一声で若者を感涙させるまで、その道を
高められたのだと思います。

一道を生きる人を励ます言葉です。
生き方の手引き書となっています。


こうして、こうすりゃ、こうなるものと、
  知りつつ、こうして、こうなった




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2017年12月10日 (日)

韓信外伝 -春秋の光と影 「友人」

Kensin

メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
良いかな・・・


アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい

Kansin

韓信外伝 -春秋の光と影 「友人」

「建を廃嫡するにあたって、余から汝に伝える
べきことがある」
王は熱弁を振るう費無忌を遮り、含み笑いを
浮かべながら言った。
その様子は、どこか楽しそうである。

「汝が連れてきた秦の公女の腹に、生命が宿った。
紛れもなく余の子だ。めでたく男子が生まれれば、
余はその子を新たな太子にしたいと思っている」

「なんと! それは吉報でございます」
この事実をもっとも吉報だと感じているのは、
費無忌自身であった。
彼にとってこれは、自己の安泰を確信した瞬間であった。

しかしあからさまにそれを喜んではいけない。
あくまで自分の喜びは、王室の未来永劫の繁栄に
向けて発せられたものと人々に思わせる必要がある。

「この臣わたしが主宰し、祝賀の行事を執り行いましょう。
さすれば、国がひとつになるよいきっかけとなります」
費無忌は王に提案した。

「しかし生まれてくる子が男子だと決まったわけではない。
急ぎ過ぎではないのか」
「国民の総意として、誕生する子が男子であることを
願う行事にすればよいかと存じます。
祈祷師や易者を招いて壮大な神事といたしましょう」

「なるほど。国の方向が次代の世継ぎを待つ方向に
定まれば、建や太傅の居場所がなくなる。
民の中にもあえて彼らの片棒を担ごうとする者は
現れまい。汝の好きに振るまえ」
こうして費無忌は、自身の地位を固めていった。・・・

「奴をどうやって殺す? 
具体的な方法はあるのだろうな」
奮揚はすでにその気になっている。しかも彼は、
伍尚が処刑される前にそれを成し遂げたいとも
思っていた。

だが子仲の返答は、奮揚の期待していたものとは
違った。「機を見て遠方から弓で刺殺します。
そのために、あの男がひとりになる時間を探って
いるのです」

ひとりの佞臣を殺すためには、おそらくはそれが
最善の方法かもしれない。が、その方法をとった場合、
費無忌は、なぜ自分が殺されたか、また誰によって
殺されたかを知らずに絶命することになる。

これでは、単なる事故で死ぬこととなんら変わらない。
「手ぬるい。奴は、人の手で殺されるべきだ。
そうでなければ、死ぬ直前に自身の行為を悔やませる
ことができん」

「直接顔を合わせるというのですか? 
いったいどうやって」「拝謁を申し込もう」
奮揚は提案したが、どういう用件で拝謁すべきか、
この時点で名案はなかった。

二人はしばし城郭の中を歩き、市中の様子をうかがって
みることにしたが、そこで街路に掲げられた布告を
目にすることになる。

その布告とは、王の側室が懐妊したため、
近日中に祝賀が催される旨が記されたものであり、
さらにその場で世継ぎとなる男児が生まれるよう、
祈りの儀式も合わせて行なうため、祈祷師や易者を
募っているものであった。

「これだ」 奮揚は布告を目に留め、会心の笑みを
浮かべながら叫んだ。祈祷師に扮して宮中に
乗り込もうと言うのである。

「名案かもしれませぬ」 子仲も、これに乗り気になった。
二人は変装してにわか祈祷師となり、見事宮中へ
入ることに成功したのであった。

当然ながら、二人に八卦などの易に関する知識などなく、
万物の陰陽についても説明することは不可能であった。
よって、拝謁に成功したら即座に行動を起こさねばならない。
二人とも懐に剣を隠し、万全の準備を整えた
つもりでいたが、その顔に緊張の色を浮かべていた。

「ぬかるな」 奮揚は傍らの子仲に向けて声をかけたが、
それは震える自分を励ますためのものでもあった。
子仲は黙って頷き、心を整えようとしていた。

やがて二人の前に現れた男は、やや甲高い声をあげた。
「汝らか。祈祷師に応募したのは」
声の主はまさしく費無忌であり、その口調は尊大であった。
しかしその立ち姿は意外なほど小さく、しかも背中が
曲がっていたため、緊張していた二人に威圧感を
与えることはなかった。

このため、奮揚は率先して会話を主導することができた。
「ぜひ我々をご採用なさいますよう、お願いしたいのです。
そのために本番で行なう祈祷の一部を、この場で
披露したいのですが、よろしいでしょうか」

費無忌は応じた。
「どのような祈祷を行なうつもりなのか。火を焚いたり、
水を撒いたりすることは宮中では禁ずる」
奮揚はその問いによどみなく答えた。
彼は内心の不安をおくびにも出さず、大胆に言い放った。

