2018年11月29日 (木)

韓信外伝 -春秋の光と影(楚王逃亡)

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アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい


Kensin1

メジャーでは無いけど、 こんな小説あっても、
良いかな・・・



Kansin

春秋末期の楚は、愚者たちによって
統治されていた。
能者は他国へ流れ、賢者はそねまれ死を
強要される。
しかし変革に立ち上がった者たちにも行動に
統一性は見られないのであった。

ある者は祖国を改革しようとし、ある者はあえて
祖国を滅ぼす、と主張する。
彼らはそれぞれに信念があり、正しかった。
誰が間違っていたというのか。 ・・・



韓信外伝 -春秋の光と影(楚王逃亡)

奮揚は返す言葉を見つけることができなかった。
だがしかし、彼にも胸に秘めた思いはある。

かつて伍子胥の兄である伍尚に打ち明けられた言葉
……「私の死後、弟の力になってもらいたい。
我らの恨みを晴らしてほしいのだ」

彼はこの言葉をずっと気にかけてきた。
いままで忘れたことがなかったといって
いいくらいである。

しかし、彼のいまの立場は伍子胥とは正反対の
位置であり、伍家の恨みを晴らすには、
ほど遠い立場であった。

伍尚の思いに応えたいという気持ちはあったが、
その方策がみつからないというのが、
彼の本心である。

包胥は、奮揚のその心の内を見透かしたように
言葉を継いだ。
「伍子胥に復讐を果たさせてはならぬ。
復讐はあらたな復讐を呼び、それは終わる
ところを知らないのだ。

つまり伍子胥が復讐を果たせば、それが
新たな恨みを生み出し、今度は伍子胥自身が
復讐される。この憎しみの連鎖を、我々は
止めなければならない。

それが、伍子胥を救うことにもなるのだ」
包胥らしい意見であった。しかし、
これは陣頭に包胥自身が立つことになる最大の
理由とはなり得ない。

奮揚は、その点を質した。
「紅花がいる。王さまや太后さまとともに、
妹も守ってほしい。私が頼れるのは、君だけだ」

「道」の探求者として、大きな人間愛を建前
としていた包胥が、はじめて個人的な感情を
示した瞬間であった。

それだけに奮揚は、その思いに応えなければ
ならないことを実感した。
「……わかり申した」

秋が深まった十一月の末、呉軍は郢に肉迫した。
奮揚は嬴喜と軫、そして紅花を連れて国都を脱出した。
「お兄さまは、戦いに勝つことができましょうか」
揺れる馬車の上で、次第に視界から遠ざかっていく
郢の城壁を眺めながら、紅花は奮揚に問うた。

「まず、難しい。……呉軍の兵力は三万程度で
我々に比べれば少ないが、非常に効果的だ。
二十万の兵力を擁す楚軍を各地の防衛に
分散させ、郢に残る軍勢は、五千に過ぎない。
包胥どのがいくら頑張っても、太刀打ち
できない数だ」

「では、兄上は……この戦いで死を覚悟して
いるというのですか?」
紅花は涙目でそう聞き返した。奮揚の言い様が、
やや感情に欠けた冷たいものだと感じたのだろう。

「確かにそのつもりであることは間違いないだろうが
…かつて包胥どのは、私に打ち明けたことがある。
最後の最後、彼にはとるべき秘策がある、と。

その内容までは話してくれなかったが……。
そういう意味では勝算がないとは言えない。
とにかくこうなった以上、彼を信じるしかない。

ほかにどうしろと言うのだ」彼らは郢の東北にある
雲夢うんぼうという地にある沼沢に向かった。
そこで身を隠そうというのである。

呉軍が郢に入城したのは、その日の夕刻であった。
彼らがそれに遭遇しなかったのは、
幸運というほかない。

しかしそれは、すべて包胥の判断に基づいた
行動であって、決して偶然のなせる業では
なかったのだ。

このとき逃避行に入ったのは、楚王軫と
太后嬴喜のほか、軫の異母兄である子啓、
同じく子西、また同じく子期の三名がいた。
そして太后の世話役である紅花がいる。

彼らを守るのが、奮揚の役目であった。
目立つ行動は避けねばならぬので、
引き連れる軍勢は皆無であった。

奮揚の危機における判断力が、
試されようとしている。
雲夢の沼沢に身を隠した彼らであったが、
そこは野営するには危険な場所であった。

「篝火かがりびが見える」紅花は、沼の対岸に
またたく光の明滅を、見逃さなかった。

「呉軍の追手かしら」奮揚も目を凝らして、
その様子をうかがった。
「いや……軍勢にしては篝火の数が少ないようだ。
おそらく……あれは盗賊に違いない。
見つかると厄介なことになる。