「生贄を用意します」
「ほう……」
費無忌は興味をそそられた様子である。この時点で、
彼は二人の悪意に気付いていなかった。
「人が天に願いを聞き入れていただくためには、
それ相応の代償が必要で、我々はこれを生贄とか
犠牲と称します。

しかし多くの場合、獣けものの生き血を絞ってこれを
献上するなどという安易な方法をとりがちなため、
願いは成就しません。生贄や犠牲は、願いを叶えるための
代償でございます。

我々の捧げものが天の神々を満足させるもので
なければ、求める結果は得られません」
「では、世の中が太子としての男子の誕生を
願っているいま、我々は天に対してなにを捧げるべきか」

奮揚はこのときにやりと笑った。そしてほんの一瞬、
子仲に目配せしたと思うと、表情を改めて費無忌に告げた。
「無論、人の命にほかありません。
しかもそれはどこの誰の命でもよいといったものではなく、
人の世に大きな影響を与える人物の命が適当です。

具体的に申せば……」
「具体的には……?」
費無忌は奮揚の言葉に体を乗り出した。
子仲はこの機を逃さなかった。
「費無忌、貴様の命だ!」
子仲は懐から剣を抜き、躍りかかった。

・・・

つづく




愚人は過去を、賢人は現在を、
  狂人は未来を語る・・




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「人生逃げ場なし」という言葉は、
自分を正すために心に刻んできた言葉の
一つなんですが、
私はそんなに強い人間ではございませんので、
逃げたくなる時もある。

どこかに逃げ場がないかと追い求めてきた
一人の人間でもあります。

私は17歳の時に一燈園の西田天香さんとの
ご縁をいただいて、最後の弟子としてお仕えを
させていただき、生涯を下坐行に捧げることに
いたしました。

ところが7、8年たって原因の分からない病気に
かかりまして、ものを食べてもほとんど喉を
通らなくなったんです。
最後には流動食も入らなくなり、先輩のお許しを
いただいて実家の母の元に帰ったのです。

天香さんは、講演で実家の近くまで来られた時に、
お見舞いに立ち寄ってくださいました。
寝ている私のそばにお座りになって、母親に
「洋さんの容態はいかがですか」と

聞いてくださいました。

母はきっと、疲れて帰ってきましたなどと、
私に対する慰めの思いを込めて天香さんに
報告してくれるだろうと思って聞いておりました。

ところが、母の口から出た言葉は全然
違ったんですね。
「私の息子は神経衰弱でございます」と答えたんです。
耳を疑いました。
私は神経衰弱などではないのに、どうして母は
そんなことを言うのか。

師匠の前で問いただすこともできずに、私は黙って
横になっていました。

天香さんはそれを聞くと、「早く元気になって
戻ってきなさいよ」と言って帰っていかれました。

私は天香さんが帰られてから母に、「なぜ私を
神経衰弱だと言ったのですか」と聞きました。
しかし、いくら聞いても答えてくれません。でも、
とうとう重い口を開いて言うことには、

「私はあなたを生んで、体は育てることができたけれど、
心を育てることはできなかった。
そのあなたの心を育ててくださっている師匠は
私の師匠。そのお師匠の前で、息子は疲れて
帰ってきたと言えますか」と。
私は、布団をかぶって涙がかれるくらい泣きました。

悲しい涙でもなけりゃ、辛い涙でもない。
母親の心情を思うと、涙が止まらなかったんです。
天香さんは、この子はこれからどうするかと
見に来ているわけです。

園に戻るのか、母親の情にほだされて実家に
落ち着くのか、真剣勝負で私を見ている。
その厳しい空気を察して、神経衰弱だと
一刀両断のもとに叩き切った母のすごさ。

私は病気が治るかどうかも関係なしに一燈園に
帰らせていただきました。すごい母だと思いました。

でも、私を叩き出しながら、その後ろで母はきっと
泣いていたんですね。
その涙が分かるようになったのは、私に子どもが
できてからですけれども。・・・

だから人生逃げ場なし、逃げたらあかんというのは、
私にとってはギリギリの言葉なんです。
天香さんとの師と弟子の心の闘いです。

実家に落ち着いてダメになるか、親を捨てて
下坐に生きるという志を貫けるか。
その迷いを断ち切ってくれたのは母でした。


・・・

一燈園
下坐に生きる

人よりも一段と低い位置に身を置き、
不平不満を表さないことは、己を磨く修練であり
修行だ。
京都の一灯園は、それを掃除を通じて行っている。
見知らぬ家々のトイレの掃除をさせてもらうことが、
己の高慢心を捨て、下座に行ずる謙虚な
心をつくるという。





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道を極めた現代の侍が凄い!