すでに夕刻を過ぎているが、
出立することにしよう」「これから、ですか?」
すでに空が星々で埋め尽くされた時刻である。
彼らには休息の時間も与えられない、
というのか。

「呉から逃れたはいいものの、盗賊によって
滅んだとなっては、後世の笑いの種だ」
奮揚はそう言うと、全員に出発の準備をさせた。

・・・つづく

愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る・・

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名古屋駅近くの、友人の会社を訪ねた帰り道のことです。
歩道を歩いていると、前方から白い杖をついている人が
やってきました。

黄色い点字ブロックの上を、左右に杖を軽く叩きながら
歩いて来られました。

すれ違いざまに、「お手伝いしましょうか?」
と声を掛けました。40代の快活そうな男性でした。
今までの経験ではおおよそ、「お願いします」
と言われるのが7割、「大丈夫です」「いいです」
と言われるのが3割です。

しかし、今回は、そのどちらでもなく、
「バス停はどこですか?」と尋ねられました。
私はキョロキョロと辺りを見回しました。なんと、
それはすぐ目の前にありました。

「ここです、ここです」と言いつつも、
相手には「ここ」がどこだかわかるはずもありません。

「目の前です」と言い直すと、
「あっ! わかりました。ありがとう」と、
バス停に誘導するために分岐された点字ブロックに
従って方向転換されました。

「どちらへ行かれるんですか?」と尋ねると、
「名大(名古屋大学)行きに乗りたいんです」
とのこと。時刻表を見ると、路線は4つ。

そこから、「名大行き」を探して、
「ちょっと待ってくださいね・・・ええっと・・・
次の名大行きは5時32分です。
今が、16分ですから15分ほど待っていて下さい。

あっ、今、バスが来ましたがこれではありませんから
乗らないでくださいね」
すると、大きな声で、
「ありがとうございます。ありがとうございます。
助かりました~!」と言われました。

それがもう、嬉しくて仕方がないということが
バッチリ伝わる口調なのです。オーバーアクション付き。
舞台俳優かなと思うほど、大袈裟でした。

そんなに喜んでもらえて、私は嬉しくなりました。
嬉しくなったので、もう一つ「おせっかい」をしました。

「ここに、椅子がありますが座られますか?」
「あ!はい」
私が、「こっちです」と声で誘導すると、
すぐに椅子に腰かけることができ、

またまた、「ありがとうございます! 助かります~」
と言われました。あまり大声なので、
ちょっと照れて恥ずかしくなるくらいでした。

「じゃあ、お気をつけて」と言って私も家路に着きました。
帰りの電車の中で、私はたいへん幸せな
気分になりました。
最初は、困っている人に親切をしたからだ
と思いました。

しかし、ふと、心に疑問が湧きました。
いや、違う・・・親切をしたからではない。
あの「ありがとうございます!助かります~」
の言葉が嬉しかったからだということに気づきました。

さらに思ったこと。

あの男性は、お礼の達人に違いない。
同じ「ありがとうございます」でも、喜びの気持ちを
心を込めて言うと、相手の心の奥にまで伝わる。

ただの「ありがとうございます」だけでなく、
「助かります~」と付け加える、もっともっと
相手は喜ぶ。

そのことを知っていて、助けてくれた人にはいつも
「全身全霊」で「ありがとうございます」を言って
いるのではないか。

人に親切をすると、人はそれだけで幸せな
気分になれます。
さらに、お礼を言われると、もっと幸せになれます。
すると、親切をした人は、もっともっと、親切を
しようと思います。

この目の不自由な男性は、ひょっとすると、
不自由な生活を送る中で、このことに気づいたの
かもしれません。

別に計算ずくでお礼を言っているというのでは
ありません。
知らぬ間に、どうしたら相手が喜んでくれるのか
という「お礼の言い方」を身に着けたのでは
ないだろうか。そんなことを考えました。

私も、人から親切にされることがあります。
そんな時、ぶっきらぼうに「ありがとう」と言っては
いないか。これからは、全力で(笑)「ありがとう!」
を言ってみようと思いました。


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2018年11月23日 (金)

妄想劇場・妄想物語

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なぜ、美人はいつもつまらない男と
結婚するんだろう?
賢い男は美人と結婚しないからさ。・・・


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仏門に入った男性は、修行前に自殺未遂を
経験していた。
仏教は自殺について善悪を判断してない
と言われている。

果たして、この男性はなぜ自殺未遂をし、
なぜ仏門を選択をしたのだろうか。

「生きられない」

深夜、交差点に寝そべって、自殺を試みた
2016年1月某日の深夜、岡田倫大(21)が首都圏の
自宅から徒歩3、4分の交差点で、寝そべった。

自殺しようと思ったためだ。しばらくして、倫大に
軽自動車が近づいて来た。しかし、車は直前で
止まり、運転手の男性が車を降りて、倫大を怒鳴った。

「本当に死ぬこと以外に何も考えられなく
なったんです。何も言わずに夜中に家を出た。
(寝そべると)頭の方から車が来たんです。
でも、運転手にすごく怒られました。
聞こえないふりをして、その場から立ち去りました」

このときの心境にについて、倫大は「どうなっても
いい、という感じです。ただ、『死にたい』とは思って
いないかな。どちらかというと、『生きられない』
という感覚でした」と振り返った。

「覚えているのは、解離とまではいかないまでも、
自分が自分でなくなるような感覚があった。
自分じゃなくなっていく…」

過去の逮捕歴

「自分では嫌だったので、『勝手にやれば』
と思っていた」
実は、倫大は高校時代、警察に逮捕されたことが
ある。どんな事件だったのか。

「友達が野球チームを作ったんです。
でも、お金がなかったので、道具がたりませんでした。
そのため、いろんな学校を回って、部室から
野球道具を盗んだんです」

住居侵入と窃盗の容疑だ。
しかし、関与の度合いが低いため、逮捕から
3日で釈放されたという。

「何もしてないというと嘘になりますが、僕は一緒に
いただけ。野球道具を盗んでいません。
友達の家にいて、野球道具を盗もうという話に
なったんですが、止めませんでした。

ただ、自分では嫌だったので、『勝手にやれば』
と思っていたんです」
揃ってない道具を盗んだほか、他の道具は売って
お金にすることになった。

倫大はそのとき、「売るのは足がつくんじゃないか」
と言ったが、結局、そこから犯行が明るみになった。

半年後のある日、早朝に警察官がやって来て
逮捕された。
「知らなかったのですが、友達から借りていた
グローブが盗難品だったんです。だから、
共犯が疑われました。

警察としては『お前は一緒にいたんだろう?』
『やったんだろう』ということになりますよね」
友人に簡単に売られ、犯行を主導していた
と疑われる

倫大が主導したと警察が考えた理由は、
中学時代に非行歴、補導歴があったためだ。
警察は「お前が命令したんじゃないか」
と追い詰める。その上、友人たちも簡単に
倫大の名前をあげていた。

その後、親からも「絶縁してくれ」との誓約書を
書かされることになった。

「大事な仲間から売られたんです。
自分でも、そいつらの犯行を止められなかった
ということは、『あいつらはどうなってもいい』
という考えが頭にあったからじゃないと思ったんです」

倫大が逮捕されるのはこのときが2度目だった。
1度目は傷害の容疑だった。
このときは家裁に送られ、鑑別所に送られる
ことになったのだ。

「鑑別所から2ヶ月で出て、『2度と、こんな
ところには来ない』と決意していたときだったんです。
逮捕はその3、4ヶ月後の出来事でした。

『また、捕まるんじゃないか』という夢も見たことが
あったんですが、すぐに警察が来ました」

事件に関与したことをSNSで晒され、人を
信じられなくなった
この事件で逮捕されること自体でも、相当な
ストレスを抱えることになるが、自殺未遂は、
逮捕に起因していたわけではない。

この事件と自殺未遂を結びつけたのは、SNSの
書き込みだった。

「隣人からも、警察に逮捕されるなんて、
何をしたんだ、という噂にもなっていました。
そんな中で、SNSで、友達とも言えないくらいの
知り合いが、この事件のことを呟いたんです。

しかも、実名で。僕の名前は珍しいので、
すぐに本人特定されてしまうんです。
それが耐えられなくなったんです」
倫大は誰も信用ができなくなってきていた。

「孤独感ではなく、本当に孤独なんですよ。
会ったこともない人さえ、僕を否定しているのでは
ないかと思っていた。
どんな人も、僕を否定する存在でしかない、
と思っていました」