2017年12月 9日 (土)

妄想劇場・歴史への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


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むかしむかし、あるところに、とてもゆかいな
おならをする家族がいました。

おばあさんのおならは、「ぬすびとーん、
ぬすびとーん」と、鳴りました。
お嫁さんのおならは、「いたいた、いたいた」と、
鳴りました。
お婿さんのおならは、「ぶてぶて、ぶてぶて」と、
鳴りました。

ある晩の事です。
この家の天井に、泥棒が忍び込みました。
三人はそれに気がつかず、いろりのそばに
座ってお茶を飲んでいます。
(やれやれ、早く寝てくれないかなあ)

泥棒は天井に隠れながら、みんなが寝るのを
待ちました。
するとおばあさんが、お尻をあげて
おならをしました。
「ぬすびとーん、ぬすびとーん」

(何、盗人(ぬすびと)だと?)
泥棒が下をのぞいてみると、今度はお嫁さんが
おならをしました。
「いたいた、いたいた」

泥棒は、びっくりです。
(もしかすると、見つかったのかもしれないぞ)
そして今度は、お婿さんがおならをしました。
「ぶてぶて、ぶてぶて」

それを聞いて、泥棒はまっ青になりました。
(『盗人がいたから、ぶて?』 とんでもない)
泥棒はあわてて外へ飛び降りると、
一目散に逃げて行きました。・・・

おしまい



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むかしむかし、お奉行所の前に高札(こうさつ)が立って、
大勢の人が集まっていました。
そこへ、漁師の浜介(はますけ)が通りかかりました。
(いったい、何事だ?)

そばヘ寄ってみましたが、字が読めないので近くの人に
聞いてみますと、けさがた浜で奇妙な魚が取れたとの
事です。そしてその魚の名前がわからないので、
いい当てた者には金子百両(→七百万円)を与えると
書いてあるということです。

「魚の事なら、任せておけ」
浜介はさっそくお奉行さまの前に出て、その魚を
見せてもらいました。
(なるほど、これは見た事もねえ魚だ)
奇妙な魚にびっくりしていると、お奉行から、

「これ、浜介とやら、それなる魚の名は何と申す?」と、
突然聞かれて、浜介は思わず、
「ヘえ、テレスコと申しやす」と、言ってしまいました。
「テレスコと申すか。テレスコ。なるほど。
よう知らせてくれた。ほうびを取らすぞ」と、言うわけで、
浜介は百両という大金をもらって飛ぶ様に
女房のところヘ帰りました。

さて、それからひと月ほどたった、ある日の事。
また、お奉行所の前に高札が立っていて、
大勢の人が集まっています。
その高札には、《不思議な魚がおるが、名前がわからぬ。
名前をいい当てた者には、ほうびとして金子百両を
与える》と、前と同じ様な事が書いてありました。

浜介は、またお奉行さまの前に出て、魚を
見せてもらいました。
「浜介、そこなる魚の名は?」
「ヘえ。これは、ステレンキョウと申しやす」
浜介が言うと同時に、お奉行さまはきつい声で、
「この、ふらち者めがっ!

これなる魚は、前の魚を干した物じゃ。
浜介、その方、前にはこの魚をテレスコと申し、
今日はステレンキョウと申したな。
お上をあざむき、またも金子を狙うとは、重ね重ねの
ふとどき者。打ち首の刑を、申しつけるぞ!」と、
言うわけで、浜介は牢屋(ろうや)に入れられました。

さて、今日はいよいよ、打ち首になる日です。
お白洲(おしらす)に引き出された浜介は、これが
最後の別れというので、女房や子どもに
一目会う事を許されました。

「これ浜介。あとに残る妻や子に、何か言い残す
事はないか?」
「はい、お奉行さま」浜介は後ろ手にしばられたまま、
女房子どもの方を向くと、しみじみと言いました。

「いいか、お前たち。これから先、たとえどんな
事があろうと、決して決して、イカを干(ほ)したのを
スルメと言うでないぞ」
言い終わると浜介の日焼けした頬に、涙が流れました。

その時、お奉行さまはポンとひざを叩いて、
「これはしまった! それっ、急いでなわをとけ!」と、
家来に言いつけてなわをとかせると、今度は
自分が涙を流して、「これ浜介。わしが悪かった。

イカを干せばスルメ。
テレスコを干せばステレンキョウになるのか。
なるほど、なるほど」と、言う訳で、浜介はまた
ほうびの百両をもらって、女房子どもと連れだって
仲良く家ヘ帰りました。

・・・おしまい





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鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、    
  そばで 地蔵が食べたがる





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「江戸時代のわが国には、こんなにたくさんの
無私の人々がいたのか」と、・・・

明和3(1766)年の仙台藩領内の宿場町・吉岡宿は
藩から「伝馬役」、すなわち宿場間の物資の
運搬作業を課されて困窮し、夜逃げが相次ぐ
状況だった。

吉岡宿は藩の直轄領ではなかったために、他の
宿場のように「伝馬役」の助成金が支給されて
いなかったからだ。

この窮状から宿場を救おうと、吉岡宿の有力者たちは
金を出し合ってなんとか大金を作り、それを藩に貸した
利息で伝馬役に使おうという奇想天外な企てを始める。

「このままでは吉岡は滅ぶ。なんとかできぬか」       
吉岡宿の造り酒屋・穀田屋(こくだや)十三郎は
「このままでは吉岡は滅ぶ。なんとかできぬか」と
思っていた。