小学生時代の友人宅へ、

寝そべっていた現場を立ち去った倫大はその後、
1時間半ほどのあいだ、一駅分程度の距離を
歩いていった。小学校のときから付き合いのある
友達の家の方向だった。

「勝手に足が向いたんです。
そして、この日のことを友人に話をしました。
『どうしていいかわからない』
『消えてなくなりたい』と言ったんです。

すると、殴られました。
それまで何をしていても、生きている実感が
なかったんですが、殴られたことで興奮したんです。

『こいつ、やっぱ、考えてくれている』。
そういう感覚になっていったんです」

倫大は、その友人が小学校のころから必死に
生きていたと感じていた。
喧嘩をしたことはなく、このとき初めて殴られた。
そのことで本気さが伝わったという。

その反面、こうも思った。

「僕は、(盗みをした友人を)殴ってでも止めよう
としなかった。本当の意味で、その友人たち
と繋がろうとしていなかったんだと思ったんです」

孤独を感じていたときに、この友人は
本気で怒ってくれた。
「怒りなのかどうかはわからないんですが、
結果的に、僕を鼓舞してくれました」

小学校のとき、倫大は勉強も運動もでき、自らを
「スクールカーストの最上位にいる」と考えていた
という。

しかし、5年生のとき、この友人と出会った。
そのとき、勉強や運動だけで人の価値は決められない、
「こいつが上だ」と初めて思えた。
そんな友人が真剣に怒ってくれた意味は大きかった。

「こんな俺でも修行はできるんでしょうか?」

その後、倫大は真剣に悩み、浄土真宗の寺で
修行をすることにした。
その面接で過去の補導歴、逮捕歴について話をした。

「こんな俺でも修行はできるんでしょうか?」
すると、面接官はこう答えた。

「むしろ、君みたいな人間を待っていた」
修行に入ってから、寝そべって死のうとしたことも
話した。

すると、指導者は「これまでのことがこれからを
決めるのではない。これからやっていくことが
これまでを決めるんだ」と言ったという。

「それを聞いて、『これからなんだ、やった事実は
変わらなくても、価値を変えていくことができる』
と思ったんです。

そのために生きようと思ったんです」
「きっかけさえあれば、誰だって、何者にもなれる」
今後も修行を続ける倫大。

今はひたすら仏教を勉強している。前歴が
あるために、教誨師にも興味が出ている。

「(刑務所の外に)行き場がなくて、再犯する
人がいます。そんな人の行き場も作ってあげたい
と思っています。
きっかけさえあれば、誰だって、何者にもなれる
と思います」

宗教によって「生きづらさ」を植え付けられる
人たちも多く取材してきたが、一方で、宗教によって
「生きづらさ」を解消する人たちも知っている。

倫大は、それまでの生きづらさを仏教で
解消した一人だ。
一人前の住職になるのはまだまだ先だが、
すでに、悩める若者の相談にのっている。

「ある若者と知り合い、話を聞いてほしい
と言われて以来、ずっと話を聞いています。
いろんな問題を抱えているので、すぐに解決
できるわけではありません。

でも、その子にとっては、何を話してもいい相手に
なりました。何かあるたびに連絡があります」
門徒の前で話をすることもあるという。

「仏教的な話もしますが、実体験を入れてほしい
というので、自殺をしようとしたときの話もしています。
衣を身につけていないと、こういう話はなかなか
できませんが、

涙を流す人もいて、『あなたの話を聞いて、
生きようと思いました』
と言ってくれる人もいます。今は、お坊さん以外に、
やりたい仕事はありません」

仏教関係には、自殺に関連した話を受け止める
ネットワークがある。そんな中に、倫大のような
未遂経験者もいるのだ。・・・


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A子は、とても優しい心の持ち主なのですが、
中学校1年の12月に父親を亡くしてしまいました。
それから、少しずつ生活のリズムが崩れて、
学校を休むことが増えてきました。
さらに、中学2年生の夏休みには髪の毛を
茶髪にしてしまいました。

夏休み以降、さらに欠席が増え、12月くらいから
全く登校できなくなりました。
3年生になって、時々学校には顔を出すように
なりました。
しかし、教室には全く入らず、担任など教員に
顔を見せるだけでした。

2年の時から、修学旅行については、
A子に「修学旅行に行くんや!!」
と言い続けていました。

家庭訪問などを連日くり返し、
学校への登校および修学旅行への参加も
促しました。

同時にクラスメートや友達からも、ひっきりなしに
連絡があり、「一緒に学校に行こう」
「修学旅行に行こうよ」
「なぜクラスに来ないの?」
などと訴えかけていました。
それでも、A子はなかなかいい返事は
しませんでした。