そこに一人の男の名が浮かんだ。菅原屋(すがわらや)
篤平治(とくへいじ)、吉岡宿きっての知恵者と
言われている男である。

茶師として、北国なのに宇治にも劣らぬ銘茶を作り出し、
さらには京の九条関白家に献上して、権威づけを
しようとまで考えている。

十三郎は篤平治に「茶を飲みに来い」と誘われたのを
機会に、それとなく吉岡宿の廃(すた)れようを嘆き、
「貴殿はいかにして、こうなったと思われるか」と
問い掛けた。

用心深い篤平治は「なるほど、私もそのように思うが、
そういうからには、まずは穀田屋さんのお考えから
聞かせていただけまいか」と逆に水を向けてきた。

お上の御政道に関わることを、自分から不用意に喋り、
後で密告などされては困ると思ったようだ。
ならばこちらから踏み込むしかない、と十三郎は
思いきって話し始めた。

「貴殿にたずねられて、わしも覚悟をきめた」
話し始めると、吉岡宿の衰退の原因が伝馬役に
あることは明らかであった。
「では、どうすれば、よかろう」と十三郎が尋ねると、
篤平治は言い切った。

それについては、私は、心中に、身分不相応の
大願がござる。それをやれば、この宿は救われる。
しかし、何をいっても、それには先立つものがいる。
つまりは金銭じゃ。それで力およばず、
心中黙止しているところじゃ。

十三郎は身を乗り出して「いくら、あれば、この宿を
救えるのじゃ」と聞くと、「千四、五百両」と篤平治は、
ぽつりといった。

この千四、五百両をお上に貸して、相場の利息1割を
いただく。これを宿場の伝馬役を務める家ごとに
配分すれば永久に宿場の御用もつとめることができる。

思いきって、いまこれをやっておかねば、この末、
どうにもお上の役に耐えられないものがでて、
家業がつぶれてしまう。
これ以上宿場の戸数が減ってしまえば、残ったものは
課役の地獄に突き落とされるのは、目にみえておる・・・

正直にいうが、この心願は、一朝一夕のことではない。
ずっとまえから、頭にはあったのだけれども、
だいそれたことではあり、いま話したとおり、なにぶん、
金の先立つことゆえ、とても自分の力では及びがたい、
と、悔しい思いをしながら、今日まで、いたずらに
年月をすごしてきたというてよい。

しかし、・・・貴殿にたずねられて、わしも覚悟をきめた。
吉岡宿を救うというこの手立て、一生涯のうちに
成りかねれば、生を変えてでも、この心願を
成就させたいと思う。

十三郎は普段穏やかな篤平治が、鬼気迫る形相で
語るのを見て、全身が総毛だった。
「まさに、そうじゃ! 菅原屋さん。あなたに、それほどの
心願があったとは驚き入りました。・・・

しからば、あなたと私。二人の願いが一致しているうえは、
たがいに心をはげましあいませぬか。こうして二人は
力を合わせて、この策で吉岡宿を救おうと決心した。

大肝煎の涙

二人が楽しみしていた銭湯に行くのもやめて朝晩、
水垢離(まずごり)をとり、その間には飲食も断って
何事かを祈願していると、「何を願っているのか」と
宿場中の人間が不審に思い始めた。

「企てが脇から漏れてはまずい。いっそのこと千坂さまに
相談した方がよかろう」と篤平治が言い出した。
千坂様とは吉岡宿のある黒川郡の大肝煎(おおきもいり)、
他藩でいうところの大庄屋で、百姓の中から選ばれる
村役人としては最高の役職であった。

千坂家は代々、大肝煎を世襲し、現在は千坂仲内
(ちゅうない)という30歳ほどの青年が当主だった。
当地では「千坂家の薬買い」という言い伝えが残っていた。

千坂の父は若いころ、酒を浴びるように呑んでいたが、
母親から「貧乏人には酒も買えないものがいる。
お前は酒ばかり呑んで」と叱られると、ぱったりと
酒をやめて、貧乏人に薬を配り始めた。

葬式代が出せない者には葬式を出し、金がなくて
結婚できないものにも、金をだした。
ついには日照りに苦しむ村のために、私財をはたいて
用水を掘り、それがもとで千坂家が貧乏になって、
大肝煎の役を解かれそうになった。

ところが、今度は村人たちが「千坂さまが大肝煎で
なくなっては困る」と金を出し合い、千坂家の借財を
整理した。
いまは、その子の時代になっているが、地元では
篤い尊敬を受けている。

そんな千坂家だからこそ、二人は「話してみようか」
という気になったのである。
二人は人目を避けて、ある夜、千坂家を訪れ、
吉岡宿救済の企てを打ち明けた。

しかし、大事を打ち明けられた千坂仲内は一言も発しない。
「しまった」と二人が一瞬思ったとき、見れば仲内の
両眼から涙がこぼれている。

この時節、わたしのところに、こっそりと頼みごとに
くる人は多いのです。
しかし、それは、みんな、自分の利益のために
やってくる人たちばかりでした。

大金をお上に差し上げたい、という人は、たいてい、
そのかわり武士に取り立ててもらいたい。
知行や扶持方をもらって、身分を取り立ててもらいたい、
というのです。

あなたがたも、お上に大金を上納するというから、
わたしは、てっきりそんな話かと思ったのですが、
きいてみれば、その志は雲泥万里の違いだ。

吉岡町内で暮らしがたちゆかぬ者たちを、どうにかしたい。
ずっと、そのお気持ちをあたためておられ、思いあまって、
今日、ここにおいでになったのですな。

お二人のおこころざし、この千坂仲内、よくわかりもうした。
こんな善事がほかにありましょうや。
そこで、お願いがあります。ぜひ、今夜から、わたしも
この企ての同志の人数に加えていただけますまいか。
こうして吉岡宿を救う企ての同志は三人になった。

「実は、おまえさまに、ずっと黙っておったことがござる」
十三郎は養子で、実家は浅野屋という吉岡宿でも一番の
商家であった。この実家が企てに加わってくれると、
金策も一気に進む。

しかし、今まで浅野屋に話さなかったのは、事情があった。
まず現在の浅野屋を継いでいるのは弟の陣内で、
幼い頃に長男であるにも関わらず、養子に出された
身としては頼みにくかった。

しかし、実父の命日に菅原屋篤平治とともに、実家に
乗り込んで、吉岡宿を救うための企てを打ち明け、
助力を頼むことにした。

「このたび、拙者は、、、」と懸命に語り始めたが、
話せば話すほど、実家の家族は、黙り込んでいく。
最後に「浅野屋様からも、相応のお金を
いただきたいのですが・・・」と言うと、沈黙が続いた。

沈黙を破って声が聞こえた。「ほんに、こんなことに
なるとは。十三郎兄さまは、父親に、そっくりじゃのう」 
弟の甚内だった。

十三郎殿。実は、おまえさまに、ずっと黙っておったことが
ござる。
兄上は、穀田屋の高平へ養子にやられてしまったから、
これは浅野屋の大事として洩らさなかったことじゃ。
もう、秘しておく必要もなくなったから話す。

実は、先代の甚内が、臨終の床で、言い遺したことがある。
おまえさまの父は、いまわのきわに、枕元に、みなを
呼び集め、こういうたのじゃ。

『わしには中年のころより、一つだけ大願があった。
なんとかして、お上からこの吉岡宿に御救いを
もらいたかったが、お迎えの時機がくるのと、
寿命には限りがあるのは、どうにもできない。
残念であった。どうかたのむ。

ここに年来、ためてきた浅野屋の銭は、ほかのことには
使わないでほしい。おれがだめなら、息子のおまえ、
おまえがだめなら、孫の周右衛門と、何代かかっても
よいから、この志をすてぬよう。どうか、吉岡の宿が
たちゆくよう、この金をつかって動いてほしい』。

そのとき、わしは一生懸命にいうた。
『末期の遺言たしかに承りました。わたくしも年々
銭をたくわえ、時機を待ちます。

それでも無理ならば、息子の周右衛門にいいきかせて、
かならずや、御志をとげさせます』。
そういうと、父上は、ただ、だまって、うなずかれるだけ。
すこし、微笑まれて逝かれたのじゃ。

「そんなことは、ひとことも、きいておらなんだ!」 
十三郎は泣きながら叫んだ。

「親子というのは、似るものよのう」

実父が自分と同じように、吉岡宿を救うことを
考えていたとは、思いもよらなかった。
そのあとに、続けた弟の言葉は、さらに十三郎を驚かせた。

この話を聞いたあと、わしは母と相談して、お前さんには、
だまっておくことにしたのじゃ。そのほうが、いいと思った。
なぜなら、どのみち、この浅野屋の身代はあやうくなる。
お前さんまで、巻き添えにはしたくなかったのだ。
わしも、母も、おやじと同じ気持ちであった。
吉岡宿のために家財のほとんどを吐き出す覚悟を
決めていた。

ところが、親子というのは、似るものよのう。
何も知らないはずの、お前さんのほうが、かえって、
吉岡宿救済に奔走して、穀田屋を潰すいきおいじゃ。
もうこうなっては、いたし方ない。考えてみれば、
こんな嬉しい話があろうか。

その場にいた誰もが、泣いていた。
甚内が「いくら、ご助力すればよろしいでしょうか」と聞くと、
十三郎は「とりあえず、五百貫文の加代(かだい)証文を
お願いいたします」