実は、昼夜逆転をしていて、外で遊ぶことに
興味をもっていたのです。
修学旅行は6月上旬に実施されるのですが、
その2週間前くらいに、A子はようやく
「修学旅行に行ってみようかなぁ」
といい始めたのです。

数日後、「やっぱり、黒染めしなければならない
のなら、学校も、修学旅行も行きたくない」
と、前回言っていたことを翻しました。

そうこうしているうちに、修学旅行まで5日
と迫ってきた日のことです。
放課後、A子の友人で本校の卒業生である
B夫が、A子を連れて学校へやって来ました。

その時、部活動を終えて帰ろうとしていた
クラスメートのC子、D夫をはじめ、
数人がA子とすれ違いました。

その時、みんなそれぞれ、「学校来いよ」
「修学旅行は来週やで」と必死に声をかけました。
A子は、少し笑みを浮かべ、はにかみながらも、
なかなか「うん」とは言いません。
ただ、気持の大きな変化は感じ取れました。

さらにたたみかけるように、B夫は、
「俺も,中学時代はやんちゃしてたから、
A子の気持はよく分かる。

でも、声をかけて心配してくれている、
この友達を大事にしないと後悔するぞ。
そして、修学旅行に行かなかったら、
自分自身が一生後悔するぞ!!」と、

まるで、自分の妹のようにしかりつけて
くれました。
それを聞いて、A子はついに髪の毛を
その場で元の色に直しました。

横で見ていた、教員達は、本当に感動しながら
見守っていました。

翌日、学校へ登校したA子は、3年生になって
初めて教室に入りました。
久しぶりに教室に入るA子は、緊張した様子で、
ためらいがありました。

すると、教室にいたクラスメートが近寄ってきて、
さりげなく教室に一緒に入りました。
時間が経過するとともに、A子も緊張が
取れてきた様子です。

そうして、修学旅行で沖縄を訪問し、
3日間民家のお宅へホームステイしました。
現地では、民家の方の愛情を十二分に受け、
本当に素晴らしい3日間を過ごすことが出来ました。

この体験は、A子にとっても、クラスメートにとっても、
非常に大きな体験で、決して忘れることの
出来ないものとなりました。
その後も、欠席はあるものの、登校を
続けています。・・・


愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る


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2018年11月21日 (水)

歴史・への訪問

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昨日という日は歴史、今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー



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むかしむかし、九州の筑前の国(ちくぜんのくに
→福岡県)に、加藤重氏(かとうしげうじ)という
人がいました。

重氏(しげうじ)は大した権力者でしたが、ある日、
人の心のみにくさを知って、妻も子も捨てて
仏に仕える身となってしまったのです。

重氏は名前を苅萱道心(かるかやのどうしん)
と改め、高野山に登って修行にはげみました。

いつしか、十三年の月日が流れて行きました。

ある日の事、高野山に一人の男の子が
やって来ました。名前を石童丸(いしどうまる)といい、
道心が筑前に残してきた息子だったのです。

石童丸は父親が高野山にいる事を知り、
一目会いたいと長い旅を続けてきたのでした。
身も心も疲れきった石童丸は、出会った
お坊さんにたずねました。

「もし、この山に、筑前から来たお坊さまは
おられませぬか? 
私の父で、名を加藤重氏と申します」

するとそのお坊さんはとても驚いた様子で、
石重丸をじっと見ると涙をこぼしながら
言いました。

「そなたの父とは、長年の友人じゃった。
それが昨年の夏、悲しい事に急な病で
なくなられてしもうたのじゃ」

 実はこのお坊さんこそ、石童丸が夢にまで
見た父の加藤重氏だったのです。

そうとは知らない石童丸は、自分も父親と
同じように出家しようと決心しました。
そしてそのまま、道心の弟子となりました。

親子そろっての修行生活が始まりましたが、
父親の道心には、わが子を弟子として同じ寺に
住むのはとてもつらいことでした。

親子の情が日に日につのるので、修行に
身が入らないのです。
「こんな事では、仏に仕える事は出来ん。
それにいつかは、石童丸にも本当の事が
分かってしまうであろう」