陣内が母に相談しようとすると、老母はすぐにでてきて
「そんな吟味なんぞ、いらん。早く、御両人に、
その加代状とやらを書いて渡しなさい!」

こうして、十三郎自身の父親の存念に助けられて、
金策も大きく進んだのである。

日本を築いた無私の志

この話しはまだまだ山あり谷ありで続いていく。
続きは映画か、その原作でぜひ味わっていただきたい。

その結末はどうあれ、驚くべきはこれら無私の人々による
ドラマが、実話だったということである。
そしてごく一部の人々を除いて、登場人物のほとんどが、
このような純粋な無私の志で吉岡宿を救おうとした。

原作の藤原正彦氏による解説は、次のような原作者
・磯田道史氏の言葉を引用している。

江戸時代、とくにその後期は、庶民の輝いた時代である。
江戸期の庶民は、親切、やさしさ、ということでは、
この地球上のあらゆる文明が経験したことがないほどの
美しさをみせた。

倫理道徳において、一般人が、これほどまでに、
端然としていた時代も珍しい。

それらの人々を動かしたのは、このドラマの
登場人物たちのように、宿場をなんとか救いたい、
救おうと思う無私の志であろう。

無私の志が江戸時代の、しかも庶民の間にも
深く根付いていたことを、いきいきと示している。
そして、多くの庶民の間に無私の心を植え付けたのは、
江戸から明治・大正にいたる日本の教育の

力であろう。・・・


『アリキリ』:女性活躍編





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# 隙間産業(ニッチ市場 )

2017年12月 8日 (金)

妄想劇場・妄想物語

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信じれば真実、疑えば妄想・・・



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「最高に楽しい現場だったとは言えない状況です」
オリヴィアさんは、気丈にもFacebookでその思いを
綴りました。・・・

「私の左腕は切断するしかないようです。
これからの人生で、2度とモトクロスができないなんて
信じられない。

心が引き裂かれてしまいそうです。
生きていて本当によかった。けれど私は、
エネルギッシュだった私の人生を変えてゆかねば
ならないでしょう」
・・・



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2015年の9月にオリヴィアさんが
ヘルメットなしでオートバイのアクションをしている最中、
金属製のカメラアームと衝突してしまいました。

オリヴィアさんは意識不明の重体となりましたが、
奇跡的にも一命を取り留められました。

しかし左腕は切断する必要があり、
上半身はねじれて元には戻せません。



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オリヴィア・ジャクソンの現在
事故の影響で横隔膜がマヒしているので、
呼吸が難しいというのに美しいフォームで水泳を
こなしています。

夫のデビッド・グラントさんは彼女が事故に遭った日から
ずっとそばで様々なサポートをしていましたが、
彼女は全てやってもらう事を望みませんでした。



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オリヴィアさんがある日、
唐辛子を足で持ち右手で刻むと
デビットさんは彼女と一緒に驚き、喜びました。

しかし、泣いても人生を巻き戻すことはできないと
考えた2人は、あの事故で「暗く重い瞬間においても、
軽く明るい面を見ていこう」と決意したそうです。


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彼女の以前の目標は、
「完璧なスタントをこなすこと」でした。
しかしそれがもう叶わない今は新しい目標を立て、
それを習得していける時なのだと言います。

オリヴィアさんはこれからの人生を最大限に楽しむため、
出来る限りの努力をするつもりだと話しています。
今までの人生が充実していたからこそ、
現実を受け入れるまでつらい日々を
送っていたことでしょう。

しかし自分を支えてくれた人たちへ感謝し、
今生きているこの時を楽しもうとしています。
オリヴィアさんの強い心は、
私たちに様々なことを教えてくれている気がします。


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私は大病を患って、突然歩けなくなって
しまったんです。
何だろうと思っているうちに立つことも
できなくなって寝たきりになり、ベッドの
そばにあるトイレにすら自分の力では行くことが
できなくなりました。

薬の副作用のため、末梢から筋肉が萎縮し、
力が抜けていくという病気でした。

そういう状況の中で、頭の中では何を考えて
いたかというと、人間は死を受容できるのか
ということでした。

自分がまもなく確実に死ぬと思っていましたから、
毎日毎日天井を見ながらそのことばかりを
考え続けました。
ただその時に、あの世はあるかということは
思わなかった。
自分がもし万が一生きられたらって、いつも
思っていましたね。

つまり、死んだらどうなるかということよりも、
生き延びることができたら、自分の人生を何に
使おうかと考えたわけです。

だから僕も楽観的だったと思うんですが、
散々悶々と考えた挙げ句に出た結論は、
俺は死を受容できないということでした。

受け入れられないから、もし死んだら化けて
出るだろうと(笑)。
だったら生きるしかないだろうと思うように
なったんですね。

ところが病状は日に日に悪化し、ペン一本すら
重たくて持てない。
眠るたびに酷い悪夢に襲われ、全身汗だくになって
目が覚める。

僕が倒れたのはフランクル先生が亡くなった翌年の
一九九八年だったんですが、僕はとうとう
彼の奥さんにこんな手紙を書きました。

「エリーさん、さようなら。僕はいま死ぬような大病を
患っているんだ。
もう二度とウィーンの街を歩き回ることもないだろう。
これから先生の元へ行きます」。

そしたらエリーさん、慌てて返事をくれましてね。
「あなたがそんな病気でいるなんて、とても
信じられない。
私は医者ではないから、あなたに何もして
あげることはできない。
けれども生前、ヴィクトールが私にいつも言っていた
言葉をあなたに贈ります。」