道心は山を去って、信濃の善光寺(ぜんこうじ)
へと旅立ちました。
そしてそこで念仏三昧に明け暮れた末、
八十三才で大往生をとげたのです。

一方、高野山で修行を続けていた石童丸は、
ある晩、不思議な夢を見ました。
うす紫の雲がたなびく中、仏さまが現れて
言いました。

「苅萱道心(かるかやのどうしん)こそは、
そなたの父です。すぐに信濃におもむき、
父の供養(くよう)をするがよい」
こうしてすべてを知った石童丸は急いで
善光寺を訪れると、父の霊をねんごろに
とむらいました。

そして父の作った地蔵のそばに、自分も一体の
地蔵を残したのです。
いつしかこの二体の地蔵さまは、親子地蔵
と呼ばれるようになりました。

長野市の往生寺(おうじょうじ)には、この親子地蔵
と呼ばれる二体の地蔵さまが今でも
残っているそうです。

おしまい


鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、
   そばで 地蔵が食べたがる



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江戸時代の人の平均寿命はどれくらいだったのか?

織田信長は「敦盛」(あつもり)という舞が好きでした。
特に、「人間五十年、化天(げてん)のうちを比ぶれば、
夢幻の如くなり」という一節を好んで
舞ったといわれています。

「人間五十年」とは、人の一生は50年ほどだという意味で、
平家の時代から江戸時代には、平均寿命は50年
と考えられていたようです。

これを根拠に、しばしば「江戸時代の平均寿命は
50才くらいだった」と言われますが、
現代用いられている人口統計の手法で計算すると、
もっと短かったと考えられています。

当時の平均寿命は正確には計れない!?

江戸時代には現代のような戸籍制度がなく、
生まれた子どもの数をきちんと把握する仕組みは
ありませんでした。

どこの家庭に何才の人が何人いるか、というような
ことは大体わかっていたものの、
「7才までは神の子」などとも言われており、
幼児を数えない地域もありましたので、

科学的な人口統計をするための基礎的データは
残されていません。
そのため、平均寿命を正確に算出することは不可能で、
さまざまな資料をもとに推定値が計算されています。

おおよそ30才~40才だった!?

多くの研究者が江戸時代の平均寿命について
推論していますが、試算結果にはばらつきがあります。

30才というものも35才というものもありますし、
中には50才という説もありますが、だいたい
「30才~40才くらい」だったと考えられます。

短命なのは乳幼児の死亡率が高かったから
平均寿命というのは、新生児が何才まで
生きられるかを統計学的に予想したものです。

仮に5人の子どもがいて、3人は0才で亡くなり、
1人は50才、1人は100才で亡くなったとすると平均値
=寿命は30才となります。
長生きする人がいても、乳児の死亡率が高いと
平均は低くなります。

江戸時代には医療技術が十分でなかったこともあり、
生まれて間もない子どもの死亡率がとても高く、
そのため、理論上の「寿命」は短くなるのです。

極端な例ですが、江戸時代の12代将軍徳川家慶には
男女合わせて27人の子どもがいましたが、
20才まで生きられたのは家定1人のみでした。

また、家慶の父親である11代将軍家斉の子は
50人いて、半数が20才までに亡くなっています。

将軍たちの平均は51才!?

江戸時代の将軍は全部で15人ですが、
その享年の平均は51才です。

初代 家康75才、2代 秀忠54才、3代 家光48才、
4代 家綱40 才、5代綱吉64才、6代 家宣51才、
7代 家継8才、8代 吉宗68才、9代 家重51才、
10代 家治50才、11代 家斉69才、12代 家慶61才、
13代 家定35才、14代 家茂21才、
15代 慶喜77才です。

栄養状態は庶民に比べて圧倒的に良かった
はずですので、比較的長生きの人が多いようです。

長生きした人も大勢います

歴史上の偉人たちの中には長寿をまっとうした
人も少なくありません。
葛飾北斎は90才、杉田玄白85才、貝原益軒85才、
滝沢馬琴82才、上田秋成76才、良寛74才、
伊能忠敬74才、徳川光圀73才、近松門左衛門
72才などとなっています。

「寿命」はあくまでも統計的な推定値

わが国の平均寿命が50才を超えたのは1947年
(昭和22年)です。
当時の統計上では、昭和22年生まれの人は
「だいたい50才くらいで亡くなる」と予想されて
いたわけです。

しかし、この年に生まれた267万人のうち
8割以上が60代半ばを過ぎても存命です。
統計にはそんなマジックのような側面が
あることも知っておいた方がよいでしょう。

江戸時代の平均寿命は30代半ばくらいと
推定されますが、皆が早死にしていた訳では
ありません。長生きする人も少なく
ありませんでした。・・・

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