この言葉が僕を蘇らせてくれたんですね。
「人間誰しもアウシュビッツ(苦悩)を持っている。
しかしあなたが人生に絶望しても、
人生はあなたに絶望していない。

あなたを待っている誰かや何かがある限り、
あなたは生き延びることができるし、自己実現できる」。
この手紙を僕は何百回も読み返しました。
そうして考えたのは、いまの自分にとっての
生きる意味とは何だろうということでした。

そして考え続けた結果、
「あなたを待っている誰かや何か」の焦点は
私にとっては医学教育であり、生きる意味は
探せばちゃんとあるのだと感じたんです。

それから私はよし、と気合いを入れ直して
リハビリに専心し、毎日鍼治療も受けました。
さらに漢方薬や温泉療法なども行って、
二年後には奇跡的に職場復帰まで果たすことが
できたんです。

(エリーさんの)あの言葉がなかったら
僕はいまここにいませんよ。

医療もまさに心一つの置きどころで、
患者の側が自ら治ろうという気概を持たなければ
何も起こらない。

僕はこれを傘に例えているんですが、
傘には布と芯の部分がある。
布の部分は医療者や家族であり、
芯の部分が患者さん本人ですよ。

これがなければ、傘の用をなさないですよね。
僕はこれをアンブレラ理論と呼んでいますが、
治療には絶対に必要なものと考えています。
・・・

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歌は心の走馬灯、歌は世につれ、
  世は歌につれ、人生、絵模様、万華鏡…







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# 隙間産業(ニッチ市場 )

2017年12月 7日 (木)

妄想劇場・歌物語

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北海道旭川市で、玉置浩二が中心となって1973年頃に
結成されたのが安全地帯。
メンバーチェンジや別バンドとの合併を経ながら
実力を伸ばし、ヤマハのポプコン本選に何度も
出場するなど、北海道を代表するアマチュアバンドに。

1981年に井上陽水と出会って実力を認められ、
バックバンドとして全国ツアーに同行。
1982年に「萠黄色のスナップ」でメジャーデビューした。

1983年、4枚目のシングル「ワインレッドの心」を発売。
サントリー「赤玉パンチ」のCMソングに起用されて
人気に火がつき、翌年にかけて大ヒットする。

ザ・ベストテンには84年2月23日、第10位で初登場。
レコーディングスタジオからの中継で歌い、
以後12週ランクインした。

きらびやかな衣装で歌うアイドルが全盛だった当時、
メンバー全員がきっちりとしたダークスーツを着た
安全地帯は異色の存在だった。

玉置浩二は当時25歳。口数が少なく、歌う時は
笑顔を見せず、常に苦しげな表情で歌う彼も、
ボーカリストとして異彩を放っていた。


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ほぼ同時期に人気が出始めたチェッカーズが、
バンドでありながらアイドルグループのような魅力も
持ち合わせていたのとは対照的である。

続く「恋の予感」も、年をまたいで8週間連続で
第3位にとどまり続けるなどヒットし、
一躍全国にその名が知れ渡った。

85年には初の武道館コンサートを実施、
さらに香港へも進出するなど活動の場を広げていく。
最初のヒット「ワインレッドの心」「恋の予感」は
井上陽水の作詞だが、その後はアルバム・シングル
ともに、松井五郎の詞、玉置浩二の曲というコンビで、
数々の名曲が生み出されていった。

「悲しみにさよなら」は9枚目のシングル。
それまでの作品がすべてマイナー調だった中、
これは彼らにとって初めての、メジャー調の
優しげな曲であった。

ザ・ベストテンでは8月22日に第1位に。
前作「熱視線」で初の1位になった時は香港に
いたため、この時、番組恒例の1位を祝うくす玉を
初めて割ることになった。

以降、6週連続で1位をキープ。
13週にわたってランクインする大ヒットに。
年末の大感謝祭(85年12月26日)では、
「悲しみにさよなら」が年間ベストテンで堂々の
1位に輝いた。

女優・星由里子が花束を持ってお祝いに。
これは安全地帯が主題歌を担当するTBSドラマに
出演している縁からだった。

さらにデビュー前から彼らの活動を支えてきた
旭川の恩人・木内和博氏が駆けつけ、
メンバーは大感激。
この曲で、85年末のNHK紅白歌合戦にも初出場し、
80年代を代表する人気グループに成長していった。

憂いを帯びた曲調にのせ、吐息混じりに、
狂おしい表情で歌う玉置浩二には、男女の別を越えた
妖艶なセクシーさがあった。
その日本人離れしたソウルフルなボーカルは、
歌番組やライブでも絶対に音程を外さず、
常にCDと同等以上の歌を聴かせた。

またメンバーの極めて高い演奏技術も特筆。
決して目立ち過ぎず、ボーカルを引き立てることに
徹していたからこそ、美しいメロディ・驚異的な
ボーカル・洗練されたサウンドがバランスよく
調和した、大人のためのロックバンドたり得たのだ。

安全地帯は何度か活動休止期間を経ながら、
解散はせず現在も存続。
屋台骨を支える玉置浩二は、その音楽の才能とは
別に、私生活が何かと話題になることも多かった。

しかしソロ活動も含め、彼の生み出す作品の
クオリティは依然として高い。
2010年に安全地帯が6年ぶりに活動再開した時、
玉置はちょうどマスコミ報道の渦中にあったが、

ツアーを見た観客の多くは、口を揃えてライブを絶賛。
あらためて彼らの素晴らしさを思い知ったのだった。
完成度の高い彼らの作品群は、今後も若い
ミュージシャンに影響を与え続けるだろう。


Author :玉置浩二(安全地帯)
ソウルフルなボーカルと美しいメロディ、
都会的なサウンドで数々のヒットを生みだした。




ザ・ベストテン☆エピソード

玉置浩二は学生時代に野球部でピッチャーをやっており、
大のプロ野球好き。 そのため、当時の安全地帯の
ベストテン出演時のトークは、野球の話題になることが
多くありました。

1984年12月27日放送の年末特番では、
「ワインレッドの心」が年間第5位に。
巨人ファンの玉置のために、花束を持って祝福に
駆けつけたのは、当時の巨人軍エースの一人、
西本聖選手。

憧れのピッチャーを目の前に、玉置は笑顔で
目を輝かせていました。
黒柳徹子に請われ、なぜか互いに投球モーションを
披露させられる場面も。・・・


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達磨大師が説いたこの「観相学」を研究して、もう
六十年近くになります。
多くの徳人や悪人、成功者たちの顔を見てきて、
私はようやく最近大師の教えにゆるぎない確信を
持つようになりました。

人は誰でも、表と裏の面を併せ持っています。
日のあたらないところにこそ多くのドラマがあり、
味がある。
それが如実に表れるのが、顔なのです。

   (中略)

達磨大師(だるまたいし)は、「肉体は脳の影、
現象は心の所見」 といっています。

脳には「脳相」があり、これが「顔相」になって
現れるのです。
これを受けて嘉祥大師は、「人生を左右するものは
『運』であり、その運を支配するのは顔である。
そしてその顔を作り上げるのは『脳』である」という
理論を打ち立てました。

「嘉祥流観相学」は、この理論を基に脳と顔と運の
因果関係を科学的に解明し、観相学を占いのような
統計学ではなく、自然科学の学問として方程式化
したものなのです。

人の顔や体は、遺伝子によって土台が作られますが、
脳はおよそ二十年かけて完成します。
その人物がどういう環境に育ったか、どういうことを
学んだか、どういうことを考えたかによって、およそ
二十年かけて相を形成し、これが顔相に
影響を与えるのです。

例えば、小さい頃から
「聞こう、聞こう」と脳が意識する機会が多いと、
耳の血流が増え、次第に耳が大きくなっていきます。

地獄耳といわれた松下さんの耳は当然大きかったし、
幼少期に「人質に出されるのでは」とおびえていた
徳川家康の耳が大きかったのも、大人の話に耳を
そば立てていたからといえます。

自己主張が必要な環境に置かれ続ければ、
多く言葉を発しようとして口が発達します。
勉強や仕事など、何かに一所懸命打ち込むと、
前頭葉が活性化しエネルギーが発生するので、
額に汗をかき毛根にダメージを与え、結果、
額が広くなります。

目や鼻、眉の細部に至るまで、脳の指令が
働いていないところはありません。
つまり顔を見れば、その人物のルーツから
性格や育った環境、それまでの歩み、そして
今後の運など、すべてがわかるのです。

私は松下さんをはじめ、井深さん、本田宗一郎さん
など、・・日本を世界に名立たる経済大国にまで
成長させた多くの偉大な人たちの表の顔や横顔、
裏の顔に至るまでを垣間見てきました。

顔のプロとして見るならば、彼らの顔は、
大きく二種に分類できます。

一つは「牛顔」です。
えらがクッと張り顎が発達した四角い顔。
松下さんも井深さんも、この類に属します。

そしてもう一つが「馬顔」。
小泉純一郎首相やアメリカのブッシュ大統領のように、
えらが発達していない顔です。
このタイプは、論理的で、イデオロギーを盾に
ガンガン前に突き進んでいきますが、
気がつくと誰もついてきていない、ということが
間々あります。

参謀なら大成功を収めますが、リーダーになると
さまざまな問題が生じてしまいます。
また私は常々、「お嫁さんにするならえらの張った
女性」といいます。

強い意志を持って男を支え、ときに叱咤激励しながら
男の心を燃え上がらせる 「はげまし顔」の女性。
人の心をつかみ、勇気や希望を与える、
いわゆる人徳者は、多くが牛顔をしているのです。 




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